「風の谷のナウシカ(アニメ映画)」

総合得点
90.6
感想・評価
1959
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ランキング
51
★★★★★ 4.2 (1959)
物語
4.3
作画
4.2
声優
4.0
音楽
4.2
キャラ
4.1

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

ナウシカもまた、1000年前の名もない誰かとのすれ違いに苦しみ闘っているのか・・。私たちもそうなってしまうのだろうか。

・・・もしも。

もしも、私の生き方が、ナウシカが呻吟している世界の元になるのだったら・・・息が止まってしまいそうになる。

もしも、彼女たちが、過去を作った者たちを忌まわしいと思っているのなら・・。私は、何かを捨てなければいけないという思いに駆られる。

できることなら・・・
青い空は、青いままでナウシカに渡したい。
新緑の山々は、緑のままでクシャナ姫に残したい。
清らかな水は、何のまじりっけもないままでアステルに送りたい。

そうして1000年後、ナウシカたちが家族とささやかに幸せに暮らしているなら、嬉しい。

あなたたちはとても遠いところにいるけれど、あなたが今日一日微笑んでいられるなら、私が今日生きている意味があると信じたい。

私も、あなたと同じように微笑みをたたえながら、その意味を探して生きることに立ち向かいたい。
そして、悩んだときは、魂を風に乗せて、あなたの元へ行き、話をしたい。



私は生きている。
そして、ナウシカ、あなたも同じように生きている。

あなたと私たちは、とても似ている。

私も、あなたとおなじように息苦しさを感じる世界に生きている。

あなたの苦悩する姿に、私は心を傾ける。耳を聳(そばだ)てる。あなたの怒れる息遣いを感じ取る。


{netabare}
あなたたちは、遠い過去の「誰か」に、設定され、改変された存在だという。
そうさせたのは、たぶん、今の私たちの価値観かもしれない。

私たちの価値観は、「自然科学」、「社会科学」、「人文科学」の集大成であり、私たちのよるべき知恵でもある。

最大多数の善人の、最大多数の善人による、最大多数の善人のための「未来に残すべき善なる価値観」なのかもしれない。

常識、普通、道徳、勧善懲悪・・。こういった概念は誰も否定できない。
だから、未来の世代に残すべき「善なる」価値観だといっても問題にはならないだろう。
科学者が、声高らかに、あるいは声を潜めて、このプランを進めたのだろうか。

科学者の「良かれと思うお節介」がナウシカの世界のすべてを作った。
ナウシカという人すらをも作った。
その内実は、不便、不快、汚辱、病気・・およそ不幸のオンパレードである。

あまたの不幸の浄化が、完全に終わった時代。
それを、望ましい「未来」といい、「希望に満ちたときの到来」というのが、もちろん科学者の言い分(価値観)である。
そんな言い分だからこそ、わざわざ「神の神託」と宣(のたま)って、おかしな教団が神殿(墓所)を守るのである。あぁ、滑稽ではないか。


私は自問する。
私に近しい「誰か」は、未来のナウシカの「神たりうる存在」なのだろうか?

悍(おぞ)ましく見える腐海も、異形の王蟲も、実は、地球を浄化するためにプログラムされ、人為的に作られた存在。そのように振り当てられた役割だった。
巨神兵も、彼らを利用した人類も、汚辱の輪廻の中に棲息する役者という存在だった。
そう裁定されたシナリオの一部分なのだ。
これはいったい何の冗談だ。

ナウシカにとっては過去の「誰か」、私たちにとっては近未来の「誰か」が、プログラムしたシナリオに沿った世界が、「風の谷のナウシカ」だったのだ。

「誰か」とはなんだ?
シナリオライター?プログラマー?科学者?それとも、政治家?
みな「善なる神」なのか?

