「聲の形(アニメ映画)」

総合得点
88.7
感想・評価
1496
棚に入れた
7399
ランキング
101
★★★★★ 4.1 (1496)
物語
4.2
作画
4.3
声優
4.2
音楽
3.9
キャラ
4.1

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ネタバレ

退会済のユーザー さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.5 キャラ : 5.0 状態:観終わった

もう何周かしたいところだけど

繰り返し2回観た。山田尚子監督作品なんで、2周目は演出に注視しつつ。あと何回か観たいところだ。
追記:計4回くらい観た。

西宮の心情は彼女の周りにも、こちら側にも伝わりにくいけど、石田と同じく、とにかく自己否定が過ぎるという事を、改めて意識的に前提として観ると、各場面で読み取れるものも増えたり変わったりするね。
これはいろんな場面でそうだけど、個人的には、石田が共に遊園地に行った人達それぞれに”ヒドいこと”を言って、みんなが去ったあとの西宮の表情とその気持ちが特に。
西宮に、みんなが言ってる事、言われている事が聞こえてるかどうかは知らないけど、いずれにせよ石田から友人が離れていった、この状況は理解出来ているでしょう。
(追記:聞こえてないだろうね。橋の上での会話が始まった直後くらいの遠い場所からのカットで、西宮は結絃に、手話で、指降って状況の説明をとお願いしてるよね。結絃は目を逸らす。)
石田は全部自分が悪いと言うが、このとき西宮もまた、この状況になったのは自分のせいだと思ってしまうんだね。
石田も西宮も基本的に、他人を責めない、というか責められなくなるくらい自分が嫌いで、自分のせいにする。
1周目なんか、みんなが去ったあとの西宮の向ける目を見て、石田のことを少し攻撃的な目で見てんのかと思ったけど違うよね。
なんで勘違いしたんだろうと考えると、もしかしたらこれは石田の感情かも分からないね。ここの感想は、3周目には変わってるかもしれないし確信的になるかもしれないし、微妙なところ。でも西宮の表情を見て、何かしら思ったはず。
追記:別に攻撃的な目線だと思ったって事はないのでは。

もう一つ、他の場面の話。
今作の最後の、植野の西宮に対する”バカ”という手話が”ハカ”になってしまっていて〜、というのは有名な話だろうけども、確かに西宮の仕草はそれを教えようとしてるな〜と2周目で思った。
1周目なんかそんなん分からなかったけど、言われてみればそうだ。
西宮が伝えようとしている事を、私はキチンと受け止められてなかったわけで、これが作品のテーマであるコミュニケーションの難しさというものだろうと思われた。
この作品において西宮の心情や言いたい事を理解するのは難しく、しかし、だからこそリアルだ、というのは受け売りだけども、確かに。

植野について、まぁ別に嫌いだなぁと思ったなら嫌いでもいいけど、この作品において、それだけでは済まない重要人物だね。って思うんだけどうまく書けないなぁ。
例えば観覧車の中での会話なんかは、西宮が、『自分の事が嫌い』と言って、それで全て自己完結してしまって、植野の言いたい事が、耳の聞こえる聞こえないという問題でなく、伝わらない。
今作品において、重要なシーンじゃないかと思うんだよな。
そこに至るまでに西宮の持つ障害はおおいに関係してるだろうけど、ここ観覧車内ですれ違ってしまっている理由は彼女の持つ障害そのものでない。
ここにあるのはもっと人間の内的な部分の問題であって、またコミュニケーションの難しさなんだろう。
他のシーンでも語る事の多いキャラだと思うけどここでは上の例で終える。
自分の中で彼女についてまだ考えが纏まってない感もあるからね。
あと、植野って石田に好意持ってる?それは今も続いてる?微妙なところだ。
石田の自転車の後ろに突然乗ってきた植野。大きい道路を挟んで反対側に西宮を見つけて、その後の彼女の一連の行い。
どう見たって嫌な奴だけど、山田尚子監督の演出を手掛かりにその心情を読み取る必要があろうと思う。ここらへんは、3周目、4周目だなぁ。
個人的に、”たまこまーけっと”の、みどちゃんを思い出させるキャラだなと思う。声優が同じだったりするけども。
追記:この記事の最後に載せているインタビューを読んだんだけども、やはり好きなんだね。そう思うとやはり切ない人だよなぁ。まるでみどちゃんの様だという感想は、外れてないな。
植田の想いが通じる事はもう無いんだろうな。西宮さんとは今後、良き友になれるのかもしれない。
かつての石田と結絃の関係と、西宮と植田の関係は似ている、というのはどこかのブログで読んだことである。

