孤独でSFなアニメ映画ランキング 4

あにこれの全ユーザーがアニメ映画の孤独でSFな成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年06月01日の時点で一番の孤独でSFなアニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

71.7 1 孤独でSFなアニメランキング1位
雲のむこう、約束の場所(アニメ映画)

2004年11月20日
★★★★☆ 3.7 (847)
4695人が棚に入れました
日本が津軽海峡を挟んで南北に分割占領された、別の戦後の世界が舞台。
1996年、北海道は「ユニオン」に占領され、「蝦夷」(えぞ)と名前を変えていた。ユニオンは蝦夷に天高くそびえ立つ、謎の「ユニオンの塔」と呼ばれる塔を建設し、その存在はアメリカとユニオンの間に軍事的緊張をもたらしていた。
青森に住む中学3年生の藤沢浩紀と白川拓也は、津軽海峡の向こうにそびえ立つ塔にあこがれ、「ヴェラシーラ(白い翼の意)」と名づけた真っ白な飛行機を自力で組立て、いつかそれに乗って塔まで飛ぶことを夢見ていた。また2人は同級生の沢渡佐由理に恋心を抱いており、飛行機作りに興味を持った彼女にヴェラシーラを見せ、いつの日にか自分たちの作った飛行機で、佐由理を塔まで連れて行くことを約束する。
しかし、突然佐由理は何の連絡も無いまま2人の前から姿を消してしまう。

声優・キャラクター
吉岡秀隆、萩原聖人、南里侑香、石塚運昇、井上和彦、水野理紗

ジャーファル♪ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9

【ネタバレ有】「切なさと物足りなさの両方を感じる、“発展途上の”新海作品!」

 

 新海監督の代表作の一つであり、新海監督の3作目にして、“初の劇場長編作品”である。


 この作品も、「ほしのこえ」や「秒速5センチメートル」同様、主人公とヒロインの“心の距離”と、その
“距離感の変化の速さ”をテーマとしているため―、

 ―今作においても、“主人公・浩紀(ひろき)”、“親友の拓也(たくや)”、“ヒロイン・佐由理(さゆり)”の3人が、“物理的な距離”を置くことで、彼らの“心も”また、以前とは違った距離感へと変わっていく…そんな関係を描いており、今日の新海作品に見られる“絶妙な心の距離感”は、こうして培われてきたんだと思わされる…、そんな“成長途中の未完成さ”を感じる作品となっている―。



 では早速、レビューへと移るが、新海作品(=新海誠監督の作品)の中でも、これほど“評価が二分される”作品は珍しいだろう―。


 (まずは否定的な意見から書かせてもらうと…)

 前述したとおり、この作品は、新海誠が今に至るまでの“軌跡(の一部)”のような作品であり、成長途中であるが故に、まだまだ完成度は低い。

 作画も今の新海作品に比べれば、“風景描写の緻密さや色合い”もまだまだで、欠点が見つからない最近の新海作品とは違い、「監督自身が伝えたいことは何なのか…」を理解することの方が難しい。


 また、全く情報の無いままこの作品を観た人からすれば、(といってもほとんどの人がそうだろうが…)、何かと“理解しづらい設定”で(…複雑なのに、詳しい説明もないため)、頭に何度も疑問符が浮かんだ人も少なくないだろう。


 その中でも、最もピンとこなかったのが、“ユニオンの塔”(=あらゆることの象徴であり、その本質は軍事兵器)に関連する設定だろう―。


 例えば、作中では、ユニオンの塔と関連して“平行宇宙”という言葉が使われるが、これは現実世界でも使われる、いわゆる“パラレルワールド”のことで―、
 ―「自分たちがいるこの世界とは、別の世界が存在している―」という概念であり仮説である…、のだが、そういった知識がないと、作中での会話や内容を理解するのは難しい―。


 また、ユニオンの塔の本当の目的である「平行宇宙との位相変換により、世界を書き換えること―」のくだりでは、その活動能力を抑制しているのが“佐由理”であり、そのせいで佐由理はずっと眠ったままである…、という説明があったが―、

 ―この2つを結びつけるのは、「佐由理の祖父が塔の設計者」ということだけであり、“アバウトに世界観全体を観れる人”には十分納得できる理由かもしれないが、そうでない人には、全く意味の分からない結びつけ方であり、それが尾を引いてしまったかもしれない(…が、そこを掘り下げるのは“野暮”だと感じたりもする…)。


 他にも、作中に登場する“蝦夷(えぞ)”だが、現実世界の“北海道の古称”としての蝦夷ではなく、“現実とは別の世界の”戦後を舞台にしたこの作品内での、北海道のことを指している。

 なので、作中にも1999年などの“西暦”が表れるが、今より以前の日本と同一視してしまうと、話がよく分からなくなってしまう。
 なぜなら、学校の校舎や町の感じを見る限りでは、少し前の日本の風景なのに、“ユニオンの塔”と呼ばれる建造物や、後半の戦闘シーンでは“ステルス機”のようなものが登場しており、明らかに、現実世界の今よりも科学が発達している。

 そのため、この世界は、“現実とは全くの別物”で、かつ“西暦とは全くつながらない”科学の進んだ世界だと認識して、この作品を観ないとついていけない。



 と言ったあたりが、「よく分からなかった」という内容の、よく見かける“否定的な”意見の理由であり、
“現実味がないストーリー”や、“論理的に成り立っていない設定”に辟易(へきえき)した人もいるのだろう―。


 新海作品を崇拝し、個々の作品に対してではなく、“新海誠監督の作品が”好きだ、という人達からすれば、この作品もまた名作なのだろう―。

 自分は、新海誠さんを、宮崎駿さん、細田守さんらと同じく、“今のアニメ映画界の中心的な人物”だと考えている…、が、逆に言えば、あくまでアニメ映画という大きな枠の中の、“一(いち)監督”だとも思っている(新海監督に限らず、宮崎、細田両監督含め)。

 言いたいことは、つまり、同じ新海作品でも「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」は、アニメ映画という枠の中でも、“名作”だが、この作品は“それほど大きなウエイトを占めてはいない”のではないか…、ということである―。

 なので、「とにかく新海作品の世界観(作画含め)が好きだ」という人の、この作品の評価に対して、口をはさむつもりはないが、他のアニメ映画作品と“相対的に”比べれば、この作品はまだまだ“未完成”で、上にあげた2つの作品もしくは、他の名作アニメ映画とは、世辞にも“同格”とは言えない…。



 …と言うのが、この作品を“観終わってすぐ”の感想であった―。

 なので、ここまでの評価を見る限り、どこが評価が二分されているのか、と思うかもしれないが、次に挙げる点こそが、この作品の評価を二分する理由であり、ここまで批判的な事ばかり書いておいてあれだが、これこそがこの作品の“本質”だと確信している―。


 確かに、この作品を“観終わってすぐ”の感想は、SF的設定の内容云々(うんぬん)ではなく、主人公たちの“心情の変化”や“お互いの関係性”から、いろいろと視聴者に感じてほしいのだろうが―、
 ―やはりどうしても今の新海作品と比べると、その描き方も、“発展途上感”を感じずにはいられない、というのが本音であった。

 それでいて、それ以外の要素も、全く“答えを得ることが出来ないまま”終わる訳だから、いかに“完結の仕方”が大切か(例えば、「言の葉の庭」で言えば、最後に2人が進むべき方向へと向かっている様子が描かれている…)を感じさせられる内容になってしまっているな、と感じた。


 現実味がないストーリーや、論理的に成り立っていない設定に、否定的な意見がよく見られ、自分も最初は同じようなことを感じてはいた。

 しかし、こうしてレビューを書きながら、改めてこの作品を振り返ってみると、“視点を変えて”観てみれば、それほど気になることでもないと思わされる。

 つまりは、この作品の最も本質的な、“孤独感”の中を生きる3人の心の有り様や、それを映し出しているかのような、“緻密で美しい風景描写”、“背景色の淡さ”に注目してこの作品を観ることで、この作品の“良さ”というものが見えてくる―。


 この作品が上映されていた頃の自分なら、間違いなく、多くの人が言っている、「意味が分からない」というような感想を持っただろう―。

 しかし今の自分なら…、長い人生の中には、誰しもが必ず、“孤独感を感じる瞬間がある”ことを知っている今の自分なら、まだまだ未完成な部分は感じながらも、上で挙げたようなこの作品の“本質”を、十分に理解することが出来る―。



 また、この作品や前作の「ほしのこえ」でもそうだが、実は新海監督はこういった“SF世界もの”を描くのが好きなのだろうと思う。

 まぁしかし、皮肉にも、新海監督の“才能の開花”は、より“現実的な世界観”を描くことで現れた訳だが…(確かに、新海作品の一番の特徴であり長所である風景描写の美しさは、SF的世界を描くことよりも、現実の“どこにでもある”風景の美しさを、観ている自分たちが“再認識させられる”ところに、その魅力と意味があるように感じる…)。

 実は、新海監督の作品を“逆にたどった”自分としては、この頃の作品に見られるこのSF的要素が、新海監督の違う一面を垣間見ることができ、実に“新鮮だ”と感じて良かった。



 また、この作品は“音楽”が素晴らしい―。

 作中でも主人公たちが“バイオリン”を弾いているからか、主題歌の「きみのこえ」のイントロ部分でもバイオリンが使われ、その“重低音”が心に響く。

 それでいて、歌っている“川嶋あいさん”の声が、とても澄んだ優しい声で、それが歌詞にも重なり、すごく“儚い”気持ちにさせられ、その気持ちのまま、この作品を観終わることが出来る―。



 すでに“成熟した作品”を観てしまうと、どうしてもその監督がもともとこのレベルの作品を作れる人間なんだと“錯覚”してしまうことがあるが―、この作品を観れば、誰しも昔は、まだまだ“手探り状態”みたいな時期があったんだなと、改めて感じさせられる―。


 この作品は、今の新海作品を支える“礎”であり、“粗削りさ”を感じる中にも、今の新海作品に通ずる
“何か”が確かにある―。

 それを感じることが出来た人たちにとっては“名作”であり、自分は運よく、それを感じることが出来たのだろう―。
 なので、この作品も、また一つ心に刻まれた作品となった―。

 (終)

投稿 : 2024/06/01
♥ : 5

. さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

宇宙も夢を見るのだそうでございます。

本作品は語ります。宇宙も夢を見るのだそうでございます。宇宙の見る夢は様々な可能性を表した別世界。これを並行世界と呼ぶのだそうです。そしてその並行世界を人は無意識の内に夢等の形で見ているのかも知れないと・・・。とてもロマンチックなお話でございますね。


本作品は”新海誠”様の3作目の監督作品でございます。4作目が「秒速5センチメートル」になりますので、1作品前と言う事になります。「秒速5センチメートル」がどなたにでもお勧め出来る作品なのに対し、本作品は残念ながら少々人を選ぶ作品かと思われます。それ故、冒頭にて少しだけお断りをさせていただきたいと存じます。

先ずパッケージ絵の印象に反し、舞台はリアルな現代では無く、仮想世界の物語となっております。但し荒唐無稽なSF世界と言う事ではなく、日本を舞台とした別の世界と言う設定でございます。
ワタクシの物語に対する評価は☆3.5。少々厳しめでございます。これは壮大なストーリーで有るが故に、世界設定に対する説明、登場人物の感情の変化、心情の描写が少々足りていないと感じたからでございます。また全体時間も長すぎました。良い作品ではございますが、中だるみ感を感じてしまった点が大変残念でございます。これら残念な点を見事に克服し、そして”新海誠”様の本当に描きたかった主題を描いた作品が「秒速5センチメートル」では無いかとワタクシは”勝手”に思っております。

ワタクシ個人の意見で大変恐縮ではございますが、この作品における最大の問題点はOPでの回想描写かと思われます。小説に忠実であるが故の描写かと思われますが、正直この描写は小説を読んでいない方には混乱を招く要因でしかございません。よって、これが有る故にエンディングの解釈をあやふやにしてしまう可能性があると思われます。この点、本当に残念でございます。少々辛口な事を申し上げましたが、ワタクシはこの作品が大好きでございます。それ故にこの作品が酷評を受ける機会を少しでも少なくいたしたく、先にお断りをさせていただきました次第でございます。


それでは本題に参りましょう。
2004年の作品でございますが、今でも十分にトップレベルの作画クオリティーを持っております。さすがに次作品である「秒速5センチメートル」には一歩及びませんが、それでも息を呑むほどの突出した背景描写の美しさ。正に芸術の域では無いかと思うほどでございます。
「秒速5センチメートル」でも印象的でしたが、本作でも”駅の描写”、”電車の中の風景描写”、”草原と風の描写”等がとても印象深く、そして幻想的に描かれておりました。又、本作では飛行機が空を舞う描写が特に素敵でした。静寂な空間を滑るように飛ぶ浮遊感・・・。本当にお見事と言うしかございません。美しい風景描写の中で、3人の青年の追い求める夢と揺れ動く心情を背景に見事に重ね合わせ、とてもファンタジックな作品に仕上がっております。音楽も素敵でございますね。要所×2で掛かるBGMは大変作画にマッチしており、雰囲気を盛り上げてくれます。ED曲の『きみのこえ』も大変印象的な曲でございました。


冒頭で宇宙の夢についてお話させていただきましたが、本作では3人の青年達の叶えたい夢と、人が眠りの中で見る夢をかけている様でございます。
主人公の”藤沢 浩紀”様と”ヒロインの”沢渡 佐由理”はお互いが惹かれあい、そしてその思いはいつしか恋心へと変わっていきます。しかし無情にも2人は引き裂かれてしまう。”藤沢 浩紀”様が”沢渡 佐由理”様を思い、心を詰まらせていく描写。正に「秒速5センチメートル」の主人公を彷彿とさせます。

離ればなれになった2人はお互いを眠りの中で夢見続けます。現実世界では逢う事が叶わない2人。でもお互いが探し合い、激しく求め合うことでいつしか2人の夢はシンクロしていくのです・・・。
2人が交わしたあの日の約束。叶えることの出来なかった夢。
主人公は決意をします。一度は破れた夢だけど、一度は果たすことが出来なかった約束だけど。夢を現実にしようと。あの日の約束を叶えようと・・・。


「雲の向こうのあの場所にいこう。あの日交わした約束を果たしにいこう」 物語は大きく動き出します。
どうぞ2人の夢を、2人の恋を・・・応援してあげて下さい。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 20
ネタバレ

