生命の神秘おすすめアニメランキング 4

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90.0 1 生命の神秘アニメランキング1位
もののけ姫(アニメ映画)

1997年7月12日
★★★★★ 4.2 (1930)
12396人が棚に入れました
エミシの隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲った「タタリガミ」に呪いをかけられる。ただ死を待つより、己の運命を「曇りなき眼」で見定めるため、はるか西方の地を目指して旅立つ。そこでアシタカが見たものは、森を切り拓いて鉄を作るタタラの民とその長エボシ、森を守る山犬一族、そして山犬と生きる人間の少女サンであった。アシタカはその狭間で、自分が呪われた理由を知る。やがて、森を守ろうとする動物たちと、その長「シシ神」を殺そうとする人間達の壮絶な戦いが始まる。

声優・キャラクター
松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、上條恒彦、西村雅彦、島本須美、小林薫
ネタバレ

イシカワ(辻斬り) さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

宮崎駿監督の海外向け作品

もののけ姫
ストーリー
森や山が世俗から離れた神の領域として信仰されていた遠い過去。
宮﨑駿監督は、武士や農民といった焦点として当たりやすい人々ではなく、先住民や漂流民、業病を抱えた者など、歴史の表舞台に立たない人々に着眼した。主人公の一人であるアシタカもまた、天皇と対立して住んでいた土地を追われた蝦夷(以降エミシと表記)という古い民族の者であり、いずれは追いやられている部族を背負っていかねばならない立場にある青年だ。まだ実権を握っていた天皇や武士といった体制側と対立したために、歴史の影となり、まともに注目されないまま埋もれていた人々の物語でもあるのだ。
そのような時代背景の中で、事件は起きる。
縄文的村落で暮らしていたエミシの一族の前に突如として現れた得体の知れない存在。それは山のような体を揺さぶり、辺り構わず突進する抑えがたき猪の祟り神だった。堪えられる精神の限界を超え、憎悪と憤怒が噴き出し、全身にある穴という穴から黒い感情が実体化していた。肉眼で視えるそれは多数の触手となって、巨躯を覆って黒い生き物のようにうねる。そして周囲の人々が近づけば触手は絡みついて自由を奪う。
アシタカは村落の危機を救うため、祟り神を鎮めようと説得するがしくじる。しくじったせいで村の者達は窮地に陥り、見かねたアシタカはついに弓で祟り神を射殺してしまう。その瞬間、祟り神の呪いを腕に受けたアシタカは、大きな弾丸が祟り神の遺体から出てきたのを目撃。村落に持ち帰り、年長の者達に意見を乞うた。
老婆は告げる。古き神が祟り神に変じたのだ、このままでは呪いに体が蝕まれ、取り憑かれて死ぬと。
「曇りなき眼(まなこ)で見定める」
アシタカは、弾丸を手がかりに、なぜこのような事態になったのかを曇りなき眼で見定めるため、真実を探求すべく神々が棲むという森へ、ヤックルという獣の背に乗り独り旅だっていった。

4つの視点から成り立つ構成
1つ目は、エミシの一族であるアシタカの視点だ。他の主な登場人物も、象徴的な存在として描かれている。

2.国崩しを望む女性、烏帽子御前(エボシゴゼン)
烏帽子御前という美女は、戦乱の世によって行き場を失い、弱者の立場に陥り身売りされていた女達を買い取り、タタラ場の製鉄で資金を得ていた。初期投資の予算はあったのだろうが、この時代にあって机上の空論ではない経営理念を持った実力派の人物である。
さらには女人が入ると鉄が汚れるという理由から踏み入れることが許されないタタラ場の製鉄の仕事に、率先して身売りされていた女達を起用した。既成観念に縛られない人物ともいえるだろう。男尊女卑の国にあって、女性自らがリーダーとして立つ。国という既成概念ですら崩してしまおうという考えすらある、新興勢力の頭目である。青銅製の兵器が一般的であったころから、鉄製品が現れる時代の変遷もこの物語では描かれているのだ。

3.人間の権力者とその手先
天皇たる帝(ミカド)とジコ坊
森に住むシシガミは、業病を癒やす薬になるとか、不老不死になるとかいう噂から、その首を望んでいる。また、タタラ場の製鉄所に目をつけている。非人頭であり師匠連でもあるジコ防を動かし、密偵として森へと差し向ける。ジコ坊は唐傘連という特殊な組織を配下に連れており、烏帽子御前に接近。森へと唐傘連を放ち、暗躍する。

最後の勢力
4.もののけ姫と古き森に棲む動物神たち
もののけ姫というタイトルどおり、アシタカの向かった先の森には古き動物神が棲んでいた。針葉樹林の豊富な屋久島を視察してイメージを得たという森。森や自然は絵として美しいが、演劇の舞台装置のようなものではなく、作品を支えるテーマの一つといってよいだろう。岩山ですら苔の緑に覆われ、巨木が聳え立ち、鬱蒼と生え茂る木樹は天を隠し、葉の隙間から漏れ出る陽光は神秘的な光を大地に落としている。

人と自然とのかかわり合いを描いてきた宮崎駿監督だが、これまでの自然と人の調和、協調路線を主人公に課すのではなかった。

もののけ姫であるサンはナウシカとは異なり、人との調和など求めていない。完全に自然側に即して生きている。何より、森を荒らす人々に攻撃的で容認しない態度だ。人間側もまた一方的に、地中にある鉄を奪うために森を荒らす。ナウシカのように王蟲やトルメキアのクシャナと対話を試みたりすることもない。対話のない双方激しい憎しみと怒りがあり、侮蔑を隠すこともない。これは過去のヒロイン像、さらにいえば、宮﨑駿監督の理想像を自らくつがえしてみせた、理想ではない造形のヒロイン像である。過去、宮﨑駿監督は周囲から、理想像的すぎる、世の中に存在していないかのようなヒロインを描きすぎるといったバッシングに立たされていた。いってみれば、風の谷のナウシカや未来少年コナンのラナ、天空の城ラピュタのシータなどといったお嬢様、男性から見た理想像的なヒロイン像にNOをつきつけられたのである。
その中で、新しいヒロイン像を模索し、魔女の宅急便のキキのような、過ぎたる理想像ではない、女性から見ても共感されるぐらい身近なヒロイン像を描いてみせていた。そして今回、理想像ではなく、といってもただの現実的なヒロインでもない、第三のヒロイン像を確立させた。勇猛果敢で人に攻撃的、調和など用いぬ、アシタカに出会った際にも睨みつけるような一瞥を送るなど、人から好かれやすいようなヒロインとはまったく別ものといってよいものとなっている。視聴者に媚びを売ることなく、自らが要求されたものに妥協することもないヒロイン像、厳しい試練を宮﨑駿監督は自らに課したのだろう。

『人の業を受け入れるのは、もののけ姫であるサンではなく、タタラ場の烏帽子御前』

風の谷のナウシカでは、人の業の象徴である、腕が石になってしまう病を得た老人が、トルメキア軍のクシャナに対していう。
城オジたち「あんたも姫様じゃろうが、儂らの姫様とだいぶ違うの。(手を差し出しつつ)この手を見てくだされ。ジル様と同じ病じゃ。あと半年もすれば石と同じになっちまう。じゃが、儂らの姫様は、この手を好きだというてくれる。働き者の綺麗な手だというてくれましたわい」
これは主人公のヒロイン像を確立させるに値する一つのファクターといってよい。
{netabare}烏帽子御前が猪神を石火矢(火縄銃)で撃ったことに対してアシタカは批難する。呪われた右腕は烏帽子御前を殺そうとするが、烏帽子御前は平然と構えている。{/netabare}
石火矢(火縄銃)づくりのおさはアシタカに陳情する。
「お若い方、私も呪われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみはよっくわかる。わかるが、どうかその人を殺さないでおくれ。その人は、儂らを人として扱ってくださった。たった一人の人だ。儂らの病を恐れず、儂の腐った肉を洗い、布を巻いてくれた。生きることは、まことに苦しくつらい。世を呪い、人を呪い、それでも生きたい、どうか、愚かな儂に免じて」
人の業を受け入れるような、若き指導者としてのヒロイン像を宮崎駿監督はサンに与えなかったのだ。
これは過去作品の、自らの訴えそのものを、自らで否定したに等しい行いだ。それは自然と人間の調和を訴えてきた作品の否定でもある。この物語は、調和を目指していない。人によっては、宮﨑駿作品の理想をキレイ事だという人もいるだろう。これまでの作品の定義を自らで覆して発表するのは、挑戦的な行為ともいえる。
{netabare}古き風習を打ち破り、国ですら既成概念として崩そうと望む烏帽子御前。これまであったものの破壊によって、新たなものを打ち立てるという思想は、もののけ姫や森の神々にも向けられており、思想的な相違から双方が戦うことになるのだ。{/netabare}

