「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション 1(アニメ映画)」

総合得点
63.3
感想・評価
92
棚に入れた
344
ランキング
4345
★★★★☆ 3.4 (92)
物語
2.8
作画
3.6
声優
3.5
音楽
3.5
キャラ
3.4

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ネタバレ

TAKARU1996 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

ビート・ジェネレーションの独白と栄光の月曜日

というワケで、これからはじまるのは、出逢いと別れについてのあれこれ……
見たもの、聞いたこと、出逢った人達、別れた人達
そして、あの時のこと……
あの子のこと……
オレの見つけた大切なもののこと……

久し振りって感じは全くしないけど、便宜上、取り敢えず言わせて下さい。
「レントン、エウレカ、みんな、おかえり!!」
端的に言って、最高の劇場版第1弾でした。
個人的意見を言わせてもらうなら、導入としては全く文句の無い出来です。
一緒に喜んで、一緒に悲しくなって、一緒に立ち向かおうと思えたTV版、劇場版
そして、今回の正統進化も見事、その衝動に至る事ができました。
そこにあるのは「共感」を超越した「共感」
即ち、「共鳴」とでも呼ぶに相応しいものが、私の中に再び甦ってきた次第です。

今回は本題に入る前に、少し個人的な話をさせて下さい。
タイトルの文に引用しているので分かる方もいるかと思いますが、私はアメリカ文学が大好きです。
中でも魅力的に感じているのは、ロックンロールの隆盛、1950年代のアメリカ文学
皆さんはサリンジャーやらビート・ジェネレーションやらについてご存知でしょうか?
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーと言えば、アメリカの著名な作家であり、1番有名なのは1951年に出版された『ライ麦畑でつかまえて』
「永遠の『青春』小説」とカテゴライズされた本作は、聖書の次に読まれていると目されており、その熱気は未だに世界各国で根付いています。
ビート・ジェネレーションと言えば、ジャック・ケルアック、ウィリアム・バロウズ、アレン・ギンズバーグ等を代表とした、1950年代に異彩を放った文学集団
当時の社会体制、社会の価値観を否定し反抗した一部の作家を総称して、後世ではそう呼ばれています。

こんな彼等が私は大好きで、何処かへ出かける時は、彼奴等の本を肌身離さず持ち歩いています。
そのどちらとも、多くの精神的事象を、図っているかいないかは分かりませんが、「小説」と言う媒体に込めていました。
彼等は、戦後の衰退したアメリカでは失われてしまった物を求め、旅の中にある人生を描き、「イノセンス」を紡いだ次第です。
純粋無垢な「感情」と言うのは得てして、成長するにつれて消滅もとい変化していく悲しい産物
しかし、作品としてある限り、それは半永久的に残るのです。

さて、「ファースト・サマー・オブ・ラブ」についても数十分の映像で緻密に描いている本作
史実のサブカルチャームーブメントに当てはめて考えると、この「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれる言葉の元ネタは、第2次世界大戦以降に生じた1950年代からのビート・ジェネレーションより始まる、1960年代のヒッピームーブメントのことを指していました。
だからなのか、私の考え過ぎなのか、今回の戦後を描いた映画は、上記のアメリカ的要素がこれまでより、とにかく濃い!
TV版以上に語りまくる彼の心情、特に最初のマシンガントーク
視聴者である私達を「キミ」として語りかけているその口調は、読者に向けて自らの素性を語っていくホールデン・コールフィールドが如し
自由を追い求めて旅をするレントンと、彼が見つけた理想
その真っ直ぐに追い求めていく姿は、ディーン・モリアーティが同行しておらず、まだ成熟しきっていないサル・パラダイスの如く
随所に出てくるアメリカ大陸の地名にも心を奪われ、そして何より、この映画は作中全体に「イノセンス」が内包されています。
アドロック・サーストンが幼き子供達へ送る優しさ
チャールズとレイがレントンに与える温もりと、レントンが彼等に対して応えている敬慕
レントンが少数宗教ヴォダラクに属する少女へ送ろうとする救済と、その行動が生み出す空虚な現実の悲哀
そして、レントンがエウレカに対して抱いている「愛」
全てが純粋で、キラキラ煌いていて、社会的現実の痛烈さに飲み込まれそうにもなれど、めげる事は無くて……
新しい劇場版でもこの「純粋性」は未だに息衝いています。

