手紙で心温まるなアニメ映画ランキング 2

あにこれの全ユーザーがアニメ映画の手紙で心温まるな成分を投票してランキングにしました!
ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年06月02日の時点で一番の手紙で心温まるなアニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

91.1 1 手紙で心温まるなアニメランキング1位
劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン(アニメ映画)

2020年9月18日
★★★★★ 4.4 (563)
2631人が棚に入れました
――あいしてるってなんですか?かつて自分に愛を教え、与えようとしてくれた、大切な人。会いたくても会えない。永遠に。手を離してしまった、大切な大切なあの人。代筆業に従事する彼女の名は、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」。人々に深い、深い傷を負わせた戦争が終結して数年が経った。世界が少しずつ平穏を取り戻し、新しい技術の開発によって生活は変わり、人々が前を向いて進んでいこうとしているとき。ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、大切な人への想いを抱えながら、その人がいない、この世界で生きていこうとしていた。そんなある日、一通の手紙が見つかる……。

声優・キャラクター
石川由依、浪川大輔
ネタバレ

ぺー さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

年賀状でも書こっかなぁ

sincerely 
①副詞 心から 本当に
②アニメOPに使用されたTRUEの楽曲
③{netabare}劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン 冒頭の一語{/netabare}

TV本編を想起させる仕掛けが冒頭からてんこ盛りでより楽しむためには本編必須。ただし厳密ではなく可能であればレベル。一見さんいらっしゃい指数でなら『外伝』>『劇場版』になります。


「届かなくていい手紙なんてないのです」

 そして

「私は…愛を知りたいのです」


作品を紐解くキーワードにして二つの軸。
前者は人の想いは届いて初めてかたちになるという大切な概念。ドールや携わった人たちとの物語。
後者は兵器として育てられた少女が人間性を獲得していく過程。少佐とヴァイオレットの私的な物語。

ギルベルト少佐の残した「心から…あいしてる」の言葉。復員後のC.H郵便社にてカトレアが発したシンプルな一言に反応して自動手記人形の仕事をすると申し出たことが全ての始まりです。道具として利用価値がないなら自分を捨ててくれとまで言った少女が申し出たのです。
それだけ強い執着を持っていた言葉「あいしてる」。かくして愛を知るために始めた仕事を通じてもう一つの軸である人の想いを届ける素晴らしさを学んでいく過程がTV本編でした。

「届かなくていい手紙なんてない」裏を返せば「人の想いは必ず届けなければならない」です。

ターニングポイント{netabare}(己のやってきた重大さに気づいた第9話){/netabare}以降どう物語は進行していくかが肝でした。それでターニングポイントの次回話で選択したのは{netabare}(思いっきり手紙を届ける話。かつ神回と言われる10話と){/netabare}少佐との話は遠ざかる方向へ。

「届かなくていい手紙なんてないのです」

「私は…愛を知りたいのです」

前者はひととおり形をつけ後者はおあずけ。あくまで彼女の周囲の人たち“が”想いを伝えることが出来たのでした。TV本編を通して自分の想いをまがりなりにも形作れるように成長してきたヴァイオレットがどうにかして“自分の想いを届けられるのか”。残された宿題でした。

なお「届かなくていい手紙なんてないのです」を磨き上げたものが外伝です。さあ残るは↓


「私は…愛を知りたいのです」


前置きが長くなりました。この残された宿題への回答がなされ物語が完結するのがこの劇場版です。

TV本編でスッキリしなかったかもしれないそこのあなた! 諸悪の根源が消えていくことでしょう。
TV本編を称賛して止まないそこのあなた!是非もなし、、、まずは試されよです。

自分はスッキリしなかった側でした。結果は申し上げた通り。圧巻の140分です。




鑑賞前の方これ以降はやめときましょう↓

※ネタバレ 備忘録的なもの(長い)


■切っても切れぬTV本編 ネタバレ度:軽

{netabare}冒頭画面に浮かぶ“sincerely"の文字。間髪入れずに見覚えのあるあのお屋敷と意外なあの子。涙腺を蛇口に例えるならこの時点で開栓して戻れなくなった方もいらっしゃるのでは?
そんな一つの文字だったりあのエピソードを彷彿させる冒頭もTV本編へと意識を持ってく仕掛け。アン孫が手放した手紙が風で飛ばされて野山や街を駆け抜ける演出は第1話ヴァイオレットが手放した手紙が飛ばされていくのと同じです。

あの時と違うのは携わるメンバーです。エンドロールでは原画と美術監督に物故者を確認。サポーティングスタッフは言わずもがな。原画すら焼けてほぼほぼゼロスタートだったこの映画の冒頭を飾ったのが2018年TV本編を意識した演出だったことについて制作会社のプライドと矜持を感じます。{/netabare}


■あん時の主題歌の位置付け ネタバレ度:軽

{netabare}『sincerely』+○○○○○
○○○○○+『みちしるべ』

○に入るのは“あいしてる”。「心からあいしてる」少佐の言葉がなければ少女は生きる支えを失ってたでしょう。全てはここから始まりヴァイオレットの手紙の一文「あいしてるはみちしるべになりました」に繋がります。映画観てTVのOPとEDあらためて聴いたら鳥肌もんでした。{/netabare}


■3つの疑問 ネタバレ度:重

もやっとしかけて咀嚼して納得したものもいくつかありますよ。

1.{netabare}少佐はなんで拒否るの?会ってやれよ!{/netabare}

{netabare}そりゃ私たちはヴァイオレットの気持ちを知ってるから少佐がヘタレてるようにしか見えないアレ。
恐らく半々。何かっていうと、ギルベルトは生き別れた後のヴァイオレットの歩みを知らない。上官と兵器の間柄の他を知らず「自由になりなさい」「普通の少女としてその名に合う女性になってほしい」と言った手前、自分が障害となるわけにはいかないという考え方には理があるように思えます。
それと、ここは彼にとってやっと見つけた安住の地。自己都合と侮るなかれ、全てを失って自分には何もないとすら思ってる男の弱さよ。仕事も順調そうな前途洋々の娘を自分の我が儘で留めるきっかけを作ってはいけないと思ってもこれまた不思議ではないかと。{/netabare}

2.{netabare}なんで拒否られて帰ろうとするんだろう?{/netabare}

{netabare}だってそのためだけに生きてきたぐらいの娘さんですよ。そんな簡単に諦められるものかしら?
これ根深いかもしれません。「あいしてる」の意味をまだ自分が理解できてないと思ってそう。少佐の拒否は自分がうまく想いを伝えられてないからと自分の所為にしてたのなら哀しいこと。まるで虐待を受けた幼子のようなメンタリティ。ただこれは帰還兵のPTSDのようなものというか、感情を知らないところからスタートした彼女の出自を考えれば納得できる心の動きだったように思えます。{/netabare}

3.{netabare}なんで少佐は翻意して駆けだしたんだろう?{/netabare}

{netabare}兄と手紙。家は兄が継ぐから「自分の人生を生きろ」と。まんま少佐がヴァイオレットに言ったことと同じでしたね。ここで少女があの頃と違う彼女であることを察したのかもしれない。家の縛りから開放されたのもあるでしょう。こうみると自ら人生を切り開く選択肢を奪われてた者同士という意味でどこか通じ合う二人だったのかもしれませんね。
そしてホッジンスやヴァイオレットの直接交渉にも勝る手紙の威力。この作品だからこそです。{/netabare}


■ピリオドとして代筆業 ネタバレ度:重

{netabare}昔々あるところに…の昔語り。こんな時代がありましたよね、のピリオドの捉え方が秀逸。電話の登場によって我々が辿った史実をなぞるかのような展開に、あたかもヴァイオレットの時代が現実にあったような気にさせられます。

