「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊-ゴーストインザシェル(アニメ映画)」

総合得点
86.4
感想・評価
1095
棚に入れた
6496
ランキング
198
★★★★★ 4.2 (1095)
物語
4.2
作画
4.2
声優
4.1
音楽
4.1
キャラ
4.1

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ネタバレ

みかみ(みみかき) さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

サイボーグの問題は、キューベエの現実化といってもいい。

 この作品がわたしに与えた衝撃を一言で言えば、「サイボーグの身体の問題が、いかに社会のルール/道徳/意識を変えるか」ということのインパクトを描きだしていたから、ということになる。それは、『まどか☆マギカ』の比ではなかった。

 二点だけ、書いておこう。

■身体の違いは世界の見えかたを変える。

 『ぞうの時間、ねずみの時間』というベストセラーになった本のなかで、ぞうとねずみは、同じ時間のなかを生きていない。身体のあり方が世界の感じ方を別様に成立させている、という話があった。
 たとえば、ミミズが、感覚できる光は、世界が明るいか暗いかというたった2つの違いしかない。明るい世界に出てしまったならば、すぐに土に潜るための機構としてはたったそれだけでいい。「眼」はいらないのだ。
 動物の身体と、人間の身体では、同じ世界を見ていない。この知覚能力や身体条件の差は、生命体Aと生命体Bの間で、まったく別の倫理メカニズムを成立させる。最近でいえば、『まどかマギカ』のキューベエの残酷さの問題といえばわかるだろう。異なる身体を抱えた存在は、異なる道徳を保持する。その異質性について、われわれが「人間の道徳」によって非難することは、無力だ。
 ただ『まどかマギカ』のキューベエの圧倒的な残酷さの問題、というのはあくまでファンタジーの問題だった。キューベエは現実にはいない。しかし、攻殻機動隊のこの話のなかでは、キューベエ的な異質な身体は、ファンタジーとしてではない。近未来に、実際におこりうるサイボーグや人工生命の問題として、描かれる。「人形使い」の倫理観の圧倒的な、「非人間性」は、身体を基盤として描かれる。
 キューベエ的道徳は、地球外生命体において存在するのではなく、サイボーグになったわたし自身の身体が獲得してしまうものかもしれない、ということだ。「わたしたち」の中が誰かがキューベエであり、誰かがキューベエではないような世界は、世界に混乱ももたらすだろうし、世界に変化ももたらすだろう。それは、恐怖すべきことなのか?それとも、人間にとって、の世界のもっとも重要な基盤がかきかえられるという事態であるのか。もはや判別がつかない。
 しかし、とにかく、大きなことが、起ころうとしている。それだけは、確実なもの、として伝わった。 

■醒めない夢。区別できない私。

「自分は夢のなかで蝶になって舞っていた。楽しく舞っていた。
 その後、はっと目がさめるて、気がつけば、わたしは蝶ではなく、人間だった。
 しかし、考えてみるとこれは、奇妙なことだ。
 人間である私が夢の中で蝶となったのか。
 それとも自分は実は蝶であって、いま夢を見て人間となっているのか。
 どちらが本当なのか。
 私にはそれを知るすべがない。」

 これは、2000年以上前に書かれた荘子の「胡蝶の夢」(を少し書き換えたもの)だ。 古典的な問題でありながら、常に滅びない問題のひとつだ。人類がずっと、疑問に思い続けてきたことのひとつだ。
 しかし、本作が示すのは、古典的な夢と現実の境界の問題よりも、さらに先の風景だ。夢の世界と、現実を区別するための方法はいくつかある、古典的には頬をツネって、いまが夢であるかどうかを確かめるなど、「夢」と現実の区別は、ある程度つきやすい。しかし、この作品が示す世界は、頬をつねっても、それが夢であるか、あるいは唯一の現実であるかどうか、ということを示す手段がないことを示している。
 <今のわたし>というものの信頼性そのものが揺らぐ。ごみ回収業者の記憶の書き換えが示すように、<今のわたし>が構成する世界が、自然的なものである、という保証は、何もない。
 荘子が問題としたのは「夢と、現実」の境だった。
 しかし、本作では夢と現実の判別のことを問うていない。ここで描かれているのは「ある現実X、別の現実Y、また別の現実Z」の差だ。世界の成立を保障する「一応の人間の現実の身体」という、存在そのものが保障をうしなった世界だ。<いまのわたし>の世界を保証する根拠が、どこまでも失われていく世界だ。
 我々がこれからやってくる世界には、夢、が何重にも分裂するような「夢」。それが成立してしまうかもしれない可能性のある世界が到来するのだ、と示しているようだった。
 もちろん、本作で示されているほどの正確な記憶の書き換え、が可能になるかどうかは、わからない。おそらく、記憶の精密な書き換え、は50年程度の近未来では成立しないだろうと、と思う。
 ただ、おそらく、成立するのは、我々の「知覚」の書き換えだろう。触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚。それらを書き換えるテクノロジーは、すでに一部が現実のものとなり始めており、これらを操作する方法は数十年内に現実に訪れるだろう。「記憶」が無根拠になることは、当面ないだろうが、「知覚」の根拠が失われる未来。「知覚」がどこまでも多様なバリエーションを持ちうる世界はもうすでにそこまで来ている。
 

 わたしが本作をみたのは1996年だったと思う。
 これがなければ、わたしは人生で、別の道を選んでいた可能性も少なくない。

 世界は、かわっていくのだ。
 世界は、情報技術の進化と併行して、その基盤が大きく書き換えられていくのだ、ということに、どう解釈すればいいのか、わからなくなった。本作を見終わったあとにしばらくモニターの前から動けなくなった。



