「コードギアス 反逆のルルーシュ(TVアニメ動画)」

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ネタバレ

みかみ(みみかき) さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9
物語 : 4.5 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 3.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

熱狂装置(追記:スザクとルルーシュの論争について)

 本作に対しての私の短い評価は「すばらしい熱狂装置」だというもの。エンターテイメントとして、これだけの強度を保てる作品は稀でしょう。

 で、さて、一方で、「あおくさい論争」的なものを頑張ってやっている作品でもあり、熱狂装置としての評価もさておき、そっちの論争も論点として人気があるようなので、ちょっと書いておきます。

■ルルーシュと、スザクはどちらが正しいのか?ーー正当な手続きとはなんぞや(2012/02/06 追記分)

 スザクが正しいのか、ルルーシュが正しいのか的な、論争については、一番簡単なはなしとしては「Due Process(適正な手続き)」自体のあり方をどう考えるか、という話に繋がるでしょう。
 「適性な手続きによって自由が保障されている状態」自体をアメリカ法ではきわめて重要な正義である、と捉えます。
 警察が強引な方法によって濡れ衣に近い形で、誰かを逮捕したり、まともな裁判にかけられることなく死刑にされてしまったりするような社会は「適性な手続きによって自由が保障されている」とはとても言えない。そのような社会のなかで、「適性な手続き」にこだわることは、正しいのか?それとも、ただのバカなのか?

1.ルルーシュの正しさ:適正な手続きが保障されない社会においては、適正ではない手続きに頼るほかない

 その問題を確認した上で、本作を観ると、本作のなかで描かれる世界においては、適正な手続きによって自由を保障しようという仕組みはありません。この制度下においてはルルーシュの行動が一定の正当性をもつ、とは捉えられます。

参考:DueProcessについて ttp://www.liberal-shirakawa.net/idea/policestate.html

2.スザクの正しさ(をあえて擁護):「完全に適正な手続きが実現された社会」などないからこそ、適正な手続きにこだわることが重要

 …が、一方で、「正当な手続きによって自由が保障されている状態」なるものは、実際には到達しえない理想です。現実世界の日本やアメリカは、コードギアスの中で描かれる帝国と比べれば相対的にはるかにましな自由が保障されています。
 しかし、この日本においても、その自由の保障は完璧ではありません。生まれた家による格差もあるし、生まれ持っての才能や、運によって何がどうなるかわかりません。「努力」や「論理的な正しさ」だけが公平に評価される世界というものは、存在しません。
 そのことは、みんなわかっているわけです。
 「適性な手続きによって自由が保障されている状態」は、全員が目指すべき努力すべき目標であって、現実世界が実際にそうである、ということではありません。
 この点に思いを至らせる必要があります。
 「正当な手続きが保証されていないから、強引な手段に出てもオッケーなんだよ」という判断を行うルルーシュのような決断を、多くの人が行えば行えばどうなるでしょうか。
 「適正な手続きによって自由が保障される社会」という理想は、現時点よりも、もっと遠い理想になってしまいます。そして、多くの場合に「適正な手続き」にこだわる人が損をすることも増えるでしょう。

 「適正な手続きによって自由が保障される社会」でないからといって、適正な手続きを無視すれば、その決断自体が、ウィルスのように伝播していき、不幸な社会状態がうまれます。
 結局のところ、世界のどこにいっても「誰もが適性な手続きによって公平に、世界をより良くしようと努力のできる世界」などは存在しないわけです。
 ですから、そのようなことを前提に「だからこそ、私は正当な手続きによる変革にこだわるのだ」という立場を選択しようとするスザクの立場は、ルルーシュよりもある意味で「大人」だと言えます。

参考:「ナッシュ均衡」の話を理解できるようになると、ここらへんの話はおもしろいです

3.ありうるルルーシュの再反論:手段の正当性を守ることは一般的規範としては支持されるが、利益のバランスを考慮すべきである

 スザク的な主張を、あえて少し丁寧に擁護すると上記のようなことになりますが、もう少し丁寧なルルーシュの再反論も想定可能でしょう。
 <「適正手続が認められていなければ、強引な手段に出てもよい」という主張は乱暴である>
 ということは、まあ、まず多少あたまのまわる人なら認めるでしょう。これを、みんながみんな言い始めると、困ってしまう。
 と、なると次の論点は、程度問題にうつります。
 「強引な手段に出る」ことが肯定されるような例外状態がありうるかどうか、ということです。
 「目的が正しければ、手段は正当化される」という言い方で論争にすることも多いですが、この言い方は解釈が難しいです。たとえば、「神を侮辱した人間を殺害する」とタイプの話も肯定されてしまうので、「目的が正しければ、手段は正当化される」という言い方は、だいぶ、荒っぽい。
 論争の別れる点は次のような場合でしょう
 