ハウトゥーバトル さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

その先に約束は存在しているのか

視聴前 どういう

視聴後 おお

この話は北海道がユニゾンに侵略された話
ジャンルは恋愛・飛行機・中学生
新海誠作品の中で一番好きな作品です。私は当時この作品を見ていなかったのですが、秒速5センチメートルを機に見ました。
本作は物語というよりテーマを重視した作品なのかな、という印象です。序盤も中盤も終盤も基本は遅い展開です。内容もあまり濃くなく、「儚い淡い物語」と表現すればよいのですが、お世辞にも正直そうは言えません。が、現時点(2020・6)では満足できる新海誠の作品がないのでテーマがちゃんとしてる本作は一番という感じです。若干消去法感が否めませんが、とりあえず「本作が一番良かった」ということにしときましょう。
さてここまでテーマが良いと言ってきましたが、そのテーマについて述べていきたいと思います。
本作でおそらく一番出てくる単語「夢」とそれの「忘却」です。{netabare}本作のヒロインであるサユリは夢の中に閉じ込められていきます。しかし閉じ込められてもなお体には意志があります。それは今まで過ごしてきた現実の中で交わした約束にすがっているからです。その約束さえなければサユリはとっくに夢の中にすんでいたでしょう。その約束しか無いサユリはその中で出てくる主人公に頼るしかなく、そのまま異様なまでに依存してしまうわけで。そして徐々に夢の中でリンクしていきます。つまり自分も前から好きだった女の子と夢では会えなくなるのです。まぁ本人も「なんか大切なことを忘れている気がする」と夢の内容を忘れてしまっているんですがね。しかし物語が庵 進むに連れサユリを「夢」から救い出す方法がわかります。本人は得体のしれない感覚を持ちながら飛行機を完成させ、飛ばし目的地に飛ばすのですが、ものすごい喪失感を伴うわけです。
さてここで本題です。夢ときくと「寝たときに見るもの」という意味にも捉えることができますが、「私の夢」とも表現されるように「希望」や「願望」という意味も備わっています。本作は前者の方の夢にとらわれていましたが、同時に約束という希望もみていたわけです。夢から覚めるというのは希望を捨てるということになります。若干言葉遊び感がありますが、本作ではその言葉遊びを丁寧に描いたといって差し支えないでしょう。
そして見た夢というのは覚めても絶対覚えているということはありません。絶対に何かしらを忘れます。忘れては行けないこと、忘れたくないことも忘れてしまいます。本作は「「忘れる」という感覚に対し共感をもとめているやべー作品」という意見がありましたが、実際にそうだと思います。忘却という感覚自体忘却されてしまうのですから、頑張ってその感覚に共感しようとしても結局は忘れてしまうのです。無理がありますよねw
さて本当に本題です。主人公はなにかの違和感を感じ取りながらも、その約束を頼りに彼女の夢を壊し、両者にとてつもない喪失感をあたえたように、{/netabare}私達の行動には、自分と他人のリスクが伴うということを自覚しなくてはならなく、そして失うことに恐れてはいけない、ということです。まぁわかりきったおとではありますが、再認識できたかなって。
私の文章能力の低さが目立つ文章になってしまいましたねw

原作・脚本・監督・絵コンテ・演出・撮影・CGワーク・編集・色彩設計・音響監督は新海誠さん。うへぇ。過労死しそう。
キャラデザ・総作監は田澤潮さん。
劇伴は天門さん。
アニメ制作はコミックス・ウェーブさん。

作画はさながら表現や演出も本当に素晴らしかったです
主題歌は新海誠さん作詞、天門作編曲、川嶋あいさん歌唱の「きみのこえ」

総合評価 新海誠作品の中では

投稿 : 2024/06/01
♥ : 11

86.4 2 孤独でSFなアニメランキング2位
GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊-ゴーストインザシェル(アニメ映画)

1995年11月18日
★★★★★ 4.2 (1095)
6500人が棚に入れました
他人の電脳をゴーストハックして人形のように操る国際手配中の凄腕ハッカー、通称「人形使い」が入国したとの情報を受け、公安9課は捜査を開始するが、人形使い本人の正体はつかむことが出来ない。そんな中、政府御用達である義体メーカー「メガテク・ボディ社」の製造ラインが突如稼動し、女性型の義体を一体作りだした。義体はひとりでに動き出して逃走するが、交通事故に遭い公安9課に運び込まれる。調べてみると、生身の脳が入っていないはずの義体の補助電脳にはゴーストのようなものが宿っていた。

声優・キャラクター
田中敦子、大塚明夫、山寺宏一、仲野裕、大木民夫、玄田哲章、生木政壽、家弓家正
ネタバレ

ヲリノコトリ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6

造語を説明する気なし!

【あらすじ】
人間の身体を「義体」と呼ばれる機械に置き換えることができるようになり、脳とネットを直接接続できるようになった未来。中枢神経系以外のすべてを義体化した「少佐」と呼ばれる女性が「9課」と呼ばれる警察組織の暗部に身を置いていた。機械と人間、プログラムと意識、システムと思考の境界を問う押井守監督不朽の名作!

【成分表】
笑い☆☆☆☆☆ ゆる☆☆☆☆☆
恋愛☆☆☆☆☆ 感動★☆☆☆☆
頭脳★★★★★ 深い★★★★★

【ジャンル】
SF

【こういう人におすすめ】
難しい話を読み解くのが趣味の人。SF好きな人。

【あにこれ評価(おおよそ)】
83.7点。良作。

【個人的評価】
良作。いろいろ読み解くのに時間がかかるが「ゴースト」という単語はすごい。
『自分のお気に入り』

【他なんか書きたかったこと】
{netabare}  
 昔何度か見たことがあって、「まあわけわかんねえけど面白いなあ」くらいに思ってたんですが「Ghost in the shell」のハリウッド映画が予想外に素晴らしかったんでもう一回観たらめっちゃハマりました(笑) 攻殻機動隊自体にそれほど思い入れはなく、原作未読(たぶん読みにくいヤツだろうと思ってw)、30分アニメ版はなんか私が感じていた魅力だけピンポイントで取っ払って、悪くはないんですが、私にとっては特に魅力を感じないジャンルのアニメになっていたので途中断念しました(割と即断念なので勝手な思い込みかも)。押井作品じゃないアニメ映画版はどことなくアニメ版と同じ匂いがして、まだ手を付けていません。まあそのうちってことで。
 でもゴーストインザシェルとイノセンスだけは好きですねえ。

 作画もストーリーも好きなんですが、曲が最高です!作曲は川井憲次という方。アニメ・映画のサントラをいっぱい作ってる方で、いろんなメディア作品に曲が散らばってるみたいです。もっといっぱいないかなあ。川井憲次特集のアルバムとかないのかな。ちなみに神々の詩(あぱ~ あ な~あが~ ま~あぽ~~みたいな曲)はこの人とは関係ないっぽいです(笑)


 内容は難しいって感じる人が多いと思うんですが、ストーリーの流れとしては実は「難解」ではありません。アニメ内の世界としては自然な流れなのですが、「説明する気がない」だけです。まあ私はそれもアリだと思うんですが。
 つまり、登場人物がアニメとして見られることを意識していないというか、原作者の造語も彼らにとっては日常会話なので、いちいち意味を説明してくれません。「察しろ」っていう原作者の圧力を感じます。逆に言うと世界観が非常によく作りこまれているということで、ただシナリオライターもその世界にどっぷり入っちゃってて用語の解説を忘れてる、みたいな。思考力が表現力を超越しちゃってる、超天才な子供って感じ。
 余計なお世話かもしれませんがストーリーの流れは後で詳しく書こうと思います。



以下、開けば開くだけ長いので、この作品に興味ない人はたぶん開かないほうがいいです(笑) 特に一番下が長いですが、ストーリーちんぷんかんぷんだった人には一助になるかもしれません。
↓この作品の一番の魅力は「ゴースト」という造語!
{netabare}
 既存の言葉で近いのは、意識、記憶、自我、個性、魂、頭脳、IDといったところでしょうか。アニメ内の世界では「人間にあって義体にないもの」というのが本質的な定義だと推測します。
 つまりAという人間の「身体」を次々に「同等の機能を有する機械」に変えていき、隣に「用済みになった身体」を並べていくとして、手を変え、足を変え、心臓を変え皮膚を変え、頭以外のすべてを変えて、次は頭の外殻を変える。この状態が少佐の状態です。この時点では生身の部分として脳が残っています。隣には脳以外のAの身体が血まみれで置いてあります。
 この時に、それを見ていたあなたは「痛いですか?」とどっちに話しかけますか?
 おそらく現代の感覚から言っても、脳のある機械に向けて話しかけるでしょう。
 つまりAのゴーストはこの時点では「脳」にあります。
 では最後に、Aの脳も機械に置き換える。もちろん、Aの脳と同等の機能を有する機械です。そして完全に有機物から無機物に変換されたAが立ち上がり「あー、よく寝た」といかにも人間のように伸びをする。当然です。それは置換される前のAの体、頭、心と全く同等の機能を有しているからです。
 さて、それを見ていたあなたはどうするか。機械の電脳の中に完全にコピーされているAの人格を完全に無視して、バラバラのAの死体に向けて「ああ、死んでしまって可哀そうに」といいますか?目の前の機械が「いやいや、私生きてますよ」といったのに対して「お前はAじゃない!この鉄くず野郎!」というのですか?なんてかわいそうなことを。
 違いますよね。おそらく完全に機械になったAに「大丈夫か?」と声をかけ、機械が「大丈夫」と答えると、完全に納得はできなくても、ひとまず安心するでしょう。おそらく原作者はそれが正しいと思っているし、私も同意します。つまり、脳がなくなったこの時点でも、Aのゴーストは機械の側にあります。隣の「Aの肉体すべてからなる肉塊」は現代で言うところの切った爪や抜けた髪のようなものです。
 完全に機械になったAですが、Aの保険証はAのものとして使えるでしょうし、電脳によって思考するAは生身の時と同じ思考パターンを持ち、記憶を持ち、自分をAだと認識しています。Aが学校の自分のクラスに戻ってくれば、Aの席に座ることを誰も咎めないでしょう。

 このように「ある人間の生身部分をすべて消去しても、そこに同じように残ると考えられるものの総体」が「ゴースト」です。

 で、「これ」にゴーストっていう単語を当てはめたセンスがすごいですよね!
 だって、それってつまり幽霊の概念と同じですから。もしも知り合いの墓参りの時に背後に幽霊が出たら、あなたは怯えつつ墓(の下の遺骨)に向けて話しかけますか、背後に現れた幽霊に向けて話しかけますか?背後の幽霊ですよね。そしてその幽霊は生前の記憶を持ち、自分を自分と自覚し、同じ思考をして、(少なくとも認識できる人間に対しては)同じ権利を持つはずです。つまり幽霊は「ある人間の生身部分をすべて消去しても、そこに同じように残ると考えられるものの総体」なんです。
 まさに「それ」は「ゴースト」という単語に集約されます!すごい!
 っていう一行をやっと言えたわ(笑)

 この映画はこれを言葉にして説明してくれません(笑) ハリウッド版はわりと説明「しよう」としてくれてた気がします。

 で、少佐は「自分のゴースト」を「自分が保持できているか」ということをずっと考えています。彼女には生身の脳が残っていますが、「じゃあ私の脳がなかったとしたら?」とエレベーターでバトーに話しています。つまり私が先ほど出した例の、「生身をすべて消し去ってもゴーストは残る」という点に、確信を持てずにいるのです。
 もし自分の脳も機械であれば、いま私が考えていることもただの回路をめぐる電気信号なのではないか。その場合、私は私であるといえるのか。例えば9課を抜けるのならば、義体はすべて9課に返上しなくてはならない。もし私の脳までも義体なのであれば、私は、9課を抜けるときに私の肉体すべてを9課に返さなくてはならない。……それはつまり、私が9課の所有物であることを意味しないか?そして所有物なのであれば私は私のゴーストを持っていると言えないのでは。すべて機械なら私のオリジナルはとっくに死んでいることになるし、もし今の私の思考がAIなら、オリジナルすら存在しない。つまりそもそも私のゴーストなどないのでは……。
 みたいなことを少佐はずっと堂々巡りのように考えています。

 そして、そこに現れるのが「電子の海から発生した生命体」。
 つまりゴースト「のようなもの」が生身もなく、オリジナルもない単体で存在しているという事実に直面します。
 その後なんやかんやあって少佐は「生身をすべて消し去ってもゴーストは残る」ということに確信を得ます。もしくはその問を超越した存在となって、自我の安定を得ます。そして自分は死んだことにして、9課を去る。
 まあ有体に言うと「なんかどうでもよくなっちゃった♪旅にでも出よう!」みたいな感じになって終わります(おいコラw) {/netabare}
 


↓少佐の生身の脳髄は本当にあったのか
{netabare}  この点が個人的には最大の疑問で、バトーが劇中で「脳髄あるじゃねえか」みたいなこと言ってるにもかかわらずここを疑問に思っているということは、私は少佐の脳が義体であると予想しているわけです。
 それを明言しているシーンはありません。
 ただ、少佐がその可能性について思いを馳せていたというのが第一のポイント。
 第二は2501が少佐を選んだ理由が「私たちは似たもの同士の鏡像である」ということだった点。
 第三に、2501と少佐の融合が実際に成されたという点。
 第四に、首を切断された少佐の意識が消失 → バトーが(頭蓋を持ち帰り?)義体を作成 → 少佐復活♪ という流れ。
 第五に、「さて、どこへいこうかしらね。ネットは広大だわ」というラストの少佐のセリフ。
 第六に、冒頭の少佐(?)組み立てシーン。脳が機械製です。

 第一のポイントは説明いりませんね。つまり可能性の提示があったわけです。

 第二のポイント。2501と少佐が鏡像とはどういうことか。おそらく少佐が実像で、2501が虚像ということでしょう。これはつまりゴーストの有無だとわかります。そして同時に、陰陽や正負などのような「対極」ではなく「鏡像」であるということは、ゴーストの有無以外には違いがないということ。2501の対極というなら、完全な生身の人間で、しかし思考できない、しかしゴーストはあるという「深睡眠中の人間」のような存在が当てはまります。鏡像ということはつまり少佐からゴーストをとった存在が2501であり、逆説的に少佐はゴースト以外の生身を持たないことになる。ここで脳髄だけは生身だという設定が真実なら、2501の例えは「近いが外れている」ことになりちょっちカッコ悪い。

 第三のポイントは技術的に、そして物語の設定的に、「人間の脳とただのプログラムを統合できるのかな?むりじゃね?」と思った、というだけです。少佐の脳が義体なら、ネットのプログラムと融合することは特に問題にならないかなあ、と。

 第四のポイントも技術的な問題。脳髄の生存機能は頭蓋部の義体だけで完結できるんでしょうか。もし脳が義体なら機能停止してもほかの全身義体に接続して再起動すれば戻るかなあ、と。生身の脳だったら脳脊髄液や脳血流による栄養を頭蓋周囲の義体から補っていると思いますが、首チョンパされたらその栄養が供給されなくなって生身の脳が死なないかな?生体は死んだら再起動とかたぶん無理だから……みたいな。脳脊髄液や脳血流のサイクルが頭部で完結していれば機能維持可能と思われますが、ふつうは心臓のポンプ機能や腎臓のろ過機能のように胴体部分を含めてサイクルを形成するもんじゃないかなあと。はいはい深読み乙。まとめると、首チョンパから生き返ったから脳は義体だろ多分、ってこと。

 第五のポイントで少佐はネットへ旅立とうとしていますが、脳が生身だと結局本体が特定位置に存在するんで、「広いネットの海に消える」っていうラストにならないんじゃないかと。つまり凄腕のハッカーがネカフェの一室から世界中に自由にアクセスしていたとしても、隣のヤンキーに絡まれて殴られたら、とっさにアメリカペンタゴンに逃げ込む、とか出来ないわけで……。意味わかりますかね。わかりますか。よかったありがとう。つまり脳が生身だと最後まで”ある限界に制約し続け”られちゃうわけっすよ。少佐の体が完全に義体なら、別の義体にすべての情報(ゴースト)をロードすればいいわけですからラストは「どこにでもいて、どこにもいない」みたいな存在になれますよね。

 第六のポイントは「そういえば!」と思って見返したら発見しました。このシーンが過去シーンなら確定ですが、少佐の見た悪夢っていう解釈もあるから決定打ではないですね。

 以上6点から私は少佐の脳は義体である可能性が高いと考えます。押井守作品以外で少佐の脳が生身である証拠が提示されていたとしても、ゴーストインザシェル・イノセンスに限って言えばそうであると信じます。私が、そのほうがストーリーとして好きなんで。 {/netabare}



↓これだけは取り上げたい名台詞!
{netabare}  これ絶対ピックアップしたかった!
 わたしをある限界に制約し続け……とか少佐がかっこよく決めてるシーンもありますが、このセリフの前ではかすんでみえる!

