「千と千尋の神隠し(アニメ映画)」

総合得点
87.6
感想・評価
1798
棚に入れた
12186
ランキング
142
★★★★☆ 4.0 (1798)
物語
4.1
作画
4.2
声優
3.8
音楽
4.1
キャラ
4.0

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

ギャングエイジのインパクト。(追記しました)  

初めての円盤購入作品です。
本作は小学4年生に特有の物語。前半はギャングエイジ。後半は発達。二つのキーワードを用いてアプローチします。

★ 前半、スタートです。
{netabare}
● 本作が生まれる背景に、宮崎氏がジブリスタッフの子どもさんに、恋愛マンガではない "別の作品" を創りたかったという逸話はよく知られています。そのお子さんたち、年齢は10歳くらいだったのでしょうか? それにしてもアニメ監督らしい独創的なアプローチですね。

● 千尋の年齢にちびっと近いキャラを。
{netabare}
ワカメ(サザエさん)、サリー(魔法使いサリー)、アッコ(秘密のアッコちゃん)、静香(ドラえもん)、セーラ(小公女)、ももこ(ちびまる子ちゃん)、ハルカ(ポケモン)、めんま(あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない)、四葉(君の名は)、ハマモトさん(ペンギン・ハイウェイ)たちですね ♡
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● ギャングエイジって何?
{netabare}
ギャングエイジ。『大人からの旅立ちの時代』の意味があります。親への口答えや反抗的な態度、友だち付き合いを優先するようになって、少しずつ自立心が芽生えだす年齢ですね。

小学4年生~6年生の子どもたちにとっての最大の特徴は、好きな友だちと一緒に遊んだり、同じ行動を共にすることで生まれる一体感に支えられる仲間集団の存在です。気の合う友だち同士、またはご近所の、あるいはちょっと上の学年の、異性の友だちもいたりしますね。同じグループで固まって裏山や河原、裏小路を走り回ったり隣の学区に遠出してちょっと冒険したりしています。男の子のほうが少し活発かな。でも女の子だって負けてはいませんね。

● コムヅカシク言えば
{netabare}
グループの中で、自発的な協働(得意なことは進んでやったり不得意なことは腰が引けたりする)の意味が分かるようになります。
また、お互いの口約束がとても重要になってきて、約束を守ることや決めたことをやり切ることに代えがたい価値を置くようになります。約束を守ったり果たしたりすることは高く評価されます。逆にできなかったときはグループのなかだけで適用される独自の罰を公開で受けることにもなります。(ときにそれは残酷なまでに。)
ルールは時と場合によってはスクラップビルドされますが、お互いの利益を共有し担保できる立場においてのみ、平等・公平が生み出されメンバーとしての立ち位置が保証されます。
その営みの中でグループの規則は自主的に制定されるだろうし、自立的に遵守されてもいきます。何よりもそのことを体験的に学んでいくのですね。
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ちびっとギャングエイジの特徴を書いてみました。なんだか先出しのキャラの人物像や集団の姿が鮮やかに蘇ってくるようですね。
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★ 物語のなかのギャングエイジたち。
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ここでは、ギャングエイジの只中にある千尋の生き生きとした姿に触れてみたいと思います。
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千尋は親の都合で前の学校の友だちから無理やり切り離されています。しかも親の気まぐれでテーマパーク?に引っ張り込まれて、いきなり一人きりで放り出されたのですね。そんなご両親、とうとう異形の姿になっちゃって・・・。

千尋は両親を心配しながらも、ハクの指示を優先して車まで戻ろうとします。もし千尋がそのまま戻っていたらその後の展開はどうだったでしょうか。彼女は10歳の壁を乗り越えもできず、泣きながら両親の帰りを待ち続けるだけだったかもしれませんね。でも物語は "真っ黒な大河" を出現させ、彼女をずぶ濡れにし足止めをしました。逆に手を差し伸べてくれたのがハクです。たしか彼の名は・・・コハク川(≒小さな白い川)でしたね。
千尋はハクの導きを受けてギャングエイジになる道を歩むことになります。

父役、兄役、青蛙、リン、釜爺、ススワタリ。彼らをようく観察すれば、やっぱりギャングエイジのメンバーとして見立てることができます。湯婆婆との契約のもとで、それぞれの立ち位置と役割を果たしていますね。毎日、決まった仕事をやり切ること。そのうえでの信賞必罰。とってもわかりやすいルールですね。皆さん、すごくしっかりしているようにも見えますが、ちびっと視点を変えれば、付和雷同・・・みたいにも感じちゃいますね。

意外だったのは、千尋とリンには "連帯責任" が課されたこと。10歳児の千尋に連帯責任ですよ。なんだかなぁ。
でも、リンって上司からは一目置かれているみたい。だって機転と度胸でみごとに千尋の窮地を救ったのですから。ホント、頼もしい。

実は、湯婆婆をようく観察してみると、彼女もギャングエイジなグループの一員なんです。一応ボス役みたいですけどね。この湯婆婆、ちびっと強欲に過ぎますね。まるで薹(とう)の立った時代遅れのような "痛い振る舞い" です。殊更にボスの地位にしがみついているようにも見えます。う~ん、問題がありそうだなあ・・・。

坊の存在もとても面白いです。坊は湯婆婆のお子さんの設定なので、ギャングエイジの "ルールの適用外の存在" なんです。そんな坊をそばにいさせるためには、特別扱いしなくちゃいけませんね。それってギャングエイジのグループに居そうな・・・"ボスの実弟" ってことじゃないですか。虎の威を借りたような振る舞いをする "下の子" っていますもんね。
それにしても他人の名前は取り上げる力はあるのに、息子の名前を付けられないなんて、湯婆婆ってちびっと歪んでいますね。

ハクを便利に使っているのはギャングエイジのグループ間の "虚勢の張り合い" に重宝な存在だからです。何といってもハクは蛙でもナメクジでもなく龍神ですからね。でも、みなしごまいごの幼い龍神です。使い捨てにするなんてちょっとかわいそう。ハクには秘密のヤバい役割が振られていて、彼もそこにしか自分の活路が見いだせないようです。だって彼は龍神なのに手のうちあるはずの "玉" がないんですよ。ハクにとっての "玉" って何だと思いますか?"名前" だけ、じゃないですよ。

ところで、銭婆だけはギャングエイジの年齢ではありませんね。湯婆婆よりもずっと大人で、ずっと度量が大きいです。そんな銭婆は双子のお姉ちゃん。湯婆婆が張り合っている相手は銭婆ですね。湯婆婆が嫌うわけがなんとなく分かりますね。

