「響け!ユーフォニアム2(TVアニメ動画)」

総合得点
89.4
感想・評価
1577
棚に入れた
7085
ランキング
80
★★★★★ 4.3 (1577)
物語
4.2
作画
4.5
声優
4.2
音楽
4.3
キャラ
4.2

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ネタバレ

カンタダ さんの感想・評価

★★★★★ 4.2
物語 : 4.0 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.0 状態:観終わった

成長を主軸とした群像劇 ※超長文につき要注意

この作品の評価の高さは他のレビューで散々言い尽くされているだろうから、ここでは触れない。私としては最後”で”楽しめた良作だというに留めたい。調べてみると原作があるようだが、そちらは読んでいない。原作とアニメではかなりの相違があるようで、たとえば京都を舞台にしながら誰一人京都弁を話さないなどはアニメの最たる特徴の一つだろう。

タイトルにもあるように私はこの作品は登場人物、とくに主人公である黄前久美子の成長を主軸とした群像劇だとおもっている。それは一作目より二作目のほうがその色彩を強くしている。一作目はどちらかといえば音楽を主軸にして、それを取り巻くように登場人物らの日常を描いたようにおもう。
それに対して二作目は演奏よりも人間模様に重点が置かれている。というのも最後の全国大会の演奏が、丸々省かれていることからも容易に知れよう。

さて、具体的な内容の批評をしてみたい。一作目は高坂麗奈が主要な人物、要するにヒロインだろう。百合的な展開になるのかと少々不安になったが、なんとか許容範囲に踏みとどまってくれたので、よしとしよう。麗奈の「特別」になりたいという願望は、誰でも一度は抱くものだが、ここでは久美子との対比として位置づけられるものだろう。なぜなら久美子はどこにでもいる普通の女子高生であり、麗奈が軽蔑するところの周囲に流されるタイプの人物だからだ。それは入部するかしないか迷っている際に、加藤葉月と川島緑輝に誘われるまま入ってしまうという優柔不断な態度にも現れている。

「特別」を目指す麗奈だが、対象的で「性格が悪い」久美子に強く惹かれているのは久美子の持つ一種の残酷な現実性だろう。「特別」、つまり夢を叶えるためには現実に打ち克つ必要がある。が、現実はおいそれとそれを許してはくれない。それを突きつけるのが久美子であり、そしてこれが久美子の「性格が悪い」に繋がるのだ。つまり「性格の悪さ」は日常に慣れきり、疲れて諦めきった現実であり、これに従うのが久美子の処世なのだ。

その現実に従う久美子の「性格の悪さ」は、家族や幼馴染に対するそっけない態度にも、音楽に対する不熱心にも現れている。それならば麗奈からは嫌われ憎まれてもよさそうなものだが、なぜか「愛の告白」を受けるほどに好かれているのは不思議である。個人的には一作目の久美子は好きになれなかった。自分に親しい人間に対して、自分が裏切られない、自分から離れていかないという油断しきった態度をとる人間を私は嫌いだからである。

話を戻そう。一作目において久美子は慣れて疲れ切った日常から脱け出し、本気で全国大会を目指すようになるまで成長する。余談だが音楽にせよ絵画にせよ演劇にせよ、芸術は非現実であり非日常である。精神をすり減らす生活から一時離れて、溌溂たる生命力を復活させ、また平坦な日常に帰るためのいわば「遊び」である。久美子はその「遊び」にようやく真剣に取り組むようになったことで、彼女の精神は輝きを取り戻したともいえる。芸術にはそういう力がある。それは彼女らの演奏を聴いた視聴者ならばわかってくれるだろう。

さて、次に二作目だが、ここでのヒロインは高坂麗奈に代わって田中あすかである。彼女の最たる特徴はここでもやはり「特別」である。麗奈が努力による「特別」であるなら、あすかは天然の「特別」だろう。なんでも平均以上にこなしてしまい、周囲がどうあれ自分には関係ないと言わんばかりに常に超然としていて掴みどころがない、小憎らしい人物だ。平均的平凡人である久美子が嫌っても不思議はない。が、理由はそれだけではない。実は久美子も別の意味で他人には興味が無い、といえばいい過ぎかもしれないが、あと一歩というところで彼女は他人に踏み込んでいくことをしない。

おもい出してほしい、鎧塚みぞれの巡っての一連の騒動での久美子の関わり方は、基本的に消極的、あるいは受動的である。その点はあすかからも指摘されている通りだ。上にも触れたが、入部の決断にせよ、麗奈と中世古香織のソロパートを巡っての対立も、滝昇の妻が他界していることを知ったときも、特になにもしていない。とりわけ姉の麻美子が大学を辞めるといい出し、親と一触即発の深刻な状況に陥ったときもそうだった。
責めているわけではない。十六・七の小娘がなにかできるわけはないのだから、それで普通、平凡人は傍観するに若くはない。傍観を決め込むことでこそ群像劇が成り立つ所以でもあるだろう。

さて、そんな彼女がついに一歩踏み出す時が来た。それがまさに田中あすかの退部を思い止まらせた時だ。正論で身を固めた難攻不落の要塞に、無謀にも正面から挑んだのだ。相手は当然反撃に出る。
久美子は皆があすかに全国大会に出てほしいとおもっていると言い切る。それに対しあすかは、安全圏に留まり他人に踏み込まない人間に誰も本音を見せてはくれない。だから本音は違う。戻って欲しいなんておもわれているはずがないといいたいのだ。

これは久美子に向けた台詞だが、それ以上にあすか自身に向けたものである。つまりあすかは誰も信じていないのだ。誰も信じない、信じられない故に孤独なのだ。孤独だからといって誰かに縋れるほど弱くもないから、かえって孤独を深め「孤高」となる。これがあすかの「特別」の正体であり、彼女の不幸でもある。そしてその「孤高」は大人の論理・正論でがちがちに固め守られている。これは逆に中身が脆弱であることの裏返しでもある。一度突き崩されると白旗を上げざるを得ない。その一撃を加えたのが久美子の先輩だってただの高校生なのに!」の一言だ。

ときに心は論理を超える。いや、そもそも人は心の生き物であり、論理の生き物ではない。真心は論理より圧倒的に人の心を揺さぶるものだ。傷つけ傷つくことを恐れず踏み込んでくる本気の久美子に、あすかの鉄壁の論理は無効である。要塞は敢え無く陥落、勝負ありである。残された選択肢は受けるか逃げるかのどちらかしかない。が、あすかは間違わなかった。素直に久美子の気持ちを受け入れたのである。二人が成長した瞬間である。そして二人の奏者の心が和して、その奏でられた音色が響いた瞬間でもある。おそらくはあすかの父親が本当に贈りたかったものは、音楽を通して通じ合う心だったのだろう。

もう少し書きたいこともあったが、長くなったのでこの辺にしておこう。どうせ私の書くことといえば悪口ばかりなのだから。そもそもこんな長文を読んでくれる人がそうそういるともおもえないが。
それにしても人の成長に立ち会えるのは、なんと晴々とした気分にさせてくれるのだろう。成長とは人間のもっとも美しい行為の一つといっていい過ぎではないはずだ。そして伸びようとする少女らに惜しみない祝福を贈りたくなる。そんな気持ちにさせる作品だった。

投稿 : 2018/08/22
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サンキュー:

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