nyaro さんの感想・評価
5.0
テレビで視聴。恋愛要素は入れないほうが分かりやすかった?
24年4月今回円盤持ってるのになぜかテレビで見てしまいました。10回目かそれくらいだと思いますが、CM中に咀嚼が出来るのでまた違った感覚になるので良かったです。
その中でちょっと思ったのが、恋愛要素がないほうがひょっとしたらテーマ性が明確になったかなあという気もしました。
というのは、環さん→鈴芽への「うちの子になる?」と鈴芽→ダイジンの同じセリフを考えると、震災によって救われなかった子供、残された家族というテーマ性が浮き立つような気がしたからです。そして、最後の明日を信じるというセリフにもつなげるために、鈴芽の旅は自己救済あるいは家族為の旅か、恋愛目的でなくダイジンとの何かを解決する旅にした方が明確になったかなあ、と思いました。
別に本作の価値を下げるわけではないですが、この作品の賛否が分かれる理由として恋愛の不自然さというより、恋愛が大きなテーマを見えなくしている気がしました。
23年11月レビュー
「かえるくん、東京を救う」のリメイクという見方が正しいかも
最近、輪るピングドラムの劇場版「RE:cycle of the PENGUINDRUM」を見まして、そこで村上春樹氏「かえるくん、東京を救う」を探す場面がわざわざ追加されていました。それで本作を思い出しました。
この作品は短編ですが震災文学の最高峰ともいえる話です。かえるくんが東京で起きるだろう震災を防ぐために地下で暴れるミミズと戦いに行く話です。まさに宗像氏のことですね。
当然この本は何度も読んでいるので本作がオマージュしていることは意識していましたが、それどころか「すずめの戸締り」は同作のリメイクなのではないか?
地震と戦う何万人の命を担う存在ですが誰からも知られない、そしてかえるくん自身も戦いは怖いといいます。でも彼は戦います。そこに「なぜ?」はありません。ただ、戦わなければならないと思うから戦います。つまり、宗像氏です。
その大きな理由は、主人公のように善良な市民がいるからだといいます。悪い人間がいるのはわかっているけど、それでも主人公のような存在がいるから戦いに行く。だから、主人公には応援してほしいといいます。
本当に震災と戦っている存在はいないでしょう。かえるくんというのは超常的なものと考えることもできます。文明の進化に対する警鐘としてかえるくんを忘れると地震は起きる、と。
でも、もっと運命論的にとらえたほうが正しい気がします。ですので、本当はかえるくんでも震災は止められません。ただ、その場にいた震災に対処した人々、例えば自衛隊・消防・警察・救援活動に参加した善意の人たちや、率先して協力しあった人たちを思い出せばいいと思います。そういうモノの象徴でもあると思います。
主人公は両親を亡くしており、弟と妹のために懸命に働きます。でも感謝もされません。これって環さんのことですよね?
家族というか守るべき人がいれば、自分の人生を犠牲にしても守る。そこに不満がないわけじゃないし、もし、ということも考えてしまう。でも、それはそれで自分の人生だったんだと思うこと。これは是か非かわかりませんが、震災国の日本においては誰でも経験する可能性があることです。
となると鈴芽という存在ですね。この子の意味がわかりづらくなりますが、この子は我々の象徴でしょう。震災孤児でもあるし、善良な大衆でもある。でも、いつ助ける側にまわるかもしれないということかもしれません。
さらに「かえるくん…」の主人公の様に、そういう存在を知って応援する、つまり理解してあげる人なのかもしれません。知られずに死にに行く孤独にとって、応援してもらうことは単なる行為ではありません。
そして鈴芽の存在は、そういう仕組みや存在を理解し、犠牲になった人を思いだす。それが「悼む」ということなのかもしれません。
こうやって考えると本作の宗像氏や要石のダイジンなどに理由をつけなくていいことになります。彼らは震災と影ながら戦う運命を担った人であり、いつ自分がそうなるかもしれないという象徴でもあります。
だから「かえるくん、東京を救う」は単なるモチーフやオマージュではなく、本作はそのリメイクという見方が正しいかと思いました。「海辺のカフカ」のモチーフもいっぱいあるのでやっぱりそっちも読み返して考えてみたいところです。
23年11月。RE:cycle of the PENGUINDRUMを見て、また考えてしまい追記しました。
23年9月記載 東日本大震災後はどうやってテーマを語ればいいのか?
