化け物で呪いなアニメ映画ランキング 2

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早速見ていきましょう!

90.5 1 化け物で呪いなアニメランキング1位
もののけ姫(アニメ映画)

1997年7月12日
★★★★★ 4.2 (2048)
13291人が棚に入れました
エミシの隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲った「タタリガミ」に呪いをかけられる。ただ死を待つより、己の運命を「曇りなき眼」で見定めるため、はるか西方の地を目指して旅立つ。そこでアシタカが見たものは、森を切り拓いて鉄を作るタタラの民とその長エボシ、森を守る山犬一族、そして山犬と生きる人間の少女サンであった。アシタカはその狭間で、自分が呪われた理由を知る。やがて、森を守ろうとする動物たちと、その長「シシ神」を殺そうとする人間達の壮絶な戦いが始まる。

声優・キャラクター
松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、上條恒彦、西村雅彦、島本須美、小林薫
ネタバレ

イシカワ(辻斬り) さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

宮崎駿監督の海外向け作品

もののけ姫
ストーリー
森や山が世俗から離れた神の領域として信仰されていた遠い過去。
宮﨑駿監督は、武士や農民といった焦点として当たりやすい人々ではなく、先住民や漂流民、業病を抱えた者など、歴史の表舞台に立たない人々に着眼した。主人公の一人であるアシタカもまた、天皇と対立して住んでいた土地を追われた蝦夷(以降エミシと表記)という古い民族の者であり、いずれは追いやられている部族を背負っていかねばならない立場にある青年だ。まだ実権を握っていた天皇や武士といった体制側と対立したために、歴史の影となり、まともに注目されないまま埋もれていた人々の物語でもあるのだ。
そのような時代背景の中で、事件は起きる。
縄文的村落で暮らしていたエミシの一族の前に突如として現れた得体の知れない存在。それは山のような体を揺さぶり、辺り構わず突進する抑えがたき猪の祟り神だった。堪えられる精神の限界を超え、憎悪と憤怒が噴き出し、全身にある穴という穴から黒い感情が実体化していた。肉眼で視えるそれは多数の触手となって、巨躯を覆って黒い生き物のようにうねる。そして周囲の人々が近づけば触手は絡みついて自由を奪う。
アシタカは村落の危機を救うため、祟り神を鎮めようと説得するがしくじる。しくじったせいで村の者達は窮地に陥り、見かねたアシタカはついに弓で祟り神を射殺してしまう。その瞬間、祟り神の呪いを腕に受けたアシタカは、大きな弾丸が祟り神の遺体から出てきたのを目撃。村落に持ち帰り、年長の者達に意見を乞うた。
老婆は告げる。古き神が祟り神に変じたのだ、このままでは呪いに体が蝕まれ、取り憑かれて死ぬと。
「曇りなき眼(まなこ)で見定める」
アシタカは、弾丸を手がかりに、なぜこのような事態になったのかを曇りなき眼で見定めるため、真実を探求すべく神々が棲むという森へ、ヤックルという獣の背に乗り独り旅だっていった。

4つの視点から成り立つ構成
1つ目は、エミシの一族であるアシタカの視点だ。他の主な登場人物も、象徴的な存在として描かれている。

2.国崩しを望む女性、烏帽子御前(エボシゴゼン)
烏帽子御前という美女は、戦乱の世によって行き場を失い、弱者の立場に陥り身売りされていた女達を買い取り、タタラ場の製鉄で資金を得ていた。初期投資の予算はあったのだろうが、この時代にあって机上の空論ではない経営理念を持った実力派の人物である。
さらには女人が入ると鉄が汚れるという理由から踏み入れることが許されないタタラ場の製鉄の仕事に、率先して身売りされていた女達を起用した。既成観念に縛られない人物ともいえるだろう。男尊女卑の国にあって、女性自らがリーダーとして立つ。国という既成概念ですら崩してしまおうという考えすらある、新興勢力の頭目である。青銅製の兵器が一般的であったころから、鉄製品が現れる時代の変遷もこの物語では描かれているのだ。

3.人間の権力者とその手先
天皇たる帝(ミカド)とジコ坊
森に住むシシガミは、業病を癒やす薬になるとか、不老不死になるとかいう噂から、その首を望んでいる。また、タタラ場の製鉄所に目をつけている。非人頭であり師匠連でもあるジコ防を動かし、密偵として森へと差し向ける。ジコ坊は唐傘連という特殊な組織を配下に連れており、烏帽子御前に接近。森へと唐傘連を放ち、暗躍する。

最後の勢力
4.もののけ姫と古き森に棲む動物神たち
もののけ姫というタイトルどおり、アシタカの向かった先の森には古き動物神が棲んでいた。針葉樹林の豊富な屋久島を視察してイメージを得たという森。森や自然は絵として美しいが、演劇の舞台装置のようなものではなく、作品を支えるテーマの一つといってよいだろう。岩山ですら苔の緑に覆われ、巨木が聳え立ち、鬱蒼と生え茂る木樹は天を隠し、葉の隙間から漏れ出る陽光は神秘的な光を大地に落としている。

