「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語(アニメ映画)」

総合得点
86.7
感想・評価
1955
棚に入れた
9932
ランキング
184
★★★★★ 4.2 (1955)
物語
4.2
作画
4.3
声優
4.2
音楽
4.3
キャラ
4.2

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ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.8
物語 : 5.0 作画 : 4.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

まどかママは正しきインキュベーターその3

 あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。
 映画版のレビューなんですけど、二部構成にしています。第一部が映画編で、第二部がテレビ版・総集編版・映画版の各レビューの内容を包括したあとがき編です。テレビ版・総集編版レビューの既読者向け。長文なので暇人向け。

映画編:{netabare}

テレビ版と映画版のプロット:{netabare}
 テレビ版および総集編版のレビューは、以下の三点を柱として書いていました。
①キュウベエ世界からまどか世界への転換を意味する「魔法少女とキュウベエの齟齬」
②まどか世界からほむら世界への転換を意味する「まどかとほむらの齟齬」
③これらの転換のくさびとなっている「少女の成長」

 なぜこのような整理をしていたかというと、これでテレビ版と映画版のストーリーのプロットが説明できるからです。
 ①と③を組み合わせると、「キュウベエ世界があって、そこにまどかがいて、まどかが成長することでまどか世界を構築する」ですね。②と③で、「まどか世界があって、そこにほむらがいて、ほむらが成長することでほむら世界を構築する」になります。これでそれぞれのプロットになっていますよね。
 つまり、テレビ版も映画版も、基本プロットは変わらないってことです。一般化するなら、「ある世界があって、そこに一人の人物がいて、その人物が成長することで新たな世界を構築する」って感じです。個人の成長と世界の変革を連動させた作品ですね。プロット的にはエヴァやウテナと同じカテゴリーでいいと思います。

 では、テレビ版と映画版のプロットが同じならば、何が違ったのか。
 一番の違いは、成長を見せる主体の違いですね。まどかなのか、ほむらなのか。
 これ以外で重要なのが、各世界の違いです。こちらの話は、テレビ版と総集編版のレビューで「キュウベエ的功利主義とまどか的功利主義」「功利主義とエゴイズム」として整理しました。
 まどかの成長についても断片的にですが終えていますから、次項からは映画版の新要素である「ほむらの成長」について見ていきます。ほむらは二段階の成長を遂げて、まどかの対極へと到達しました。
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ほむらの成長①:{netabare}
 まどか「ほむらちゃん、一人ぼっちになったらダメだよ」
 ほむら「寂しいのに、悲しいのに、その気持ちを誰にも分かってもらえない」

 テレビ版の後、他の魔法少女たちと分かり会えないほむらは、ぼっち化してしまいました。このぼっち化の説明としてあったのが、ほむらの引きこもり(ナイトメアの世界)と、魔法少女たちとの対決ですね。まどかは、このぼっちほむらを救済するために三つ編みを施そうとしました。
 三つ編みというのは、弱きほむらの象徴ですよね。ストレートロングが強きほむらです。弱きほむらは自立していない代わりに他人と協調でき、強きほむらは自立しているために他人と協調できない、という正反対の特性を持ちます。

 まどか「私だけが誰にも会えなくなるほど遠くへ一人で行っちゃうなんて、そんなことありっこないよ」
 まどか「ほむらちゃんでさえ泣いちゃう辛いこと、私が我慢できるわけないじゃない」

 まどかは、「一人は我慢できない」と言っていたわけですが、この真意は、「だから、ほむらちゃんも強きほむらを捨てて、みんなと協調しようよ」ですよね。そのための三つ編みです。
 ですが、ほむらは三つ編みを振りほどき、強きほむらを選んでしまいました。まどかの結末を知っていることが災いし、まどかの真意を汲み取らなかったのです。そして、ぼっちをこじらせて、「私がまどかを助けなきゃ」とエゴイスティックな方向に走ってしまいました。これが「まどかとほむらの齟齬」ですね。
 単なるぼっちほむらが、エゴイスティックほむらちゃんになること。これがほむらの成長の第一段階です。
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ほむらの成長②:{netabare}
 キュウベエ「いずれ僕たちの研究は、円環の理を完全に克服するだろう」
 キュウベエ「そうなれば魔法少女は魔女となり、さらなるエネルギーの回収が期待できるようになる」
 ほむら「まどかの秘密が暴かれるくらいなら、私はこのまま魔女になってやる」

