「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生 Death and Rebirth(アニメ映画)」

総合得点
71.0
感想・評価
517
棚に入れた
3737
ランキング
1393
★★★★☆ 3.7 (517)
物語
3.4
作画
3.6
声優
3.8
音楽
3.8
キャラ
3.8

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ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0
物語 : 3.0 作画 : 3.0 声優 : 3.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

(前編)シンジはヘタレ?

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 テレビ版の総集編に該当するのがこの『シト新生』ですね。ただ、見ればテレビ版の内容が分かるようなものではなく、テレビ版を見た人だけが分かる内容になっています。その点では、総集編としては特殊なものかもしれませんね。

 このレビューはもともと、旧劇場版のレビューとして書いていたものです。ですが、レビュー自体が思いのほか長くなってしまったので、導入部として書いた旧劇場版開始前までの内容、つまり、テレビ版第24話までの内容をここに分割掲載することにしました。(前編)となっているのはそのためです。(後編)が旧劇場版のレビューですね。
 ですから、このレビューでは『シト新生』を取り上げているわけではありません。テレビ版に掲載すべき内容なのかもしれませんが、あっちはあっちで別のことに使ってしまったので、そのしわ寄せとしてここを使っています。

 このレビューでは、ストーリーの細部までをフォーカスせずに、シンジが抱えるテーマだけを見ていきます。この(前編)では、「なぜシンジはあそこまでヘタレてしまったのか」というの明かすことを着地点にしています。ここを起点にして旧劇場版のレビューである(後編)に話をつなげます。


ざっくりした話から:{netabare}
 『エヴァ』がどんな話かをごく簡単に説明するのなら、「シンジの成長譚」ということになると思います。このテーマを全26話という長い期間を通じて描いていました。これを表現するためのツールとなっていたのが、「謎が解かれない謎解きロボットもの」というジャンルですね。

 で、このテーマとツールというのがどちらも曲者なんですよね。『エヴァ』は賛否両論ある作品ですが、テーマに連なる「シンジをどう見るか」で是非があって、ツールに連なる「謎解きや演出をどう見るか」で是非がある、というのが大まかな傾向なんだと思います。全く違う2つの事柄にそれぞれ賛否があるので、議論が拡散しちゃう。これが『エヴァ』を収拾のつかない作品にしている一つの要因なんだと思います。

 ただ、実際には賛否両論ではなくて、賛成多数だと思います。賛成派はわざわざ主張せず(サイレントマジョリティ)、反対派は大きな声を上げる(ノイジーマイノリティ)というのが世の常ですからね。賛否両論でバランスが取れているように見えたのなら、おそらく8割くらいが賛成派だと思います。各論反対であったとしてもね。

 私はツールの方も見るようには心掛けていますが、基本的にはテーマで作品の評価を決めています。もちろんテーマ自体に貴賤はないですから、その結論に至る論理性を見るってことですけどね。ですから、以下のレビューでは、「シンジの成長譚」としての論理性から『エヴァ』を見ていくことになります。謎解きに資するレビューにはならない、ということはあらかじめ断っておきますね。
{/netabare}

ストーリーの全体像:{netabare}
 ここはテレビ版で書いたレビューと大して変わりません。テーマだけで見ていきます。
 最終的な目標は、シンジの自立、「心の補完」です。この過程だけで24話も要しました。かなり丁寧にこれを積み上げています。そして結論で2話。非常にポジティブな形で終わります。シンジの自己実現の過程を見ていきます。

①とりあえずの居場所を確保する過程(第6話のヤシマ作戦まで)
 この世界に居場所のないシンジが、エヴァを取っ掛かりとして小さな自己実現をする過程です。勢いでパイロットになることを決めてしまったために、逃げては乗ってを繰り返します。目的意識がありませんから、日本中の電力を預かるという「周囲の期待」にも応えることができませんでした。これを乗り越えて、エヴァという初めての居場所ができました。

②とりあえずの居場所で成功体験を積み上げる過程(第7話から第16話の戦闘前まで)
 シンジが、エヴァによって勝利を積み重ね、他人に認められていく過程です。ゲンドウに認められることで、初めて自己実現欲求を自覚します。アスカとのキスがあるのもここですが、軸としてはあくまでもエヴァとゲンドウへの信頼です。シンジのエヴァに対する自信のピークは第16話の戦闘前ですね。第16話は「死に至る病、そして」の回です。