いずれにせよ、「誰か」が、1000年先の未来に、直接介入し、影響をおよぼし、あまつさえ、自らを「神」と呼ばしめて、そして「姿を見せない」。

「隠れ身の神」は、ナウシカたちを、トルメキア王を、森の人ですら、徹底的に排除し、拒絶する。

クシャナ姫たちを、過ちをくり返す者、救いようのない者、瘴気で穢れたものとして、断罪する。

しかし、ナウシカは現にそこで生きているではないか。土鬼(ドルク)も、クシャナ姫も、みな呻吟しながらも生きているのだ。

人は土から生まれたのではない。神が作った価値観やシナリオのみに生かされるのであれば、人の生きる価値はどこにあるというのか。

「光」などというまやかしの呼び方で、「善」、「正」、「真」のみで生きるのならば、何のために人は生きるのか。

生きることは、悪に苦しみ、邪に苦しみ、偽に苦しむことなのだ。
生きることは戦いであり、休息であり、切磋琢磨であり、安寧であるのだ。

偏った価値観を美しくあつらえて「光」と称して、生きている者を支配し、侮蔑し、軽んじ、無下にするなど、もってのほかである。

人間の本質は、天の上にも、天の下にも、ただ生きていることが最も尊い唯一の存在なのだ。

科学者が残したものは、1000年前の亡霊。ホログラム。まやかし。そして傲慢。尊大。無慈悲である。

科学者は、そんなものを「神」と名乗らせ、そんな「神」がナウシカたちの気持ちを蔑(ないがし)ろにし、逆撫(さかな)でにして、絶望へと貶(おとし)めるのだ。

科学者に、どうのこうのできる権利はどこにもないのだ。権利があるとしたら、火の七日間戦争を回避できなかったことへの自責を果たすことが彼らの取りうる権利であり責務なのだ。

聖書は「初めに光があった」と記す。それが神の言葉なら、今生きている私たちが神になろうとするなら、迷いなく、ナウシカたちに光を与えなければならないはずなのに・・。

ナウシカたちのことは、ナウシカたちが決めるのだ。

ナウシカたち抜きで、ナウシカたちのことを決める権利など、どこにも誰にもないのだ。

1000年後の未来は、1000年前の者の手のなかにあるのではなく、今を生き抜こうとするナウシカたちだけが決めることができるのだ。

ここに至る多大な犠牲と、多大な友愛の変遷は、ナウシカを変え、クシャナを変え、土鬼も、僧正も、トルメキア王も、森の人も、みなを変えてしまった。

たとえ、腐海が作られたものだとしても、その腐海とともに生きる。虫とともに生きる。

生きて、生きて、生き抜いて、未来に責任を負うことを証明するのだ。
足掻(あが)いて、右往左往して、二進も三進も(にっちもさっちも)いかなくて、行き詰って、泣き崩れていて、身体を折り曲げて呻(うめ)いて、やがて、しずかに風の中に消えていくのだ。

そういう生き方であっても、そう生き方が選べることが、ナウシカたちの生きる希望なのだ。
見えないシナリオに支配されて生きるよりも、誰の目にも見えるしきたりと文化の中で生きることが、深く喜びを感じられるはずであろう。


ついに、ナウシカは、清浄の地に生まれるべく準備された「卵」を巨神兵に握りつぶさせる。そう、ナウシカは、「未来のための光」を消させたのだ。

科学者のシナリオでは、ナウシカらは光にはなりえぬ存在である。
「光は卵そのもの」であり、その卵と同じ設計がされている存在が王蟲である。

ナウシカが最後につぶやいた「同じ青い色だった」という意味がそれを表している。

集合知としての王蟲は、「光である卵」を潰したのが、汚辱にまみれた人類であることをすでに知っている。

その後、ナウシカも、クシャナ姫も、権力を欲せず、強すぎる光とはならなかった。
それぞれが、いるべき場所に戻り、為すべきことを為していく。
それは、やはり、軍事力による支配ではなく、共生の道を選んだのだと信じたい。

ナウシカも、クシャナ姫も、土鬼も、地球の再生の筋道を、あるがままの姿と営みに任せていくことを選ぶのだ。

そして静かに思うのだ。
「生きねば」と。
{/netabare}


ナウシカは、やさしい。
その微笑みは、皆を魅了し、アニメ史上最高のヒロインとなった。

しかし、彼女はヒロインなのだ。
真直ぐな眼(まなこ)の先に、私たちを見据えているのだ。

私たちが、何を思い、何を選び、どう行動するか。
1000年先のはるか未来から、大きな期待と祈りを込めて、私たちに願うのだ。

その者、青き衣をまといて、金色の野に降り立つべし。

それは、今を生きている私たちのことではあるまいか。

「私の風の谷に伝わる伝説の救済者は、あなたたちなのですよ。」

ナウシカも、きっと、そう言うだろう。



とりとめもなく感傷的な散文。
漫画版も綯い交ぜたレビュー。
分かりにくくてごめんなさい。



長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2019/12/09
閲覧 : 479
サンキュー:

43

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