円盤を買いました。映画は結果6回見ているのに、試しに見たら止まらなくなって7回目を本日見ました。
小さな画面と音響だと、特に中盤の東京の場面が今一つですが、気になる場面を止めたり戻ったりできるのはうれしいです。
何度も映画館に通った理由の一つは、この中盤10分程度の東京の場面を見るためです。私は映画史上もっともこの10分に心を動かされました。なぜかは言いませんが、あの場面こそが今この映画を見る大きな価値だと思います。
本作を見て、やはりはっきりしているのは、東日本大震災以降新しい物語論が必要なんだろうということです。
実存主義から構造主義、ポスト構造主義。脱構築。第2次世界大戦、安保闘争、経済成長、バブル崩壊、ウーマンリブ、フェミニズム。そういう旧来の文脈とは違った新しい作劇方法が、新海誠氏の3部作なんだろうなあと思います。
宮崎駿氏の「君たちはどう生きるか」が問いかけてきたものが、既に古い感じがするのは、旧来の作劇法、過去の文学や映画その他を「教養」だと言いきってきた時代の作品に見えます。旧来のデータベース的な教養を語る不毛さが本作と比較すると感じられます。
いまやコンテンツが巷に溢れ、教養の前提となる共通基盤が若い人ほどありません。となった時に、何をもってテーマ性を出すのか?というと、震災以後の日本の現状とAI・SNS等々がメインにならざるを得ないと思います。
そして、メッセージ性は共通基盤が希薄な以上、暗喩やアナロジーではなく、感情の動きつまりエモさで表現するしかない気がします。
もちろん、本作には宮崎駿氏のオマージュはあります。が、宮崎駿氏のオマージュは旧作劇法の否定=古い日本からの脱却を言っていました。つまり、震災前の老害ということです。ユーミンのルージュの伝言を初め、あの青年のオープンカーやタバコ、懐メロというノスタルジーが何を表していたのかは自明でしょう。
村上春樹の影響は見られます。ここは氏が阪神淡路以降、文学と震災を融合させた唯一と言っていい存在だからリスペクトしたのかなあと思います。
本作のストーリーについて批判はあると思います。いつ鈴芽は宗太を好きになったのか。行く先々で人に助けられるのはなぜ?など、いろんな指摘を見ました。中には鈴芽の体力が有りすぎだろうとかいうのまでありました。
これらの指摘は、作中の時間の経過速度に対して事件の頻度が激しいのが原因かと思われます。鈴芽の東京までの旅が数日ではなく1か月なら納得感があるのではないでしょうか。まあ、3本脚のイスとどこかであったことが…から考えることもできます。
それと、ミカンがなぜ転がったのか?雨が急に降ってきたのは?を考えると、鈴芽あるいは宗太が要石であるダイジンとの接触で「神性」を帯びたのでしょう。SNSで注目される、2人の行くところに人が集まるなども、超常的な要素です。
そんな説明はメッセ―ジに関係ない部分なので「どうでもいい」と切り捨てた部分でしょう。それよりも、鈴芽が通った道筋は、南海トラフ、阪神淡路、東海道、富士山、そして東京と東北と、地震がいつ起こってもおかしくないルートだということです。
そんな日本に生きているからこそ、災害で犠牲になった人を悼み、自分もいつ犠牲になるかもしれないという覚悟の元、人とは正直に誠実に利他の心で触れ合って行こうという話だったと思います。
いま、考えるべきはなのは旧来の資本主義的な価値観での閉塞感に日本は苦しんでいます。その時代の価値観を持ち込んで日本は駄目だという映画を作っても仕方ないでしょう。
ですが、震災後助け合う土壌は日本にはまだ残っています。であれば、新しい日本を作るためには、どうすればいいかを問いかけた映画だったと思います。
震災文学、ポスト震災のアニメ映画。その視点をもつことが本作を観賞するポイントではないでしょうか。
以下、劇場公開中に書いたレビューです。
結局5回見ました。最高に面白かったです。もう終わりそうなので考察を少々。
もう公開も終わりそうな雰囲気なので、いろいろ考察を残しておきます。考察すべきではない感じる映画だと思っていましたが、読み取れる部分が多い作品だし、やっぱり自然と考察してしまいました。なので気が付いたところです。
ダイジンについて
{netabare} ダイジンですが子供ですよね。やせ細っていることから飢えて人柱になったのか、愛情のアナロジーなのかは分かりません。スキじゃないという言葉でやせ細るところを見ると、どうも母親の愛情に飢えていて「ウチの子になる?」で鈴芽になつくわけです。子供としてじゃれついていました。
東北までの道のりですが、鈴芽を導いていたニュアンスがあります。つまり、鈴芽の子供時代が常世にいることを知っていて、鈴芽の魂を救済するために連れて行ったととることができます。
鈴芽が死んでもいい、というのは半分常世に魂を置いてきているからだと思います。
一方で、鎮魂ということを考えると鎮魂が住んでいない東北に大きなミミズがいるので、ダイジン、サダイジンとも東北に移動する気だったとも取れます。宗太のアパートで要石は移動している、というセリフがありました。
本当は自分で要石として移動しようと思っていたら、思わず鈴芽に優しい言葉をかけられて、ああいう我儘になったということでしょう。