③とりあえずの居場所が崩壊し、自己喪失に陥る過程(第16話戦闘後から第24話まで)
 エヴァに乗って死にかけたという第16話、エヴァとゲンドウのせいでトウジを殺しかけたという第17・18話で、エヴァとゲンドウへの不信が高まります。カジのアドバイスで復帰しますが、その先に待っていたのは、エヴァに乗って自らの手でカヲルを殺してしまうという辛い結末でした。初めて得たエヴァという居場所が失われ、自己喪失に陥ります。これが第24話のあと、第25話の開始前の状況です。

④疑似的な自己実現ではなく、本質的な自己実現をする過程(第25・26話/旧劇場版)
 ①エヴァがないときはダメでした、②エヴァがあれば何とかなりました、③エヴァがあってもダメでした、から続くのがここ(④)です。シンジのダメさは、エヴァがあってもなくても同じだったんです。シンジが抱える問題は、周囲の環境にあるのではなく、シンジ個人にあるということ。
 最後の二話では、このシンジのダメな心を前向きに転換することと、環境のベースであるエヴァ(母親)とゲンドウ(父親)からの脱却が描かれました。そして、「おめでとう(自立)」となります。
 旧劇場版では、この後ろに「シンジとアスカ」というラストシーンが追加されました。それについては旧劇場版のレビューの最後で書きます。

 『エヴァ』のストーリーは、シンジにフォーカスすればシンプルな起承転結です。「①自信→②成長→③挫折→④再起」という形。でもこれがちょっと分かりづらい。『エヴァ』の問題点を一つだけ挙げるなら、「謎が解かれない謎解きロボットもの」というツールのせいで、テーマである「シンジの成長譚」が分かりづらいこと、だと思います。
 ですが、シンジの成長の過程で出てくる「エヴァがあってもなくても同じ」というのは、テーマに対するツールの立ち位置と同じですよね。ツールが面白いかどうかは作品の評価に大きく影響しますが、ツールだけだと中身のない作品だと非難されてしまいます。つまり、テーマあってのツール。テーマが読み難いのなら、ツールは無視してしまえばいいのです。
 次項からは、ツールを無視したときの『エヴァ』を見ていきます。
{/netabare}

ストーリーの具体化:{netabare}
 繰り返しになりますが、『エヴァ』は一人の少年の「①自信→②成長→③挫折→④再起」の話に過ぎないですよね。ここまでストーリーのプロットを単純化してしまえば、そこらにある少年マンガと何ら変わりません。
 ツールを無視してもテーマは読めるはずですから、『エヴァ』を別の形に具体化してみたいと思います。ここでは、野球マンガを例にします。野球のルールあんまり分からないけど…。①から④の記号はプロットに対応したものです。

①居場所の確保(ヤシマ作戦まで)
 自分に自信のない14歳の少年が、父親の勧めで野球を始めました。「どうして野球してんだろ」状態でしたが、ファインプレーがチームを救い、野球の楽しさを実感し始めました。チームにもなじめるようになりました。
②成功体験(勝利の積み重ね)
 試合での活躍が続き、晴れてエースになれました。「将来は野球選手になろう」と思えるほどになりました。
③-1 挫折(トウジ)
 調子に乗っていたら、チームメイトに怪我をさせ、彼の選手生命を奪ってしまいました。野球を辞めたくなりました。

 で、このあとに「再起」を描くのが通常の少年マンガのプロットですよね。
○少年マンガ的展開
 落ち込んでいたけど、励まされて「チームメイトの分まで頑張ろう」と思えるようになりました。そして大会優勝。

 でも、エヴァはちょっとだけ違うんです。挫折が二段階になっています。トウジの後にはカヲルがあるんです。
③-2 挫折(カヲル)
 落ち込んでいたけど、励まされて「チームメイトの分まで頑張ろう」と思えるようになりました。その矢先に、親友兼ライバルに死球を与えてしまい、命を奪ってしまってしまいました。