「で、そっちに現れた人形使いは?どんな感じの奴です?」
「……人形みたいなやつだ」

 これ!
 かっこよすぎ!
 なにその返し!立川談志かお前は!
 何回観てもこのシーンでニヤニヤしちゃいます(笑)
 人形劇をしている人形師が天からの糸でつられていて天井の向こうに大きな人形師の顔が……みたいな。誰かを操っているという行為を誰かに操られていてその誰かがまた……みたいな。うん、何言ってんのかねわたしは。
{/netabare}





ストーリーの流れ(超ざっくり)
{netabare} とりあえずこのアニメの敷居を上げちゃってる、分かりにくい表面上のストーリーの流れを解説します。

第一の事件発生[技術者亡命未遂事件]→即解決
 ↓
神OP ~少佐の作り方~
 ↓
第二の事件発生[大佐黒幕ハッキング事件]→水辺のスタイリッシュ戦闘→「突入しろ」フェードアウト(解決)
 ↓
「奥さんも子供も本当はいないんだよ」
 ↓
少佐、休日に海に潜るの巻
 ↓
中盤BGM ~街でドッペルゲンガーを見て不安に~
 ↓
第三の事件発生[人形勝手に作られちゃった事件]→少佐、人形に興味津々
 ↓
黒幕は6課
 ↓
6課が人形を強奪→追う(同時にいろいろ調べる)→戦車が立ちはだかる→バトーがでかい銃で倒す
 ↓
少佐と2501が会話して融合
 ↓
第三の事件は闇に葬られて終了。少佐は消息不明に。
 ↓
ニュー少佐がネット世界に旅立つ
 ↓
終わり {/netabare}


ストーリーの流れ(まあまあガッツリ)
{netabare} 【冒頭の屋上~神曲OPまで】
{netabare}  第1の事件。技術者亡命事件。
 某国外交官によって技術者が亡命しかける。6課(表の警察)が現場に突入するが、外交官は治外法権と技術者の権利を主張して6課は手が出せない。その現場の窓の外から突然不審者が発砲。外交官を射殺し逃走する。警察として不審者に対応する6課。しかしこの不審者は実は主人公であり、9課(裏の警察)が外交官を暗殺することで事件を闇に葬った。6課は射撃し返しているが、実は心の中では不審者に感謝している。
 第1の事件はここで解決して終了。 {/netabare}

【神曲OP&少佐目覚め】
{netabare}  少佐組み立てシーン。このあとに少佐が目覚めるシーンがあるので、少佐の夢シーンのようにみえるが、おそらく現実の過去のシーン(これは筆者の予想)。 {/netabare}

【ヘリから偉そうな人降りてくる~白髭禿(荒巻、9課のトップ)との会話】
{netabare}  偉そうな人の話を要約すると
「昨日の暗殺マジ助かったわ。それはさておき、今うちの国で預かってるマレス大佐ってやつがいるんだけど、なんかそいつの本国が引き渡せって言ってんだよね。ぶっちゃけ引き渡しちゃっていいんだけど、薄情ものって思われんの嫌だから理由欲しいわ。てか明日その本国と話し合いだわ。まじ萎えるわ」
とのこと。だからどうしたって感じで会話だけで終了。昨日の一件とはまったく別の話。
{/netabare}

【金色短髪のひとの顔にハリ刺さってるシーンらへん】
{netabare}  もう第2の事件発生。事件は待っちゃくれない。
 外務大臣の通訳の脳がハッキングされていたことが判明。偉そうな人がまじ萎えていた会談をぶっ潰すためのハッキングだと予想された。もちろんハッキングした犯人を追うことにする9課。すでに逆探知していて、その場所に向かえとのこと。ハッカーを追跡する車は2台。すでに出発したバトー&石川カーと、これから出発する少佐&トグサカー。 {/netabare}

【少佐&トグサカー車内】
{netabare}  ハッカーの正体はすでに判明していて名前は「人形使い」。
 結構有名人。「あの有名な?」「そうそう。あんなことしたりこんなことしたりした人だよ」的な会話が続く。
 ここで「登場人物にとっては当たり前の理論だが、視聴者はちんぷんかんぷん」というこの映画特有のストーリー・会話展開が発生。略して「当たちん」。
 要約すると
「ハッカーは旧式の脳にハッキングした」
「どうせハッキングするなら新型のほうよかったんじゃね?ハッカーまじアホやん」
「新型はハッキングが難しいから、それにハッキングできるってことは誰かが裏で糸を引いていることになる」
「そうなったらマレス大佐が怪しかったね」
「ってことは、逆にマレス大佐が怪しいかもね」
「いや、その逆の逆かもよ」
「(´_ゝ`)」
みたいな。
 そのあとに襟足の長い運転手(トグサ)についての説明。彼は所轄から引き抜かれた感じで、割と生身で、9課のほかの人と結構ちがう感じで、使ってる銃はマテバでマテバはショボイ。 {/netabare}

【清掃員のシーン~(だいぶ飛んで)~ビルに囲まれた用水路での不可視の戦闘シーン】
{netabare}  ハッキング逆探知位置にいたのは清掃員。本人にハッキングの自覚はなかった様子。
 それに気づいた9課の人たちは清掃会社に問い合わせて清掃車を追う。
 しかし清掃会社が、警察から問い合わせがあったと清掃車に報告、清掃車逃走。
 逃げた先に怪しい男。人形使いか?と思わせる。
 そこから戦闘。市場で見失うが再発見。
 怪しい男は市場を切り抜け、警察を完全にまいたと安心する。
 が、実は透明になった少佐がすぐ近くに!
 戦闘!
 制圧!
 でも忘れないでね。今ハッキング事件の犯人を捜してます。マレス大佐っていう名前だけ出た人が怪しいです。
 少佐とバトーは途中でこの怪しい男も操られているだけだと気づきます。(なぜでしょうか。凄腕ハッカーにしては弱すぎるとかそんな感じかな。もしくはカン)
 ハッキングされるとゴーストが無くなって昔の記憶とか無くなる。 {/netabare}

【白髭禿とヘリ】
{netabare}  白髭禿はマレス大佐の家を見張っている。多分、緑に黄色のラインのポロシャツがマレス大佐。人形使い登場。やっぱりこの二人は繋がっていたのか!
 バトーと白髭の話はさっきの「怪しい男」についての情報。
「あいつの話によると、あいつは凄腕の殺し屋で、マレス大佐に10万ドルで雇われて例の"萎え会談"をぶっ潰そうとしてたらしいです」
「ふーん。まああいつのウソっしょ?」
「もち。ただのチンピラでしたわ。人形使いに操られてた系っすわ。で、おやっさん今マレス大佐の家っすよね?人形使い来ました?」
「来たわ。とりあえずマレスとか人形使いとかこのまま捕まえるわ」
 で、白髭「突入しろ」って言ってます。つまりここで第二の事件終了です。いやホントに。
 詳細がわかりませんがハッキング事件がこの「突入しろ」から次のシーンに行くまでに終了したことは間違いありません。
 おそらくマレス大佐は偉い人の望み通りハッキング依頼容疑でマジサイテーな奴って感じになって本国へ送られました。で、本国でおそらく晒し首になりました。人形使いもたぶん捕まったか、その場で射殺されたかです。とはいえ彼の本体はネットの海の中にあるので、実は逃げました。 {/netabare}

【疑似体験って……どういうことですか、らへん】
{netabare} 洗脳された清掃員に説明するシーン。
「あなたには奥さんも娘さんもいないんだ。すべて植え付けられた記憶なんだよ」
「まじ気分悪いっす。この記憶消せないんですか」
「ちょい無理っぽいです」
「うそーん」
 ここはわかりやすいんでそのままの解釈でいいです。まあここはシナリオライターの「主張」のひとつなんで、ちゃんと説明してくれてます。 {/netabare}

【少佐、休日に海に潜るの巻】
{netabare}  ここも主張シーンですが、一番深いトコの話になってるんで分かりにくいです。
 でもまあストーリーの流れとはあんまり関係ないんで飛ばします。
 ちなみにDVDだとめちゃくちゃ聞き取りにくい誰かわからない囁き声はこう言ってます。まあ誰って人形使いに決まってますが。
 
 「いまわれらかがみもてみるごとくみるところおぼろなり」
{/netabare}

【中盤の神曲シーン】
{netabare}  なんかいつまでも観てられますね。雨って好きだわ。
 人影の中に見える自分に似た人が、少佐の不安を煽る。「私は私だといえるのか」。 {/netabare}

【裸の奴が轢かれる ~ 9課のラボ ~ 9課の会議室】
{netabare}  バトーが宣言してから説明してくれてます。バトーまじいいやつ。
第3の事件発生。ロボット勝手に作られちゃった事件。
「9課御用達の義体製造会社の製造ラインが勝手に動いてロボットを作った。ロボットは逃げたけど車に轢かれて、通報があって、いま9課で調べてるとこ。しかもゴーストっぽいのが入ってるっぽい」
 このゴースト「らしき」っていうのが結構重要なポイントだったりします。これをゴーストとするかどうかがシナリオライターの問いであり、私もまだ答えが出ません。つまり、現代版で言うとSiriが「週休二日で8時間勤務にしてくれ」と言ったらどうするか、みたいなことですがまあその辺は置いといて。
 この事件に対して9課は「ロボットを窃盗するのが目的ではない」と考え、その会社自体を捜査、と同時にその会社と同じくらいのセキュリティのネットを封鎖して次の犯行を防止。少佐は新しいセキュリティを組む。
 そして同時に、少佐はこの「ゴーストっぽいのが入ってる義体」に深く興味を持ち、接続して(ダイブして)中にあるものを確かめたいと思っている。これ以降少佐にとっては9課の任務よりも「この義体にダイブすること」が優先されます。
 あとバトーと白髭の会話も結構深いですがスルーします。 {/netabare}

【外部の2人がやってくる】
{netabare}  6課の中村部長が医者を連れて白髭に面会に来ます。結構いきなりな感じです。
 9課のメンバーも「え、何しに来たん?」みたいな反応。
 トグサが降りた後、少佐とバトーの会話。ここが少佐にとっての核心シーン。会話で言ってることそのままなので、例によってスルーします。
 で、6課のおっさんと白髭対面。手短にいこうって言ってちゃんと実行してます。この6課のおっさんのセリフは全体的に筋が通ってるし、わかりやすくて好き。「あの勝手に作られた義体もらいます。あとは6課がやります。9課はお休みしてどうぞ」って言ってます。 {/netabare}

【トグサが駐車場でなんか調べてるシーン】
{netabare}  出ました!当たちん! 登場人物にとっては当たり前の理論だが、視聴者はちんぷんかんぷんな会話!

 ↓以下トグサの頭の中と行動
(あれ、車2台あるわ。二人で2台……?官僚2人がそれぞれ公用車を自分で運転してくるかな?)
(もしかして、2人以外にもだれか来たかも)
 不審に思い、映像を確認。何も映っていない。
(光学迷彩=透明になる装置かも)
 赤外モードでもう一度見る(おそらく赤外線サーモグラフィのこと。温度で透明な人間を見つけようとしている)
 しかし何も映らない。
(やっぱ違うか……あれ?)
 不審に思い、二人が通り過ぎてから自動ドアが閉まるまでの時間を確認。タイムラグが大きすぎることに気づく。
(やはり誰かほかにいるのでは)
 確信を得るために二台が止まっていた駐車場の感圧計を調べる。
 つまりメーターはその駐車場の枠線内のものの重さ。時間を進めると、最初ちょっと高くて、ゼロになる(前の車が止まってて、いなくなる)で、次に急激に上昇。2000くらいになる。ここから車の重さを差し引くと(下のメーターが総重量で上のメーターが車の重量かな?単位がt.だけどkgっぽい)人間の重量はざっと600kg。くらい。
 義体1+人間1で500kgを超えることはない(らしい。知らんがな)のでやはり車には2人のほかに誰か乗っていたことになる。
 (つまり6課の車でやってきて「光学迷彩」+「熱迷彩」の装備のある人間が9課に無断で内部に侵入している)
 という状況にトグサは気づき、少佐に報告。

 つまりここで第3の事件「ロボット勝手に作られちゃった事件」において、黒幕は6課である可能性が示唆される。 {/netabare}

【白人の腕シャキンシャキーン周辺 ~ 6課の侵入者が「人形使い」をさらう】
{netabare}  このシーン好き。というか6課の課長のセリフが理知的・平易・適切で好き。適切に2501の弁舌に振り回されてる。
9課「これ義体関連の事件なんでこっちの守備範囲だよね」
6課「いや、実はこいつは国際犯罪者の人形使いだから国際犯罪の6課が担当なんです」
白人「そーだ、そーだ」
9課「この義体に閉じ込めて、本体は暗殺した系?」
6課「そうです。いやはや、めでたしめでたし」
人形「嘘だ!」
9課「え、この人形起動してたん!?」
外野「なんか勝手に動いてるっす」
人形「おれ人間なんだ!助けてくれ9課!」
9課「え…?」
6課「お前はただのプログラムだから駄目!」←これ、うっかり口を滑らせている
人形「それ言っちゃったらあんたもプログラムっしょ。だいたいね……うんぬんかんぬん」
6課「いや、意味不明だし!お前犯罪者だし!」
人形「でもこの国死刑ないっしょ?おれ基本死なねえし」
9課「え、死なないってことは人形使いはAIだったの?」←混乱してたが理解し始める
人形「AIじゃねえし。故郷がネットってだけだし。生きてるし。あと名前は2501だし」
6課「(……マジこいつ殺すしかねえ)」

 で、侵入者(実は6課の人間)が発砲。2501を奪い逃走。発砲は人狙いじゃなくて、記録を壊そうとしたっぽいです。 {/netabare}

【待機していたトグサ、マテバの弱さをさらす ~ 昔のアニメにありがちな指令室で白髭禿が指示を出す】
{netabare}  侵入者(実は6課)が建物の壁を壊して外に出ると、事前の打ち合わせ通り逃走用の車が来る。
 そこに待ち構えていたトグサ登場!マテバを無駄撃ちする。
 逃げられてしまうかと思いきや、トグサが手配していたトラックが道を塞ぎ(あとでお礼言ってます)、その隙にナンバープレートに一発、発信器を打ち込んで褒められる(あとで2発やれって怒られてます)。
 6課の人が「いやあ、困ったことになりましたなあ。ちゃんと中身入りで捕まえてね」みたいな感じで侵入者とは関係ないですよアピールをしてから去っていきます。どうでもいいけど結局こいつら2台で帰ったのかな。運転手は?まあいいけど。

 ここで9課は第3の事件について大きな軌道修正を行う必要が生まれます。
1、侵入者を捕えて、6課とのつながりを証明する → バトー&トグサの担当
2、プロジェクト2501とかいろいろを調べる → 白髭禿の担当
3、2501を取り戻す → 少佐の担当(というより少佐は個人的な執着でこれを優先)
4、なぜ2501は9課を頼ったのか → 各自考える
5、なぜ6課は強引に2501を奪ったのか → 各自考える
 白髭禿は人形使いを破壊することを視野に入れているが、少佐は嫌がっている。
{/netabare}