作中で嫌いになるなら川井さんでねえの?と思いもした。しかし、多くの人が気付いただろう、彼女の態度こそ極一般的なものであるわけだ。
きっと小学生石田の言う通り、彼女も陰で悪口みたいな事を言っていたんだろう。でも川井さんの『私はそんなこと言ってない』も本当なんだろう。
イジメを見ても注意はしないし直接関わらない。表面上優しい。
それでも、無自覚の精神的暴力をふるい、そして差別している。私だって、正直な話、西宮の第一声にギョッとした。
その時感じた異物感こそ、イジメの種である事はお分かりでしょう。
追記:生き方の上手い人だよな、石田とか西宮とか、植野と比べて。

2周目が終わった時点で残った疑問は、西宮が自殺を決めたのはどのタイミングだったろうということだ。見逃してしまっているようである。
西宮母の誕生日以前のどこか?
花火大会での別れのときの西宮の手話が、『ありがとう』だったのが印象的だ。
追記:ばあちゃんが死ぬ前のシーンで、結絃は夢を見るよね。寝てるばあちゃんに引っ付いてる結絃が見た夢の中で、小学生時代?の西宮は苦しそうな顔で、結絃に対して何か手話をする。あれは、『死にたい』と言ってるんだね。気付いてみると、確かに劇中でこの手話に関して説明はあるんだね。具体的には、西宮が自殺を測ったシーンよりも後、結絃が部屋の写真を剥がしているシーン。
自殺を決意したタイミングを直接示すわけではないけど、この夢は西宮の心情を示唆してはいるよね。
西宮はこう思ったんだ。劇中でも西宮が言ってるとおりだけど、自分と居ることで石田は不幸になると。自分が石田と居ることで、石田は彼の周りの人間から拒絶されてしまうのだと。
西宮が見える範囲にいると、石田は、加害者として扱われてしまうからね。
そういう意味で、西宮は自身がいなくなれば、と考えてしまう。
西宮は、石田に連れられてデートしていたとき、どういう気持ちだったろう。
そういう事を考えながら本編を観ていると、やはり、花火大会の夜、病院での出来事、それぞれのシーンが、よりこちら側の心にくる。

蛇足ではあるけれども、これもまた強く印象に残っているので書いておく。
結絃は可愛いかったね最高に。
初めて制服姿を見たとき、いや、その場面での事情を考えれば、少し不謹慎ではあるんだけども、いやぁ、
あぁあぁあぁ〜〜〜〜〜〜って、なったんだ。
追記:西宮の妹だと発覚する直前くらいのシーン、石田が結絃に西宮の耳の件で拒絶されたとき、いつも人の顔にバツつけるのと同じように傘で結絃の顔が見えないように遮ったでしょ。
結絃がこの後、石田の言葉を受けて結絃のほうから傘を持ち上げて視線を合わせるわけだ。この一連のシーンは物語上においても重要なシーンだろうけど、それ以上に、持ち上げてこちらを覗き込む結絃の可愛さったらないでしょ。なかろうもん。

追記:バッハの練習曲インベンションが、映画最後の文化祭に入るシーンまでの各場面で少しずつ弾かれているらしい。"練習曲"であることがキモ。
インベンションもう少し聴き込んでから観ると、もう少しここらへんが体感できるかもな。

メモ:『聲の形』音楽・牛尾憲輔インタビュー
http://a.excite.co.jp/News/bit/20161008/E1475063249559.html

BGMの曲が特徴的な映画だったけども、作品のコンセプトに沿った作りなんだなぁ
メモ:牛尾憲輔インタビュー 山田尚子監督とのセッションが形づくる音楽
https://www.google.co.jp/amp/s/s.animeanime.jp/article/2016/09/16/30521_2.amp.html



=文章のリメイク=(改めて書いてみたもの。個人的な、文章を書く練習として。かといって文章として練ってあるかと言われればそんなことはない。文章を書ける人ってすごい。ここまで読んでくださった方々にはスルーを推奨。書きたいこと最後まで書いてないし。書きたいことの半分も書いてない気がする。あれ?なんだかこの作品についていくらでも書けるような気すらしてきたゾ?もう一回観たいなぁ聲の形。TVで放送しないかなぁ。WOWOWでは放送し始めてるんだよね。契約してないけど。地上波でそのうち来ませんかね?まぁ、どうしても辛抱たまらなくなったら、そのときはレンタルでもしますよ。えぇ。)