 A:大量虐殺の現場で、虐殺犯を逮捕するために他人のバイクを勝手に使用し、壊した。それ以上の犠牲がでることなく逮捕した。
 B:殺害されそうになったので、相手を殺した
 C:殺害されそうになったので、爆弾を使ったところ相手を殺しただけでなく周囲の人間を十人ほど巻き込んで死傷者を出した
 D:将来において1000万人が殺される可能性を防ぐため、1万人を殺した

 このような4つのケースがある場合、Aはまあ、ほとんどの人の感覚的にオッケーでしょう。「器物破損」「窃盗」の罪にはなりますが、「虐殺防止」のためであり、かつ現行犯ですからね。比較が簡単。
 B,Cのようなケースは一般に過剰防衛となるでしょう。何の正当性もないとは言えないものの、このような過剰防衛については、一般に正当化するのはちょっと難しい。
 で、問題は「D」のような曖昧なケースです。Dのようなケースが認められるかどうかは、三点の問題があります。一点目は「1000万人が殺される可能性」がどの程度まで確実なのか。二点目は、「1万人を殺すこと」による防止効果がどの程度まで確実なのか、殺す以外の代替手段は無いのか。三点目は「殺される1万人に確実な悪意があるのか」です。
 この三点について、確実性がある、ということを示すことができるのならば、1万人を殺すことの正当性は主張できるでしょう。
 ルルーシュの主張は、こうした三点セットを、「ある」と言い切ることによってかろうじて生じうるようなものです。

参考キーワード:利益衡量、功利主義

4.スザク的立場からのありうる再反論:やはりルルーシュは規範的には正しくない。(だが、実践的に正しい)

 で、この次の再反論が、現実的に多くの人が採っている選択ということになるでしょう。
 スザク的立場からの再反論が来るとすれば、「おまえが言ってることはやっぱり曖昧な予想にもとづいているよ」というものでしょう。ある強引な手段以外の代替的な手段がない、だなんてありえないし。もしかしたら、そんなひどいことにはならないかもしれないし、悪意なんてものは実はこの世にはそんなに存在してないことのほうが多いだろうし…。と。
 そういう再反論は可能でしょう。可能でしょうし、その反論はおそらく正しい。もっとハッピーな選択がある、という可能性は誰も否定できない。
 しかし、ここでその再反論をする人が、どこまで自信をもって再反論ができるのか。これによって、現実の選択が決定されてくるでしょう。
 再反論をしたときに、それが素朴な理想主義的な主張でしかない、ということを思うのか。それとも、妄想にかられた人を諭すような気分で再反論をするのか。
 自分の再反論があまりに素朴な理想主義でしかない、と思う場合には、「実践的な正しさ」と「理想的な選択」は別々の行動を選びとる必要が生じてきます。
 「もっといいやり方」は常に追い求められているべきです。それは忘れられてはならない主張です。
 しかし、「もっといいやり方があるはずだ!」ということはいつだって、どんなケースにおいても理想論として主張できてしまうものでもあります。理想を掲げる自体を否定すべきではない。しかし、理想はただの理想でしかなくなる場合も往々にしてある。
 だからこそ、「理想論」というのは扱いが難しい。

 作中においては、帝国の支配は、あまりにひどいもので、「理想」が力をもたない、ただのネゴトにしかならないような世界です。だから、「理想」をただ唱えることは、無力な世界でした。
 だから、結局、スザクは「理想」をただ単に唱えることの限界に気づいていかざるをえない側面は出てくるわけです。
 そうなると、「理想は理想として掲げるけれども、実践的には強引な手段も部分的には選択せざるをえない」という、理想的規範における正しさ、と実践的な選択としての正しさの分裂をむかえつつ行動をする…というあたりで、作中の議論もだいたい決着していきます。

5.結局どっちが正しいと思うのか?:わたしの立場

 で結局わたしがどっちが正しいと思っているのか。
 スザクが正しいか、ルルーシュが正しいのか。
 それは、彼らが「理想」と「実践」をどのように区分けして考えられているのか、に依拠していると思っています。
 理想だけ唱える人も、実践的正義だけを唱える人も、等しく支持できない、と私は思っています。
 <理想に一定の価値を認め、理想を目指しつつ、実践においてはもっとも効率的に機能する手段を選択する。>
 あたりまえのことのようですが、そこらあたりが、ごく一般的な態度でしょう。そして、この態度に価値がある、ことを理解するためには、コードギアスで描かれるようなスザクと、ルルーシュの対立というのは、とても刺激的な入門になっていると思います。


