「彼方のアストラ(TVアニメ動画)」

総合得点
89.5
感想・評価
975
棚に入れた
3810
ランキング
76
★★★★☆ 4.0 (975)
物語
4.2
作画
3.9
声優
4.0
音楽
3.8
キャラ
4.0

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ネタバレ

キャポックちゃん さんの感想・評価

★★☆☆☆ 1.4
物語 : 1.0 作画 : 1.5 声優 : 2.0 音楽 : 1.5 キャラ : 1.0 状態:観終わった

どこが面白いの?

【総合評価 ☆】
 第1話で「ああ、よくある宇宙サバイバルものだな、これなら大外れはないだろう」と思って見続けたものの、ラストに至るまで唖然とするほどつまらない。興味のない作品は無視してレビューしないのが私の方針だが、これほどとなると、さすがになぜ面白くないのか分析したくなる。
 宇宙でのサバイバルを描いたアニメには、『無限のリヴァイアス』(99)、『蒼き流星SPTレイズナー 第1部』(86)、『銀河漂流バイファム』(83)、『無人惑星サヴァイヴ』(03)などがあり、作品のターゲットとされる階層はこの順に低年齢化していく。『彼方のアストラ』(以下『アストラ』と略す)は、内容からして最も対象年齢が低く、おそらく男子小学生を狙った作品だろう。小学生向けなのだから、科学的に杜撰だったり人間が描けていなかったりするのは仕方ないと言えるものの、もう少し工夫ができたのではないか。
(以下の記述は、読者が『アストラ』全話を視聴済みであることを前提しています)

【人間が描けていない】
 「人間が描けていない」と言うと「批評居士の常套句」と思われそうだが、私が指摘したいのは、緊張をはらんだ人間関係が物語を展開させるエンジンになるという、優れた文学や映画に共通するドラマツルギーが欠落している点である。類似作品と比較するとわかりやすいだろう。
 『アストラ』は、宇宙で孤立した少年・少女の集団の中に、彼らを遭難させた犯人が紛れ込んでいるというミステリー仕立てになっており、宇宙サバイバルものの金字塔である萩尾望都の漫画『11人いる!』とよく似ている。『アストラ』の原作者・篠原健太自身、その影響を認めている。
 『11人いる!』は、まず前半で人間関係をじっくり描き、後半に入ると、船内でウィルス感染が発生するという単一の危機に対して、登場人物がどのように反応するかを主題とする。外部との連絡を取るか、武器の携行を認めるかなどを巡って、すべての登場人物が、前半で描かれた関係に則って必然性のある反応を示し、見ていて納得がいく。誰と誰が反目し、それを誰が調停するか。誰が慎重に策を練り、誰が積極的な行動に移るか。閉塞的な宇宙船の内部で、ビリヤードにように相互に衝突し反発しながら自分の意志に従って突き進む若者たちの姿は、「クルミの中の人間喜劇」と呼ぶに相応しい。
 一方、『アストラ』では、「航行中/惑星上で何度も危機が訪れ、そのたびに誰かが頑張って乗り越える」という話が繰り返されるだけで、人間関係が物語推進のエンジンにはならない。こうした展開が第8話辺りまで続き、さすがに危機のネタが尽きたのか、第9話からは、彼らが陥った状況の全体像が問題とされる。ただし、取り上げられるのは、クローンとか偽りの歴史といった外在的な出来事であり、直接関与するキャラがその場限りで主導的に行動するものの、『11人いる!』に見られるビリヤードのような連鎖的反応は生じない。
 断っておくが、私は、芸術作品はすべからく人間を描くべきだと言いたいのではない。円城塔の『文字渦』のように、人間を描かないからこそ大好きな作品もある。ただ、限定的な環境に置かれた集団に目を向けながら、心理描写が甘く、その内部にあるはずの関係性を物語の展開に利用しないことが不満なのである。

