「魔法少女まどか☆マギカ(TVアニメ動画)」

総合得点
90.9
感想・評価
10568
棚に入れた
37372
ランキング
44
ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

少女の無垢な愛と実践を、素のままに受け入れられるかどうか。その感性と行動が問われます。

内容のある作品で、どんなふうに捉えるのがいいのか思案するところが多くて、悩んでしまいますね。でも、楽しめました。いい作品ですね。

個人的には、ゲーテの「ファウスト」がベースになっているように感じました。
それに、デウス・エクス・マキナとしてもいろいろ話題がありますね。

私は、このデウス・エクス・マキナに焦点を当ててレビューをしてみようと思います。
よろしくお願いします。


● デウス・エクス・マキナについて。
{netabare}
私が、本作を最高評価にするのは、デウス・エクス・マキナ(のように見せているシナリオ)に、もう一段デウス・エクス・マキナ(のように見せているシナリオ)を重ねていることです。
加えて、大どんでん返しがいくつも仕掛けられ、小さなどんでん返しは数知れず。
SF魔法ファンタジーとしては珠玉の作品でしょう。
これらの仕掛けだけでも、評価に値すると思っているのですが、私は、あえて、その先にあるものを述べてみたいと思います。


まずは、デウス・エクス・マキナ。deus ex machina

演劇用語で、演出技法の一つです。

歌舞伎などの演劇では、舞台の "奈落" から "せり上がって登場する" おおたて者が、スポットライトを浴びて見得を切る姿が見られます。観客は意表をつかれ、息をのみ、やがてどよめきたちます。いよいよ大団円を迎える最終幕。とびっきりの見せ場ですね。
人情味あふれる台詞遣いと、派手な大立ち回りに、溜めにためていた観客の情動は、万雷の拍手となって沸き上がって、喝采はいつまでも鳴りやまず、おひねりが飛び交って大盛り上がり・・・とまあ、そんな場面をTVなどでご覧になられたことがあるかもしれません。
この "奈落" 。人力と機械仕掛けで動かす舞台装置のひとつです。

デウス・エクス・マキナとは、このような「機械仕掛けの(舞台装置を使って登場する)神」という意味で使われています。

古代ギリシア時代の演劇では、実際に機械仕掛けで "神" を演じる役者を登場させたようです。歌舞伎のような "奈落" ではなくて、"宙づり" だったようですが。それがいつのまにか転じて、演出技法の一つとして確立したようです。

ここでいうところの "神" とは、舞台や劇中で、混沌となった局面に対して「神の声(神の風ていをしたキャラクター、または、神の声を演じるナレーション)」を発することで、一気に収束に導き、物語を解決に向かわせるという "演出技法" のことです。
悲劇ものによく使用されました。物語が混沌となりやすく、収拾がつかなくなりますから。
今から2500年ほども前から使われていた "よくある" テクニックのひとつです。

有り体に言えば、" わたしの鶴の一声で全部なかったことにしてあげるから、ややこしいことはもうお終いにしましょうね。今までのシナリオの流れも、これからの脚本も、もうどうでもいいからね。理屈も、納得も、感動なんてしなくても、そんなのどうでもいいからね。もうなんの関係もないからね。ささ、みなさん、もうおうちに帰ってね~。" ということです。

よく、"どんでん返し" という手法もありますが、これは、「びっくりしたけど、次はどうなっていくの?」という "あとの展開が盛り込まれています" から、デウス・エクス・マキナとは違いますね。


本作を観て、最初に思い浮かんだのは、鉄腕アトムです。最終話の展開がちょっと似ていました。と言ったら手塚治虫さんに叱られてしまいますね。ごめんなさい。

ここで、ちびっと、Wikipedia から引用しておきます。
『アリストテレスは、演劇の物語の筋は、"あくまで必然性を伴った因果関係に基づいて導き出されていくべきである" とし、行き詰った物語を、前触れもなく、突然解決に導いてしまうこのような手法を批判している。現代においてもまったく評価されない手法である “夢落ち” は、デウス・エクス・マキナであり、手塚治虫はそれを禁忌とした。』とあります。(ちびっと加筆しました。)
{/netabare}



● 鉄腕アトムについて。
{netabare} 
当時(1963年~)、もし、"あにこれ" があったら、大変なことになっていたと思います。

地上波、ゴールデンタイム、193話~。
国民的な大ヒーローでもある彼が、いかに人類を救わんとしても、大陽に突っ込んでいくなんて、あり得ないことです。
テレビ局には、「彼を死なせないで」との電話が多数寄せられたと言います。


彼は、デウス・エクス・マキナを否定しています。

彼は、人間の裏と表、心変わりや心移り、善は善でなく悪も悪でなしなど、0と1で処理しきれないことに苦悩?もする、すごいAIロボットです。
しかも、極悪非道、残忍冷酷、背徳没倫、不義不正。
そんな人間、どんな人間でも、彼は、助けるべき局面に立てば放っておくことはできない徹底的な人本主義(人間本位)のキャラなんです。
つまり、彼の最終命題は、"人間の命を守ること" なんですね。

手塚氏の出自は "生命の尊厳" ですから、アトムにも "人類の命を守ることが第一" みたいなところがあります。だから、人類に危機をもたらすものが太陽であっても、彼がとるべき道は一つしかないのですね。

彼には、戦争を否定する精神文化が根底にあります。
常日頃、粉骨砕身して汗水たらすアトムの思想には、太平洋戦争の敗戦で得た日本的な「基本的人権の尊重」がプログラミングされています。だから、どんなに小さな損得や強弱にも、そこに関わる人間の生き様に思いを馳せることができます。あるいは、国家という大きなイデオロギーの善悪にも同じ扱いができます。そのうえで、あらゆる価値を超えて、人権にフォーカスして、主体的に判断し行動ができるのです。彼は、突出したヒューマニスティックなシンボルといえるでしょう。