 キュウベエは、相変わらずですね。魔獣のいる世界よりも魔女がいた世界の方が効率が良いらしいです。
 一方、ぼっちほむらは、エゴスティックほむらちゃんになり、魔女化を選択しました。少女が魔法少女になった場合、ソウルジェムが壊れない限りは魔女化へとエスカレーター式に到達してしまうわけですが、ほむらの場合は流され続けたのではなく、最後の最後は選択したのです。自ら選択することこそが成長の証です。まどかも、キュウベエやまどかママとは違う道を選択していました。

 ほむら「今日まで何度も繰り返して、傷つき苦しんできた全てが、まどかを思ってのことだった」
 ほむら「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの。愛よ」

 まどかへの執着の感情に、ほむらは「愛」と名付けました。この「愛」は、双方向なものではなく、ほむらからまどかへの一方通行なものです。ほむらのエゴイスティックな感情は、「愛」をもって昇華(正当化)されることになりました。これが二つ目の成長である「悪魔化の選択」ですね。ほむらちゃんは、第二段階目の成長を遂げました。
 「悪魔化の選択」をすることで、エゴイスティックほむらちゃんは、愛を一方的に押し付ける究極のエゴイズムを正当化することに成功したのです。エゴイズム的究極愛の体現者、ストーキングほむらちゃんの誕生です。

 キュウベエ的功利主義に対し、究極の博愛主義をもってまどか的功利主義を構築したまどか。
 まどか的功利主義に対し、究極の偏愛主義をもってほむら的エゴイズムを構築したほむら。
 簡単に言うと、最大多数の最大幸福を追求するのか個人的幸福を追求するのか、みんなが良ければいいのか誰かが良ければいいのか、みたいな感じですね。まどかと逆方向の極みへと到達すること、これがほむらの成長です。これにて、まどかとほむらの思想的対立が完成となりました。
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あとがき編:{netabare}

この作品の結末:{netabare}
 まどマギの特長の最たるものは、モヤモヤ感ですよね。テレビ版も映画版も、視聴後に「これでよかったのかな?」というモヤモヤ感が残ります。なぜモヤモヤ感が残ってしまうのかというと、まどマギで扱っている問題が、一義的には解決され得ない問題だからです。解決され得ない問題は、解決することが出来るのか。この視点が重要なんです。

 功利主義っていうのは、ある意味では少数派を切り捨てる考え方でもあるんですけど、利点もありますよね。解決され得ない問題に対して、暫定的な答えを出すことが出来るんです。
 例えば、「電車の中でメイクをしていいのか?」という問題があったとします。これは、国や時代によって答えが変わりかねない倫理的な問題ですから、絶対的な答えというのはありません。でも、功利主義的な答えは出せますよね。大多数の人がイエスと言えばやって良いことになるし、ノーと言えばやってはいけないことになる。みんなが納得することはできなくても、少数派を切り捨てることで「多数派がこっちだからこっちの方が良い」という解決を図ることができるんです。功利主義を使えば、多数派と少数派のバランスの中から、より幸福度の高い答えを見つけ出せるってことです。

 で、この作品が何をやっていたかというと、絶対的な答えを出したのではありません。暫定的な答えを出しているんですけど、それが肝でもないんです。暫定的な答えを出す前の段階の、バランスを作ったのが肝なんです。
 キュウベエは、「90人を超ハッピーにするために、10人を切り捨てよう」って言った。
 まどかは、「99人がややハッピーで、1人が犠牲になる方が良い。私がその一人になります」って言った。
 ほむらは、「私は、あの子が幸せならそれでいい」って言った。
 (※まどかよりもキュウベエの方が幸福度が高いのは、魔女がいた世界の方が効率が良いからです)

 少数派は少しいるけど、多数派が強い幸福を得られるような「キュウベエ的功利主義」。
 みんなが多数派になって幸福を享受できるけど、自分だけは除外されちゃう「まどか的功利主義」。
 多数派も少数派もどうでも良くて、誰かの幸福だけを追求するアンチ功利主義な「ほむら的エゴイズム」。