本来物いわぬ動物たち
意思表示がはっきりしない彼らがもし人の言葉を解し訴えるとしたらどうなるのか。
山犬であるモロという名の神のセリフが明確に語っている。
「おのれ人間めっ!」
このセリフを聞いたとき、筆者は、やってくれたな、と思ったのである。筆者自身、かなり宗教学的な分野の本を趣味レベルで読んでいる。そのため、宗門の属する人間の思考形態が一般人より脳内で鮮明化できているという自負がある。
神という存在は、人間の行いによって、罰も与えれば、崇めて神のいう言葉に耳を傾け、いう通りにすれば救いもするという理屈である。しかし、現実的な視点で見れば、宗教指導者、実質的な権限者にとって都合の良い教えになっている。さらにいえば神は人間の都合の良いこと以外はしないような考えがある。
もし、鳥や魚にとっての神がいて、人間が鳥や魚を大量虐殺したのなら、その罪を贖わせるために罰を与えるだろう。創造主といっておきながら、極度に人間偏重な考えでしかない。万物の創造主なら、他の生物に対しても当然愛情も親しみもあるだろう。それが、人間ばかり都合の良い教義がまかり通るのは、神の正体が、信者の願望からくる理想像そのものでしかなく、それ以上でもそれ以下でもないからではないのか。
その人間に都合の良いはずの神が、おのれ人間めっ!と言い放つのである。人間に都合の良い神でなくても別段不思議でもなんでもないはずだ。人間は基本的に自分のことしか考えない側面がある。その偏った信仰と、その信仰という名の願望によって生まれてきた神とその教えに鋭い一撃を放った。そのように直感した。
生まれ変わっても一番功徳を積んだら人間に生まれ変わる。だから人間こそ一番権利があると説く宗教もある。最初に説いた指導者はそのようなことを口にしていなかったとしても、次第に変質し、自分に都合が良いように変わっていく。宮﨑駿自身も口にしていたが、仏教が正しく伝わらなかったからこそ、繁栄したところがある、というような意見があったという。
アメリカ辺りではキリスト教の勢力から、もののけ姫上映の停止を求める強い要請があったことも事実である。宮﨑駿監督は、魔女の宅急便でも同じく、キリスト教にとって悪という概念である魔女を主人公の作品作りをした。ある意味真っ向からの対決姿勢にでさえみえる。
宮﨑駿監督の風の谷のナウシカや他の作品との類似点は多い、キャラクターの人間関係、主人公と対峙するのは女性指導者と中年の男性配下。自然と人間の環形を問う形式。ボーイ・ミーツ・ガールの男女の主人公。宮﨑駿監督作品をよく知る人にとっては、整理して焼き直しした作品に思える人もいるだろう。ただ、筆者の視点からすると、海外向け作品としては、初めてのメジャーデビューに近いものだと認識している。
きちんと仕切りなおして、集大成としての作品作りにして、海外へのメッセージとしたのではないだろうか。
キリスト教では、創造主たる神がすべてを創りだしており、その神の信徒であるのなら、他の生き物は神と自分たち人間のためにあってよい、いってしまえば、信徒は神の代理人として、権利を譲渡され世の中の生き物だろうが資源だろうが自由に使う権利があるという考えが古来まかり通っていた。近代となって、はじめてエコロジーや自然環境を考える人々が出現してきたが、神によって創りだされた自然は、神の代理人たる信徒の利用する権利があって当然としか考えてこなかった面がある。絶滅危惧種が増え続け、人間の行動によって絶滅しても、神によって許される、それが当然という考えがあったという論文の記述を複数の歴史的書物で見かけた。筆者も同意である。その一辺倒な思想に否を突きつけたようにしか、筆者にはみえなかった。
これは海外向けに作った作品として、明確な意思表示があったというところが、筆者の独断と偏見だ。その自然側にいる、神の子としているもののけ姫。神の子という言い方をすれば、イエスが挙げられるが、まったく別アプローチによって、神の子と神話を描き出している。

『物語のロジックとしての整合性を捨て、メッセージ性を優先する姿勢』

最初のシーンである村落で、助けられた少女、カヤはアシタカを慕って、黒曜石の小刀をお守りとして渡すのだが、それをもののけ姫であるサンに渡してしまう。普通に考えるのならば、慕っている女性からの贈り物を、他の女性に心の表れとして贈ってしまうというのは、倫理的に問題があるところだろう。
物語のロジックとして考えるのならば、整合性がない、なんのためにあのシーンはあったのか、物語の骨子、シナリオのプロットとしては無駄な部分ではないかという指摘があっても不思議ではない。
しかし、宮崎駿監督の作品はロジックよりメッセージ性のほうが優先されている。製作過程においても、ある時いきなり、なんの予定もなかったキャラクターが登場してしまうこともよくあるという。予定を組んで制作に入るのは、放映時間の制限内で物語を完成させる上で当然の行為だが、宮崎駿という人はシナリオをいきあたりばったりで作ることもあったという。そのせいで、先が読めない展開となりやすく、却って視聴者は、わからないがゆえの興味が沸く。いってしまえば、どうなるのかわからないからこそ、手に汗握る展開も出てくるのだろう。うまくできなかった時の高いリスクと引き換えにした面白さであり、誰にでも、はいそうですかといってできるものでもない。行き当たりばったりで作ると、たいていは骨子がうまくできあがらず、頭と終わりだけがはっきりしている、いわばミミズのようにクネクネするだけの作品となり、キャラが立たないのと同じく、シナリオが立たない。シナリオとしてうまく成立しにくいのだ。同じやり方で、シナリオが成立できてしまう辺りが、駿監督の特異性といってもいい。
ただこのやり方を踏襲したアニメゲド戦記は、原作が理論性と整合性を突き詰め、計算づくで極めてロジック的に作られていた。それを捨てたせいでシナリオはある意味破綻してしまった。その意味でいえば、もののけ姫よりナウシカの方がロジック的に整合性の優れたシナリオといってよいだろう。

サンとアシタカが最後にいうセリフこそ、自然と人間との調和や協調路線ではない、シビアで現実的な立ち位置を示している。
{netabare}
サン「アシタカは好きだ。だが人間を許すことはできない」
アシタカ「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」
アシタカが黒曜石の小刀を手渡す意味を理論的に考えようとするのならば、一応できなくもない。タタラ場で暮らすと口にすることによって、エミシの里に戻らないことを宣言することになる。そこまで考えると、もう小刀を手渡した時からエミシの里に戻らないことを決意していたことになる。
共に生きよう、とは、どちらかが滅んでもかまわないということではなく、お互い死ぬまで戦う必要がないということなのだろう。だが二人で同じ屋根の下、夫婦になって暮らそうという意味ではない。
{/netabare}
単なるボーイ・ミーツ・ガールではなく、離れて暮らすという距離感が、自然と人間との距離感の暗喩として使われているラストだというのが、筆者の結論だ。

投稿 : 2020/07/04
♥ : 17
ネタバレ

Tuna560 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

『もののけ姫』作品紹介と総評+考察「宮崎駿の自然観②」

こちらも言わずと知れた宮崎駿監督の代表作の一つ。
そして、私にとってのNo.1ジブリ作品です。

(あらすじ)
エミシの隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲った「タタリ神」に死の呪いをかけられる。ただ死を待つより、己の運命を見定めるため、はるか西方の地を目指して旅立つ。
そこでアシタカが見たものは、山林を開拓して鉄を作るタタラの民とその長エボシ御前、森を守る山犬一族、そして山犬として生きる人間の少女サンであった。アシタカはその狭間で、自分が呪われた理由を知る。やがて、森を守ろうとするもののけたちと、もののけの長「シシ神」を殺そうとする人間の壮絶な戦いが始まる。(wikipedia参照)

この作品までのジブリ作品は西洋風ファンタジーか現代日本を舞台にしたものが多かったのですが、本作はそれまでの世界観とは一線を画す”純和風”なものとなっています。この世界観は私にとっても新鮮に感じ、またこの作品に引き込まれた第一要因でもあります。

作画に関しても非の打ち所がないように思います。特に、”シシ神の森”の自然描写は非常に素晴らしい。
森の中を見渡した俯瞰風景から苔や草木のアップの描写まできめ細やかに描かれ、美しくもあり神秘的でもある自然が表現されています。劇場で観たときは本当に「その森の中に迷い込んだのではないか?」という感覚に陥った事を、今でもよく覚えています。

作品のテーマが複数並立している事も本作の特徴ですかね。そのなかでも、『風の谷のナウシカ』でも描かれた「人間と自然の共生」、そして「神秘主義と合理主義の対立」という2つのテーマにとても惹かれました。
本作では各キャラの思想・立場がある程度細分化され、その衝突や対立をメインに描かれています。
簡単に分けるとすれば、下記になりますね。
 ・自然との共生を重んじる(アシタカ/エミシの村)
 ・自然そのもの(サン/シシ神の森)
 ・発展の為には自然をも搾取(エボシ御前/タタラ場)

では、ここからは『風の谷のナウシカ』のレビューでも述べた”自然観”を絡めながら、特に”エボシ御前/タタラ場”の視点でこの2つのテーマを掘り下げながら考察していきたいと思います。考察テーマは「合理主義による自然観の変容」です。