 つまり、「自信→成長→挫折→再起」の「挫折」部分はもうちょっと細分化されていて、「挫折→再起→挫折」で構成されているってことです。起承転結の転の部分が、一つの波ではなく、トウジとカヲルという二つの波で構成されているのが『エヴァ』の特徴ですね。そして、その二つの波の内容は、どちらも大きな挫折で共通しています。

 で、ここが第25・26話と旧劇場版のスタートですよね。そして、こんな感じにストーリーが展開します。
④-1「野球で生きていこうと思ってたんだ」「でも僕はもう野球やっちゃダメだ」「もう生きていけない」
④-2「野球だけがあなたの人生じゃないのよ」

 この野球の話って、エヴァと同じことやってるのに分かりやすいですよね(たぶん)。テーマを描くためのツールが野球だったら、「エヴァは分からん」なんて文句は出ていなかったと思います。
 エヴァって何?、使徒って何?、人類補完計画って何?、というツール自体の分かりづらさが、テーマをも分かりづらくしてるだけなんです。ツールばかりを見てるとテーマが分からなくなってしまうという好例ですよね。
 つまり、「謎が解かれない謎解きロボットもの」←大体こいつのせいなんですよ。ツールが分からないせいで、テーマへの共感が不十分になってしまう。ツールが気にならない人にとっては「分からないけど面白い」のに、ツールが気になる人にとっては「分からないからつまらない」という結論になっているんだと思います。

 次は、シンジが直面した「二つの大きな挫折」について考えていきます。
{/netabare}

テーマの一般化(二つの大きな挫折):{netabare}
 「なぜシンジはあそこまでヘタレてしまったのか」を解明するために、「大きな挫折とは何か」「それを二回繰り返すことにどんな意味があるのか」を探っていきます。今度は具体化ではなく一般化です。

 普通は挫折って、成長させるために描きますよね。成長のための必要悪として挫折がある。成長譚には、挫折は不可欠な要素なんです。その点では、小さな挫折も大きな挫折も変わりませんよね。
 でも、両者には明確な違いがあります。大きな挫折には「否定」と「喪失感」が付きまとうのです。

 野球でもエヴァでも、大きな挫折が起こると、まず「ツールの否定」が行われますよね。「野球をやりたくない」とか「エヴァに乗りたくない」とか。そして、そこで留まらないときに「自己否定」が起きてしまう。「野球をやってる自分はダメだ」とか「エヴァに乗ってる自分はダメだ」とか。「自己否定」をしてしまうから、自分の「存在意義」を見失うことになってしまい、「自分には何もない」という「喪失感」が出てきてしまうんです。「ツールの否定」が、巡り巡って「自己の喪失」として跳ね返ってくる。
 「そのツールが無ければ」「自分がそのツールを選ばなければ」「こんな思いはしなかったはずだ」という心の動き、つまり、ツール否定に自己否定が混じることが、自己喪失をもたらすのです。ツールに対する思い入れが大きいほど、「喪失感」も大きくなりますよね。「失敗しちゃった」程度の小さな挫折では、こんな「否定」や「喪失感」は生まれません。

 また、小さな挫折を繰り返すことと、大きな挫折を繰り返すことも全く違いますよね。
 小さな挫折の繰り返しは、ボトムアップとして人の成長を描くんです。乗り越えられることが前提としてあるから、いろいろな小さな挫折を乗り越えさせることで、人としての全体的な成長を描くことができる。
 でも、大きな挫折の繰り返しは違いますよね。乗り越えられるかどうかという瀬戸際に追い込んだ上で、更なる挫折で「絶望感」を与えるんです。こういう作品てあまり多くはありませんが、その代表格って『clannad』だと思います。{netabare}トモヤは愛妻のナギサを失っちゃうよね。この挫折で「自己喪失」に陥る。ナギサの分まで頑張ろうってなるけど、今度は愛娘のウシオを失ってしまう。トモヤがナギサという{/netabare}大きな挫折を通して成長できたとしても、同じような挫折が繰り返されると、更なる成長を考える前に「絶望感」を感じてしまうんです。主人公も、視聴者も。