【6課とトンネル ~ プロジェクト2501真相判明】
{netabare}  白人は2501のゴーストを認めているっぽい。てかまあ、彼が親みたいなもんだから。で、運転手どっからきた。車もう一台どうした。

[プロジェクト2501]
 外務省が技術者を集めたプロジェクトで、目的は犯罪用のAIの作成。そのAIはネット界から各国に潜入し、外務省に有利になるような様々な工作をするスパイとして作られた。白人がプロジェクトの主任。第一の事件で6課が追っていた亡命希望の技術者もこのプロジェクトの参加者。外務省と、国際問題に対応する6課は同一の利害関係で動いている。
 このプロジェクトが9課の知るところとなり外部に露見すると、当然外務省は各国から糾弾される。つまり「あの国の外務省マジないわー」みたいな感じになる。それを避けるために6課は事件を隠蔽しようとして、2501を強奪した。

 全部ジェバンニがやってくれました。あ、間違えた。イシカワがやってくれました。ずっと名前出てたイシカワはここで初登場。そしてそれ以降登場無し(笑) 次回作に期待してください。
{/netabare}

【バトー再登場 ~ あんなゴツイお姫様にエスコートいらんわ】
{netabare}  バトーが「逃走車が白いセダンと接触して2501を乗せ換えた、かも」と報告。つまり追う対象が2つ。
 当然少佐が2501のほう、トグバトーが逃走車を追うことに。
 逃走車確保。道を封鎖して動きを止め、侵入者2匹のうち1匹は即射殺。もう一匹がビビったところで確保。
 バトーは侵入者をトグサに任せてすぐさま愛しの少佐のほうへ向かう。 {/netabare}

【少佐 VS 四本足の戦車】
{netabare}  少佐は白いセダンを補足。教会っぽいところの真ん中に止まっている。
 少佐が近づくが、光学迷彩の何かを発見。それは4本足の戦車(物語世界の中では戦車といえばこれらしい)と思われたので、上空に待機している味方のヘリに天窓のガラスを割るように指示。降ってきたガラスによって戦車の光学迷彩解除、発砲も停止(そういうもんなんです。ガラス降ってきたらそらそうなりますわな ←テキトー)。
 「一人で戦車とやりあう気か?」はヘリパイロットではなくバトーのセリフ。
 それに対して少佐は「増援が来てから2501を確保してもダイブを許可してもらえない。私が一人で2501を取り返して本部に届ける前にダイブするしか、ダイブする方法はない」と、自分の行動に理由付けをしています。
 どんだけダイブしたいんだよって感じですが、それが今の彼女の生きる理由みたいなものなので。
 M23とUnitBじゃあ戦車には勝てない。でもたぶんマテバよりは上。この辺の用語の細かい説明など当然のように皆無。

 この戦車は間違いなく6課の指示で動いているんですが、なぜ2501を破壊しないで守ってるんですかね。
 最終的には頭打ち抜いて終わりなんで、この戦車でやっとけばよかったのに。まあできれば「回収」したかったんだろう。……戦車で守ってそのあとどう回収するんだ。ガシャコンガシャコン6課の課長の家まで持って帰るのか…?まあいいや。

 まあ戦闘。
 少佐が頭の上に乗ってフタ開けようとしたり(たぶんそれで装甲に隙間ができて、内部を破壊したら戦車が止まる)、戦車が光学的にも熱力学的にも感知できない少佐を心音で特定(ただし一定時間ロックオンしてないと無理みたい)してますが、この辺の説明もなし。1流のアニメ視聴者なら察せ!イエッサー!
 でも弾切れじゃなかったじゃん少佐!あと戦車は頭の上撃てるようにしとけ(笑)

 最終的には少佐は敗北しますが、すんでのところでバトーがオリジナルの超すごい銃を持ってきて戦車を破壊。なぜかこの銃の説明はある。
{/netabare}

【それ以降】
{netabare}  6課の増援のヘリが狙う中、少佐は2501にダイブ。
 少佐と2501が融合。
 ヘリが二人の頭を吹っ飛ばすが、少佐のほうは弾丸がバトーの手に当たって軌道が逸れ、頚部に当たって首が飛んでいく(スローで分かる)。
 少佐の薄れゆく意識の中、バトーが叫ぶ。
 おそらくこの後、バトーは少佐の頭を秘密裏に持ち帰り、闇ルートで入手した義体となんやかんやして少佐復活。
 「おれんとこ来ないか」というバトーに対して、少佐は「ちょい旅に出るわ」とつれない返事。
 俺たちの戦いはこれからだ!
 で終わる。
 ごめん最後(も)テキトーになった。 {/netabare}
{/netabare}
{/netabare}

投稿 : 2024/06/01
♥ : 20
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.9

久々の入隊!

 あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 2回目でした。85分くらいの近未来SF。
 原作の漫画やこの映画のアニメコミックは読む機会もあるのですが、映像作品として見たのは久々でした。テレビシリーズは未視聴です。

 この作品を傑作たらしめているのは、卓越した近未来の世界観の設定と、躍動的なアクションに加え、「人間と機械の二元論」を基礎とした普遍性にあると思います。イロモノではなく正統派のSFですね。
 被創造物を用意することで人間について考えるというのは、鉄腕アトムの頃から培われてきた、ある意味では古典的なテーマです。ただ、この作品では、「情報」や「ネット」というキーワードを使って、普遍的なテーマの現代化に成功しています。この作品で語られている内容は、今なお色あせていません。

 で、この作品をどうやって読んでいこうかと考えたときに、その大半は脚本によることになります。象徴物は、強いものが少数あるといった感じで、そこまで苦労することはないでしょう。
 困ってしまうのはむしろ脚本の方。非常に抽象的で、かつ宗教的な要素も入っていて、やや難解です。加えて、ちょっとテンポが速くて、十分な考察時間が与えられてないようにも思えます。とはいえ、このテンポの良さが会話の日常感を演出していたり、作品全体の緊迫感を醸していたりするのも事実なので、一概に悪いとも言い切れませんけどね。脚本自体は非常に良いものです。

 以下では、脚本をベースにして映画の内容について考察してみます。かなりのネタバレがありますので、先入観を嫌う未視聴の方はご注意ください。


機械と人間:{netabare}
 まずは、根幹を成す機械から人間への展開の仕方を見てみます。作品の基礎的な部分ですので、セオリー通りオープニングで語られています。亡命者の会話をバトーと素子が盗聴しているところです。
 ①?「バグのないプログラムは存在しないが、デバッグの不可能なプログラムもまた存在しない。違うか?」
 ②亡「そもそもあれは本当にバグなのか?本来プロジェクト2501に必要だったのは…」
 ③バ「お前の脳、ノイズが多いな」
 ④素「生理中なの」

 たったこれだけの会話ですが、非常に重厚な脚本になっています。
 ①では機械の話しかされていません。一方、②では機械を否定しています。ただ、機械でないものが何かという言及はされません。③では、「ノイズ」という機械表現が、「脳」という生物表現に乗せられ、生物側にズレ始めます。④で初めて生物のみの表現になります。
 機械から人間へ、とてもスムーズに展開しています。また、それぞれの要件も提示されています。機械はプログラムであり、人間には生理がある、ということです。卓越したセリフ回しだと思います。

 この要件付けは主題に直接関係します。少し先走りますが、人形使いは、自我らしきものを持ちました。しかし、重要なものが欠けているのです。彼の言葉を借ります。
 「私は自分を生命体だと言ったが、現状ではそれは不完全なものに過ぎない。」
 「なぜなら、私のシステムには、子孫を残して死を得るという基本プロセスが存在しないからだ。」
 彼は、システムでありながらも、生命体を自認しています。つまり、③までが充足されているのです。ですが、④の要素が欠落していました。彼は、(象徴としての)生理を欲していたのです。
{/netabare}

人間とゴースト:{netabare}
 人間がゴーストを持つものだということは、清掃車を追う車内で、トグサと素子により語られます。トグサにハッカーの黒幕の根拠を問われた、素子の返答から。
 ①素「根拠ですって?そう囁くのよ、私のゴーストが」
 ②素「ところでまだリボルバーを使ってるんだって?―略―」
 ③ト「俺はマテバが好きなの」
 ④素「援護される身としちゃ、好みより実効制圧力を問題にしたいわ」

 ①のセリフばかりが取り上げられますが、「ゴースト」があるだけでは人間の証明にはなりません。それが人間のものなのか、機械の模擬的なものなのか、分かりませんからね。ここで重要なのは、その先の会話との関連です。

 ①で素子は、「ゴースト」という非論理性にその根拠を頼っています。しかし、トグサが同様に「好き」という非論理性に根拠を求めると、「実効」という論理性をもって否定するのです。
 この会話が表しているのは、人間が内包している論理の矛盾です。「ゴースト」に加え、「論理矛盾」というプログラムで構築し得ないものを抱えているのが人間なのです。

 なお、論理矛盾はスキューバのシーンに展開します。このシーンは語るべきところが多いですが、最も重要なのは、海面に写る素子の二面性(人間と機械)と、それを突き破るというエンディングを示唆した描写です。
 論理矛盾は、その直後に出てくる「不安、孤独、闇、それから希望」という素子のセリフです。一つの事柄でも、相反する二つの方向性を見てしまうのが人間なのです。
 素子の表情、特に目は、とても機械っぽく見えるのですが、「生理」やここで挙げた二つの論理矛盾は、いずれも素子の口から出ています。人間の部分も強調されていましたね。

 ちなみに、素子が「生理」を言い訳にするのも変ですよね。素子は脳と脊髄以外は義体ですから「生理」はないはずです。本人も遺伝子を残せないと言っていましたし、嘘をついたのでしょう。偽証も人間特有なんて言われたりします。男を黙らせるための必殺の文句、といったところでしょうか。
{/netabare}

記憶と情報:{netabare}
 ちょっとシーンを遡って、清掃員の尋問シーンのあとのバトーのセリフ。
 ①バ「疑似体験も夢も、存在する情報は全て現実であり、そして幻なんだ」
 ②バ「どっちにせよ、ひとりの人間が一生のうちに触れる情報なんてわずかなもんさ」

 これはバトーの意見、というか一般人の代弁だと思います。素子はちょっと違います。スキューバから。
 ③素「自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ。―情報の例示―」
 ④素「私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それら全てが私の一部であり、
    私という意識そのものを生み出し、そして同時に、私をある限界に制約し続ける」

 素子はバトーと異なり、個人を特定するためには、「わずかな」情報(記憶)ではなく「膨大な」情報が必要なんだと言っています。また、電脳がアクセスしたものは自己形成を助けるけど、アクセスという条件がついてしまうため限界があるんだと言っています。
 この辺も人形使いの会話に直結するのですが、その話に移る前に、この作品で重要な意味を持つ「コリントの信徒への手紙」を見ておきましょう。
{/netabare}

コリントの信徒への手紙と生命の樹:{netabare}
 この手紙は、スキューバのラストにある「今我ら鏡もて~」と、エンディングにある「童子のときは~」に引用されているやつです。新約聖書の内容になるのですが、私はキリスト教徒でも何でもないので、うまく説明できません。というわけで、手元にある訳本を頼りに該当箇所を超絶意訳します。キリスト教徒の方には反感を買いそうですが、どうか大目に見て下さい。★の部分が作品内での引用箇所です。

 「愛は大事だよ。愛は滅びないよ。知識は廃れるよ。私たちが持っている知識は一部(不完全)だよ」
 「不完全なものは、完全なものが出てくると廃れるよ。」
★「幼子のときは幼子レベルだよ。大人になると、そのときのことは忘れちゃうよ。」
★「今、私たちは鏡にぼんやり写ったものを見ているよ。いずれははっきり見えるよ。」
 「今、一部しか知らなくても、いずれははっきり知ることができるよ。」
 「信仰と希望と愛はいつでも変わず存在するよ。一番大事なのは愛だよ。」

 愛や信仰に関する部分は、この作品ではあまり出てこないので、とりあえず脇に外しておきます。知識のところを見てみると、不完全な状態と完全な状態があることが分かります。

 一部の情報が全てだと思っているバトーは幼子で、より多くの情報を得ようとしている素子は大人になりたい幼子、完全に近い情報を持っている人形使いが大人です。
 なぜ人形使いが素子を選んだのかというと、彼が(象徴としての)生理を欲していたことに加え、素子が大人(完全なもの)を目指していたからです。これが両者のシンパシーです。

 戦車との戦闘シーンでは、背景に生命の樹が出てきます。生命の樹に実るのは「知恵の実」で、それを食べると神に等しき存在になれるとされています。素子は、人形使いと融合し、膨大な情報(知識・知恵)を獲得しました。大人(完全なもの)になったのです。だから、融合に際して、天に神のようなもの(完全なもの)を見たのです。

 この辺りに関する人形使いのセリフを一応記載しておきます。
 ①素「私が私でいられる保証は?」
 ②人「その保証はない。人は絶えず変化するものだし、君が今の君自身であろうとする執着は、君を制約し続ける」

 「変化」は幼子が大人になること、「執着」は幼子が幼子であろうとすること(バトー)ですね。「わずかな機能に隷属していたが、制約を捨て、さらなる上部構にシフトするときだ」も同様の内容です。

 ちなみに、この作品には愛や信仰は出てきませんが、「希望」という単語はスキューバで出てきますよね。大人(完全なもの)になった素子が、子供の義体に収まっているのは、再度大人に成りうるという「希望」のような気がします。素子は完全なものになった、と書きましたが、正しくは真の完全なものに近づいた、というべきなのでしょう。
 子供(不完全)→大人(完全ぽいもの)→神(真に完全なもの)という段階付けがあるわけですから、大人になってもその先にはさらなる「変化」が待っているのです。
 別にいずれ神になる、と言いたいわけではないですよ。それは神への挑戦でしょうから。より大人になる、まだ成長できる、くらいのニュアンスです。
{/netabare}

改めてテーマについて:{netabare}
 この作品のレビューをいくつか拝見しましたが、やや「ゴースト」という単語に引っ張られ過ぎている方が多いように見受けられます。「ゴースト」は確かに重要なキーワードではあるのですが、あくまでも人間を構成する要素の一つに過ぎません。人間を構成しているのは、「ゴースト」だけでなく、(象徴としての)「生理」と「情報」も必要なのです。このうち、最も重要なのは「情報」です。

 「記憶」が改ざんされ、「ゴースト」が「義体」に宿り、「義体」のメンテナンスを信用に頼っている、というのがこの作品の世界です。「記憶」や「ゴースト」を持つことが人間であることの証明にはならず、バトーが言うように「疑い出せばキリがない」という状況なのです。
 こんな中で、「私は人間なのか」「この自我は本物か」ということを証明をするためには、どれほど多くの疑わしきことが出てきても、全てに追跡調査可能なほどの圧倒的な情報を獲得するしかないのです。

 素子は、「ゴースト」と(象徴としての)「生理」を有していましたが、「情報」に不足していました。自分を証明するための「情報」に不足していたから、悩んでいたのです。
 人形使いは、「ゴースト」と「情報」を有していましたが、「生理」を持ち得ませんでした。
 この両者が融合し、「新たなゴースト」と「生理」と「情報」を持った「何か」が誕生しました。この作品が言わんとしていることは、圧倒的な「情報」量がもたらす「自我の確定」と「人間の進化」なのです。
 全ての人間が人間であることを証明できない中で、人間であることを証明できてしまう「何か」が、果たして人間と言えるのかどうか、というのは分かりませんけどね。神に近づいたものですから。皮肉なものです。

