「Re:CREATORS(レクリエイターズ)(TVアニメ動画)」

総合得点
84.9
感想・評価
1064
棚に入れた
5229
ランキング
257
★★★★☆ 3.7 (1064)
物語
3.6
作画
3.9
声優
3.7
音楽
3.8
キャラ
3.7

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ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

衝突する世界

【視聴完了して全面改稿】 *誤記訂正

創作物のキャラクターたちが現実に侵入する世界。

「モニターから美少女が飛び出してきた!」といった願望充足的な想像力ではなく、様相論理学の可能世界のような思考実験的な想像力を、まず感じさせる。

複数の、性質の異なる創作世界から「現界」するキャラクターたちが混在する異化効果が活劇の面白さを支えており、それぞれの被造物たちの「出身地」である作品世界を、それぞれ特徴ある異質なものとして、タイトルロゴまでそれぞれにもっともらしく創り上げている周到さだ。

混濁の異化効果を強調するために、本編のみならず、OP主題歌が英語のフレーズと発音のはっきりしない日本語との混在であることや、各話サブタイトルの隣に、その話中から抜き出した台詞を洋画セリフ風に英訳して挿入しているように、「額縁」からして意識的に創られている。

放映中に挿入された声優のバラエティ番組も、本編中に、「キャラの声を担当する声優」として『小松未可子』や『雨宮天』という「キャラ」が登場したことに対応した、現実と被造物の混在の効果を意識した「額縁」として機能している。


{netabare}ラストで、メテオラによって可能世界や世界の分岐の可能性について語られるが、この物語の全体を「衝突」と表現していたのが、本来は決して重ならないとされている可能世界を最初から念頭に置いていたと示しているようだ。

後半になってヒカユというエロゲーキャラが登場するが、決してイロモノ的な賑やかしとして、視聴の緊張を緩和するための道具的存在として登場してきたわけではない。
本作の「世界」が、様相論理学的な可能世界を主題としている必然が、ヒカユを登場させる。

作家の小森健太郎によれば、エロゲー=ギャルゲーのヒロインは「可能世界」的に考察するとき、解説が困難な特異点であるという。

フラグによって異なる「ルート」へ分岐するゲームにおいては、各「ルート」は、キャラの可能性を分岐させて複数の「可能世界」を誕生させていると看做すことが出来る。
トゥルーエンドと呼ばれるハッピーエンディングの「可能世界」において「幸福な恋愛を生きた清楚な少女」であるヒロインは、バッドエンディングでは「失恋を受け入れられずにストーカー化したヤンデレ」として生きていることもある。

特異であるのは、ゲームヒロインにおいては、別の可能世界を生きる「清楚」や「ヤンデレ」といった異質な属性が、「一つの」、同じ人物の人格として矛盾なく捉えられていることだ。

ある「ルート」で「おとなしい清楚なお嬢様」であり、別「ルート」では「恋敵を惨殺する戦闘力を備えたシリアルキラー」であるヒロインは珍しくない。
明らかに矛盾する両面が、しかし何故だか「同じ一人の」人物であると了解されるのがゲームヒロインという存在だ。

本来は重なるはずのない「可能世界」が「衝突」する本作の「世界」は、別「ルート」の属性が単一の人物に多重化されるゲームヒロインの存在と共鳴し合う。

ラストで、「衝突」によって「現界」という「別ルート」を生き、人格的な変化を蒙りながらなお、元の「ルート」である所属世界へ、元の役割=キャラクターへ復帰していく「被造物」たちもまた、ゲームヒロインの宿命と共鳴したようだ。


創造主たちの「神々の世界」を知り、自らの「役割」を自覚しながら創作世界へ帰還する「被造物」たちの決断は、ニーチェの運命愛を思わせる。
運命愛を生きる、一つの「実存」に昇華したかのような被造物たち。

様相論理の可能世界は「ある可能世界では『真』である」命題と、「(どんな可能世界であっても)常に『真』である」命題を区別するために考え出されたものだが、どの可能世界でも「常に『真』である」そのキャラクターの「らしさ」が、「実存」感を生み出すのだろう。

しかし、実存の根底にある「核」ともいえる、「常に『真』である」そのキャラクターの「らしさ」が、「観客」の「承認力」にかかっているという作中の説明は、少しばかり皮相的に思える。

提供される作品を眺め、「承認」をくれてやるかどうかで「作品」の「らしさ」=生死を支配する「お客さま」は、まさしくアルタイルが憎悪した、気まぐれに貢物をもてあそぶ自堕落な「神々」そのものだ。

しかし、本作の全体が、創造主=クリエイターと「読者/視聴者」との関係は、そのような「生産者/消費者」的な、垂直二元論的な単純なものではないと語っていたのではなかったか。

展開される物語の構造からすると、「承認力」という用語は、活劇が煩雑な説明によって減速することを避けるための、簡略化の方便であった気がする。
多数の読者/視聴者の支持があれば被造物の性質が変わるという説明は、本作の「手触り」に馴染んでいない。


フィクションの「世界」は、出発点では、作者の中にしか「存在」しない。
公開され、読者が共感することで、作者と読者の間に「存在」する「世界」となり、読者の拡大に伴って、多くの読者間に確かに「存在」する「世界」に拡大する。

