「LOST SONG(TVアニメ動画)」

総合得点
65.3
感想・評価
149
棚に入れた
554
ランキング
3302
★★★★☆ 3.3 (149)
物語
3.2
作画
3.2
声優
3.4
音楽
3.6
キャラ
3.2

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 5.0 作画 : 3.5 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

過ちの記憶、手離した未来。歌は何を結ぶのか。歌姫は何を生み出すのか。

8話まで。
{netabare}
ここまでじっくりと観てきましたが、8話で本当に驚きました。

今までのシナリオが一つの時代、一つの物語に過ぎなかったということ。

7話のフィーニスの判断と選択が、彼女をして時間の束縛から解き放ち、過去と未来を飛び越え繰り返す時間の軛(くびき)を超越した存在とならしめました。


時を流浪し、時空を通観し、多様な時代を俯瞰する伝説の吟遊詩人とはフィーニスのこと。

彼女の歌う言霊は、愛の邂逅を希み、愛への包容を願い、愛ゆえに呻吟する哀しみを織り込む・・・そして、愛に終止符を打つために歌われる。
それこそがフィーニスのLOST SONG。

フィーニスの孤独。フィーニスの悲嘆。フィーニスの彷徨。
孤高となったフィーニスに、リンの歌は絡むことができるのだろうか。

リンの歌う旋律と言霊は、絶望に打ちひしがれ終局に向かわんとするフィーニスの固く乾いた意志に、どのようにして潤いをもたらし調和された安けき未来を予感させることができるのだろうか。

絶望を招くフィーニスのLOST SONG。
リンの歌は、LOST SONGに発動を止められるのか。
救国のLOST SONGはいずこにあり、リンは辿り着けるのか。

アルとドクターヴァイゼンの叡智と発明。
ポニー・グッドライト、アリュー、モニカの楽奏。
これらも重要なカギを握りそうな気配。


二つに時空を紡ぎあう2人の歌姫。

すでに別たれた希望と闇が、再び結ばれ、遂につながるとき。

まばゆい光が隅々にまでフィーニスの輪廻に潜む劫を照らし、リンの麗しい調べが彼女の魂を慰め、救うのだろうか。

6万年後の確定未来ですら、未確定への未来へと舵が切られるのか。
幾重にも積み重ねられてきた人類の過去の過ち、罪、業。
それらをもれなく溶かしさり、永久なる平和をもたらすのか。

歌の力の真実とは?

いよいよ目が離せなくなってきました。
{/netabare}


●観終わって。
{netabare}
率直に、7話までは児童向けの作品という捉え方をしていました。

年齢で言えば5歳~。言葉づかいがほぼ確立し、ヒトの集団を認知し、分業もでき(お掃除など)、文字を学ぶ直前のころです。現実と記憶の線引きがまだ曖昧で、所謂(いわゆる)夢見る夢子ちゃん。「私はお姫様よ!」と平気で言えちゃうヒロインになりきれるお年頃。小難しく言えば"作話"の発達段階ですね。

そういう子どもさん向けの作品として見れば、キャラと造形は分かりやすく象徴化(ステレオタイプ化)されていて馴染みやすいでしょう。作画はお子さんの知識、感受性、想像力に依拠するのなら十分に魅力的でしょう。動画と静止画の中間を取って紙芝居のように見せているのも、子どもが自由にイメージを膨らませるようにとの配慮でしょう。色合いも柔らかい中間色を多用しているので挿し絵のように綺麗です。物語の前半はスローテンポですが、キャラの名前や役割に親和性を感じるには丁度よい具合だと感じます。

また、出血のリアルっぽさも大切な表現だと思いました。子どもは怪我をするものです。体の痛みを体感し理解することで、心のありようにも向き合う能力をもつことは発達上とても大事なこと。本作はそれをきちんと示してくれています。

放映時期が七夕にちょうど重なっているのもなかなか心憎い。"お星さま、宮廷楽団、星歌祭、歌姫、王女"などのキーワードは夢子ちゃんにはキラキラでしょう。本作の歌が大好きになってくれるといいな。
とはいえ、後半のシナリオの面白さもなかなかのもの。ググっと年齢層を上げて?きました。なかなかにドラスティックで哲学的でもありました。


★1 オペラがモチーフなので・・・
{netabare}
以前に一度だけ観たことがあります。日本語の古典的な作品でした。その体験を頼りにしました。
一般的に、古典オペラは親子・男女の情念とか不条理とかをテーマにして演じられます。オペラの面白さはライブ感。盛り上がればぶっつけのアンコールが"いきなり"展開もするし、さらに役者さんが乗ってくれば、"4回、5回と"繰り返し、はっちゃける場面に出会えることですね。もちろん脚本どおり進むことが多いのですが、観客と役者さんとで作る"密度"がその日の演技進行を変える。これがリアルタイム進行のいいところですね。

幕が降りれば、深いカタルシスに触れて涙を流しますし、カーテンコールでは観客を楽しませてくださった役者さんの振る舞いに再び破顔します。劇場という閉ざされた空間に充満する濃密な感情を共有できる瞬間。そんな世界に浸れるのがオペラの醍醐味です。

そのオペラが・・・アニメーションになった。2次元、ファンタジー、12話、お茶の間、子ども向け、何よりも演技者の顔や動作が観られません。
オペラの名を冠していても表現方法が全く違うので、この落差感が凄かったです。おまけに8話からのダイナミックな展開もあってすこぶる刺激的。感覚的にはとっても新しい。

類型が見当たらないのと、近似作品も知らないので、レビューも右往左往、支離滅裂です。思いつくままにつらつらと記してみました。筆足らずはどうぞご容赦くださいませ。
{/netabare}