鈴芽の子供になれなかった、つまり自分の誤解だと気が付いた。だけど、鈴芽からどこかに行けといわれたので一旦離れた。もともとの計画通り要石に自分でなろうということでしょう。ダイジンは本当は要石には戻りたくなかったんでしょうけど最後は鈴芽から優しくされて救済を得たことで納得したんでしょう。{/netabare}
サダイジンについて
{netabare} サダイジンが登場したときに、環さんに本音を語らせます。ということはサダイジンとダイジンの関係は、環さんと鈴芽の関係なのでは?と思います。要石としての先輩なのでしょう。サダイジンだけ巨大猫になれるこということはもう神になっています。ダイジンは子供でもあり成長中なんでしょう。自分の今のポジションに対する疑問があったのかもしれません。つまり鈴芽です。
サダイジンは要石に戻るために東北に行くから協力してほしい、という感じでした。そして捕まえるときは厳しかったですが、ダイジンを舐め回していました。つまりサダイジンは環さんの側。子供がいない女性だったんでしょう。{/netabare}
鈴芽が宗太を好きになった理由
{netabare} 鈴芽が宗太をなぜ好きになったか、です。一つ目は四国につくときの「ドキドキする」というセリフです。つまり吊り橋効果です。閉塞した田舎にいた田舎娘が旅先でとなりにいた宗太を好きになる。
イスであったこと。母親の作ってくれた大切なイスです。その姿をしているので愛着がわいた。
あるいは温もり…温度について何度もセリフがありました。鈴芽は環に育てられたかもしれませんが、温もりが無かったのかもしれません。それで、初めての温もりに惹かれたのか。
神聖です。ダイジンも宗太もSNSに非常に沢山アップされていました。宗太は不思議なのもありますが、人を惹きつけるという表現でしょう。それで鈴芽が惚れたのか。子供はどうも何かに気が付くようで神戸はもちろん新幹線の中でもガン見されてました。
初めに「どこかで会った事が」というセリフがありました。母と間違った自分の横に立っていたのが宗太なのでどこかで惹かれていたのか。 {/netabare}
鈴芽はなぜ助けられるか
{netabare} 鈴芽がなぜ助けられるのか。スナックにも民宿にもなぜお客さんが集まったのかは、鈴芽が原因なのか宗太が原因なのか判然としませんが、助けたくなるんでしょう。ただし、ヒッチハイクは苦手なところを見ると危機になると助けたくなる、でしょうか。
いろいろ考えられますが、アマノウズメ設定もあるみたいですので、神性が正解なんでしょう。つまり常世に言った事があるので、神聖を帯びているという意味なんだと思います。それは宗太がもてる設定とも重なります。{/netabare}
芹沢は捨てるものの象徴
{netabare} 芹沢は捨てるものの象徴でした。外車のオープンカー、懐メロ、タバコ、茶髪、そして宮崎駿。環さんの「いい先生になれる」というのは、そういう捨てるものを捨てれば中身はいいという意味でしょうね。宮崎駿は捨てるべきものの中に含まれています。{/netabare}
鈴女の周りにいる2匹の蝶は本当の父母の魂なんでしょう。死んでもいつも見守っているということだと思います。
結局5回みました。さすがに今後は円盤にします。それにしてもここまでレベルが高い作品を見せられると他の映画やアニメが退屈に感じてしまい困ってしまいます。
キャラ、演出、テンポが最高でした。鈴芽はすばらしいキャラ造形でした。
テーマ性云々は別にして、地震大国に住む日本人論としてこんなに優れているものはないと思います。なぜ、隣人に優しくすべきか。そして過去を悼むのか。それを深く考えてしまいました。
未来に命が繋がる人は、明るい明日を信じて生きよう。残念ながら死んでしまった人たちは、ちゃんとその人を思い出してあげよう。日本に住んでいる以上はその覚悟を持つべきだと思いました。
4回目レビュー
結局4回目見ました。キャラの魅力と面白さにやられました。
また見てしまいました。RRR見に行ったのにふらふらとこちらに…結局4回見ています。2月にもう1度見に行くかもしれません。なぜこれほどまで心を掴まれたのか。
震災とか廃墟とか鎮魂とか、そういうテーマ的なものを当初はいろいろ考えましたし重要な要素ですが、本作は映画の原点である「キャラの魅力」「面白さ」この2つにやられました。
キャラは、この作品魅力的でないキャラが一人も出てきません。そして性格や言動と設定が極めて自然です。なので、ちゃんと演技していると思います。これは稀有な事です。ですので、ともすれば退屈になりがちな人間と人間が会話しているシーンがどれも本当によく描けていました。
でまあ、やっぱり鈴女の魅力です。言葉にすると安っぽくなるので語りませんが、とにかくこのキャラは素晴らしかった。
面白さは、スピード感、演出、無駄を省いた編集、幻想的な部分とリアリティの使い分け、映像美など映画としての要素がどれも素晴らしいです。特に中盤の東京のシーンの緊張感。これがいいですね。今まで見たどんなハリウッド映画よりも心理に訴えかけてきました。