人と自然とのかかわり合いを描いてきた宮崎駿監督だが、これまでの自然と人の調和、協調路線を主人公に課すのではなかった。

もののけ姫であるサンはナウシカとは異なり、人との調和など求めていない。完全に自然側に即して生きている。何より、森を荒らす人々に攻撃的で容認しない態度だ。人間側もまた一方的に、地中にある鉄を奪うために森を荒らす。ナウシカのように王蟲やトルメキアのクシャナと対話を試みたりすることもない。対話のない双方激しい憎しみと怒りがあり、侮蔑を隠すこともない。これは過去のヒロイン像、さらにいえば、宮﨑駿監督の理想像を自らくつがえしてみせた、理想ではない造形のヒロイン像である。過去、宮﨑駿監督は周囲から、理想像的すぎる、世の中に存在していないかのようなヒロインを描きすぎるといったバッシングに立たされていた。いってみれば、風の谷のナウシカや未来少年コナンのラナ、天空の城ラピュタのシータなどといったお嬢様、男性から見た理想像的なヒロイン像にNOをつきつけられたのである。
その中で、新しいヒロイン像を模索し、魔女の宅急便のキキのような、過ぎたる理想像ではない、女性から見ても共感されるぐらい身近なヒロイン像を描いてみせていた。そして今回、理想像ではなく、といってもただの現実的なヒロインでもない、第三のヒロイン像を確立させた。勇猛果敢で人に攻撃的、調和など用いぬ、アシタカに出会った際にも睨みつけるような一瞥を送るなど、人から好かれやすいようなヒロインとはまったく別ものといってよいものとなっている。視聴者に媚びを売ることなく、自らが要求されたものに妥協することもないヒロイン像、厳しい試練を宮﨑駿監督は自らに課したのだろう。

『人の業を受け入れるのは、もののけ姫であるサンではなく、タタラ場の烏帽子御前』

風の谷のナウシカでは、人の業の象徴である、腕が石になってしまう病を得た老人が、トルメキア軍のクシャナに対していう。
城オジたち「あんたも姫様じゃろうが、儂らの姫様とだいぶ違うの。(手を差し出しつつ)この手を見てくだされ。ジル様と同じ病じゃ。あと半年もすれば石と同じになっちまう。じゃが、儂らの姫様は、この手を好きだというてくれる。働き者の綺麗な手だというてくれましたわい」
これは主人公のヒロイン像を確立させるに値する一つのファクターといってよい。
{netabare}烏帽子御前が猪神を石火矢(火縄銃)で撃ったことに対してアシタカは批難する。呪われた右腕は烏帽子御前を殺そうとするが、烏帽子御前は平然と構えている。{/netabare}
石火矢(火縄銃)づくりのおさはアシタカに陳情する。
「お若い方、私も呪われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみはよっくわかる。わかるが、どうかその人を殺さないでおくれ。その人は、儂らを人として扱ってくださった。たった一人の人だ。儂らの病を恐れず、儂の腐った肉を洗い、布を巻いてくれた。生きることは、まことに苦しくつらい。世を呪い、人を呪い、それでも生きたい、どうか、愚かな儂に免じて」
人の業を受け入れるような、若き指導者としてのヒロイン像を宮崎駿監督はサンに与えなかったのだ。
これは過去作品の、自らの訴えそのものを、自らで否定したに等しい行いだ。それは自然と人間の調和を訴えてきた作品の否定でもある。この物語は、調和を目指していない。人によっては、宮﨑駿作品の理想をキレイ事だという人もいるだろう。これまでの作品の定義を自らで覆して発表するのは、挑戦的な行為ともいえる。
{netabare}古き風習を打ち破り、国ですら既成概念として崩そうと望む烏帽子御前。これまであったものの破壊によって、新たなものを打ち立てるという思想は、もののけ姫や森の神々にも向けられており、思想的な相違から双方が戦うことになるのだ。{/netabare}

本来物いわぬ動物たち
意思表示がはっきりしない彼らがもし人の言葉を解し訴えるとしたらどうなるのか。
山犬であるモロという名の神のセリフが明確に語っている。
「おのれ人間めっ!」
このセリフを聞いたとき、筆者は、やってくれたな、と思ったのである。筆者自身、かなり宗教学的な分野の本を趣味レベルで読んでいる。そのため、宗門の属する人間の思考形態が一般人より脳内で鮮明化できているという自負がある。
神という存在は、人間の行いによって、罰も与えれば、崇めて神のいう言葉に耳を傾け、いう通りにすれば救いもするという理屈である。しかし、現実的な視点で見れば、宗教指導者、実質的な権限者にとって都合の良い教えになっている。さらにいえば神は人間の都合の良いこと以外はしないような考えがある。
もし、鳥や魚にとっての神がいて、人間が鳥や魚を大量虐殺したのなら、その罪を贖わせるために罰を与えるだろう。創造主といっておきながら、極度に人間偏重な考えでしかない。万物の創造主なら、他の生物に対しても当然愛情も親しみもあるだろう。それが、人間ばかり都合の良い教義がまかり通るのは、神の正体が、信者の願望からくる理想像そのものでしかなく、それ以上でもそれ以下でもないからではないのか。
その人間に都合の良いはずの神が、おのれ人間めっ!と言い放つのである。人間に都合の良い神でなくても別段不思議でもなんでもないはずだ。人間は基本的に自分のことしか考えない側面がある。その偏った信仰と、その信仰という名の願望によって生まれてきた神とその教えに鋭い一撃を放った。そのように直感した。
生まれ変わっても一番功徳を積んだら人間に生まれ変わる。だから人間こそ一番権利があると説く宗教もある。最初に説いた指導者はそのようなことを口にしていなかったとしても、次第に変質し、自分に都合が良いように変わっていく。宮﨑駿自身も口にしていたが、仏教が正しく伝わらなかったからこそ、繁栄したところがある、というような意見があったという。
アメリカ辺りではキリスト教の勢力から、もののけ姫上映の停止を求める強い要請があったことも事実である。宮﨑駿監督は、魔女の宅急便でも同じく、キリスト教にとって悪という概念である魔女を主人公の作品作りをした。ある意味真っ向からの対決姿勢にでさえみえる。
宮﨑駿監督の風の谷のナウシカや他の作品との類似点は多い、キャラクターの人間関係、主人公と対峙するのは女性指導者と中年の男性配下。自然と人間の環形を問う形式。ボーイ・ミーツ・ガールの男女の主人公。宮﨑駿監督作品をよく知る人にとっては、整理して焼き直しした作品に思える人もいるだろう。ただ、筆者の視点からすると、海外向け作品としては、初めてのメジャーデビューに近いものだと認識している。
きちんと仕切りなおして、集大成としての作品作りにして、海外へのメッセージとしたのではないだろうか。
キリスト教では、創造主たる神がすべてを創りだしており、その神の信徒であるのなら、他の生き物は神と自分たち人間のためにあってよい、いってしまえば、信徒は神の代理人として、権利を譲渡され世の中の生き物だろうが資源だろうが自由に使う権利があるという考えが古来まかり通っていた。近代となって、はじめてエコロジーや自然環境を考える人々が出現してきたが、神によって創りだされた自然は、神の代理人たる信徒の利用する権利があって当然としか考えてこなかった面がある。絶滅危惧種が増え続け、人間の行動によって絶滅しても、神によって許される、それが当然という考えがあったという論文の記述を複数の歴史的書物で見かけた。筆者も同意である。その一辺倒な思想に否を突きつけたようにしか、筆者にはみえなかった。
これは海外向けに作った作品として、明確な意思表示があったというところが、筆者の独断と偏見だ。その自然側にいる、神の子としているもののけ姫。神の子という言い方をすれば、イエスが挙げられるが、まったく別アプローチによって、神の子と神話を描き出している。