 また、言うまでもなく本作はきわめてスタイリッシュなアクション作品としても特筆すべきものである。マトリックスに、影響を与えるだけのインパクトを与えた、ということはだれかほかの人も触れていることだろう。

 この作品と、人生の比較的はやい時期に出会えた、ということに深い感謝を示したいと思っている。押井守、士郎正宗そして、当時、この作品の制作にかかわったProduction I.Gの面々にこころから感謝したい。
























*******
と、ここまでで当面のレビューは終えて、
下記は、私自身のためのメモ
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■1.記憶、という嘘。

*物語化のための装置としての嘘

 この作品は、一点だけ大きな嘘をついている。
 人格の問題も、コンピュータにおける情報も、すべてが人間の「記憶」とおおむね置換可能なもの、として描かれているということだ。
 記憶、はそれほど万能なものではない。しかし、なぜ「記憶」ということがこれほど焦点化されなければならなかったのか。それは、おそらく、これだけ複雑な問題への眼差しを、ひとつの起承転結をもった物語として構成するためだったのではないか、とわたしは思っている。

 それを捉えるためにわかりやすいのは、本作で語られる「ゴースト」という概念だろう。
 「ゴースト」というとは、人格であり、いわゆる「魂」であり、人の固有性のことでもある。これはなかなか扱いが難しい。おそらく、デカルト的な心身二元論的な意味での「魂」として解釈した人も少なくなかったろう。それはさすがにだいぶ本作の世界観とはずれているとは思うが、そういった誤解をも誘導するような概念になっている。人格や自己、というシステムは、現在の認知系の研究者の多くの意見をざっくりとまとめれば、動的でダイナミックな諸々の人間の心的機構を、一定の再生産・維持可能なかたちで安定化させる装置のことである。たかが安定化装置でしかない、という言い方も可能でだが、複合的な記憶を調整し、説明し、どうにか保ち続けるメカニズム。それが人格である。人格は、はおそらく情報一元論的な世界観から、説明することは難しい。創発的で、偶然的なところが少なくない可能性がある。それが、本作で「ゴースト」と呼ばれるものの正体だろうと思うが、本作ではこれを意図的に誤解を招くようなものとして描写している。それは、作者たちの理解不足なのか。それとも、物語を統一的に描きだすためのごまかしだったのか。どちらかはわからない。「記憶」の問題を「固有の人格(ゴースト)」の問題と、意図的に同一のものとして扱ってしまうことで、これだけ複雑な話を一応の物語として成立させえているのは確かだ。つまり、記憶の問題を、人格の問題に変換することで、アイデンティティの問題や、感情の問題を扱えた、ということだ。

*大きな問題に接続するための嘘

 第二に、これが複数の哲学的に重要な問題と、紐付け可能だからということがある。「記憶」にはさまざまな哲学系の問題をひもづけることが可能だ。
 たとえば、下記のようなことだ。
 :独我論の問題=「わたしの生きている世界は、わたしがいなくなれば消えてしまうのではないか?」(先述)
 :環世界論的問題観察の再構成=「わたしの見ている世界と、猫の見ている世界は同一ではない。」(先述)
 :人格メカニズムの問題=「<わたし>という存在、人格を構成しているのは一体なんであるのか?」
 などがすべて記憶という問題とすべてつながる、ということになる。
 独我論の問題と、環世界論の問題はすでに述べた。
 三点目の人格メカニズムの問題についてのみ述べる。




 「子供のわたしが観る世界、と大人のわたしが観る世界の差」も、作中で触れられる箇所がある。これは、環世界論のようなダイレクトな知覚の問題よりも、もう少しメタ的な自我や、解釈メカニズムの水準の問題だが、こうしたメタ的な自意識が再構成される理由となるのも、やはり身体の更新、ということをベースとして起こることになる。
 結局のところ、独我論の問題にせよ、身体の更新にせよ、既存の記憶・倫理といった人間の身体条件を基盤とした思考のシステムや、人格のシステムが、もはやアテにならなくなる、というはなしだ。
 もっとも、象徴的な点は、人形使いと、素子との「人格の融合」だ。
 人格、というものの固有性がそもそもダイナミックで、交換可能なものとして成立しはじめるとすれば、確かにそれはもはや、融合しても問題はないのだ。
 たしかにそういうことだ。本作においては、人格の、固有性などという概念はもはや成立しない。融合すればいいんだな、と。

※この発想はのちに知ったが、SFの古典で、すでに何十年もまえに示されたものであるらしい。ほかの部分も、SFのなかではすでに提示されていることの一種だったのかもしれない。しかし、高校生の頃のわたしは知らなかった。

 知覚の問題も、メタ的な自意識の問題も双方こみで、「人間」というシステムそのものが、更新されるという、とんでもない事態を予言しているのだ、と。それを理解したわたしの驚愕といったらない。

 
 でだ。
 人格、というのは平均値をとるようにして立ち現れることが可能なのだろうか。本作の最後のほうの描写だと、人形使いと、草薙素子との平均値をとったような人格(つーか、二人ともクール系の超知的生命体、という点で似たような描写だったので平均もくそもない気もするが)だったが、実際にこういうことを行えたとした場合、もっとダイナミックな人格変容がうまれたり、そもそも、「人格」というシステムを形成するために、一定の年月を必要とするようなことが起こりうるのではないか、とも、今現在のわたしは思う。そういう描写のほうがリアルではあったとは思う。
 (物語的なオチをつけるために、そんなことまで悠長にやっていたら尺が足りない、というまったく別の事情もあるわけだろうけれども)



 と、だいぶ散漫かつ、ほとんどの人に何を言っているか、ようわからんであろう内容になってしまったが、わたしにとっての攻殻機動隊、とは以上のような問題をわたしに提示した作品だったわけだ。

投稿 : 2011/09/09
閲覧 : 1220
サンキュー:

20

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