また、今回は序盤以外、レントンのモノローグで物語が紡がれていると言うのも1つの特徴です。
彼の頭の中で「12分間」の間に行われた回想
「現在」の地点から「12分間」過去の歩んできた道を振り返り、最後に大きな「決断」と言う名の覚悟をするまでの物語
このような作りの場合は得てして、主人公の眼から見た世界で物語を自然と認識し、知覚していく構成となっています。
それはTV版でも先刻の劇場版でもそうでしたが、本作はその要素が今までの作品と比べても、更に強め
自然に私達は彼の行動、思考に直通して、架空世界を視認し、物語を体感していくのです。
したがって、彼が大事にしておきたい所は同じ映像が再度出たりしますし、彼がまだ整理のついていない所は敢えてぼかされたりもしています。
曖昧に時間も前後しますし、観難く思う方もいる事でしょう。
しかし、それもまた、レントンという人間を良く知っている事で、私達との間に成り立つ、理解し合える現象とも言えるのです。
だからこそ、この映画を視聴する際は、レントン・サーストンという人間を良く知ってから観る事をお勧め致します。
彼の思考が分からずして、この物語の意図等、掴めません。
まあ、そもそもハイエボリューション(進化)と名の付いているのに、進化前を見ようとしないで本作を見る人はいないでしょうけどね(笑)

まだ『エウレカセブン』は終わっていない。
1950年代の彼等に好感と目標を抱いている限り
レントン・ビームスに「共鳴」を感じている限り
「交響詩篇」は終わらないし、「ボーイ・ミーツ・ガール」は続いていく。
苦しみや悩みと言うのは、偉大な自覚と深い心情を持つ者にとっては、常に必然的な物
共に苦悩を体感している限り、この「物語」と言う代物が途切れてしまう事はないのでしょう。
「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」
あの人の言葉が、彼の背中を蹴り上げる。
だから、少年はあの子の元へと向かう。
道は遙か先、荒野を目指して歩んでいく。
「今、お前はどんな気分なんだ?」
「今、俺はどんな気分なんだ?」 
どちらもまだ、今は分からない。
けど、1950年代の彼等やレントン・ビームスと共に、荒野を目指して歩んでいこう。
今日は、そう誓う事の出来た、始まりの月曜日(New Order)だ。

You know we are free, so fly with me
ここじゃない 未来まで
We'll reach our dreams through the haze
掴み取れ この手に Glory Days

One day we will see, we're meant to be
もう今 迷わない
We'll rise to shine and feel the praise
駆け抜けろ 僕らの Glory Days
「Glory Days」


☆使われている映像

今回の映画は後半がTVアニメの展開をなぞる形となっております。
しかし、既存映像の使い回しではありません。
全て一から台詞も絵コンテも演出も直しており、元々の映像にはかなりの変化が加えられています。
これは、監督御自身がこれからの映画展開のために行った判断
ニュアンスや意味を変えて作られた、正に「再構築」と呼ぶに相応しい映画なんです。

https://v-storage.bandaivisual.co.jp/report/event/73382/

しかし、確かにTV版の記憶が薄ぼんやりだと、同じに思われる方も多々居る事でしょう。
その為今回、敢えて項目を作りました。
TV版視聴済みの方にはあのシーンと似た映像があると想像しやすくする、比較しやすくする為
まだTV版未視聴の方にはそういった話があるという事を考慮させる為
此処に、初めてのカスタムタグを作る事と致します。
まあ、正直私は感想が下手なので、まだ観ていない方は今回の映画を観るにあたって、この部分を観るより、TV版の1話~25話まで観る方が早いと思いますが(笑)
少なからずTV版、そして、劇場版のネタバレになってしまう可能性も否めませんので、これから観ようと思っている方はどうか御注意を…

{netabare}
第1話「ブルーマンデー」
伝説にして始まりの回
現実に鬱屈している主人公、自分に新たな変化が来る事を望む主人公
私が主人公と言う物を1話から好きになれたのは、後にも先にもこれしかありません。
「マッチング」と言う言葉を痛感した運命の出逢い
そして、この映画もまた、TV版第1話と同様、月曜日から始まる物語と言えるでしょう。