さて、とにもかくにも、千尋はそんなとんでもなギャングエイジのグループに所属してその役割を担うことで、自分の立ち位置を自分で開拓していくことになります。

● それに反してギャングエイジのルールに乗れなかったのが、千尋の両親とカオナシでした。
両親はルールに引っかかり途端に排除されます。勝手に乗り込んできたヨソモノが傍若無人の振る舞いをしていたらハブられても罰をうけても仕方ありませんね。うん、やっぱり湯婆婆へは礼を立てなきゃいけません。一応、ボスなんですから。

カオナシは最初のうちは立ちすくむだけでしたが、従業員が "ほしがり屋さん" だと気づき、欲心を上手にくすぐり、先ずは弱っちい青蛙を抱き込みました。やがて客として強欲の限りを尽くすのですが、千尋にイタイところを指摘されて脆くも崩れました。
彼のほしかったもの。それは千にもあげられないもの。彼に足りなかったもの。それは千がとりくんでいるものです。

カオナシに必要なものは、例えば、保育園の年中(4歳児)組で取り組まれる "目的意識に添った行動" の獲得なんですね。例えば、お昼寝用のお布団を自分で運ぶとか、お昼ご飯の前やおトイレのあとに手を洗うとか、お友だちを呼ぶときはお名前で呼ぶとか、そういう "自分の行動と身の回りの世界とを馴染ませる知恵と技術" なのですね。
彼にはそれが理解できないし身についていなかったですね。ですから彼の行為と行動は、4歳の壁を乗り越えていない子どもの象徴なのでしょうね。千尋の両親と同じく、食べ物の匂いにつられて油屋にやって来たのでしょうがちびっと早すぎました。彼はギャングエイジのグループに入れるだけの発達段階ではなかったのです。ちょっと大人びちゃった "効かん坊" でしたね。

彼は、従業員を呑み込むというギャングエイジの最も大事なルール(=集団の維持)に反する行為を犯してしまったことで、湯婆婆からお叱りを受けグループから追放されてしまいます。どんなに大きな顔で、大盤振る舞いを求めても、大人の人(神様)が食するお料理が、彼のお腹に合うはずがありません。4歳児がブラックコーヒーを飲んだりワサビ入りのお寿司を食べられないのと同じです。彼は嘔吐を繰り返し、結局ぜんぶ吐き出してしまいます。
千尋がにが団子を食べさせたのは、「小さい子のままでいいよ」という意味ですね。

千尋の "お姉さん的な配慮" と、銭婆の "お母さん的な優しさ" で、新しい居場所を見つけられたのは、彼にとっては僥倖(ぎょうこう)なことでしたね。
なお、4歳の壁については、拙レビュー、未来のミライを、10歳の壁についてはペンギン・ハイウェイもご覧くださいませ。ペコリ。

さて、個人的に、千尋がギャングエイジとして一番輝いていると思える場面があります。ちなみに千尋が "働いているシーン" ではありません。
それは、手早くたすき掛けをしてパイプに向かって一気に駆け下りていく場面。ハクに会うために油屋の外壁を必死に這い登っていくシーンです。何度観ても、仲間を思いやるギャングエイジの実相を描いているとんでもないシーンだと思うのです。私はこの場面だけで、☆5個付けちゃいます。
ところで、千尋は "両親に会うため" に、あの外壁を登ることを実行できたでしょうか?
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● 千尋は油屋で驚くほどたくさんの経験をしていますね。5点ほどに整理してみたいと思います。(5点の項目は、文部科学省、"子どもの発達段階に応じた支援の必要性" より抜粋したものです。)
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● その1。 抽象的な思考への適応や、他者の視点に対する理解。
 
千尋は、ある程度は自分の身の回りのことや自分の心のありようも理解できる女の子。でも、いきなりの油屋です。具象の世界から抽象の世界に放り込まれました。ハクとの出逢いからリンとまんじゅうを食べるまでの展開は、まるでジェットコースターのようです。淋しさに涙を隠せないのも仕方ないですね。
釜爺が優しく接してくれるのはハクの配慮だし、リンが世話を焼いてくれるのは釜爺の配慮ですね。そのことは千尋もしっかりと感じていたみたいだし、どう振舞えばいいかすぐに理解できていましたね。
千尋の気づきと頑張りは、とんでもなく凄いことだと思います。

● その2。 自己肯定感の育成。

千尋は、できないことと、できなさ加減に戸惑いながらも、働くことを自分に課していました。やるべきことがはっきりと分かっていて、やりきることでどんな評価を受けるのかもしっかりと学んでいるようです。そのことが油屋にいられる唯一の理由だと承知しているし、両親と一緒に油屋から出られるたった一つの担保なんだということも理解できているみたいです。決して大それた夢じゃないし、だからといって何をどうしていいかさっぱり分からないけれど、目の前の仕事をしっかりと熟(こな)していくことが一番大事なんだってことを千尋は分かっています。分かっていること。意識と行為が自己評価できること。それが、千尋自身の羅針盤になっています。
だから、千尋はカオナシに「あなたは帰った方がいいよ」と言えたのです。
カオナシは、まだ自分のことさえ分からない "幼さがある" ことを千尋には感じ取れていたからですね。カオナシのポジションって意味深ですね。

● その3。 自他の尊重の意識や、他者への思いやりなどの涵養。

千尋はいろんな場面でいろんな人(従業員や神様)とふれあい、心を向けあい交わらせてきました。ギャングエイジはまだ子どもだけれど、大人の振る舞いをしなくちゃいけないときもありますね。自分勝手な振る舞いだけでは、働く場所も、寝床も、ご飯だってありつけはできませんものね。
そうして自然と身につくもの、いつの間にか知らず知らずのうちに、心の真ん中に芽生えるものが、"おかげさま" という他者への気振る舞いです。
仲間のなかでこそ、千尋は生きていくし活かされていく。だから、見取り稽古。よいおもてなしは直ぐに真似をする。だから、体で覚える。叩き込む。身体が先に動くまで繰り返しやり直す。それだから一騎当千の働きもできるようになります。ひたすらに他人のために、ひたむきにお客様のために。それがひいては自分のためにもなるのです。そう思えばこそ、恥ずかしいとか、気が乗らないとか、面倒くさいとかの後ろ向きな気持ちは、欠片も必要ありません。
身の丈で働くこと。それは千尋にとってギャングエイジを身の内に創り上げることのできる "最高の仲間と時間と場所" の実相なのですね。カオナシが、金の粒を渡そうとしても受け取らなかったのは、身の丈以上のお金をもらっても "心の涵養には繋がらないから" と気付いたからなのですね。