『物語のロジックとしての整合性を捨て、メッセージ性を優先する姿勢』

最初のシーンである村落で、助けられた少女、カヤはアシタカを慕って、黒曜石の小刀をお守りとして渡すのだが、それをもののけ姫であるサンに渡してしまう。普通に考えるのならば、慕っている女性からの贈り物を、他の女性に心の表れとして贈ってしまうというのは、倫理的に問題があるところだろう。
物語のロジックとして考えるのならば、整合性がない、なんのためにあのシーンはあったのか、物語の骨子、シナリオのプロットとしては無駄な部分ではないかという指摘があっても不思議ではない。
しかし、宮崎駿監督の作品はロジックよりメッセージ性のほうが優先されている。製作過程においても、ある時いきなり、なんの予定もなかったキャラクターが登場してしまうこともよくあるという。予定を組んで制作に入るのは、放映時間の制限内で物語を完成させる上で当然の行為だが、宮崎駿という人はシナリオをいきあたりばったりで作ることもあったという。そのせいで、先が読めない展開となりやすく、却って視聴者は、わからないがゆえの興味が沸く。いってしまえば、どうなるのかわからないからこそ、手に汗握る展開も出てくるのだろう。うまくできなかった時の高いリスクと引き換えにした面白さであり、誰にでも、はいそうですかといってできるものでもない。行き当たりばったりで作ると、たいていは骨子がうまくできあがらず、頭と終わりだけがはっきりしている、いわばミミズのようにクネクネするだけの作品となり、キャラが立たないのと同じく、シナリオが立たない。シナリオとしてうまく成立しにくいのだ。同じやり方で、シナリオが成立できてしまう辺りが、駿監督の特異性といってもいい。
ただこのやり方を踏襲したアニメゲド戦記は、原作が理論性と整合性を突き詰め、計算づくで極めてロジック的に作られていた。それを捨てたせいでシナリオはある意味破綻してしまった。その意味でいえば、もののけ姫よりナウシカの方がロジック的に整合性の優れたシナリオといってよいだろう。

サンとアシタカが最後にいうセリフこそ、自然と人間との調和や協調路線ではない、シビアで現実的な立ち位置を示している。
{netabare}
サン「アシタカは好きだ。だが人間を許すことはできない」
アシタカ「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」
アシタカが黒曜石の小刀を手渡す意味を理論的に考えようとするのならば、一応できなくもない。タタラ場で暮らすと口にすることによって、エミシの里に戻らないことを宣言することになる。そこまで考えると、もう小刀を手渡した時からエミシの里に戻らないことを決意していたことになる。
共に生きよう、とは、どちらかが滅んでもかまわないということではなく、お互い死ぬまで戦う必要がないということなのだろう。だが二人で同じ屋根の下、夫婦になって暮らそうという意味ではない。
{/netabare}
単なるボーイ・ミーツ・ガールではなく、離れて暮らすという距離感が、自然と人間との距離感の暗喩として使われているラストだというのが、筆者の結論だ。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 18
ネタバレ

Tuna560 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

『もののけ姫』作品紹介と総評+考察「宮崎駿の自然観②」

こちらも言わずと知れた宮崎駿監督の代表作の一つ。
そして、私にとってのNo.1ジブリ作品です。

(あらすじ)
エミシの隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲った「タタリ神」に死の呪いをかけられる。ただ死を待つより、己の運命を見定めるため、はるか西方の地を目指して旅立つ。
そこでアシタカが見たものは、山林を開拓して鉄を作るタタラの民とその長エボシ御前、森を守る山犬一族、そして山犬として生きる人間の少女サンであった。アシタカはその狭間で、自分が呪われた理由を知る。やがて、森を守ろうとするもののけたちと、もののけの長「シシ神」を殺そうとする人間の壮絶な戦いが始まる。(wikipedia参照)

この作品までのジブリ作品は西洋風ファンタジーか現代日本を舞台にしたものが多かったのですが、本作はそれまでの世界観とは一線を画す”純和風”なものとなっています。この世界観は私にとっても新鮮に感じ、またこの作品に引き込まれた第一要因でもあります。

作画に関しても非の打ち所がないように思います。特に、”シシ神の森”の自然描写は非常に素晴らしい。
森の中を見渡した俯瞰風景から苔や草木のアップの描写まできめ細やかに描かれ、美しくもあり神秘的でもある自然が表現されています。劇場で観たときは本当に「その森の中に迷い込んだのではないか?」という感覚に陥った事を、今でもよく覚えています。