そんな彼が対峙するものは、決まって人間の行動の不条理さです。言ってみれば人間の愚かさです。彼は、そんな人間にいつも割り切れなさを感じています。でも、彼の心根には、グレーを黒と言い切れない、嘘つきを悪者と見なしきれない優しさがあります。
最終話において、その選択のはざまに立ったとき、"自分はどうすべきか" という自分への問いかけに答えなければならなくなりました。
彼のフィロソフィーでもある "科学・正義" を、愚かさを内包する人類に寄せるのか、それともさらなる高次元の宇宙の摂理に寄せるのか。
悩みぬいた彼の答えは、"人類の明日と未来を信じる" でした。



アトムは、悩み苦しむ科学の子なのです。

これは、その後のロボットアニメのルーツになっています。古くは鉄人28号、マジンガーZ、サイボーグ009、宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダム、エヴァンゲリオンなど、みなアトムの倫理観を踏襲していたと思います。彼らのギリギリの選択はいつも "人の命を守る" です。金田君、兜君、島村君、古代君、アムロ君、シンジ君。皆さん、性格はいろいろ、悩みもさまざまでしたが、落ち着くところはみな同じでした。

対峙するものは、地球人、宇宙人、人格を持つ何か、そして太陽など、多種多様でした。彼らの "使命感" とか "自負心" とかは、台詞の中には確かにありましたが、最終的な着地点は、お世話になった人たちへの "感謝の念" とか、未来への責任と貢献につながる "自尊心の発露" だったような気がします。彼らが、広く少年少女と国民の前で、主人公たりえていたのは、いつも彼らの前に、人類と、人権の概念と価値を揺るがすことなく据えていたからです。

SFベースのロボット系の作品群にあって、アトムほど、"道徳的規範性" において抜きんでているキャラクターはいません。事実、その後に登場するほとんどのロボット、または、その操縦桿を握る主人公たちの人間性に、アトムの性質や思想性が深く投影されているところを見れば、彼の影響力の絶大なことを感じます。

彼らのメンタリティーには、ときに、絶対的な神を "感じて語りかける" とか、奇跡を "信じて行動を起こす" とかのプロセスはあったとしても、しかし、肝心の神は登場することはありません。日本の神の役割は、じっと見守るものであり、キャラクターの不断の努力にそっと後押しをするものです。

ですから、キャラクターらが腹をくくったとき、あるいは、半歩だけ前に踏み出したとき、その結果、傷つき、倒れ、もうダメかも・・・という刹那に、必然としての支援、援助、援軍、秘密兵器の登場という "大逆転のシナリオ" が生まれます。
大団円における水戸黄門の印籠然り、ウルトラマンのスペシウム光線然り。それが日本ならではの感性と情緒性に訴えかける文化的演出、技法です。

なぜなら、前ふりとして、因果関係や物語性をじっくりと温めておかないと、作品への深い共感を得られないからです。作家や脚本家は、作品に魂と生命を込めます。どんなに薄いペーパーバックであっても、安直に、意味もなく、天照大御神は登場しませんし、させません。

天照大御神ご自身が、天岩戸にお隠れになられたときは、八百万の神がこぞって寄り合い衆議して、天鈿女命(あめのうずめのみこと)がおっぱいを露わにして、お腰の紐を危ういところまで下げてダンスをし、皆でやんややんやの手拍子喝采をして、そうして初めて、天照大御神が岩戸をちびっと開けたとき、天手力男命(あめのたじからおのみこと)がその手を握って、無理やり引っ張り出したという、そんなお国柄です。

古事記に描かれたこのシーンは、デウス・エクス・マキナなどの小賢しい介入や改変などが、全くナンセンスであることを示しています。
天照大御神以上の神様を、いきなり登場させて、「もうお終いよ~」なんてことをしたら、天の岩戸は永遠に開かなかったと思います。そんなことになったら、真っ暗闇のままで、シナリオは書けない、台詞は読めない、表情は観られない、入場料金は数えられない、で、もう考えられないですね。

西洋的な演出、特に、デウス・エクス・マキナのように、偶然に、唐突に、突然に、脈絡もなく、いきなり神の意志が働く演出なんて、全くの興ざめ、ナンセンスの極みです。そんなのは、脚本やキャラクターへの冒涜です。
必然と、伏線と、紆余曲折と、難行苦行があって、人の心に共感が生まれて、心が動き出して初めて、素晴らしい!と感動できるのが芸術作品の良さです。

ですから、日本の物語の "根幹" には、デウス・エクス・マキナは存在しないと思います。もし、それがあったとしたら、あにこれの評価は☆1個になっていると思いますね。
私は、本作品があにこれで高い評価を得ていることは、日本的な演出に適っているからだと思っています。
個人的な私見ですが、本作において確かに "神は降臨していない" と思います。ただ、まどかというキャラクターを通じて、"神に通じる表現" はあったと思います。そこがうまくレビューできたらいいなと思います。
{/netabare}



● ゴジラについて。
{netabare}
彼の役回りは、核兵器や放射能へのアンチテーゼでした。

圧倒的な暴力性、問答無用の破壊力、手の付けようのないアンコントロール性。平和利用に限ってですら彼の前では、安全神話など脆くも崩れ去ってしまいます。
ゴジラは、地球にあってはならない、人類にあってはならない "リスクの象徴" です。

ゴジラも、デウス・エクス・マキナを否定しています。

ゴジラに対しても、なかったことにできる神など、どこにもいません。然るに、かの大統領も、かの宰相も、ゴジラが再生すれば、そこが東京・新宿であっても、核兵器で攻撃をするといいます。(実写版の話ね。)
生ける放射能の塊(ゴジラ)に、核(ICBM)をぶつけるなど愚の骨頂ではありますが、それが、かの国の為せる業であれば、まさに、臭いものにフタであり、腐ったミカンは捨てよであり、なかったことにしようとする最低のデウス・エクス・マキナです。
それは、平和な日本への妬みなのか、あるいは、核兵器にどこまでも依拠する人類の愚直さと傲慢さへの批判なのか、ちょっと考えておく必要があると感じます。