A:手紙
B:電話

ユリスがリュカに想いを伝えるには手紙では間に合わなかったでしょう。アイリスの言葉を借りてBがAに取って代わる時代の転換点を明示してました。
具体的には代筆業の衰退です。そのことで失われるもの。想いを汲み取って言葉に変換する担い手がいなくなること。誰しもが言語化の術に長けているわけではありませんので需要がゼロになることはありません。それでも即時性のメリットが勝り、より便利な方に流れるのは仕方のないこと。
そうやってオワコン化していく自動手記人形の横で手紙というツールだけが残ります。とある場所で手紙の文化が残ったのは即時性以上に一呼吸置いて言葉を紡ぐ必要のある手紙の本質みたいなのを島民が共有してたからでしょうね。
こういう栄枯盛衰や無常感を「もののあはれ」と言うのでしょう。我々の情感に直接訴えてきます。{/netabare}


■「私は…愛を知りたいのです」 ネタバレ度:重

{netabare}そもそも“あいしてる”の意味を知るための代筆業。それを知ってさらに自分が届けたい相手に届いた以上仕事を続ける必要はないですよね。

 言葉はいつでも 語るでもなくて
 そこにあるばかり つのるばかり

自暴自棄な兄に向けた妹の手紙代筆から始まり、王女の恋文、歌姫の曲の作詞、残される娘への手紙ほかあらゆる人のあらゆる場面の、言葉にならない言葉を拾い上げてきた逸材。カトレアさん風に言えば“行間を読み取ってきた”手練手管に秀でたヴァイオレットちゃんです。
そんな子がギルベルトを前にして何も言えなくなるクライマックスが一番グッときました。あー…だからこの物語は手紙だったんだという説得力があったのです。{/netabare}

{netabare}そしてあえて過去を振り返ってみる。人間兵器として人の感情を知らずに育った少女の人間性を取り戻す物語として。またはTV本編ですっきりしなかった帰還兵の心の再生について。

結論は出たと思います。罪の意識を自覚したあの第9話から繋がるであろう悔恨と贖罪意識の落としどころ。そしてぶっ壊れていた己自身の精神の構築。戦後にヴァイオレットが重ねてきた年月は意味をなすものだったのだろうか?

彼女は人間性を獲得してきました。これはTV本編でもさんざんぱら描かれてきたこと。
そして劇場版で彼女は人を残すこととなりました。個別で直接救われた者も多いが、ヴァイオレットのまいた種が人々の想いを繋げ多くの人たちの心を豊かにしていっただろうことは想像に難くありません。繋がりに繋がってあのアンの孫娘が登場したことが象徴的だったかと。
たしかに彼女は数多くの兵士を殺めてきました。その悔恨と贖罪は心に留めながら、それ以上に人を救ったであろう事実が垣間見えただけで充分なのかなと思いました。

そして時代は流れドールも絶えて久しい頃合い。
『外伝』にてほどけない三つ編みに例えられた三者(①送り手②受け手③繋ぎ手であるドール&配達人)の繋ぎ手を見守るかのように、これからも切手となって想いを届け続けることになるのでしょう。{/netabare}






■だがしかしですよ ネタバレ度:軽

そもそもでこればっかりはどうしようもないのだけど…
{netabare}ギルベルトって兄の泥を被らざるを得ない家庭事情で鬱屈していて、本来はやりたかった仕事(たぶん教師!?)を諦めて軍に進んだ、で合ってます?
それで軍属ながら引き取った少女に読み書きそろばんを教えていたわけですよ。擬似的であれ教師と生徒の構図です。生活指導/道徳の授業も当然のようにしてました。
その結果、教え子に愛情を覚え死に際に「愛してる」と涙流してしまうやつですよ。別に愛に歳の差なんてと思いますから推定14~15歳に惚れてもかまわないんですが、熱血指導の情熱が愛情に転換してしまったヤバめな事案という思いが此度の“教師になりたかったかもしれない設定”で強くなりました。

けれども全力で見て見ぬふりをすることにしよう。

{netabare}ギルベルトってヴァイオレットちゃんが惚れるほどのタマか? …うーん、、悩むなぁ…{/netabare}

多分に嫉妬含みの引っ掛かりを理由に『外伝』のほうに自分は軍配が上がりそうです。例によって二つの軸の片っ方のお話つまり“少佐色が薄い”物語ですから。{/netabare}



視聴時期:2020年9月 

-------

2020.09.30 初稿
2021.08.09 修正

投稿 : 2024/06/01
♥ : 69
ネタバレ

シン☆ジ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

最後の手紙(2回目感想を追記)

下手な言葉を使うとネタバレしそうなので、ポスターのキャッチコピーを一部引用しました^^;

 TV版本編の初放送は2018年で初視聴も同時期でした。。

===劇場版:初見での感想===
 2020年9月19日(土)、劇場版本編を観覧。
 (★舞台挨拶ライブビューイング付き)

全国の劇場で舞台挨拶が見られるとのことで、
予定を繰り上げて、あわてて劇場に行きました。

でも、TV版本編を少しでも復習してから、行くべきでした。。
2年の月日は自分にはちょっと長かった。。
ヴァイオレットへの愛情は忘れようがない。
そんな変な自信を持っていましたが、いかんせん物語の詳細をとどめておけるほどの記憶力は、現在の自分には持ち合わせていない事を突き付けられました。。トホホ

いよいよ物語の主人公、ヴァイオレット本人のストーリーが幕を開けます・・

■{netabare}
 ヴァイオレットには幸せになってもらわないと・・
 ひょっとして、社長とくっつくのかなぁ・・

なんて思ってたら、

 まさかと思うけど、少佐の兄?

と思ってしまうような展開でした。。

でもその上を行く、まさか・・・
少佐が生きていたとは、ね。
TV版完走時は死んだと思ってたから、
外伝も感動したんだけど。。

途中辺りから、

 え。ひょっとして生きてる?

てな展開。
ぶっちゃけ、ダマされた、という思いもw

いや・・・でも・・
これで、よかった。

思えばTV版を観ている時、実は少佐は生きていたというストーリーを妄想していたんでした。ちょっと忘れてました。
ヴァイオレットが幸せになる道は、それしかないですよね。

でもでも・・
少佐の生存がわかるシーンの感動が薄いせいか、
その分、ラストに至るまで延ばす延ばすw

 なんだよ、少佐・・
 ナニ自虐的になってんだ、そういうキャラ?
 てめ、ヴァイオレットを泣かすんじゃねーw
 身元を引き受けた責任と、
 何より「愛してる」と言った責任、
 男ならキッチリとりやがれw

てな展開は、個人的にはストレス展開でした。
いやわかりますよ。
その後の感動のための前フリだろうってことは。

でも、それならそれなりの想いの爆発に共感したかった。。
少佐が走り出した時って、なんか自分的には動機づけが弱かったんですよね。。
ドア越しにしゃべった時以上の動機が感じられなかったというか。。
だから、ラストの感動シーンも、ちょっとモヤモヤして感情移入しきれなかった。

さすがに、ラストシーンは感動的でした。
ただ、あんな遠い岸からのあんな掠れたような声が聞こえるのか、とか
ヴァイオレットは義手重いはずなのに泳げるの、とか
細かいところが気になって、これまた感動ボルテージ上昇の阻害要因となってしまいました。。トホホ

躊躇なく海に飛び込んだヴァイオレット、男っぽい。
惚れ直しそうw

そんな彼女も、ようやく・・本当にようやく、たどり着いた少佐の胸では・・ただただ・・泣き崩れるしかなく・・


さて・・
ここで触れずにはおけませんね。
ツイッターにも出ています。
舞台挨拶での石立監督の言葉。

 ~{netabare}
  ヴァイオレットが書いた手紙には、
  セリフに出なかった一文がある。
  これが、少佐をヴァイオレットの元に
  駈け出させた。。

  というもの。

  なんでしょうね。。
  気になる。。
  「あいしてる」かな。
  でもそれはドア越しに言ってたような。

  てかこれ、セリフにしてくれれば
  もっともっと感動できただろうに。。
 {/netabare}~

にしても、ポスター、いい絵ですね♪
ネタバレしそうですがw

でも・・

ああ・・完結してしまった><
(ホントはこれをタイトルに書きたかった)