【心理のない木偶】
 心理描写の甘さがはっきりと見て取れるのは、グループのリーダーとなるカナタである。彼は、数年前にキャンプで事故に遭い、目の前で教師が死ぬのを目撃した。身近な人が死ぬと、それがトラウマとなって、なぜ自分が助かったのかと思い詰め、自己破壊衝動にとらわれ極端な行動をとるケースが見られる。しばしば危険を顧みずに他者を助けようとするので、一見英雄的に見えるものの、根底に自己の価値を否定する虚無的な思いがあり、心の翳りを隠しようがない。そうした人物を登場させた文学や映画は、すでに無数にある。当初、カナタが無謀な救出に繰り返しチャレンジするのも、同じくトラウマに起因する心理の表れかと推測した。しかし、いくら目を凝らしても、心の翳りは窺えない。かつて教師を助けられなかった悔しさを晴らすかのようにひたすら突き進む、単なる直情径行バカにしか見えない。トラウマどころか心理すらない木偶のようである。
 『アストラ』の作者(原作を描いた漫画家 or アニメの脚本家)が登場人物の心理について深く考察していないことは、彼らの行動全般に見られる不自然さにも現れる。
 例えば、第6話でウルガがルカを殺そうとするシーンがある。しかし、彼が復讐したいのはルカの父親であり、帰還して跡取りが失われたことを父親に知らせるまで復讐は成就しない。帰還できるかどうか不明な段階で、ルカに対する殺意が抑えきれなくなるのは、復讐者の心理として不自然である。
 また、第7話では、カナタらが発見したポリーナのコールドスリープをいきなり解除する。だが、このときは自分たちも危機的状況にあり、ポリーナを目覚めさせても助けられるという確証はなく、少しは躊躇するはず。にもかかわらず、アホのカナタだけでなく、理性的なはずのザックまでもが解除に同意した(ように見える)。
 不自然さが異常なほどと言えるのが、クローンの親たち。クローンである子供を犠牲にし、その肉体に意識を移植して自分の命を長らえさせる計画なのに、ザックやユンファなど何人かの親は、クローンを身近で育てていた。後に犠牲にする予定の子供を近くに置いて育てられる人間など、私には想像もつかない。そもそも、意識の移植という超技術が実用化されている社会では、もっとほかの手段があるのではないか。

【SFネタの大安売り】
 登場人物の心理がきちんと描かれるならば、設定された状況に応じて自然に反応するため、行動の連鎖が誘起されドラマが進行する。しかし、『アストラ』では、心理描写が甘いため話が拡がらず、新たな状況を何度も用意しなければならない。その結果、さまざまなSFネタを総ざらいして逐次投入するのだが、そうしたネタのほぼすべてで先行作品が指摘でき、目新しいものは見当たらない。
 ただし、SFのように斬新さが求められるジャンルであっても、既知の作品をまねたというだけでは、欠点と言えない。アニメで例を挙げよう。庵野秀明は『ふしぎの海のナディア』で『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』の名シーンをそのままパクったが、これは、「自分ならば同じ状況を遥かに感動的に大迫力で描ける」というチャレンジであり、その通りに実行して見せた。野崎まどが脚本を書いた『正解するカド』は、アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』のプロットをずっと踏襲しながら、最終回にまるでオセロの盤面のようにすべてをひっくり返し、SFファンの度肝を抜いた。
 これに対して、『アストラ』のSFネタは、いかにも平板な使われ方しかしていない。前半では、アストラ号が訪れる惑星ごとに独自の生態系が紹介されるが、少し風変わりな生物や地球より極端な環境が描かれるだけである。知性を持つ植物が人間に寄生するオールディス『地球の長い午後』や、自己増殖するオートマトンが進化を遂げたレム『砂漠の惑星』の世界のように、想像力の限りを尽くしたものではない。
 そのほかのSFネタに関して、いくつかの例を先行作品と比較していこう(これ以外でも、空間転移を実現する球体など、手垢のついたネタが多い)。

