「はねバド!(TVアニメ動画)」

総合得点
73.1
感想・評価
504
棚に入れた
1991
ランキング
1027
★★★★☆ 3.5 (504)
物語
3.2
作画
3.8
声優
3.5
音楽
3.5
キャラ
3.4

U-NEXTとは?(31日間無料トライアル)

ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 3.5 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

2人のシャトルの軌跡がとても見えにくい。2クールを希望、かな。

原作は読んでいません。

皆さんのレビューを参考にさせていただいて、私なりの感想を述べてみたいと思います。

まず、先に、残念に感じた部分です。
OPと本編の作画の差です。
{netabare}
画で押すんでしたら、OP路線で突っ走っていただきたかったです。
OPの個性的なストップモーションとウルトラハイスピードをかけ合わせたような表現の描画は、ほかのボールゲームでは見られないバドミントンならではの魅力を最大限引き出していたように思います。
シャトルが回転する動きとか、ラケットのシャフトのしなりとか、ガットの震えとか、目では捉えられない刹那の攻防を、独特のタッチでダイナミックに描きだせていたと感じるのです。
超高速で空気を切り裂くシャトルが、ラケットに触れた瞬間、まるで、意志を持っているかのように急激に方向転換したり、意表を突いて減速をしたりする様は、バドミントンの醍醐味のそれです。
素人の私にとっては、ラケット捌きもボディコントロールも、合理的な技術の範疇を超えています。もはや魔法にしか思えないスーパーテクニックであり、それを駆使してラリーの駆け引きをする頭脳的な心理戦も興味が尽きません。

実際の観戦は、コートからはそれなりに離れて見ているわけですから、素人目にはシャトルを白帯のムコウに打ち返しているようにしか見えません。でも、実際は、ものすごく考えながら打ち合っているようですね。例えるなら、囲碁や将棋のように何十手先の手合いを読んでいる。読み切れるか、読み外すか、そのギリギリの攻防を、駒や石を打つように、シャトルを打っている。しかも、長考ではなく、1秒そこそこのあいだにです。

アニメの表現における強みは、ありえないアングルと、時間の切り取り方です。
プレーヤーの目線なら、顔面に向かって唸りながら迫ってくるシャトルの癖や、逆に、シャトルの真うしろから捉えれば、相手プレイヤーの筋肉の反応する瞬間が表現できます。
あるいは手首の返しやラケットのひねりをスーパースローで見せたり、歯ぎしりで口角が上がるさまに思いっきり寄せることができるわけです。
たしかにOPではそういった刹那が美しく表現されていたと思うのです。だから、本編に採用されていなかったのはちょっと勿体なかったなと個人的に思うのです。

最近のバドミントン界は、多くの選手の頑張りでテレビの露出が多くなってきています。この作品の放映のタイミングは、競技の魅力を強く押し出す千載一遇のチャンスだったと思うのです。他のスポーツとの違いを斬新な映像で見せて欲しかった。これに尽きます。
ちなみに、"はるかな" は、キララ系+スポ根+友情+水着という王道な設定でしたので、好感度まっしぐら?でした。w

以上、個人的に、ちびっと残念に思えたところでした。おそまつ。
{/netabare}

さて、前向きな評価もしてみたいと思います。
{netabare}
OPの画は採用されてなかったけれど、バドミントンの "競技性の魅力" はしっかりと追求されていたと思います。
あれだけの作画です。CGを導入していたようですが、プレイヤーの動きは非常にリアルに表現されていました。
1秒にも満たない攻防のなかでのメンタリティとフィジカルの凌ぎ合いも見事に描き出されていました。
プレイヤーの思考のさまも上手く差し込まれていたと思います。
{/netabare}

本作の評価の分かれるところですが、推測するに、3つの物語の流れがあって、それぞれが無手勝流にあさっての方向に氾濫してしまった印象があります。
{netabare}
一つは、バドミントンへの思いを部活動の群像劇の中で描いている流れ。
二つに、ダブルヒロインがメンタリティに傷を抱え、しかも対峙する流れ。
三つに、母親が勝利至上主義に寄っていて、歪にゆがんで見える流れ。

この3つの濁流を、上手くさばききれていなかったように思います。

では、1つめの青春群像劇について。
{netabare}
第一印象は、青春劇のセオリーにない構成と展開に戸惑いました。

シングルス(個人戦)は、プレイヤーのメンタリティを、その選手の固有のものとして強調して表現することができます。
卓球の張本選手の雄叫び(チョレイ!)も同じことですね。♩

本作では、荒垣なぎさの圧倒的な敗北体験が導入部になっています。部員たちは、なぎさの勝利を渇望する熱量の高さに翻弄され火傷までしているようで大変そうです。

退部者が出たことについてですが、私は、大量退部を2回も経験していますから、それほど違和感を持つことはありませんでした。勝負に徹していても、またそうでなくとも、退部するという選択は退部者の主体性にあります。ですから、これを演出の一つとしても、荒垣のメンタリティは理解できます。