{netabare}・合理主義と自然観
まず始めに「合理主義とは何か?」について簡単に説明をします。
”合理主義”というのは、”感覚や経験よりも、理性や論理を元に認識を行う”態度の事です。主に哲学の分野で発達し、後の近代科学の発展に多大な影響を与えた主義でもあります。哲学と近代科学を並列して記す事に疑問を感じる方もいると思いますが、実はこの2つは密接に関わっているのです。

ここでいう哲学は”西洋哲学”の事を指します。哲学と言えば「人間を考える学問」という認識が強いかと思いますが、中世ヨーロッパの哲学は”神(唯一絶対神)”を考える学問でした。そして、”神の痕跡”を探す為に神が創ったとされる”人間や自然”を観察対象とし、偉大な神の摂理を紐解こうとしたのです。そこで成立したのが”合理主義”です。感覚的に信じられていた”神”を物理的・論理的に証明しようとしたのです。しかし、皮肉にも証明されたのは”神”ではなく”物理的原理”でした。

具体例を挙げるとすれば、イギリスの哲学者アイザック・ニュートンでしょう。彼は”観察出来る物事の因果関係を示すという哲学”の解釈を展開し、万有引力の法則を提示しました。月と地球の動きを観察しその法則を導き出したのです。証明されたのはやはり”物理的原理”でした。そして、彼のこの解釈方法が近代科学(科学的合理主義)を発展させたのです。

合理主義に根ざした哲学が近代科学の発展を導いたのですが、その元を振り返れば”神を知る為に人間や自然を客観的に観察する”ことが原因だと言えます。それすなわち、その根底には”西洋的自然観”が存在したと言う事が出来ます。つまり、”西洋的自然観→哲学(合理主義)→近代科学(科学的合理主義)”の順に派生したと考える事が出来ますね。これが”合理主義と自然観”の関係です。


・『もののけ姫』の中に見られる合理主義
ここまで読んで「純和風な『もののけ姫』に西洋的な思想の成り立ちの話がどう関係するのか?」とお思いの方もいるかと思いますが、あながち関係のない話でもありません。本作中の重要なアイテムとして西洋近代文明を象徴する物が登場しているからです。それは「石火矢(鉄砲)」です。(作中では「明からの伝来物」という説明がありましたが、その性質は合理主義を具現化した物として描かれています。)

まず物語の発端としては、石火矢に撃たれた”タタリ神”がエミシの村を襲う所から始まります。”タタリ神”は元々は猪神で山を守る主神でしたが、製鉄に必要な薪を求め森林破壊をしていたエボシ御前(タタラ集)と対立し、石火矢の前に破れたのでした。石火矢の登場により国内の人間と自然の勢力均衡が大幅に変わり、生態系の破壊を可能にしたのです。

エボシ御前は石火矢により強大な理想国家を造る事を目的としていたのですが、それに必要な鉄を量産する為には多大な自然資源が必要だったのです。山を崩し、森林を破壊すると勿論”自然(神)”の怒りを買う事になります。しかし、”自然を屈服させる力”を得たエボシ御前は、自らの目標の為に”神”を討伐する道を選ぶのです。

つまり、エボシ御前が得た力とは”合理主義によって生まれた近代科学”、彼女が目標としていたのは”近代国家”の建立だったのです。したがって、本作では”近代人と古来の日本人”との対立がメインに描かれていたのだと私は考えました。


・何故「日本」が舞台なのか?
では、本作も『風の谷のナウシカ』と同様に「”日本的自然観と西洋的自然観”の比較が描かれているのか?」と思いがちですが、実は少し違います。なぜなら”西洋的自然観”は本作では描かれていないからです。

本作の舞台は日本ですので、人と人が対立するのは勿論日本人同士になります。登場人物が全員日本人であれば、西洋的自然観は必然的に登場しません。では、何が描かれているか?それは、考察テーマにも挙げた「自然観の変容」だと思います。

近代科学を手に入れ、近代国家の建立を目指したエボシ御前とタタラ集は、神と崇めていたはずの自然に対し破壊行為や討伐を行いました。しかし、これは”西洋的自然観”の為ではなく”近代科学(科学的合理主義)”のためです。もともと備わっていた”日本的自然観”に”科学技術や合理主義”といった近代文明が組み込まれ、いわゆる”ハイブリッド型自然観”へと変容したのだと考えられます。

実は、この”ハイブリット型自然観”は、近現代の日本人の自然観と同じものだと言えます。日本の近代化に拍車が掛かったのは明治維新後ですが、維新で活躍した志士に多大な影響を与えた佐久間象山の言葉を記した『語録』にこんな言葉があります。「東洋の道徳、西洋の芸」。つまり、日本人の道徳はそのままに、西洋の技術だけを取り込んで近代化を成そうというものです。結果、日本は日本的観念はそのままに近代化を果たしたのです。

”古来の日本的自然観”と”ハイブリッド型自然観”の対立。これを描く為に舞台を日本にしたのではないかと思います。


・私が感じた宮崎監督からのメッセージ
『風の谷のナウシカ』のレビューでも述べましたが、宮崎監督が根ざしているのは”日本的自然観”です。もっと言えば、照葉樹林文化論によって確立された”森林文化”に根ざしているので、”古来の日本的自然観”の立場の方だと言えます。

本作で”古来の日本的自然観”と”ハイブリッド型自然観”の対立を描いたのだとすれば、勿論前者を訴えかけると思われます。しかし、劇中でアシタカがサンに投げかけた最後のセリフを聞いて、違うメッセージがあるのではないかと感じました。

「共に生きよう」
このセリフを最後に持って来た事に意味があると思いました。

サンはシシ神の森で、アシタカはタタラ場で。それぞれ違った価値観や自然観を持った環境で”共に生きよう”と投げかけたのです。どちらかを選んで暮らすのではなく、お互いの根ざした観念を失くさないように別々に暮らす事を選んだのではないでしょうか。”自分とは違う”からといって矯正を強いるのではなく、多様な価値観や自然観を持った者同士であっても”共生する術がある”という事を伝えたかったのではないかと感じました。

これは、そっくりそのまま現代の日本人にも当てはまるセリフに思います。
現代の日本人の大半は”ハイブリッド型の自然観”の基で育ったと思いますが、元を正せば”古来の自然観”も持ち合わせているのです。その2つの自然観と”共に生きてほしい”というメッセージが込められていたのではないでしょうか。

”矯正”ではなく”共生”。響きは同じですが、意味はこんなにも違うのですね。


さて、実はもう1作宮崎監督の自然観が伺える作品が残っております。
今度はその作品で”人間と自然”との関わり方について考察していきたいと思います。(続く){/netabare}

(記述:3/12)

投稿 : 2020/07/04
♥ : 46

コンビーフ さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

もののけ姫への個人的見解

【良い点】

・ストーリー展開
・安定のジブリ作画
・アシタカせっき
・サン
・世界観

【悪い点】

・終盤のテンポ
・アシタカの行動


ストーリーを簡単にまとめると、

昔の戦に敗れたアシタカの一族はひっそりと森に暮らしていました。ある日、森の様子がおかしいと知らされたアシタカは、見張り櫓に登って、爺と森を観察していました。すると、中からモジャングが現れ、ホモォのように走り出しました。。いろいろあって、モジャングの呪いを受けたアシタカは、もう永くはありません。そこで、一族の巫女(なのにババア)は言いました。

「西へ行ってこい。どうにかなるよ」

村を出たアシタカは、西へと向かうのだった……



登場人物

アシタカ
本作の主人公。エミシの村の青年。現代のヘタレ主人公とは大違いに素晴らしい、ある一点を除いて。年は17歳。

ヤックル
本作のヒロイン。大っきなカモシカ。可愛いし、頭いい

サン
本作の準ヒロイン。可愛い。声優がビックリ。年は15歳。人間くさいと言っておきながら、ビーフジャーキーを口移しするツンデレ。

エボシ
本作の悪キャラ。たたら場をまとめると女主人。モロナイス!と思った人は数知れず。

ゴンザ
ギャグ要員。千と千尋の神隠しに首だけ再登場。

ジコボウ
エボシと同じくウザいキャラ。最初はいい奴と思ったのに……

モロ
大っきなワンワン。「黙れ小僧! お前にサンが救えるか!」でおなじみ。サンのお母さん的存在。でも中の人のせいべt……

カヤ
アシタカの許嫁、だった女の子。萌え豚には人気。別れの際、「自分の想いはいつまでもあなたに」と限りない愛を込めた玉の小刀をアシタカに渡すが、その小刀をアシタカは……どちらにせよ、かわいそうな女の子。年は13〜4歳。

ヒイ様
村の巫女ババア。声優がビックリ。



物語のテーマは森と人との共生でしょう。「生きろ」と散々テロップなどがありますが、自分一人で生きていくことを言っているわけではないと思います。最終的に、この結論へと向かうはずです。

ストーリー自体、素晴らしいと言えるかはわかりません。小さいころナウシカと同じくらい好きでしたが、今改めて見ると本当に素晴らしいのかな? と首を傾げてしまいます。
作画は素晴らしいです。さすが金かけただけあるって感じです。
音楽も、とくにアシタカせっき(序盤で流れるあれ)を筆頭に、素晴らしいものばかりです。さすがジブリ、久石譲。