俯瞰すると、結局描いているのは「日本」ですよね。地震も廃墟も人の優しさも神も懐メロもすべてが我々が住んでいる国ですね。新幹線と富士山もそうです。
なるほど「鎮魂」というのはそうかもしれません。いつ南海トラフや関東直下が起こるかわからない国土である以上、どこかが破壊され人が死んでゆく。だからこそ生きている人は…ですね。
九州から東北までどこでも地震は起きます。作中旅をしながらそれを表現したのは素晴らしいと思います。
映画の出来とスケール感という点では「君の名は。」なんですけど、面白さとテーマの重要性、キャラの魅力からいうと本作だなあ。
なお、設定うんうんという考察をユーチューブでいっぱい見ましたが、ほぼ参考になりませんでした。ほとんど私が作中の表現で納得したところを上げ足とりしているだけでした。
新海誠監督作品の設定は、すべて省略があるし無理な言い訳をしないのでおかしく見えるところもありますが、普通に行間を咀嚼すればそこに理由やバックストーリーが見えてくると思います。まあ、人それぞれなのでそれが気に入らないのなら仕方ないですね。それも一つの見方です。
劇場アニメ映画で4回いったのは初めてかなあ。うーん。面白さでは過去最高…と言ってもいいかなあ。4回目でもまったく飽きませんでした。
なお、原作読みましたが、ほぼシナリオという感じで深掘りや詳細設定等はありませんでしたね。それでいいんでしょう。映画は映画でその範囲で行間を読むべきでしょう。
1回目レビュー
{netabare} 初めの一瞬だけまた映像美かなと思いますが、すぐに完全に忘れます。新海誠ブランドということすら忘れます。とにかく展開につぐ展開で、びっくりするくらい面白かったです。
誇張抜きで本当にあっと言う間に終わったという感覚ですが、後から考えると密度が濃いという感じでした。情報を完全にシャットアウトしていたのも良かったのかもしれません。
映画館に行って良かったと心の底から思いました。多分今週…は無理でも来週くらいにまた見に行くと思います。
で、いわゆる設定の考察を完全に封じる映画です。もちろんテーマ性の奥行きはありますが、それよりも「感情」の映画でした。たかぶる感情の先にもちろんテーマ性はありますが、この作品は見たときの感情、思考ではなく感覚的に何が頭をよぎったのかを大切にしたい映画だと思います。
含意としてのメッセージやテーマはもちろん大いに考察すべきでしょうが、矛盾がどうとか、マネがどうとか、この設定は実は…みたいな考察はやるだけ惨めになるくらいの力強い映画でした。
新海誠3作目の超メジャー作品で、ブランドありきでくるだろうなあという諦めというか、斜に構えて見に行った自分が恥ずかしくなるくらいいい映画でした。
5点満点は思考停止でつけたわけでなく、これ以外ないと思います。まあ22年度…というかここ数年の映画の中ではNO1だと思います。
完全ネタバレ封じをお勧めです。冒頭12分とか見る必要はないでしょう。私は見なかったのが良かったです。冒頭からワクワクしました。この先は閉じておきますので、是非、先に見てきてください。
初見での第1次のひっかかりポイントです。今後、この作品を考える上でのメモ程度です。(当日考えたことを若干追記しました)
「すずめ」という名前ですが、これは日本で最近スズメを見なくなったという話があります。いつの間にか気が付かないうちに日本が変わっているのだ、ということかもしれません。
また、すずめはありふれた人の象徴というレビューを拝見しました。たしかにその意味は大きいと思いました。
「しゃべるイス」ふたりのイーダという児童文学があります。これが原爆によって死んだ家族がモチーフになっていたので、椅子がしゃべった瞬間不穏な感じがありました。
「蝶々」です。これは喰霊ゼロでも出てきますが、魂の象徴です。2匹飛んでいるということは親のことでしょう。つまり、死者の魂=両親の気持ち、死んでも見守っているということだと思いました。
神戸ですね。もちろん阪神淡路です。すずめが移動した、愛媛のあの尖った半島から四国を横切って淡路島のルートって、地下構造線があって、直下型地震が起きやすいとされているルートな気がします。
ご都合主義のように、いろんな人が不自然にすずめを助けるように見えますが、これは震災の時の人のつながりを感じました。困っている人がいると助けたくなる日本の田舎に残る古い気質を表していたんでしょうか。初めはまあ、お話だからと思ってましたが、すずめが神戸に来た時にそういう無償の人助けの印象を持ちました。一方でスマホで写真を撮る場面も沢山ありました。
旅の中でこの親切な人たちは親子の家族でした。そしてヒロインは叔母と2人。イスはお爺ちゃんと。いろんな家族の形がありました。
廃墟は人口が減り、過疎化が進み、古い日本が死んでゆく。そしてその一方で、いつどんなときに大地震が起こるかわからない日本。人とのつながりが最後は大切だよ、というかとでしょうか。
廃墟にも人の思い出が詰まっているというのも大事でしたね。廃墟をみて何を感じるのか。昔の人の想いを受け止める。それは「懐メロ」にも通じています。
大地震に至らなくても、大雨が降るのも不吉な何かを感じました。