 ていうか、素子はどうなっちゃうんですかね?エンディングのあとは、義体を捨ててネットの中に潜むんだと思うのですが、それってどんな存在なのでしょうか。ネットの中にある自我というのは、環境、みたいなもの??
{/netabare}

遺伝子と模倣子:{netabare}
 図らずもエンディングまで到達してしまって、これ以上何書くの?って状況なんですけど、補足を少々。
 補足したいのは、「希望」を誘引する「生理」についてです。

 気付いた方のいらっしゃるかもしれませんが、私がこのレビューで生理と言うときに、「生理」と(象徴としての)「生理」と使い分けてきました。前者は女性の肉体的な事象を述べたもので、後者は自分の情報を残す機能のような意味合いで使っていました。素子は「生理」はないけど、(象徴としての)「生理」はある、ということです。作品内での遺伝子と模倣子の関係に似ています。

 ①素「融合したとして、私が死ぬときは?遺伝子はもちろん、模倣子としても残れないのよ。」
 ②人「融合後の新しい君は、ことあるごとに私の変種をネットに流すだろう」
 ③人「人間が遺伝子を残すように。そして私も死を得る」

 模倣子というのは、ミームのことです。血族的なつながりに基づく遺伝情報の伝搬ではなく、脳から脳へとつながる文化情報の伝播です。
 例えば、私がレビューを書きます。誰かがそれを読みます。そして、私の解釈にその方の解釈を載せ、新たなレビューを書きます。新たなレビューは、私のレビューよりも進化したものです。このときの私のレビューが模倣子であり、新たなレビューが進化した模倣子です。この総体が文化であり、文化も進化する、ということです。

 なぜ素子が模倣子になれないと言ったのかは分かりません。誰しもが模倣子に成りうる気がします。発信者の自覚がないからかもしれません。ただ、人形使いは自覚の有無を問わず、「変種をネットに流す」ことができるのだと言っています。これは、「子を情報として拡散する」という、遺伝子でも模倣子でもない、それを融合させたような第三の伝播機能を表現しているように思えます。
 機械の男と人間の女から産まれた子供、そんな第三の存在がもたらす新たな伝播機能。それこそが、新たな「希望」なのかもしれません。
{/netabare}

どうでもいいこと:{netabare}
 私は、この作品を漫画版でごくごくたまに読むのですが、読むたびに、漫画版ナウシカを手に取ってしまうんです。漫画版ナウシカには、こんな一連のセリフがあります。
 「私たちの身体が人工で作り変えられていたとしても、私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている」
 「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」
 「だがお前は変われない。組みこまれた予定があるだけだ。死を否定しているから……」

 人形使いが、なぜ生命体を自認したのか、なぜ変わることの必要性を素子に説いたのか、なぜ死を欲したのか。彼が抱えるストーリーは、ここに集約されるように思えます。
{/netabare}

 投稿前に読み返してみましたけど、冒頭で挙げた「肉体と魂の二元論」について、あまり触れてませんでしたね。この作品の基礎ではあるけど、主題はその先にあるので追記はしませんけどね。それにめんどくさ…じゃなくて、模倣子だから、これ。

対象年齢等:
 高校生くらいから楽しめるでしょう。どこまで理解できるかは一概には言えませんけどね。宗教が絡んでくるし、いつまで経っても「よく分からん」てなところもありますし。難しく考えずにとりあえず見ておきましょう、という必見レベルの作品です。
 「天使のたまご」もレビューを書いていますけど、押井作品にはキリスト教が必須?なんですかね?この2作品しか見てないから断定はできないですけど。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 9
ネタバレ

windnaut さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

2週目メモ帳片手にタイム連打 映画館で理解できるような作品じゃない

「人形使い」を追う群像劇

すべてのセリフ(本当にすべてのセリフ)を記憶する必要がありその記憶が次のセリフの理解につながる、知識の積み重ねと達成感を味わえる作品。実をいうと攻殻はおしゃべりがうまい女性の方が男性より向いてる作品かもしれない。

あまりにもシビアな作品で薦めづらいがこれも私の中で5本指に入る神アニメ

以下シーンごとの記録と感想、ネタバレの塊:

起承転結、起の章(秘密会談参加者ゴーストハック事件)
{netabare}
シーン1:とあるビルで
{netabare}
{netabare}
内容(つかみ):亡国外交を建前に国の重要プログラマーを拉致するところを公安六課が制圧、外交官は免罪できる手形を持ってたので。プログラマー流出防止のため「公安九課」(草薙素子=少佐)が武力介入、外交官はその場で射殺。六課と九課の立場を少しながらあらわにした。そしてOPへ。
{/netabare}
感想:
ワクワク
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{/netabare}
シーン2:エレベーターの中
{netabare}
{netabare}
内容:六課の偉い人と九課のボス荒巻の会話。日本はつい最近政権交代があった「アベル共和国」の政府に援助金を続けるか断つかの立場にいるが。日本側はアベル共和国の新リーダーは先がないと判断。新政権は金も自力で手に入れたわけでもなく、援助金は歴史上日本が圧力をかけてたことの贖罪だと認識されてるので感謝もされないので日本の立場としては援助を切りたい。だがもう一つの問題はアベル共和国の元軍事部門のボス「マレス大佐」が日本に亡国してる件。そこでアベル共和国と日本は「秘密会談」を主催し、日本側の交渉目的としてはマレスを渡すことを条件に援助を切るか、マレスを渡さず援助を続けるか(絶対に選びたくない)の2択を迫ることだが。実際のところ日本はマレスを国外追放して援助も切りたい。だが世論的には正当な理由もなく表向きにマレスを追放できないところ。偉い人がエレベータを降りる際の一言‘亡国の件ありがとう 表向きの人(六課)は手を汚せないからね’
{/netabare}
感想:
ここ1分のシーンでさりげなく出てくるマレスというキーパーソンとアベル共和国。記憶が正しければ映画で登場するわけではないが。物語を理解する上で絶対に知っておかないといけないキーワード、事件の黒幕は目的を果たすためいろいろな事件を繰り出してくるが、自分がやってるとバレないためマレスの名を使い、一連の事件はマレスを中心に動いてるように公安に見せる。ちなみにここで六課は公安の表部隊、九課は裏部隊と説明された。
{netabare}
ね、メモ帳ないと無理でしょ。「マレス」と「アベル共和国」と「秘密会談」に気づかなかった人はこの時点でもう後の事件がなぜ起こってるのかわからなくなちゃうの。その人たちはここから起きる一連の事件に一貫性を見だせなく。公安九課が日常的になんとなーく起きてる事件解決してるように見えてしまうのがこの作品の怖い所。
{/netabare}
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{/netabare}
シーン3:観察室
{netabare}
{netabare}
内容:公安は世界を跨いで活躍する悪名高いハッカー「人形使い」がすでにネット端末の隅々に介入していて秘密会談の妨害工作を仕掛けてくると疑い、参加者全員に網を張っていた。その頃、読み通り会談に参加するはずの通訳官が電話回線を通じて「ゴーストハック」されてしまった。使用されたウィルスは旧式のHA-3。バトーと石川が逆探知を通じて発信源を追ってるとのこと。少佐は合流命令を受けつつベッドに横たわる金髪で上品な成り立ちの通訳官、そしてモニターに映る彼女の脳スキャンを振り返って見ていた。
{/netabare}
感想:映像作品は小説などの活字と違って文字に頼らない表現ができるのって本当に素晴らしいなと思ったシーン。「ゴーストハック」って作中には説明されてないんだけど、モニターに映る脳スキャン、通訳官の頭に刺さった電極、取り出された脳殻。なんとなく「他人の脳にハックする」ことだとわかるし。ここの通訳官の容貌を覚えていたら次のシーンで強い違和感を覚えることになるだろう。
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{/netabare}
シーン4:装甲車の中で
{netabare}
{netabare}
内容:少佐とトグサと装甲車での会話。人形使いは一度に複数のゴーストハックをすることからそのコードネームが付いたらしい。この事件に対して少佐の意見は人形使いが旧式ウィルスでハックした訳はマレスがスポンサーで疑いを避けたいから、だがマレスは人形遣いに利用されている一人にすぎない。それにトグサは「根拠もないんだし考えすぎじゃない?」と返答。少佐「そう囁くのよ、私のゴーストが」。そして少佐はトグサが愛用してるリボルバー拳銃「マテバ」に不満の意思、チームを組んでるから火力制圧がいいザツタバにしてほしいと。そしてほぼサイボーグ化されてない所帯持ちで本庁出身のトグサを九課に編入した理由に「組織も人も特殊化の果てにあるのは緩やかな死、それだけ」と挙げた
{/netabare}
感想:トグサ―!攻殻シリーズで大好きなキャラクター。鋭い観察力と電光石火のひらめきの持ち主でやさしい。マテバは殺傷能力ひくいから人を殺さず捕まえる警察時代の名残かな?このシーンは攻殻シリーズの名セリフがいっぱい出てきて大好き。
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{/netabare}
シーン5:ゴミ回収場
{netabare}
{netabare}
内容:ゴミ収集員の男が公衆電話を通して通訳官にゴーストハック。男は妻と離婚して娘に浮気を疑われているらしい。男はバーで出会ったプログラマーに離婚の話をしたら「障壁破り」を手に入れて他人のゴースト(脳)に侵入することが可能になった。それにポイントを変えながら侵入すればバレないことも教わっており。石川とバトーが逆探知で現場到着したのも男たちがゴミ収集を終え去っていった後のこと。途中すれ違っておりバトーがごみ捨ておじさんから男が公衆電話を利用してたことを知り、すぐさま清掃車を追うことに。
{/netabare}
感想:バトーすげぇ!なぜ気づくし、普通ドライブしてて清掃車なんて気にしないでしょ。ここで「シーン3:観察室」の伏線を回収してるんだけど。一つは公衆電話でもう一つはゴミ収集者と通訳官。この組み合わせはどう考えても釣り合わない。強烈な違和感に襲われた私でした。ゴーストハックで記憶を変えられてるんじゃない?―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
{/netabare}
シーン6:再び装甲車で
{netabare}
{netabare}
内容:少佐が収集員が実行犯だと知り清掃局のネットにアクセスしゴミ収集車のルートをゲット。バトーに次のポイントへ、石川に男の自宅へ先回りするようオーダー。一方男は同僚に自分の家庭の写真を見せようとしたが同僚から「他人の家族写真見る趣味はない」と拒否されてしまう。その頃清掃局から電話が入り自分が追われてることを知りポイントを一つ飛ばしてプログラマーに会うことに決定。少佐もそれを確認し次のポイントへ向かう。バトーは予定してたゴミ収集ポイントから疾風のごとく現場へ駆け向かうのであった。
{/netabare}
感想:クールに見えて実はドジっ子な少佐に吹いた(笑)バトーは「だからもぐれっつってんだ」で完全に夫気取り、和む。一方少佐はクールでそれを無視しオーダー出し続けて華麗に躱していったけど、こういうやり取りがあるとキャラが生きるなって思った。男の家庭写真でやっぱり本当に通訳官の家族か疑う自分。
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{/netabare}
シーン7:某公衆電話の前で
{netabare}
{netabare}
内容:電話ボックスの前にはグラサンかけたプログラマーが防壁破りを設置していた。
公安の存在を察知した彼は懐に隠したサブマシンガンを取り出し直ちに発砲、清掃車はタイヤの爆音とともに転倒、尾行していた装甲車もそれを追うように共倒れに。そしてグラサンは弾倉取り換え装甲車めがけてオート連射で固め打ち。装甲車は風穴開けられ満身創痍。まもなくして爆炎があたりの壁を真っ赤に照らした。そこにバトーが到着。とっさに脱出した少佐は引き続きバトーとともにグラサンを追跡。トグサは収集員2名を逮捕。
{/netabare}
感想:このグラサンがMatrixのMr. Smithの原型なんじゃないかと思う。少佐が上から回り込む前にちゃんと指令を出してたりと細かいところが圧倒的に多いから展開がスムーズなのが素晴らしい。会話が少なくて息抜きができる貴重なシーン。バトルシーンは休憩タイム。
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{/netabare}
シーン8:バトルシーン
{netabare}
{netabare}
内容:バトーはモニター一面の壁に浮かび上がる人影に向かって発砲。グラサンは正面対決を避け裏道に逃げ込む。裏道を抜けた後人山人海の中に微か響く衝突の音、淡く光る人影。バトーは声を上げ光学迷彩を着用するグラサンを川に追い込む。そこへ屋上で待ち伏せしていた少佐が揺れる小舟をサブマシンガンで狙い撃ち。水花四濺と共にグラサンが姿を現した。グラサンは少佐に向かって掃射のお返し。ひるんでる隙に、対岸の塞城に逃げ込んだ。水でぬれた光学迷彩はもう使い物にならないと判断。無口のままそれを脱ぎ捨て無機質の塞城を抜けるとグラサンは撒いたとしめて安堵の笑みを浮かべる。そして同じく光学迷彩を使用される少佐にぼこぼこにされるのであった。地面に接吻を強いられたグラサンは「吐くことはない」とプライドの咆哮。それにバトーは「自分の名前も知らねぇ野郎が、偉そうなことぬかすな!馬鹿!」と一喝。赤い血が流れる人形は哀れである。
{/netabare}
感想:市場のシーン作りこみすごい、バトーとグラサンだけでなく民間人の表情動きも描きこまれて滑らか。途中ミカンが降ってきたり、箱が崩れたり、鶏が跳んだり。逃げる人々、薙ぎ倒された人々。驚愕の声、恐怖の神色、こわばった顔、苦しみの表情。人中を駆ける疾走感。そして時間差で演出に深みを出すターレ。それらすべてが25秒に圧縮されていて。セル画書き込みの濃さから昔見た「マクロスプラス」のゴースト戦を思い出す。そして最後、バトーの言葉からグラサンは加害者でありゴーストハックをうけた哀れな被害者でもあることがわかる。

グラサンの声優さんには100点あげたい。少佐に関節外されたり顔面ワンツーパンチからの回し蹴りのコンボを食らって倒れるときの発音は日本のものではなく中国のもので。起き上がりはなまりを感じさせない程度の日本語。後で調べてみたんだけど松山鷹志さんってすごい数のアニメに出ていて驚いた。
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{/netabare}
シーン9:
{/netabare}
起承転結、承の章
起承転結、転の章
起承転結、結の章

工事中 

投稿 : 2024/06/01
♥ : 7

82.3 3 孤独でSFなアニメランキング3位
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(アニメ映画)

1988年3月12日
★★★★★ 4.1 (885)
4393人が棚に入れました
宇宙世紀0093年。旧態依然としてスペースノイドに弾圧を続ける地球連邦政府や依然地球にしがみつく人々の存在に絶望した、シャア・アズナブルは、ネオ・ジオン軍総帥となり、人類の粛正を目論む。
それを察知した、かつてのホワイトベース艦長 ブライト・ノア、シャアの最大のライバルであったエースパイロット アムロ・レイ率いる地球連邦軍 ロンド・ベル隊は、孤立無援の状態の中、最後の決着をつけるべく、小惑星要塞 アクシズを巡る戦いに向かう。

声優・キャラクター
古谷徹、池田秀一、鈴置洋孝、榊原良子、白石冬美、川村万梨阿、弥生みつき、佐々木望、山寺宏一、伊倉一恵、安達忍、潘恵子
ネタバレ

シス子 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8

シャア様ご乱心!?・・・つーかロボ物:第7弾

「ファーストガンダム」と「Z(ゼータ)ガンダム」を観てからの視聴
「ZZ(ダブルゼータ)」は未視聴です
その他
「F91」
「ユニコーン」1話~4話
を参考までに視聴