もっと引き延ばして何作か出してくれてから、こういう結末になるんだと思ってました・・
原作はどうなんでしょう・・

未来からヴァイオレットを過去の人物として振り返る作りは、個人的にはあまり好きとは言えず、どうせなら子孫も見せて欲しかったけど・・

エンドロール後の1ショットは、救われました。
これで、よしとしましょう。

過去だからお幸せに、と言えないのはもどかしい。

ならば・・

良かったね、ヴァイオレット。

{/netabare}■

そう、エンドロールは最後まで、観ないとですね♪

ちなみに劇場で配布された、入場者プレゼントは
~{netabare}「ヴァイオレット・エヴァーガーデン if」{/netabare}~でした。

あ、3種類の短編小説ランダム配布って公式に書いてた。。
急いては事を仕損じる。
ゆっくり読もう。。


===劇場版:二回目の感想===

京アニはご存知のとおり寄付金を受け取ってくれません。
感謝の心、支援の心を込めて、再度劇場へ行きました。
TV版を観直した後、今度は目線を変えて。

その目線とは、ヴァイオレットであり、ギルベルト。
初見ではどうしてもホッジンズ社長というか保護者目線になってしまいましたが、この物語は、二人の物語であり、その目線で観るのは必定かと。

~{netabare}
まずは、1期を再視聴したことで1期を思い出させるシーンがとても胸に響きました。手紙が空を舞うシーンとか主要エピソードとか。
特にアンのエピソードは一番涙を堪えるのが大変だったかも。

感激は初見ほどではありませんでしたが、ギルベルトの気持ちが何となく理解できました。
愛するが故、自分はヴァイオレットにふさわしくない、と。
これは初見でもわかってはいましたが、わかって1期を観なおすと、彼はヴァイオレットを預かり戦場に送ったことをとても後悔していて、結果ヴァイオレットの両腕を失わせ、たとえ自分が生き永らえたとしても、自分の愛を貫くことは資格がないと考えても仕方がないかもしれない、と思えました。
彼がヴァイオレットに会えないと言ったのも、会ってしまえばその信念も揺らぎかねないからで、つまりそれだけヴァイオレットを愛しているからに他なりません。

ヴァイオレット目線で観ると・・・
心からの願いが叶えられないと知り、本当に切なくつらい日々を過ごして。
それが会えるかも知れないとわかり、本当にうれしくて。
でもやはり会えないことになり、とても悲しくて。
それでも生きていてくれたことが、やはりうれしくて。
最後に追いかけてきてくれたことが、最高にうれしくて。
この目線で観るのはとても切ない・・・

むしろ、ラブコメ風に・・・
「このまま会えないまま、どっちか結婚して、その後に会うことになってたらどうするのよ!ギルベルトおおおー!!」
と罵ってあげても良かったのにww

でも、やはりこれは二人の愛のストーリー。
これで、良かった・・

最後に、手紙の一文の考察を。
~{netabare}
映画の冒頭では、sincerelyの文字が出ます。
意味は「心から」かと。

また本シリーズは物語の最後にタイトルが出ます。
本劇場版では「あいしてる」。
つまり・・・
『心から 愛しています』
これが、ヴァイオレットからの、愛する人への最後の手紙の、最後の一文だったのではないでしょうか。

振り返ってみると、ヴァイオレットはドア越しでは「愛してる」は言っていません。彼はその事実を知らず、ただ父親のように慕っているものと勘違いしていたのかも知れません。
だから、この一言が、彼をヴァイオレットの元へ駆け出させたのだと、私は思っています。
{/netabare}~

いつか、ネタ明かしがされる事を期待します。


蛇足ではありますが・・
病院で亡くなる男の子のシーン・・
音がデカ過ぎて感情移入の邪魔になる思いでした。
もっと静かな曲か、むしろセリフのみでも良かったかと。
{/netabare}~

はぁ・・切なくて息が詰まりそう。
この劇場版と、1期・Extra・外伝で無限ループに陥りそうです・・

 制作:京都アニメーション
 監督:石立太一
 脚本:吉田玲子

 2020/09/19 閉館直前のMOVIX利府にて初視聴。
 2020/10/05 同じ映画館にて二回目視聴。


■余談
劇場内で完全新作ARIAの予告編が流れてました・・脚本が同じく吉田さんかな?と思ったら・・

 総監督・脚本:佐藤順一
 監督:名取孝浩
 アニメーション制作:J.C.STAFF

ほへ・・
ストレスフリーの世界でホッとしたい・・
違う作品の話ですみません^^;

投稿 : 2024/06/01
♥ : 57
ネタバレ

oneandonly さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

みちしるべのその先が描かれた完結編

世界観:8
ストーリー:8
リアリティ:5
キャラクター:7
情感:7
合計:35

<あらすじ>
代筆業に従事する彼女の名は、〈ヴァイオレット・エヴァーガーデン〉。
幼い頃から兵士として戦い、心を育む機会が与えられなかった彼女は、
大切な上官〈ギルベルト・ブーゲンビリア〉が残した言葉が理解できなかった。
──心から、愛してる。
人々に深い傷を負わせた戦争が終結して数年。
新しい技術の開発によって生活は変わり、人々は前を向いて進んでいこうとしていた。
しかし、ヴァイオレットはどこかでギルベルトが生きていることを信じ、ただ彼を想う日々を過ごす。
──親愛なるギルベルト少佐。また今日も少佐のことを思い出してしまいました。
ヴァイオレットの強い願いは、静かに夜の闇に溶けていく。
(公式サイトより抜粋)


TV版は最後までヴァイオレットの戦闘能力に馴染めなかった作品でしたが、5話や10話等、お気に入りの回もありました。本劇場版については予告PVを見て、10話に関するストーリーもあることがわかったため、やはり劇場で見なければと思い、隙間時間を作って何とか見ることができました。
休日ながら朝の早い時間帯にもかかわらず結構人が入っていて、時間帯のせいかもしれませんが、私よりも年配の方が多い印象でした。

さて、世界観ですが、現実世界とは別の世界ですが、電話がまだ普及する前の、現実世界でいう19世紀末~20世紀初頭くらいが舞台となっています(技術的な点ではヴァイオレットの義手はその精巧すぎるが)。
今回は、TV版10話の少女アンの孫デイジーを中心に物語が始まります(PVでアンと思った人物はその孫で、アンの葬式が終わった時点)。予想外であり、その視点で、ヴァイオレットたちの働いていた郵便社が歴史を残すものとして博物館となっていたり、世界観をより俯瞰して見せる手法で、とても良かったと思います。
作画や背景も流石は京アニと思わせられました。音楽は、挿入歌の「みちしるべ」、TV放映時は微妙な使われ方もありましたが、今回は一番のタイミングでハマっていたと思います。改めて良い曲と思えました。

ストーリーは{netabare}ヴァイオレット軸で、消息不明であったギルベルト少佐と再会すること(ギルベルトの母親の墓参り、病気の子供(ユリス)の手紙を代筆、その子の危篤等を挟みつつ、郵便社を辞めたあと消息不明のヴァイオレットの結末)が中心となっています。ギルベルトが再会を望まなかった理由も私は納得できましたし(なぜ武器として使ったのかはわからないが)、デイジー視点の物語も構成のメリハリに繋がっていました。そして最後に本作のキーワードである「あいしてる。」で締める。完結作として美しい仕上がりでした。{/netabare}

さて、世界観とストーリーは高評価となるところ、大きく足を引っ張ったのがリアリティで、一言で言えば「過剰演出」です。TV版の7話だったかで、水面を歩いたりしているので、今更指摘するまでもなく、この作品の色と整理されているのかもしれませんが、私はやはり気になってしまいました。
細かい点もありますがそれは省略して、下記3点だけ指摘しておきます。