★2 ジェームズ・ウェッブ
{netabare}
今から9年前(2009年)、ハワイのすばる望遠鏡で、"ヒミコ"と名付けられた天体が大内正己氏ら日米英国際研究チームによって発見されています。
ヒミコは、人類が知りうる最も古い時代に生まれた天体で、ビッグバンからはおよそ"8億光年後"なのだそうです。

そして間もなく3ヶ月後(2018年10月)には、"ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)" の打ち上げが予定されています。*1。
この望遠鏡は、すばるや、ハッブル宇宙望遠鏡以上の性能があるそうで、ビッグバンの"2~4億光年後"のほぼ初発の宇宙の実相に迫れそうなんですって。初代星や初代銀河ができた頃の光を捉えられるのなら、140億光年以前に誕生した光景を自分の目で見られるかもしれません。科学の進歩のおかげで夢も膨らみますね。

こうした情報に触れると、私も5歳児の頃に戻ってキラキラな夢見心地になりトキメキに胸が躍るような感覚を取り戻せそうです。そうしたら本作の魅力に触れられるかもしれない。そんなふうに思いました。宇宙のど真ん中に自分をポーンと放りこんだら、どんな感情を持つだろう。そんなイメージを膨らませ、ようやくピュアな気持ちになれそうです。

*1。2018年6月、音響試験中に発見された異常により、ネジの緩みがあったことが明らかになったため、打ち上げは2021年3月30日に再延期されることになったそうです。
{/netabare}

★3 天球の音楽
{netabare}
紀元前6世紀、古代ギリシアのピタゴラスは、地球を中心とする球体の上を様々な天体が運行していて、それぞれが音を発しながら"宇宙全体が和声を奏でている"という思想をもっていたそうです。そしてそれを「天球の音楽」と称したそうです。

全天球にまくばられた星々が魅せるさまざまな輝きは、大小・強弱の光を放って、しばし人との語らいを求めてきます。
古代ギリシア人は、夜空に瞬いている無数の星々、アンタレスの赤、プレアデスの青、シリウスの白などに思いをはせては嘆息し、ハミングやポエム、音曲や戯曲など幾多の作品を創りだし、星と心を通わせては音楽を奏でてきたのでしょう。

星々は、数多のインスピレーションを彼らに与え、人々も天球を見上げながらイマジネーションを膨らませていたのでしょうね。

横道に逸れますが、約半年前(2017年12月14日)、NASAは8個の惑星をもつ恒星「Kepler-90」を発見したと発表しています。「Kepler-90」の惑星の数は太陽系と同等で、"地球から約2500光年先に存在"しているそうです。
ピタゴラスが生きていた頃に発せられた「Kepler-90」の光が、本作の放送に合わせるかのように地球に届いていたと思うと不思議なご縁を感じます。
{/netabare}

★4 星歌祭
{netabare}
一番身近なお祭りでは、日本の"七夕まつり"。
ちょっと遠いけど、オーストリアでは新年を祝う"三聖王祭"も星歌祭。
ロシアでは、サンクトペテルブルクの「白夜の星音楽祭」。

七夕の短冊に書くのは愛くるしいお願いごとですね。古く万葉集には七夕にまつわる恋の歌が130首以上残されています。七夕の謂れは中国の織姫と彦星が有名ですが、ヴェガ(織姫)にもギリシア神話があります。ヴェガはこと座を構成する1等星で、この星座にまつわるオルフェウスの神話にそっくりなのが日本の古事記に見られます。

オルフェウス(夫)がエウリュディケ(妻)を、伊邪那岐(イザナキ/夫)が伊邪那美(イザナミ/妻)を黄泉(よみ)の国から連れ戻して蘇らせようとする件(くだり)。「自分の後ろをついて来ているはずの妻を振り返って見てはいけない」という抑制条件。「出口の直前で振り返って見てしまう」という自己不信の結末。

この物語の通奏低音には、「人間とは、最愛の人のためにどんなに困難を乗り越えたとしても、さらなる困難が待ち受ける世界に生きる定めにあり、ほんの少しの気のゆるみで失敗を繰り返す弱さを持った存在である」ということを比喩的に示しています。また、「見てはいけない。でも見てしまう」のパターンは世界各地に伝えられていて、中国の白蛇伝(アニメ作品あり)、旧約聖書創世記19章のソドムとゴモラ(実写映画あり)、ギリシア神話のパンドラの箱などがあります。

一方では、3才~の児童は「我慢」を獲得する発達段階にきます。"自分の●●のために□□してはならない"という「自己を抑制する能力」の獲得です。4才~になると、"他人の▲▲のために◇◇してはいけない"という他者との関係性における我慢を獲得していきます。6才~になると、"集団の因果関係を推察し未来を予測し相手の心情に配慮しながら抑制行動をする"ようになります。いずれも下位の発達を獲得して初めて上位の発達に向かえます。発達段階を見極め適切に支援すればきちんと土台が作られ、その上に上位の能力を獲得する種が蒔けるのです。

七夕のお願いごとをよく読むと、どの発達段階の願いなのか、そのための「我慢」の方法も推察できます。親は(あるいは自分自身でもいいけど)丁寧に説明し、優しく励まし、しっかりと誉めることが肝要で、子どもとの信頼関係が構築されれば、我慢・忍耐を"自己抑制と他者への信頼"に置き換える術を身につけることができるようになります。

オルフェウスや伊邪那岐の通奏低音は人間の弱さに視点を当てていますが、今の保育学、乳幼児心理学では、その壁を乗り越える技術の獲得が可能になってきています。嬉しいですね。
 