さて、この作品についてはいろいろな見解があると思います。ただ、私から言えることは、あなたが見たものが全て、です。人の考えはそれぞれなので、こだわってもしょうがないですね。

ただ私が言いたいのは、アシタカとサンのこれからです。
恋愛脳なら気になるでしょう。あの場面で、サンは森で、アシタカはたたら場で生きることを誓いました。そして、アシタカはヤックルに乗ってサンに会いに行くとも……

サンはあれから、傷ついた森とその生き物たちを助けながら生きていったでしょう。まあ山犬の一族は本来、森とシシガミを守る存在なので、そうなるのは必然かと思います。ただ、サンは人間と関わっていったかというと話は別になるかもしれません。
アシタカとの和解、たたら場の連中と決着が着いたとはいえ、世界は広いはずです。たたら場が隣国に襲われたように他にも国や村はあるでしょう。私たちの世界が文明にまみれたたように、やがて森も削られていくのかもしれません。サンはその森を守るため、生涯を捧げていくと思います。
アシタカはたたら場の復興と、サンの住む森を守るため、引き続き頑張ることでしょう。これは、宮崎駿さんもおっしゃたようです。

ただ、アシタカとサンがこの後、頻繁に会ったかどうかと言われると悩みます。あの場面で、アシタカはヤックルに乗ってサン会いに行くと言いました。森が目と鼻の先にあるのにも関わらず、です。いつでも会えるなら、そんなことは言わない気がします。アシタカもサンも結局、自分たちの住む世界を守るためその生涯を奔走することになったのでしょうか。となると、二人が会えたのはもっと後になるのかもしれません。



まあ、そんな深いこと考えず見るのが当たり前です。あの後はアシタカサン仲良く暮らして、子供も作ったと考えればハッピーになるはずです。
個人的には、アシタカが一度村に戻って、カヤを向かいに行く的なやつでもいいですね。まあ、ないと思いますが。

つらづらと駄文になってしまいましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

投稿 : 2020/07/04
♥ : 3

88.0 2 生命の神秘アニメランキング2位
蟲師(TVアニメ動画)

2005年秋アニメ
★★★★★ 4.1 (1828)
9725人が棚に入れました
「蟲」(むし)は作者の創作であり、我々が一般的に知っている「虫」いわゆる「昆虫」ではない。「蟲」とは、我々の世界でいえば幽霊や妖怪のような存在がそれにあたり、霊能力者を「蟲師」(むしし)という「蟲」専門の医者、かつ研究者、退治者としている。
時代設定については「鎖国を続けた日本」、もしくは「江戸期と明治期の間にある架空の時代」といった所との事。ゆえに作中においては、登場人物は主人公を除いて全員和装をしており、登場する風景も日本の原風景を思い起こさせるようなノスタルジックなものとなっている。
本作は、「蟲師」である主人公ギンコが「蟲」により引き起こされる様々な謎を解き明かしていく物語であり、基本的に一話完結で物語が構成されている。

声優・キャラクター
中野裕斗、うえだゆうじ、土井美加
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

独特の世界観って何さ?

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 おもしろいですよね、『蟲師』。成分タグに「独特の世界観」というのが付いていました。私も同感ですね。色彩とかだけじゃなくて、世界観が独特なんですよね。

 『蟲師』を見るたびに思い出すことがあります。我が家にホームステイしていた、アメリカ人の大学生のこと。
 彼は『蟲師』を題材にレポートを書いていました。彼に頼まれて、そのレポートの日本語チェックをしてあげたんですが、文法以上にいろいろ気になったんです。私たちが感覚的に分かっている『蟲師』の世界観を把握できていないように感じました。彼も『蟲師』が「独特の世界観」であると主張していました。
 果たして私(たち)と同じ意味で使っているのか…。これがこのレビューの主題です。

↓畳んでるけど、ネタバレはないよ。

<彼の世界と私の世界>{netabare}
 彼は、とある一神教の教徒です。比較的敬虔な。まぁそれはいいのですが、「まず神様がいて、神様に模して造られた人間がいて、その他」みたいな序列を、傾向として持っている。そのせいかどうかは分かりませんが、彼は勝敗やランクを付けるのがとても好き。支配と管理と序列の世界。これが「彼の世界」です。

 一方、私は神様が何かなんて気にもしない。あえて言うなら、コントロールの出来ない不可侵なもの。つまり、よく分からないもの。環境みたいなものです。世界を「神様→人間→自然」という序列じゃなくって「人間と人間を取り囲む環境」という比較的フラットな関係で見れる。これが「私の世界」です。
{/netabare}

<蟲師の世界>{netabare}
 「蟲師の世界」には、2種類の人間います。一部の例外を除けば、蟲師である蟲が見える人間と、一般人である蟲が見えない人間に分けられます。「蟲師の世界」を考えるには、特別な存在である蟲師の視点で見てはいけませんよね。まずは作中の一般人の視点で見る必要があります。主人公のギンコが蟲師であったり、私たち視聴者にも蟲が見えていたりするために、ややもすると忘れがちですが、「蟲の見えない世界」が基本にあるんです。

 『蟲師』の各エピソードを見たときに、蟲が全く見えないことを想像してみてください。何が起こっているか分からなくて、ちょっと怖い。でも、ただそれを受け入れるしかないですよね。これが作中の一般人が見ている「蟲師の世界」です。つまり、蟲が神様だとは言えないまでも、「コントロールの出来ない不可侵なもの」という人間を囲む環境として描かれているってことです。これは「私の世界」に酷似していますよね。

 『蟲師』を見たときに感じる日本っぽさというのは、着物を着ているから、というのではなくて、その題材となっている迷信を含めて、精神世界が私(たち)になじみやすいからのような気がします。
{/netabare}

<独特の世界観①>{netabare}
 『蟲師』は「私の世界」と近いものであるはずなのに、「独特の世界観」を感じてしまう。この感覚はどこから来るのでしょうか。

 見えないはずのものが見えてしまう、というのは理由にならないでしょう。
 このような作品は、たくさんあります。例えば「妖怪もの」がそうですよね。妖怪も本来は見えないため、一般人にとっては「環境」みたいなものです。つまり、「妖怪もの」も「私の世界」が根底にあるわけで、「蟲師の世界」と基本構造は同じと言えます。でも、「妖怪もの」に「独特の世界観」があるって言われることって、あまりないですよね。見えないはずのものが見えてしまうことは、重要ではないように思われます。

 蟲が特殊でしょうか? そう思っていたのですが、これは誤解のようです。
 蟲も妖怪も、自然現象・生物・病など様々な概念を持っています。つまり、概念的には違いがない。姿かたちが特殊だというのなら、いびつな妖怪が出てくる作品には全てに「独特の世界観」タグが付くことになってしまいます。でも、これは少し乱暴ですよね。
 仮にですが、蟲は妖怪ですって作中で説明されていたとしても、『蟲師』に「独特の世界観」タグはついていたと思うんです。つまり、蟲っていう存在が「独特の世界観」を作っているわけではなさそうなんです。


 『蟲師』を「独特の世界観」にしている原因は、おそらくギンコです。ギンコという主人公が特殊なんです。
 「妖怪もの」では、主人公が妖怪を「環境」として見るのではなく、まず友人や敵として相対します。意思疎通ができなかったとしても、妖怪との対話が前提としてあるんです。そういう世界観が作品としての魅力になっている。
 でも、『蟲師』では蟲との対話をせずに、蟲という環境を介して、人間と相対することが主題となっているんです。

 もし仮に、ギンコが蟲とバトルを始めたら、これはもう「妖怪もの」ですよね。つまり、「私の世界」を起点に「妖怪もの」ではなくて「独特の世界観」にしているのは、蟲ではなくてギンコなんです。ギンコが蟲という異形のものに見せる態度が「独特の世界感」を作っているんです。
{/netabare}

<独特の世界観②>{netabare}
 『蟲師』にも、「彼の世界」の住人がいます。環境である蟲をコントロールしようとする人々です。彼らは、基本的には不幸になっちゃいますよね。作者はこっちじゃないよって言っている。
 「私の世界」の住人は、一般人ですね。蟲という環境に翻弄され、耐えるだけです。現実世界の私たちと同じで、目に見えないものを環境として受け入れることしかできません。
 「独特の世界観」の住人は、ギンコとギンコというフィルターを通したときの私たち視聴者です。

 ギンコは、蟲と対話をしません。話しかけることはありますが、あれは独り言みたいなもので、対話が成立しているわけではありませんよね。でも彼は、意思疎通のできない蟲に対してとことんやさしいわけです。どんな悲劇が蟲によって引き起こされても、絶対に蟲を責めたりしません。蟲っていうのはバトルの相手じゃなくって、環境だから。人の業を嘆くことはあっても、蟲に怒りをぶつけたりしないんです。

 視聴者も同じです。『蟲師』の各エピソードは、人の業に蟲の影響が絡んで、嬉しかったり、悲しかったり、切なかったりするわけですが、蟲が起こすことだから、そういう世界だから、視聴者は「しょうがない」と割り切っちゃえるんですね。何人かのレビューを拝見しましたが、誰も蟲を責めてはいませんでした。ギンコと同様に蟲を環境として受け入れているから、蟲に対してやさしくなろうしなくても、無自覚にやさしいレビューが書けるんだと思います。