{netabare}・構図重視の会話
市長と会った時の会話、大雨の中でのジルベール先生宅(前と中)での会話、ブドウ?畑でのディートフリート(兄)とギルベルトの会話、船と陸での会話(?)などで、その距離でこの声量では会話が成立しないだろうと思われて、気になってしまいました。
アニメは絵に声をあてるので、画になる美しい構図が優先されることが往々にしてあるのでしょうし、今まで気にならなかった他の作品でも同様な事例が多々あるのでしょうが、本作では若干気になりました。

・ユリス君危篤時の対応
人が亡くなる時、部外者の同席は憚られるのが普通ではないでしょうか(別の世界なのでそのあたりの慣習も感覚も違うのかもしれませんが)。ユリス君は話せる状態だったので危篤ではないのではないか、とも思われたのがひとつ。また、苦痛を感じている状況の中で、郵便社が突然押しかけていって「親友への手紙書きます」というのは流石におかしいのでは。ヴァイオレット自身が行ったのなら、ユリス君との関係や、まだ人の心が理解しきれていない部分があるのかな?で済みますが、ユリス君に面識のないメンバーでですよ。相当苦しい状態のユリス君に、手紙代筆するから喋ってと言うのは、家族が怒りますって。リュカ君が、ユリス君にとってそこまで大事な友人であるか、というのも説明不足で、違和感ありまくりでした。
自分が死んだ日に渡してほしい、と本人から依頼があったのでその約束を律儀に守ろうとしての行動は理解できなくはないですが、待ってましたとばかりの対応になるので、TPO的にも不安な対応です。さらに、手紙を渡して失礼するならまだしも、居座って一緒に内容を聞いて親の泣く姿を見るってどういう神経なんだろうと思ってしまいました。。
本作一番の感動シーンだったように思いますが、素直に感動できずモヤモヤしてしまいました。

・ギルベルトとの邂逅
ギルベルトとヴァイオレットの邂逅は美しかったですが、これは過剰演出の極みでしたね。まず、船を出航させすぎていて、陸から相当の距離となったところからスタートさせたので、ギルベルトの必死の走りや声が届くのか?というところでの違和感があり、ヴァイオレットが船をダッシュして、そのまま海に飛び込むまではよいかもしれないけど、泳ぐシーンを入れずに浅瀬みたいな場所で再会することになるのですが、背景からのバランスではまだ相当陸から離れた場所なんですよね。
始まりの距離感からして、会うところまでは少なくとも15分以上はかかると思いますし、お互いぼろぼろに疲弊してハーハーゼーゼーですよ(笑)
それを完全に排除した制作者側はある意味割り切ってるよな、と感心した次第です。{/netabare}

キャラクターは{netabare}本編から特段変化はありませんでした。2人がカップルとなって終わりましたが、王子とお姫様(人形)というキャラ造形で、過去に2人はずっと一緒に行動していたのなら、もう少し打ち解けた人間関係も描いてくれればよかったかも。
そういえば、TV版のレビューで書きましたが、やはりギルベルトは生きていました。生きていないと、この物語は終わらせられないのです。{/netabare}

情感については、{netabare}そんなわけで感動しそうな要所の構図に違和感等あったため、期待されたほどには涙が出ませんでした。また、人の亡くなるシーンで泣かせるのも一歩引いて見るタイプなので、押し付けられ感もあり、高評価できませんが、言語外の表現も丁寧でこれ以上は下げられません。{/netabare}

色々書かせていただきましたが、時代を流して見せることによって、変わるものと変わらないものを表現できていたのが特に魅力的でした。
手紙は普段伝えられない心を伝えるものとして有効であるのに、現代ではメールが普及しすぎて若干味気なくなってしまっているように思います。紙ならではの味はあるし、大事に保管すればずっと残るものですね。また、普段なかなか言えない感謝等は伝えられる時に伝えておこうと思わされます。
TV版をそれなりに楽しめた方、心を清めたい方に、おすすめできます。

(参考評価:4.0→修正4.2)
(劇場観賞2020.11)

<2022.5追記>
最近、レンタルで再視聴しまして、改めて良い作品だと思いました。
ブーゲンビリアも含めて、あからさまに悪意を持つキャラクターがおらず、心が重たくなることもありませんし、過剰演出はTV版からブレていない本作の表現と思い、少々ツッコミすぎたかなと反省。
時代が変わり、手段が変わっても、今、伝えるべきこと(気持ち)を伝えることの大事さという普遍的なメッセージ性は強力です。
以上を踏まえて、評価を上方修正しました。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 37

66.9 2 手紙で心温まるなアニメランキング2位
思い出のマーニー(アニメ映画)

2014年7月19日
★★★★☆ 3.8 (339)
1777人が棚に入れました
この世には目に見えない魔法の輪がある。

海辺の村の誰も住んでいない湿っ地(しめっち)屋敷。
心を閉ざした少女・杏奈の前に現れたのは、
青い窓に閉じ込められた金髪の少女・マーニーだった。

「わたしたちのことは秘密よ、永久に。」

杏奈の身に次々と起こる不思議な出来事。
時を越えた舞踏会。告白の森。崖の上のサイロの夜。
ふたりの少女のひと夏の思い出が結ばれるとき、
杏奈は思いがけない“まるごとの愛”に包まれていく。

あの入江で、
わたしはあなたを待っている。
永久に―。

あなたのことが大すき。

声優・キャラクター
高月彩良、有村架純、松嶋菜々子、寺島進、根岸季衣、森山良子、吉行和子、黒木瞳
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

心配性?放任主義? どっちも愛情だ!(既視聴向け)

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 初見でした。100分くらい。現代ファンタジー(?)とミステリー。
 ファンタジーに(?)が付く理由は後述するとして、まずは総評から。

 かなりいい作品でした。傑作には手が掛かりませんが、良作よりは確実に上です。秀作の上位ってところですね。私は、米林監督の前作『借りぐらしのアリエッティ』を良作と位置付けていますから、ワンランクのアップです。好き嫌いでいうとどちらも同じくらい好きですが、作品としては『思い出のマーニー』の方が圧倒的に上だと思います。特に、エンディングの映像と調和した美しさには、強く心を打たれました。
 傑作にしなかった理由は、最後に記載します。


テーマと大まかなストーリーの流れ:{netabare}
 この作品の目的は、主人公アンナが「自分嫌い」と「他人嫌い」を克服することです。ストーリーの流れを簡略化すると、
「オープニング」→「ダンスシーンを含む前半」→「サイロシーンを含む後半」→「謎解き」→「エンディング」です。

 オープニングでは、アンナが抱えている問題、すなわちアンナの「自分嫌い」と「他人嫌い」が描かれます。
 前半では、マーニーとの触れ合いを通して、「自分嫌い」を克服する様子が描かれます。
 後半では、同じくマーニーとの触れ合いを通して、「他人嫌い」を克服する様子が描かれます。
 そして、謎解きと、全てを踏まえたエンディングとなります。

 個々の内容を語る前に、最も重要な事柄を片付けてしまいます。それは、アンナの問題解決をサポートしてくれる人物であり、本作のキーパーソンでもある「マーニーについて」です。
{/netabare}

マーニーとは?:{netabare}
 10歳前後の子供が見る際には、「マーニーおばあちゃんがおばけとなって出て来てくれて、孫のアンナを助けてくれた」という程度で良いと思います。作品内でもセツの夫が繰り返しおばけの話をしていますし、ここに一定の合理性を持たせようとしているのが感じられます。
 つまり、マーニーは「おばけ」だということ。

 この作品のメインターゲットである思春期の子が見るのなら、きちんと読み解けるでしょう。
 初めてマーニーを見たアンナは、「あなた本当に人間?」と聞き、「夢の中に出てきた子にそっくり」だと言っています。そしてその後、サヤカに対して「(マーニーは)私が作り上げた空想の中の女の子」だとネタ晴らしをしています。
 つまり、マーニーは「空想上の友達」だということ。ここが思春期の子が着地すべきところです。


