「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(アニメ映画)」

総合得点
82.3
感想・評価
883
棚に入れた
4388
ランキング
365
★★★★★ 4.1 (883)
物語
4.1
作画
4.1
声優
4.2
音楽
4.1
キャラ
4.2

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ネタバレ

sinsin さんの感想・評価

★★★★★ 4.1
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.0 状態:観終わった

高速電波集団戦闘バトルサイキックアニメ。

【良い点】電波。アムロ無双。

【悪い点】人の死さえも、電波の流れの一部にしてしまった。

【総合評価】この作品の真の価値は、電波兵器(ファンネルとよばれる)による、集団での高速戦闘にあると思う。
サイコフレームとゆう、人の脳波をそのまま受信できる装置が、主軸となって、この物語が存在している。
つまり、このサイコフレーム無しでは、成立し得ないほど、エキセントリックな、戦闘空間である。
人、ロボ、電波が、こんぜん一体となって、繰り広げられる、サイキック電波バトルは、特に見物である。ファンネルの挙動、何十機も同時に出てくる敵msなど。
また、それらを全て退けるアムロの超電波パイロットスキル。
その連続によって、みている人を、電波の世界へと、トリップさせる。エキサイトエンターテイメント電波ムービーである。ちょっとした政治的かけひきは、スパイス程度。
あの、富野監督のつくったエンターテイメント娯楽アニメ映画である。
世界観は、前tvシリーズ三作を、伏線として使う、少々汚いやり方で、一見様お断り状態。あとは、本編で伏線の回収よろしく、最後のシャアとアムロの会話で、語られ、締めくくり。
アクシズを、押し返すシークエンスで、語られていること全てが、そのままであると感じる。
アムロ=献身的で、不器用、世渡り下手。
対比
シャア=器用で、世渡り上手、自分中心。
でも、本当は基本的に二人は優しい人。表現はちがえど。

次は逆シャアと個人の承認欲求について考えてみたいんだが、まずこの承認欲求どこから来るものなのかなんかを推論していく必要はあると思う。
単純に考えると承認欲求みたいなものは子供の頃、早く大人になりなりたいとか速く偉くなりたいみたいなものだろうとは思う。
単純に言ってしまえば根源的には文字どうり認められたいってことなんだと思う。
認められるってことはそもそも根源的にはどういったことなのだろうか?
ここが見えてこない限り何も語れまい。
一体誰に認められれば人間とは気が済むのだろうか?どこまで進めば気が済むものだろうか?一体承認欲求なるものはどこから来るものなのか?
この疑問を念頭において話したいと思う。

まずはファーストガンダムから考えて見る。
ファーストガンダムの中にも承認欲求解消の為のドラマがあると思ってる。
物語の中でのアムロはうだつのあがらない少年である。特にかっこよくもなく比較的くらい性格だと見える。
そんなどこにでもいそうな少年がある日突然連邦の最新兵器ガンダムに乗ることになってしまう。
そして幾多の戦いを切り抜け最後はジオン最強のパイロットシャアを退けるまでのパイロットになってしまう。
本当に彼が一年でどれだけ成長したかは良くわからないのだが。
まあ、彼の成長の度合いのようなものはラストの台詞から大体わかるような気がする。
確かまだ僕には帰るところがアルみたいなこといってたと思う。ここから考察するにして彼は一年をとうして自分の居場所の大切さに気づいたのではなかろうかと想像するのである。
それほど成長したかと思いきや続編のZにいたっても自分の居場所を自分で切り開いたハヤトとは対照的にアムロは軟禁状態だったとは言え自分の居場所を自分で切り開いてるにはいたっていないんである。
そして最後に出てくる逆シャアでは、ラストでシャアと言い合いになる。
その会話の中身とはシャアとアムロの中ではララァと言う女性はとても大切であってシャアに至っては自分の母になってくれたのかもしれない人だみたいな事も言っている。
つまりコレは一種のシャアの承認欲求の表れではないかと思うのである。それと一緒に話し合ってるアムロもたまにララァの夢にうなされてるシーンがある。
彼らの自己の承認欲求の対象はララァであった可能性は高いがそれはかなわない夢になってしまっている。
それはララァの死である。そしてまた二人は最後の会話でクェスという女性の対応付き合い方の話で口論になる。
このクェスという少女はまた人一倍承認欲求の強い女の子なんである。
でもクェスは救われない。悲壮な死に方をする。