● その4。 集団における役割の自覚や、主体的な責任意識の育成。

これはもう、作品の中の千尋の一挙手一投足をご覧いただければ一目瞭然。
三食昼寝付きっていうだけで、ほかには何もいらないって言いきれるくらいです。
最終幕で、ちひろはハクとの約束を守って振り向こうとはしませんでしたが、でもきっと振り向きたかったはずです。ハクとの縁の始まりを思い出せたから、皆との出会いの不思議さを知ったから、銭婆とのふれあいの温かさを感じたから。そんな異形の世界に、二度とは来られないことが分かっていたから・・・。
それでも千尋が振り向かなかったのは、未知の世界に踏み出す勇気を得たからです。新しい自分を発見できたし、思ってもみなかった大きな自信も持てたし、新しいステージに立てたことの確信を得ていたからでしょう。
なぜなら、油屋には彼女を育てた仲間の集団が確かにあったのだし、仲間の信頼と歓喜とが千尋のなかに間違いなく伝わっていたからでしょう。そんな名残を深く胸に収めて、自分の主体性をしっかりと育て上げてきたのですね。彼女は油屋に行けたからこそ、真正のギャングエイジになれたのですね。

● その5。 体験活動の実施など実社会への興味・関心を持つきっかけづくり。

油屋で働く前は、引越し前の家と学校と友だちが、千尋の心の拠りどころでした。でも、油屋を堂々と出立した千尋には、そのことを懐かしむ気持ちに一区切りをつけることができたのでしょうね。だからこそ、彼女は振り返らなかったし、もう振り返る必要もなかったのです。油屋での体験は一瞬のモラトリアム。でも、もうコンプリート。卒業です。
千尋の明日のステージは "自分の学校" です。
{/netabare}{/netabare}


★ 後半、スタートです。(2018.10.31 大幅追記です)
{netabare} 
★ 物語を "発達" で見直してみます。
{netabare}
これまで、両親が豚の群れの中にいないことが千尋に分かった場面には触れてきませんでした。
だって難しいんだもん。でも、ちびっとだけならいいかな。

前半はギャングエイジというキーワードで10歳あたりの子どもの成長の実相を述べ、千尋の活動を俯瞰してみました。後半は成長の根底にある "発達" について述べてみたいと思います。

"発達" とは、学問的には、心理学→発達心理学→児童心理学で使われている言葉、概念で、人間の成長の羅針盤として活用できる "指針の一つ" です。
心理を扱うので目には見えないし手でも触れられません。また、いろんな解釈も可能な学問なので、これが本当の真理ダヨ、とも言えないところがあります。そこを前提にして「千と千尋の神隠し」を "言霊的" にも解き明かしてみようと思います。発達心理学を右手に、スピリチュアルを左手にして、本作のテーマにできるだけ近づいてみようと思います。
正直言って心理学と文芸のコラボ作品はなかなか手ごわいです。ちびっと挑戦、むちゃくちゃ仮説、なのです。あくまでも解釈のひとつとしてご理解いただければ幸いです。
よろしくお願いします。

私は、本作を、千尋の内面世界の物語、千尋の潜在意識の中で組み上げられている想念世界と仮定します。
そこで私は、荻野千尋に四つの人物像を設定してみようと思います。
① 千尋。肉体の状態。心と体がぴったりとくっついている状態です。
② 千ひろ。肉体と心がほんの少しずれて同時に存在している状態です。
③ ちひろ。肉体から離れた状態です。顕在意識、霊体と言ってもいいです。ハクが「ちひろ」と呼んでいるのは顕在意識に呼び掛けている。ちひろも自分が千尋だと認識できている。そういう状態です。
④ "千"。肉体でも顕在意識でもない状態です。潜在意識、魂そのものと言ってもいいです。自分の名前が荻野千尋だと認識できておらず、油屋で「千!」と呼ばれているときは、この④の状態です。

千尋に中にちひろがいて、その中に千がいる。三位一体で 3重構造になっている、そんなイメージですね。しかも時々ダブっている千ひろもいるので何だかややこしいです。すこぶるスピリチュアル的ですが心理学的なお話であることも覚えておいてくださいね。
もし、訳が分からなくなりましたらこの設定を思い出してくださいね。

さて、物語に戻ります。
千尋は転校することに嫌悪感を抱いています。受け入れられないものを受け入れねばならない無理難題。宿題の比ではありません。心の整理のできないままに学校も見えてきて、いよいよ現実が肉薄します。堪(こら)えている苦々しさを、不条理・葛藤・悲壮という言葉にも置き換えられず、吐露することも愚痴にも出せないままでいます。これが千尋の現実です。

● 千ひろが訝(いぶか)しげに見ている小さな祠と石像、朱塗りの建物は何でしょう。

これらは "現実からの逃避"、"不安と憂鬱な心情" が作り出した千ひろの心象像といってもいいかもしれません。 
小さな祠は、転校先のクラスの友だちの姿かな?ばらばらと崩れていて中身がないのは、顔も知らない人と友だち関係がうまく作れるかどうかの不安感でしょうか。少し高い場所から見下ろしていた石像は、担任の先生かな?。ニタリと笑っていたのは、クラスに馴染ませる方便としての作り笑いでしょうか。

私は、ここに来るまでに千尋の心理状態は相当に不安定になっていたと推測しています。転校、引越、しおれた花束。それだけでも憂鬱なのに、怪しげな祠や石像がそこかしこに点在する森、薄暗くて行き先の分からないガタガタの未舗装路、気持ちを汲み取ってくれようとしない両親。彼女はどれだけの時間、後部座席の荷物のすき間で放心していたのでしょう。窓も締め切っていて脳みそは酸欠直前。気だるさと閉塞感でお先は真っ暗。まるで世界の終わりのような雰囲気ですね。
千ひろは地団駄も踏めず、かと言って前向きにもなれず、2人でぐずぐずとのたうち回っているかのようです。

あえて "お作法" と言っておきますが、直後の展開もなかなかタフです。わざわざ4輪駆動車ででこぼこだらけの道を猛スピードで走らせて、ナーバスになっている千ひろを何度も激しく揺さぶるのです。急ブレーキでぶっ飛ばし、でんぐり返しさせています。こんなの日常にはあり得ないですよね。
ストレスフルな千ひろは身体と心のバランスをぐちゃぐちゃに崩され、意識も朧げになってしまったのでしょうか。もし千尋が転校が楽しみでたまらないっ!という気持ちなら、ロデオのように楽しくて、トンネルも秘密基地のように見えていたかもしれません。でも、ブルーな心理状態の千ひろにとってはそうではなかったのでしょうね。
なぜ、千ひろには "朱塗りの建物" に見えてしまったのでしょうか。