神ですら、そんなシナリオは創らないでしょうし、そんな演劇を見せつけられたら最後、ブーイングの嵐、観劇料金の返金を求めるでしょう。いや、精神的被害を被ったとして、損害賠償ものかもしれません。
人類が2500年もの時間をかけて作り上げてきた文化的価値はいったいどこに吹き飛ばされたのか。つくづく、人間という生き物は業の深い存在です。

ゴジラには、核兵器を肯定する思想の裏返しの役割があります。と同時に、核兵器の廃絶がなかなか進まないことへの鉄槌の役割も象徴しています。

どれだけ文化が育まれ、繁栄があり、故郷があっても、核兵器の名代たる彼は何度でも日本の国土を蹂躙するのです。政府や自衛隊は必死にコントロールしようとしますが、彼は平然として海底の塒(ねぐら)に還り、またいつか、怒涛の如く押し寄せてくるのです。
人間は、電車をぶつけて彼を一時的に止めることしかできないのです。

ゴジラという存在自体がアンコントローラブルな禁忌の神。
すなわち核の存在なのです。


哀しいかな、そんな彼を、外国の方は冷たくあしらっています。一時は恐竜風情に身を窶(やつ)され、カイジュウと戦うのが関の山でした。それはショウみたいなものです。でも、もし彼(核)が "核施設" を襲撃するシナリオが書けたら、それは楽しいショウではすみません。彼は、原子力発電所の平和利用の意味など考えないし、核兵器の抑止力の理屈も知らん顔で暴いてしまう存在なのですから。外国の方にとっては、核兵器こそが太平洋戦争の終結を早めた最高の技術であり、現代の世界の平和を維持できている "魔法" でもあり、"神" でもあるのです。決してゴジラごときに "神" の正体と、その振る舞いを白日の元には晒さないでしょう。なぜなら、その"神" こそが、デウス・エクス・マキナだからです。

どれほど貶めようとしても、辱めようとしても、ゴジラはデウス・エクス・マキナを否定し続けます。何度でも、いくらでも、"その神の存在" の脅威となり、"その神" を凌駕します。なぜなら、"その神こそが、人間のエゴに依拠している" からです。


ゴジラは、怒れる大地と海の子なのです。
{/netabare}



● ほむらについて。
{netabare} 

まどかのもつ膨大なエネルギーの背景には、ほむらの魔法(タイムリープ)に拠るところの "蓄積と凝縮" がありました。キュウべえがほむらに明かしたことです。

ほむらの願いとは真逆の結果です。まどかの選択肢を狭め、リスクを高めたのですから。ほむらは、キュウべえの提示する条件にまんまと乗せられてしまったのです。

ほむらは、まどかに優しくしてもらい、守ってもらっていました。だから、その恩返しです。彼女はとても良い子で、動機は確かに "善" でした。


そんな彼女が、どこで間違ってしまったのでしょう。

彼女はタイムリープの能力を手に入れることで、ある禁忌を犯したのです。
まどかの命を守るためという理由はあります。でも、それはほむら自身への冒涜。と同時に、まどかへの冒涜でもありました。
加えて、宇宙の摂理を覆し、神の意志にも反したのです。

それは死ぬことの放棄です。

本作は、神が創られた最も繊細なルール、禁足地でもある神の領域に踏み込んでしまったがゆえに、ファンタジー枠から追放され "汚名=ダーク" を被せられることになったのです。
そして、その扉を開けてしまったのが、ほかならぬ "ほむらその人" なのです。

その意味では、ほむらの視野が狭かったと言わざるを得ません。善は善でも "小善" という概念、いえ "独善" という評価のほうが的を得ているかもしれません。

キュウべえの種族のほうが上手です。命が1回きりの利用価値であることを理解していましたから。少女→魔法少女→魔女→消滅ですね。だからこそ、わざわざマイナスの感情を最大限に増幅させる手段をとったのです。少女がどんな大言壮語な願いを語っても、所詮は地球上での単発・使い切りです。そのほうがあと腐れもなし、事もなしです。
キュウべえの種族は、宇宙の摂理に反する時間操作のリスクをわざわざ取る必要はなかったのです。

でも、第三者にさせることはできたのです。現にほむらはやっています。しかし、それは宇宙の摂理に反する行為です。キュウべえたちは、自らの手は汚さずにほむらに汚れ役をさせたのです。ほむらは、キュウべえたちでさえも触れなかった方法を選んでしまったのです。

宇宙の摂理に反する行為に、どうして個人レベルの願いが叶えられましょう。結果、ほむらの願いは叶わず、まどかの死を看取り続ける無間地獄に陥ったのです。自らの選択であるにせよ、責任の取りようのない事態を創り出してしまったことのジレンマ、ストレス、愚昧さに、ただならぬ重さと、背筋の凍るような冷たさに冒されて、ほむらの魂は彷徨い、阿鼻叫喚に苛まれることになります。

ほむらを擁護しますが、彼女にとっては、"まどかに魔法少女になることを選ばせないこと" が命題です。まどかが魔法少女である限り、"ワルプルギスの夜" はまどかを敗北に追いやり、命を奪うからです。だから、ほむらは、そうさせないため、輪廻を断ち切るために、タイムリープのできる魔法少女になったのです。ひとりぼっちを恐れず、たったひとりぼっちで命題と宿命に立ち向かったのです。


ほむらは、信義に厚く孤立を恐れない勇気の子です。


ほむらのタイムリープは、なぜ、まどかを救えないのでしょうか。
宇宙の摂理とは何でしょうか。
彼女の決断も、努力も意味がなかったのでしょうか。

★1
ここに、まさかの "デウス・エクス・マキナ" があります。
{netabare} 
ほむらの能力は、タイムリープ。時間を操ることです。

それこそが、「なかったことにする」禁じ手。ほむら自身の墓穴です。
それゆえに、「まどかを守る=魔法少女にさせない」という目的も達成できません。

ほむらの願いは、気持ちとしては受け止めたいと思います。本作がファンタジーなればこそ、ほむらの願いを受け止めたい。

ですが、タイムリープの本質が、デウス・エクス・マキナである以上、彼女はそれを繰り返すたびに、まどかを苦しめ続け、死なせ続けるシナリオライターの役を担わなければなりません。彼女は賭場から降りられないのです。