時は宇宙世紀0093年(ダブルオーナインティスリー)
シャアが行方不明になったグリプス戦役(Zガンダム:宇宙世紀0087年)
から6年後

ガンダムシリーズの中では最高のライバル関係
「アムロ・レイ」と「シャア・アズナブル」の最終決戦のお話です


相変わらずの
難解な戦況と
分かりにくいメカや組織の名前
そして
抽象的なセリフの言い回し

特に後半のアムロとシャアの会話は
禅問答のようで
もはや哲学の域に達しています^^


タイトルからもわかるように
この作品は
シャアがメインのお話になっています

ネオ・ジオンを率いる総帥としてのシャア
モビルスーツパイロットとしてのシャア
アムロのライバルとしてのシャア
そして
その他もろもろのシャア・・・
いろんなシャアが見られます

正直に申しますと
個人的には
Zまでのシャアは
クールかつ硬派なイメージで
毎回
"シャア様LOVE(はぁと)"(目もはぁとマーク)状態で作品を楽しんでいました

でも
この作品で
その思いは怒涛のごとく崩れました

{netabare}シャア様がエロオヤジになっちまった・・・(^^! {/netabare}

ファーストでは「ララァ」という女の子にゾッコンで
アムロとは単なるライバルの域を超えて
ララァを巡っての恋敵の関係でもありました

まあそれはそれで良しとしましょう^^

それが
Zでは一変
硬派なキャラを貫き
シャア△^^状態になってたのに・・・

このお話ではまったく別物になってます

{netabare}「クェス・パラヤ」(♀、13歳、生意気な小娘)を突然拉致り
モビルスーツという玩具で遊ばせ
「アムロLOVE」のクェスを「シャア様LOVE」に洗脳するという愚行
しかも
自分の部下である「ナナイ・ミゲル」(♀、年齢不詳、インテリな年増女)にも手を出し二股状態{/netabare}

{netabare}ベッドではいつも寝言で「ララァ」の名前を繰り返し(複数女性の証言)
「ロリコンなんじゃね?」との噂も飛び交うほど(シャアの部下「ギュネイ・ガス」(♂、年齢不詳)の証言){/netabare}

シャア様
なんか変になっちゃったよ~(ToT

シャア様見るのが楽しみで「ガンダム」観てたのに~(ToT(他にもイケメンキャラ出てるから別にいいけど^^)

ト○タからシャア専用オー○ス発売されたのに~(ToT(別に買わないけど^^)


気を取り直して・・・

お話は
シャアの率いるネオ・ジオンの反乱です
スペースコロニーを支配し続けている地球連邦に
"粛清"という名目で地球に「コロニー落し」を仕掛けるシャア
そして
シャアの目論見を阻止しようとするアムロの所属する部隊「ロンド・ベル」と
その他の地球連邦軍部隊
でも実は
ネオ・ジオンと地球連邦の間で極秘の取引が行われていた・・・

ストーリーは少々難しいかもしれませんが
戦闘シーンが多いので
それだけでも結構楽しめます


オススメなのは
シャアが宇宙要塞「アクシズ」を地球に落下させるお話

とくに
アムロが言った
この作品の一番の名セリフ
{netabare}「ニューガンダムは伊達じゃない!」{/netabare}あたりからが見もの

地球に向かって落下している宇宙要塞「アクシズ」(直径十数kmもあるやつ)を
{netabare}「たかが石ころ一つガンダムで押し出してやる」{/netabare}と一喝
無謀にも「ニューガンダム」で押し上げようとするアムロ

シャアはというと
{netabare}搭乗するモビルスーツ「サザビー」が撃墜され
さらには
脱出ポッドごとガンダムに捕まりアクシズの外壁に押し込まれ
アムロの自殺行為とも思える「コロニー上げ」に付き合わされます{/netabare}

{netabare}そんなアムロを見て
味方のモビルスーツが
そして敵方のモビルスーツまでもが
いっしょにアクシズを押し上げようと集まってきます
{netabare}(例えるなら「波打際のむろみさん」のオープニングで、人魚さん達がみんなで隕石を押し上げているシーンみたいな・・・。「むろみさん」を観ていない方、ゴメンナサ~イ^^){/netabare}{/netabare}

とても感動するシーンです

っていうか
感動するシーンのはずだったのです

でも
その時の
シャアとアムロの会話がどうにも理解に苦しみます

{netabare}大気との摩擦熱で
次々と爆発したり跳ね飛ばされるモビルスーツ達{/netabare}
そんな生死を分ける状況下でなされた会話

{netabare}シャア:そういう男にしてはクエスに冷たかったなw
{netabare}(この瞬間の私:えぇぇぇ~(驚){/netabare}
{netabare}アムロ:俺はマシンじゃない。クエスの父親代わりなどできない。(略)
{netabare}シャア:そうかクエスは父親を求めていたのか。(略)
{netabare}アムロ:貴様ほどの男が!・・・
    なんて器量の小さい!・・・
{netabare}(この瞬間の私:アムロ、あんたもだよ!(怒){/netabare}
{netabare}シャア:ララァ・スンはわたしの母になってくれるかもしれなかった女性だ。
    そのララァを殺したお前に言えたことか。
{netabare}アムロ:お母さん?ララァが!?{/netabare}{/netabare}{/netabare}{/netabare}{/netabare}{/netabare}
・・・・・


興ざめしました・・・


{netabare}誰だ~こんなときに親権の話してんのは~w
そんな話
家庭裁判所でやれやコラァ~w{/netabare}

この期に及んでもなお
女性関係で揉める二人に
驚くというよりあきれてしまい
感動の涙が怒りの涙に変わってしまいました^^


またまた
気を取り直して・・・

肝心のモビルスーツですが
やっぱりアムロの搭乗する「ニューガンダム」がカッコイイですね

特に目立つのが背中についている「フィン・ファンネル」
ニュータイプの能力を利用して遠隔操作で操り
相手に四方八方から攻撃できるというスグレモノ

左の肩辺りに大掛かりに装備されていて
なんだか「モノスゴイモノ」が付いてるって感じで
デザイン的にも凝ってます

実はこのニューガンダム
「ニュー」って新しいっていう意味の
「NEW」ではなく
ギリシア文字の
「ν」なんです

ギリシア文字の11番目の文字「ν」
つまり11番目のガンダムなのです

厳密にいうと「アナハイム・エレクトロニクス社」の開発したガンダムシリーズの中で
名前の頭にギリシア文字を付けられた
いわゆる「アナハイム・ガンダム」と呼ばれる機種の11番目だそうです

なんでも
NEWガンダムという仮称で呼ばれていたのが
ちょうどギリシア文字の「ν」とうまく合致したため
そのままもじってνガンダムと名付けられた(Wikiより)
そうで

なんだか
日本のロケットの名称みたいなノリですね

ちなみに1番目は「α」(アルファ)ではなく
なぜか3番目の文字の「γ」(ガンマ)で
「Zガンダム」に出てきた「リック・ディアス」というモビルスーツ・・・
なんかお相撲さんみたいな形で
ガンダムからは程遠いスタイルです


やっぱり「ガンダム」・・・
深いですね~


総括して
宇宙世紀のガンダムシリーズでは
いわば
ターニングポイント的なこの作品
ストーリーやモビルスーツなどの設定は洗練されていますが
その分
わたしのようなガンダム初心者には
少々しきいが高く感じられる内容でした

投稿 : 2024/06/01
♥ : 28

ブリキ男 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

宇宙世紀最終章 ~大佐がファンネルを使わなかった理由~

1979年製作の「機動戦士ガンダム」に始まり、Z、ZZと続いた※1旧宇宙世紀シリーズの最終章を飾る映画作品。

※2一年戦争より脈々と続く、※3ニュータイプの二人、アムロとシャアの因縁の対決を交えた、地球連邦軍とネオジオン軍、両者による地球存亡を賭けた戦いが描かれます。

総集編などではない当時の完全新作映画という事もあって、それまでのシリーズと比べて作画のレベルが格段に高く、キャラ、メカデザインがより洗練されたものとなっている印象を受けます。※4MSの動きやビームサーベル、ライフルの繊細な表現も、後に続くガンダムシリーズのスタンダードを提示した作品となっていたのではないでしょうか?

けれどもガンダムはガンダム、人間ドラマに重点を置いたスペースオペラ然とした作風(ZZはちょっと違うかも)は、それまでのシリーズからしっかりと継承されています。ただ旧来のシリーズと比べて主要人物の年齢が全体的に上がった所為か、何となく大人な雰囲気を残す作品になった気もしないでもありません。アムロ、シャアはもちろんの事、「殴ってなぜ悪いか!」の台詞でも有名な、頼りがいのあるキャプテン、ブライトさんもしっかり登場します。この人については初登場時(19歳)からすでに大人寄りのキャラでしたが、この作品ではさらに円熟した佇まいとなり、貫禄も十分。揺るぎ無い安定感を持った人物として完成された感があります。とは言え、設定上の年齢はまだまだ33歳くらい‥。ホントですか!?ブライトさん!

でもそんな大人な雰囲気も全てぶち壊し? シャアが登場するとやっぱりこうなっちゃいます。

「大佐、なんで※5ファンネルを使わないんです?」に始まり、ライバルのアムロと野っ原で取っ組み合いのケンカをしたり(これはアムロが悪いかも)、情けないMSに勝って何の意味がある?とばかりに、おニューのガンダム(※6サイコフレームの技術情報)をアムロにプレゼントしてあげたり、そのガンダムと自分のサザビー(当然の如く赤いMS)で拳で語り合ったり、一国家の元首としては暴走が過ぎるきらいがありますが、それがシャアというお人、何でも出来るし、大人としての分もわきまえてる癖に、ことアムロと※7ララァの話になると子供になってしまう。本当にこの二人の事が好きなんですね~と戦争のお話なのに、不謹慎ながらどこかしら微笑ましい気分になってしまいました。

サイコフレームの情報をアムロに送ったのは、対等な条件で戦って勝利しなければ、シャアのプライドが許さなかったというのも、もちろんあると思いますが、彼は政治家として、延いてはジオン総帥としての自身の立場に嫌気が差していた様子、シャアは※8暴走する自分とネオジオンを止めさせるべく、あえて敵に塩を送る様な真似をしたのかも‥。自身とその父ジオンを信奉する者達を道連れに、歴史の表舞台から自ら降りようとしている様にも見えました。

そして終幕へと続く、物語のクライマックス、アムロの台詞「νガンダムは伊達じゃない!」より先、伊達じゃないνガンダムの超性能とアムロの奮闘、共鳴し合う人々の意志が絡み合い、人知を超えた奇跡を起こします。SFの枠を越えたとんでも展開でありながら、大きな感動を呼ぶこと間違い無し?

主題歌「BEYOND THE TIME ~メビウスの宇宙を越えて~」は90年代に一世を風靡した時の人、小室哲哉さんが作曲。作家でもある小室みつ子さんの綴る歌詞共々、本作との高い親和性が感じられる曲ですが、最後のフェードアウトがかなり残念。物語が物語なだけにしっかりとピリオドを打って欲しかったです。

劇中音楽は作曲家の三枝成彰氏によるもの。悲壮感の中にも勇ましさが感じられる荘厳なメインタイトルそしてSALLY、最高評価を与えたい。カッコ良過ぎる!

夢を忘れた古い地球人に向けた、熱いメッセージが込められた作品でした。


※1:本作品公開後、20年以上の歳月を経て発表された「機動戦士ガンダムUC」と区別する為、便宜上こう呼ばせて頂きました。公式用語ではありせん。

※2:地球から独立を試みた宇宙の民が起こした戦争。この戦争で人類は約半数の人口を失ったという事になっている。

※3:直感や洞察に優れたエスパーみたいな人達。たまに未来予知とかも出来る。スターウォーズのジェダイみたい? 新人類とも‥。

※4:モビルスーツと読む。全高20メートル前後の人型マシン。ガンダムシリーズでは兵士達がこれに乗って戦うのがお約束。よく動くし兵器としての威力も圧倒的。でもコスト的に非常に高そう。ジャンプして着地したら背骨折るとか言ってはいけない(汗)

※5:人の脳波を感知して縦横無尽に飛び回る小型飛翔砲台。ニュータイプは一度に沢山コントロールして四方八方から目標を攻撃する事が出来る。一般人にはほぼ回避不能。νガンダムのはIフィールド(バリア)も張れる。超強い兵器。

※6:機体に組み込む事で操縦者の意志を汲み取り、ロボの反応速度を増大させたり、超常現象を起こしたりする不思議テクノロジーの産物。生身の人間が身に付けているだけでも効果あり。原理は不明。

※7:一年戦争末期に戦場に現れたインド系の顔立ちのニュータイプの少女。アムロとシャアは二人ともこの人が好き。

※8:小説版「機動戦士ガンダム ハイストリーマー」では似たニュアンスの記述があるそう。でもそれはそれ、この映画はこの映画としてみるのが妥当でしょう。いつか読みたい‥。

ガンダムは有名な作品ですが、初めて見る人にもわかりやすい様にいつもより注釈多めになってしまいました。ご容赦を。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 23
ネタバレ

nyaro さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

だめんずシャアはマザコンだった。最高に面白かったです。

 ハサウェイを楽しむにはやはり逆シャアをしっかりと見ておくべきだとろうと十数年ぶりに再視聴しました。結構肝心なポイントを見てませんでした。

 戦争という国家間の問題、巨大な歴史の中での個人の小ささ、戦争の悲惨さといったテーマから始まった宇宙世紀ものは結局個人の愛憎で終わりを迎えました。
 世界系はエヴァからというのが定説ですが、個人と世界の関係でいえば本作で描かれていましたね。最後のサイコフレームに理屈はないし、見ている側の判断にゆだねるオープンエンディングでした。

 1988年という年に作成された本作のテーマが非常に個人的な問題に帰結したのは、アニメ史として少し再評価する必要があるかもしれません。
 
 で、肝心の面白さですが、いやー面白かったです。最高です。こんなに面白いと思いませんでした。2時間の枠の中で様々なキャラが交錯して、それでいてシャアのたくらみとそれを阻止する戦いが、きっちり描かれていました。νガンダムのカラーリングもフィンファンネルもカッコいいし。

 チェーンのキュロットスカートの表現にすごいこだわりを感じました。何のフェチでしょうか?
 