 ただ、ですね。この「空想上の友達」というのが大問題なのです。これは、心理学や精神医学で用いられる用語「イマジナリーフレンド」を直訳したものです。詳しくは、ウィキペディアの「解離性同一性障害(以下、DID)」とその中にある「イマジナリーフレンド(以下、IF)」の項を併読してもらうとして、ここでは便宜上、私のにわか知識を断片的にまとめます。

 IFというのは、主に幼児期の子供が見る「空想上の友達」のことです。幼児が、居もしない友達と遊んでいるとか、壁に向かって話しかけているとかが、おばけ的な話で語られることがあります。ですが、あれはIFとコミュニケーションを取っているに過ぎません。IFは、会話ができたり、視界に写ったり、場合によっては、手をつなげたりもしてしまうそうです。空想の存在であるにもかかわらず、現実感を持ってしまうことがあるのです。
 これは、コミュニケーションを取る機会の少ない一人っ子や第一子に多く見られる現象です。幼児にIFがいること自体は決して悪いことではなく、むしろ、想像力の発達した子供である証でもあります。異常ではなく、正常の範囲内の事柄です。
 多くの場合、この現象は、現実の人間関係を重視していく中で7・8歳くらいまでには消滅します。ですが、ごくまれに思春期や青年期まで続いてしまうことがあります。また、IFの人数も増えてくる。こうなってくるとやや異常性が増してきます。DIDを疑わなければいけなくなってしまいます。


 アンナは「悩んでいた」のではないですよね。実際はその程度に留まらず、「病んでいた」んです。空想の中の存在を、現実感をもって捉えてしまうくらいに、DIDの一歩手前くらいに、「病んでいた」んです。アンナは、ジブリ史上初の「病んでる系主人公」だったということですね。
 マーニーが本当にIFなのかを確認する前に、アンナの病みっぷりを見ておきます。
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アンナのこと:{netabare}
 オープニング開始前の状況をまとめます。
 祖母マーニーに育てられていた赤ちゃん時代は幸せでした。その後、祖母マーニーが亡くなり、引き取り手が見つからない中で「自分はいらない子なんだ」だというトラウマが生まれます。養父母に引き取られた後は笑顔を取り戻しますが、補助金の一件で「やはり自分はいらない子なんだ」だと思うようになってしまい、笑顔を失います。

 写生会のエピソードで、アンナは「透明な輪に入れない」と言っていました。「どうやって輪に入ろうか」と試行錯誤する悩みの時代は終え、「入れない」ことが前提になっているんです。だからこそ、「私は私が嫌い」とも言えてしまう。

 一方で、アンナの「他人嫌い」は、セリフとしては出てきません。初めてこれが分かるのは、大岩家への引っ越し直後のシーンです。
 セツは帽子とカバンをアンナから外すのですが、その時のアンナはビクッと身体を縮こませ硬直し、目をつぶっていました。他人の手が急に自分に近づいてきたら、ビクッとなってしまうことはあるかもしれませんが、ギュッと目をつぶるほどではないと思います。複雑な生い立ちが原因で、アンナが他人自体を恐怖している、と描写されているのです。
 その後の郵便局前でノブコから逃げるシーンでもアンナの「他人嫌い」は分かります。ですが、身体的接触を拒むほどに他人を恐怖しているのが分かるのは、このシーンだけです。

 このように、アンナは「自分嫌い」と「他人嫌い」を併発してしまいました。アンナ自身の存在がアンナの中で極めて希薄になってしまったこと、これがアンナの抱えていた問題です。
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マーニーのこと:{netabare}
 では、マーニーが本当にIFなのかを確認します。

 まずは、そもそも論から。なぜ空想の存在であるマーニーが、金髪長髪の姿だったのか?
 マーニーはアンナの同世代の少女として登場しますが、アンナは祖母マーニーの少女期の姿を知り得ません。劇中では一度も少女期の写真は出てきませんし、「絵を描いてもらったのは初めて」だと言わせています。それにもかかわらず、アンナはマーニーを金髪長髪の姿で再現しました。
 この答えは単純そのものです。幼女期のアンナが抱えていた金髪長髪の人形が、マーニーのモデルだからです。家族を失い、孤独であったアンナを救ってくれた唯一の友達、大好きな人形の姿を自分の友達としてイメージしたのです。

 次に、なぜマーニーは青眼だったのか?
 作品内では、一度も人形の顔は写りませんでした。つまり、人形自体が青眼かどうかは分かりません。ですが、人形の目が黒であれ青であれ、マーニーは青眼になっていたはずです。なぜなら、アンナの友達は、アンナと同じ異質な存在でなければならなかったからです。これは、次に書く誕生経緯から分かります。

 最後に、どのような経緯でマーニーは誕生したのか?
 一番初めにマーニーが誕生したのは、引っ越し初日のアンナの夢の中です。
 引っ越し後、アンナは「他人の家の匂いがする」と言っています。「匂い」というのは、過去の記憶を呼び覚ますものです(プルースト効果)。アンナは、過去の「孤独の匂い」を思い出してしまったのです。そして、手紙を出す際にノブコから逃げてしまいました。この日の夜に、夢の中でマーニーが誕生します。
 このときのマーニーは髪を梳かれているのみで、顔は写りません。アンナの中で、まだ目の色は確定していないのです。

 初めてマーニーが現実に出てきたのは、七夕祭りの日です。七夕祭りで、ノブコに「青い目」という異質な自分を指摘されてしまいました。その後、水辺で「私は私の通り(=見えている通りに異質)」だと言い、二度目の「私は私が嫌い」発言があります。マーニーはこの後に現実の中で初登場します。
 自分の友達であるマーニーの目の色というのは、自分と同じ異質な色、すなわち青眼でなければならなかったのです。


 前述したとおり、アンナは「自分嫌い」と「他人嫌い」を併発し、自分自身の存在を希薄化してしまいました。アンナは極めて孤独な存在になってしまったのです。この精神的に追い詰められた状況が、アンナの病みっぷりを進行させ、孤独な自分を救うための救済者が必要になりました。この救済者というのが、IFとしてのマーニーだったのです。
 そして、マーニーは、アンナを救うための姿を採っていたのです。湿地屋敷に住んでいた人の情報としてアンナが持っていたのは、セツが言った「外国の人」だけです。それ以外の情報は、全て自分の空想の中で都合よく作り上げてしまいました。
 マーニーはIF以外あり得ない、ということですね。
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おまけ①(アンナの動物表現):{netabare}
 ちょっと話題を変えて、アンナの動物表現について。
 アンナは一部の人を動物に例えていますが、これは物語序盤の非常に病んでいるときだけのことです。いくらアンナが病んでるからと言って、動物表現を「悪い意味で使っている」と取るのはミスリードだと思います。

 アンナに動物表現を使われたのは三人だけです。「メェメェうるさいヤギみたい」と言われた頼子、「クマ、いやトドかな」と言われたトイチ、「太っちょブタ」と言われたノブコ。
 この三人は、アンナが強い孤独を感じているときに手を差し伸べてくれた人、という点で共通しています。アンナは、この三人に少なからず感謝しているのだと思います。だから、自分の嫌いな人間ではなく、動物で例えていたのでしょう。歪んだアンナの歪んだ愛情表現なんだと思います。まぁ「太っちょブタ」は言い過ぎですけどね。
 もし、悪い意味で動物表現を使っていたのなら、ノブコママに使わないのは変ですからね。
 また、大岩夫妻に動物表現を使っていないのは、手を差し伸べてくれたわけではないからです。大岩夫妻が向けるアンナへの愛情は、徹底した放任主義です。信頼しているからこそ、何の心配もしてくれませんでした。
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マーニーによる救済:{netabare}
 では、話を戻して、アンナの「自分嫌い」と「他人嫌い」が回復していく過程を見ていきます。