多感な年代、部員の人間関係、それぞれの集団心理などが交錯しての結末なので、これをご覧になられる方の価値観、例えば、公立校の望ましくあるべき部活動のありようとか、全体を統括するリーダーたるべきキャプテン像とかによって、なぎさの評価が変わるのは仕方ないことだと思います。

でもね、高校は義務教育ではないし、全国を目指すなら、なぎさの厳しい態度は、私には許容範囲です。シングルスは、個人の技量の差がモロにプレーに出てしまう。コート上でゲームをコントロールできるのはプレイヤーだけです。なぎさが、部員に少しでも上に勝ち上がらせたいと思うなら、練習は厳しくせざるを得ません。

競技の本質は、心身の切磋琢磨にあり、進歩向上こそが醍醐味です。そしてできるなら勝利を勝ち取ってゲームを終えてほしい。3年生にとって初戦で負けてしまったら勝利の歓喜はもう得られません。1勝する意味は大きいと思うのです。トーナメントでは、強豪選手といきなり当たるかもしれません。だからこその練習だと思うのです。

また、退部したメンバーも決勝戦に観戦に来ていましたので、なぎさのキャプテンシーにはそぐわなくても、プレイヤーとしてのなぎさの実力はリスペクトしていたと思うのです。
しかも、対戦するのは同じチームの1年生、かつてなぎさにラブゲームをくらわせた羽咲綾乃との再戦です。なぎさのゲームは、元部員にとっても見逃せないものだったと思います。

また、現役の部員は、2人のコンディションを日々見てきていたわけですから、どちらに加担しても間違いではないし、どちらを応援しても正しいと思います。

それにしましても、勝負に徹しようとする2人の態度の危うさには、正直、私もぶれました。
それほどに、2人のメンタリティのエッジが尖っていました。鍔迫り合いとはこういうことを指すのかもしれません。似て非なるものですが、まるで奥穂高岳の"馬の背" を歩くような感覚でした。

"はるかな" では、パートナーを選ぶことに競技の素晴らしさを表現していました。
はねバドでは、シングルスの魅力に主眼を置いて競技性を演出していました。"強調" といってもいいですね。
私は、どちらの作品も好きです。どちらも夏にぴったり。
両者ともに、レクリエーションにまで裾野を広げているにも関わらず、競技スポーツとしては、あまり衆目に触れない部類ですから、今回、観ていて飽きることはありませんでした。むしろいろいろわかることが多くて、楽しかったです。
{/netabare}

次に、2つめ。
荒垣なぎさと羽咲綾乃のパーソナリティーです。
{netabare}
綾乃の母親は、全日本10連覇プレイヤーという設定です。言うなれば、世界をまたにかけたワールドビジネスパーソン。その切符を10年間も手にしているなんてすごいの一言に尽きます。また、ひとり親家庭の実態を鑑みれば、祖父母に我が娘を預けて世界を飛び回る生き方も、今や、"あり" なのかも知れません。

でも、綾乃のメンタリティへのケアについては、ちびっと首を傾げざるを得ません。
うがった見方かもしれませんが、児童虐待、ネグレクト(育児放棄)のように見えてしまいました。

母親がプレイヤーとしてバドミントンに人生をかけるのは理解できますし、彼女の自負心に直結しているのも頷けます。日本を飛び出し、世界に出向いてでも新しい才能を見つけたいだろうし、若手を育てていきたいという思いも理解できます。
また、バドミントンをテニスのようなメジャースポーツに押し上げたいとする気持ちも分かります。(視聴率が稼げなければ、オリンピック競技からも外されかねないという危機感はどのスポーツにも共通する課題でしょう。)

本作では、綾乃の個性・性格において、プレーのオン・オフに関わらず、パーソナルな日常の暮らしの様子も含めて、母親との軋轢、そしてトラウマを感じさせる生きざまが、表情や仕草、声に表現されていました。

母親と過ごす時間のほとんどが、バドミントンを通じて描かれていますので、そこで生じたトラウマが大きいみたい。なので、プレイヤーとしてのパフォーマンスにも影響が出るのは仕方ないし、部に所属するだけでも、刺々しい態度になっているのもやむを得ないのかしら。
なぜでしょうか?

個人的には、綾乃の価値観で、バドミントンをとことん突き詰めていくからではないかと思います。綾乃が部員となり、プレイヤーである以上は、母親の存在を認めなければなりません。同時に母親に認められなかったこと、捨てられたことにも向き合わなければなりません。このストレスは大きいと思います。これを抱えながら前に進もうとなると、それ以上に大きなエネルギーと意志の力が必要になったのではないでしょうか。

私は、それを母親への反発心と見ました。
綾乃が、母娘という関係性を再構築しようとするなら、まずは、母親よりも強くなければならない。その気持ちを持つことはとても自然だと思います。捨てられたのですから。だから、もっと強くなって、逆に母親を捨てるほどになって見返してやろうとする意志の力が、綾乃のパワーの根源だと感じます。
荒垣にはかつてラブゲームで勝っているし、キャプテンであろうが、3年生であろうが、コートに入れば関係ないわけです。勝つことがすべてで、倒すことがすべてです。