千ひろの記憶には、朱塗りの神社、テーマパークの建物、絵本の神秘的な挿絵などがあって、その心象風景を瞬間的に取り出しトンネルの壁面にマッピングしたのかもしれません。あるいは血液の赤色であり、肉体を潜り抜けて精神世界へと移行するという象意なのかもしれません。あるいは "発達直前の夜明けの曙、黎明(れいめい)" の心象色なのかもしれません。

ところで、強烈で突発的なストレス(交通事故など)は、しばしば心因反応を引き起こし、特に幼少期は原始反応(短絡反応、爆発反応など)が現われることがあります。心療内科などの医療の領域に関わるのでコメントはしませんが、本作とは関連性が高いと思われますので参考にはしています。
何れにしても、ちひろの出現はこのタイミングだったと思うのです。

車止めの石柱は、校舎の玄関先で出迎える人(校長先生?二宮金次郎?)っぽく見えたのかな。真っ暗なトンネルをこわごわ歩くのは、見通せない学校生活と通学路への不安な気持ちかな。日の光が差し込んでいる静謐な空間は、立ち入る前の図書館や体育館なのかな。背中を押す風は、彼女の転校を惜しみつつ送り出した元同級生の優しさが作り出しているのかな。千尋が嫌がっていた転校ですが、ちひろにはそう感じられたのかも。そんな解釈も面白いかな。

両親がずんずんと歩きだし千尋がぐずぐずと追いかける場面。「私、今ものすごく不安なんだよ? 親の勝手で独りにされるのはイヤ! どうして手をつないで引っ張ってくれないの!」という "発達前" の幼いちひろも描かれていたように思います。

いずれにせよ、千尋が両親の視野から姿を消したのはこのシーンのどこかに隠されている・・・私はそう解釈しています。千尋の役割はここで完全に終わり、そのあとの主役はちひろに交代していると思います。

● 終幕のトンネルの出口の様相が全く変わっていたのはなぜ?

このシーンも、ものすごい違和感を感じてしまうところです。
通常、視聴者は、主人公たる千尋の主観と行動に関心を寄せます。視線の先を追い、思考を読もうとし、判断と行動に解釈と理屈を付けようとします。千尋の心情と世界観に、気持ちを自然に重ね合わせていきます。
ところが、冒頭のシーンで朱塗りの建物を見あげているのは、"発達前" の千ひろです。2人の心理的なフィルターを通してトンネルを表現してあるので、視聴者にも朱塗りのトンネルが見えているのです。逆に、終幕のトンネルは "発達後" の千尋の目を通して描かれています。
これを理解することは骨です。発達心理学では "発達の前と後" では、同じ風景がガラリと違って見えるほどに "世界を掌握する能力" に変化が生まれると解釈しています。千尋の内面性は "発達の壁を乗り越えている" のに、外見上の千尋には全く変化が見られません。ここがミソです。それほどに "発達の実相" は無茶苦茶分かりにくいのです。私も、初見はさっぱり訳が分かりませんでした。

"発達" の壁を越えるということは、現実の世界を見る目が "主観的な真実" から "客観的な事実" へとシフトすること、と言い換えることができます。
真実は、それを体験した人だけに生まれる主観的な目。
事実は、それを知る全ての人に理解できる客観的な目。
それぞれの概念は、全く別のものです。
私は "神隠し" を "発達" に置き換えていますが、"目くらまし" と喩(たと)えて呼ぶことはできるかしら? もしそうであれば "め、目"、"めめ、目目" の看板がたくさんあったのもなんとなく頷けますね。

● 真っ暗なトンネルや広い青空の意味は?

このシーンはある古い信仰の形態をなぞっています。モチーフは、富山県立山にあります。立山は、白山、富士山と並ぶ日本三霊山ですが、麓にある芦峅寺(あしくらじ)に伝わる「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」がそれです。(ネットをご参照くださいネ。)
この灌頂会のテーマは、女性のための擬死再生です。そのクライマックスシーンが、御堂から見上げる燦然と朝日に輝く立山(霊性)との出会いです。両者のシーンを重ねれば、本作も擬死再生をなぞっていると理解できます。本作は "発達" がテーマですから厳密には違うのですが、"古い自分を脱ぎ捨て新しい自分に出合う" という観点で見れば、似ているように思えます。

劇場とトンネルの暗闇が、布橋灌頂会の "お籠り" を再現しています。視線の先の情景は、立山の霊性と千尋の想念世界のマッチング(≒接霊)です。視聴者は灌頂会に参加しているように感じ、千尋の想念世界へといつしか足を踏み入れるのですね。立山はかつて女性の入山を禁じていました。それゆえに油屋はちひろだけに許された霊性の場所なのです。しかも灌頂会ばりの "お作法" がちひろを待ち受けています。因(ちな)みに布橋灌頂会は現在でも女性しか参加できません。男性の方、残念!

接霊とは神霊から人へのプレゼントです。神々しい霊性に触れて千ひろに想念転換が起き、厳しい現実感がソフトトーン化され馴染みやすい景色に再構成されたのです。ちひろのために校庭は真っ青な空となだらかな緑の丘になり、児童玄関の階段は大きな石段になります。
それらは "学び舎としての油屋" へのアプローチなのです。

● 神隠しとは何なの? なぜ両親は豚になるの?

千とちひろが千尋として現実世界に戻るには、想念世界で10歳の壁を乗り越え新しいステージに立たねばなりません。そのためには千尋と両親との "強い信頼と絆" は、返って "邪魔" になります。

千尋は、転校で友だち集団から切り離され、引越で両親への依存を強め庇護を求めています。彼女がギャングエイジに移行するためには、この二つの課題の修正は絶対条件です。
ですから、千ひろをわざわざ両親から離れさせ姿を見えなくさせたのです。一時的に姿をくらませることによって両親との関係性を切り離し、両者のしがらみを分断したのです。まず、千尋の存在を消すことによって第一段階の分離を行なったのです。これが「千尋(肉体的)の神隠し」ですね。

終幕で両親は 「ちひろ、早く来なさい。」と呼びかけています。千ひろがいつの間にか姿が見えなくなり、気づけばひょっこりと出てきた。まるで "神隠しにでも遭っていたの?" と言わんばかりの気軽な言い方です。このくだりは、千尋は両親からは幼児扱いをされておらず、そろそろ自立してよねというスタンスが演出されています。第二段階の分離、「ちひろ(精神的)の神隠し」ですね。

先に向かって歩く両親は、ちひろを置いていくのではなくちひろが求めているから前にいるのです。両親はちひろが作り出している心象像なのですね。ただ、両親の姿かたちである以上は "発達" のブレーキになる可能性があります。そこで第三段階の分離(両親と)が演出されます。両親を "豚という異形の存在" にしてまでちひろとの距離をとったのです。取らざるを得ないのです。それほどに10歳の壁≒親への依存心の力は大きいからです。

● どうしてちひろの姿が霞んでいくの?

