「空の青さを知る人よ(アニメ映画)」

総合得点
73.2
感想・評価
175
棚に入れた
805
ランキング
851
★★★★☆ 3.8 (175)
物語
3.7
作画
4.0
声優
3.7
音楽
3.8
キャラ
3.7
ネタバレ

素山房 さんの感想・評価

★★★★★ 4.2
物語 : 4.0 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

青空の形見

秩父三部作と称される一連のシリーズは本作をもって完結となる。
先行する「あの花」「ここさけ」で描かれた鮮烈な青春群像劇から
さらに先に進んだ段階で遭遇する、選択と行き詰まり、停滞や迷いなど
より広汎な人生の諸相へと内容が拡張されている点が今作の特徴だろう。

高校生のあおい。かつての輝きを失って帰郷した慎之介。
二人が歌うそれぞれの「ガンダーラ」に込められた、対照的な「夢」の姿。
自分の可能性を信じるあおいのアグレッシブな歌いっぷりと
ギターを爪弾きながら慎之介が絞り出す、うらぶれたひとり歌と。
多感な思春期の視点と、現実を知った大人の視点とを重層的に絡めながら
それぞれの再出発へと至る、お馴染みのあの心理ドラマが紡がれてゆく。

作品のテーマはやはり「夢」と「現実」の相克となるのだろうか?
確かにそれこそが、幅広い層の共感を呼ぶ所以だろう。
だが、キャッチ―な外見に包んで独自のメッセージを投げかける岡田麿里のこと、
本作の射程は多分、そうした一般的な情調に収まるものではない。

素朴な疑問から出発してみたい。しんのとは本当は何者なのか?
「生霊」というのは単なる当て推量であって、それで済ませると
重要な解釈の鍵の一つが見落とされてしまうような気がする。
以下は、この特異なキャラクターに焦点を絞ったときに見えてくる
「魂」をめぐる内省のドラマについての、我流の読解の試みである。


{netabare}
しんのが目を覚ますのは、お堂と呼ばれている神社の拝殿の中だ。
青春のすべてを捧げたバンド活動の拠点だったその場所には
今も一本のギターが残されたままになっている。

慎之介の部屋の押し入れから取り出される、ガムテープで封印されたギターケース。
ケースの中には当時の記念の品々、そして一枚の写真が収められている。
その封印が解かれる瞬間と、しんのの目覚めとがシンクロして物語ははじまる。

ギターが入っていない空っぽのケースと、遠くに残されてきたその本体。
しんのと慎之介との関係を説明する、これはかなり明解なメタファーではないか。
作中では現在の慎之介の方が「本体」と呼ばれているが、実際は逆のようだ。
今の慎之介の空虚さは、魂を失った抜け殻そのもの。だとすれば、
置き去りにされた中身、お堂にいるしんのが実は本体。すなわち彼の「魂」である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

目覚めたしんのは、外界から隔絶されたお堂の閉鎖空間の中で、
自分が存在している理由をずっと考え続けている。

 なあ、俺どうしてここにいるんかな?・・・どうして、か・・・

あおいやツグに対して彼はひたすら優しい。それは封印された過去という、
ネガティブな存在である自分を自覚しているためでもあるだろうか。
ネガティブであるがゆえに、ポジティブな肯定を与えることができる、
そんな彼の存在自体が一個の逆説のように作用し、彼と関わる人々の心に変化をもたらす。
魂の持つ背理な力は、常識の目には逆説と映るものなのである。

あおいにとってしんのは、恋愛の対象である以前に、
突っ張ったり背伸びしたりする子供らしさも含めた等身大の、
ありのままの自分を受け容れてくれる、心の支えのような存在になる。
慎之介の変貌ぶりに失望し、さらに周囲の大人への反発が重なって
突発的にあかねの生き方を全否定してしまうように、あおいにはまだ幼さが残る。
あかねへの愛情と反発の間で揺れ動く、そのアンビバレントな感情の縺れを
心の奥底にある、最も素直な感情に導くことによって、しんのは解きほぐした。