 
 で、さて、上記の議論はさておき、コードギアスにわたしがもっと積極的に価値を認めているのはエンターテイメントとしての出来の良さです。
(下記、別々の時期に書いたので、ですます調から、である調になりますが…) 

■熱狂装置としてのコードギアス

 2000年代の10代向けアニメにおいて最強の「緊張感」をもった作品だったろう。もし、これを見たとき自分が10代だったら、どれほどハマっていたか、正直わからない気がする。

 なぜ、本作はこれほどの緊張感をもった作品になったのか。そんなことを、つらつらと考えてみた。

■共犯者に仕立てあげられる視聴者

 犯罪を描く物語、では伝統的に描かれてきたものだが、誰にも犯行を知られることなく、一人で犯行を遂行しなければならない、というその描写は、まるで視聴者を、犯行の共犯者のような気分に仕立てあげる。
 この手法は、特に犯罪に限ったことではなく、秘密の共有、という仕組みが機能していればOKだというところもあって、アニメではないが、連続ドラマ『24』のジャック・バウアーの物語も、ジャック・バウアーをめぐる視聴者と主人公の秘密の共有、ということを軸にはなしが組み立てられている。※1

 共犯者の気分に仕立てあげられることで、作品世界の鬱屈とした「重さ」のようなものが、強力にたちあがることになる。



■テロリストたちの熱狂

 また、この物語における共犯としての興奮は、犯罪映画的なものだけでもない。
 これが「革命」の物語、の体裁をとっていることも何かこの作品のアブノーマルなテンションをつくりあげている。これは、戦争の映画ではなく、テロリストの映画、であるということは重要だ。
 すなわち、この作品のなかで繰り広げられる暴力には、国家的/組織的正当性が与えられていない。しかし、ただの犯罪者による無意味な暴力でもない。
 この暴力をささえるのは「革命思想」なのだ。テロリストの暴力の正当化をささえるのは、政治的思想によるものしかない。
 そして、この政治的な正当化によって、裏打ちされた暴力というのは、じつにとんでもない熱狂を呼び起こすものなのだ。浅間山荘事件しかり、人類史はほとんどこういう思想的な正当化を経た暴力によってぐちゃぐちゃにされてきた歴史でもある。その人類史をぐちゃぐちゃにしてきた「思想的正当化を得た暴力」の熱狂のようなものを、推進力にして、本作はその緊張感を構築しているようなところがある。
 現代日本は、政治運動などとは、だいぶ程遠い空気感しかない場所だけれども、それでもこの手の熱狂は簡単に消えうせることがないのだろう。

 なお、その政治思想という装置の中身は実際には、ごく簡素なものでしかない、ということもおもしろい。ルルーシュ個人の思想性はさておき、ルルーシュが御旗に掲げていることは、実質的には「日本人(イレブン)による、自治をとりもどすこと」程度のこととしてしか、作中では語られない。ほとんど空白でる。※2

■二重の共犯性

 また、政治的熱狂を描く一方で、主人公と革命思想は、実際のところはほとんど関係ないということも重要な興奮の核をなしている。「妹のため」の暴力、というごく私的な暴力を正当化するための都合としてしか、革命思想は要請されない。
 世間から犯罪を隠す、ということと、「仲間」からも私的暴力の存在を隠す、ということによって二重の隠匿をルルーシュはしているわけだ。それによって、何重にも視聴者は共犯者として仕立てあげられる。ここは本当に『24』のSFファンタジー版といった趣がある。


■ハイテンション・メソッド/作品世界のリアリティを立ち上げる

 そのような、作品世界の「重さ」のようなものが、きっちりと感触されたうえで、本作は幾重にも、作品世界のリアリティを立ち上げる。
 思想的熱狂、共犯者的感覚に加えて、スポーツ漫画や賭け事系の漫画で構築されてきたようなハイテンション・メソッドとでもいうべきものだ。
 たとえば、『カイジ』『め組の大吾』『昴』『ハチワンダイバー』『蒼天航路』的な、ハイテンション・ストーリーの構築ノウハウに近いものを用意されている。何かが一挙に熱気を帯びて、世界の色が急速に変わっていくような演出の連続だ。