 これって実はすごいことですよね。もし現実世界で蟲みたいな存在が目に見えていたら、私はそれを受け入れられる自信はありません。実際、虫の一匹にもあたふたしているわけですから。そんな蟲を無条件で受け入れられるギンコは、とても異常な存在なんです。
 でも、視聴者はギンコを介して蟲を見ることで、その世界に自身を投影し、蟲を受け入れてしまっているのです。ギンコにも視聴者にも、異形な「環境」が見えている。見えているのに、バトルの相手にせずに、なお環境のまま「しょうがない」と受け入れている。この異形のものを受け入れる姿勢が「独特の世界観」の正体なのだと思います。
{/netabare}

<独特の世界観③>{netabare}
 意外かもしれませんが、この「しょうがない」って感覚、留学生にはなかなか伝わらないんですよ。「it can't be helped」や「i have no choice」なんていったら「あきらめるな!」なんて返されたりもする。「that's life」や「whatever will be will be」もなんか違う。英語にぴったりの訳語がないんです。

 私たちが「しょうがない」って思うとき、あきらめと同時に受け入れていると思うんですよ。あきらめなきゃいけない状況で、怒るでも耐えるでもなくて、許容してる。この「環境を許容する」「許す」って感覚が英語には入っていないんです。

 ギンコっていうのは、蟲という存在を「許し」てしまっているんです。まさに究極の「しょうがない」の体現者であるわけです。蟲が起こす全ての結果を受け入れる度量がある。だから人にも気遣えるし、やさしくもできるんです。それが私たちの琴線を揺さぶるんだと思います。

 これは『蟲師』の面白さに関連していると思います。この作品てどこが面白いの、と聞かれても答えるのはなかなか難しい。私は、一つの話が完了したタイミングで「面白い」と感じています。面白いシーンがあるのではなくて、一つの話が全体として面白い。ギンコが蟲を受け入れて、私がその世界を受け入れる。その調和する一点が、この作品に感動を生んでいるように思えます。
{/netabare}

<まとめ>{netabare}
 彼にとっては、この辺を整理するのがとても難しい。
 彼も『蟲師』は面白いって言っていました。この辺の感覚は私と大差ないと思います。純粋に人間の物語を楽しめている。でも世界観を説明するとなると難しいんですね。不都合な蟲を屈服したくなってしまう。私が無視してしまう蟲の定義とかにもこだわってしまう。感想文ではなく、レポートを書こうとすると瓦解してしまうわけです。

 私が言う「独特の世界観」っていうのは、ひねられた世界です。「私の世界」を「妖怪もの」とは別方向にひねっただけで、根本は変わらないんです。「蟲って何?」って聞かれたら「よく分からないもの」って答えておけば、もう「私の世界」に入れることが出来るんです。その上で「蟲だからしょうがないね」って言っておけば、ギンコが作る「独特の世界観」を充足することができるんです。

 でも、彼が言う「独特の世界観」というのは、「彼の世界」とは別世界って意味なんです。「彼の世界」をひねっただけでは到達できない世界なんです。一度「彼の世界」から乖離して「私の世界」に到達しなければいけない。その上で「しょうがない」って感覚を学ばなければいけないんですね。

 おそらくですが、彼が蟲師を理解するためには、『もののけ姫』をきちんと解釈できるレベルが必要になると思われます。
 『もののけ姫』というのは、人間が自然に対抗しようという対立から始まります。そして、両者が共存へと導かれる物語です。ここでの話に合わせるなら、「彼の世界」から始まり、「私の世界」に至る物語です。
 一方で、『蟲師』というのは、自然や環境との対立を必要とせずに、初めから受け入れ、その上でどうやって折り合いをつけて行こうかって物語なんです。『もののけ姫』の先にある、「私の世界」だけを舞台とした物語です。
{/netabare}

<おわりに>
 多文化主義ってよく言われますけど、言葉でいうほど簡単じゃないですよね。毎年留学生が来る頃になるといつも思います。表面的な感情の部分は共感できても、根の深いところで価値観の違いを感じます。

 もちろん彼に「私の世界」について考える素養がない、というのではありません。「彼の世界」と「私の世界」について考えるときに、10-0でどちらに振れるか、ではなくて、7-3とか6-4とかのバランスの話です。個人的なものなのか、社会的なものなのか、宗教的なものなのか、それは分かりませんが、人の持つ思考のクセみたいなものがどちらに向いているのか、という話です。
 これはもちろん私にも当てはまることです。私も海外の映画とかを見ても、宗教的な象徴物になんてなかなか気付けないですからね。それでも楽しいと言ってしまう。まぁ理解できないのはお互い様ってことです。

 ちなみにですが、日本人とアメリカ人とか、東洋と西洋とか、そんな大層なことをいうつもりはないですからね。あくまでも私と彼の個人的な「独特の世界観」に関する話です。みなさんが考えている「独特の世界観」とも違うかもしれませんしね。あしからず。

投稿 : 2020/07/04
♥ : 20
ネタバレ

小歌 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

幻想的な和風奇譚

 全26話 ※原作未読
世界観、エピソード、声優、作画や背景美術、音楽…
全てが素晴らしかった。
どこを切り取っても高クオリティで感嘆する。
1話完結型なので、毎話、短編映画を観たかのような余韻に浸れます。
日本の民間伝承や民俗学的な雰囲気が好きな人には本当オススメ。
私的に特に魅せられたのは音響効果。
山に棲む動物の鳴き声、雨風、葉擦れ、衣擦れ、木床の軋み、
土や雪を踏む音など…ヒーリング効果がハンパない。
あと、中野さんの淡々とした演じ方が
ギンコが醸し出す異質さと合ってて、とてもクセになります。
お気に入りの話は「柔らかい角」と「筆の海」。

 * * *

 ■第1~10話■
{netabare}第1話 緑の座
 {netabare} 動植物よりも生命そのものに近い存在・蟲。蟲師のギンコは、描いたものが具現化する“神の筆(ひだりて)”を持つ少年・しんらを訪ねる。そして彼の家にいる、元は人間だった蟲の少女・廉子(れんず)。彼女の正体は、蟲の宴で光酒(こうき)を飲み蟲になった、しんらの祖母だった。実に日本的な、自然と人が調和した世界観。良いねぇ。 {/netabare}

第2話 瞼の光
 {netabare} 光に当たると目が痛む病に罹った少女・スイと、彼女を倉に預かり世話をする少年・ビキ。彼女の瞼に棲まう蟲を取り除いたギンコは、闇を見過ぎて使い物にならなくなった彼女の左目に自身の義眼を与える。スイに見えていた、1話でも登場した光酒が流れる川・光脈(こうみゃく)は、シシ神様的な存在意義があるのかな。 {/netabare}

第3話 柔らかい角
 {netabare} 静かな冬の人里で片耳が聞こえなくなる症状が相次ぐと、村長の白沢から依頼を受けたギンコ。原因は蟲の“吽(うん)”によって音を食われていたためだった。しかし白沢の孫・真火(まほ)だけは、蟲“阿(あ)”によって額から生えてきた角から聞こえてくる大量の音に悩まされていた。音響効果が素晴らしい仕事をしていた。 {/netabare}

第4話 枕小路
 {netabare} 予知夢を見るという男・ジンに夢を見なくなる薬を渡したギンコ。1年も経たぬうちに再び訪れたその村は荒れ果てていた。ジンに棲みついていたのは予知夢を見せる蟲ではなく、見た夢を現実にする蟲“夢野間(いめののあわい)”であった…。ギンコも判断を見誤ることがあるんだなぁ。初めて平和的な結末じゃなかったね。 {/netabare}

第5話 旅をする沼
 {netabare} 透明な水のような蟲“水蠱(すいこ)”は、死に場所を求めて海へ向かうため“生き沼”となる。そんな生き沼と旅する緑髪の少女・いお。海に辿り着けば沼もろとも彼女も溶けて消えてしまう…ギンコはいおを救うため、海辺の街医者で収集家でもある知人・化野(あだしの)の手を借りる。旅費は蟲関連の珍品売って稼いでたのね。 {/netabare}

第6話 露を吸う群れ
 {netabare} 昼顔の花のように1日だけの命を毎日繰り返す少女・あこやは、“生き神”として島の住人に崇められていた。彼女を救うため、幼馴染の少年・ナギに呼び寄せられたギンコは、昼顔を巣とする蟲を発見する。生き物によって寿命は違っても、生涯脈打つ回数は同じ…ほへー。人生観について考えさせられる話。 {/netabare}

第7話 雨がくる虹がたつ
 {netabare} ギンコは虹を捕まえるため旅をする男・虹郎(こうろう)と出会い、しばしその旅に付き合うことに。前回が命の時間について考えさせられる話なら、今回は生き方について考えさせられる話ってとこか。蟲“虹蛇(こうだ)”に魅せられた虹郎の父が、病床で詫びながら彼に新しい名前をあげようとする回想場面で泣きそうになった。 {/netabare}