物語「世界」の、ある種の擬似的な「実在」の確信は、現実世界を「確信」構造の体系と看做す現象学の現実認識との同型性に根拠づけられている。

論理的に突き詰めれば、世界は「私の世界」として、主観の意識に現れる現象としてしか定義できない。誰も自身の主観の外側には抜け出られないし、「抜け出た」視点は、すべて空想上の仮定であるしかない。

にもかかわらず誰も「現実」を疑わないのは、意識に現れる「現象」が、ある一定の構造をもって現れるとき、それは「現実」であるという疑えない「確信」を与えるからだ。
従って、人間は「現実」を認識しているのではなく、疑えない「確信」の体系を「現実」と呼んでいるのだ、という言い方が、現象学の説明にはよく用いられる。

だが、ここにはもう一つ、条件が付く。

「私の確信」が、他者にも同様の「確信」として信憑されているとき、「現実」であると確信される。

「これ」は「現実」であるという確信が、私にも他者にも、「間主観的」に共有されていると信憑されるとき、「これ」は「現実」の「世界」であると認識されることになる。

フィクションの物語世界を、〈作者-読者〉(たち)が「リアル」であると共有する経験は、この「間主観的確信」構造との同型性に根拠づけられるだろう。

被造物に改変を加えようとする「作戦」が、ただ設定を並べて公開するだけでは済まない手間を必要とするという描写は、単に「変更」を加えるのではなく、変更が新たな「間主観的確信」を構成しなければならない、と見做すべきだと思われる。

それぞれの創造世界が、それぞれの「可能世界」であるとするならば、その「世界」ごとに貫徹される論理体系の中で「間主観的確信」の構成が行わなければ、その「世界」における「現実」は更新されないだろう。

ちょっとした屁理屈には違いないが、「お客さま」が投げ銭のように投げ与える「承認」が「改変」の成否を決する、というよりも、この「クリエイター/観客」間の「間主観的確信」構造を、簡便な「承認力」という言葉で省略したのだとみなすほうが、チャンバーフェスで展開される描写をよく説明できる気がする。

そうして、クリエイターと読者との間主観的確信である一種の「共犯関係」が、二次創作までを含めた創作活動の連鎖(どんな「オリジナル」作品も、先行作がなくては生み出され得ない)の秘密であり、ラストの主人公(記録者?)ソウタの創作者への前進を支えているのだろう。

「お客さま」の与える「承認」では、創作の連鎖という「ハッピーエンド」は持ちこたえられない。


だが、一見して綺麗なハッピーエンドとも見えるラストに、心からさわやかさを感じることができないのは、作中の「現実」からマガネが退場しないまま居座っているからだ。

チャンバーフェス開催直後にソウタに「力」を与えるマガネの目的が、「事態を混乱させる」ことであるように、マガネの行動原理はすべての価値を嘲笑うニヒリズムそのものだ。

言葉無限欺の「因果の捻じ曲げ」を生み出しているのは、創造世界の架空の「異能力」ではない。
すべての価値を相対化して掘り崩すニヒリズムの方こそが、「因果の捻じ曲げ」を根拠づけ、「異能力」を根拠づけているのだ。

初登場時に、アリステリアに対して、正義について議論を仕掛けているかのようなマガネの態度は、現実世界で「価値」を掘りくずす「ブルシッター」そのままであることが、それを表現している。

議論をしているように見せかけながら、出鱈目やはぐらかし=牛の糞を投げつけてうやむやにするBullshitterは、SNSコミュニケーションの全域にはびこり、「ポスト真実」や「オルタナファクト」を支えている。
典型的には、「そもそもは…」と論点と関係のない糞=bullshitを持ち出し、冷笑的な態度で論破しているように見せかけながら、旗色が悪くなると「そもそもには〈基本的〉という意味があって…」と、どこまでも嘘=糞を投げつけることで逃げようとする。

マガネとアリステリアとの「議論」は、なんとなく現実的な相対主義に見えながら、実は「議論」そのものを無効化する、このブルシッターの生態を典型的に表している。
全てを「水掛け論」に誘導してウヤムヤにするのがブルシッターの目的であり、発言内容に検討するべき価値が無い。
もっともらしい「議論」は、単に「オルタナファクト」を作り出し、「現実」=「間主観的確信」を混乱させる為の、空疎な道具に過ぎない。
それは、「間主観的確信」構造へのテロリズムとも言える。

虚言を弄する詐欺師を撃退する最も有効な方法は、「論破」ではなく「無視」だ。

しかし、下衆の言うことは聞く価値が無い、というアリステリアの態度が、非論理的に見えながらBullshitへの態度として全く正しかったにもかかわらず、つい「会話」に応じてマガネの「ブルシット」に取り込まれてしまったように、会話を通じて発揮される「現実」の捻じ曲げは、創造世界の「異能力」なしで発揮される。

異能を喪失したメテオラが「現実」に適応したように、異能力なしで発揮される「ブルシット」を撒き散らすマガネが存在する本作内の「現実」は、「ブルシッター」の跋扈する、「ポスト真実」に溢れた、視聴者のいる「現実世界」との混濁が、やはり最後まで目指されていたと示しているのではないだろうか。


ブルシットに媒介される創造「世界」と現実「世界」の混濁は、一応の「ハッピーエンド」のその先に、製作者による二次創作や後日談が構想されていることを期待させる。{/netabare}

投稿 : 2017/09/20
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サンキュー:

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