そして東京です。これは言わずもがな、ですね。のんきに暮らしていても大地震はいつでもきますよ、ということでしょう。
東京は地下をいじくりまわしていますからね。その辺の意味もある気がします。神田川も確か大地震を起こした断層だった気がします。
「戸締り」は防災というのは短絡ですけど、心構えかもしれません。むしろ過去の自分に対する何かなんでしょうか。ドアを閉めないと不吉なものが…そして死者の世界かあ。次回視聴時の宿題にします。
教師になるという夢と日本に夢を絶たれて石になってしまうというのも何かを感じました。日本を守る人が、教育者を目指しているというのもちょっと意味を感じました。
おばさんの言葉ですね。愛情も憎しみも本音ということでしょう。コミュニケーションを絶ってはだめで、話をしようということでしょう。また、震災は犠牲者だけでなく、それを助けた人たちの中にも苦しんでいる人がいるということもあるのでしょう。
「懐メロ」ですね。80年代以前の音楽だと思いますが、ルージュの伝言はまあ宮崎駿に対するちょっと皮肉なメッセージなのか、あの魔女の宅急便のような牧歌的な少女の夢が見られなくなったという事なのか。
まあ、それは考えすぎにしても、80年代の曲を聞いて、感動していた人たちがもうこの世にいない、という少しノスタルジックな気分になりました。
阪神淡路が1995年です。そして東日本大震災が2011年。魔女の宅急便は1989年ですね。
時代を超えて曲が愛されるということで、昔も今も同じ人間だよ、という意味もあるんでしょうか。廃墟の記憶とも重なります。
とにかく日本の現実と過去の現実で、打ちのめされるくらい「つらい」感情を持ちました。ただ、その「つらさ」をどう受けとめ、今後訪れるだろう「つらい未来」にどういう心構えでいるのか、ということが「戸締り」なんでしょう。
恋愛部分ですけど、ここも考えすぎかもしれませんが、滅びゆく日本の中に、男女でもっと恋愛しようよ、夫婦で子供を残そうよ。困っている子供に手を伸ばしてみんなで育てようよ。だって、人間だから、というメッセージも感じました。
猫ですね。猫が愛情に触れると太り立派になり、悪意に触れるとやせ細ります。ここに人間の心の何かを象徴しているような感じはありました。神とはすなわち国土の意志と取ると、人間の心映えで国土の力が弱まっているという風にも感じられました。
過去の自分に会いに行く。なんのオマージュとかは忘れましょう。それは重要ではありません。過去の自分に何を言いにいったのか。
肝心なことを書き忘れました。一番恐ろしく、感情が動いたのが「黒く塗りつぶされたノート」です。ここが第1の嗚咽ポイントでした。(がまんしましたけど)もう、なんというか、真っ黒になった心…しかも子供の。この子供に対して、何を言えばいいのか。
子供が繰り返し黒く塗りつぶすシーンがありますので、ここは子供の心が壊れて行く恐ろしさが一気に理解できました。
そして震災の象徴である、あのビルの上の漁船の上の場面もありました。
解答はもう少し考えたいですが、この昔の傷ついた自分に何を言いに行くのか。これは冒険の果てだったからこそ、おばさんと喧嘩し、恋愛したからこその言葉だったと思います。ここに「戸締り」の意味があるんでしょうけど、そこがピタッとまだ理解しきれてません。
恋愛感情の持ち方の描写が弱いというレビューも拝見しました。これは「君の名は」でも言われたことだし、映画の作りとしてはもっともなご意見でしょう。
ただ、私は新海誠氏は、好きになるプロセスより好きになった気持ちと行動を大切にする人なんだろうなあと思っています。そして、好きになるプロセスは自分なりの考えで補いたいです。
船の中のでパンとジュースを買って2人で座っているシーンとかラブシーンとしては最高だったし、途中でイスにキスするシーンが見せてはないですけどありました。イスの上に立つシーンとかでちょっと恥ずかしくなりましたし。
イケメン(死語?)に恋するのではなく、イスを好きになるというのもポイントでしょう。超美青年という設定はこのヒロインの恋心がルッキズムによるものではなく、純粋だという表現だと思います。
初めは超イケメン好きだったのは冒頭でわかります。それがイスが好きになるプロセスで純粋さ(行動、使命、人柄、何より一緒に時を過ごす)を表すのに効いている気がしました。
また、ドアというのは異世界とか時間を飛び越えるというのはありますけど、心の象徴ですから。2人で一緒に扉を閉める旅をしているということで…かつ、鍵をヒロインに預けるし、何より鍵と鍵穴が象徴するのは…もちろん相手はイスですからメタファですけど。
イスがなぜ足が欠けているのかって、見逃したなあ。ありましたっけ?初めは障碍者を連想しましたが、むしろ家族が欠けるとか、心の何かが欠落しているイメージかなあ。次回確認します。
要石とか、猫神とか、ナマズとかいろいろ調べようと思いましたが、そういう考察はやっぱり要らないかなあと思いました。
ちょっと意地悪な見方ですけど宮崎駿氏ありますよね。魔女の宅急便とハウルの過去の部分とかみみずとか…オマージュかあ。
廃墟=懐メロ=人々の記憶=宮崎映画=悼むもの?
