「悪偶 -天才人形-(TVアニメ動画)」

総合得点
56.1
感想・評価
66
棚に入れた
213
ランキング
7202
★★★☆☆ 2.8 (66)
物語
2.6
作画
2.4
声優
3.1
音楽
3.1
キャラ
2.7

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ネタバレ

とーとろじい さんの感想・評価

★★★★☆ 3.1
物語 : 3.0 作画 : 1.0 声優 : 4.5 音楽 : 3.5 キャラ : 3.5 状態:観終わった

クソアニメだからこそ語るべきことがある

忘れた頃にレビューしたくなる、そういうアニメがある。この『悪偶』なるアニメもそうだ。
口の端に上るほど知名度はなく、アニオタとの会話でこのアニメが共通の話題になることなど、世界線を幾度変えてもあり得ないだろう。そんな世界線があるなら、おそらくその時には、このアニメはガラッと絵柄を変えてしまって、もはや同一性を保ってないと予測される。つまり見た目・デザインの時点でこのアニメは遅れをとっているのである。紫を基調とした配色、しかしあまりのベタ塗り感により、この世界には立体の概念が失われている(CGも使われていないだろう)。カラフルなスライムを固めて造形されたような非生命的なキャラの顔。石で叩くとカンカンと音が鳴りそうな、見るからに硬そうな肌。人形も人間も区別はつかない。
色のどぎつい、ギラギラした画面は確かに独特であり、下手すると『戦国コレクション』と似通ってるという指摘が出てもおかしくはないが、そう言ってしまうとそちらのファンに怒られる。しかしこの配色のどぎつさは、いかにも安っぽく、全然アングラ感を増していないどころか、OPもEDもこの絵じゃなかったら怪しい雰囲気漂うサブカル風味を表現できただろうに、と嘆かれ、歌手・バンドの方に一視聴者が申し訳なささえ感じてしまう。

とはいえ私は、非難するためにこのアニメを思い出から持ち出したわけではない。寧ろクオリティの低いアニメというものは、どうしてもきつい非難が目立ってしまい、評価すべきところが見逃されてしまいがちだ。
例えば、物語中盤のバトルの終わり方は注目されたい。
悪偶人形の非人道性(先天的な天才を小さな人形にして封じ込め、その人形を才能欲しさに人々が売買すること)に反対する救済者・羅正と、他人の夫に一目惚れしてそいつを奪い取ったヤバヤバ女・黄鶯鶯、そして息子溺愛泉ピン子おばさんとのドロドロバトル(時間を割き過ぎという意味でも、昼ドラ感という意味でもドロドロ)では、斬新な結末を迎える。泉ピン子の息子(小学生)が、いかにも起業家が得意な顔をして繰り出してきそうな交渉術(三者の利害を調停する理論)でもって、彼らのバトルを平和に終わらせてしまうのだ。激しいバトルを知的な利害関係の調停で終わらせるという(しかも小学生の提案)荒技と、その新鮮さには、中国と日本との文化的な差異が認められる。そこにあるのは小学生でさえも経済への順応、急激に発達する中国社会に適応するための有用的な勉学を果たしているという、(我々からみたらグロテスクな)社会、文化の特色である。この大人びた小学生は、国家的に優秀な、模範的人間の記号である。また、このバトルの終わらせ方は、肉体で終わらせてしまう日本のバトル漫画にとって刺激的な選択肢を提供してもいる。

更に、語るべきところがある。それはこの作品の設定だ。
以下は作品概要から引用。
「あなたの周りにはきっとこういう人達がいる。
リーダー、起業家、大スター、秀才。
努力をしても到底及ばない。
人はそれを『天才』と呼ぶ。
しかし、この天才達にはとある共通点がある。
そう!彼らは、皆『あれ』を持っている。
それは絶対凡人には言えない秘密。
そう、それが…悪偶なのだ!!」
以下はメインキャッチコピー。
「悪偶に魅せられた偽りの「天才」たち!
虚飾を剥ぎ取れ「救済者」!」
という大変わかりやすい説明だが、この紹介文にも既に文化の相違が表れている。所得格差の激しい中国では実力主義がまかり通っており、豊かになるためには勉強し、上の階級へ向かわねばならない、まさに競争社会だ。この作品はそうした社会を反映している。例えば、同じだけ努力しても叶わない相手がいて、そいつは天才なのだと思いたくなるが、それを「偽物の」天才だと仮定して、この偽の天才は誰かを搾取して不当に成功を収めているのだ、としてしまうのがこの『悪偶』の世界観なのだ。それは成功者を妬むルサンチマンである(そしてこの作品の依って立つ「論理=どんなに努力してもあいつに勝てないのはあいつが不正をしているからだ」は結構危険でもある)。だが嫉妬と言ってしまうのも違うだろう。悪偶では泉ピン子の息子のように天賦の才を持った人間を攻撃するわけではない。つまり天才自体を批判するわけではない。救済者が批判するのは、天賦の才を当事者から取り上げ(自然的なあり方を邪魔すること)、操作する人々なのだ。つまり自然的秩序を乱す者への批判となっている。それに嫉妬というよりかは、おそらくこの作品の世界観が示しているのは社会事実に根ざした不公平感なのだろうと思う。ズル(お金で学力、能力を手にする、人を犠牲にして高い地位を得る)をして能力を得た人間というのは、競争社会を生きる彼らにとってリアルに感じ取っているものなのではないだろうか。そしてその不公平感にこの作品は上手く応えていて、憎悪の感情をこのフィクション内で発散させているのかもしれない。あいつは卑怯者だ!と。身近な個人に対して誰にでも矛先を向けるのは危険だが、一方で権力者・資本家・社会構造へ意識を向けることもでき、社会批判の端緒ともなりうる。
もっと言えば、天才と凡人という二項対立、天才への過度な執着は、現在の中国社会が個人にもたらした病理、不幸のように思う。競争のなかに生きるからこそ才能や能力が気になってしまうのである。この問題系(主題選び)自体に私は社会の不幸を見ずにはいられない。

クソアニメというのは語られるものと語られないものとがあるが、このアニメは後者で、全然語られていない。しかし語られないクソアニメを語ることに、アニオタの愉楽というものが存していると思うのである。長くなったが、最後に言っておこう。私は中国社会を全然知らない。

投稿 : 2019/01/27
閲覧 : 959
サンキュー:

5

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