さて、この通奏低音という言葉。文学界では「常に底流としてある、考えや主張のたとえ・比喩」として定着していますが、音楽界では概念が全く違います。というか、もともとは音楽界が元祖で、『中世のバロック音楽の演奏技術。また、その低音部』とあります。この言葉がいつしか文学界に流用されたようです。

実は、このバロック音楽の発達と時期を同じく(西暦1600年~)して、人間の感情を表現するための手段の一つとしてオペラが盛んに創られるようになっています。当時のあらゆるオペラの"モデル"となっているのがモンテヴェルディの「オルフェウス」。もちろん前述のギリシア神話が元になっている作品です。

紀元前の神話と中世のオペラ。星との語らい(モノローグ)から人との対話劇(ダイアローグ)になり、演劇(ドラマ)になり、歌劇(オペラ)になり、舞曲(バレエ)になり、歌舞劇(ミュージカル)へと多様多彩に発展してきました。
日本では「夕鶴」という作品が有名です。木下順二の名作戯曲を團伊玖磨がオペラ化したもので、民話では「鶴の恩返し」。不思議なことにこの作品も「見てはいけない。でも見てしまう」というシナリオ。

人の心の不思議なありようを、神話に、オペラに、七夕に、遠くに近くに様々な手法で投影してきた人類の文化の歴史。「抑制と信頼」というテーマは普遍的なもので、現代はアニメーションも担うようになってきたのでしょうね。
{/netabare}

★5 331.5m/秒
{netabare}
音波の速さです。
光は、300,000,000m/秒ほどです。音波の90万倍の速さですね。
新幹線は約75m/秒ですから光は400万倍も速いのね。270㎞/hの新幹線の車内で携帯電話が通話できることがやっと理解できました。電波は偉大だ~ww。おまけに音波も負けてない~。

電波も光も、共に"電磁波"の仲間です。電磁波の特徴は、真空でも伝わることです。ですので、宇宙船と地球の通信に利用できるのですね。望遠鏡で何億光年も先にある星の光が伝わって見えるのも、光が電磁波のひとつだからですね。
{/netabare}

★6 宇宙空間でもいろんな電磁波が観測されています。その観測結果の一つに面白そうなデータがありました。
{netabare}

宇宙探査機の登場によって宇宙は「音で溢れている」という事実が分かってきています。ジュノー(木星)やカッシーニ(土星)には音を拾う特殊な集音装置が取り付けられていて、実に不思議な音が録音されています。鳥の声のような、笛の音のような・・。ビープ音もあります。星のオナラ?

その音は、地球からも発せられていたそうです。例えば、雷です。ドッカーンは音波ですから空気を伝わります。ピカピカッは光ですから宇宙にも伝わります。

その光=電磁波がどう宇宙に伝わるかというと、地球の周辺にはプラズマ帯という層があって、地球の表面で発せられる電磁波のエネルギーが大気→プラズマ帯→宇宙の順に放出されていくというのです。難しいよ~。

プラズマとは、電離した気体のことだそうです。気体を構成する分子が電離し陽イオンと電子に分かれて運動している状態。正直言ってよく分かりませんが、固体、液体、気体につぐ、物質の第4の状態とのこと。

自然界ではオーロラ、雷、火など。人工物では蛍光灯、アーク溶接など。宇宙では彗星の尾、太陽はプラズマの塊ですって。あれはプラズマなんだ~。太陽SUNSUNプラズマSUN.www

実は、全宇宙の質量の99%はプラズマで満たされていて、エネルギーが伝わるのはプラズマの特性なんだそうです。
で、プラズマの特性を調べてみたら気になることを2つ見つけました。

▲1 一つめは「波動現象」です。
{netabare}
プラズマの中では様々な波動が伝播することが可能で、"プラズマ波動"と呼ばれているそうです。

プラズマ波動の一種に「プラズマ振動」があって、プラズマが電気的中性を保とうとする傾向をもつために生まれる波動なんだそうです。ここで注目したのは、「プラズマ振動は、プラズマ中に電荷の不均一が生じたとき、均衡を取り戻すように電子に働く"復元力"と、電子の慣性の"釣り合い"から生じる。」ということです。

復元力は元に戻ろうとする力。釣り合いはバランスを取ろうとする力。そこに「振動」が生まれるんだそうです。
{/netabare}

▲2 二つめは「不安定性」です。
{netabare}
プラズマは、温度、密度が空間的に一様であるとき、一定の条件があれば安定しているそうです。しかし、何らかの不安定性が励起されると安定な状態に戻ろうとします。この不安定な状態を「キンク=ねじれ」と呼ぶそうです。また、静止したプラズマに別のプラズマを当てたときの速度や角度によって僅かな電場の乱れが生じます。この乱れのことを「不安定性」と呼ぶそうです。

いやいや、励起(れいき)なんて聞いたことのない言葉。調べてみたら、量子力学で使われていました。「①原子や分子などの粒子がエネルギー的に最も安定している状態(基底状態)に対して、②外部から何らかのエネルギーを与えることによって、③初めより高いエネルギーをもつ定常状態(励起状態)に移すこと。」とありました。

ちなみに定常状態とは、「ある体系のエネルギーが一定に保たれている状態」。例えば『自然界において、たとえば小川は、上流などで雨が降らない限り、時間とともに川の流れの速度や流量が変わることはなく一定であり、この意味で定常状態にあると言える』ということらしいです。うんうん。
{/netabare}
{/netabare}