ここでは、ちひろが千尋から分離した決定的なさまと、両親から分離された彼女の主体性がとても弱くて不安定な心情が描かれています。

繰り返しますが、全ては千尋の想念のなかの世界。彼女の豊かな想像力が生み出しているイメージの風景です。この世界観をなんとかして自然な感じなままに、視聴者に定着させなければなりません。
そのためには、演出に "お作法" が必要です。

ちひろは意識だけの存在ですが、あたかも肉体があるかのように描いておかないと、観ている視聴者が、千尋は死んだ?幽霊になった?それとも臨死体験をしてるの?と勘違いしてしまいます。
本作は、八百万の神様を登場させてはいますが、霊界の実相や神界の姿を紹介するのが目的の作品ではありません。また、転生をテーマにはしていません。生きている千尋が、心理学的に "発達していくさまをどのようにして描くか" というテーマなわけですから、まさに生きている千尋のようにちひろを見せておかないと、あとあと辻褄が合わなくなってしまいます。
というわけで、ちひろは、千尋が創り出した想念の世界の意識だけの存在ではあるのだけれど、視聴している方にも理解しやすいように、"不思議な赤い粒を口にする" という "お作法を演出" することで、不思議な世界にゆっくりと馴染んでいき、やがては肉体を取り戻し、もともとの千尋であるかのように実体化していくさまをあえて描いているのですね。
子どもが新発売のお菓子を、大人が初めてのお料理を口にすることは、今まで知らなかった世界を受け入れ実感することのできる最短・明瞭に理解・納得のできる一番の方法ですね。

ところで、ちひろは「消えろ、消えろ」と呟いていました。今の境遇をにわかに受け入れることは難しい。だから異世界を消したかったのですね。ところが、消えていくのはちひろのほうでした。ちひろは千尋の意識ですが、肉体そのものを消すことなどできません。異世界を否定する言葉は、千尋にも向かうけれどちひろ自身にも跳ね返ってきて、その存在を消すほどに深い傷をつけてしまうのですね。

おどおどしていたちひろに力を与えたのはハクでした。彼はちひろをかばい強く手を引き "発達" への道筋をナビゲートしていきます。ときに優しくときに厳しく、ときに倒れてまでも・・・。
ハクはちひろのために努力をおしみません。なぜでしょうか?
私には、ハクがちひろに渡した赤い粒は、かつて彼の身の内を流れた "千尋の桃色の靴" を暗示しているように思えます。コハク川は千尋の身体を岸辺へと運べはしたけれど、靴を返すまでは叶わなかった。だからハクはそのことを悔やみ、いつかは返したいと願っていたのではないでしょうか。靴があればちひろは自分で歩けるはずだと。
でも、赤い粒だけではまだ十分にお作法に則ったとは言えません。

● ちびっと寄り道。
{netabare}
個人差はかなりありますが、10歳の壁の面白い特徴には、5歳前後の幼児にみられる"作話の名残" があります。"作話" とは、肉体を通して想念世界がパフォーマンスされていること、つまり「私は今、魔女っこになっている。ヒーローになって空を飛んでいる。」という夢見ごこちを、そのまま現実の世界、園庭とか校庭とかで演じている、いえ、なりきっているということですね。夢想と現実の境界線がまだぼんやりしている年齢が、5歳前後の子どもの "発達" の特徴・実相なのです。
ところが、10歳の壁はそれを許してはくれません。夢はただの夢になり、現実とは違うものとして切り離されます。夢の世界で大活躍する自分を現実の世界に持ち出すことは許されないのですね。
でも、千尋は、現実の世界で10歳の壁を前にしてぐずぐずと足踏みをしています。そしてちひろは千尋のストレスを想念世界の中にまで持ちこんでいます。それを千がしょい込んでパフォーマンスするのですね。
つまり、"作話の真逆" のことをしているのですね。

本作は、千尋の現実世界の苦痛・葛藤を踏まえて、ちひろの変化(心的な発達)のありさまを描いています。千尋をちひろに投影し、そのうえで千に演じさせています。視聴者にとって彼女たちはまるで一人の人間のような三位一体の存在で、疑いようのない "真実の世界" にいます。千が演じ、ちひろを通して、千尋が体得する。そのさまを視聴者に見せています。

この演出がとってもユニークなんです。実は、視聴者の意識も、千尋の複雑な思いにシンクロしてスクリーンに入り込んでしまうのです。
なぜなら、ご自分も "いつか通ってきた道" だからです。特に、学期の途中で転校した方、あるいは学年の区切りで転校された方は共感しやすいのではないでしょうか。そうでなくても卒業の機会は何度かあります。その時に感じた不安感と期待感は今でも思い出すことができると思います。それが冒頭のトンネルのシーンですね。
その感覚は "ご自身" の懐かしい記憶として持っていらっしゃるのかもしれません。また、10歳くらい(発達年齢だよ)の妹・弟を見る "姉・兄" の感覚かもしれないし、10歳くらい(実年齢じゃないよ)の子どもを見る "母・父" の、姪・甥を見る "叔母・叔父" の感覚なのかもしれません。
誰もかれもが、いつの間にか 10歳の "発達直前" のご自分の姿に戻って、千尋とちひろと千と共に "作話の真逆の世界" を生き生きと走り回ることになるのです。
{/netabare}

● 息を止めるってどういうこと?

