「もののけ姫(アニメ映画)」

総合得点
90.5
感想・評価
2046
棚に入れた
13278
ランキング
53
★★★★★ 4.2 (2046)
物語
4.2
作画
4.3
声優
3.9
音楽
4.2
キャラ
4.1

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ネタバレ

ざんば さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

サンキューはいりません。

*前置き
{netabare}もののけ姫は、紅の豚、天空の城ラピュタに並ぶ
私の中でのジブリTOP3。

しかし、もののけ姫といえば、
世界的にも知らない人は少ないであろう超々々々有名作。
そんな作品に私なんぞがレビュー、もしくは考察しようとも
二番煎じ、いや何千何万もしかしたら何億煎じになることでしょう。

そこで、宮崎駿監督の歴史観に強い影響を与えた
網野善彦氏の談話を引用させていただくことにしました。
これは、もののけ姫の劇場パンフレットに掲載されていたものです。

これで、もののけ姫の世界観を
より楽しめることが出来たなら幸いと思います。{/netabare}
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「自然」と「人間」、二つの聖地が衝突する悲劇

この話を室町時代に設定して作られたのは、まさしく宮崎さんの眼力で、十分に熟慮された上でのことでしょう。自然は怖いもので、山や森は神様が住む聖地なのだというとらえ方が崩れはじめたのが室町時代からで、これは歴史的な事実といってもよいと思います。

日本列島の社会は、非常に古い時代から山の木を切って、厖大な量の木材を消費しています。もちろん農業のためだけではなく、焼きもの(陶器)を焼く、この映画に登場するように鉄を作る、炭を作る、塩を作る、家屋を作る、こうしたことの全てに大量の木が使われているのです。その上、平安時代末期以降、木材の輸出までしている。

それだけの木を使った結果、確かに山の木は減り、山全体が荒れていますけれど、それでもなお山はまだ残っている。これは大変なことだと思います。どういうふうにしていたのかはよくわかっていませんが、そのとき、その場所に則したやり方で、木を伐ったら、新しく植える。自然を殺したままでは終らさない、森や山を生かしつづけていく方法と知恵を、むかしの人たちが持っていた形跡があります。それはまさしく森の神のタタリを含め、自然に対する畏敬があったから行われてきたのだと思います。

ところがそうした自然に対する恐れよりも人間の富に対する欲望の方が強くなってくるのが室町期ごろからで、それとともに、そうした知恵がだんだんなくなってくるのではないかと思います。

これからのべることは、あくまでも私自身の勝手な解釈ですが、この映画ではそうした自然の恐ろしさをシシ神の森を出すことで表現しています。そこにサンという女の子を住まわせたのは、宮崎さんが山の神様が女性であることをよくご存知で、意識的に設定されたのでしょうね。本当はもっとみにくい神といわれているのですが、それをかわいらしい女の子にして、シシ神の森を自然そのもののアジール(世俗の世界から緑の切れた聖域、自由で、平和な領域)として描かれたのではないかと思います。

これに対して、その森に戦いを挑むタタラ場の頭領・エボシは、衣装からすると白拍子、遊女だと思いますが、宮崎さんは金屋子神(かなやこがみ)という製鉄や鉄器を扱う人たちの神様が女性であることを意識されてこのエボシを設定されたのではないかと思います。金屋子神が女性だったということは、私も最近『へるめす』(終刊号)という雑誌に山本ひろ子さん(日本思想史家)が書かれた論文を読んで気がついたことですが、白い鷺に乗って飛んで来る女性の神様なのです。そしてそのエボシが率いるタタラ場を、宮崎さんは人為的なアジールとして描かれたのだと思います。

なぜかといいますと、あのタタラ場には世俗の世界で賤しめられ、疎外・抑圧された人たちが集まり、自由、活発に生きているからです。女性たちや牛飼いをはじめ、覆面をして鉄砲を作っている人たち(私の理解するところでは「非人」、この映画の舞台設定である室町時代には、穢(けが)れをキヨメる力を持つ人たちと言われていた)が活き活きと動いている。しかもその場を作ったのは遊女のごとき女性だったわけで、ここは世俗の縁の切れた自由で聖なる世界、小さな都市として設定されています。

この覆面の人たちは当時の社会の一部から「業」を背負っており、「穢れ」「悪」と関わりある人びとととらえられはじめているのですが、宮崎さんはそうした人たちと僧侶の姿をして鉄砲を持つ「悪党」ともいうべき集団(映画では石火矢衆)を結び付け、「穢れ」「悪」をむしろプラスの強い力として描かれており、それと同時に、人間の「業」のからむ問題、我々人間が直面している問題が、想像を絶する深刻さを持つ問題なのだということを仰りたかったのだと思います。映画の冒頭に出てきたタタリ神、アシタカの腕にまとわりついた「業」そのものと、それは通底しているのではないかと感じました。

そして人間の「業」、われわれの直面しているたやすく解決できない問題を、宮崎さんは山の神が率いる自然のアジールと、金屋子神が率いる人為的なアジールを正面から戦わせることによって描かれたのだと思います。
人間にとって救いの場として設定された人為的なアジールが、本来その根源であったはずの自然のアジールと衝突せきるを得ないということは、これまでの程度の生き方ではわれわれ人間にはもはや救いがないということを意味します。いまや本当の人間らしい生き方は何かを、われわれは自分たちの頭で考え、生活そのものの中で追求しなけれはなりません。

バブルが崩壊し、人間と自然との関係が深刻な事態になっている現在、この映画を宮崎さんが作られた意味はそこにあるのだと思います。その意味で非常に現代的な映画だと思います。自然のアジールと人為的アジールがぶつかり、それぞれに傷を負い破綻する。しかしなおそれを越えるものがありうるのだということを宮崎さんは仰ろうとしたのだと思います。

もう一つ深読みをすれば、「ヤマト」では解決できないということですよね。この場合の「ヤマト」は国家、「日本国」のことです。「日本国」という国家はさまざまな問題を非常に割り切った形で解決しようとしています。宮崎さんはそういう割り切り方では、今、我々がぶつかっている大きな問題を解決しえないということを仰りたかったのではないでしょうか。と同時に、そうした国家の割り切り方に安易に従っていることがとんなに危険で怖いことなのかについても、警鐘を発しておられるのだと思います。

そう考えてみますと、二人の女性、女神の戦いに、日本国 ― 「ヤマト」の外部のエミシが調停役に入り、将来に希望を見いだそうとしている設定も、非常に面白いと思います。

(もののけ姫劇場パンフレットより)

投稿 : 2015/11/20
閲覧 : 367
サンキュー:

15

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