ほむらは、彼女自身の絶望を、希望に置き換えるためには、"なかったこと" にするしかありません。
何度でも時間を彷徨い続け、新たな世界で失敗を繰り返すしかないのです。

私は、本作が、ダークファンタジーと評される本当の理由が、ほむらの選択にこそあると思わざるを得ないのです。
ほむらは、意図する、しないに関わらず、機械仕掛けの "神" の役を演ずることになってしまったのですから。


ほむらの禁じ手が、どういうシチュエーションを生み出すのかを考えてみました。

ここで、留意しておきたいことは、ほむらの願いは、"まどかを守る" ということです。まどかにとっての盾、防御、ディフェンドするということです。ということは、"ワルプルギスの夜" への攻撃、鉾、オフェンスではありません。ほむらにとっては、まどかが主。"ワルプルギスの夜" は従です。

そして、ほむらが守りたいまどかは、魔法少女になっていないまどかです。ということは、"ワルプルギスの夜" に対しては、絶対的な攻撃力をほむらは持っていないということになります。そして、その状態で、まどかを守らなければならないということです。

ほむらの選択そのものが、ほむら自身に勝ち目のない戦い、エンドレスな戦いを繰り返す宿命を背負わせることになってしまったということです。その結果としてのまどかの死です。


まどかが魔法少女を選択すれば、もしかしたら、2人で "ワルプルギスの夜" を倒せるかもしれません。でも、その選択自体が、まどかを魔女にさせてしまう可能性も生まれてしまいます。それはほむらの本意ではありません。まどかが魔法少女になることは、ほむらの選択肢にはありません。

万が一にも、まどかが魔法少女を選んでしまえば、"魔法少女ほむらと、魔女まどか" が対峙しなくてはならなくなってしまう状況が生まれるかもしれません。その可能性は、0%ではないのです。
せっかく、2人で "ワルプルギスの夜" を倒せたとして、そして、まどかを守ることができたとしても、そのまどかと戦うことにつながるなんてことになってしまったら、ほむらには耐えられないでしょうね。

では、逆に、まどかが魔法少女を選ばないケースはどうでしょうか。

ほむらには "ワルプルギスの夜" に勝てる見込みはなく、しかも、キュウべえの言う "宇宙存続のシステム" も変わることはありません。それは、キュウべえのリクルートが、まどかに対して、永遠に繰り返されることでもあります。

ほむらは、当初、まどかにとても冷たい態度をとっていました。そこにほむらの狙いがあったと思います。魔法少女の印象を悪くするためです。事実、まどかの目の前でマミが殺されたのですから、ほむらの狙いはほぼ成就しかけていたのです。ところが、ほむらに誤算があったのは、まどかの母親の存在です。まどかは、母親から人間の生き方を学んでいました。しかも、ほむらは、まどかと母親との会話の中身を知りません。つまり、まどかの人となりの深い部分を知らないということです。となると、ほむらの意図はまどかには通じない恐れがあります。

加えて、まどかはキュウべえの口八丁のリクルートを受け続ける可能性があります。
まどかのなかに母の考えが投影され、キュウべえの理屈になびき、それをまどかが望ましいと思う限りにおいて、まどか自身の手の内に選択権があります。ほむらがどれだけタイムリープを繰り返してまどかの翻意を願っても、まどかの心にあるものを追い出すことはできません。


そして、もう一つのシナリオは、"ワルプルギスの夜" の暴発によって、魔法少女になる前に、まどかが死んでしまうかもしれないということです。これもまた、ほむらの願いは叶いません。また、タイムリープを繰り返すのでしょうか。


では、仮に、ほむら一人で "ワルプルギスの夜" を倒したと考えてみましょう。

残念なことに、やはり、ほむらの願いは叶いません。
第2、第3の "ワルプルギスの夜" が登場する可能性があるからです。

少し、ややこしい理屈になります。分かりにくかったら、ごめんなさいね。

もし仮に、ほむらとは違う誰か(Hさん)が、ほむらと同じような願い(タイムリープ)を持てば、ということです。
そうなると、まどかとは違う誰か(Mさん)に、まどかと同じような役まわり(巨大な内的エネルギーを持つこと)をさせることが想定されます。
ひいては、その誰か(Mさん)が魔法少女となり、やがて魔女となって、ついには、第2、第3の "ワルプルギスの夜" になる可能性があるのです。

つまり、本作の構造上、"ワルプルギスの夜" は、単体であるとは限らないわけです。しかも、その魔女が、 "ワルプルギスの夜と同等の魔女" あるいは、"それ以上に強大な魔女" であれば、だれも倒せないのです。もし、その魔女がまどかと出会うことになれば、まどかが襲われ、死んでしまう図式は、やはり消えないのですね。

"宇宙の存続のシステムの維持が、絶対唯一の価値基準である" ことに、直接、触れない限り、ほむらは、未来永劫、無間地獄に陥ってしまい、自分自身が作ったタイムリープから抜け出すことができなくなってしまいます。
ほむら自身には、解決策は見いだせず、その苦しみが永遠に続くことになります。

まさかのデウス・エクス・マキナであるにもかかわらず、舞台の収拾はつきません。四方八方、幾重にも絡まりあうカオス(=混沌)は、解決の道筋を見出せない手詰まり状態です。
ほむらの 小さな "善" の種から生まれた大きすぎる "業" 。しかも、ほむら自らが刈り取ることは叶わないカルマなのです。

{/netabare} 
{/netabare}



● まどかについて。
{netabare}
まどかは、あふれる愛念と慈愛の子です。

彼女も アトムと同様に、"利他愛という高次元世界への存在の道" を選びました。

彼女の願いは、すべての魔法少女を救うということです。と同時に、その選択は、すべての魔女を救うということでもあります。

まどかは、ほむらの無窮の苦しみ・悲しみに思いを馳せたとき、同じように、3人の友だちが、無慈悲に、無残に殺され、死んでいったさまに大きな違和感を抱いていたはずです。