息とは「意・気」ですから「人間としての意識、気配」を表わしていると解義できますね。だから息が漏れる=意と気が漏れ出る=人間がいるということがバレてしまうのですね。これがちひろが息を止めなきゃならない理由です。そもそも油屋は千尋の意識の世界ですから、肉体的な要素は不要なのです。しかも息をする必要のない世界なのです。だって、幼いころは宇宙や海の中で大活躍できていたでしょ?
でも息を止める方法は、一時しのぎにしかなりません。

● さらに人間らしさを削ぎ落していくお作法が必要です。

それが、靴を脱ぐというシーンです。
これは "兜を脱ぐ" と同じ意味で、武装を解く、降参する、抵抗しないという解釈ができますね。
また、油屋という建築物、いわば "神様が集う結界" に入るためには、相応の作法を執る必要があります。板の間、畳の間に "土足であがる" ことは、失礼、不敬、侮辱という意味ですよね。
また、下位の立場にあると自覚させる意味、あるいは、身分を貶(おとし)めさせるという意味合いもありますね。裸足は無防備。転じて自由に外出させない、ひいては逃亡させない、つまり囚われの身であることを示していますね。
一部の外国では他人の前で裸足にさせることを "辱める" と捉える概念・文化がありますね。
靴を脱ぐシーンはわずか数秒ですが、これだけの意味を知って鑑賞すると深く味わえます。

● 次のお作法として描かれているのが、湯婆婆との契約です。

● このシーンには二つの意味があります。まず、一つめ。
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湯婆婆との契約行為がちひろの "意識性を引きだしている" のです。換言すれば "第三者の手による両親からの分離" です。

名前は人物を特定させる強力なキーワードです。荻野千尋という名前は、ちひろその人、そのものを表すものです。
ちひろの言霊のパワーのみなもとは、チ・ヒ・ロという言霊の響きから注がれます。"知・弘、智・広、血・大であり、血・火・炉、千・引・路" です。これらからは、人間が作り出してきた尊い価値、過去から未来へ・私からあなたへと繋がっていく意志、情熱と勇気と忍耐を身の内にあまねく広げる働き、という意味合いが感じられますね。
人を解義すれば、霊(ヒ)止(ト)です。霊は、火・日・秘です。止は、止まる・留まるです。ヒトとは、秘められたチ・ヒ・ロのはたらきが、しっかりと肉体にとどまっているという意味ですね。ちひろの名前には、そんな凄まじいパワーが秘め置かれてあるのです。想念の世界にいても自我を確固たる存在にする働きが "名前" にはあるのですね。
こうした背景から、想念世界の湯婆婆にとっては「チ・ヒ・ロ」と言う名前は大変危険な記号なのです。
ですから、名前を削り、読み方を変え、そのパワーを弱めておかなければ、魔法の効力と支配がちひろの深層に及ばないのですね。

え?名前を取ったら意識性も消されちゃうみたい?
コホン、では。前述のとおり、肉体と意識と心は名前という記号で "くっつけられ" ています。くっつけられているということは、意識や心が自由に動き回ることができないというニュアンスを感じませんか?シータは飛行石とくっついていたから浮かんでいられましたが、千は名前がくっついていると自由に飛べないのですね。
意識や心を完全に自由な状態にさせるためには、重い肉体も意味深な名前も不要です。子どもが「私は○○姫よ!」と言った瞬間、その子の名前も目的も意識性も "○○姫" になる。これと同じです。つまり、ちひろが「油屋で働かせてください!働きたいんです!」と発言することは、彼女の目的そのものであり、主体性とも言えるし、意識性とも言えますね。
ハクが、ちひろに、最初に湯婆婆との契約を説明した意味はこれですね。
ちひろの意識性を引きだす、ですね。
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● 二つめです。
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ハクには、ちひろに「働きたいんです!」と宣言させることで油屋でのちひろの存在感を、もう一段、深化・固着化させる必要がありました。そのためには "ギャングエイジのグループ内で通用する名前≒呼び名" がどうしても必要になります。

本作は、ちひろの "発達" を "働く" に置き換えて、アイデンティティーの形成を表現しています。働くを「目的に適った役割」 「責任感をともなった任務」と読み替えると意味がちびっと理解しやすくなりますね。
例えば、釜爺がちひろに「しまいまでやれ!」と叱っていましたが、まさにこれですね。ちひろがすべきこと(行為)は、彼女の意識と態度(目的と存在)を明確化させることです。この三つをまとめて示している素敵な言葉ですね。
さすがは釜爺! 釜爺に繋いだハクもさすが! 釜爺まで辿りついたちひろもすごい! 引き継いだリンもかっこいい!

さて、油屋で働くためには、契約という儀式、署名というセレモニー、名前を改変する魔法が執り行われなければなりません。この演出・お作法によって、ちひろは千という名前(≒新しい記号)を手に入れて、初めてギャングエイジのグループに入ることが認められます(集団化の入り口に立てる)。また両親とも完全に分離されます(名づけの親の変更)。こうしてようやく千尋の想念世界のなかで、ちひろの新しい名前が、千として与えられるのですね。
湯婆婆との契約を済ませたことで、ちひろは晴れて千となり、油屋での居場所が確定されます。居場所というのは働く場と寝床(昼と夜≒時間)を手に入れること、おまんまにありつけるということ(命の存続)ですね。千は千としての意志と選択で、"自分の生きる意味(=意識性と主体性)" を創っていく入り口に辿り着くのですね。
新しい名を持つ。これが契約の二つ目の意味あいですね。このお作法が、"最終段階の分離" です。ついに千は、ちひろ、千尋、両親から神隠しに遭うのです。
やっと「千と千尋の神隠し」に行き着きました。よかった♡

念押ししますが、すべて千尋の脳のなかでのできごとです。これらのお作法で、千尋はちひろに深化し、千にも深化して、三位一体で体験し体得し行じていくのです。ここでの積み重ねが千尋の力の源泉としてストックされていくのです。視聴者は、千がどのようにして主体性と意識性を創り上げ、心を豊かにしていくのか、10歳の壁をどのようにして乗り越え、力を蓄えていくのかを見ることになり、やがて終幕のスクリーンで千尋の成長を我が事の成長のように感じることになるのですね。
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★ 千は、ちひろの意識の核心で、千尋の意識の中核です。
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千は、湯婆婆や釜爺、カオナシやリンから、「千!」と呼ばれているときは自分がちひろだとは思っていません。千のまま素直な気持ちで自分に向き合っていますね。千は、下働きをしながら従業員や神さまと関わるなかで、もまれ、叱られ、どやされ、励まされ、支えられ、褒められます。それは両親や学校の友だちからは得られない全く新しい体験でしょう。
千は、仕事・ハク・両親に対して "責任と目的" があります。ポイントは、誰かに何とかしてもらおうという受け身の気持ちではなく、自分に何ができるだろうかという能動的な気持ちの変化です。
おくされ様の一件では、油屋での立ち位置、とくに集団のなかでのポジションをガラリと変えました。なにせ湯婆婆に、全員にいっぽんつけさせたのですから。
カオナシの一件では、湯婆婆にとっても、なくてはならない唯一無二の存在になりました。だって大事な坊を連れ戻したわけですから。
でも、千のアイデンティティーの凄まじさは、湯婆婆の指示どおりに働くのではなく、自分の意志と判断で職場離脱までしてしまうのです。
こんなこと "発達前" の千尋にできたでしょうか?