ここでちょっと視点を変えて見る。
ガンダムの視聴者の感情移入と言うか視聴者にとっての自己承認欲求ってのはアムロが大尉になって部下に信頼され何十機の敵機ニュータイプ相手でも一人で無双していく姿に解消させられているんじゃないだろうかと思うんである。
つまり、アムロは逆シャアの頃になってまわりりからちゃんと認められているように見えるんである。
そのこと事態に視聴者は凄く満足したのではないかと想像するのである。そしてそこにカタルシスを感じて熱心に映画を見たのではないだろうか。
そこで話が終われば簡単なんだろうけど問題は話はそこで終わらなかったんである。
それは最後の落下していくアクシズの中で語られているシャアとアムロの会話の内容である。
それをもって富野監督は観客に対して何を伝えたかったのか考える必要があると思う。
その内容はと言うと簡単に言ってしまえばシャアもアムロも認められたはしたがその自分の居場所を好んでいないように感じるのだ。シャアは政治することを嫌っていたようだし、自分が担がれてしまっている事を嫌悪しているように思えるのだ。それでクェスをめんどくさいと思って邪険にしたのではないかと想像するのである。
アムロはいまだにララァの夢を見ている。まだどこか子供のままで承認欲求が満たされていないのであろうか?
そしてシャアもアムロも根源的には何も解決してないし何も生み出してもいないし子供もいない。
それはシャアもアムロも根源的には本物の大人になり得なかったという一つの結果論ではないかと思うのである。

そのことは端的に一体どういったことかというと、承認欲求とはどこまでいっても満たされない物ではないか?と言う一種の問いかけではないだろうか。クェスはその雛形だった可能性は高いと思う。
実はそれはガンダムを視聴している人達に向けられたメッセージで「承認欲求ってのはどこまでいっても満たされないもので創作劇ばっかり見ていて承認欲求満たしていても大人になれないよ」ってことじゃないかって思う。
それをもって自己承認欲求を刺激する事でガンダムブームを創り上げたと同時に大人になれない自分富野監督、ガンダムの視聴者を皮肉ったんじゃないだろうかと思うんである。
後の∀では「何気ない日常に満足する事が大事」と言うテーマ性を徹底的に描く事になり富野監督も成長したなって感じがする。

今、逆シャアの作画を観なおす。
今日はちょっと逆シャアってどんな感じだったか観返して見た。
作画崩れ~。コレって劇場版だよねぇ。私、山田きらさかさんのパートなんとなくわかるんだけど。
いやZの時から作画監督してるから。独特のなんか濃さのアル作画。
私は正直苦手だ。
多分富野監督的には湖川さん意識してるんだろうけどね。気持ち悪い感じがするし、なんか北爪さんのキャラのかっこよさのシャープさが消えてくどい感じになっていて画面で主張して浮くんだ。きらさかさんのパート。
逆シャアって作画にやっぱ統一感ないよねぇ。普通に崩れてたり。
とにかくキャラのあごのラインがみんな丸くてちょっと気持ち悪い感じがした。コレは北爪さんのせいだろう。
目はシャープでかっこいいんだけどね。

それとは対照的にMS戦は本当によく動くし良好。枚数多く使ったりめっちゃ枚数抜いてスピード感出してきたり。
そしてなんといっても画面いっぱいに出てくる何十機のギラドーガ、ジェガンがみんな全部描き分けられていて凄い感動。こんなにいっぱいMS出てくるの後にも先にも逆シャアだけだよ。
そして何回も見たファンネルの高軌道にまた感動。
とにかく人間の絵はかなり問題あったと思うけどメカ戦はかなり感動。
いやUCよりも0083よりも、マクロスよりも凄いよ。
富野監督って無駄に動かしてリアリティを出すメカ戦の演出は天才的だよ。
唯一無二だよ。

投稿 : 2013/12/14
閲覧 : 291
サンキュー:

5

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