それが魂の作用だ。

内面の危機に際して発動する一種の治癒のプロセスが
秩父三部作に共通する物語の根幹であるとすると、本作のそれはおそらく、
魂の働きかけによって呼び覚まされた、本来の純粋な心への回帰として示される。
さらに踏み込んでみると、物語の表層では明示されてはいないが、
本作に潜在する固有のテーマは「魂への回帰」である。そう自分は考える。


しんのと慎之介の対決。その決着に現れる肯定のかたちに着目したい。

しんのが肯定しているものはおそらく「時間」である。
停まったままの自分には持ちえなかった、慎之介が送った13年という歳月の重さ。
それが、所在なく無為に過ごしている自分の時間と鋭く対比される。
この場所に留まろうとした自分の弱さと、外の世界に踏み出した慎之介の強さ。
停滞してやさぐれている現状もその決断の結果として、決して否定されるものではない。

 俺さ、あの写真見ていろいろわかっちまった。
 あいつはさ、あん時、閉じ込めることでしか前に進めなかったもんに
 もっかい向き合おうとしたんだ、って。
 俺の中にもあるこの想いを、後悔になんてしないように、
 だから俺はあそこにいたんだ、って・・・

あらためて前に進もうとする慎之介の覚悟に応えるために、しんのは現れた。
前に進めたお前になら、まだやれるはずなんだ、そう言ってやるために。
しんのの肯定が伝わった時、滞っていた慎之介の時間が再び流れはじめる。
停滞とは多分、過去にとらわれて、現実の自分を見失ってしまうことだ。
夢とか現実とかいう区分はすでに無効だ。だから挫折などというものもない。
慎之介の言葉の通り、すべてはまだ途中なのだ。

 俺さあ、俺、ちゃんと前に進んでんだと。
 けど、まだ全部途中なんだ。途中だったって思い出した。
 だから、あきらめたくねえんだ、俺も・・・

過去の自分、現在の自分、未来の自分。それらを貫いているものとは一体何だろう―。
いつかは消え去る夢や、偶然に左右される現実といった不確かなものを超えた
もっと確かな、定点となるべき実体、それがその人の「魂」と呼ばれるものなのではないか。
魂を保って生きること。自分の魂と折り合いをつけて進むこと。
過酷な現実の中で貫かれる、魂の所在こそが人生の本質的な課題となる。
慎之介としんのとの出会いは、見失われていた自分の魂との再会だったのだ。


物語のクライマックス、「魂の解放」が語られる。

しんのとあかねとの対話の中では、次々に肯定の連鎖が生じていく。
真っ直ぐに成長した現在のあおいを知ったことでしんのは、
あおいのために地元に残ったあかねの選択を心から肯定することができた。
その肯定は、あかねを愛した彼自身に、さらにはその想いの実体化した
今ここにいるしんのの存在にまで、連鎖的に及んでいく。

「ここさけ」について書いた中でも触れたように、救済のプロセスは一方通行ではなく
双方向的・相互的に作用する。しんのがあおいの心の成長を助けた一方で、
彼の解放、さらに言えば彼の存在そのものの救済はあおいによってもたらされた。
別れ際の「ありがとな、目玉スター。」は、このことへの感謝なのだろう。


そして最後に、しんのからあおいに伝え残されたことは―。

自縛から解き放たれたしんのが、あおいを伴って広大な空を駆け回る、
魂の自由な躍動を表現したこのシーンには多分、一つのメッセージが内包されている。

 空、青いね。・・・
 出たい出たいって思ってたけど、こんなにきれいだったんだね。

しんの=魂に抱かれて、初めてあおいは空の本当の青さを発見する。
それは自分が今生きるこの場所を再発見し、肯定することを意味している。
この空の青さが魂の宿りだからこそ、どこまでも高く高く、跳ぼうとする。
この場所が魂の故郷だからこそ、どこまでも遠く遠く、駆け巡ろうとする。
この時、まるであやされる赤ん坊のようにあおいが描かれることに注意したい。
そこには多分、魂の風土に抱かれて育まれる、人間の魂の本来の在り方が暗示されている。