● 片道切符の電車は、転校先の学校への通学路を彷彿とさせます。

線路の周りの風景には、認識できる建造物はほとんどありません。道中の大半は海面(水面)です。ごくたまに街らしいものが現れても、あっという間に通り過ぎてしまいます。風景もそうですが乗客の姿も同じです。千の目にはぼんやりとしか見えていないようです。
実は、逆で、千が目の前のやるべきことに集中していて、あれやこれや雑多なことを目に入れる必要はないという覚悟を示しています。同時に、この郷愁感あふれる情景は、千の9歳までの心象風景であり 彼女の主観であり、"発達" 前の舞台であり、キャンバスでもあることを示しています。壁を乗り越えた後の千尋は、きっとたくさんの美しい風景を描き、建物を創り、友だちの姿をありやかに見ることができるはずです。

● 釜爺ですら怖いと噂する銭婆は、千尋がまだ見ぬ先生や同級生との "ふれあい" を予感させます。

千が電車から降りた時は、辺りはいよいよ暗闇に包まれ、案内する明かり取りも一本足の異形です。でも、すでに千の心は定まっていてとても落ち着いているように見えます。
千は、坊を励ましますが、逆に坊に拒否されます。このやり取りのシーンは千にとっても坊にとっても重要な意味があります。千はこの電車旅でギャングエイジのグループの中でリーダーを張っているわけですが、心細さもいくらか抱えています。千の様子をようく見ていると、最初は無口でしたが、自分への問いかけ、仲間への励ましへと変わっていっています。これは、先生方、同学年、同学級、班活動などの集団との関わりあいに必要なスキルでもありますね。
そんな思いを抱えながら、知らない場所、知らない人、知らないこと、そして知れない自分の未来に向かって、変わりつつある千の姿なのです。

● 千は、銭婆が髪留めを作り上げるまで待たされるのですが、途中からハクと両親のことが心配になっていよいよ戻りたくなるのですね。この場面は、千の心の "発達" の芽が、古い自我の殻を突き破って地中から出てくる直前の状態を示しています。千は "自分の意志と力で、地上の空気を胸いっぱいに吸い込みたい" のです。芽吹き(≒発達)は、魔法の力ではなく、生き物に備わっているDNAであり、自然の摂理なんですね。壁を越えたら自分の足で歩きだすだけです。好きとか嫌いとかではなく、正しいとか正しくないとかでもなく、自分を信じ人を愛する。これが銭婆から千尋に手向けられた髪留めの意味ですね。

● 坊がやたら大きいのは、湯婆婆が坊の "4歳の発達" に "蓋をしていた" からですね。坊の "発達" はとっくに4歳の壁を乗り越えようとしているのに、湯婆婆によって "発達" の芽が摘み取られていたので、いつも不機嫌で赤ん坊の姿で留め置かれ、ため込まれたエネルギーによってブクブクに太ってしまったのですね。そんな坊を外に連れ出した千は、坊の "発達" にとっては代えがたい人です。千のおかげで坊もギャングエイジへの切符を手に入れたのです。坊は湯婆婆に言っていました。「面白かったよ。」と。
"発達" は苦しさやしんどさを伴うものだけれど、面白いことでもあるのです。
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★ "発達" 。普段は耳にすることのない言葉ですね。
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 発達心理学では、それぞれの年齢に "壁" という概念があり、壁を乗り越えるには矛盾と葛藤に向き合う莫大なエネルギーが必要なのです。その実相は幼い自我との戦いです。自我は頑固で矮小で無知。なかなか自らを変えようとしない強敵です。でも内面の世界を広げようとするなら外の世界との衝突は避けられません。そこで必要になるのが新しい自我。心技体、知情意を "統べる能力" です。
要素分解すれば、柔軟性(新しい価値感を柔らかく受け止める)、自在性(相手や条件に合わせて自分のやり方を少しずつ変える)、発想の転換力(謙虚な気持ちを知り恥ずかしがらずに教えてもらう)、分析力と決断力(いろんなことを考えてその時々に一番いいと思うことを選ぶ)、責任能力(素直に謝れる、できる範囲でリカバーする)ですね。これらを体験し体得し行じていくことが自分自身の "発達" を自分で担保することに繋がります。
この力。一般的には "ノウハウ"。仏教では "宝珠"と呼びますね。

"発達"の大きな壁は、1.5歳→4歳→10歳と現われます。勿論、思春期、青年、壮年、老年期にも現われます。タイミングも、乗りこえ方も、個人差があります。焦らず欲張らずに一つひとつ獲得していけばいいのですね。
心理的な "発達" は、身体的な "成長" とは違って目には見えません。"自覚も、実感も、意識化も" まず不可能です。でも、その壁を乗り越えることができれば一段高い舞台から世界を見渡せるし、新しいシナリオを読み込む力を手にすることができるようになります。でも手にすることは簡単ではありません。ステージでライトを浴びたい、自己新記録を狙いたいと思うなら、深く自我に向き合わねばなりません。
千も、働くことを通じて刻苦勉励し、消化・血肉化してようやく突破したのですね。

● 千の "発達の様相"は、ちひろにも千尋にも、感じたり意識化することはできません。

千尋はちひろを認識することは可能です。ちひろは千尋の心そのものなのですから。でも、千尋のなかにいる千を感じ取ることは不可能です。いるのかいないのかそれさえも全然分かりません。そもそも千は "潜在意識" なのですから。
そう思うと、千尋には、千の思いや体験や "発達" を感知できっこありません。感知できっこない千が、千尋よりも先に10歳の壁を乗り越えてしまうのです。置いてけぼりにされた千尋は、自分の中でいったい何が起きたのかさっぱり分からないでしょう。千尋がちひろに問いかけても、ちひろにも千のことは分からないのです。この "分からなさ加減" は、まるで今の今まで、あたかも "神隠し" に遭っていた千が、いきなり千尋の前に姿を現わすようなものです。
おかしいですよね。感知できない千が、ちひろと千尋に影響を及ぼすなんて。ところが千尋とちひろにしてみたら、いつのまにかそれまでの弱気や怖気を乗り越えてもう一歩だけ足を前に踏み出してみようかなという気分になるのです。これが肉体であればトレーニングの結果という実感を持てますが、心理的な "発達" にはそういう分かりやすい実感は持てません。
壁を乗り越える(="発達")とは "生きづらさへの気づき→矛盾と葛藤に向き合う気持ち→新しい価値観の獲得" という内面性のはたらきです。これらを具体化するお作法がギャングエイジの営みの中にはたくさんあるのです。