作品のテーマが複数並立している事も本作の特徴ですかね。そのなかでも、『風の谷のナウシカ』でも描かれた「人間と自然の共生」、そして「神秘主義と合理主義の対立」という2つのテーマにとても惹かれました。
本作では各キャラの思想・立場がある程度細分化され、その衝突や対立をメインに描かれています。
簡単に分けるとすれば、下記になりますね。
 ・自然との共生を重んじる(アシタカ/エミシの村)
 ・自然そのもの(サン/シシ神の森)
 ・発展の為には自然をも搾取(エボシ御前/タタラ場)

では、ここからは『風の谷のナウシカ』のレビューでも述べた”自然観”を絡めながら、特に”エボシ御前/タタラ場”の視点でこの2つのテーマを掘り下げながら考察していきたいと思います。考察テーマは「合理主義による自然観の変容」です。


{netabare}・合理主義と自然観
まず始めに「合理主義とは何か?」について簡単に説明をします。
”合理主義”というのは、”感覚や経験よりも、理性や論理を元に認識を行う”態度の事です。主に哲学の分野で発達し、後の近代科学の発展に多大な影響を与えた主義でもあります。哲学と近代科学を並列して記す事に疑問を感じる方もいると思いますが、実はこの2つは密接に関わっているのです。

ここでいう哲学は”西洋哲学”の事を指します。哲学と言えば「人間を考える学問」という認識が強いかと思いますが、中世ヨーロッパの哲学は”神(唯一絶対神)”を考える学問でした。そして、”神の痕跡”を探す為に神が創ったとされる”人間や自然”を観察対象とし、偉大な神の摂理を紐解こうとしたのです。そこで成立したのが”合理主義”です。感覚的に信じられていた”神”を物理的・論理的に証明しようとしたのです。しかし、皮肉にも証明されたのは”神”ではなく”物理的原理”でした。

具体例を挙げるとすれば、イギリスの哲学者アイザック・ニュートンでしょう。彼は”観察出来る物事の因果関係を示すという哲学”の解釈を展開し、万有引力の法則を提示しました。月と地球の動きを観察しその法則を導き出したのです。証明されたのはやはり”物理的原理”でした。そして、彼のこの解釈方法が近代科学(科学的合理主義)を発展させたのです。

合理主義に根ざした哲学が近代科学の発展を導いたのですが、その元を振り返れば”神を知る為に人間や自然を客観的に観察する”ことが原因だと言えます。それすなわち、その根底には”西洋的自然観”が存在したと言う事が出来ます。つまり、”西洋的自然観→哲学(合理主義)→近代科学(科学的合理主義)”の順に派生したと考える事が出来ますね。これが”合理主義と自然観”の関係です。


・『もののけ姫』の中に見られる合理主義
ここまで読んで「純和風な『もののけ姫』に西洋的な思想の成り立ちの話がどう関係するのか?」とお思いの方もいるかと思いますが、あながち関係のない話でもありません。本作中の重要なアイテムとして西洋近代文明を象徴する物が登場しているからです。それは「石火矢(鉄砲)」です。(作中では「明からの伝来物」という説明がありましたが、その性質は合理主義を具現化した物として描かれています。)

まず物語の発端としては、石火矢に撃たれた”タタリ神”がエミシの村を襲う所から始まります。”タタリ神”は元々は猪神で山を守る主神でしたが、製鉄に必要な薪を求め森林破壊をしていたエボシ御前(タタラ集)と対立し、石火矢の前に破れたのでした。石火矢の登場により国内の人間と自然の勢力均衡が大幅に変わり、生態系の破壊を可能にしたのです。

エボシ御前は石火矢により強大な理想国家を造る事を目的としていたのですが、それに必要な鉄を量産する為には多大な自然資源が必要だったのです。山を崩し、森林を破壊すると勿論”自然(神)”の怒りを買う事になります。しかし、”自然を屈服させる力”を得たエボシ御前は、自らの目標の為に”神”を討伐する道を選ぶのです。

つまり、エボシ御前が得た力とは”合理主義によって生まれた近代科学”、彼女が目標としていたのは”近代国家”の建立だったのです。したがって、本作では”近代人と古来の日本人”との対立がメインに描かれていたのだと私は考えました。


・何故「日本」が舞台なのか?
では、本作も『風の谷のナウシカ』と同様に「”日本的自然観と西洋的自然観”の比較が描かれているのか?」と思いがちですが、実は少し違います。なぜなら”西洋的自然観”は本作では描かれていないからです。

本作の舞台は日本ですので、人と人が対立するのは勿論日本人同士になります。登場人物が全員日本人であれば、西洋的自然観は必然的に登場しません。では、何が描かれているか?それは、考察テーマにも挙げた「自然観の変容」だと思います。

近代科学を手に入れ、近代国家の建立を目指したエボシ御前とタタラ集は、神と崇めていたはずの自然に対し破壊行為や討伐を行いました。しかし、これは”西洋的自然観”の為ではなく”近代科学(科学的合理主義)”のためです。もともと備わっていた”日本的自然観”に”科学技術や合理主義”といった近代文明が組み込まれ、いわゆる”ハイブリッド型自然観”へと変容したのだと考えられます。

実は、この”ハイブリット型自然観”は、近現代の日本人の自然観と同じものだと言えます。日本の近代化に拍車が掛かったのは明治維新後ですが、維新で活躍した志士に多大な影響を与えた佐久間象山の言葉を記した『語録』にこんな言葉があります。「東洋の道徳、西洋の芸」。つまり、日本人の道徳はそのままに、西洋の技術だけを取り込んで近代化を成そうというものです。結果、日本は日本的観念はそのままに近代化を果たしたのです。

”古来の日本的自然観”と”ハイブリッド型自然観”の対立。これを描く為に舞台を日本にしたのではないかと思います。


・私が感じた宮崎監督からのメッセージ
『風の谷のナウシカ』のレビューでも述べましたが、宮崎監督が根ざしているのは”日本的自然観”です。もっと言えば、照葉樹林文化論によって確立された”森林文化”に根ざしているので、”古来の日本的自然観”の立場の方だと言えます。