 この三者三様のバランスがストーリー上で展開されていて、さぁどれがいいの?って話なんです。
 最初は、キュウベエの主張をぶつけられて、ちょっとイヤだなって思う。次に、キュウベエの問題点を修正したまどかの主張に触れるんだけど、その結果がハッピーエンドだとは思えない。最後に、それならとまどかの対極にある、ほむらの主張を用意してもらったのに、やっぱり満足できない。
 どこを取っても、どの結末でも、モヤモヤしてしまう。でも、モヤモヤするのは当たり前なんです。この三者が議論しているのは、「多数派はどこまでなら少数派を犠牲にしていいのか」「少数派のわがままはどこまで許されるのか」っていう倫理的な問題ですよね。この問題に絶対的な答えなんてありません。でも、作品としてはエンディングを迎えてしまいますから、答えが出されたように錯覚をしてしまうんです。意識的であれ無意識的であれ、答えなんかないって分かっているのに、答えが出たと錯覚するから納得できずにモヤモヤするんです。

 解決され得ない問題への答えを提示されたとは思わずに、「暫定的な答えなんだから、自分も三者三様のバランスについて良く考えてみよう。自分もこの中から選んでみよう」っていうが本当の答えなんだと思います。
 というわけで、私も選んでみることにしました。私が選ぶのは、もちろんキュウベエです。
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(感想)俺が!俺たちが、キュウベエだ!!①:{netabare}
 何度でも言いますが、私はキュウベエを悪者だとは思っていません。
 「支配層に対し、レジスタンスが反抗する」みたいないわゆる革命系の作品てありますよね。この手の作品は、「20人の支配層が超絶ハッピーで、一般人80人が犠牲になっている」という状況下にあります。そして、レジスタンスが「本来の多数派である一般人を、ちゃんと幸福が享受できるようにしよう」と革命を起こしますよね。
 キュウベエをこの支配層と混同するのは絶対にダメです。キュウベエは「宇宙全体と人類のため」って言ってたんですから、そもそも多数派が幸福を享受できるように動いているし、犠牲の範囲もまどかよりちょっと(魔法少女の数の分だけ)多いくらいです。まどマギは、革命系の作品と同列ではないんです。キュウベエは憎むべき支配層ではありません。

 で、キュウベエがやっていたのは、テレビ版では「他種族(魔法少女)からエネルギーを回収すること」ですよね。これについてキュウベエは、「人間が行っている家畜と何が違うのか?」と提起していました。映画版でやっていたのは「他種族(ほむら)を実験台にすること」ですね。これに該当するキュウベエのセリフはありませんでしたが、おそらく「人間が行っている動物実験と何が違うのか?」って言うと思います。
 つまり、魔法少女を犠牲にするキュウベエというのは、動物を犠牲にする人間と同じだってことです。どちらも他種族の一部を犠牲にしていますよね。法則や原理を究明しようとしているのだって同じです。この作品を風刺として捉えたときには、「人間はキュウベエである」というのがまず確定するはずなんです。

 人間が五人死ぬスイッチと、家畜が一頭死ぬスイッチがある。あなたはどちらかを押さなければなりません。
 さて、どちらを押しますか?

 キュウベエが直面していた問題って、これですよね。キュウベエは人間で、キュウベエにとっての魔法少女は人間にとっての家畜で、宇宙全体の保持のためにエネルギーが必要だっていうのは、人類が飢え死にしそうだから食料が必要だとか、地球の維持のためには研究が必要だとかってことですよね。どちらのスイッチを押すべきかは自明のはずです。魔法少女に感情移入して、キュウベエを「敵だ!」と言ってしまうのは分かるんですが、キュウベエを考えるにはもう少し俯瞰的な視野が必要なんです。

 私がテレビ版レビューでキュウベエを問題視していたのは、「行為の倫理性」についてだけです。家畜を殺すのがダメって言ったんじゃなくて、なぶり殺しにするのはダメって言ったんです。帰結主義的な「どうせ死ぬから一緒でしょ」に対して、そんなことない!って言ったんです。これはまどかも同じだって話も書きました。まどかは、キュウベエの存在を消し去らなかったし、功利主義的構造も維持したんです。キュウベエを否定したんじゃなくて、魔法少女たちに内在していた「行為の倫理性」の問題を解決したんです。