 このために必要なことが、二つあります。
 一つ目は、「今、愛されていることを知ること」です。補助金の一件で「今の愛」に疑問を持ってしまったことが、アンナが塞ぎ込んでしまった直接的な原因になっています。これを払拭するには、「今の頼子の愛」を知る必要があります。「今、愛されていることを知ること」が「今の自分を好きになること」につながります。

 二つ目は、「過去、愛されていたことを知ること」です。「今の愛」に疑問を持ってしまった根本的な原因は、「過去に引き取り手がいなかった」という経験がもたらす「自分は不必要な人間だ」というトラウマです。これを払拭するには、過去に愛されていた事実、すなわち「過去の祖母マーニーの愛」を知る必要があります。「今の愛」と併せて、「他人は愛してくれるんだ」と思えるようになることが、アンナの「他人嫌い」を解消させるのです。


 で、この二つの問題解決を手伝ってくれるのがIFマーニーです。
 厳密に言うと、「自分嫌い」を克服してくれる「前半マーニー(ダンス)」と、「他人嫌い」を克服してくれる「後半マーニー(サイロ)」は、別物として考えなければなりません。

 「前半マーニー」というのは、アンナの心の中からだけで生まれました。アンナは、初めて会った同世代の子からは逃げていたにもかかわらず、「前半マーニー」からは逃げません。そして、秘密の共有をも約束します。また、他人とはしたがらない身体的接触を繰り返します。
 「前半マーニー」は、アンナの心の中からだけで生まれているために、自分の味方であることに疑いがないのです。だから逃げないし、秘密を明かすことをためらわないし、接触できるのです。IFである「前半マーニー」は、他人の側にいるのではなく、自分の側にいるのです。
 アンナは、「前半マーニー」との対話の中で、大岩夫妻から愛されていることを実感します。そして、セツとの会話の中で、「今の頼子の愛」を知ることとなりました。一つ目の問題はとりあえずの解決を迎え、アンナは笑顔を取り戻します。
 問題が解決されたため、「前半マーニー」は消滅します。「一週間出て来ない」時期のことです。


 アンナの「自分嫌い」が解消されたあとに、二つ目の問題を解決するために登場するのが「後半マーニー」です。「後半マーニー」は、アンナのイメージにサヤカから見せられた「祖母マーニーの過去(日記)」が融合されることで形成されました。
 つまり、「前半マーニー」をアンナの夢想の中から生まれた「自分のマーニー」だとするなら、「後半マーニー」は他人の日記の中から生まれた「他人のマーニー」だということです。

 「後半マーニー」は、サイロの一件で、アンナを置いていってしまいました。
 アンナは「どうして私を置いて行ってしまったの?」「どうして私を裏切ったの?」と責めます。これは、実父母や祖母マーニーに対して、「勝手に死ぬなんて許さない」と言っていたことと対応しています。
 それに対して、「後半マーニー」は「自分の少女期にアンナはいなかったのだから」と答えます。今更過去の出来事(日記の内容)は変えようがないのです。マーニーの「勝手にいなくなったことを許して」というのは、「先に死んでしまったことを許して」ということと同義です。アンナはその謝罪を受け入れ、「あなたが好きよ、マーニー」と返します。他人を受け入れることで、アンナは、過去の愛や過去の死を受け入れられるようになったのです。
 そして、過去のトラウマが払拭され、全ての問題が解決されることとなりました。アンナは笑顔だけでなく、そのはつらつとした姿を取り戻します。これにてエンディングとなります。
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おまけ②(マーニーの服装):{netabare}
 「前半マーニー」と「後半マーニー」が別物であることは、服装からも分かります。

 「前半マーニー」は、服装をコロコロと変えています。これは、モデルである人形の影響を強く受けているからです。着替えを繰り返すことは、アンナが人形遊びをしているのと変わりません。「前半マーニー」は「自分のマーニー」であり、アンナの自由になる人形であるから、服装もどんどん変わっていくのです。

 一方で、「後半マーニー」は、着替えをせずに青いドレスで固定されています。この青いドレスというのは、葬儀の日の人形の姿そのものです。「後半マーニー」は、アンナの救済すべき過去の一点に縛られているということです。また、「他人のマーニー」であるため、自由に着せ替えることができないということでもあります。

 つまり、祖母マーニーを含めた三人のマーニーがアンナを救済してくれていたのです。
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アンナの変化あれこれ:{netabare}
 アンナの心理上の変化はいろいろ描かれています。特に重要なのが、絵画の変化です。

 写生会での絵画は、たくさんの子供がいるにもかかわらず、ごく少数の子供しか描いていません。しかもその子供の表情を描けていません。自室に戻った時に同じ絵画が出てきますが、このときには子供自体を消してしまい、単なる風景画になってしまいます。他人と向き合えなくなったということです。
 大岩家への引っ越し後は、絵すら描けなくなります。文字だけのはがきを頼子に送っています。

 「前半マーニー」との接触後は、マーニーの人物画を描けるほどに回復します。頼子の愛を知ることで、人と向き合えるようになりました。アンナの顔にも笑顔が戻ります。
 「後半マーニー」との接触後は、アンナの絵に色が付くようになります。色付きの風景画を頼子に送っています。過去を受け入れることで、頼子が以前くれた色鉛筆を使えるようになったのです。

 エンディングでの絵は、マーニーの人物画に色がついています。人と向き合えるようになったことと、過去を受け入れられるようになったことの両方が現れています。アンナのハッピーエンドが集約されていましたね。


 これ以外にも変化はいろいろと起こっています。
 マーニーの出現場所もその一つです。アンナの病みっぷりが進行するにつれ、夢で登場していたものが、現実で登場するようになります。回復する過程ではその逆で、現実で登場していたものから消え、最後に夢の中でお別れしていました。
 これ以外にも、アンナの髪型の変化や、天候の変化なども描かれていました。
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おまけ③(日記を破いたのは誰?):{netabare}
 ストーリーで補足しておきたいのは、日記のことですね。誰があの日記を破いたのか?
 私は、アンナだと思います。湿地屋敷を初めて探索した日に、日記を見つけて読んだ。読んでいくうちに、孤独なマーニーにシンパシーを感じてしまい、友達にしようと決めたんだと思います。ですが、日記の後半に至って、マーニーを孤独から救ってくれるカズヒコが登場します。日記の中のマーニーは、自分の知らないところで勝手に救われていた。せっかく見つけた孤独仲間のマーニーをカズヒコに取られることを嫌い、後半の部分だけを破いて隠したんだと思います。そして、その内容を忘れることにした。
 このときのアンナは相当病んでいますから、この流れが妥当だと思います。事前に日記を読んでいたから、日記の内容とマーニーとのエピソードが完全に一致しているんだと思います(日記の内容は一時停止で読めます)。祖母マーニーから日記の内容を全て聞いていたとか、それを全て覚えていたとかいうのは、さすがに無理があると思います。二歳児でしたからね。
{/netabare}

傑作にしなかった理由:{netabare}
 本当は、傑作にしてもいいのですが、そうしなかった理由を二つだけ挙げます。
 一つ目は、終盤のミステリー解説の仕方ですね。終盤に盛り上がりを作って一気に収束させたいのは分かりますが、伏線の張り方や謎解きに明かし方に、もう少し工夫の余地があったように思われます。アンナが成長していく過程はとても丁寧に描写されていたのですが、その分解説の仕方が「第三者の語りだけ」というのが雑に感じられてしまいした。
 二つ目は、中盤の山場が弱すぎることですね。ダンスのシーンやサイロのシーンは絵的なインパクトはありましたが、山場と言えるほどの盛り上がりは感じませんでした。心情的な山場は対話のシーンですから、絵的には大人しい。絵的にも心情的にも盛り上がれるような、中盤の強い山場には不足していたと思います。
 かなり好きな作品ですが、評価としては落とさざるを得ませんでした。
 ただ、減点するほどでもないのかなと思い、物語評価は満点としました。
{/netabare}