本作で”古来の日本的自然観”と”ハイブリッド型自然観”の対立を描いたのだとすれば、勿論前者を訴えかけると思われます。しかし、劇中でアシタカがサンに投げかけた最後のセリフを聞いて、違うメッセージがあるのではないかと感じました。

「共に生きよう」
このセリフを最後に持って来た事に意味があると思いました。

サンはシシ神の森で、アシタカはタタラ場で。それぞれ違った価値観や自然観を持った環境で”共に生きよう”と投げかけたのです。どちらかを選んで暮らすのではなく、お互いの根ざした観念を失くさないように別々に暮らす事を選んだのではないでしょうか。”自分とは違う”からといって矯正を強いるのではなく、多様な価値観や自然観を持った者同士であっても”共生する術がある”という事を伝えたかったのではないかと感じました。

これは、そっくりそのまま現代の日本人にも当てはまるセリフに思います。
現代の日本人の大半は”ハイブリッド型の自然観”の基で育ったと思いますが、元を正せば”古来の自然観”も持ち合わせているのです。その2つの自然観と”共に生きてほしい”というメッセージが込められていたのではないでしょうか。

”矯正”ではなく”共生”。響きは同じですが、意味はこんなにも違うのですね。


さて、実はもう1作宮崎監督の自然観が伺える作品が残っております。
今度はその作品で”人間と自然”との関わり方について考察していきたいと思います。(続く){/netabare}

(記述:3/12)

投稿 : 2024/06/01
♥ : 47

コンビーフ さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

もののけ姫への個人的見解

【良い点】

・ストーリー展開
・安定のジブリ作画
・アシタカせっき
・サン
・世界観

【悪い点】

・終盤のテンポ
・アシタカの行動


ストーリーを簡単にまとめると、

昔の戦に敗れたアシタカの一族はひっそりと森に暮らしていました。ある日、森の様子がおかしいと知らされたアシタカは、見張り櫓に登って、爺と森を観察していました。すると、中からモジャングが現れ、ホモォのように走り出しました。。いろいろあって、モジャングの呪いを受けたアシタカは、もう永くはありません。そこで、一族の巫女(なのにババア)は言いました。

「西へ行ってこい。どうにかなるよ」

村を出たアシタカは、西へと向かうのだった……



登場人物

アシタカ
本作の主人公。エミシの村の青年。現代のヘタレ主人公とは大違いに素晴らしい、ある一点を除いて。年は17歳。

ヤックル
本作のヒロイン。大っきなカモシカ。可愛いし、頭いい

サン
本作の準ヒロイン。可愛い。声優がビックリ。年は15歳。人間くさいと言っておきながら、ビーフジャーキーを口移しするツンデレ。

エボシ
本作の悪キャラ。たたら場をまとめると女主人。モロナイス!と思った人は数知れず。

ゴンザ
ギャグ要員。千と千尋の神隠しに首だけ再登場。

ジコボウ
エボシと同じくウザいキャラ。最初はいい奴と思ったのに……

モロ
大っきなワンワン。「黙れ小僧! お前にサンが救えるか!」でおなじみ。サンのお母さん的存在。でも中の人のせいべt……

カヤ
アシタカの許嫁、だった女の子。萌え豚には人気。別れの際、「自分の想いはいつまでもあなたに」と限りない愛を込めた玉の小刀をアシタカに渡すが、その小刀をアシタカは……どちらにせよ、かわいそうな女の子。年は13〜4歳。

ヒイ様
村の巫女ババア。声優がビックリ。



物語のテーマは森と人との共生でしょう。「生きろ」と散々テロップなどがありますが、自分一人で生きていくことを言っているわけではないと思います。最終的に、この結論へと向かうはずです。

ストーリー自体、素晴らしいと言えるかはわかりません。小さいころナウシカと同じくらい好きでしたが、今改めて見ると本当に素晴らしいのかな? と首を傾げてしまいます。
作画は素晴らしいです。さすが金かけただけあるって感じです。
音楽も、とくにアシタカせっき(序盤で流れるあれ)を筆頭に、素晴らしいものばかりです。さすがジブリ、久石譲。

さて、この作品についてはいろいろな見解があると思います。ただ、私から言えることは、あなたが見たものが全て、です。人の考えはそれぞれなので、こだわってもしょうがないですね。

ただ私が言いたいのは、アシタカとサンのこれからです。
恋愛脳なら気になるでしょう。あの場面で、サンは森で、アシタカはたたら場で生きることを誓いました。そして、アシタカはヤックルに乗ってサンに会いに行くとも……

サンはあれから、傷ついた森とその生き物たちを助けながら生きていったでしょう。まあ山犬の一族は本来、森とシシガミを守る存在なので、そうなるのは必然かと思います。ただ、サンは人間と関わっていったかというと話は別になるかもしれません。
アシタカとの和解、たたら場の連中と決着が着いたとはいえ、世界は広いはずです。たたら場が隣国に襲われたように他にも国や村はあるでしょう。私たちの世界が文明にまみれたたように、やがて森も削られていくのかもしれません。サンはその森を守るため、生涯を捧げていくと思います。
アシタカはたたら場の復興と、サンの住む森を守るため、引き続き頑張ることでしょう。これは、宮崎駿さんもおっしゃたようです。

ただ、アシタカとサンがこの後、頻繁に会ったかどうかと言われると悩みます。あの場面で、アシタカはヤックルに乗ってサン会いに行くと言いました。森が目と鼻の先にあるのにも関わらず、です。いつでも会えるなら、そんなことは言わない気がします。アシタカもサンも結局、自分たちの住む世界を守るためその生涯を奔走することになったのでしょうか。となると、二人が会えたのはもっと後になるのかもしれません。



まあ、そんな深いこと考えず見るのが当たり前です。あの後はアシタカサン仲良く暮らして、子供も作ったと考えればハッピーになるはずです。
個人的には、アシタカが一度村に戻って、カヤを向かいに行く的なやつでもいいですね。まあ、ないと思いますが。