 キュウベエの「行為の倫理性」を問題視するに留まらず、頭っから悪者だと批判している人には、この家畜スイッチの問題について良く考えて欲しいと思います。
 キュウベエを批判するのなら、家畜廃止!動物実験禁止!とまで言わないとダメですよね。これでこそ少数派保護としての一貫性です。また、自分が多数派であることに無自覚なら、気付きを得る前の無知なまどかと一緒ですよね。「この光景を残酷と思うなら、君には本質が全く見えていない」って言葉を贈るしかありません。
 つまり、キュウベエ批判は、人間批判や自己批判とワンセットであるべきなんです。キュウベエが少数派を犠牲にするのはダメだけど、人間(自分)は少数派を犠牲にして良い、なんてダブルスタンダードも甚だしいですよね。
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(感想)俺が!俺たちが、キュウベエだ!!②:{netabare}
 功利主義は、多数決とは違います。「多数派の数」を数えるんじゃなくて、「幸福の量」を量るんです。
 キュウベエは、考えなしに「90人を超ハッピーにするために、10人を切り捨てよう」という魔法少女システムを導入していたんじゃありませんよね。魔法少女システムではない、すなわち、犠牲の無いシステムとちゃんと比較検討をしていました。「(魔法少女システムがなければ)人類は未だに裸で洞穴生活をしていただろう」って言っていましたよね。この「100人がギリギリ生存できて、犠牲はゼロ」という犠牲ゼロシステムと比較していたんです。
 魔法少女システムは、単位幸福量が10もあって、総幸福量が(10×90人=900)となるシステムです。
 犠牲ゼロシステムは、単位幸福量が1くらいしかなくて、総幸福量が(1×100人=100)となるシステムです。
 この両者を比較して、魔法少女システムを選んだんです。功利主義者として、多数派の数じゃなくて幸福の量を優先していたってことです。

 これに対して、まどかは「99人がややハッピーで、1人を切り捨てよう」という魔獣システムを導入したんです。
 魔獣システムは、単位幸福量が9くらいはあって、総幸福量が(9×99人=891)となるシステムです。魔獣は魔女よりも効率は落ちちゃうけど、犠牲の少ないこっちの方が良いって言ったんです。
 当初のまどかは、キュウベエを批判していました。多数派が一番多い犠牲ゼロシステムが良いと思っていたんです。でも、キュウベエの教えを受けて、犠牲ゼロシステムがヤバ過ぎることを知ったんです。だから、犠牲を許容して功利主義的な構造を堅持したんです。そして、総幸福量の減少と犠牲人数の減少を比較したときに、倫理性の高い犠牲人数の減少を選んだんです。これは、まどかママの教えによるものですね。また、この倫理性の問題を他人に押し付けたくなかったから、自分を犠牲にしたんです。まどか的功利主義は、キュウベエ的功利主義の倫理性の問題を修正したものだよって話です。

 で、キュウベエが主張する(総幸福量900、犠牲10人)とまどかが主張する(総幸福量891、犠牲1人)のどっちを選ぼうかってときに、功利主義者はキュウベエを選べばいいんですけど、多くの人はまどかを選ぶような気がします。テレビ版レビューで書いたドナー問題みたいに、やっぱり倫理性の問題は大きいよねって考えると思うんです。
 ただ、問題なのは、この世界にはまどかがいないってことです。私たちには、少なくとも私には、既存の世界のルールを変えるだけの力が備わっていないんです。何か(誰か)が死ねば、家畜はいらないなんてシステムは構築できないんです。
 力を持つまどかは、犠牲ゼロシステムと魔法少女システムと魔獣システムの三択から選べたんですけど、力のない私やキュウベエには、犠牲ゼロシステムと魔法少女システムの二択しかないんです。理想論を実現できなくて現実論からしか選べないから、家畜や動物実験を許容しないと裸で洞窟生活なんです。

 だから、私は宣言するんです。私はキュウベエだって。犠牲を否定して裸で洞穴生活するよりは、犠牲を覚悟して今の生活を維持したいんです。便利な言葉があるじゃないですか、必要悪って。「命を奪うのは悪いことなのかもしれないけど、やっちゃうよ。やっちゃえよ」って、私は言いますよ。
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(感想)俺が!俺たちが、キュウベエだ!!③:{netabare}
 まどかが自己犠牲を選んだのは、魔法少女たちがかわいそうだからってだけの単純な理由じゃないですよね。キュウベエがもたらした幸福を知り、少数派の境遇にも共感してしまった。だから、なるべく両者が両立できるような道を選んだんですよね。
 まどかは優しかったから救済しただけじゃなくて、優しい上に救済する力を持っていたんです。だから、必要悪の行使からは逃げられたんです。でも、私は必要悪の行使からは逃げられないんです。
 私がキュウベエと同じ立場だったら、まどかと同じ力を持っていなかったら、魔法少女たちに土下座しますよ。「エネルギーが足りません。でも、私には打つ手がありません。みんなを生かすために死んでください」って。まどかと同じ力がないから、私に力が足りないから、私はキュウベエを選ぶんです。キュウベエと違うのは、せめて魔法少女たちを苦しまないように殺してあげるってことだけです。「やっちゃうよ」です。