 シンジが感じた挫折というのは、単なる「失敗しちゃった」程度のものではありませんよね。自分に存在意義を見出せない少年が、エヴァという存在意義を得た矢先に、そのせいで友人を失ってしまう。そんな大きな挫折なんです。このときの「エヴァの否定」と「自己否定」が、シンジに「喪失感」を与えてしまったのです。
 そして、その「喪失感」が、二度繰り返される「絶望感」なんです。「謎が解かれない謎解きロボットもの」のせいで読み難いけど、野球マンガや恋愛ものに具体化し、心情を一般化してしまえば、簡単に共感できると思います。

 次が(前編)の最後です。「シンジはヘタレなのか?」です。
{/netabare}

シンジはヘタレ?:{netabare}
 よく、シンジに対して「ヘタレ過ぎ」「ウザ過ぎ」という意見がありますけど、本当にそうでしょうか? 私にはすごく妥当な反応に思えるんですよ。ヘタレ「過ぎ」ではなく、「妥当な」ヘタレに見える。

 もし、14歳の私が将来の夢にしようと思えるほどに野球に打ち込んでいたとしても、チームメイトの選手生命を奪って、親友兼ライバルの命まで奪ってしまって、「それでも私は気にせず野球を続けよう!」なんて前向きに思えるのかなぁ、なんて考えてしまうんです。そんな友達に、「野球続けなよ!君には野球しかないよ!」なんて言えるかなぁ、と。
 きっと、私はヘタレてしまうし、励ます言葉もスラスラ出てこない。

 シンジがカヲルを殺すときに、なぜ葛藤しているのかを読めない人はいないと思います。カヲルが「使徒」というツールをまとっていても、「人類のために親友を殺せるか」という簡単なテーマだから読める。トウジのエピソードだって、単体で見たらシンジの心情は分かりますよね。テーマが読めてるときにはツールは邪魔にならないんです。

 シンジを否定的に見ている人がどれほどいるかは分かりませんが、シンジへの共感が不足しがちになってしまうのは、『エヴァ』がややこしいからなんです。全体を俯瞰しようにも26話もあってまとめ難いし、起承転結の転の部分が二段階構造になってるし、その中身は同じ大きな挫折が二回なんていう珍しいものになってる。
 それに加えて、ツールが「謎が解かれない謎解きロボットもの」だから、テーマへの理解を助けてくれない。挙句にこのツール自体が圧倒的に面白いから、テーマを忘れてのめり込んでしまう。
 結果としてシンジのヘタレている理由が未整理になってしまい、「なんだかよく分からないけど、ウザいから叩いとけ」となっているんだと思います。シンジの心情を読むのなら、まずは「謎が解かれない謎解きロボットもの」を無視した方がいいんです。テーマを読む時にツールが助けにならないのなら、ツールは無視した方が良いってことです。

 でも、万が一、心情を分かったうえで叩いているのなら、私にとってはちょっと恐ろしい。14歳の少年が、友人の選手生命を奪い、命まで奪い、その上で葛藤することを許さずに「さっさと野球しろよ」と言っているわけですよね。「俺なら野球続けるぜ」と。二度も愛する人を亡くした人に「さっさと次を見つけろよ」「俺なら次を見つけるぜ」と。これは私の理解の範疇を越えています。それゆえ恐ろしさを感じてしまう。
 そんな鋼の心を持った人なんていないと思いま…いるのかな? まさか私がヘタレ…?
{/netabare}

 というわけで、シンジはヘタレてるけどしょうがないよ編でした。
 続きは、旧劇場版のレビューになります。「三度目の挫折」「エンディング(シンジの救済)」「エンディング(シンジとアスカ)」の三本立てでお送りします。
 こんな長文に付き合わせた上でお願いするのも恐縮ですが、「三度目の挫折」だけはここの続きになっているので、できればそこまで読んでいただけると嬉しいです。エンディングは書かないとマズイかな、と思って書いただけなんで、実質おまけだから読まなくて大丈夫です。
 リンクは貼らないので、直接探しに行くか、私のレビュー歴からお願いしますね。

投稿 : 2015/03/28
閲覧 : 413
サンキュー:

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