第8話 海境より
 {netabare} 海蛇のような群れに舟を囲まれ靄の向こうに消えた妻を、浜辺で2年半ものあいだ待ち続けていたシロウ。ギンコの言葉をきっかけに新たな自分の人生を歩み始めたが、再びあの時のような靄があらわれ…。なんだろう、前向きな結末なんだけど、なんかモヤッとするのは。奥さんだけが浮かばれないからかな。 {/netabare}

第9話 重い実
 {netabare} 天災の年に豊作となる代わりに、1番弱い者が贄として死ぬという村を訪れたギンコ。犠牲となる人間に生えてくる“瑞歯(みずは)”が、豊穣をもたらす次の“ナラズの実”になることを村で唯一知る祭主は、自らが犠牲になることでこの連鎖を断ち切ろうとしていた。ギンコが不老不死を解決策としたのは意外だった。 {/netabare}

第10話 硯に棲む白
 {netabare} 化野が所蔵していた硯を使った子供たちが、体温が下がり続けるという症状に見舞われる。解決策を探るため、ギンコはその硯を作った職人・たがねのもとを訪ねる。化野先生、再登場。硯から蟲を追い出せば霰が降ることは分かってたんだったら、もっと場所考えた方が良かったんじゃ…と思ってしまった。 {/netabare}{/netabare}

 ■第11~20話■
{netabare}第11話 やまねむる
 {netabare} とある霊峰近くの村人達からの尊敬を集める蟲師・ムジカは、人でありながらその山の主(ヌシ)を務めている。しかし密かにクチナワを呼び寄せ、自分の命と引き替えに主の座を明け渡そうとしていた…。今までで1番ジブリっぽかったな。旧山の主の大猪とか特に。ムジカが主になった経緯はある意味悲劇だと思う。 {/netabare}

第12話 眇の魚
 {netabare} 土砂崩れに巻き込まれ母親を亡くした少年・ヨキは、白髪隻眼の女蟲師・ぬいの世話になる。近くの沼には“トコヤミ”という闇の姿をした蟲と、その中で光を放つ蟲“銀蠱(ぎんこ)”がいた。ギンコの過去話キタ。彼の特殊な容姿の謎などが明らかに。ギンコにはもうぬいとの記憶がないんだと思うと、切なさが増す。 {/netabare}

第13話 一夜橋
 {netabare} ゼンと駆け落ちの途中で橋板が崩れ、谷底へ落ちたにも関わらず生還したが精神は抜け殻なハナ。彼女には蟲“ニセカズラ”が憑いているため、今も生きた状態なのだった。蟲が離れて彼女は死に、ゼンはギンコと共にニセカズラの群れによる“一夜橋(ひとよばし)”を渡り村を出ようとするが…。ハッピーエンドも観たい… {/netabare}

第14話 籠のなか
 {netabare} ギンコが出会ったのは竹林から抜け出せないという男・キスケ。真っ白な竹の姿をした蟲“間借り竹(まがりだけ)”と人間の間に生まれた子・セツと夫婦になり子をもうけ竹林の中で暮らす彼だが、家族で里に戻りたいと言う。安堵はしたけど少し異様にも感じるラストだった。蟲と人間のハーフは“鬼子(おにこ)”と呼ぶそうな。 {/netabare}

第15話 春と嘯く
 {netabare} すずとミハルの姉弟に、雪の夜に世話になったギンコ。弟のミハルは蟲が見え、冬のある日を境に春まで目覚めないという。しかし1年後に再びギンコが訪れた時も未だにミハルは眠り続けており…。冬仕様ギンコの色っぽさよ。彼が土地を早く離れたがるのは蟲のせいだけじゃないんだろうと思うと切ない。 {/netabare}

第16話 暁の蛇
 {netabare} 渡し守の少年カジから、母のさよが日毎に記憶を失くし、夜も眠らずにいるという相談を受けたギンコ。彼女は“影魂(かげだま)”という蟲に記憶を食われていた。食い尽されないために記憶を増やすようギンコから助言を受けた親子は、行商から戻らぬ夫を探しに旅へ出るが…。傍目から見て幸せなのか気の毒なのか…。 {/netabare}

第17話 虚繭取り
 {netabare} 蟲師が伝達に使用しているのは蟲“虚(むろ)”を閉じ込めた1対の虚繭(むろまゆ)。片方は蟲師が持ち、もう片方を管理し文を虚繭に送る役目を担うのは綺(あや)という少女。彼女は5年前に虚穴(むろあな)に飲み込まれた双子の姉・緒(いと)の帰りを待ち続けていた。蟲師の伝達手段が明らかに。ギンコの予想に反して綺の願いが報われて良かった。 {/netabare}

第18話 山抱く衣
 {netabare} 絵師を志して里山を出た塊(かい)。姉が持たせた着物の羽裏に故郷の山を描いたことをきっかけに頭角を現し、10年後には有名絵師として名を馳せる。そうして里帰りした塊を待っていたのは…。とても希望のある終わり方。故郷は大切にしなきゃね。ギンコが蟲ついてない着物を化野に売りつけてるのには笑った。 {/netabare}

第19話 天辺の糸
 {netabare} 人と蟲の境にいる状態の娘・吹(ふき)を保護したギンコ。彼女は蟲“天辺草(てんぺんぐさ)”に触れたため蟲寄りの存在になり普通の人には見えないでいたが、ギンコの介抱によりほぼ回復する。まだ不安定な状態の吹を人として繋ぎとめておくよう、恋人の清志朗(せいじろう)へ注意を促すが…。愛の力だねぇ。穏やかな話が続くと反動が怖い。 {/netabare}

第20話 筆の海
 {netabare} 禁種の蟲を体内に宿して生まれてくる者がある狩房(かりぶさ)家。蟲がいる右足には墨色の痣があり、その蟲を封じるため蟲師から伝え聞いた“蟲を屠(ほふ)った”話を書き記す“筆記者”となる。四代目筆記者・淡幽(たんゆう)は、蟲に侵されながら蟲を愛し、文字の海に溺れるように生きていた。淡幽さん素敵。ギンコとの関係も良い。 {/netabare}{/netabare}

 ■第21~最終話■
{netabare}第21話 綿胞子
 {netabare} 奇病に侵された我が子を助けてほしいと依頼されたギンコ。ワタヒコというその子や他の兄弟は実は人ではなく、蟲“綿吐(わたはき)”の一部であった。衰弱しているのは寿命がきたからで、胞子を飛ばす前に殺さなくてはならない。長男の時はその対処に同意した夫婦だが…。今までで1番物騒で不気味な絵面だったな。 {/netabare}

第22話 沖つ宮
 {netabare} 死にかけた者を“竜宮”と呼ばれる海淵に沈めると、同じ姿で再び生を受ける…“生みなおし”という現象が起こる島を訪ねたギンコ。そこで世話になった澪という女性も自身の母を生みなおし、娘として育てていた。死生観を問われる内容。でも「露を吸う群れ」ほどの暗欝さはなく、前向きな感じで良いね。 {/netabare}

第23話 錆の鳴く聲
 {netabare} 住民を含めあらゆるモノが赤い錆に覆われた村。この症状の原因は、しげという少女が発する声に含まれる特殊な層の音に魅かれて来た蟲“野錆(やさび)”であった。周囲から病の元と敬遠され、声を出さぬよう暮らすしげに、ギンコは解決策があると告げ…。真面目なシーンで男女の機微に茶々入れるギンコに笑った。 {/netabare}

第24話 篝野行
 {netabare} 蟲師・野萩(やはぎ)が暮らす里の付近で、謎の草が大量に生えてくる。作物に影響が出るのを恐れた野萩たち住民は草を根絶するため、ギンコの制止に構わず山を焼く。しかしその焼け跡から蟲“ヒダネ”が陰火(かげび)となって放出され、却って住民たちは危険に晒されることに…。自業自得というか、ビターな展開だった。 {/netabare}

第25話 眼福眼禍
 {netabare} 蟲を弾き語る琵琶師・周(あまね)。生まれつき盲目だった彼女は、蟲師の父が持ち帰った蟲“眼福(がんぷく)”を目に宿したことで視力を得た。しかし次第に見えないはずのものまで見える千里眼となったその両目を、周は葬ろうと決めていた。目玉が抜け落ちるシーンは4話を思い起こさせる。真綾さんの語りは耳心地が良いね。 {/netabare}

第26話(最終話) 草を踏む音
 {netabare} 沢(たく)の家は光脈筋にある山一帯を代々守ってきた。その山に梅雨の時期だけ滞在する不思議な一団“ワタリ”は、光脈筋を辿って移動し、蟲の情報を蟲師に売るのを生業としていた。その中で年頃の近い少年イサザと、沢は交流を持つようになる。ちびギンコ再登場。淡々としつつ穏やかで良い終わり方だと思う。 {/netabare}{/netabare}

投稿 : 2020/07/04
♥ : 11
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丸太武漢肺炎天安門 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

