「機動戦士ガンダム(TVアニメ動画)」

総合得点
85.7
感想・評価
1337
棚に入れた
6170
ランキング
220
★★★★☆ 3.9 (1337)
物語
4.2
作画
3.3
声優
4.1
音楽
3.8
キャラ
4.2

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ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 5.0 作画 : 3.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.5 キャラ : 5.0 状態:観終わった

ニュータイプの夢

2022.12.15追記



『Gのレコンギスタ』の中で、「宇宙世紀への反省」的なせりふが出てきたのを機に、ちょっとガンダムについて振り返ってみた。
もう、今更ネタバレへの配慮は不要と思うので、思いつくままに。

現時点から見ると、作画クオリティも演出も、昨今のアニメに比べて古臭さを感じるのは否めない。
が、にも関わらず面白くみられるのは、やはりドラマの骨格、ストーリーの力が非凡であるからだろう。

このストーリーの核心は、間違いなく「ニュータイプ」のモチーフだと思うのだが、その意味するところがあまりクリアではない。

「認識力の拡大による人の革新」として、戦争をなくす力として紹介される「ニュータイプ理念」は、しかし、作中では、平和なユートピアを到来させる夢の力として、バラ色の光輪を放っているようには見られない。
さしあたり一年戦争の終結は迎えるが、以降の人類史から戦争を消し去るような、パラダイスの予感を抱かせるものではないようだ。

それどころか、終幕のア・バオア・クー戦では、戦争を終結させるため、という留保はあるものの、積極的に戦闘への意欲をもたらす力となっている。

「ニュータイプ」は戦争をなくす力、というのはもったいをつけた言い訳で、アニメ活劇上の、超能力をもっともらしく見せる言い訳なのだろうか。

全体を視聴してみると、実は当作においては「戦い」を必ずしも否定しているわけではない。
本作内の、独裁制であるジオン公国への抵抗は、例えばナチに対するレジスタンスのように肯定的なトーンで演出されている。レジスタンスとしての「戦い」までも平和の敵として描いているわけではない。

一貫して否定されているのは、ジオン、連邦、どちらサイドへの視線においても「戦争」だ。

当作、というより富野監督においては、「戦い」と「戦争」は区別されているようだ。「戦争」=国家からの戦闘参加の命令、言い換えれば、殺し合いをしたくない人間に殺し合いをさせる強制力、と把握されているらしいことは『アムロ脱走』のエピソードに明瞭だろう。
この強制力に対する批判的視線は、両陣営に対し全く違いがない。

この富野監督の中の「戦い」と「戦争」は、ヴァルター・ベンヤミンの「神的暴力」と「神話的暴力」の区別に似ているように見える。


戦争の否定は、しばしば、自称「平和ボケしていない現実主義者」から、人類の歴史は戦いとともに発展してきた、といった浅薄な反論にさらされる。

確かに、蜂起したパリ市民の暴力がなければ、フランスに共和制はなかっただろう。
イギリスに対するテロ行為が、戦争を経て、アメリカを独立させた。
チャウシェスクに対する突発的な暴力の爆発が、ルーマニアの独裁を終わらせた。

だが、それらの「戦い」=暴力と、例えばポル・ポトが自国民に一方的にしかけた全滅戦争や、ヒトラーの開始した侵略戦争が同一視できるだろうか。暴力の爆発という外面の同一性だけで、したり顔で同じものだという「現実主義者」の弁を認めるのか。

富野監督は、ベンヤミンに似た方法で、これを区別しようとしたのではないだろうか。

現実には、「神的暴力」と「神話的暴力」を明確に仕分けることは、どの哲学者も成功していない。暴力を同時進行で経験する当事者も、自身が渦中にいるのがどちらなのか、判断などできない。だがしかし、両者は決して同一なものではないという、覆しがたい確信がある。

