「さよならの朝に約束の花をかざろう(アニメ映画)」

総合得点
88.8
感想・評価
649
棚に入れた
3463
ランキング
95
★★★★★ 4.2 (649)
物語
4.2
作画
4.5
声優
4.2
音楽
4.1
キャラ
4.1

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ネタバレ

フィリップ さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

「ひとり」になっても愛は繋がる

制作:P.A.WORKS、
監督、脚本:岡田麿里、
副監督:篠原俊哉、キャラクター原案:吉田明彦、
キャラクターデザイン・総作画監督:石井百合子、
音楽:川井憲次

別れの一族・イオルフの民。
彼らは10代半ばで見た目の成長が止まり、
何百年もの寿命があるため、人と交われば、
「ひとり」になると考えられていた。
イオルフの民は、人里を離れた土地で、
ヒビオルという布を織って暮らし、
生きてきた痕跡をそのなかに宿す。
縦糸は流れゆく月日、横糸は人の生業を表す。
ヒビオルには、織った人の思念や想いが、
生きた証として手紙のように残る。
つまり、ヒビオルとは、ただの布ではなく、
イオルフの民の心や大切なものとしての象徴だった。

主要人物は、マキアとレイリアという女性。
マキアは、怖がりで引っ込み思案の性格。
親がいないマキアは、長老の教えに従い慎ましく生きていた。
一方、レイリアは、怖いもの知らずで、
崖の上から水の中に飛び込むことができる。

ある日、イオルフの民が住んでいる土地が、
メザーテという大国から攻撃を受ける。
目的はイオルフの民の女性を王妃として迎えることで、
近隣諸国に対して国威を発揚し、
支配力を維持するためだった。
メザーテは、これまで古の獣・レナトを利用して、
大きな力を得ることに成功していた。
しかし、レナトが原因不明の赤目病に罹患するようになった。
そのため、同じように古の力を宿し、
人智を超えた存在・イオルフの民を
国威を保つための代わりとして
取り入れようとする目論見があった。
攻められたイオルフの民の国は、多くが殺され、
レイリアが王妃の候補として連れ去られる。
一方、マキアは暴走したレナトとともに、
国外へ飛び出すことになり、難を逃れる。
森の中で気が付いたマキアは、野盗によって襲われた集落で
子供を守って死んでいた女性を発見する。
女性は赤ん坊をきつく抱きしめて守っていた。
マキアはその指を1本ずつ折って、
生きていた赤ん坊を連れ出し、
自分の憧れだったレイリアの名を参考に
エリアルと名付け、育てる決心をするのだった。

この作品はふたつの軸から考えることができる。
ひとつは、マキアとエリアルという親子の物語。
もうひとつは、マキアとレイリアという母の物語だ。

ほかの岡田麿里の作風と一線を画すのは、
母の物語ということだろう。
思春期の男女の心理描写が
いつも大きなテーマになっていた作者にとって、
親が登場する作品は、『花咲くいろは』くらいしか
なかった気がする。
そういう意味では特別で、
自叙伝的な内容と評する人もいた。

どこが自叙伝的なのかというと、
それは親子の関係性だろう。
マキア、レイリアとも子供との複雑な問題を抱えている。
望まれていない、形だけの関係ともいえる。

父が不在で、秩父の浅野温子と呼ばれる美人の母を持ち、
普通とはかけ離れた家庭環境のなかで育った岡田麿里。
繊細な心を抱えて不登校児童となった
彼女にとって、母と子の関係性というのは
不思議なものだったに違いない。
集団における人間関係の複雑さが
不登校の原因のひとつだった岡田麿里のことを
母が理解することはなかった。
それどころか、近所の陰口に耐え切れず、
殺そうとしたことさえあったという。

母と子は別々の生物であって、
両者をつなぐのは血のつながりから湧き上がる
愛情という目に見えないものが一般的なわけだが、
血のつながりを体感的に見出せなければ、
両者の間にあるものは何なのだろうか。

親子であっても別人格であるふたりの人間。
母からの視点では、子供を愛することで、
生きる活力を得て、幸せを感じることができる。
しかし、親子がやがて違う生き方を選んだとしても、
そこに「愛」というものを感じることができたなら、
幸せなことなのではないだろうか。
「さよならの朝」に愛という美しい約束の花を
かざることができたなら、親子の関係性としては、
それで良いではないか。それをたんぽぽの種子のように
ほかの土地の人たちにも伝えることができるのなら、
意味のあることではないか、というようなことを
表現しているのかもしれない。

{netabare}この作品の大きな特徴は、レイリアの最後の決断にある。
個人的には、長年、離れていた我が子との再会に
レイリアは歓喜し、ふたりで城を抜け出すと想像していた。
しかし、レイリアは、ここで自らの性質である
「思い切りの良さ」を発揮して宙を舞う。
自分の子供にイオルフの民としての遺伝がなかったことを
見て取り、一瞬のうちに別れを決意する。
そして、子供に「私のことは忘れて」と告げるのだ。
私は2度目の鑑賞で、レイリアは岡田麿里の母なのだと感じた。
投げかけられた言葉は、岡田麿里が母から告げられた
ものだったのかもしれない。{/netabare}

奔放で明るく周りから人気の美人の母。
一方、繊細で人の心について深く思考し、
外へ出るのが怖くて、飛び出せない岡田麿里。
この作品では、交わりようのないふたつの人格に対して、
離れて生きることも母として、子としての
生き方のひとつだと捉えている。
{netabare}その証拠にレイリアがレナトの上から見下ろして
我が子の上空を旋回するときに、
まるで幸せを感じさせるかのような劇伴が流れる。
そして父と母から捨てられた娘・メドメルは、
下界での新しい暮らしを覚悟しつつ
上空を舞う母に対して、
「お母さまって、とてもお綺麗な方なのね」と呟く。
私は初めて観たとき、強烈な違和感に襲われたが、
母子の別離を違う視点で捉えると、
ここがひとつの最高潮としての表現でも
何ら不自然ではないのだと気付いた。
そして、この台詞には岡田麿里が
母を許した意味が込められている気がしてならない。{/netabare}

{netabare}一方、岡田麿里のもうひとりの分身ともいえる
マキアは、別離後、最期のときにだけエリアルの元を訪れる。
時は経ってもマキアの愛情は、ヒビオルのように
いつまでも鮮やかに残っていた。
これまでのふたりで過ごした時間が、美しく蘇ってくる。
別れのときは、あまりにも悲しい瞬間だった。
しかし、これまで苦しいことがあったとしても、
ふたりで過ごした時間はかけがえのないものだった。{/netabare}

ヒビオル(日々織る)に命を吹き込む仕事は、
脚本を書くことと同義なのだろう。
古の生き物、どこか別の世界で生きる、
普通とは違う性質を持つ人間は「ひとり」になる。
それでも他者と関わりを持ち、誰かを愛することは、
人の心にずっと残り、それが継承されることで、
美しい世界を作り上げていくのだ。

別れの日の朝、マキアとレイリアの頭上には、
澄明な青と美しい形状の雲が広がっている。
悲しみ、喜びを表現しているというより、
ただ、そこに存在する美しい朝の空。
胸に沁みるような無垢な光景があった。
(2021年3月13日初投稿)

投稿 : 2021/03/13
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サンキュー:

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