和風ファンタジー版ブラック・ジャック

実写映画を先に見ていて印象が悪かったのでスルーしていたが、ようやく手を付けた。

江戸時代の日本のような世界(でも男が髷を結わず、武士がいない…{netabare}山窩を元ネタにした話はある{/netabare})で、蟲師の主人公ギンコが旅をしながら蟲に苦しめられる人々を救う完全一話完結型の作品。

蟲とは妖怪ではなく知性の無い文字通り虫のような存在で、人間にとって寄生虫のように被害をもたらす害虫として描かれている{netabare}(21話で知性を獲得し始める蟲も出てくるが、人間の遺伝子と融合したために知性を得たと言える){/netabare}。{netabare}出産した子供が異形の姿だったりとか、{/netabare}たまにホラーっぽい話もあったりする。

まず感じたことは、この作品は非常に手塚治虫作「ブラック・ジャック(以下BJ)」に似ている。
ギンコは顕微鏡や注射器や薬品を使い、経験と観察に基づいて蟲に対してあくまでも科学的にアプローチする。
{netabare}子供の頃の事故で異形の姿になった過去もBJと同じで、蟲を退治しても人々の心までは救えないこともあったりと(BJの名言「医者は人の体は治せてもゆがんだ心の底までは治せん」を思い出す)、{/netabare}BJと似た設定・プロットが多いと感じた。ただしギンコはBJのように法外な治療費を請求したりはせず、蟲を倒した戦利品を売って稼いでいる。

もちろん逆にこの作品が後の作品に影響を与えている部分もあるだろう。物語シリーズはかなり影響を受けているように思う。{netabare}忍野メメはギンコっぽいし、囮物語は11話のクチナワの力で光脈を安定させた話に似ている。そもそも「怪異」も妖怪よりこの作品の蟲の方が近い。{/netabare}まぁどちらも遠野物語が元ネタだと言えばそうなんだろうけど。

この作品のそれぞれの話は何らかの社会問題のメタファになっていることもあるように思う。{netabare}6話の寄生されると幸福感を覚える蟲はドラッグで、一人の命を代償に村全体が利を得るという9話は「禁じ手」「土の汚染」という言葉が出てきて反原発の意図が込められた話のように感じた。17話でも人間に取って有用だが危険な蟲を利用するリスクを描いている。
24話で陰火が土地に蔓延して人の命を蝕む蟲を除染しなければならなくなった話は、原発事故で拡散する放射性物質を予見している気もする。{/netabare}

…そういった論評話は置いとくとして、作品として面白いかどうかについては、前半はギンコがしょぼい蟲を退治する話が繰り返されるばかりで退屈に感じたが、後半からは{netabare}時間や空間を歪めるような{/netabare}強大な力を持つ蟲が登場し、ギンコが苦戦することも多くなり面白く感じられた。
ただ{netabare}24話でギンコが他の蟲師と蟲の対処法で対立する展開もBJっぽいし、{/netabare}最後までBJに似ているという既視感はぬぐえなかった。BJのように面白い!という言い方もできるけど。

映像については、背景美術は素晴らしく良く描けている。ここがこのアニメの一番の長所だろう。{netabare}20話「筆の海」はアニメでよく再現したと原作ファンは思ったのではないだろうか。{/netabare}
人物の作画も馬越嘉彦・田中将賀といった大物が作監を担当していてバッチリ。顎のラインが田中将賀っぽい。
なお3話と10話は長井龍雪と田中将賀のとらドラ!コンビが担当しているが、コンビ結成はこの作品ではなく「勇午 ~交渉人~」らしい。

演技については、ギンコの声があまり声優をやらない人なので棒読み気味。ゲストキャラにも子役や棒読みの人がいるが、女性キャラには割と人気声優を起用している{netabare}(19話で消えてしまう女性の役をグレンラガンのニアの人が演じているのはちょっと面白かった){/netabare}。監督は男の棒読みは良くても女は嫌だったんだろうか。
音楽については、終盤にかかるBGMがそのままEDになる演出はドキュメンタリー番組っぽいが、これも狙っているのだろう。
ではアニメらしさを排除した作品なのか、といえばそうでもなくて、ギンコがギャグ顔をする時もあるし、女の子のキャラデザは結構可愛くて、毎回のように美少女や美人の人妻が登場する。ギンコに惚れたりする女性はあまり出てこないが{netabare}(15話のすずと19話の淡幽除く。ギンコは淡幽と結婚の約束をしたようにも見えるが…すずは…){/netabare}脇役キャラのドロドロした恋愛話が描かれたりもする。{netabare}11話のヤンデレ展開とか16話の不倫とかは笑ってしまった。{/netabare}

各話感想
{netabare}1話
デフォルメ顔演出あるのか…いらないのに。
ガキが酒飲むなw
蟲ってそんなにかけ離れてるのか。
蟲ってクネクネみたいなもんか。

2話
土蔵に女の子ってありがちやな。
人間は本当の闇を見ることはできないんだね。
やっぱBJに似ているな。
さっきから驚き過ぎwしかしギンコの演技がなー。
どんだけ治療費取るんだろ。BJみたいに高額ではないのか。

3話
皆もう少しギンコに感謝すべきだと思う。
阿吽の呼吸やね。
作画が異様にぬるぬる動いているな。
手で耳をふさぐくらいのことは今までしてたんじゃないのか。
角は価値があるのかね。
演出が長井龍雪、作画が田中将賀だ。

4話
津波の作画すげえな。背景も良い。
なんつー凶悪な蟲や。薬を止めたのも悪いんだろうが。
これは失敗談だな。ここまで三勝一敗。

5話
戦利品を売りに来たのか。
ロプノールを思い出した。というかそれが元ネタだろう。
あの状態からよく救えたな。医者と蟲師がついていただけある。四勝一敗。
いおの声は佐藤利奈か。

6話
よくこの子供がつて頼ってギンコ呼べたな。
蟲はドラッグのメタファなのかな。
こいつらは救えない。四勝二敗。

7話
ギンコの目的は蟲研究だしな。
これは救ったな。五勝二敗。

8話
前の虹郎と区別つかんw
なに新しい嫁ゲットしてんねん。
三角関係になっちゃうじゃん!と思ったらセーフ。でも新しい嫁はかわいそうやな。
新しい嫁のナミの声は明坂さんか。
絵コンテ平松禎史で作監が田中将賀とか豪華やな。
ナミがかわいかったので六勝二敗。

9話
珍しくAパートがある。
蟲師最大の禁じ手光脈とかなんかハガレンみたいなことを言い出したな。
重い実=原発なんだろうな。
やっぱハガレンみたいだな。
七勝二敗だが禁じ手を使ったので微妙だな。

10話
前に出てきた医者か。
さすギンコ!
長井龍雪&田中将賀コンビ回か。

11話
同業者が出てくるのは初めてか。
ヤンデレw
寝たばこ吸うな。
クチナワの話は物語シリーズを思い出すな。

12話
子供の頃のギンコだよな?師匠との出会いか。キノの旅っぽい。
ギンコがあの姿になった理由を強引に後付したようなw
子供の頃のギンコの声は沢城みゆきか。
蟲師になるのに師匠に習ったわけではないのか。
ということはギンコは自分がなんでこういう姿なのか知らないか、後から推測してるのか。

13話
さすがに今回は演技がだめだな。
ゾンビになってるのか。
何勝何敗かカウントするの忘れてたがいいや。

14話
後半だがOP同じか…このOPダメだと思う。
逆かぐや姫だなwホラーっぽい。
この蟲強力すぎるだろw
妹クズすぎぃ!
ちょっとホラーだなw死体から転生するとか竹人間こええ。
セツは岩男さんかー。

15話
この世界って美人しかいないのかと思う。
居候させてくれるだけで伝授するとはギンコはお人よしよのう。
ギンコ何もしないで春まで寝てるだけとはw
冬に行くとすずを嫁にしてしまいそうになるからか。

16話
ボケボケお母さん萌え。
ギンコはなかなか結論を出さないんだよね。
初の退治できない蟲か。退治できないとすっきりしないな。

17話
郵便機能があるとか便利な蟲だなあ…。
各地に美少女の知り合いがいるとか…。
子役使わない方がいいんじゃね?
そんな簡単に消えちまうのかよ!危険すぎ。
じいちゃんは死んじゃったの?
再会を見せて欲しかったな。
綺は名塚さんか。

18話
OP無しか。ぶっちゃけあのOPいらんよな。
この世界は蟲を食ってないと成長できないのかよ。

19話
蟲に触るのは死亡フラグやな。
久々にBJっぽい話だな。
ハッピーエンドにしたか。
吹の声はグレンラガンのニアか。ニアも消えた後復活できれば良かったのにね。

20話
割と近代的な造りの家だな。
ほくろを食う蟲って役に立ちそう。
え?淡幽が正妻?15話のすずはええの?

21話
たまにホラーっぽい話が来るな。
薬殺処分か。
蟲は絶対知性が無いというわけじゃないのか。
何で預けてしまうんや…諸悪の根源なのに。
奥さんは川上とも子さんか。

22話
今回のギンコは科学的な確証を与える役割か。
悪魔の所業にも思えるが放置したか。

23話
ギンコが歩けば美少女に当たる。
ああ皆にはサビは見えてないのか。叙述トリック使ってきた。
バッドエンドかと思うとそうでないことが多いw

24話
ギンコの他に優秀な蟲師が出てくるのは師匠除くと初めてか。
ナウシカの腐海的な話になってきたな。
やっぱりBJに似てるなあ…。
さすギンコ!
野萩の声はくろみちゃんの四本松さんか!