【TV版と似通ったシーン】
1話Aパート(全てではない)


第12話「アクペリエンス・1」
TV版では、レントンとエウレカがゾーンへ至る回
途中の気狂い描写に当時戦慄した思い出
この映画では、アクペリエンスと名を変えた体験になっています。

【TV版と似通ったシーン】
ゾーン突入&ゾーンから帰還するシーン


第19話「アクペリエンス・2」
スカブに飲み込まれたエウレカを引き摺り出すレントンの表情が痛ましく、それと対照的な、冷静に絶望しているエウレカの対応に切なさを感じる。
観終わった後はとても苦しくなった、印象的なシーンのある回です。

【TV版と似通ったシーン】
19話Bパート(全てではない)


第20話「サブスタンス・アビューズ」
最後の帰着に、制作の皆さんの挑戦を感じ取った話
こちらも受けて立たなければいけないと決意を新たにした、私個人としても節目となった回と言えるでしょう。

【TV版と似通ったシーン】
なお、今回のパート1ではその「挑戦」のシーンは使われず、ホランドとレントンの喧嘩シーンが使われています。


第21話「ランナウェイ」
フルスロットルで面白くなっていく家出回序章最初のクライマックス
まあ、あらすじ的にここは外せませんよねえ(笑)

【TV版と似通ったシーン】
21話Bパート終盤、エウレカの病室シーン


第22話「クラックポット」
レントンがチャールズ&レイと出会う回
リフから紡がれるチャールズの信念に当時の自分も影響されて、今日まで至りました。

【TV版と似通ったシーン】
この回以降、レントンが登場しているシーンはほぼ使われています。


第23話「ディファレンシア」
当時、私の心に衝撃を与えた、忘れたくても忘れられない回
「ディファレンシア」と言うタイトルだけで話の内容を思い出せる位
「『エウレカセブン』で心に残っている回は?」と問われたら複数あれど、間違いなくこの回は入ります。


第24話「パラダイス・ロスト」
失楽園、楽園追放、理想郷崩壊、新たな試練、そして再始動の回
物心ついてからTV版を観返すと、あの時引き止めた軍部の人がミルトンと言う名前なのにニヤリとしてしまう(笑)
この回の作画からレントンの表情に変化が生じていくのは、今回の劇場版も同じ
「幼年期の終わり」ならぬ「少年期の終わり」
選択肢は無限な、有限の未来へと動き出していく彼の背中に、人間の生き方を観た瞬間でした。

{/netabare}



2018年11月10日追記
ハイエボリューションのコンセプト:再構築
上記に照らし合わせて考えてみた時、本作とTV版には明確な相違点が発生していた事に気付きます。
発見出来たので、此処に記載すると致しましょう。

①レントンとアドロックの対比を生み出している
今回の映画で、最初にサマー・オブ・ラブへと立ち向かうアドロックを映したのは、明確な意味がありました。
原点である事件の映像化……だけではありません。
それは、あくまで付加的要素
本当に重要なのは、アドロックと言う人物を映した事による、レントンとの対比的な生き方だったと気付きました。
アドロックは、別次元の地球を「外側」から見て、世界の美しさに気付いた。
レントンは、自分が生きている地球の「内側」を見て、世界の美しさに気付いた。
この対比を新たに作り上げた事は、主人公をTV版とはまた異なった観方へと誘うのです(詳細は②と③)


②2人のレントンの相違
「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」
この言葉、TV版だとレントンは明確に理解をした上で行動に至っています。
彼はエウレカと出会い、好きになって、彼女と共に生きたいと願いました。
2話から彼がその信念の元に行動出来ていたのは、正の面を教えてくれたダイアンと負の面を教えてくれたアクセルがいた事に起因しています。
上記の言葉はサーストン家の家訓なので、その教えが染み付いていたレントンは臆せず行動出来た節もあるのでしょう。
自分の為に教えてくれた姉や祖父の教えを胸に秘めつつ、自らで行く事を心に決めて動き、結果を出そうと邁進していくのです。
なので、TV版における家出回の一連シーンと言うのは、自分の初心を思い返すための言わば布石に過ぎません。
自分が「選択」してきた事を思い出す一連の回こそ、あのチャールズとレイ(+バクスター夫妻)の出会いにあると言えましょう。

