「orange(TVアニメ動画)」

総合得点
67.3
感想・評価
618
棚に入れた
2900
ランキング
2446
★★★★☆ 3.3 (618)
物語
3.2
作画
3.2
声優
3.5
音楽
3.5
キャラ
3.2

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 4.2
物語 : 4.5 作画 : 3.5 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.0 状態:観終わった

甘酸っぱい!そうだ、みかんも食べてね!

原作は未読です。漫画と実写映画版があるみたいですね。

作画の乱れが少し気になりましたが、個人的には、好感度の高い作品でした。

全体的な印象は、転校生・翔(かける)を巡る、恋のエピソードと友情のストーリーでしょうか。

でも、メインテーマは、もう少し深いのでは?と思います。



● 本作へのアプローチ
{netabare}

翔の死と、その母の死。そして、残された祖母の逆縁の不幸が、作品全体に影を落としています。
本作は、そうした生と死の意味を問い、向き合おうとする重めの設定です。

もし現実の世界で、そんなシチュエーションに遭遇したら、繊細で多感な青春期の心なら、どんなに深い傷を負うでしょうか。心が痛みます。

本作では、友情で交わり、その友情を超え恋心をいだくほどに親しくかかわった高宮菜穂と4人の仲間が、翔に不用意にかけたことばによってこわれていく切なさが描かれています。やはり心が痛みます。

いつかは、時の流れがそんな心の痛みを癒してくれるのでしょうか。
そして、どこかで、新しい恋に出逢い、あるいは幸せな愛に包まれれば、きっと思い出すこともなくなるのでしょうか。

それでも、仲間と過ごした青春の日々の記憶は完全に失われることはありません。
翔と机を並べた教室、翔と走ったグラウンド、翔と見た花火、翔と歩いたお祭り・・・。
そして、タイムカプセルに残された友情の足あと。
そして、あのころの淡い恋ごころ。

10年ぶりに集まった "26歳の5人" の話題は、それは懐かしくて嬉しいことではあるけれど、あの時、一緒に過ごした翔の姿だけは、もう見られない。
しかも、翔の祖母から、翔が、{netabare} 自分が自死を選んだことを誰にも言わないでほしい {/netabare} という事実を、10年もたってから知ることになるなんて・・・。

"26歳の5人" の心の中に、おぼろげに霞んでいた、翔とすごした日々が、ありやかによみがえる。でも、自分たちの翔への友情は一体何だったのか・・。
やがて、今まで感じ得なかった新たな複雑な気持ちが、5人の心の中に生み出されます。
それは、"26歳の5人" の今と、10年前の過去とを、振り返ることになっていきます。



本作は、"途切れてしまった " 友情、あるいは恋心が、実は、自分たちの気づきのなさや、あと一歩踏み込まなかった行動ゆえに、"途切らせてしまっていた" ことに、気づくところからスタートします。

途切れさせてしまったできごとは、1年にも満たないわずかな時間のなかで起こりました。でも、"26歳の5人" の記憶には、10年たっても消え去ることのできない棘となって刺さっており、未だに、かつての友情を危うくする断片となって残っているようなのです。

交通事故で {netabare} はなく、自死だった {/netabare} 失われた翔の命。
記憶に深く残る重い欠片(かけら)が、遠く過ぎ去っていく思い出も、少しずつ忘れていく高校生活の印象も、いつもどこかでリセットされ、永遠にリピートされる。
その意味の重さに気づいていても、仕方のないことだと分かっていても、"26歳の5人" には、もう二度と、もう一度やりなおすことは決して叶わない。

もっと気づけていたら。
もっと自主的であったら。もっと主体的であったなら。
もっと積極的であったら。もっとみんなで動いていたなら。
今ならそう思えるこの気持ちを、これからどれほどの長い時間、後悔の気持ちで繰り返しつづけることになるのだろう。
こんな思いを、どんなふうにして未来につなぎとめて生きていけばいいのだろう。


もしかしたら、そんな、似たような思いをお持ちになっていらっしゃる方もおみえなのかもしれません。

私は、過去の自分に対しては "無知" を、今の私に対しては "弱気" を、未来の私に対しては "後悔" を発動させたいと思います。
そんな気持ちをたよりにして、彼らの気持ちに寄り添って鑑賞してみようと思いました。そうすれば、本作のテーマに、少しは深く触れられるのではないだろうか?そう感じました。