かなあ…
とまあ、思いつくままのメモです。初見なのでまた追記するかもしれませんが。
追記してもしても、書きたい事が出てくるので、2回目まで考えをまとめます。
言い忘れました。映画館でなければ嗚咽してたかも。最後のスタッフロールが少しの時間ですが暗い画面になるのでハンカチを取り出せました。
追記 「岩戸」とパンフについて。
配布のパンフは考察の邪魔。読まなくていいと思います。あるいは散々自分で頭を使ってから答え合わせをした方がいいと思います。そして、正解は作った側でなく、見た側だと思います。
自分の受けた感動とか考えた結果とか何よりも感情を「正解らしきもの」で上書きするのが最悪な映画です。わかった気になって思考停止に陥る可能性を危惧します。
そして、作品は制作者の手を離れればもう視聴者の判断にゆだねるべきものですし、複数のクリエータが時間をかけて作るものなので、個人の考えはそれが中心人物だったとしても参考でしかありません。
制作するにも時間はかかるし、いろんな修正が入った結果、当初の意図を超えるのが「作品」です。
何より、表現したいものは表現したようにしか現れませんが、表現した結果というのは個人の意思を超えるものなので、個人で作るコミック等でも例外ではないでしょう。
ですので制作者が作品について語るのは見聞きしても放っておくのが一番で、自分の考えと感情を優先すべきでしょう。
せっかくの名作なのに、余計な事をしてるなあ、というのが正直な印象です。自分で結論を狭めてるじゃん、という気がします。
ほかのレビュアーさんを拝読して、岩戸ですからやっぱり意図としては当然「天岩戸」は関係あるみたいですね。
岩戸という名前から当然連想はします。が「扉を開ける」は話でなく「扉を閉める話」だし、地震と太陽が隠れるというのが方向性が違います。モチーフというかイメージとして日本という国を守ると言う感じで単なる名前だけかなあと思ってました。
ただ、そうか「黒いノート」の意味がそうなると分かる気がします。震災で「世界が暗くなった」=幼いすずめの心が黒く塗りつぶされたということなんですね。
すずめが一般の人たちのメタファで、幼いすずめ=震災で傷ついた人たちと考えると、黒いノートの意味に背中がゾクリときました。
そういう人たちは震災の時以来世界が真っ暗になったということでしょう。
一方で、アマテラスオオミカミと幼いすずめがイコールだと思いません。なぜならすずめが救済のメタファになっているか読み取れないからです。もちろん、物語ですずめは扉を閉めて回る役割として、地震を防いではいますが、閉めると開けるはベクトルが逆の行為だし、そもそもそれはアメノウズメとアメノタジカラオの役割です。
アマテラス=アメノウズメというのはちょっと無理があるかなあ。自己救済という意味ならまあわからなくはないですけど、地震=災害を絡めるとよくわかりません。
ですので、みみず=震災を戸締りする=閉じ込めるという行為についてはもう少し考えたいです。これはやっぱり天岩戸とは方向性が違うので。
すずめが過去の傷ついた自分を閉じ込めるのか、傷ついた世界から連れ出すのか。その結果世界が明るくなった…というにはミミズは退治したわけではないので、余韻としては地震がある国土に住んでいるという暗さが残った気もします。
ここは岩戸という名前=「天岩戸」というフレーズに引きずられているところもあります。無理に天岩戸に重ねなくてもいいかなあという気はしました。
あくまで今後起こる地震ではなく、東日本大震災からの救済だけの話なら、そろそろ岩戸から抜け出ようよ、という気もします。ただ、そうなるとみみずがなんのメタファなのか…東京のみみずはなんであんなに大きかったのか。
東北のみみずの時、火が燃え盛っていましたが、あれは東日本大震災のイメージではなく、阪神淡路の光景です。
岩戸かあ…余計な名前というか…うーん。やっぱり映画のテーマ性の考察はあまり余計な情報がないほうがいいですね。
で、まあ、読まないようにしていたパンフを読んでみたわけですけど…うーん。大抵、クリエータってカッコつけるので、奇麗なことしかいいませんから。最終的には読み取れるもので判断した方が良さそうです。
企画段階から話が変わったのか、あるいは大きなイメージだけは拝借した感じと捉えたほうがいいのかなあ。正直、読まなければ良かった気がします。