西宮の心情は彼女の周りにも、視聴者側にも伝わりにくい。
西宮は言葉を発さず手話を使う。手話を知らない私は、彼女の伝えたいことを明確につかめない。
なので、登場人物の中でも手話のわかる人、結絃とか石田を介して、初めて西宮の発するメッセージを理解することになる。
とはいえ、西宮のメッセージを直接受け取ってないから、視聴者からすれば、メッセージの鮮度が落ちる。
果たして、最低限でも劇中で使われる手話を知らないままに、西宮の心情を理解してやれるものだろうか。
映画そのもののゴールはわかりやすくハッピーエンド。
特に構えることなくこの映画に触れたひとは、観終わってそのまま満足してしまうかもしれない。
しかし、手話がわからないまま観終わってしまった人のこの作品に対する理解は、実は相当に抜けている。
なんだかんだ西宮の手話に関しては説明があるじゃない、という人もあろうと思う。たしかにそうだ。
しかし、1回観て満足してしまった人に、はたして細かな演出への理解があるだろうか。
例えば花火大会の夜、別れ際の手話の意味を知っているだろうか。
『またね』とか、『じゃあね』ではないのだ。
例えば本作の最後のほう、文化祭で、植野が西宮に対してバカと言った。口でも言ったが、同時に手話でもそう伝えようとしていた。この手話が正しく『バカ』と伝えることができていないということを、知っているだろうか。
手話がわからなければメッセージの意味合いも正しくつかめない。映画をひとつ鑑賞するのに、主要人物の心情をいまいち理解できないままに終えるのはあまりに面白くない。
2つ目の例に挙げたシーンにおいて、実はコミュニケーション上のすれ違いが起こっているのだ、という事実に気付くか否かで、そのシーンに対する印象もがらりと変わってしまう。
手話のわからない人間が、気軽に1回観て消化できる作品ではないのだ。
ここで肝要なのは、ストーリーそのものが難しいものである、と言いたいわけではないということだ。
ここにあるのは「コミュニケーションの難しさ」である。
気軽に1回観ただけでは消化できない作品となった要因はこれだ。より具体的に言えば、
「私たちと、西宮との間のコミュニケーションにこそ難しさがある」ということだ。
これがこの作品の理解をひとつ妨げる。そして、それこそがこの作品におけるひとつの重要なテーマであるとも思われた。
よくある演出として、登場人物が自身の心情をナレーションしたり、心の中でセリフを吐いたりすることがある。しかし、劇中、西宮の心の中の声を私たちが聞くことはない。あえて排しているのだろうと思う。これは先に挙げたテーマにも関係することだ。私たちは、西宮を実在の人物として相対する必要がある。
現実の人間とコミュニケーションをとるにあたっては、「喋ること」の占めるウエイトはとても大きい。それが所謂健常者の側に立つ私の中での常識である。
私たちの主なコミュニケーションの手段は喋ることである。言葉である。
私たちが西宮とのコミュニケーションを難しいと感じる理由は何か。私たちがいつも行うコミュニケーションの手段が通じない相手だからである。
私たちは普段喋ることでコミュニケーションをとる。対し、西宮は手話によってコミュニケーションをとる。
こういった関係性にあって、人はどうすべきか。別に、正解がこれということもないが、少なくとも西宮は歩み寄っていった。口で喋ることを、一度選んだのだ。印象的なのは、告白のシーンだ。好きだといった。そしたら?
石田には、月と言ったのかと勘違いされた。
逆に、『健常者』の側から歩み寄っていったのは誰だろう。それが石田である。植野もまた、そうだった。
『好き』と『月』のような、コミュニケーション上のすれ違いは、劇中、要所で起こる。先に挙げた、植野が手話で『バカ』と言った(つもりの)シーンだってそうだ。西宮は正しく『バカ』と伝えるための手話を教えようとするが、植野にはそこが伝わっていなかったりする。
付け焼刃の『バカ』だった。植野に西宮の手話がわかるかと言えば、分からないのだ。
視聴者の側から見て、互いに通い合ったかのようだったが、その実、最後まですれ違っている。
これもまた、『コミュニケーションの難しさ』というものが描かれている。
そしてそのまま、そのズレを許容するのであった。

投稿 : 2018/04/14
閲覧 : 268

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