夢をかなえたその代償が、魔女と永遠の殺し合いを繰り返すこと、に。
魔法少女が、ついには魔女となり、家族と友人・知人にいたるまで、危険と危害を及ぼすものになってしまうこと、に。
その一方的なシステムを作り出したキュウべえの種族の意地悪さと意地汚さに、。

まどかはいたいけな少女です。だから、その感性で捉えれば、そもそも、少女が苦しんだり、悲しんだり、辛い思いをしたり、人を呪ったり、恨んだりするようなことになってしまうことがおかしいのだと感じたのでしょう。そして、そんなことはあってはならないこと、変えなくちゃいけないことなんだということに、思い至ったのでしょう。
そこで、大元になっている契約そのものに違和感を抱いたはずです。

ほむらの苦しみを解消してあげたい。ほむらが、魔法少女となった約束ごと(=契約)そのものが、"どこか、なにか、おかしいことが決められていて(不利益条項にまみれていて)" 、そこを直さない限り、ほむらを救うことができない。そういうふうに思ったのでしょうね。

今、目の前にいるほむらの命が消えかけている。心が折れかかり、呻吟する苦しみに潰れかけている。その献身のなかに、まどかは、自分の決意と目的、そして手段を見つけたのだと思います。

ほむらは、まどかへの絶対的な献身を持って "ワルプルギスの夜" と対峙し、まどかの幸せを達成しようとしました。時空を超えてひたすらに。
だから、まどかも、ほむらへの絶対的な愛を持って、キュウべえと対峙し、ほむらを苦しみをから解き放とうとしました。時空を貫くひたむきさで。

契約の発動によって "ワルプルギスの夜" の存在そのものがなくなり、と同時に、歴史上の全ての少女たちを、無限と無為の苦しみから救済し、魂を浄化し、安寧と平穏へと導きました。

私は、この展開に大きな衝撃を受けました。そして深く感動し、感激しました。
モニターを通じて、まどかの愛念と慈愛の固まりがシャワーのように飛び出し、それは、あまりにも美しい、あまりにも温かな瞬間だったのです。
私は、そこに、まどかの愛念が、神に通じたのだと感じました。
自我を乗り越えた、無償の愛念にこそ、神の意志も働くのだと。


★2 
突然ですが、言霊遊びを。
{netabare} 
まどかが自我を乗り超えたときに、どうして神の意志が働くのか、ちびっと言霊に触ってみましょう。

神社にお参りに行くと、拝殿の奥の方に、丸くて大きい「お鏡」がデーンと置いてあるのにお気づきでしょうか。
あの「お鏡」。何のために置いてあるのかということですが、「自霊拝」と申しまして、「お鏡」の前に座り、自分の姿を写して、生き様や日々の過ごし方、人との接し方や仕事の仕方を振り返るためにあるのです。
常日頃の行ないは、どうだろうか?間違ってはいないか?直すべき振る舞いはあるだろうか?そんなふうに自分自身の霊体に問いかけてみて、我が身、我が心を正すわけです。

さて、言霊で要素分解をしてみます。
カガミと書きますが。その真ん中に、ガとありますね。このガは、我です。
我を乗り越える、我を虚しくする。我を表に出さないという表現がありますが、カガミからガを抜き出すと、カミ=神と読めますね。
このように、我をコントロールすることによって、心の内におわします神なる性質が現われやすくなって、繊細玄妙なる精神性が自ずと表に出てくる、あるいは、引き立てを受けやすくなるという意味になるわけであります。

まどかとほむらの違いは、集団と個です。

まどかには、3人の魔法少女と母親が身近にいました。だから、まどかの悩みと苦しみは、一人だけのものではなくみんなと共有できていた。集団で担いあい、時には分け合っていられた。その分だけ、まどかには、強い我を出す機会もなく、またその必要もなかったように思います。
反して、ほむらには、集団がなかった。なかったが故に、個であり、孤であり、固であった。我を強く持つ必要があった。

視聴なさる方、特に男性がほむらに共感を持たれるのは、そのあたりではないかと感じます。ほむらのまどかへの思い。それは、より困難な課題、ミッションに立ち向かうときのエネルギー。義と理と忠と信です。
ちなみに、女性であれば、仁と礼、愛と情でしょうか。

カガミに映る "我" をどう捉えるか、そのあたりも、"カミ" アニメたる理由探しの面白さかもしれません。
オシマイ。
{/netabare}

さて、キュウべえの種族にとっては、宇宙を維持させることが大前提なわけですから、魔法少女が一人も生まれないことは避けなければなりません。であれば、魔法少女が生み出されつつ、魔女化させないシステムに変えればよいのです。そうすれば、まどかとの "ウインウインの契約" を成立させることができます。

なにを、どのように変えたのか。
 "ソウルジェム" の代用品として、"キューブ" が用意され、"魔女" の代わりに "魔獣" が準備されるのです。そうすれば、地球上でのシステムを変えながら、宇宙維持システムは変わらないのです。

まどかは、それをほむらに語り、ほむらは、まどかの献身とその意志を尊重するでしょう。
まどかの実相は、ひとりの魔法少女から、宇宙の一局面を統括する別の次元世界の存在へと置き換えられます。それは、まどかの願いでもある、かつての魔法少女の魂を救済し、愛念の溢れる安寧の住まいを提供する役割を担うことになるのです。

まどかは、その溢れる愛念で、少女たちの汚された魂を浄化し、彼女らの悲しみにくれた想念を癒やし、虚無地獄の次元界から救い上げるという、宇宙次元の慈母になったのです。


このような、繊細でありながら重厚なストーリーを、都合のいい デウス・エクス・マキナと捉えて {netabare} しまったらいけませんね。ちょっと見だけなら、そういう シナリオに感じて {/netabare} しまいがちです。


★3
ちびっと、念押ししておきましょう。
{netabare}
実は、1話から始まる巴マミの件(くだり)と、途中から参加する美樹さやか、佐倉杏子の逸話が、すべて伏線となっています。