★7 フィーニスの歌声
{netabare}
歌声は音波ですから、空気のない宇宙では、歌=音波は伝わらないはずです。
でも、フィーニスは「歌は星に”届いた”」と言っています。"伝わった"のではなく"届いた"と。
ということは、フィーニスが歌った"終滅の歌"には、音波のほかに別の"波動みたいな要素"を含んでいて、"不安定性を与える要素"も含んでいた?
その要素は星の運命を変えるほどの励起状態を作り出したのかしら。科学的な理屈を探すならそんなふうに解釈する必要があるのかな?
まあ、私にはよく分からないので、"届いた"ということで。
{/netabare}

★8 太陽系の音
{netabare}
2014年8月、探査機ロゼッタは10年をかけて、チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に辿り着きました。そして200㎞まで近づいたとき彗星からのシグナルを受信しました。

観測などによると、氷とチリからなるこの彗星。太陽に接近し、氷が溶けだして水蒸気が噴出します。水の分子が太陽の紫外線に触れて、電子とイオンに分かれてプラズマ状態になる。このプラズマが太陽から吹き出したプラズマ粒子とお互いに作用すると"波が生まれ"ます。この波(電磁波)をロゼッタのセンサーが捉えたのだそうです。

この波の音はネットで公開され、再生回数は600万回を超えています。「esa rosetta sound」 で検索していただけると聴けますよ。

ここで注目したのは、彗星も木星も土星も、太陽のプラズマ粒子に触れることで電磁波を発生させるということです。
科学的には2者の間の"相関関係"での現象です。

文学的には、"出逢って触れあい、振れあって囁きあっている"ということでしょうか。微かな囁きであっても、惹きあい魅かれあう2人。遂には引きあってハッピーエンド?

宇宙空間は無音の世界ではなくて星の数だけ歌がある。地球には地球の、星にも星の周波数があるということなら、その音波と電磁波を司祭するマルチパーパスな存在もいるということでしょう。
フィーニスには天賦の才としてその能力が負託されていた。それが歌姫の歌姫たる由縁なのでしょう。

さて、ロゼッタの捉えた音を発見・研究なさっているドイツのブラウンシュバイク工科大学のカールハインツ・グラスマイヤー教授はこう述べています。「宇宙で起こった物理的な現象と、私たちの"感情がリンク"した証拠です。研究が科学の世界を超えて、一般社会へと浸透し」ました、と。

この彗星の発する電磁場の振動(周波数)は40~50mHz(ミリヘルツ、1秒間に1/1000個。1000秒かかってやっと1個の波、なのかな?)。地球人には低すぎて聞こえないので、音に変換して聞こえるようにしたということです。

"歌う彗星"と名付けられた世界で初めての取組み。西洋の科学者にとっては"星歌とも聖歌とも聴こえた"のかもしれませんね。

ロゼッタの名称は、紀元前2世紀にエジプトでつくられたロゼッタ・ストーンから得られています。ピタゴラスもエジプトにも行っていますからエジプトの神官からカバラ、つまり数理学、天文学に触れていたのでは?と思うと面白い。

ピタゴラスが思い描いた「天球の音楽」。かつて誰も聴いたことのない秘め置かれた音が、現代の科学技術の進歩のおかげで、実際に耳にできるなんて驚きです。
稀代の科学者ピタゴラスと現代科学のロゼッタが繋がるなんて思いもよりませんでした。

天と地、過去と現代。音と科学にまつわる要素が、時空を超えてムスビつき、「天球の音楽」を奏でたのです。
それは2500年以上も天界に秘め置かれていた LOST SONG。

そんな思いで、「LOST SONG」をもう一度鑑賞することにしてみました。
{/netabare}
{/netabare}


●ソニフィケーションという視点。
{netabare}

■1 フィーニスの気づき。
{netabare}
音の力で人の感情や知性に訴えかける技術・方法です。

よく知られたところでは、自動車のバックセンサー。障害物に近づくとプーピーと音が出てぶつからないように教えてくれる、アレですね。
このはたらきを、「音によるソニフィケーション」というそうです。
このアイディア。フィーニスと星、フィーニスとリン、そして星歌祭に応用されているような気がします。

終滅の歌が歌われ多くの隕石が降ってきた。まるで旧約聖書に描かれたソドムとゴモラの様相でした。隕石ですらそうなのですから、星が落ちてくれば"終滅"という言葉がぴったりですね。

その危機を回避するための儀式が星歌祭の"本旨"だと捉えてみました。
その"実相"は、星の存在に感謝を捧げ寿ぐこと。"祭"です。
その"意義"は、星と人、星と星の均衡を取り図ること。"間・釣り"です。
マツリとは距離であり時間でもある。そして人と神との関係性でもある。その関係性を星と人にビジュアル化したものが本作の画になるのでしょう。

ソニフィケーションは、事故を未然に防ぐための音によるマツリです。車にも星にも、そして人にも安心と安寧を担保するものとしては理解しやすいです。
ユニークなのは、過ちを"宣り直しするため、やり直すため"という表現でしょう。


古代のギリシア世界では最も重要な聖域とされていたデルフォイ。アポロン神殿で降ろされる神託は最高レベルの神のお告げでした。アポロンとは太陽神であり、デルフォイでの神託は巫女(シビラ)に託されギリシア国の生命線を大きく左右していました。

フィーニスもデルフォイのシビラと同じく、いえ彼女の場合は星の運命をも変えるほどのものです。神託を受けるだけではなく歌によるウケヒ(誓約=意思の疎通)ができた。姫とは"秘め"に通じ、簡単には表には出てこない隠された働き、それを担う者。霊妙なる者の意です。