そして『ハイエボリューション』のレントン
「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」
彼には、幼少時よりその意味を教えてくれた存在がいません。
なぜなら、ダイアンもアクセルもこの世界には居ないから。
サーストン家の家訓自体が、父の不在によって完全に語り継がれる事もなく途切れてしまったから。
よって、その意味を完璧には理解してはいない少年の行動は、よく見るとTV版と全く違います。
エウレカとの出会いは、彼女にスカウトされたから。
月光号に乗れたのは、スカウトに乗った事で生まれた偶然
その結果、彼女に拒絶されて、月光号も嫌になって、最後は逃げ出した。
『ハイエボリューション』の少年は「選択」と言う言葉の意味を考える事無く、只々逃げ続けてきただけだったのです。
TV版のレントンは「逃避」であり、『ハイエボリューション』のレントンは「逃走」になっていると言えるでしょう。

選択してきたと言う免罪符で自分を騙していたが、これは逃げと言う選択を選んだのではなく、しょうがないから逃げてきただけに他ならない。
私が『ハイエボリューション』のレントンを「ホールデン・コールフィールド」と称したのは、地味に的を射ていたかもしれません。
私はホールデンを最高の主人公と思っているので、最高に興奮しましたけど。
しかし、チャールズとの最後のフライトで、ハイエボリューションの彼はやっとアドロックの言っていた意味を理解しました。
世界の美しさと、勝ち取りたいものと、ねだらない強さ
「選択」と言う言葉が齎す高尚な意味に、彼はようやく実感で以って理解出来たのです。
先人達に教えられずとも、自分でその意味を理解した少年の姿がそこにはありました。
今まで流され続けてきた自分に折り合いをつけ、やっとアドロックの言葉を肯定出来るようになった。
これは『ポケットが虹でいっぱい』の彼と同程度の成長を遂げたと言えるでしょう。


③サーストンとビームス
『ハイエボリューション』のレントンは、サーストンの姓とTV版以上に向き合っていない点が多々見受けられます。
しかし、彼がレントン・サーストンになるまでの軌跡と考えた時、TV版よりも成長していなかった彼の飛躍的な変化を痛感出来ました。
最初に語った自己紹介、それはレントン・ビームス
最後に語った自己紹介、それはレントン・サーストン
上記の違いからも充分、把握出来る事でしょう。

だからこそ、今回、過去の映像は必要だったのかもしれないと思いを馳せてしまいます。
過去からの脱却を図る為に過去映像を使うと言うのは、矛盾しているかもしれません。
しかし、8:3と16:9の映像で比較を行わせて、変化した事自体は如実に伝えられています。
この演出が、主人公レントンの視点が広くなった証、そして、観衆にもそれが伝わるよう取り組んだ証と、私には感じられました。
また,TV版と異なっているのは上記からも解るでしょうが、本作は言わば『交響詩篇エウレカセブン』と最も似通った世界観なのです。
だからこそ、本作は過去の映像がやたらに多かった。
つまり、次回作からは全く異なった新しい作品を見れるのだと、想定出来たのだと思います。
アドロックが最後に見たのは2つの「地球」
思いの馳せる考察が、尽きる事はありません。


そう、これは自己肯定へと至る序章に過ぎない。
新世界への息吹を感じた『ハイエボリューション』
アドロックの息子として縛られない、レントン・ビームスとして始まる。
               ↓12分後
ビームスの養子として縛られない、勿論アドロックの息子としても縛られない1人の個人、レントン・サーストンとして生まれ変わる。
1人の人間として、この第1章で「レントン」に再生したのです。

ここからが彼の始まり、物語の始まり
『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』における彼の活躍も大いに期待しています。



2018年11月15日再追記
『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観ました。
「進化」を見出す事が出来て、相対的に評価が上がったので、此処に記録として遺す事と致します。
私は、彼の生き続けている記録と、彼女が戦い続けてきた証を、否定したくはありません。

投稿 : 2018/11/15
閲覧 : 440
サンキュー:

9

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