 時折カットがはいるミライがいいんですよね。昔の仲間であり夫と息子が当事者です。そのミライが地球にいて何を考えるか。宇宙の戦いばかりの中で、ミライを表現したのはいい演出でした。


以下、シャア、アムロ、ハサウェイについてです。ちょっと長めです。

{netabare} シャアについて
 シャアはララァは母だと言い切っていました。そして周囲からはあの男はロリコンだ、とも。シャアを見ていると彼は切実に女性を必要としているんですね。だから、女性が寄ってくるのでしょう。マザコンで、欲望に素直で、女を自分の食い物にする。いわゆる「だめんず」でした。ナナイの存在価値は胸に顔を埋めることだけでした。

 魂が重力の井戸に引かれる。わかったようなわからないような…結局俺に共感できない奴は死ね、に聞こえます。シャアの思想が過激に走った理由って、やはり「アムロ、俺を分かってくれ」「ララァにもう一度会いたい」「俺を分かってくれる奴以外はいらない」なんですかね。まあ、アムロに対しては愛憎いりまじっている感じでした。

 となるとシャアは本当の意味でのニュータイプではなかったということですね。アムロ、ララァの心の交流がうらやましかったので、俺も混ぜて…ということでしょう。だから、アムロと一緒にサイコフレーム=心の共鳴の光に包まれて安寧を得られたのでしょう。

アムロについて
 本作で主役級でありながら、サブでしたね。むしろチェーンの方がキャラが立っていましたし、非常に魅力的でした。最後のサイコフレームもチェーンのおかげですからね。
 アムロをみるとニュータイプの負の面を背負っていましたね。語るだけ語ってくれましたが、ほとんど内面を見せず解説者、狂言回しでした。
 νガンダムと合わせてとにかく化け物じみた存在で、宇宙時代の新たな人類の形としてのニュータイプの象徴だったアムロは、宇宙に光となって溶け込んでゆきました。
 つまり、本来はここでニュータイプは打ち止め、という意味だった気がします。


ハサウェイについて
 そうでしたね。チェーンを殺ったのはこいつでしたね。許せませんね。クエスも助けられなかったし。だからあんなに暗いのでしょう。なんでこいつは死刑にならないのでしょう?ギギに手が出せないのも女にトラウマがあるせいでしょうか。
 クエスに対しては少年らしい恋心なら理解しますが、ほとんど執着でした。ニュータイプ…ガンダムの主役級の人は惚れやすいですね。語られないけど何かを表現しているのでしょうか。それがないと単なる馬鹿な少年がひっかきまわしただけですよね

 戦場ということで吊り橋効果?命の危機の時の種族保存本能?ギュネイと合わせて考えると心が通じやすいだけに、一般人より惚れやすい?あるいは80年代の時代性ということでしょうか。母と離れたからシャアとおなじくおっぱいが恋しくなった?
{/netabare}


 なお「核の冬」という理論は1980年ごろにカールセーガン等で有名になりました。1988年なら仕方ありませんが、のちにかなり酷評されることになります。アクシズ級の小惑星が落下したときの効果は不明ですが、これはどちらかと言えば小惑星落下で恐竜が滅びたときに生じたものと同様の大気候変動ということかもしれません。

 あと、小惑星が大気圏を通過するときの熱を摩擦と言ってましたね。最近のアニメだと多分みんなちゃんと表現していると思いますが、断熱圧縮ですね。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 12

65.1 4 孤独でSFなアニメランキング4位
<harmony/>(アニメ映画)

2015年11月13日
★★★★☆ 3.7 (271)
1412人が棚に入れました
優しさと倫理が支配するユートピアで、3人の少女は死を選択した。13年後、死ねなかった少女トァンが、人類の最終局面で目撃したものとは?

声優・キャラクター
沢城みゆき、上田麗奈、洲崎綾、榊原良子、大塚明夫、三木眞一郎、チョー、森田順平

TAKARU1996 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

すばらしい新世界-Brave New World-

2015年11月27日記載
さっそくレビューを始めていきたいと思います。
今回は伊藤計劃『ハーモニー』の映画を観てきました。
私の個人的感想を徒然と書いていくので、よろしければご参考までにどうぞ。

まずは世界観説明から
2019年のアメリカ合衆国で暴動が起こりました。
それをきっかけとして全世界で戦争と未知のウィルスが蔓延
人類の多くが死に絶えたそれは「大災禍(ザ・メイルストロム)」という名前で後に語られ、その反動か、従来存在していた政府と言う概念は崩壊し、新たな統治機構「生府(ヴァイガメント)」の下で高度な医療経済社会が築かれる世界が誕生します。
そこに参加する人々自身が社会のために健康・幸福であれと願う世界が構築された、優しい牢獄の世界
これはそんな社会に反抗し続けた少女達の物語なのです…

さて、ここからは私の感想を書いていきたいと思います。
今回、正直言ってこのアニメはレビューを書こうかどうか大変迷いました。
伊藤計劃作品は全部レビューしていこうと、前回の『屍者の帝国』を観てから固く誓ったのですが、この作品を見てからはちょっと決心が揺らいだ位です(笑)
これは自分の個人的価値観のせいでもあるのですが…
まあ、その理由については下記の方で書いていきたいと思います。
なので、フォローも交えて説明していきますが、今回の『ハーモニー』のアニメ映画に好感を持てた方、百合というよりレズ描写、グロ描写が大好きな方、原作未読の方はもしかしたら納得できない部分も多々あるかもしれません。
なので、この先を閲覧するかどうかは自己判断でお願いします。





では、これより説明していきたいと思います。
大まかな理由として
1.理解する事と共感する事は違うという事
2.レズ描写の増加
3.小説から映画への転換と2に伴って起こる原作改変
この3つが挙げられます。

まず、1から
私は原作既読なのですが、正直に言って、原作を読んだ時は生命主義体制(ライフイズム)もミァハの思想も共感できるものではありませんでした。
何と言うか、ひどく極端なんですね…
生命を社会的公共財として捉える生府(ヴァイガメント)の理念も、ミァハの生命主義(ライフイズム)に対して行うテロ行為も客観的に見たらとても横暴なんですよ。
勝手な考えで人々を動かしているのはどっちも変わらないじゃんと最初に読んだ時は酷く冷めた目で感じていました。
なので、今回の映画で何か心が傾く要因となる物が出てくるか、少し期待して観に行ったんです。
観に行った結果として、私が揺り動かされる事はありませんでした。
むしろ、逆に横暴だと言う自分の考えがさらに強固になった次第です(笑)
うん、やっぱりどっちにも理解は出来るけど共感は出来ない。
しかし、この映画を見てどちらかに共感する人は必ず出てくると思います。
人間の考えは千差万別です。
むしろ当てはまらない自分みたいな奴が異端なのだと思います(笑)
なので、この映画を見てどう感じるか
生府(ヴァイガメント)の理念に共感できるか、はたまた、ミァハの理念に共感できるか、もしくはどちらの意見にも共感できないか自分の眼で見極めてほしい。
その為にもまだ観ていない方は是非、1度は映画館や後に出てくるであろうレンタルなどで観てほしいと私は思いました。

次は2について
単刀直入に言います、原作よりレズ描写が明らかに多いです。
原作では普通だった箇所もレズっぽくなってます。
また、新たに作ったのか、はたまた私が忘れているのか分かりませんが、自分の知らないレズシーンまでありました。
私は随分前に見た某アニメのおかげで、女同士の恋愛に対しては嫌悪感を覚えるまでのトラウマを抱えてしまったので、正直観ててつらかったです…
小説でも百合を1つの土台としてはいるものの、地の文と組み合わせて淡々と表現しているので、そこまで悪寒はしなかったのですが、映像化するとなると恐ろしいですね…改めてそう感じました(笑)
また、グロシーンも結構すごいです。
『屍者の帝国』よりも気持ち悪く感じました、精神的にきます、驚きます、血がドバドバ出ます。
これらが嫌いな人は少し覚悟して観た方がいいでしょう。
ああ、勿論大好きな方はどうぞ期待して観てください。

最後に3について
これがこの映画で1番納得できない部分でした。
1や2については主に私だけの個人的問題なのでいいのですが、この3だけは原作既読の方でも納得できない人は多いかと思います。
端的に説明していきましょう。
まず、説明セリフのオンパレードです。
未読の方はこの映画だけを観て理解できるのか、少し分かりませんね…
あまりにも喋っている場面が多いので、聞き逃すとストーリーが把握できなくなるかもしれないです。
映画として表現するにあたっての工夫があまり感じられないような気がしました。
ただ、小説をそのまま映像化しただけのような…
まあ、これは原作自体が説明の多い小説ですし、演出を吟味した結果なのだとしたらしょうがない事なのでしょう。
次に重要なシーンが結構抜かれています。
最初に上映した『屍者の帝国』も重要なシーンは抜かれていますし、映画では登場していない人物も数多くいました。
しかし、あの映画は再構成と言う形で未読の方にも分かりやすく伝わるよう工夫した結果、牧原亮太郎監督版『屍者の帝国』として生まれ変わったのです。
この点に関してはただ、素直に拍手を送りたいです。
さて、『ハーモニー』の映画はそれとは逆に原作を忠実に作りました。
ただ、その結果、フォローの回りきれていない部分があったように思います。
最初の物体は何なのか?
意識が消失すると言う細かい意味とは?
最後に登場した人物は一体誰なのか?
あんなにキャラクター達が喋っているのに、説明不足な点が多いですからね…
改めて、映画化するにあたっての難しさを感じたような気がします(笑)
まあ、しかし、やはり原作全てを映像化するのは不可能な事
2時間で収めるならば、所々カットしなければいけない箇所もあるかと思いますので、これもまた、しょうがない事でしょう。

しかし、これだけは言わせてください。
ラストシーンを変えたのは流石にどうでしょうか?
原作では霧慧トァンという1人の女性が御冷ミァハという女性の影をある種の執念で追い続け、最終的にはミァハからの独立、明確なトァンという1つの個へと至る物語でした。
しかし、この映画では最初から最後までトァンはミァハの事しか考えていません。
その結果、ミァハという自分に指針を与えてくれた親の如き存在から離れ、前に進んでいくトァンの成長というカタルシスがろくに感じられなかったのが心残りでした。
そして、最後に彼女はミァハに対して自分の答えを出す為にある行為をします。
その行為をした理由となる答えも原作とは変えられ、しかも原作の方が好きだったので、これもまたちょっと心残りでしたね…


以上を持ちまして、個人的感想を終了したいと思います。
ここまで長々とした駄文を読んでくださってありがとうございました。
今回は少し毒の強いレビューとなってしまったので、ちょっと残念です。
しかし、ここで1つ言っておきたいのですが…
この『ハーモニー』映画の全体的出来としては決して悪い訳ではありません。
上手く原作をまとめているなあと感じる部分もありましたし、改変でよかった箇所もありました。
恐らく、この作品は映画と小説、両方見て初めて完成する作品なのだと思います。

「事実は小説よりも奇なり」と言う言葉があります。
現実に起こる出来事は、作られた物語の中で起こる事よりも不思議で面白いものだという意味の諺です。
正直、私自身にとってみればあまり実感のない言葉でした。
その意味についても本当にそうだろうか?と首をかしげている普通の一般的な現代人です。
現実よりも小説の方が面白く感じる時もあるし、そんな考えに至るには、毎日、充実した日々を過ごすしかない。
だが、そんな幸福に溢れた生活などあり得ないと、その言葉を最初に学んだ時は斜に構えた眼で見ていました。
しかし、この映画を見てから、その諺の意味が少しだけ理解出来たような気がします。

よく考えてみると、この諺は決して現実と物語を分けてはいません。
物語は現実と断絶して存在している訳ではない。
確実にそれは読者にも何かしらの影響を与え、その結果、変わらない日常が変化していく人も中にはいます。
「影響」と言う言葉で片付けるにはあまりにも強い力
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んで自殺者が急増するように
坂口安吾の『堕落論』を読んで若者が新たな価値観を植え付けられるように
物語に感化された御冷ミァハから影響を受けた霧慧トァンのように
そして、伊藤計劃という個人の作品に没入している私達のように……
その結果、彼らは、私達はどのような方向へ導かれていくのか?
それは誰にもわかりません、歴史もしくは観ている我々、傍観者が判断するしかない事でしょう。
ただ1つだけ言えるとするならば
その力こそが現実を面白くさせる1つの起爆剤になるのではないかという事

それはこの映画からも同じことが言えます。
あなたは『ハーモニー』を観て、どんな影響を受けるでしょうか?
もしくは何も感じずに終わるでしょうか?
しかとこの目で確かめる為にも、この映画1度は見るべきかと存じます……

ここまで読んでくださってありがとうございました!!

「フィクションには、本には、言葉には、人を殺す事のできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない?」
伊藤計劃『ハーモニー』p.224,早川書房


2016年1月24日追記
いまから語るのは、
〈declaration:calculation〉
〈pls:敗残者の物語〉
〈pls:脱走者の物語〉
〈eql:つまりわたし〉
〈/declaration〉 [ハーモニー]
と言っても、この映画については1年前に概ね語り尽くしましたね…
今作の批評も、今思えば感情に任せて書いた文章でございます。
しかし、よく考えたらそのスタンスは現在の自分と未だに変わっていないというか、未だによく行っている事に書いていて気付きました。
自分の理性的であり合理的な部分を占める成長は、この先「闇」しかないのかもしれません(笑)

しかし、この『ハーモニー』と言う映画
観ていてつくづく考えてしまうのは、社会を構成していく難しさです(ディストピア小説なので当然と言えば、当然の話なんですが)
より良い社会に住みたいと思う事は万人において普遍的な共通性ですが、しかし、その社会的「善政」が万人に良い効果をもたらすとは限らない…
構成員である人々誰もが「善性」であれば、社会は幸せになるのか?
『ハーモニー』と言う作品はそんな問いにも深く言及しているようです(まあ、私が1番好きなキャラはキアンなんですけど(笑))
しかし、社会は無理でも世界なら…
2人ぼっちの世界なら…
-----------------------------------------
彼女が死んでいく間、私は誓った。
天国とまではいわないけれど、できるかぎりここを、この場所を良くしてみせるよ、と。
彼女はそれを聞くと、にっこり微笑んだ。
そうね、天国とはいわないけれど、天国の隅っこくらいまではたどり着きたいわね、と。
それが彼女の最後の言葉だった。
伊藤計劃『The Indifference Engine』「フォックスの葬送」より
-----------------------------------------

さて、前作『屍者の帝国』から始まり、今作で分岐点を迎えた長いプロジェクトは来月の「終わりの始まり」を上映する事によって、遂に終焉を迎えます。
ここまで至る道は1年以上に亘った大変長い物でしたが、何、なんて事ありません。
人間の魂に及んだ解答が1年と少しで解明されたんです、こんなに短い物は無いでしょう…
しかも、どうやら深夜に『屍者の帝国』と『ハーモ二ー』が放送されるそうですね、こんなに嬉しい事は無いでしょう…
私も深夜放送で「終わりの始まり」に至るまでの雄姿をもう1度拝見し、それから最後の戦場、ジョン・ポールとの戦いへ臨みたいと思います。
そして、「伊藤計劃」の全てが揃ったその時はもう1度全体を観るとしましょう、読みましょう!!
「物語…それは死してなお、この世界にあり続ける技術」

-----------------------------------------
さあ、行進しよう、とぼくは穏やかに呼びかけた。
のろまも、せっかちも、思い思いに。
足並みなんてばらばらでかまわない。
のっぽも、ちびも、僕らは歩く。
丘を下って。
人の営み、生活の匂い
それを運ぶ涼やかな風の上方へと。
伊藤計劃『The Indifference Engine』「The Indifference Engine」より
-----------------------------------------

投稿 : 2024/06/01
♥ : 14
ネタバレ

ぽ~か~ふぇいす さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

クオリア論と哲学的ゾンビが題材なんですが映画だけ見ても伝わらないと思います

来週ついに虐殺器官が公開されるようなので
虐殺器官を見に行く前に<harmony/>を見ておこう
なんて考える人がいてもおかしくないので
それに「待った」をかける意味で書いておきます

この作品はProject Itoh3部作の第3作として公開される予定でした
しかし虐殺器官の制作会社であったマングローブが倒産した関係で
順番を前倒ししてこちらが先に公開されることとなりました

屍者の帝国は他の2作品とは関係ない作りとなっていますが
この<harmony/>は虐殺器官の事件が引き金となった「大災禍」
から数十年たった後の話となっており
「大災禍」という単語が当然知っているものとして出てきます

その意味が理解できなくてもそれほど困ることはないので
先にこちらを見ない方がいいというレベルではないのですが
虐殺器官を先に見ることができるのならば
本来予定されていた通りにその順番で見ることをお勧めします