フィーニスは、"終滅の歌"の意義を取り違えてしまったのかもしれません。
フィーニスに願いがあるように、星(神)にも願いがある。そこがズレてしまった。そぐわなかった。終滅の歌は「消える」ために歌われる歌ではなく、歌姫の過ちに対して、戒めと反省を促すためのソニフィケーションだった。だから、フィーニスは"終滅の歌"の意義に気づくまで死ねないのです。生かされるのです。リンと出会い、自ら悟るまでは。

しかし、彼女は星歌祭で、"再び、一人で"終滅の歌を歌ってしまう。

そこにリンが現れ、語ったのです。「私は"癒やしの歌"だから」と。2人に対話があり、対抗があり、言霊が合わさったとき、フィーニスは"終滅の歌"が2人が揃うことによって初めて歌うことが許されるものだと気づいた。

彼女は思い出していたのだと感じます。いつか図形譜にペンを入れていたことを。リンの家に伝わっていた図形譜はそれだったのでしょう。ポニーたちには黒い線が見え、リンには白い線が見えた図形譜。

星歌祭とは顕祭。幽祭は秘め置かれてあった2人の歌の奏上。ただの演奏会でも、イベントでも、まして権力者によって支配されるものではなかったということです。

フィーニスの"終滅の歌"は星の運命をマイナス方向に、リンの"癒やしの歌"は星の運命をプラスの方向に変えるものです。その意味では星歌祭で奏上される二つの歌は「間・釣り」の関係とも言えます。星と星のバランス関係を修復する意味もありますが、フィーニスの心に魔が差した時、それを正し、元の鞘に納めるための調整システム、あるいは、もともと分かたれるべく準備されてあった2つの歌ともいえるでしょう。
"癒やしの歌"とは、リンをしてフィーニスをリカバリーさせるために奏でられる究極の"救いのセーフティーネット"。レッドゾーンに突入する既(すんで)のところで発動したソニフィケーションだったのかもしれません。
{/netabare}

■2 フィーニスの息吹。
{netabare}
LOSTとは、失われたという意味のほかに、間違った、呪われたという意味があります。SONGは、歌=うた≒うったえという解義です。転じて"止むにやまれぬ情の訴え"の意味になるでしょう。

私は、フィーニスはリンの存在を最後までLOSTしていた(知らなかった)と感じていましたが、ちょっと違うのではないかと思案しています。

リンはもともとはフィーニスの一部なのですから、フィーニスの胸中はサウンドホールのように空洞に近い状態です。だから、リンが"癒やしの歌"を歌うたびに、フィーニスは無意識のうちに、身の内にあったはずの手放してしまった何かが、外から伝わってきて胸の空洞に入り込み僅かに共鳴するような感覚を持っていたのではないか。胸中をなぞる、寄せては返し、返しては寄せる潮騒の波。可聴域にないメッセージの振動をキャッチしていたのではないか。そんなふうに思うのです。
同じように、リンの心の鼓膜にも、フィーニスが救いを求める微かな振動が届いていました。

2人にとっては歌は奇跡ではなく"歌われるべくあるもの"です。だから、2人は歌を媒介とした運命共同体。"同じ命をともにする者"として、それぞれの息吹に共鳴しあっていたのかもしれません。
{/netabare}

■3 フィーニスの独白。
{netabare}
私が強い印象を得たのは、リンが遭遇したフィーニスの独白のシーンです。
固く閉ざされていた心中の扉がわずかに開かれ、一瞬だけ見せたありのままに咽び泣く姿。ずっと言えなかった言葉。誰にも話せなかった切実な想いが描かれていました。

リンの目の前で、消去と再演がリピートされます。語るに語られない、届けたくても届きようのない、息の吹き込まれていない聲にならない聲。

リンの叱咤に応えるようにして届けられたのはたった4文字ですが、フィーニスがどれほどの辛苦と葛藤を重ね、いかほどの心の痛みを伴って絞り出した4文字であったことだろうと思うと胸が熱くなります。

2人を引き寄せ巡り合わせたインスピレーション。語源は"息を吹き込んだもの"です。転じて"意・気"。意志と気配。それは言葉になる寸前、凝固して形になる直前の"想い"の実相です。
想いは"重い"に通じるため、強く大きく"意・気"を吹き込まないと力強い聲の形にはなりえず、なかなか相手に届かないのですね。

あっという間に終わってしまったこの演出ですが、彼女の核心に触れる極めて重要なシーンだったいえるでしょう。
こんなの児童向けとしたら・・・凄いことです。
{/netabare}

■4 フィーニスの内面の侵蝕
{netabare}
フィーニスの後頭部には"見えないプロテクター"が装着されているようです。外界からの影響を遮断するためでしょうか。しかし「どうせ私なんか救われない」という"自虐"を隠すためのようにも思えます。

おまけに"精神の自死"にも陥っています。孤独なうえに、弱った自分を受け入れるのはとても難しい。自己亡失感の侵蝕と拡大は「どうせ私のことは理解されない」という"卑下"なのかもしれません。

しかし、もっと重いのは「そんな私が、私の意思と力ですべてを終わらせることは、私の道理、私の正義なのだ」という"慢心"のような気がするのです。

彼女には、縺(もつ)れた怨嗟の螺旋は、解くに解けないのでしょう。
その頑(かたく)なな決意には、孤独の空疎が詰まっているのでしょう。
彷徨しつづけた精神と肉体には、悍ましい刻印がきざみつけられているのでしょう。