つらづらと駄文になってしまいましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 4

61.6 2 化け物で呪いなアニメランキング2位
劇場版 BLOOD-C The Last Dark(アニメ映画)

2012年7月7日
★★★★☆ 3.5 (256)
1167人が棚に入れました
古くから湖への信仰が残る風光明美な町にある浮島神社。そんな浮島神社の巫女 更衣小夜(きさらぎ さや)は、神主である父親 更衣唯芳(きさらぎ ただよし)と二人暮らしをしている。小夜は 私立・三荊(さんばら)学園に通う高校2年生で普段はクラスメイト達との学園生活をめいいっぱい楽しんでいるのだが、一方で、父の命を受け ある「務め」を果たしていた。それは、『古きもの』と呼ばれる、人を遥かに凌ぐ力を持ち、人を喰らうモノを狩ること——。『古きもの』を唯一倒すことができる小夜は、人を『古きもの』から守るため、大好きな父親のため、浮島神社に伝わるという御神刀を手に独り、戦う。果たして小夜に待ち受ける運命とは!?
ネタバレ

おなべ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9

復讐と愛憎の物語(レビュー超改変版)

スローテンポの内容、やり過ぎなグロ描写、最終回のどんでん返し等に賛否両論(否の方が圧倒的)だった「BLOOD-C」の劇場版作品。あにこれでは劇場版も評判が芳しくないようですね。テレビ版に懲りずに映画館にまで観に行った口ですが、いやはや…またも「BLOOD-C」には楽しませてもらいました。


テレビ版は黒幕を後一歩で取り逃がした所で終了し、劇場版は黒幕と遂に対峙します。舞台は田舎からCLAMPお墨付きの東京に、季節も夏から冬に変わっています。作風だけではなく制作スタッフもテレビ版と異なっています。

脚本はBLOODシリーズにお馴染みの藤咲淳一さん、監督は水島努さんに変わり塩谷直義さん。
名前だけ聞くと「え〜と…」と思いましたが、「このアニメOPがかっこいい」の一例でよく挙げられるBLOOD+の3クール目OP(曲はUVERworld「Colors of the Heart」)の絵コンテや演出を手掛けた方だったそうで。意外とBLOODシリーズに関わり深い若手監督です。これは…きっと今回もシャレオツに仕上がった作品になっているに違いない!!そんな期待をして公開当時ワクワクしていましたね。


以下様々な観点からレビューをしていきます。


・すげぇ作画
まず第一に注目したいのは、作画の質がテレビ版に加えて格段に向上しています。特に背景美術が素晴らしいことこの上なし。東京の冬景色からは寒さまで伝わってきます。初代BLOODのリスペクトとも言える冒頭の地下鉄の描写も緊迫感があります。リアルな東京の町並みが良く再現出来ていました。


・ふつくしいキャラデザ
Production I.Gの最終兵器と言われている(らしい)黄瀬和哉氏の小夜のキャラデザが美し過ぎて惚れ惚れします。眼鏡がないだけでこんなに小夜は違うんだねえ…。
CLAMPのキャラ原案も、テレビ版より比較的リアル頭身に近づけたそうです。本作では肉付きがしっかりしたキャラデザになっていました。これなら刀振り回しても違和感はない、はず。


・一本調子でないカメラワーク
作画云々言いましたが、個人的に劇場版「BLOOD-C」で最も評価したいのはカメラワークです。テレビ版では一歩引いたような客観的視点が非常に多く、臨場感のない戦闘シーンにはヤキモキしたもんでしたが、こちらでは真逆の痺れる戦闘シーン目白押しです。冒頭8分の目紛しい戦闘が良い例でしょう(逆にこの8分が凄過ぎて、後の戦闘は物足りなくなってしまうかも)。縦横無尽に動くので、酔わないようにご注意下さい。
戦闘シーンだけではなく、会話シーンも然り。各キャラが話す度に画面が切り替わる事はあまりなく、カメラの長回しで演技を見せています。最近やたらめったらチャッちさを感じるカット演出が多い作品の中、本作では平面的な演出は一切せず、きっちり丁寧な演出で会話シーンを見せてくれたのが好印象でした。

あんまり誉め称えるだけだと怪しい業者に見えそうなので、そろそろツッコミ所も交えて挙げていきます。


・「さやー(棒」が気になる
アニメに事欠かせない声優さんの話題に切り替えます。本作のオリジナルキャラでもありヒロインでもある「柊真奈」っていうキャラに、何でか分からんけど朝ドラ「あまちゃん」でご存知の方も多い橋本愛をキャスティングしてます。
予告編CMで水樹奈々の演技が気になった方も多々いらっしゃいましたが、橋本愛が結構な大根演技を本編で喰らわせてくれる為、左程気にならなくなっていきます。脇を固めるのが実力派声優さんばかりなので、かなり浮いてしまっています。「さやー(棒」と叫ぶ声が耳にこびり付きました。
ただ、やる気が感じられない棒読みでは決してなく、声質そのものは綺麗だと思ったので、今後の橋本愛の演技力の向上に期待したいです。


・小夜のキャラが変わり過ぎている
いやね、鼻歌口ずさんでばかりいたお気楽天然系キャラが、いきなり無愛想で無口なキャラに変わってたらそりゃ違和感は拭えません。テレビ版の小夜とは正反対のキャラになっているので、テレビ版を見ていた方は本作の小夜の性質を受けいられるか否やで、印象が大きく変わりそうです(キャラが変わった理由はちゃんとあります)。
また、本作では小夜の過去や真相には追求しません。彼女が何を思っているか明確な心理描写も少ないです。小夜の事をもっと知りたかった方には残念だったと思います(ただ、自分のことを多くは口にしないものの微妙な表情の変化から、少なからず心情を読み取れます。)
私は劇場版の小夜の寡黙なキャラが直ぐに好きになれたので、別段違和感はなかったです。水樹奈々の演技もこちらの方が合っている気がしました。