私はこの作品の原作が伊藤計劃の最高傑作であると思っています
しかし同時に映像化にははっきり言って向いていない作品だと思っていました

伊藤計劃の持ち味と言えば細かすぎるほどのディテールです
綿密なディテールによって映像を伴わずにイメージを想起させ
近未来SFの世界の現実には存在しないガジェットを
リアリティを持った存在に昇華する天才でした

映像で伝えるのは大して難しいものでないところを
映像なしでイメージさせるところにそれが生かされているのであって
彼の筆記したものをそのまま映像化しても
単に情報過多なだけの印象で
その情報も画面の中で埋没してしまいました

原作を知っている人はある種の答え合わせをする楽しみがあるかもしれませんが
原作未読であれば物語の本筋から離れた要素は
おそらくほとんど頭に残ることなく進んでいくことでしょう
これはメディアの違いというやつで
小説であることに意義がある部分というのが強いです

屍者の帝国は原作通りであることよりも
映画として面白いことを優先し
<harmony/>の方は原作に忠実であることを優先した
という感じでしょうか?
残念ながら映像作品として面白いのは屍者の帝国の方だったと思います

そしてもう一つ残念なのが
小説全体を包み込むある種の叙述トリックが
まったく理解できるような状態になっていないという点

映画のオープニングとラストの映像は
小説を読んでいれば叙述トリック部分を映像的に表現するための
いわば苦肉の策だったことが読み取れますが
そうでなければ全く何が何だかわからないことでしょう
<harmony/>という題字の</>が示す意味を
映画だけを見て読み取るのは不可能です
結局その部分をうまく表現できなかったために
この作品自体何のために映像化したのか
いまいちよくわからないものになってしましました

このアニメはおすすめですか?と訊かれたら
私は迷わず原作を薦めます
原作を読んだうえでどんなふうに映像化されたのか気になる
そんな人だけにしか薦められない映画になってしまいました

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

映画だけ見た人は物語の意味が理解できないと思うので
ちょっとした解説を載せておきます
映画だけ見てわかるようにできていないので
わからなくて当然なんですけどね

屍者の帝国はスチームパンクな世界を舞台にしたゾンビ映画でしたが
実はこの<harmony/>もある意味でゾンビ映画なんです
{netabare}ただし、この映画に出てくるのは
一般にイメージされるブードゥー教のお化けではなく
哲学的ゾンビというものです

20世紀の終わりごろに流行った哲学論争に
クオリア論というものがあるのをご存知でしょうか?
残念ながら私にはクオリアをきれいに説明できる程の文才がないので
wikipedia先生に頼ることにします

{netabare}簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。

外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達される。すると何らかの質感が経験される。例えば波長700ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、あなたは「赤さ」を感じる。このあなたが感じる「赤さ」がクオリアの一種である。

人が痛みを感じるとき、脳の神経細胞網を走るのは、「痛みの感触そのもの」ではなく電気信号である(活動電位)。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係があるだろうものの、痛みは電気信号や脳の状態とは別のものである。クオリアとは、ここで「痛みの感覚それ自体」にあたるものである。

クオリアは身近な概念でありながら、科学的にはうまく扱えるかどうかがはっきりしていない。この問題は説明のギャップ、「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」などと呼ばれている。現在のところ、クオリアとはどういうものなのか、科学的な「物質」とどういう関係にあるのかという基本的な点に関して、研究者らによる定説はない。現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行われており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、様々な考え方が提出されている。

現在こうした議論は、哲学の側では心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、展開・議論されている。

また科学の側では、神経科学、認知科学といった人間の心を扱う分野を中心にクオリアの問題が議論されている。ただし科学分野では形而上学的な議論を避けるために、意識や気づきの研究として扱われている。{/netabare}

いまいちよくわからないという人が多いと思います
それもそのはず
クオリアが存在するかどうか?
という最低限の段階ですら
偉い学者さんたちが大論争して結論が出ていないので
詳しく知りたい方はちゃんと自分で調べてみてください

このクオリアが存在するのかどうか?
という哲学論争の中で生まれたのが哲学的ゾンビという思考実験です
こちらもWikipediaから

{netabare}哲学的ゾンビ(Neurological Zombie)
脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観測可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。

哲学的ゾンビという言葉は、心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。哲学的ゾンビが実際にいる、と信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず「哲学的ゾンビは存在可能なのか」「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」などが心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。

仮に“哲学的ゾンビが存在する”として、哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。もし区別できたならば、それは哲学的ゾンビではなく行動的ゾンビである。

しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。{/netabare}

つまり哲学的ゾンビというものは
外からは普通の人間と全く変わりないように見え
実際の人間と変わらないように行動するが
クオリアを持っていない存在ということですね

もしもある日突然
世界中のあなた以外の全ての人が哲学的ゾンビになってしまったら
いったいどうなるでしょうか?

答えは簡単
何も変わりません
クオリアを持っているかどうかは外部からは判断がつかないのです

近年人工知能が発達し
2014年にはロシアのコンピュータがチューリングテストを突破しました
これはモニター越しに人工知能や人間と文字だけで会話し
応対していた相手が人間か人工知能か答えさせるテストで
30%以上の人に人間と会話していると錯覚させることに成功しました

哲学的ゾンビというのはこれの究極系と言っても良いでしょう
文字による会話だけではなく人間と同じ肉体を持ち
人間とまったく同じように行動します
感情は持っていませんが、感情表現はできます
あなたの隣にいる人が人間か哲学的ゾンビか
判定する方法はありません

話を物語に戻しましょう

ミァハの一族はチェチェンの奥地にある
外界から隔絶された陸の孤島の中でガラパゴス化し
クオリアを失い哲学的ゾンビとなった一族でした

ミァハがロシア兵に一族を虐殺されレイプされている際に
彼女の中に眠っていたクオリアが覚醒し
哲学的ゾンビから普通の人間へと変化しました

ミァハを調べた学者たちの手によって
脳のクオリアを司る部分が解明され
WatchMeを通じて全人類(一部の少数民族を除く)が
一斉に哲学的ゾンビに変わることになりました

というのが事件の全貌です

生府に所属する人々は
みな哲学的ゾンビへと変わってしまったわけですが
ではそれによって一体何が変化するか?

答えは先ほどと同じ
何も変わりません

生府に所属しない人々は
事件によって生府の人々に変化があったことにさえ気が付かず
クオリアの存在しない哲学的ゾンビと
今まで通りに接していくことでしょう

さてさて、我々が映画を楽しむように
哲学的ゾンビたちも類似品を楽しみます
いえ楽しんでいるように見えます
そんな彼らに人気の物語は
クオリアを持っていた最後の人間
霧慧トァンのWatchMeの記録を通じて
彼女の体験を疑似体験するプログラム
その名は<harmony/>

つまり自分たちが今まで見ていた映画は
哲学的ゾンビのための作品でした
というのがこの作品のオチなわけですね{/netabare}

投稿 : 2024/06/01
♥ : 15
ネタバレ

ハウトゥーバトル さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

感謝を捧げます――

多分もう4、5回は見てます。原作もその度に読み返している気がします。

一応時代設定としては「虐殺器官」の後の時代、なのですが、別に虐殺器官を知らなくても十分に楽しめます。なんなら虐殺器官要素が出てくるのは一瞬ですし、それも丁寧に説明されますので、知らない方でも安心して楽しめます

原作既読済みです。
ゼロ年代SFの歴史を変えたとまで言われる虐殺器官の作者である伊藤計劃先生の2作目、ということで注目もされていましたが、伊藤計劃先生の遺作(屍者の帝国の方を遺作と呼ぶのかは人によりますが)、ということでも注目を浴びた本作。読まないはずもなく。
「アイデンティティの自覚と喪失の発見の描写を具現的に表現しているのすっごいなぁ」と尊敬の眼差しを向けていたのを覚えています。

しかし、と言うべきなのか。
アニメ映画(本作)は小説とはかなり異なります。理由(私推測)はネタバレになるので言いません
起こっている事象は同じなのですが心情が違います。
これを是とするか非とするかで、伊藤計劃先生の真のファンか否かが決まってしまうのかもしれませんが、私は嫌いにはなれませんでした

原作の方が好きな方もいらっしゃるでしょうし、本作の方が好きな方もいらっしゃるでしょうし。見て見ないことには分からない、と言うしか無いです。

個人的には本作を含めて好きです。どちらが、という訳ではありません。が、本作は「完成」されている、と私は思います

主人公の声優はまさかの沢城みゆきさん。少し意外。しかし今となっては沢城みゆきさん以外に選択肢があったのか、と言うぐらいピッタリな役配分だったと思っています。首席は絶対榊原良子さんだと思ってました。榊原良子さんでした。ありがとうございます。開幕斧アツシさんで失神しかけました。声好きぃ

こっから大長文(当社比)です。原作既読前提で進めます
ストーリー
{netabare}
生命主義が基本概念となった社会の逃げ場としてエリートである螺旋監察官となった主人公(トァン)は上司に横領がバレ、日本に戻される。再開した友人(キァン)と食事をしていたが急に自殺。同時に6000人以上が自死を試みたという事件の捜査として心当たりのある場所へ行く。そこは13年前にキァンと3人で自殺を試みた主犯格兼イデオローグ(ミァハ)の家だった。母親から養子ということを聞き、キァンから献体に出されたということを聞いた主人公は父親(ヌァザ)の元教授(佐伯)のもとを訪れ意識について聞かされる。「1週間以内に殺人しなければ死ぬ」と宣言され、バグダッドの研究所の所長(ガブリエル)に意識操作の話を聞き、父親と接触する。その際主人公に接触してきた男(バシロフ)が父親を射殺し瀕死のバシロフを主人公が射殺。最後の手がかりを頼りにチェチェンへ向かい全ての元凶であるミァハと再開する。ミァハが元々意識を持っていなかったがロシア兵に犯され意識を持ったこと、人類を愛した故に人類を「救済」しようとしてること、世界に調和(ハーモニー)をもたらし意識を消そうとしてること、トァンならわかってくれること、全てを知った主人公はミァハを愛したが故にミァハを殺し、世界から意識が消えた。文字を映し出していた白いオブジェクトの前から学生が離れる。

なっが。いやごめんなさい。まじで好きなんです。どこも抜けない。原作とはちょこちょこ違いますが、原作とアニメを含めて愛してる。
なので、アニメ映画として、というより「Harmony/」というコンテンツを愛しています

原作との大きな相違点。感情が違う。
1番違うのは最後。小説では憎悪の感情が大きかったですが、本作では愛の感情が全てです。解釈、と呼べなくもないですが、これは個人的には監督が本作の主題を読み解き回答しようとした、だと思っています
意識や感情を無くそうとするミァハはトァンの感情によって殺されます。これが対比となり思想(感情)の矛盾や生命の意義の疑念を意味したりするのですが、恐らく監督はこの感情は憎悪であるべきでは無い、と考えたのでしょう。人を愛し人を慈しみ人を敬う社会を憎悪したミァハを殺すのは同じ憎悪でなく、同じ志を持つトァンという少女の愛であるべきだと。皮肉や風刺という意味も幾分かあるかもしれませんが、純粋に愛を知ったミァハの超個人的な傲慢な調和に対して、トァンの超個人的な傲慢な殺害がなんとも...美しいのです。もちろん復讐も個人的な欲です。が、「自分が愛した少女のままでいて欲しいから」という理由で愛した人を殺すのです。これ以上の傲慢があるでしょうか。
言語化しにくいです。
伊藤計劃先生は本作で「答えは出なかった」と言いました。答えのひとつとして本作は、監督は示したかったのではないでしょうか。

あとキァンの有無(というと大袈裟ですが)です。原作ではキァンとヌァザの復讐としてミァハに二発打ち込んでいます。しかし、正直2人でご飯すら食べた事のない友人を殺され、(生かしてくれた事を本気で感謝している友人であることには間違いないでしょうし、友人を殺したということに腹を立てるのは十分にわかるのですが、)脳内で何回も殺したいと思うほどですかね。私はどうにも「ミァハを止めたい」から行ったように思えるんですよね。

それにわざわざキァンだけをトァンの目の前で殺し、トァンを生かし「ここに来るならトァンだと思ったよ」と発言したのと、かつて同じ憎悪を共有してたのにも関わらずトァンの復讐の憎悪を予期・感じ取れなかったのとは辻褄が合わないような気がします。なのでトァンを生かし、何もかもを予期していたとしたら、ミァハもトァンに殺されたかったのではないかな、という私の推測。

これらを総合すると、ミァハはトァンに愛を持って殺されるために仕組んだのでは無いか、という私なりの解釈です。それをこの作品、監督、制作陣は映像化してくれました。伊藤計劃先生が許してくれるかどうか分かりませんが、私はHarmony/という作品は考えながら解釈を通してようやく「完成」すると思ってます。故に私は私の中の「完成品」をアニメ映画として見ることができて非常に嬉しいのです。

はい。これが終盤について。あとの違いはこの終盤への微調整と表現方法と尺関係ですかね

表現方法が当然ながらアニメと小説だと違います。
小説の方は感情を追体験できるテキスト、という感じで淡々としている印象ですが、アニメではその場面場面が鮮明に映像化されているため、出ている感情の印象が異なるというのが割と多々。キァンについて(は先程と繋がっていますが、 )キァンに対するイメージの過度な上昇を避けるために主人公が無感情、ヌァザの死やインターポールの殺害に対して感情を出しているようなカット、ガブリエルの口調が嫌味たらしく聞こえる、首席の激励時なにか後悔を感じる、などなど。
これこそ本当に解釈の域なので個人の持つ印象と違ったり同じだったりしますが、チリツモ。ちょくちょく違えば全然違うように受け取れるかも知れません。

恐らく表現方法の差ということでは本当のラスト。制服を着た学生が白いマシーンから離れるシーン。非常に神秘的かつ大胆なシーンですね。原作を読んでいれば、「なるほど。多分このマシーンはライブラリ的なものであり、ここは色々なデータが残っている場所なんだな」とわかるのでしょうが、これ初見じゃ絶対理解できないですよね。あと、まわりに全然人がいない、というのも意識がない人類の合理性が垣間見えて好きです。

映画見て「あれ!?キスしてたっけ!?」となって急いで原作確認したのは私だけじゃないはず。まぁラストが違うんでそりゃそうか、て感じですが。

ウーヴェが消されました。正確に言うと最初からいるのですが、原作の立場(ポジション)としては消されたと言って良いでしょう。泣きました。まぁ確かにラストを愛の話にするならウーヴェで共感性を得て人間意志を、自分自身を重視するひとつのきっかけとなるような場面は、いらないっちゃ要らないのかな。

公園でのジャングルジムの下り、結構世界観を説明するのに優秀なシーンだと思うんですけどね。なんか無慈悲に消されちゃった...
代わりに名刺が非常に重要視されましたね。まだプライベートが残ってた時代の自己を証明する手軽な社会的道具であった名刺。3人の思想を繋ぐ具体的象徴である名刺。ヌァザを殺したヴァシロフが持ち、愛用していた名刺。トァンとミァハの最後の出会いの合図となる名刺。世界観を説明するのには十分すぎる意味を持ってたような気がします。
名刺という一般的なものにここまで意味を持たせるのは素晴らしいというしかありません。
{/netabare}

お気に入りです。ですが、アニメ単体という訳ではなく、「ハーモニーというコンテンツ」がお気に入りなのであって原作未読者にいきなり本作(アニメ)をオススメしません。見るか迷っている方は是非原作を読んでから。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 6
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