投稿 : 2024/06/01
♥ : 7
ネタバレ

ユニバーサルスタイル さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

思春期を過ごす10代へおすすめしたい映画

あらすじは他の方が非常に上手くまとめてくださっているのでそちらをご覧ください。

それから、wikipediaのあらすじの項目はくれぐれも見ないようにしてください!丸々展開が分かってしまうので、映画を鑑賞する前に見てしまうと面白みが半減してしまいます。

※誤字修正
×安奈 → ○杏奈


まず、レビュータイトルの説明から。
{netabare}
スタジオジブリは今までファミリー層(ある程度齢を重ねた大人と年端もいかない子供の両方)に支持される映画が多かったと思います。

しかし見たところこの映画の対象年齢はその中間、マーニーや杏奈の年齢位の人へ向けて作られています。

監督の米林さんは公開前のコメントで
‘子どものためのスタジオジブリ作品を作りたい’
‘この映画を見に来てくれる「杏奈」や「マーニー」の横に座り、そっと寄りそうような映画を、僕は作りたいと思っています。’
(映画『思い出のマーニー』公式サイト 企画意図 http://marnie.jp/message/index.html)
と答えています。


後者の発言を見るとやはり中高生ぐらいをターゲットにしているのだろうと思います。


本編を見ていてもその意識は感じられます。

一つに物語がかなり複雑な構成になっていること。

過去と現在、現実と幻想、ごっちゃになった時系列と世界の様相は幼い子供が理解するには難しいと思います。

見たまま楽しめるような単純な娯楽映画ではありません。まあ親御さんなら普通に理解できるでしょう。ここまでなら単に子供向けではないだろうな、ぐらいのものです。


二つ目は杏奈という少女の描かれ方。

彼女は今までの、宮崎駿監督が描くような皆に好かれる理想の女の子という感じではありません。

いかにも現実にありそうな生々しい不安や悩みを抱える少女で、このキャラクターに誰もが共感をもてるとは考えにくいです。お子さんはもちろん親御さんが見ても賛同は得られにくいはずです。

しかしこの欠点だらけのヒロインは、ちょうど同年代の少年少女から見ると途端に身近で親近感のある存在になります。

自分が「特別」であること、または「普通」であることに悩み葛藤する。思春期なら誰しも一度は経験するのではないかと思います。

幼すぎると分からない、老いすぎると忘れてしまう。そんな感覚を呼び起させるからこそ、同世代の方には杏奈は眩しく映ります。


三つ目は物語の方向性。

従来の少年少女が主人公のジブリ映画では、色々な障害を乗り越えて成長していく姿を中心とする物語が多くまさしく万人受けする内容です。

しかし最近の「コクリコ坂から」を例に挙げても、単なる成長物語ではなくより広い視野の範囲や心の動きが描かれていて、やや複雑ともいえる作品があります。

今回のマーニーも、杏奈の成長だけでなく今までの生い立ちや思ったこと考えたことまで事細かに描かれ、改めて新しい作風だと感じました。

こうすると、感情移入しやすい物語の方がぐっと若者の心を掴むはずだと思います。



何故今回はこのような作品にしたのだろうと考えました。

おそらくはスタジオジブリのプロデューサーの意向があるのでしょう。


ここからは完全に想像ですが、子供と大人の中間層の支持を高めたい狙いがあるのだと思います。

実際中高生の中で欠かさず劇場までスタジオジブリの映画を見に行く人がどれだけいるでしょうか。

今やどんな年齢層であれアニメを見ること自体は珍しくなくなったけれど、依然としてジブリ・アンパンマン・ドラえもん・クレヨンしんちゃん等の映画を劇場まで見に行く若者はそう多くないでしょう。

アニメに疎いファミリー層とアニメに詳しいアニメファンの二極化が進んでいく中で、どこかジブリの敷居が高くなっているように感じます。

そうした「ジブリ映画は~が見るものだ」という既成概念を壊そうとする試みがこの映画からは感じられました。

親子連れのお子さんよりも、親と見に来るのを嫌がるようになった年齢の人へ向けられた作品という印象です。
{/netabare}



前置きが長すぎました・・・。
本編でのテーマですが、「思い出の中に忘れていた愛情」。こんな感じでしょう。


反抗期のときなど特に、周りのことが分からなくなってしまいがちです。
でもそんなとき、ふと昔を思い起こしてみると大切にしていた思い出がよみがえって、我に返ることができる。「思い出のマーニー」・・・良いタイトルです。


あまり書くとネタバレになってしまうので書きませんが、事前に噂になっていた百合とかレズとか、ある意味では間違いないです。

そこから見える真実の移り変わりが今作で最も楽しい部分だと思います。


《感想》

多少の共感はしたものの深く感動するまでは至らなかったというのが正直な感想です。

100分弱で二つの物語を見せられて十分に余韻に浸る心の余裕がなかったのかもしれません。

ここから先はネタバレでも良いという方のみご覧ください。
{netabare}
二つの物語とは‘杏奈とマーニーの交流’と‘杏奈とマーニーの過去’、それぞれ前半後半の流れを指すものです。

途中でぱったりと少女のマーニーがいなくなってしまったので少し物足りなさを感じてしまいました。


しかしマーニーはこの作品に於いて一登場人物というよりは、心象風景の一部であったように感じられます。(実在はしますが)

杏奈が自分を想う気持ち、またマーニーの残した未練が見せた幻のような存在であったと、そう思います。

一応真っ当な解釈としては、故郷に帰ったことで幼い頃の祖母の記憶や祖母に聞いた話が頭に蘇ってきて、それがあのマーニーを形作るに至ったと考えられます。

でもそれ以外にこんなことを考えました。

マーニーが杏奈に向けて繰り返し「大好き、大好き」と言い続けるのは、単にマーニーが生前杏奈を愛していた証であるだけじゃなく、杏奈が自分自身を嫌悪しながらも本当は大好きだと思いたい念の表れだったのでは。

マーニーの残した未練、それは恵まれた少女時代を送れず不幸な生活を強いられていたこと。
マーニー自身が思い描いていた、外で自由に羽を伸ばして遊ぶ夢を叶えるためああして現れたような気もします。



間違いなく二人の物語ではあるんだけども、同時に杏奈一人の心の葛藤でもありました。

すっかり荒んでしまった杏奈の心情は、冒頭のスケッチの場面でも分かります。

彼女は幼稚園の背景は描けても子供の顔が描けずにいます。それは人の表情が読めない、心が理解できないということに変わりありません。

療養先でも、夏祭りにて現地の女の子(名前は失念)の気遣いを思い違ってトラブルを起こしてました。

そうした中でマーニーと出会い、徐々に心を開いていき癒されていく杏奈。

杏奈のわだかまりが消えたことで役目を果たしたようにマーニーは見えなくなったのだと思います。

冒頭のスケッチのシーンを活かして、最後は子供の笑顔を描けるようになった杏奈を見せてほしかったです。


タイトルを見るとマーニーの方に注目してしまいますよね。

実際は完全に杏奈が主人公だったわけで、だからマーニーという存在に期待していた自分としては、期待外れのような気分になってしまいました。


あとやはり杏奈の出生やマーニーの謎を解く後半、杏奈+さやか+久子編の唐突さと展開の速さはけっこう付いていくのが辛かったです。

ラストは見ていてとてもスッキリするものだったので、そこまで気にならなかったのですけど。

少女同士の同性愛かと思われる関係を、そのまま孫と祖母の親子愛につなげていく斬新さには感心しました。

親友としてのマーニーと祖母としてのマーニー。その両方に逢えたことで杏奈は苦悩から脱することができ、義母とも和解できました。
{/netabare}

それともう少し目を見張るような演出が欲しかったです。インパクトが弱く、退屈に感じてしまう。

でもハッピーエンドで綺麗に終わっているし、一度は見ても損しない心温まるお話です。



《評価》

物語について、やや難解で冗長な部分もあり満点にはなりませんでした。でも後半の盛り上がりはかなりのものだったので高得点です。


声優について、自分としてはマーニーの有村架純さんはどうもイメージと合いませんでした。金髪碧眼の美少女を演じるのって凄い難しいことだと思うんですよね。
ウフフフって笑い方は可愛くてそこは好きだったんですけど、喋りに違和感があって終始落ち着きませんでした。