・黒幕との絡みが少ない
一番の欠点がこれかなあと。黒幕の親族が劇中で関わってくるんですが、そいつの話題は別にどーでもいいんです。こっちは小夜とアイツの絡みが早いところ見たいのに、終盤まで真っ向から対峙しないので、無駄なシーンが多く感じてしまいます。
お世辞にもフォロー出来ない最大のツッコミ所は
{netabare}ハリウッド映画級のハッキング万能性能力です。”塔”の本拠地を見つける手立ては、もっと順序立てて出来ないものかと。ハッカー有能過ぎぃ! {/netabare}
小夜とヒロインの交流の方が圧倒的に多いです。この2人の絡みに面白みを感じるか感じないかで、本作を駄作か良作か分離すると思います。
{netabare} しかし、真奈と小夜の掛け合いは中々面白い。小夜は最初ぶっきらぼうで、無視もするんですが、犬みたいに引っ付いて来る真奈に悪い気がしないのか、次第に心を開いていきます。中盤で古きものとの戦闘シーン、今まで真奈のことを「お前」呼ばわりしていた小夜が始めて真奈を名前で呼んで身を犠牲にして守るシーンは燃えた。小夜がツンからデレに変わっていく過程がとてもわかりやすく描かれています。百合?百合だろうがいいものはいいんです。文人よりも真奈との絡みの方が結構楽しめました。{/netabare}
そして黒幕の目的がわかりにくい。明確な動機ではないので、もうほんと何がしたいんだよ、あんた…となってしまう方も多そうです。
{netabare} 小夜を心底愛していたが故の文人の行動理由は、個人的にはアリでした。でも、意味が分からんという意見も納得出来ます。やはり文人と小夜の掛け合いももっと時間を取ってほしかったです。
小夜の心情描写が少ないないですが、復讐の鬼には成り切れず、迷いや情けを時折見せる人間臭いキャラクターは逸脱だったと思います。蔵人さんから「君も文人を殺したいのは同じだろう?」とか言われた後の微妙な表情が特に(水樹奈々さんの「ん…」と唸るような演技も良かったです)。小夜は憎しみを持ちつつも心の何処かでは文人の事を理解しようとしていたのかもしれませんね。
自分の心情をベラベラ喋ることはせずに、表情や行間で感情を読む映画的な要素は大いに評価したいです。{/netabare}


・結局CLAMPじゃねーか!
これを見ると「BLOOD-C」の"C"って結局CLAMPの"C"じゃねーか!という事になります。ファンサービスなのかもしれませんが、個人的には自重してほしかった…。考え直すと黒幕の目的もCLAMPらしい動機です。




・他色々・総評
復讐モノとして名義を立てていますが、クエンティン・タランティーノ監督のようなスカッとするスタンスとは全く異なります。その上脚本は結構荒々しいので、ツッコミ所も目紛しくあります。冒頭8分は非常に引き込まれるのですが、それ以降山場が中々来ないので肩透かしくらっちゃう方もいそうです。そして終盤の辺りの駆け足具合が目に余ります。
そんなやっつけ部分が何ともB級アクション映画っぽいです。滅茶苦茶なカオス描写はないので、テレビ版が好きだった方は物足りないかもしれません。グロ描写もテレビ級を期待するのはやめましょう。

でも、作品からは制作者が何でもいいから印象に残るよう見てもらおうとする意気込みが感じられました。だから多少の荒っぽさもある意味微笑ましいというか、ま、細かい事はいっか〜アクション格好良かったし!と私は思ってしまいました。とても不思議。それは小夜のキャラクターを好きになれたからかもしれません。

「BLOOD-C」はBLOODシリーズの汚名をそそいだ超駄作なんてよく言われていますが、こうして楽しんだもんもいます。世間的には失敗作だったのかもしれませんが、私にとっては大いに楽しめた価値のある作品です。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 17
ネタバレ

シス子 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

晩酌の肴に・・・「食べる」のではなく「喰う」アニメ作品

テレビアニメ版を観てから視聴しました

お話はテレビ版からの続きとなっています

舞台は東京
とある田舎町で「古きもの」とよばれる化け物と戦っていた
女の子の「さや」ちゃんが
自分を騙していた謎の男の子「ふみと」くんに復讐するというお話


印象的だったのは
さやちゃんのキャラ・・・
天然でドジっ娘だったさやちゃんが
まったくの別人と化してしまってます

とてもシリアスで怖い

{netabare}「私に・・・喰われたいのか?」{/netabare}
登場していきなりこのセリフ
ぶゎっと鳥肌が立ちました

テレビ版でも「古きもの」と戦うときのさやちゃんはこんな感じだったので
変わったというより
激しい怒りのため
怖いときのキャラに固まった
という見方のほうが正しいのかもしれませんね

まあ
テレビ版と比べたらお話や他のキャラの雰囲気が
とてもシリアスな感じになったからなのでしょうが
個人的には
イケメンキャラが少なくなってしまっていることも
大きな要因のひとつだと思えてなりません(ちょっと残念)
このシチュで天然ドジっ娘キャラは痛すぎますからね

一方で
バトルのときのグロさは相変わらずです

というか
テレビ版にも増して
血しぶきの激しさ
流血の量がぱない

これ
元の体の容量を超えてるんじゃね?
って思うくらいの量の血が出てきます

でも
テレビ版でなにかしらの問題があったのでしょうか
切られたり血が出る部分が映しだされるのは
専ら古きものの惨殺シーンで
"人間"に対する残虐なシーンは圧倒的に少なくなっています


さて
お話のほうですが
テレビ版は主人公の「さやちゃん」と「古きもの」が
戦うことに特化したようなお話だったのに対して
こちらは
ちゃんと構成されたストーリーになってましたね