 具体的には、
1.「おれは…○○…する!」「○○してやる…!!」というようなハイテンションな宣言。典型的には「カイジ」とかと同様
2.無理を押し通す、展開。「えっ、それはさすがに無理なんじゃ…!」という展開を、何らかの手段で解決してみせる。
3.熱気感の表現(テンションの高い音楽とか、スピード感のある展開)
 あたりを軸に、展開されていく。
 コードギアスは、ほぼ全編、強力な緊張感に貫かれている。この緊張感は、視聴者を飽きさせないだけでなく、作品世界があたかもそこに存在するか、のような錯覚を視聴者にあたえていく。



■ダークヒーローの動機はなぜ、単純なのか

 強烈に頭がいい主人公でありながらも、その動機の単純さが、目をひく。「すべては妹を守るため!」という動機のわかりやすさは、間違いなくこれが万人向けのエンターテイメントであるがゆえに構築されたもの。ハリウッド的なわかりやすい人物描写を志したゆえに生まれている人格である。
 個人的に、ダークでないヒーローよりも、ダークヒーローのほうが、単純明快でわかりやすい動機を要請されがちであるような気がする。なぜ、ダークなのか、という世間的には理解されにくい理由を理解させるための理由が要請されるからだろうか。ダークでないヒーローは、けっこうウダウダとした人格でも、許されていることが多いと思うのだが、ダークヒーローは基本的にブレがないピシっした一直線な人格であればあるほどいいのだろうか。とにかく、わかりやすい、動機。本当にこれだけ頭のいい人間がいるのならば、動機の保ちかたはもっと複雑怪奇でわけのわからないものだと思うのだが。
 で、そして、この動機のわかりやすさもまた、テンションがハイになる瞬間を、明確に指し示すための装置となる。



■安全保障論を考えるための入り口に:関連本と関連作品

 ということで、エンターテインメントとしては、本当によくできてるな、と感心することしきり。もう一回、少し分析的に見直したい。できれば、『24』とかと見比べて。
 なお、蛇足ながら、本作の世界設定、政治的解決等をめぐる議論は、冷静に考えれば(冷静に考えなくとも?)、いわゆる「厨二」である。すなわち、現実の政治的解決に貢献するだけの議論の水準にはない。しかし、それを忘れさせてくれるような、熱狂をもった作品世界ではあるのは確かで、見終わったあとに「この、愚民どもめ!」とか叫びたくなるような気分になった視聴者もいるだろう。
 で、「愚民どもめ!」と叫びたくなった視聴者には、ぜひ政治思想の本などを手にとってもらいたいな、とも思う。


*戦争をめぐる倫理
 あと、どこらへんの本からすすめたらいいのか、なかなか悩ましいが、とりあえず加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書、2003)あたりでもすすめてみたらいいだろうか。うーん。政治思想とはちょっと違うけど…。この内容に接続を考えると、戦争抑止論、平和論、安全保障論あたりの議論にきちんと接続できたら、いいな、と思う。

*その他関連作品
 関連しそうな作品ということでは、アニメ的には、ほかの谷口作品ということで『プラネテス』とか『スクライド』とかすすめるのだと思うのだけれども、谷口作品のなかでもとりわけ暗さをもった傑作ということでは『無限のリヴァイアス』を、ぜひこれをきっかけに見てもらいたい。

 あとは、アニメではないけれども、何度も言うように連続ドラマ『24』は、『コードギアス』と手法的には、かなり被るところが多いと思っている。アメリカの対テロでがんばる超人警察官の話が『24』である。エンタテインメントの手法としては、非常に近いところが多いので、その意味ではおすすめ。




※1
なお、勝手な邪推だが、敵側のモビルスーツ「サザーランド」というネーミングは、『24』の主演兼プロデューサーの「キーファー・サザーランド」への、オマージュ的な何かだったりするんだろうか?制作者サイドが『24』を好きで、がっつり研究しまくってそうな感じがただよう。<毎回クライマックス>ものでもあるし、よく考えれば構成も似ているところが多い。

※2
セカイ系の話が10代の承認欲求を代替する機能をもちえているのではないか、ということを言う評論家は多い。そういう点でいえば、この革命思想的な熱狂がアニメを通して代替されている、ということもまた大きなことだろう。これは、思想性とは無縁に世界を救済するアニメとは大きな違いだ。90年代評論家風の言い方をすれば、こうした話があることでオウム的な熱狂を一方では代替し、一方では促進するような機能もあるかもしれない。

投稿 : 2012/02/06
閲覧 : 637
サンキュー:

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