逆に杏奈の高月彩良さん、叔父・清正の寺島進さん、久子の黒木瞳さん辺りは素晴らしかったです。


キャラについて、杏奈は今までのジブリヒロインで一番好きですね。正直ジブリからこんなヒロインが生まれるなんて思ってませんでした。


作画はもう文句ないくらい綺麗ですが、その中でさらに特筆したいのは杏奈やマーニーの瞳の強さというんでしょうか・・・瞳の奥から感じる生命力が素晴らしかった。
見てもらえれば分かると思います。杏奈の瞳はただ美しいだけじゃなくて強さがあります。目から芯の強さが伝わるのは凄いです。


音楽、冒頭タイトルが表示される間流れるBGMがとても美しかった記憶があります。杏奈とマーニーが戯れる間のBGMも優雅で綺麗でした。主題歌もマーニーの雰囲気に合っていて聴き惚れました。




思春期のピュアな悩みに共感できる映画で、普段深夜アニメに慣れ親しんでいる方ほどハマるような気がします。

「さくら荘のペットな彼女」「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」「花咲くいろは」等々・・・青春系のアニメが好きな方はきっと琴線に触れるものがあると思います。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 25
ネタバレ

nyaro さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.9

話も作画も悪くないのに、面白くする要素を欠いました。追記します。

 やりたい事はわかります。ですけど、なぜでしょう。まったく面白くありません。
 プロット…つまりあらすじは良いと思います。童話かなにかの原作付きなのでストーリーの幹はしっかりしているのでしょう。

{netabare} マーニーが杏奈を孤独にさせないために現れた屋敷についた亡霊なのか、時間が繋がったのかわかりません。最後のおばあちゃん=マーニーが赤んぼの杏奈に語りかけている内容からいって杏奈の夢の可能性もあります。 {/netabare}
 どれであってもマーニーが杏奈の救済になったということいいと思います。

 マーニーとの友情が不自然でしたが、ここは血のつながりというか、子供のころの記憶で引っ掛かりがあったのかもしれません。ここは演出的なことを入れたほうが伏線としては面白いですが、まあ、最後の種明かしで気にするほどでもないでしょう。

 一方で、養育費的なものを自治体からもらっていたことになぜ反発するのか、おばちゃんが杏奈に対してすまなく思うのかがわかりません。もともと養育の目的が金銭みたいなところってありましたっけ?親の愛情に疑う余地がないと思いましたが。喘息で療養って理解してるのにやっかい払いって?

あとはマーニーの親と杏奈の親がクズだった問題ですね。これが唐突というかなんというか。杏奈も喘息もちが理由か逆なのかわかりませんが決して、思いやりのあるいい子ではないです。むしろ、マーニーだけが特殊だったということ?この4代にわたるこの一族のクズっぷりの遺伝子はなんなんでしょう?何が描きたいかよくわかりません。前提条件ということ?でも、そこを描かないと、マーニー杏奈のつながりに意味が出ません。

 それと、友達との関係性とかがまったくストーリーに活きていなかったかなあ。マーニーのおかげで友達付き合いができるようになるとか、お互いが救済になるような感じがありません。結果的に彩香とであい、富子と和解したので何かあるのかもしれませんが読み取れませんでした。

 あとは杏奈がマーニーの救済になっているような感じが見えなかったですね。晩年のマーニーがもっと杏奈の幸せを信じて、短い時間だったけどものすごく充実していたような場面があってもよかったかなあ。この部分が弱いので本作のオチが{netabare} 杏奈の夢オチ{/netabare}になると明言しているようなものです。

 本作のつまらない原因は、まあ、そういったキャラと時間の無駄使いもある気がしますが、だからといってそんなにつまらないストーリーではない気がします。マーニーという血縁の時を超えた救済と、血のつながらない親の愛ということで、プロットは良いと思います。

 つまらないのは、キャラがジブリ的すぎてどうしても劣化宮崎駿に見えるという欠点を結局打開できませんでしたね。
 そしてキャデザ以上に原画というか動きですね。歩き方走り方、手の握り方体重の乗せ方。演技、演出、構図、色使い。それがすべてジブリです。声優さんのしゃべり方まで、ジブリ演技ですね。これが非常にノイズになりました。

 声優さんのレベルが低いと言っているのではありません。間と言うか演技が本当にいつものジブリでした。
 過去の舞台もマーニーも、自然なアニメ演出が出来ないなら無理に外国人設定いれなくても…と思いました。

 ジブリだからジブリなのは当たりまえですけど、ジブリはブランドです。ブランドとは約束です。数多い映画作品の中からジブリと言う名前を信じて作品を見ます。ですから相当高い品質を要求されることを覚悟すべきです。
 ブランドである以上、最低宮崎駿監督の「風立ちぬ」のアニメーション技術レベルでなければ満足はできません。その覚悟がないならジブリブランドを冠して作品を作らないでほしいと思います。

 それに加えて、ジブリ的な作品作りが全体のバランスを崩して、かえって非常に悪い方向に退屈になってしまっています。劣化した模倣は、そこそこのオリジナルに負けるということでしょう。

 多分普通に作ってたらもっと評価していたと思います。

 また、全体のストーリーとプロットはいいんですけど、盛り上げ方です。マーニーとの出会いは劇的じゃないし、友情の育み方、そして別れのきっかけとなった場面。盛り上がりませんでした。

 なによりも最後の久子の語りですね。これは何とかならないのでしょうか。セリフで全部説明されてもなあ。語らないで、考えると分かる仕掛けにするなど、ストーリーの中に織り込めなかったのでしょうか。青い目というところで察しはつきますけど、実の両親の痕跡とか、マーニー祖母バージョンのフラッシュバックとか、小物を使うとか。

 総評すると、ストーリーは大筋悪くない。ジブリと言うことで作画はまあまあ高水準。なのにアニメの面白い部分を創り出す要素が、欠落している気がしました。

 テーマ性やキャラへの感情移入という点で、個々のキャラ造形とパートパートのエピソードが不自然で弱すぎました。何を焦点にしてみればいいかが、最後にセリフで説明されても…

 また、子供向けとして見ようと思うとすると、対象年齢がわかりません。子供が見て楽しいところってどこだったんでしょう?子供騙しと子供向けと寓話は違います。そして本作はそのどれでもないような気がしました。
 いっそのこと時を超えたファンタジーで、理屈抜きの出会いにした方が、深い話になったと思います。

 ということでここの評価システムだと点数を引きようがないのですが、映画…アニメ映画の出来としては、主観採点で40点くらいかなあ。



追記 この映画がなぜ面白くないのか言語化できました。理由は杏奈が自分で執念をもってマーニーを追わないからです。
 どうしてもマーニーと会いたい→昔の人だと知る→マーニーはなぜ私のところに?どういう人だったの?→思いが時を超えるファンタジー→友達に心を開く→おばの愛情の再発見→マーニーのすべてを理解する。

 というプロセスが無かったです。別に違ってもいいんですけど、こういう結末に向けての「展開」が弱くて視聴後感は悪かったです。逆に前四分の三はある意味まあ高水準だったかもしれません。

 点数は物語とキャラは3は無いかなあ。作画で調整して3をちょっと割るくらいがいいかも。

投稿 : 2024/06/01
♥ : 4
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