25話
坂本真綾だな。ぼくなつ1の頃から知ってる俺を舐めんなw
ギンコは蟲マニアやな。
そら見つからんやろ。
やはりギンコは師匠のことを忘れているのか。
淡幽に手紙を出したのか?

26話
ついに最後か。2期はdアニメストア無いんだよな。
山窩ってやつか。
また過去の話か。
やはり子供の時の声は沢城さんか。
あんまり最終回っぽくないが二期のアテがあったのかな。{/netabare}

投稿 : 2020/07/04
♥ : 4

60.2 3 生命の神秘アニメランキング3位
劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション ポケモンレンジャーと蒼海の王子 マナフィ(アニメ映画)

2006年7月15日
★★★★☆ 3.5 (75)
517人が棚に入れました
盗賊団「ファントムトループ」を率いる悪名高い海賊「ファントム」は、ある日海底で1つのタマゴを手に入れるが、忍び込んでいたポケモンレンジャーの「ジャック・ウォーカー」(ジャッキー)により奪われる。一方、サトシ一行は旅の途中でポケモンと心を通わすことができるという今では数少ない水の民の一族の末裔、ヒロミとその家族によるマリーナ一座に出会う。たまたま一座と旅を共にすることになったサトシ一行だが、旅の途中ハルカは偶然にも不思議に光るマナフィの卵を発見する。

声優・キャラクター
松本梨香、大谷育江、うえだゆうじ、KAORI、山田ふしぎ、林原めぐみ、三木眞一郎、犬山イヌコ、石塚運昇、山寺宏一、眞鍋かをり、藤岡弘、、ベッキー

シェリングフォード さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.8

かっこよすぎるサトシの一面

海の王子マナフィが生まれ帰巣本能に従って海底神殿「アクーシャ」に無事に到達できるように
サトシたちと道中を共にする仲間が悪者からマナフィを守るお話です。

これは正直駄作だと僕は思います。
その1つはポケモンたちの魅力がまったく引き出されていない点にあります。
ずっと船やらなんやらで冒険しながらマナフィを愛でているだけであんまり面白くありません。
最後もみんな空飛ぶし訳わからんw あの場面は口を開けている以外何もできませんでした。やりすぎです。
もう1つはマナフィとの別れをすごく惜しむところです。これはポケモン映画の良いところであり悪いところでもあります。
本作は一作丸々これにつぎ込みました。出会いは前振りになり、半分くらいから別れのことばかり考え始めてしまいます。
これで感動を誘うのも分かるのですが、個人的には観ていてあんまり面白くないです。
そこで一気に気分を落とされてしまうというか。ずーっとそういう気分にされるというか。
それにマナフィはあまり言葉が使えませんから別れの場面でさえ僕はなにも感動しませんでした。
物語自体も目を引くような動きもなかったしなー。いまいち!

そんなこんなで不評している映画ですが、1か所すごく良い場面がありました。クライマックスです。
崩れゆく海底神殿に入ったサトシ、ハルカ、マナフィは神殿の中心になければならないものを悪者が持ってきてしまったので戻しに行かなくてはならない。
けれど神殿は大量の海水が侵入してくるせいでとてもじゃないが入れない。
もうすぐここも危ないって時に1人用の潜水艦を見つけました。
潜水艦といっても直立の姿勢で入って扉を閉めるだけの蓋のついたドラム管のようなものです。
なんとかすれば2人入れるのでサトシは先にハルカとマナフィをその中へ入るよう指示し
入ったことを確認すると「おれがこれを戻してくる。だから先に行け。」
そういって蓋を閉めサトシは激流に飛び込んで行くこのシーンがめちゃめちゃかっこいい!
ホントにすっげーかっこいいです。あるある展開ではありますがここの演出、台詞回しは素晴らしいです。
そんなにひとりで頑張らないで!と叫びたくなりますw

ほとんどの部分はお粗末なものでしたが、この場面だけは本当にかっこいい!
ここを観るだけに時間を割いても損はありませんでした(笑)

投稿 : 2020/07/04
♥ : 5

虚言癖 さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

別れに学ぶ心の成長を描く本作

ポケモンの生きる世界を綺麗に描いたロードムービー。

アニメ的、というよりも映画的な演出が多め。
劇場版なので当然といえば当然なのだが、すこし演出過多な感じ。

主役は、タイトルにもあるポケモン、マナフィ。
そして、ポケモンAGヒロインであるハルカに主点をおいて、
出会いと別れ、そして、そこからの心の成長を描いている。

ストーリーは可もなく不可もなくといいたいできだが、
ポケットモンスターの主人公でサトシの活躍ぶりは
ポケモン映画の中でも指折りの必見のレベル。

悪役も映画のゲストキャラクターも魅力的に描かれていた。

主役においたポケモン、マナフィを題材に綺麗にまとめた本作。
ポケモンファンなら見て損はないし、アニメ映画作品ファンも手に取ってほしい。
単体の作品として、完結しているため、お勧めできる層は広いと感じた。

夏になると見たくなる。
海に生きるポケモンの美しさ、生命の神秘に触れられる出来のいい作品だ。

投稿 : 2020/07/04
♥ : 0

上芝 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.4

面白くもつまらなくもない

決してつまらない訳ではないんですが、目立って良い部分も無いんですよ。
見流すにはちょうどいい作品だと思いました。

数少ない印象深かったところ
・ジャッキーがハルカに、マナフィと距離をとれ。と言った後のシーン
ハルカの悲しそうな顔にうるっときました

・救命ポットにハルカを入れたサトシ「俺はこれを戻してくる」と水が次々に入り込んでくる神殿の奥へ戻っていく
サトシのイケメンっぷりが胸キュンでした

・聖人になったサトシ君
光のヒモに包まれて海と空を飛びまわるサトシ君
スーパーマサラ人というか・・・人止めてませんwww?

総評
満足度は中です。
子供の時に観た印象だと、次のポケモンは観なくていいやと思うほどつまらなかったと記憶していたのですがそんなでも無かったです。それよりケルディオ・・・か・・・・・・

投稿 : 2020/07/04
♥ : 2

64.8 4 生命の神秘アニメランキング4位
ふしぎなメルモ(TVアニメ動画)

1971年秋アニメ
★★★★☆ 3.5 (31)
144人が棚に入れました
天国のママから、ミラクルキャンディー(赤いキャンディーと青いキャンディー)をもらった主人公メルモが、キャンディーを食べて赤ん坊や大人、人間以外の様々な動物に変身し、色々な危機を乗り越え、真の大人になっていく物語である。

みかみ(みみかき) さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.9

エロかった

手塚治虫の、ある種の微エロアニメ。
大人になったときに、着ている服が上半身はそのままに下半身だけ、なぜかサイズが変わらないので、必然的に大人になるとずっとミニスカート&パンチラという意味不明状態。なんだこれは…!w なにを考えている手塚…w とおもったものです。



しかし、大人になってしまった後に見てみると、
「大人である」ということ自体が、一定の力をもつ、という子供の頃ならではの欲望が成立する、というそれ自体がけっこうしみじみする話だよなぁ、とかおもいました。自分がいま、「大人である」ことによって発動可能になっている力って、ぶっちゃけ何があるよ、みたいな。

投稿 : 2020/07/04
♥ : 2

ato00 さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0

赤と青を間違えてはいけません。

メルモちゃん♪メルモちゃん♪メルモちゃん♪が持ってる♪
赤いキャンディー♪青いキャンディー♪知ってるかい♪

ハイ、知ってますよ。
キャンディーを食べると若返ったり年くったり・・・
同時に食べるとなんと・・・

手塚先生の空想科学教育アニメです。
メルモちゃんがキャンディーを身勝手に使うもんだから様々な事件が発生。
ハプニングもあったりして、ドタバタドタバタ忙しいこと。
その一方で生命の神秘も扱っていて教育的モードだったり。
どっちにしろ、古き懐かしき子供向けアニメです。

もっとも印象的なシーンはメルモちゃんが大人になるところ。
パンチラなんてもんじゃないです。

投稿 : 2020/07/04
♥ : 19

みり仔 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

このアメがほしくて駄菓子屋に走りました。

食べると年齢を自由に買えることの出来るアメ。
これ、見たときすっごく欲しかったです。
再放送でみたんですけど、当時小2でしたが、駄菓子屋走りました!(当然売ってませんけど
人生で初めてはまったアニメじゃないかと。
軽く10周は見てます。

曲や声優はどっちでもいいです、というかまったくどうでもいいです。
話はすっごくおもしろいです、それに単純です。
だから小さな子どもと一緒に見るのがオススメ。
できれば手元にアメがほしいですね(笑
「服が変わるだけの魔法少女はもうおわり!今は見た目も変られなきゃ!」
衝撃でしたね。
今でも見返したくなります。

投稿 : 2020/07/04
♥ : 0
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