登場人物や組織などの設定はしっかりしていて
お話のなかでの絡みもうまく考えられています

テレビ版でのエピソードもちょっとだけ盛り込まれたりしているのですが
お話が単純だったため
あまり本作のお話に影響を与えないような感じのシーンばかり

ぶっちゃけ
テレビ版は見なくても十分"堪能"できると思います


でも
多くの謎を残したままで
劇場版へと引き継がれたこの作品

コレだけ
厚みのある設定を施して
各々のキャラをいかにも意味ありげに立たせておいて
結局分かったのは

{netabare}喋る犬のカラクリ{/netabare}と

今までのドタバタ劇って結局
{netabare}ふみとくんがさやちゃんに
「ちゅー」をしたかったから?{/netabare}
ということだけ・・・

問題のシーンを見たとき
飲んでたチューハイを
思いっきり噴き出してしまいましたよ(ToT
{netabare}「ちゅー」だけに・・・^^!{/netabare}

できれば最後はお話をかっこよく締めて欲しかった・・・


余談ですが
テレビ版と本作を通して
とても多くの流血やグロいシーンが描写されたこの作品
Hぃシーンも含めて
画像処理はちゃんと施されているのですが
それでも
普通に問題ありそうで残虐な映像がとても多く映し出されてます
(ちなみにDVD、BDは画像処理が入っていません)

そのことについてはネット上で物議を醸していたのも事実です

流血のシーンについては
本作品製作サイドからは見解が出ていて
オーバーな描写の方が逆に現実感が薄れるから・・・
という考えでこのような演出になったらしいです

芸術的な観点からの解釈だと思うのですが
やっぱり
やりすぎっていう感じは否めません

一方で倫理的な観点からなのか
本作(劇場版)では人の死の描写については少なくなっているようで
その辺は考慮されていたみたいですが・・・

なんにせよ
問題は
"観る側"の受け止め方によるところが大きいと思います

ちなみに私は躊躇なく観ることができましたよ^^

さらに余談ではありますが
恥ずかしながら
本作品
{netabare}私は晩御飯(お刺身)を食べながら観てました^^!{/netabare}

投稿 : 2024/06/01
♥ : 15
ネタバレ

ユニバーサルスタイル さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

BLOOD-Cの集大成。Cの意味するものとは?

※このレビューはかなり主観的な解釈による、ネタ的文章です。
 決して参考にはしないでください。



TV版を見てから随分間が空いてしまったのは、TV版でいまいち何がやりたかったのか理解できなかったからです。
でも、やっとこさ劇場版を見て分かりました。
これはつまり、
{netabare}
「アニメでハリウッドぐらいに豪華なB級・・・いやC級アクション映画を作ろうぜ!」ってことだったんだよ!!
{/netabare}

TVアニメだと時間と予算の制約があって規模を縮小せざるを得なかったんですね。だから盛り上がりに欠けてしまい、狙いも見えづらかった。
あの強いんだか弱いんだか分からない古きもの、茶番劇を繰り広げるキャラクター、壮絶(?)なラスト・・・それら違和感は全てこの映画を見れば解決します。


今回は舞台を孤島から都会に変え、登場するキャラクターもより現代的な設定に。
いかにもな軽いノリの若者たちがメインで緊迫感はほぼ皆無でした。
{netabare}
在り合わせな感じの設定が良いですね。とりあえずハッキングとかハッカーとか入れとけ!みたいな魂胆は潔いです。
やられるために出てきたようなキャラが多くて、そこらへんはTV版と共通していました。
{/netabare}


相も変わらずだったのは展開の唐突さ。
「古きもの」の登場やその戦闘だけでなく、小夜と真奈たち(映画オリキャラ)の織りなす人間ドラマもかなりスピーディで、共感する隙もありませんでした。
{netabare}
唐突に自分の過去を語り始める真奈。必要以上に真奈にべったりの月ちゃん。そして相変わらず自分語りの激しい文人さん。
古きものでは、九頭とかいう男が口からゲロンと飛び出たシーンや蔵人が巨大生物として登場するシーンは○。

突然挿入されるお色気シーンや、ラストを後日談で締めるお約束も良い感じです。
{/netabare}

真奈、というキャラを演じている橋本愛さんの演技もこのアニメに華を添えていたと思います。
{netabare}
無論、B級的な意味で。ああいう棒演技のヒロインはベタだな~と思いつつ見てました。
最初はイライラしてましたが、お風呂に入るお色気シーンで許せました!おっぱいが大きければ大概の欠点には目を瞑れます。小夜ちゃんも相変わらず豊乳で満足。
{/netabare}


アクション映画として迫力あるシーンは欠かせません。そこで、クライマックスで巨大な敵と対峙します。それにしても・・・・
{netabare}
デカすぎる!! あれじゃ完全に怪獣ですよ!(笑)
いやむしろあの怪獣風味の古きものこそ、この映画の象徴だったんだと思ってます。
{/netabare}


TV版だと作画が崩れることも多かった反面、この映画では全編に渡って高水準の作画でした。
ただ、ヌルヌルとしたスタイリッシュでダイナミックな作画のせいでわずかに漂っていた幽玄さや妖気は完全に失せてしまったように思います。
{netabare}
ある意味で初代BLOODと同じ方向性のスタイリッシュさも持ち合わせていると思います。内容は完全に異なるものになっていますが。タイトルのLastも掛けているつもりだったのかも。
{/netabare}



今まで書いたのは批判ではないです。おそらくスタッフも狙ってこのような映画に仕上げたのだと思っています。
そして、このようなB級映画は割と好みなので(高得点は上げられませんが)悪くないと思います。

こう、見終わった後の脱力感というか拍子抜けする感覚を味わいたい方にお勧めします。あとグロ表現に耐性のある方に限ります。












真面目に褒めると水樹奈々さんの主題歌での歌声と、小夜を演じる美声が素晴らしかったです。後は、、、序盤のワクワク感、でしょうか。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 10
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