別に映画の出来の良さに変わりがないのだから、語らなきゃいいのにと思いました。そして結果的には、やっぱり天岩戸と本作を無理に重ねなくても、読み取れるものだけ読み取ればいいと思います。
イスが3本脚の理由もまた震災で傷ついたということでしょう。震災で壊れたんですね。そういえばイケメンは宗像姓かあ…宗像神社でしょうか。たぶん古い神社だから何かのメタファなんでしょうけど。
草の字をわざわざ使ったのは、草薙剣かなあ。三種の神器だし「家」というフレーズから考察できなくはないですけど、不遜な答えになるので止めておきましょう。こういう設定考察は時間の無駄でしょう。
やっぱりこういう名前からは「イメージ作り」だけで、物語と重なる部分が少ないかなあ。
ただ、やっぱり彼が手力男というのはちょっと無理があるかなあ。
追記 そうかあ、アナロジーでいうなら海辺のカフカ(村上春樹)ですかあ…他の映画のレビューサイトで見ましたけど。うーん。ありえるなあ…すっかり盲点でしたね。四国ですもんね。何よりもっと大きな意味でメタファを感じますね。それに気が付いたからと言って、上で書いた感想もレビューも変わりはないんですけど、天岩戸と言われるよりも、納得感があります。「海辺のカフカ」は「入り口の石」を「開けて閉じる」に「猫としゃべれる男」がでますからね。それに主人公というか母親は昔の辛い記憶の世界に入ることで救済を得ますから。昔の辛い出来事を記憶する。それが悼むということ、そして前を向こうと言う話です。何より「海辺のカフカ」とは絵画ですから=映画と考えるとまた一段と面白いと思います。
確かにオマージュを感じます。設定を考察してもしょうがないとか言いながらも、このアナロジーに気が付いたのに感心してしまったし、考えるヒントになるので、追記しました。 {/netabare}
2回目視聴しました。一旦レビューはこれくらいにしておきます。
{netabare} いやー2回目はつまらなく感じるかなと思いながらも早々に再視聴。1回目より面白いのはなぜでしょう。
話の結末が見えていると、カットカットの意味がなるほどということもちろんあります。展開が分かっているので安心して見てられるので、話の面白さがより味わえるのでしょう。とにかくエンタメとしての面白さを再認識しました。まず、これがすごいです。
東京のシーンの出来は2回目見ても鳥肌でした。カットわり、演出、音楽、効果音すべてが最高…つまり最高に恐怖を感じました。モンタージュ効果というやつでしょうか。
で、結局なにを感じたかというまとめです。上で書いたものはその通りでいいんですけど、付け加えみたいな感じです。
まず、人間普通に生きたいという気持ちがある。それは結果的に今生きている人間も過去に不幸にあった人も一緒です。震災大国日本に住んでいる以上は、誰でも不幸は起こりえることです。だから、生きている人は懸命に生きましょう、死んだ人々に想いを馳せましょう。
それとやはり2匹の蝶々は両親でしょうね。いつまでも子供を見守っていると。
そうなったときにダイジンです。要石の役割というのは、日本を守るための犠牲でもあります。つまり本当はやりたくない役目です。ダイジンはやせ細っていたことと愛情に飢えていたことから考えて、つまり、貧困の中で不幸に死んだ子供、飢え死にでしょうか…それも親がいない状態で、ということだと思います。だから、鈴芽にご飯を貰って優しくしてもらって、鈴芽の子供になりたいと思ったのでしょう。
そして鈴芽の不幸な過去を救済するために東北に導いた、のかはわかりません。地震が起こる土地土地に導いて地震を止めていたとも取れます。また、過去から要石は場所を変えていたらしいので、そういうバトンタッチがあって、お役目を終えることができると言う風にも取れます。
東の要石はどうなんでしょうね。親目線なんでしょうか。親の愛情が理解できない人の魂なんでしょうか。だから、おばさんの本音がわかったようにも見えます。西と東で大小があるのは大人と子供なんでしょう。
映画の意味として、確かに悼むという意味とか、親から子へ次の世代への気持のようなものとか、もちろん恋愛やホスピタリティと言ったものは感じます。ですが、根底にあるのはやはり、どこか地震と災害があり、夢を犠牲にして日本を支える人がいる、みたいな暗さは感じました。
ですので、2回目を見て、ますます天岩戸…そうかなあ、という印象でした。
あと首都高の途中の階段を見て、1Q84でしたっけ?村上春樹を感じたんですけど、どうでしょう?海辺のカフカ…そしてかえるくん、東京を救う?