覚悟の上とは言え、彼女らの試行錯誤の四苦八苦は、まどかに多大な影響を与え、彼女の決意を醸成していきます。
まどかにとって、決定的なターニングポイントになったのは、ほむらの決意と覚悟に触れ、エンドレスなタイムリープを繰り返してきた一途な献身を知ったときですね。

視聴される方は、第1期のマミ編、2期のさやか編、3期の杏子編、4期のほむら編をご覧になっていて、それぞれの目的と挫折をご存知な訳です。それは、まどかという主人公が存在していてこその4つのパートであり、言うなれば、まどかを元糸として、4人の撚糸(よりいと)が深く絡み合っているということも承知なさっていると思います。

であればこそです。
第1話から始まっているさまざまな経緯が、伏線として組み込まれていることがきちんと演出されているからこそ、本作品のシナリオにおいて、まどかの選択と決意には、デウス・エクス・マキナが採用されていないことが理解できると思います。それは、脚本自体にも、デウス・エクス・マキナは書かれていないということです。

まどかの意志決定は、キュウべえとの正式な契約によって、正当な権利として行使をしたわけであって、"第三者の神" がいきなり出張ってきたわけではないのですね。

ここまでが、本作のデウス・エクス・マキナ(に見せているシナリオの仕掛け)の一つめです。
{/netabare}
{/netabare}



● まどかの契約が成立・発動したにもかかわらず、ほむらたちは魔法少女として存在していました。
{netabare}
なぜ、ほむらたちは、まどかの願いに反して魔法少女たりえたのでしょうか。
それこそ、都合のいいデウス・エクス・マキナなのでしょうか。

ここに、二つめのデウス・エクス・マキナ(に見えてしまうシナリオの仕掛け)があります。

先だって述べましたが、本作品には宇宙の存続という大きなテーマがあります。キュウべえの種族にとってみれば、ほむらやまどかが、魔法少女になること、魔法少女でいることは、宇宙の存続のための "システムの歯車" に過ぎません。その要(かなめ)が "ソウルジェム" ですね。

キュウべえは言います。「"ソウルジェム" は、効率がいい」と。

宇宙の存続のためには、地球の少女、魔法少女の生命エネルギーが必要です。それは希望から絶望への "落差から生じる負の感情のエネルギー" ですね。それを貯蔵する器が "ソウルジェム" です。
夢から虚へ、光から闇へ、清浄から汚濁へと墜落するさまは、もしかしたら巨大な台風の1個分のエネルギーに相当するのかもしれません。
これは、たしかに、キュウべえのいうとおり、非常に効率が良いやり方です。でも、「キュウべえの種族の側から見て」ということですね。

まどかの条件は、その効率の変更を求めました。ここで必要になったのが、「折衝」ですね。

では、もう少しテーブルを大きくして視野を広げてみましょう。
もし少女ではなく少年だったら、あるいは大人だったらどうでしょう。
ソウルジェムではなく、キューブだったらどうでしょう。
魔女ではなく、魔獣だったらどうでしょうか。
全て、代替案です。
この構造転換は、多少は効率が落ちるものの "代用品" としては、契約条項の改変の許容範囲内なのかもしれません。台風ほどではないけれど、竜巻くらいのエネルギーにはなるのかもしれませんね。(比較としてはちびっと変ですが。)

つまり、まどかの願った希望は、少女たちを魔法少女や魔女にさせないという限定的な発言でしたが、キュウべえ側は、それを踏まえて、宇宙の存続という絶対的なシステムの見直しの検討をせざるを得なくなってしまったのですね。

そもそもキュウべえは、インキュベーターという役割で、言うなれば契約締結のための営業マンです。主契約者は、地球の "少女" と宇宙存続のシステムを定めた "キュウべえの種族の誰か" です。なので、一営業マンのキュウべえですらも驚く、窺い知れないような契約条項が追加されるによって、全く別のシステムが起動・発動したと解していいのではないかと思います。

そのシステムにおいては、魔法少女の存在は "必要" になり、ほむらたちはその役割を全うしていくのですね。そして、使命を全うした先にあるのは、まどかが願ったように、魔法少女の穏やかな死と、まどかが創出した安寧な次元世界への招待なのでしょう。
そこにこそ、ほむらたち魔法少女の救いの道が垣間見えます。かつて、虚無のエンドレスを作り出したほむらも、タイムリープから抜け出して、まどかの愛念によって創造された終の住まい、魔法少女の魂の安寧が保証された次元世界への旅立ちがようやく叶うのです。

この新しいシステムにおいてのミソは、ほむらだけが、まどかの "想いを知っている" ということ。そして、彼女だけが、まどかが魔法少女から、別次元の愛の世界の創造主に相転移した "実相(=愛の溢れている次元世界)を見ている" ということでしょうね。
(と同時に、視聴者も、ほむらと一緒に、まどかの創造する初発の次元世界を見ているということもミソです。なぜか?ってですか。
それは、ほむらの "魔法少女ほむら☆マギカ" たる所以が、そこを起点にしてスタートしているからです。存在の発端、物語の初発を知っているということは、ものすごい安心感を持てるでしょ?)

さて、この所以(=ゆえん。理由。ほむらたちが新しいシステムのもとでも魔法少女であることの理由)が、由縁(=ゆえん。事の起こり。まどかの願いに添った宇宙存続システムのいくらかの改変の結果)として、"理屈が通っていると理解できる" ならば、それはもう、都合の良いデウス・エクス・マキナではありませんね。

まどかの願いは、一介の営業マンであるキュウべえにも理解できない、もっと高次な選択と判断があってのことです。そのもとは、あふれる愛念そのものなのでしょうが、感情を分析することの苦手なキュウべえにとっては、到底、理解のしようもないことです。
キュウべえは、何も知らないまま、まどかの意向を受けた新しいシステムの維持のために、ほむらたちとともに、ひたすらにキューブを回収する役目を負うことになります。
彼もまた "ひとつの歯車" となって、インキュベーターの役割を全うしていくのでしょう。