○両性体 : 男女2つの性を持つ個体を登場させたSFの最高傑作は、何と言っても、ル=グウィン『闇の左手』だろう。ふだんは中性的でありながら、発情期になると、そのときの性的志向に従って男女いずれかに分化するという設定。社会的危機のさなかに発情期を迎え、理性に逆らって肉体が変化する人物の苦悩が描かれる。一方、『アストラ』では、ルカが跡取りになれない理由を説明するのに両性体という事情が使われるだけで、苦悩の欠片もない。
○ヘテロクロミア : 虹彩の色が左右で異なるヘテロクロミアが巧みに使われたのが、田中芳樹『銀河英雄伝説』(アニメ化作品が有名)に登場するロイエンタール。夫の子でないという証拠がヘテロクロミアという形で現れ、不義密通の表徴を世間に晒しながら生きることを余儀なくされた結果、屈折した性格の持ち主となった。これに対して、『アストラ』のアリエスの場合、ある人物のクローンであることを示すのにこの特徴が言及されるものの、それ以上に話が膨らまない。
○クローン : 「全く同じ外見を持つ別人」という設定は昔から芸術家の関心を呼び、多くの作品が作られた。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、死んだはずの妻が主人公の前に現れたとき、それが自分の心が生み出した偽物だと知りながら、かつての過ちを繰り返すまいと真剣に愛する。「この愛情は本物なのか」という問いかけが、見る者に突きつけられる(レムの原作と大きく異なる展開だが、小説・映画いずれも傑作である)。同じ設定をクローンの側から描いたのが萩尾望都の漫画『A-A'』で、ラストで号泣してしまった。小説では、クローンとして生を受けた者の悲哀を描いたカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』が有名。一方、『アストラ』でクローンの一斉殺処分が計画されるのは違法に密造されたものだからであって、クローンであること、クローンに向き合うことの苦悩には触れられない。
○偽りの歴史 : 権力者が偽りの歴史を捏造したという作品も、数多く発表されてきた。上橋菜穂子『精霊の守り人』では、王朝の正当性を主張するため、古文書の偽造や虚構の伝説の流布が行われ、真実を知る先住民が迫害される。常識的に考えて、歴史を捏造することの苦労は並大抵ではないはず。ところが、『アストラ』では、「最初の世代がみんなで口裏を合わせ、子供世代が真に受ける」という噴飯物の設定。あまりに不自然なので、展開に行き詰まった(あるいは、年号のつじつまが合わない点に気がついた)作者が、後付けででっち上げたとしか思えない。

【「子供だまし」ということ】
 『アストラ』で最初に訪れる危機は、アリエスが宇宙空間を漂流したことで、このときは、全員が手をつなぎ人間救命ロープとなって助けた。さしたる工夫もなく強引でご都合主義的だが、協力の重要性を目に見える形で描出したのだし、まあ、こんな展開もありだろう……1回だけなら。しかし、次にトランポリンの木にフニシアが取り残されたときには、実は十種競技の選手だったカナタが超人的なジャンプ力で飛び移り、都合よくそこにあった槍やパラシュートの形をした植物を利用して助ける。3番目の危機は予期せぬ事故により配電盤が破損したことで、なぜかそこにあった予備電源とケーブルを頑張ってつないで助かる…。さすがに、この辺りから失笑せざるを得なくなった。
 多くの子供は、「頑張れば何とかなる」と信じている。自分が学校や家庭でパッとしないのは、まだ本気を出していないからであって、環境が整い本気を出しさえすれば、すぐにもヒーローになれる--そんな信念が揺らぐのは中学生頃からで、大人になると、成功するためには地道な努力と知的な対策が必要だと、嫌でも気づかされる。時には、唇を噛んで妥協し、戦略的な撤退や切り捨てをしなければならない。大人なら誰しも覚えのあるそんな体験に欠ける子供は、「頑張りさえすればうまくいくだろう」と根拠のない自信を持ち、その考えを裏付ける物語に熱中する。
 「子供だまし」とは、大人は見向きもしないが子供は喜ぶものを提供して歓心を買う手法である。「頑張って危機を乗り越える」という話ばかり繰り返す『アストラ』は、「子供だまし」にしか見えない。