 多数派には覚悟が必要ですよね。少数派を切り捨てる、必要悪を行使するって強い覚悟が必要です。犠牲となる少数派の辛さを知れば知るほど、切り捨てるのもきっと辛い。でも、「五人が死ぬスイッチと一人が死ぬスイッチ」で、六人を救う力がないんだったら、歯を食いしばってでも「一人が死ぬスイッチ」を押さなきゃいけないですよね。キュウベエが葛藤なく押せるというのなら、それはそれでうらやましいとすら思います。
 多数派としての覚悟を持てば、少数派の覚悟だって持てます。「五人が死ぬスイッチと一人が死ぬスイッチ」で、私が少数派の一人に該当していたとしても、私は「押せ」って言います。「悩んだって結論は変わんないから押せよ」って。切り捨てなきゃいけない多数派の辛さを知っているから、切り捨てられることも覚悟するんです。

 私のクライアントにもね、たまにですけどいるんですよ、リストラできない社長さん。スイッチ押すのに悩んで悩んで、挙句に会社を潰すんです。私はキュウベエだからね、こう言うんです。「みんなを救えないでしょ?みんなを殺す気なの?早く押せ!」って。まどかになれないんだから、必要なのは優しさじゃないよ、覚悟だよって。「やっちゃえよ」です。
 キュウベエは必要悪を行使しただけです。これをもって悪者だというのなら、私だってそのそしりを甘受しますよ。

 私たち人間はキュウベエだ。私個人もキュウベエだ。みんなを救うまどかにはなれないし、ほむらにはならない。
 ケースバイケースだとは言っても、私のスタンスはこれですね。結構多いと思うんですけどね、巷のキュウベエさん。
{/netabare}

あとがき:{netabare}
 テレビ版のレビューを書いて、あとは放置しようと思っていたんですけど、結局駆け抜けてしまいました。

 私の解釈は異端かもしれないですけど、てか何が本流かも分かっていないんですけど、功利主義からのアプローチは結構ハマっているとは思っています。書く内容は随分前から決まっていたので、文章量の割には楽だったかな。実際に文章化したら長くなり過ぎたので、結構カットしちゃいましたけど。

 本当は、映画版レビューでは「次回作があったら、こんなエンディングになるんじゃない?」っていうのをメインに書きたかったんですよね。まどかとほむらの対立をどう処理するのかって話です。でも、カット。
 あと、しばしば散見される宗教的なアプローチも否定しておきたかったです。ここまでは上手く解釈できるけど、ここから先はムリが出ちゃうので適切ではありません、みたいな話です。こちらもカット。
 本来の流れは、ほむらの成長をまとめて、宗教的なアプローチは無理だよって説明して、テレビ版と映画版の結末を別個に整理して、次回作があれば落としどころはこの辺だよね、みたいな感じだったんです。

 あらぬ方向へ行ってしまったのは、キュウベエは悪者じゃないってちゃんと言いたくなったからです。この作品は、キュウベエの主張があって、まどかの主張があって、ほむらの主張があるって流れだから、キュウベエの主張をきちんと理解できないと、まどかやほむらの主張も分からなくなっちゃうと思うんですよね。
 まどかやほむらは極端な結論を出したこともあって、あんまり幸せっぽくないですよね。過ぎたるは及ばざるがごとしって感じかな。とすると、やっぱりキュウベエのバランスって興味深いですよね。もちろん、行為の倫理性の問題は考えなきゃいけないんだけどね。まぁ、本音は、あまりにもキュウベエ悪者論が多い気がしてイラッとしただけ、ですね。
 感想なら何を書いてもいいはず、だよね? むしゃくしゃしてやった、後悔はしていますん。{/netabare}{/netabare}

投稿 : 2015/12/31
閲覧 : 435
サンキュー:

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