死から見放されることは生からも突き放されること。彼女には悔恨も絶望も許されない。"終滅の歌"に救いを求めながら、それでもなお救われることはないのではないかという猜疑心が彼女の悩みをさらに深め、雁字搦め(がんじがらめ)に呪縛され八方塞がりの奈落に落ちていくさまに慄然としているのではないかと思います。

彼女が発した「助けて・・」という言葉にはそうしたさまざまな思いをかき集め、搗き固め、ようやく形にしてできあがったものでしょう。そのことばが真実、揺るぎないものになるまでにかかった時間、繰り返された経験、めぐらせた思考と推敲の膨大さを思えば、4文字の持つ旋律には、星の数ほどの通奏低音の息吹が費やされたと想像するに慄然とします。

私には、彼女が、押し潰された胸の内に、枯渇したはずの愛の欠片を捜しているようにも見えます。彼女が選ぶ未来の結末が、果たして本当に望ましいものなのかそれとも昏いものなのか。彼女の心中に逡巡する揺らぎのような微かな畏怖も感じられるのです。

フィーニスは誰ともなしに声を発したのだし、リンは確かにそれを聴いたのです。何度も呼応を試み、見なおし聴きなおし訴えなおして、ようやくフィーニスの核心にたどり着くことができたリン。彼女のもつ生来の性質と育まれた性格がフィーニスの存在を見捨てることができなかったのでしょう。
それが、あのシーンに凝縮されていたように思いました。
本作の2つめのターニングポイントだったと思います。

どうしてこのように感じるかと言いますと、フィーニスの内面は極めて現代的課題を示唆しているからです。

『ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センは、貧困を「潜在能力を実現する権利の剥奪」と表現』しています。ともすれば経済的な貧困ばかりに関心が向きがちですが、より広範な領域にも多くの貧困の課題があるのが現代世界の実相です。フィーニスの「助けて」がその世相を反映しているように感じてなりません。

フィーニスとリンの心情にどのように寄り添えばよいのか、どこまで共感すればよいのか、私自身、いろいろ考えてしまい、ちょっと辛いです。
{/netabare}

ソニフィケーションとオペラ。二つの概念が括られることで、物語の新しい局面と魅力が紡ぎだされていますね。
{/netabare}


●涅槃と修羅という視点。
{netabare}
◎1 仏教の思想の一つです。

{netabare}
"お釈迦様が生まれた頃のインドは、年がら年中が暑すぎるし、カースト制度も心底辛い。だから今世を耐え忍ぶには来世の生まれ変わりを信じて、それを支えにして四苦八苦しながら精一杯生きよう"という教えです。

となればフィーニスの世間知らずと方向音痴は致命的です。とても生きる術に長けているとは思えません。まあ無知蒙昧と言ってもいい。侍女コルテの苦労が偲ばれます。
フィーニスはヒロインでキレイ系だし本作はファンタジーなので、孤独、疎外、彷徨、諦観などの要素は、視覚的にはソフトに見えてしまいがち。でも上面(うわべ)ではなく内面にフォーカスして観てみると、深い修羅の世界を感じます。

修羅の実相は"無限の喧嘩"です。フィーニスは誰とも喧嘩はしていません。ポイントは"誰か"ではありません。"善悪、正邪、優劣、勝ち負け"を決するためでもありません。修羅道にはゴールがありません。永遠に頑固一徹が貫き通せます。ただ彼女には勝ち筋が見えない。だから苛立って"星をぶつける"のです。子どもかっ?

さらに悪いことには、心中の自分自身に喧嘩を売っていることに死ぬまで(いやもう死んでいるようなものですが)気づかないという無手勝流。どんなに諭しても愛してても、気づかず絆されず、理解も納得もできないのです。だから最も救いがたく救われない獄界なのです。彼女は勝ちたいのではなく終わらせたいと思うから"星をぶつける"のです。やっぱり子どもか・・・。

慟哭も悔恨も、呪いと恨みも、フィーニスの情念から生まれたもの。自らの怨嗟の鎖に呪縛され、無間地獄に陥ってしまった。彼女は、人ばかりか、境遇、環境、世界すら呪った。そのように想起したのはだれであったか?フィーニス自身です。彼女の身の内に巣くう"蒙昧と執着心"です。
小さい子どもさんは、星が最接近するまで待ち続けたフィーニスの姿を観て、いかような印象を持ったのでしょうか。
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◎2 待たせたのは星です。
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待たされているのはフィーニスです。星を主、フィーニスを従と見立てたら、彼女の心が痛むのは、「自死を選びたいとする希望」と、「自分の希望を制限させられているという抑制」の狭間に生じる"心因反応"といえます。その反応は"葛藤"ということになります。

一般に、子どもは3~5才の発達で我慢という能力を獲得します。おもちゃ売り場で、思い通りにいかなくて泣き叫んでは地団駄を踏んでぐっと耐え忍んでいる子どもの姿を見たことがあるでしょ?あれは我慢をつかさどる右脳の前頭葉がフル活動しているときの全身運動の姿です。

あの姿を見るにつけ、大人が自死を選ぶ一歩手前でなんとか自分を保てていられるのは、葛藤(グルグル回る)して、我慢(言うに言えない)して、負のエネルギーを放出(カラオケで歌うとか)して、ようやく精神と肉体の統合をうまく調節することができているからのように思います。そんなふうに努力して、どうにかこうにか人生をやり繰りできているのですね。