★4
ところで、もうひとつ、言及しておきたいことがあります。
{netabare}
"魔法少女" は、新に生み出されるのでしょうか。

"魔獣" は、人間のマイナスエネルギーの象徴であり、その実相としての造形物でもありますから、人間が地球にいる以上、永遠に生み出されてくるものと解すことができそうです。

作品の設定内では判断しにくいのですが、ほむらたち魔法少女に、穏やかな死が約束されているのであれば、システムの維持のためには新たな魔法少女は必要でしょう。そうなると、キュウべえは少女たちをリクルートし続けるでしょう。新しく魔法少女となった少女は、自分の夢を叶えつつ、魔獣狩りを終えたあとには、まどかが創出し、魂の安住が約束された次元世界へ旅立っていくのでしょうね。

また、ほむらが契約に基づいてタイムリープし続けるのであれば、魔獣狩りの役割を永遠無窮に担うのかもしれません。それは、まどかとキュウべえの種族との契約に基づいたシステムの一部かもしれません。

また、まどかとほむらの友情の約束による必然でもあります。
どういうことかと言いますと、ほむらは、まどかにたいする悔恨の気持ちと、贖罪の気持ちがあると思うのです。
悔恨とは、ほむらの能力でもあるタイムリープが、まどかの選択肢を狭め、そこにおいて、結果的に、まどかを追い込んでしまったことです。
贖罪とは、まどかの選択の結果とは言え、まどかの家族の記憶からは、まどかの存在は抹消されています。
母親が、"何か" を懐かしむ姿が切なすぎて、泣けてきちゃいますね。

その意味において、ほむらが、悔恨と贖罪の念を持つ、"理由と背景" になっていると感じます。
{/netabare}

さあ、この最終盤においても、すべてに整合性が担保されたシナリオになっていることが確かめられたのではないかなと思います。

こうして、二つめのデウス・エクス・マキナ {netabare} に見えがちな、実はそうではない確かなシナリオ {/netabare} に、きちんと収束していくわけですね。

これが、本作のもつ、二重構造のシナリオの面白さであり、高い評価を得ている魅力でもあると思います。
{/netabare}



● 最後に、虚淵氏によれば、本作は、『折衝と和解』というテーマを含んでいるということです。
{netabare}
私は、それこそが、デウス・エクス・マキナを、"2度も否定している確かな証左" であると感じます。

私たちの世界には、さまざまな国家、文化、宗教、歴史、科学、経済、政治体制をもつ多様な価値観の中に日々の生活があります。ひとり一人の暮らしの中にさえも、それぞれに言い分があり、主張があり、価値観の違いがあります。
そこには、ご都合主義の神様などいるはずもなく、また、一国のご都合主義で世界を翻弄することは許されるはずもありません。それは、世界の人々に対する愚弄です。当然、行き過ぎた個人主義も同様でしょう。

本作品が、まどかの選択に、ともすれば "自己犠牲" にも見える方法を演出したのには、深い思慮があると思います。

分かりやすいところで申し上げれば、例えば、科学。
それは日進月歩の進展を見せてはいますが、世界の全ての課題を解決しているわけではありません。自然科学、社会科学、人文科学など、人類の叡智が束になってかかっても、太刀打ちのしようもない、途方もない問題が目の前に横たわっています。
そしてそれは、幸いなことに人間が作り出してきた文化・文明です。


★5
お話はちびっと横道に逸れますがお許しください。
{netabare}
2018年10月1日、ノーベル医学・生理学賞に京都大学特別教授の本庶佑さんが選ばれました。

撲滅不可能とされる癌の治療方法に一石を投じてくださいました。これは、嬉しいことですね。外科的切除、化学療法、放射線治療に次ぐ、第4の治療法としての免疫療法です。患者さんの心身への負担の少ない治療法として期待が高まっています。

富士山の登山道も四つありますね。御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、そして吉田ルートです。
登る方の体力、あるいは、景色の楽しみ方によって、ルートが選ばれます。ルートは、登頂への手段であって、目的はご来光? いえいえ、それは一つのイベント。むしろ、生きているからこその唯一無二の魂の悦びを感じ得られるからでしょう。易く言えば、日本人たる者、一生に一度は、富士の高嶺に立ってみたいというささやかな願望の "達成感と充実感" の実相に触れて、感じてみたいと思うからこそでしょうね。

文化・文明というものは、医療技術にしても、山岳文化にしても、長い時間をかけ、たくさんのお金をかけ、多くの人が手塩にかけて、ゆるゆると創造されるものです。人類は、それを "歴史"と言い "未来" とも言います。
そして、現在は、そうした時間軸のか細い世界線の上に、漸く立っているところです。

その立ち位置は、ほんのちょっぴりずつ変化していくのでしょうが、そこに貫通する大切な価値観を体現しているのが、本作品のまどかであり、ほむらであると感じます。

"魂の救済" ともいえる悠久の道筋を創りだし、愛念をもって後悔しない生き方を示したまどか。
"宇宙の存続" という永遠の一端に関わり、その労苦を選ぶことで自らの生き方を示したほむら。

彼女たちが示すのは、むしろ、有限の時間の尊い価値への気づきを促すものであり、限られた時間の中でしか自己実現できない私たちへの慎み深いエールなのではないでしょうか。

皆が、ノーベル賞に選ばれることはないし、誰でもが富士山の剣ヶ峰に行きつけないのかもしれないけれど、それぞれに向かうべき道にも夢があり、いくらかの努力を尽くし、その過程で、自由と安寧、友情と信愛を手にすることが叶い、生きる糧にも繋がるとも思えるのであれば、望外の喜びと受け入れられるのではないでしょうか。

ひとりの小さな一歩は、ささやかで目立たないわずかな歩幅ではあるけれど、いつかきっと、見たことのない、夢のような未来へとつながっていくはずです。それこそが、文化と文明を生み出す原動力。
まどかの役割、ほむらの役割を、私は確信として受け取り、胸に深くしまって、歩んでいきたい。そう強く願いました。
{/netabare}


★6
本作において、まどかの選択に、驚きと戸惑いのご意見が多く寄せられていることについて、これまたちびっとだけ。
{netabare}
驚愕を、禅的に言い換えれば、近い概念に "大悟" があります。