【伏線の回収】
 ネットで検索したところ、「『アストラ』では伏線の回収が素晴らしい」という評価がいくつか見られた。私はかなり目聡い方だという自信があるが、「はて、そんな伏線あったかな」と混乱。調べてみると、どうも終盤で使われるガジェットを前半ですでに登場させていたことを取り上げ、伏線と呼んでいるようだ。私に言わせれば、これは伏線の名に値しない。漫画のように長期にわたって連載する作品の場合、後で何かに使えそうなガジェットを早い段階で仕込んでおくことは、ごく一般的。手塚治虫や萩尾望都も、そうした手法を採用している。『アトラス』におけるアリエスの映像記憶能力やウルガーの射撃の腕前などは、そうした仕込みだろう。
 優れた伏線は、鑑賞する側の型にはまった予測が実際の展開と食い違うことを、あらかじめそれとなく描く。明確な叙述ではなく、「何かおかしい」という心のざわつきをもたらすものである。
 伏線の見事なアニメ作品として私が挙げたいのは、『PSYCHO-PASS サイコパス』(のっけから常守朱がやけに自分本位に行動する)、『輪るピングドラム』(公園脇のバラックが妙にカラフルで、二人の兄も異様に妹思い)、『フリップフラッパーズ』(街の光景と建物内部の状況が調和していない)など。『PSYCHO-PASS サイコパス』は、「反社会的な悪人を常守らが取り締まる物語」と予測させておいて、終盤で視聴者を善悪の彼岸に誘い込むが、その足がかりとなる伏線が、前半から至る所に張り巡らされている。こうした作品と比較すると、『アストラ』では伏線がないに等しい。

【プロデューサーの役割】
 『アストラ』の欠点は、大半が原作の段階から存在するものだが、アニメ化する際に修正できなかったのか。
 原作の修正を直接的に行うのは、脚本家である。こうした修正が巧みなのが吉田玲子で、単なるギャグ漫画でしかなかった『けいおん!』や『のんのんびより』を、「仲の良い女子高生の交流を描く学園ドラマ」や「心安らぐ田舎での癒やしの物語」に作り替えた。この種の修正をきちんと行えば、『アストラ』もそれなりに面白くなったかもしれない。だが、もともとラノベ作家でアニメ脚本の実績が乏しい海法紀光(シリーズ構成担当)には、少し重荷だったようだ。
 ただし、脚本家以上に問題視しなければならないのは、プロデューサーの役割である。最近の原作ものアニメの場合、あまりに原作そのままで曲のない作品が多いが、これは、原作から乖離しないようにと、プロデューサーが脚本家やアニメーターに釘を刺しているからではないかと推測される。
 原作ファンの中には、少しでも違う設定を導入すると文句を言う人がいる。収益を最優先するプロデューサーの場合、原作ファンにディスクやグッズを購入してほしいと考えるため、彼らの意に背くような作品を作りたがらない。これは、実写映画でも同様で、役者にコスプレのような衣装とメイクを施し、原作キャラそっくりにしてファンに媚びを売る。「全日本仮装大賞」ではあるまいし。
 優れた作品を作ろうと思うなら、原作から離れることをためらってはならない。ヒッチコックの映画『めまい』の場合、ボワロー=ナルスジャックの原作がラストに大ドンデン返しのあるミステリーなのに、途中で真犯人とトリックをばらしてしまい、後半では登場人物の心理を深く抉る。発表直後はミステリーファンから総スカンを食ったが、現在では、イギリス映画協会が発表した『世界の批評家が選ぶ偉大な映画50選』の第1位に選ばれるなど、映画史上最高傑作の1本と目されている。
 アニメのプロデューサーも、儲けのことばかり考えず、優れた作品を作るために配慮してほしいものだ。

投稿 : 2019/09/28
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サンキュー:

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