そう思うと、子どもの地団駄は、人間の成長・発達の過程で避けては通れない道。大人になってから、修羅道に陥らないための通過儀礼なのですね。

ところが、フィーニスは葛藤を抱えながらも、なお待つことができるのは、再生のためなのではなく、自死の手段として理解できているから待っていられるのですね。

このシナリオは大人であってもあまりに闇が深すぎるし、正直、共感しにくいところです。

彼女が苦しむのは、心中に"もどかしさ"を抱えているからです。私が理解に苦しむのは、彼女の”もどかしさ””の理由が、生きにくさで感じているのではなく、死ねないことのジレンマから生じる"もどかしさ"だと感じてしまうからなんだけど・・・。う~ん、やっぱり重いです。

「生きるべきか死ぬべきか。それが問題だ」とはシェイクスピアの戯曲「ハムレット」です。ハムレット王子にとって、生と死の選択なんて格別の"もどかしさ"でしょうし、膨大なエネルギーを必要とする思念活動です。王子は生きることも選択肢の一つでしたが、フィーニスは一択のようです。
このあたり、本作が哲学的と感じられる所以です。
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◎3 人は死ねば
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肉体は土に還る。霊魂は業と徳のバランスシートに見合った霊界に往く。
本作はその摂理に依らないフィーニスの魂が、ただ漂うだけのさまを示しています。過去と未来を行き来して、巡ってたどり着いてまた漂って転がって・・・。

フィーニスの内面には過去も未来もなく、ただ修羅の念に囚われているのならば、そこに立ち止まっていればよいわけで、救われない人なのは必定です。彼女は、自らの思念の劫火に焼かれて生きながら死に、劫火に焙られて死ねないまま生きながらえて耐えていた。心中の修羅を上回る忍耐力とは何か。自死する憧れへの乾いた熱量だったのか。それとも救済を求める涅槃への思いだったのか。

しかし、憧れというのは一つ間違えると浅ましい焔を噴き出します。"あ・こがれ"とは"吾・焦がれ"。"度の過ぎた我執の仲間"なのですから。
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◎4 凝り固まった観念を溶かし去るには、それなりの転換法が必要です。
そんなフィーニスが正気を取り戻せた理由を探してみました。

▼1 驚嘆
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宮廷楽団を引き連れ、独りリサイタルを終え安堵していたフィーニスにとってみたら、リンの登場も行動もすべてが想定外のこと。知るよしのないステージプログラムの変更に、平常心ではいられなかっただろうと察します。

リンの告白は最初は脅威として映ったでしょう。そして謳い終わったリンが光とともに消えていったのも大きな驚きだったでしょう。「歌が人に化し、人が光に変する」なんて、思いもよらないことだったでしょう。

リンが「私は、癒やしの歌。」と言及したとき、フィーニスは我を通し、自分の言い分、理屈を述べました。感情で押し通そうともしました。でもリンは動じない。大切な人を無くしたのは"同じ"です。
リンは「もうこれ以上、大切な人を失いたくない」と言い、未来に目を向ける意義を言葉に含みました。リンが歌いだしたとき、フィーニスは慄きで後ずさりますが、「なぜその歌を知っているの?」という問いであり、万一リンの告白が本物ならその歌の威力を知っているからです。リンの歌に対抗するかのように、また阻止するかのように終滅の歌を歌います。

フィーニスにとっては、癒やしの歌も終滅の歌も、その両方の歌を司れる唯一の存在がアイデンティティーだったはず。それにかつてフィーニスがペンを入れた癒やしの歌は誰にも読み取られないはずのもの。
リンは、まるでフィーニスの核心を知っていたかのように、優しい笑顔と凛とした覚悟で堂々とその歌を歌うのです。
フィーニスの偏屈な理屈など通用しないステージ。彼女のなす術はありません。
そこにターニングポイントが生まれたのかもしれません。
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▼2 初体験
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フィーニスは"癒やしの歌"は歌わないし歌えません。
"癒やしの歌"はすでにリンという肉体を得ているので、フィーニスの身の外側に存在しているからです。
かつては自分が歌っていた"癒やしの歌"がリンによって謳われる。その体験はフィーニスにとっては初めてのことでした。フィーニスの聴くリンの歌は純度100%の"癒やしの歌"そのもの。何も混じるもののないその歌はフィーニスの及ぶところではなかったでしょう。

「フィーニスを助けたい」とするリンの言葉は、フィーニスが彷徨してきた世界では聞かれなかった言葉です。彼女に関心を持つ人はいましたが、助けの手を差し伸べる人はいなかった。むしろ排除だった。リンの言葉が初めてだったのです。

ポイントは、癒やしの歌(リン)が、癒やしの歌(フィーニス)のために、癒やしの歌(再演のない幻奏)を歌ったということです。
その歌は、フィーニスでさえ聴いたことがない歌。そしておそらくは二度と謳いあうことのない歌でしょう。フィーニスにとっては、最初で最後の、ただ一度きりの歌になったのです。
その歌は、星が降ってくるという天の時にのみ許された幻の二重奏の歌。「人は、過ち繰り返す」とはフィーニスのためのフレーズ。
そのことを理解したフィーニスは、終滅の歌を星に届けようとは決して思わないでしょう。
終滅の歌は、人の生き方とか星の運命に関与できない歌ということがはっきりと分かったはずでしょう。

人は、自分の感情の在処(ありか)、有り様さえよく分からないときがままあります。本作では、それ(無知蒙昧)を知性とか理屈とかで覆そうとはせず、かつて経験したことのない"初体験"で改心に向かわせようとする意向を感じます。
フィーニスの"自己回復力への可能性を歌に託す"。このあたりがファンタジーっぽくていいと思います。
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▼3 中庸
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"癒やしの歌"と"終滅の歌"に織り込まれていたのは"星からのメッセージ"。2人の奏でる歌詞と音律が、フィーニスの冷え固まって偏向していた魂を徐々に中庸の状態に戻してくれたように感じます。言霊とメロディーによる魂の浄化が功を奏したのだと思うのです。