「ニュータイプ」は、この難問の、SF的な検出装置として作品に導入されたものだ。

認識力の拡大は、「暴力を避けて、話し合いですべてを解決する」お花畑の創出を目指したものではない。

眼前の暴力が、否定されるべき「戦争」なのか、腐敗した「神話的暴力」であるのか、見抜くための「拡大された認識力と直観力」なのだ。
そう、『光る宇宙』の最後でアムロが叫ぶ、「あれは 『憎しみの』 光だ」と直観する力が、汚れた神話的暴力を見抜く眼が、まさに「人の革新」というにふさわしい、ニュータイプの真髄だ。

それは最終回でシャアの言う「私にも敵が見える」というセリフと対になって、「戦争」をなくす力として作用する。

ニュータイプの力は、確かに「戦争」をなくす。が、それは「戦い」をなくすこととイコールではない。
戦争=望まない殺し合いを強制する汚れた暴力と対決するための、「戦い」の力として、それは作用するのだ。

このように見ると、本作とニュータイプのテーマは、今日でもなお古びるどころか、一層触発的であるように思う。

と同時に、この辺をとらえ損ねて、戦争の否定と非暴力を混同していることが、冨野監督以外の手によるシリーズ各作の、ちょっとピントがずれたような本作との不整合を感じる原因のような気がするのだが、どうだろう。


【追記】 2022/12/15

岡田斗司夫が自身の動画配信チャンネルで行っている『機動戦士ガンダム』の解題の中で、ドズル・ザビの最後の瞬間に立ち現れる背後の「影」を、「悪魔」と表現していた。

この瞬間のドズルが体現する、人の「想い」や行動原理が、ニュータイプの「眼」には「悪」として映っている表現である、と。
本来は、人として根源的であり不可欠とも思われている、これらドズルが体現する「もの」が、「新人類」としてのニュータイプには否定性として「見えてしまう」卓抜した表現であると岡田は解釈していると理解した。

どうやら、岡田は、こうした「悪」は仏教でいう「業」のようなものと捉えたのではないかと想像する。
「業」は、ある意味で、人として在るために不可欠の根源的要素であり、人間性の実質そのものと言ってもいいが、捨て去らねば「人」を超越して高みへと上昇する事が出来ない。
あまたの宗教において、超越=人間性の放棄のために、様々な苦行の技術性が追求されてきた。
そうした「人」を超えるための必然=無常が、ドズル=旧人類と新人類=ニュータイプの描写に凝縮されている。

同じ配信の中で、かつてSFプロパーから「ガンダムはSFではない。宗教だ」と批判の声が上がったことがあると岡田は証言していたが、このような解釈は、そうした記憶と関連しているのかもしれない。


だが、この「悪魔」という表現に触発されて脳裏に浮かんだのは、ドストエフスキーの『悪霊』だった。

ニヒリズムが不可避に吸引し、人に憑り付く倒錯的な過剰な観念を、ドストエフスキーは「悪霊」と表現したのだが、冨野監督は「悪霊」=過剰な「観念」を「悪魔」として表象したのではないか。

倒錯的「観念」に憑かれた人間は、「観念」に操られる思考を自分自身の自発的な自由意思と思い込む。
たとえば、「愛国」という倒錯した「観念」に囚われた人間が、政府の奴隷のように思考し行動することを「普通」だと思い込むように。
その究極が、自滅を辞さない「特攻」だろう。

上述したベンヤミンの思索は、「観念による暴力」と「観念を浄化する暴力」という問題圏へ通じるものだが、その検出装置として置かれた「ニュータイプ」が、倒錯観念を「悪霊」=「悪魔」として表象するのは必然かもしれない。


こうしてみると、『機動戦士ガンダム』は宗教的というよりも思想的なのであり、なおSFの範疇にあるのだと思える。

『ガンダム』の触発性は、2022年の現在、より一層増したのではないかと感じ、追記した。

投稿 : 2022/12/15
閲覧 : 369
サンキュー:

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