そのすべては、故郷・秩父に捧げられたオマージュと捉えていいのではないだろうか。
「魂への回帰」、これはデラシネ=故郷喪失という思想の問題と結びついて語られる。
記念碑的な連作・秩父三部作を締めくくるのは、魂の「根差し(enracinement)」をめぐる
新たな可能性への、かすかな予感なのかも知れない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、登場人物のその後の消息を伝えるエンディングの写真の中に、
あおいの部屋とおぼしき室内が写っているものがある。
そこには愛用のベースと隣り合って、あの「あかねスペシャル」も仲良く並んでいる。
慎之介とあかねが結ばれた後も、魂のしんのはずっとあおいの隣にいる。
それがこの物語の結末のようだ。
{/netabare}


三部作の全体を概観したとき、完結編となる本作には前作を踏まえた
どのような一貫性が内包されているのか、あるいはいないのか?
継承された点と進化した点とが、ともに指摘できるようだ。

物語の中心となるキャラクターの基本造形は本作でも反復されている。
「あの花」のめんまと同様、しんのは過去から不意に現れた異人であり、
また、あおいは「ここさけ」のヒロイン、成瀬順の片恋を受け継いでいる。
発展と見なせるのは、過去に関わる葛藤の乗り越えを描くのに際して、
思春期の心の「成長」から、人生の「成熟」へと視点が移行し、さらに
それを促す要件としての「魂」の存在が、暗示的に主題化された点だろうか。

さらに、前二作との決定的な相違点を二点、以下に記しておく。

{netabare}
まず、「あの花」「ここさけ」に見られた求心性と緊迫感は
物語の固有の磁場を形成する、オリジナルな原初の「事件」に由来する。
原罪とも呼び得るトラウマからの解放に向け、極限的な感情と言葉とがぶつかり合い、
それらが思春期の心の揺らぎと共振し、作品は独特の屈折と陰翳を帯びる。
そうした内発的な展開の契機が、今作ではいわば外部化されている。
両親の死亡によるあかねの東京行の断念は、一般的な人生の有為転変に属しており、
そこにはあの私小説風の、特異で尖鋭な端緒が見られなくなっている。

また、説明的な描写、外的要因に頼る展開などに、一種の省エネ志向が認められる。
例えば、慎之介とあかねが会場の裏手で偶然出会う重要なシーン。
ここは再会した二人の心の揺れ動きをもっとじっくり描くべき所ではないか。
目撃したあおいが姉の一面を再認識し、一方でしんのの消滅を恐れて
板挟みの苦悩を深めるという方向につなげるのは、確かに無駄がなく効率的だが、
その分、キャラクターの心情への共感的な没入が妨げられる。
予期せぬ偶発事の発生で急転直下、物語に決着がつく終盤も展開本位だ。
視聴者は作品の中に入り込むよりも、外から筋の流れを追っていく感じになり、
映画的な感興がそがれ、テレビドラマ風な平板な印象が残ってしまう結果になった。
{/netabare}

視点を多重化した本作の試みは功罪両面で評価できそうだ。
複層化に対応した構成は、前二作よりも明らかに緊密になっているが、
それにもかかわらず、逆に弛緩したような印象を受けることは上記の通りであり、
作品としての感銘度では、前二作には及ばないというのが自分の結論である。

蛇足になるが「井の中の蛙~空の青さを知る」というこの格言を
「魂」の方向に徹底させた言葉があるので、引用しておきたい。
沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷が座右の銘とした、ニーチェの言だそうである。
曰く、
   ― 汝の足元を掘れ。そこに泉はある。

投稿 : 2021/06/01
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サンキュー:

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