ということで3回目も多分行くとおもいます。できれば貸し切り状態で1回見たいなあ。最高の映画でした。{/netabare}
で、見てから1週間で3回目見てきました。若干考察らしきものをメモしておきます。
{netabare} やっぱり本作は、映画としてエンタメとしての面白さがまずすごい。ストーリーは当然で、作画・背景美術はもちろんですが、展開、構成、演出・演技・カット割り、間、エフェクト、音楽、音響、効果音すべてが素晴らしいと思います。
で、テーマ性なんですけど、まずは1つめ。「がんばって生きよう」かなあと思います。「死と隣り合わせだからこそ」「不幸にも死んでいった人がいるのだから」がある気がします。そこには「利他の喜び、感動」もあるでしょう。
2つめが「親子」でしょうか。「育てのと産みの親」みたいな部分もあるでしょう。ですけど「親は子供を気に掛ける…心配」かなあ、という気がします。やっぱり2匹の蝶々ですね。あれが両親だと思いますし、ダイジンの過去を想像すると、親の愛に飢えた子供をどうしても連想します。環さんの表裏の愛憎もそうですけど。
もう1つ。キャラの深掘りとしては、鈴芽の行動です。どうも彼女は死を恐れていないという感じ、それが衝動的な行動につながっています。これは、彼女の半身である幼い子供時代が黄泉の国に残っているから…ともとれます。死の世界に半分足を突っ込んでいた。
それと環のキャラ弁ですね。あれを見ると環との関係が重かったんだろうと言うのが分かるし、後半のセリフでもいいます。心の底でどこかに逃げたかったんでしょうか。
草太への気持は、一緒に旅をする吊り橋効果とも取れますし、過去に会った事がある、使命感に惹かれた、イケメン等々あると思います。最後の「おかえりなさい」で気持ちが残っていたかどうかはちょっと考えなくちゃなりません。半年時間を置いた理由です。まあ素直に待ち続けているとも取れるし、戦友的な「おかえりなさい」とも取れます。
結局本来はダイジンと入れ替わるのは鈴芽ということでしょうか?ただ、ダイジンは好きになっから鈴芽と一緒にいる草太を代わりの要石にした?
旅館とスナックに客が集まった理由は、鈴芽がいるから?鈴芽を助けたくなる理由と一緒?ここのアマノウズメ設定が活きるということ?ここは少し考えたいですね。
岩戸の中にいたのが鈴芽の幼いころ=アマテラスだとすると自己救済だです。黒い日記帳に対して、明るい未来というのは、なんとなくそのメタファな気がします。
鈴芽が震災で生き残った人の気持ち=黄泉の世界にいると考えると自己救済です。
とまあ、いくらでも考察できますけど、これくらいにしておきます。多分、次は円盤待ちか、年末年始にやってたら、どこかで4回目行くかもしれません。
なお、他サイトその他でダイジンの件で目につく批判がありました。どうも有名なレビュアーがユーチューブで何か言ったみたいです。
ダイジンまた要石になって、鈴芽は心が痛まないのかという話があります。
まず、ダイジンと何のために相互理解したのか、そして左大臣を大きく描いて、親のような存在にしたのか。要石が昔から移動した設定。鈴芽が自分が犠牲になっても草太を助けたいという気持ちの後、やっぱり生きたいと言ったところ、何より新海誠映画の省略の読み取り方が分かると、いろいろ考えが及ぶと思うのですが。
それと最後のスタッフロールで仲が悪かった3人が仲良くしているところとか、痛みもそうですけど草太がいない状態です。「わざと明るくしている」と考えれば、まったく不自然じゃないと思うのですが?
まあ、人それぞれなのでいいですけど、あまり些事を拾ってもしょうがないし、鈴芽の過去と性格から補完できないかなあという気がしました。
テーマ的には重要な要素なので、ここに視点をむけるのは良いと思いますが、しかし、ダイジンが要石に戻ることを不自然にとらえると、映画の始まりからダイジンのキャラ設定がかえっておかしくなる気がします。 {/netabare}