「昭和元禄落語心中(TVアニメ動画)」

総合得点
81.2
感想・評価
900
棚に入れた
4138
ランキング
412
★★★★☆ 4.0 (900)
物語
4.1
作画
3.9
声優
4.3
音楽
3.9
キャラ
4.0

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ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9
物語 : 3.0 作画 : 3.0 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:----

アニメの芸

大人のアニメ、という言い方は余り好きではない。
大人を対象としていることが、そのまま質の高さに直結しているとは限らないし、たいていの場合、描かれる「大人」性は、子供が想像する「大人」に過ぎないことが殆どだからだ。

にもかかわらず、この言葉を使う誘惑に勝てないのは、本作が「子供を相手にしていない」とまでいうと言い過ぎだろうが、子供に理解されることを期待していない/子供から共感を得られることを当てにしていない、と感じられるからだ。

これに似た感覚は、『ルパン三世』の最初のTVシリーズの前半数話を観たときにも感じた。
当初の『ルパン』は、製作者の証言によれば、子供が視聴することを全く想定しないで制作されていたそうなので、似た印象を与える本作も同じような制作方針であるのかもしれない。
マンガであればまだしも、TVアニメにおいて子供を度外視することは、一つの冒険と言えるだろう。

この場合の「子供」は学童の年齢ではなく、未成熟、という意味だ。

精神科医の斉藤環によると、現代人は実年齢と成熟度の乖離が進んでいるそうで、成人と言える精神年齢には、少なくとも20代後半以上でないと到達出来ていないように観察されるという。
その言説に従うならば、本作は30歳未満の視聴者が楽しめるようには作られていない、と言えるかもしれない。

これを象徴するのが『みよ吉』という「商売女」(そう、現代風の「おミズ」ではない。「水商売」の女だ)と彼女をめぐる人間関係だ。
いかにも水商売といった彼女の造形とそれを取り巻く人間模様にリアリティと共感を感じるには、ある程度「大人」であることが必要とされるだろう。
少なくとも、アニメとそのキャラに対して「ただのエロ」「ビッチ」「クズ」といった既存の道徳規範の尻馬に乗ったレッテルを張り付けて安心しようとする感性では、接近しにくいに違いない。


>夜の僕たちは恋人同士
>だが昼間は見知らぬ他人のふりをする

>正しい関係ではないと解かっている
>でも正しい事だけが本物ではないと知っているんだ

というのはスティーヴィー・ワンダーの『パートタイム・ラバー』の一節(私的な意訳)だが、例えばこの歌のような、敢えて陽の光に背を向ける情念を「実感」できなければ、くるわ噺や艶噺のような古典落語を、血の通ったものとして演じることはできないだろう。
同時に、みよ吉の「水商売の女」の慕情に接近することも。
本作の恋愛模様は、このように落語という「業」に取りつかれた人間たちという主題と共鳴している。


その「落語」が、はたして声優によって上手に語られているのかどうかは分らない。
おそらく落語を「聞かせたい」とは意図していないだろう。意図されているのは、落語を演じていると「表現」することに見える。
劇中において「上手な落語が演じられている」シーンであると受け取れるのは、声優の落語それ自体がどうこうではなく、アニメという映像表現によって上手な落語が「演じられている」と示されている事による。

実写で表現したのでは、おそらく生身の肉体が必然的に発する「ノイズ」が邪魔をして「芸」を演じているという「シグナル」がかき消されてしまうだろう。
経験を積んだ実力ある役者であれば、ノイズを抑え「芸」というシグナルを「表現」することも可能かもしれないが、「若く、男前の」落語家という本作の役柄と矛盾してしまうかもしれない。

「シグナル」を明瞭化しようとするならば、文楽のような人形か、アニメの「絵」のような肉体の抽象化が有効だ。
子供だましと思われがちな「人形劇」やアニメでドラマを語ろうとする営みが途絶えないのは、このような必然性がある。

この特性によって、「現実の」落語の模写からは遠ざかるが、(役者という素人ではなく)落語家が落語を演じているのだと、劇中では十分に表現されることになる。


この「絵」と「声優」が分離したアニメの効果は、落語における描写だけではない。

上述した、まさに水商売の女そのものといった迫真性のある『みよ吉』の造形は、絵的な表現だけで描きだすのは無理がある。
20代のビジュアルに、年齢を重ねた経験に裏打ちされた声優の演技力が合わさってこそ、すぐ隣に実在しているかのようなリアリティが生じている。
経験を積んだ役者の実年齢がそのまま出る実写では、恋心に揺れる「若い女」は不可能であるし、「若い女」が可能である年齢では、商売女であると「大人」に訴えかける説得力を備えた演技力は獲得できまい。

落語においても、実績と経験を重ねた年長の声優が「若者」を演じるのが珍しくない「アニメ」の特異性が、本作の中で、実写でありがちな素人芸の「学芸会」ではなく、抽象化されつつもリアリティを持った「寄席」を現前させる最大の要因となっている。


大仕掛けなアクションとも想像を絶する異世界とも無縁な、日常世界を舞台とした本作は、このようにアニメならではの映像作品として、その構造を前提として成立している。

一見地味に見えながら、ある意味ではアニメの持つ特性の一つの極点であるとも言えるだろう。

極点だと認識するには、視聴者に大人であることを要求するのだとしても。



冒頭で記したように、大人向けであることが作品の質にかかわってくるわけではない。

「アニメの芸」自体は「大人」とは無関係だし、本作が殊更に「大人」に向けて製作されているという事でもない。

ただ、ハルピンらしき夜の街に立ち、客を待つ『みよ吉』の描写。
海外でのことだが、これに似た現場に何度か遭遇した者には、何がしかフラッシュバックしてくるものがある。
夜の街に深く身を浸したことがあるならば、同様に感じるだろう。
それは、「商売女」という「人間」との関係が、必ずしも金銭で割り切った商売だけに還元できない、という迫真性にもつながってくるものだ。

その迫真性を、子供に分かる形で伝えようとする演出上の仕掛けは、いくらでも可能だろう。
だが、本作においては、そのような仕掛けや配慮を一切放棄している、という事だ。

迫真性が伝わらなくとも、物語を追うのに支障はない。
高度に「芸」が演じられているとも、漠然と伝わるだろう。

が、今一つ不明瞭な物足りなさを感じているのであれば、レコーダーの容量に余裕があるのならば、保存しておいて5年後か10年後に観返してみてほしいと思う。

投稿 : 2016/03/13
閲覧 : 280
サンキュー:

5

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