まどかの選択に何を見たでしょうか。

私は、まどかは、"慈愛と愛念" の実相をスクリーンに表現した、アニメ史上、唯一無二のキャラクターと捉えています。
そして、その慈愛が、宇宙と対等な契約の重みになっているという扱いにも驚きました。

それを踏まえて、もう一つ。
私は、まどかの自己選択、自己決定、自己責任において、"自己犠牲" という "言霊" にフォーカスを寄せることは、本作の主題にはそぐわないような気がいたします。

むしろ、ここでのまどかの心情は、"利他愛の祈りとその実践" にあったのではないかという思いを持っておりまして、そこにこそ目を向けるべきではないかと思っています。
{/netabare}


★7
デウス・エクス・マキナに陥りそうに見えたまどかの "躊躇" とそこからの "昇華"。
{netabare}
最終話においては、まどかの心情の変化が、躊躇から決意へ、とてもドラスティック(徹底的で激烈なさま)に描かれておりました。

まどかが躊躇した一つめの理由は、まどかが、魔法少女の存在価値の軽さに怖れを感じていたこと、その勝ち筋をなかなか見いだせなかったからでしょう。

それは、キュウべえの語る契約と理屈への違和感です。
そして、マミらの非業の死のあり様から受けたショックとトラウマの影響です。

怖さと懼れ、怖じ気と畏れ。不安と恐さ。
誰でもが陥り、縛られ、誰にでも圧し掛かってくるマイナスの固まりです。

この躊躇のさまに、私は理解を寄せながらも、しかし、勝ち筋の読めない閉塞感に大いに焦らされました。演出上のこととはいえ、極めて自然な形で、最後の最後まで、まどかの躊躇する想いに私自身の思いが縛られてしまっていました。

まどかがキュウべえと契約を結ぶ段になっても、まどかの心の傷の深さから、デウス・エクス・マキナに陥るのではないかと気が気でなりませんでした。


まどかが躊躇した二つめの理由は、まどかのキャラクターの造形の妙から受ける無邪気さとは比較にならないほどの、決断の重さと非情さです。

これは、おもに私の主観によるものなのですが、キュウべえとの契約を受け入れるまどかの判断に、私の心が冷えてしまったということです。

魔法使いの少女は、可愛く、表情豊かで、正義感をあらわにするというバイアスの為せる業でしょう。私自身の思い込みによって、まどかに死を招くような契約をさせたくはないという大きな "思い違い" が生じていました。


その態度からは、全てを投げうつ覚悟を微塵に感じ取らせませんでした。
その表情からは、どんな予測の介入も辞さない決意を見せませんでした。
その声色からは、独りで立ち向かう不安に嗚咽する涙も隠していました。
その意志からは、僅かな心の移ろいゆくさまさえ伝わらせませんでした。

これが、私の見るところの鹿目まどかだったのです。

穏やかな表情のしたに、躊躇しているだろうことはうすうすは感じてはいましたが、まさかキュウべえと契約することを選ぶとは・・・。
話数的に、「デウス・エクス・マキナもありかな?」と諦めていましたが・・・。

遂に切られたまどかの啖呵に、私は、頭の中が真っ白にさせられました。
露わになった覚悟の深さに、私のバイアスは根こそぎ覆され、彼女に寄り添っていたつもりの理屈も感情も完全に焼き切られました。

ここに及んで、その信じられないほどの "落差感" を実感しました。
とうとう、まどかがキュウべえと契約を結んでしまった・・・。
間違いなく、私は、ほむらの心情に絆されてしまっていました。

そして、ふと、思ったのです。この苦々しい感情は、もしかしたら、ソウルジェムの "穢れの実相" なのではないだろうか。
その刹那、私は、ソウルジェムがグリーフシードに変わるさまを、"追体験させられている" のだと気付きました。
キュウべえとの契約は、まさにこの感情に向き合うことになるのか、と。

しかも、そのショックも冷めやらぬままに、それを "見事に回避した" まどかの "空前絶後の条件の中身" に、"さらなるショック" を受けることになるとは。しばらくは立ち直れませんでした・・・。


システムを改変するために、若くして重い宿命を負わなければならなくなったまどかの "昇華" を、理解することも納得することも、もちろん称賛することもできなくて、"虚しさと諦観" ばかりに心が震えていました。
{/netabare}


★8
デウス・エクス・マキナに陥らなかったまどかの "利他愛の祈りとその実践"とは。
{netabare}
"その実践" とは、虚淵氏がおっしゃられている『折衝』と『和解』にほかならない。私はそのように思っています。

『折衝』、『和解』においては、"自己犠牲" も "利他愛の祈り"も、ある程度、必要不可欠な要素だと思います。
人と人、組織と組織、国と国、どのレベルのどのお相手に対しても、『折衝』と『和解』を進めるうえでのメンタリティーとしては、必要なものです。

アトム、ゴジラ、まどかの通底を貫く象意は、"悩み苦しむ科学"、"怒れる大地と海"、そして、"溢れる愛念" の "先" にあります。

三つ巴に組み合わされるメッセージから、いったいどんな新しい価値観を必要とするべきか、そのことは、今の時代、喫緊の重要な課題であると感じます。

そして、この三人三様のメッセージは、"文化・文明" は、デウス・エクス・マキナにはならない、させないということに集約されます。

日本の文化・文明が生みだした3人の偉大な主人公のメッセージに、私たちはどのように向き合っていけばよろしいのでしょう。

今こそ、地球に住まうすべての人たちが、エゴと国益とに縛れらることなく、利他愛に徹した愛念をもって、『折衝』と『和解』を大胆に進めていく時期に来ているのではないかと、私は感じます。



科学と、自然と、愛念を前にして。

今日のあなたの感性を、昨日よりも、一歩前へ。

今日のあなたの行動も、明日は、もうちびっとだけ高みへ。

皆さんも、デウス・エクス・マキナではない物語を、是非、探してみてください。
{/netabare}
{/netabare}

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2018/10/13
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サンキュー:

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