フィーニスに対して、理不尽な戒めや迫害を与えてきた人々に対し、フィーニスが何も思わなかったわけではありません。フィーニスは全部まとめて消えてしまえばいいと確かに願ったのです。そこには人に対する愛情は露ほどにもありません。どんなに無関心な素振りを振る舞っていても、心中では業火の火焔を焚き上げていたのです。

そうしたマイナスの想念があるときは、言葉も行動もマイナス傾向になります。マイナスとは、重く、暗く、冷たい想念です。仏教では地獄界。神道では根の国底の国(ねのくにそこのくに。大祓詞〈おおはらえことば〉に見られる)に放逐された感じ。
そこから救いの糸を垂らすべく、お念仏の唱和があり、祝詞の奏上が日本文化にはあるのです。踏み出せない一歩目を歌が応援してくれるし支えてくれる文化・・・。

えぇ、アニソンのことですよ。いつも喜怒哀楽に寄り添って、ときに励まし、ときに慰めてくれる。やがて程よく中庸に教導してくれるアニソン文化。私たちは幸せですね。

ちまたでは、アンガーマネージメントの有用性が注目されてきていますが、それも処世術の一つ。自分で自分の魂を鎮め、修羅獄界に陥らないための知恵なのでしょう。
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▼4 悟り
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悟りとは、"差・取り"です。修羅と涅槃との差は、紙一重。本来、差などないに等しい。

地獄も天国も同じ霊界。想念の世界です。例えば、テーブルの上においしそうなケーキや料理がたくさん置いてある。テーブルの周りは高い柵で囲まれていて近づけない。だからスプーンやお箸もものすごく長い。それを使って食べるそうです。
地獄の住人は我れ先に口に運ぼうとしますが、スプーンが長すぎて途中で全部こぼれてしまう。
天国の住人は、自分のことは二の次で、テーブルの向こう側の人に先に食べてもらおうとする。
同じ食べ物、同じテーブル、同じスプーンやお箸、条件は同じ。違うのは人間の性だけです。言霊なら"差"と"我"でしょうね。

差(≒相違点)に囚われそうなとき、相手を排除せず受容するのが智慧でしょうか。
我(≒アイデンティティー)に執着してしまいそうなとき、他人を蹴落とさず迎え入れるのが慈愛でしょうか。

こうしてフィーニスは悟りを得て、自らの"差・取り"に成功した。自分が救われたいならまず身の回りの人を救うことだと知った。
リンは、フィーニスの唯一無二のメディカルスタッフであり、"癒やしの歌"はカウンセリングであり、最高の治療薬でもあるのでしょう。
そして、星歌祭の舞台は、フィーニスの回復のために用意されていた特別なメディカルセンターだったのでしょう。

アルやポニーらも、リンを導き支える重要な役目を果たしました。リンを応援し、信念を信じ、支援を惜しまなかった。それはフィーニスの存在を100%受け入れることでもあった。その心意気や良しです。

フィーニスが無知蒙昧という"こころの栄養失調状態"から抜け出せたのは、リンと共に謳い、星とのウケヒによって、星から"波動エネルギー"を全身に浴びたからでしょう。2人の歌声は星への"宣誓"であり"誓約"でもあります。その"発願"が見られたから、星から「よく気がついたね、よく改心したね。よく立ち向かったね。私も嬉しいよ。」という"霊的なメッセージ"があったと思うのです。

作画で言えば、尋常でないほどに近づいてきた星との距離が徐々に遠ざかっていくだろう未来の様子とか、リンと謳っているさなかに星から波動が放たれ、激しい風となって吹きつけてきたシーン。歌い終わったリンが光に変じて消失し、やがてフィーニスのもとに還ってきたことを暗示するかのような鼓動の確かな音の響き。国中が光の波動によって浄化され、再生したかのように見えた場面。目に見える作画上のメッセージはそんな感じでしょうか。

印象的だったのは、フィーニスが身ごもっていたシーンです。過ちを繰り返し死をも望んだ彼女が、平穏な生を得て慈母ともなるだろうとする姿。「私は幸せになってもいい。」そんな彼女の心境のありようをありやかに具現化した象徴的な場面でした。

叙事詩として、穏やかに終息に向かう上質な尊さを感じます。フィーニスの瞳に写る、見るもの触れるものの全てが愛おしく思えてしまう特別な感覚を私も抱きました。
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まだ五つ、六つとあるけれど、もうやめておきます。どんどんスピリチュアルなほうに往ってしまいそうです。ww
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●本格的なファンタジー作品として。
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シナリオに揺らぎは見られず、破綻は見受けられませんでした。
哲学的でもありました。科学性もありました。未来を示唆し、ハッピーエンドだったのも良かったと思います。それを全部、オペラとして歌に乗せきっていました。そういう意味ではバランスのとれた作品でした。

シジフォスの不条理、ラピュタのバルス、かぐや姫の罪と罰、芥川の杜子春伝をブレンディングしたような雰囲気です。とても精巧で緻密なアイディア、シナリオで構成されていたように感じました。

物語は、重めにも軽めにも受け取れるように配慮されていたので、子どもたちの感性のまにまに任せて、ゆったりと観ていただける作品だと思います。
もちろん、夢見ごちるのが好きな大人の方にも向いていると思います。
意外と、私には合っていたみたいでした。
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長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2018/11/05
閲覧 : 481
サンキュー:

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