● 本作は、千尋の心理的な "発達のさま" を、千という存在を創り出すことによって描き出しています。

千は、ちひろとも千尋とも違う立ち位置で10歳の壁の乗り越え方を体感・体得・行じてきました。それがフィードバックされてちひろを変え千尋も変えました。彼女はすでに顔をあげ視線はかなた先を見据えています。飛躍のときです。
テーマは同じでも、文学と心理学では "発達" を表現するに大きな違いがあります。本作が絶大な人気を博すのは "発達" への文学的追求とクオリティーが、緻密で滑らかで心情に溢れているという証左でしょう。ですから視聴者の意識も、抵抗なくトレースできるし、共鳴・共感しきってしまうのですね。
そう考えると幼い千尋がコハク川に落ちた瞬間から、この物語のシナリオが生まれていたように思えます。千尋は覚えていないだけで、千とハクの物語は記憶の奥底に "神隠し" されていたのです。自我を深く見つめる力を身につけた千は、龍神の "力" の象徴でもある角に触れることで、身体を岸まで押し上げた川の "力強さ" にその由来を探し当てます。ハクもまたちひろのおかげで本当の名を見つけ出します。2人は歓びの邂逅のまにまに空を翔けあがり、さらに再会を約束しあう未来にまで届く自我を創りあげたのです。
「ちひろ、ありがとう。」、「嬉しい。」という会話。ちひろとニギハヤミコハクヌシが手を取り合いながら涙するシーン。お互いの "発達" の歓びを象徴しています。"発達" を難しく感じる必要はないのです。すべてちひろと千とハクがナビゲートしてくれます。3人をなぞればいいのです。あ、油屋の皆も挙(こぞ)って応援してくれますよ。
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★ どうして両親は豚の群れの中にはいなかったの?
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私は、両親は、"最初から向こう岸の建物の前で千尋の帰りを待っている" と解釈しています。

千の "発達" に伴ってちひろにも "発達" がもたらされました。2人の意識は同化し、統合、強化、明晰化されていて、油屋の橋のたもとに降り立ったちひろは既に新しい舞台に立っていたと思うのです。
ですから、両親を頼らなくてもいいくらいの自我が芽吹いていましたし、わざわざ油屋の玄関先から両親の腕にすがって帰りたい気持ちは露ほどにもなかったのですね。

ここにきてとんちのような答えなのですが、湯婆婆は千尋の作った想念世界の住人、意識だけの存在です。千とちひろは "発達" の壁を乗り越え、以前の弱い存在ではなくずっと強い自我を獲得しているので、既に湯婆婆の支配の及ばないレベルになっているのですね。ですから、ちひろが強く意識するだけで "事はすべて足りる" のです。「ここにはお父さんもお母さんもいない」という宣言は、ちひろ自身に向けた "親離れの宣誓" なのですね。

契約(≒人を雇う≒未熟さをありのまま受け入れる)とは、千尋の意識が作り出した "発達を担保する約束" です。千尋(上部意識)が銭婆(中位意識)に託し、銭婆が湯婆婆(下位意識)に託したのですね。それは同時に、千とちひろの活躍への "信用保証≒手形" でもあります。銭婆は "愛≒キリスト教の側面" で、湯婆婆は "掟≒律法≒ユダヤ教の側面" で、千を見守ったのです。何だか古神道の多様性+西洋の規律と愛という "人類の文化の統合" を感じます。

"発達" とは "統べる力の獲得" です。心技体。知情意。過去現在未来、我.人.世間。多くの価値観をインプットし、TPOに適うアウトプットをしていく時には "信愛と自律" を基礎にする必要がきっとあるのでしょうね。

● ちひろはなぜ立ち止まり、でも振り返らなかったの?

彼女は歩くたびに現実世界の千尋に近づいていきます。その一歩一歩に今までの自分には感じえなかった力強さに不思議さを感じ、油屋での物語を確かめたくなったのでしょうか。徐々に薄れていく物語には、いったい誰がいて何が起こっていたのか、その足跡をもう一度見たいと思ったのでしょうか。
でも彼女はそうした感情をグッと抑えて、ハクとの約束にだけ意識を向け一拍の間を取れるようになっていました(体感)。この瞬間、ちひろが千尋の中に戻り、くっつき、"霊・止" になり、"信愛と自律" を肉体に取り入れて(体得)、その表現もできた(行じる)。
だから千と千尋の神隠しの物語も "終わりを迎えた"。私にはそう思えるのです。

ここでいう神とは、ギリシア神話の "オルフェイス" 、古事記の "伊邪那岐命" です。両者とも愛する妻を想って?ではなく、本質は自分自身の猜疑心に負けたのです。でも千尋は振り返らず、神にも宿る弱い心を乗り越えたのです。
宮崎氏は、千尋の自我の形成の姿を通して、豊かな可能性があることを子どもたちに伝えたかったのですね。
それを示したのちに、ついに千尋は振り返り、"自分の物語" を心に刻みつけるようにして強く見定めるのです。きっと過去への未練はすでになく未来への希望だけを信じているのでしょうね。
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★ ギャングエイジのインパクト。
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本作が多くの方に感銘を与え、今も支持されている理由を考えてみました。

それは本作が、ギャングエイジにとっての "バイブル" になっているからであろうと感じています。
世界中で高い評価を得ているのも、"発達" が人類共通の "進化の壁" であるがゆえに、世代も人種も越え、国境すらも越える "普遍的価値" として、真っ直ぐ伝わるからだと思います。

かつて、だれもがギャングエイジでした。
ですから、だれにでも、強いインパクトが感じられるのでしょう。
そのインパクトを "いつも、何度でも" 与えるくれるのは、あなたのなかに神隠しされている "千とちひろ" なのかもしれませんね。
{/netabare}

★ ジブリさんへ
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劇場版の最後の1分のシーンをカットした円盤。叙情性が削がれていて作品性が台無しになっていますよ。
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長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2018/11/18
閲覧 : 546
サンキュー:

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