でも、コートの外でも同じように振る舞うことに、私は違和感がありました。
私見ですが、それは人間へのリスペクトの欠如のような気がします。
"愛着障害" という言葉があります。
例えば、子どもが母親の愛情を得たいと思っても、虐待され、ネグレクトされると、子どもは、どうしたら受け入れてもらえるのかものすごく悩むし、受け入れてもらえないとなると、ただ、従順な言いなりになってしまったり、さらに、関係性を放棄してしまったり、拒絶したりします。そうした心因反応としての "人間性の欠如" ですね。

でも、同時に、心のなかではどこかで親子関係を求めてしまいます。
"愛着障害" とは、二律背反する不思議な感情ですが、綾乃には母親との楽しかった記憶もあるのですから、そこが関係性の物差しの一つになっているのでしょうね。
きちんと自己肯定感を作っておかないと、いつまでも目に見えない障害壁になってしまいます。
たぶん、母親との決着の筋道も、部員との邂逅も、ギクシャクしたものになると思います。

綾乃は、苦しい課題を背負っていますね。

でも、綾乃にとって救いなのは、なぎさの存在でもあると思います。
もし、2期があるとしたら、全国の強豪を相手に、2人はパートナーとして気持ちを共有できると思います。

また、なぎさに屈した経験は、悔しさとともに緊張感を得たと思います。
なぜなら、かつてラブゲームで下したプレーヤーに、今回はフルセット、デュースで負けたのですから。
全国に行くまでの期間は、更なる伸びしろを身につけるために、大きな期待と入念な準備に当てられるでしょう。その意味では、綾乃にとっては、なぎさの存在は救いです。

それに、綾乃にとって大きい意味があるのは、バドミントンの敗戦が、"弱い者" というレッテルもトラウマも生まないことです。だって、なぎさも部員らも、綾乃を見捨ててはいませんからね。
ここに青春群像劇としての綾乃の立ち位置と道筋に、ひとすじの光明が見えるように思えます。


さて、荒垣なぎさについては、先に少し触れました。

なぎさも、重い課題を背負ってキャプテンシーを表現しています。
高校生が、中学生にラブゲームとは、私には想像すらできません。なぎさだって相当の実力を持っていたわけですから。ショックのあまり、競技を辞めても仕方のないシチュエーションです。

奈落に落ちたあとの努力は並大抵のものではなかったと思います。
友人の泉理子の存在は大きかったでしょうね。なぎさを励ましつづけ、支え続けてきた大切なパートナーだったと思います。理子がいてくれたからこそ、かつて慟哭の中にあっても、弱い自分であっても、自分の居場所を保ち続けられていたのではないか。だからこそ、より厳しい道を選び、自分に鞭打ち、刻苦勉励したのではないかと感じます。

なぎさは、ちょっとスポ根に過ぎて、今時は不器用なタイプだけれど、真っ直ぐな気持ちを持っていますね。
{/netabare}

3つめの母親について。
{netabare}
こちらも、先に少し述べました。

う~ん。困ったな。
私は、母親にも、綾乃にも、共感してしまっています。
どちらの側に立っても利益相反してしまいそうですね。
その意味では、ジャッジメントは先延ばししたいです。

ただ、本作の流れとしては、本流にはしたくはないです。
綾乃のバドミントンへの動機としての理由とか背景とか、そういうものとして見るなら、母親の存在感は一つの一里塚として分かりやすいものではありますが、ちょっと影が強すぎるきらいがあります。
綾乃の気持ちを考えれば、大好き →敗戦 →放棄・ネグレクト →途方に暮れる →嫌悪と反発 →再起?? など、いささか複雑に過ぎます。

昭和の古いアニメであれば、子どもの成長において、極貧ゆえに両親が出稼ぎに出てしまうとか、生活苦で、ラケットが買えないとかシューズに穴が開いているとか、ほかに選択肢がないとか、モノが無いゆえの切なさや後ろ向きな設定がまかり通っていた時代性が表現されていました。
平成のアニメは、どちらかというと、豊かさの裏側の舞台、自己実現を叶えるためにという、もっとメンタルに寄せた設定になっていますね。

本作に、なんだか、妙なアンバランスな印象を持つのは、昭和うまれの時代遅れの性(さが)なのでしょうか。現代っ子は難しいですね。
{/netabare}

いずれにしましても、ちょっと出色な作品でした。
このあたりで、締めたいと思います。
{/netabare}

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2018/10/10
閲覧 : 268
サンキュー:

27

はねバド!のレビュー・感想/評価は、ユーザーの主観的なご意見・ご感想です。 あくまでも一つの参考としてご活用ください。 詳しくはこちら
はねバド!のレビュー・感想/評価に関する疑問点、ご質問などがございましたら こちらのフォーム よりお問い合わせください。

fuushinが他の作品に書いているレビューも読んでみよう

ページの先頭へ