もちろん、16歳の恋愛アニメという視点から入っても良いと思います。でも、もしかしたら、翔の人間性に対して、マイナスの感情を持つかも知れません。たしかに、翔は、そのように描かれています。だから、仕方のないことかも知れません。でも、翔の性格も、本作には重要な要素の一つだと思うのです。

できましたら、翔の心情にも触れてみて、何かを感じていただければと思います。彼の生い立ちは、私たちの世界にも普通にあることですし、身近な人のプロフィールにだって、そんな人生を抱えていらっしゃるのかもしれません。また、これから先に起こる可能性だってないとは言えません。
ですから、翔が気に入らないから作品自体が台無しになっている、なんて思わないでください。心からそう思います。

{/netabare}



● 本作にあるツール
{netabare}

★ 手紙
{netabare}

翔がそういう性格に描かれているからなのかもしれませんが、翔を取りまく "16歳の5人" のキャラの人物像や心理描写は、とても分かりやすく、丁寧に細やかに描かれているし、演出されています。いつも翔を気にかけていて、なにかと声をかける気の良い5人組です。

"16歳の5人" は、翔の死の真相を、"26歳の5人" からの「手紙」で知ることになります。
翔の死は、{netabare} 事故ではなく自死 {/netabare} だった。

"26歳の5人" が、"16歳の5人" に宛てた内容は、それぞれ少しずつ違うようですが、私には「後悔、結束、行動」の大切さが、行間に含ませてあったのではないかと感じます。そして、そこには「迎えるべき未来」も滲ませてあったのではないだろうかと推し量るのです。

"26歳の5人" は、10年前の "16歳の5人" に「手紙を送る」という方法で、「翔を死なせないでほしい。」と、伝え、委ね、託し、そして、任せるのです。
それは、一見、当てどのないやり方のように思えます。

これを " 奇想天外なこと " だと捉えてしまうと、とたんに作品の魅力を失わせる可能性が生まれます。本作は、基本的にはSFテイストを活用していますが、でも、深掘りするべきではないと思います。
あくまでもセンシティブなハイティーンの、ピュアでフレンドリーでハートフルな作品として観ておくことをオススメします。

それにしても、と私は思います。
便箋に認(したた)めるなんて、なんとまあ古風な手段なのでしょうか。

認められたメッセージは、16歳に立ち戻った "26歳の5人" の気持ちなのでしょうか。

それとも26歳になった少し大人の目線から見た、まだ子どもっぽい "16歳の5人" に向けた、姉や兄のようなそれなのでしょうか。

あるいは、母が子を愛しく抱きしめるように、父が子を厳しく導くようにする、その想いなのでしょうか。

直接は語りかけてあげられない、そっと優しく触れてもあげられない。
"16歳の5人" に向けて、"26歳の5人"は、どんな思いで見つめ、背中を押すのでしょうか。

そんなとき、私は思うのです。

"26歳の5人" は、想いを込めて認めている。

認めるとは、" 忍んで言う" と書きますね。

"どれほどまでに忍んでも決して口には出せない・言えない想いがある" という意味合い。
"忍んででも、どうしても伝えたいこと(言葉)がある"、という意味合いもありますね。
そこから、"非常にパーソナルな、深い想いを伝えたい" という意味合いが生まれます。
そう思うと、本作は、"手紙を書く" という表現よりも、"便りに認める" といった表現の方が、いくらかお似合いのような気がします。

翔の死にまつわる手紙です。だから、誰にも知られずに、 "16歳の私だけ" に宛てたいという密やかな想い。そんなふうにも解義できそうですね。

"26歳の5人" が、10年前に、間違え、誤ってしまったあの日からの道のりは、決定的な後悔を生み出し、一生抱えて生きていかなければならない。

その後悔の思いはあまりにも重く、そして繊細で鋭い痛みを伴う情緒性です。何度も揺らぎ、何度も震え、そして何度も繰り返されるのです。

"26歳の私" は、後悔の想いを心に抱えながらこれからを生きてゆく。でも、10年前の "16歳の私" には、そうはなってほしくない。だけれども、直接逢うことも、直接言うことも、決して叶わないから、それだから、手紙に認めるのです・・・。

"16歳の私" は、"26歳の私" でもあるのだけれど、別のパラレルワールドで生きている。それは決して出逢うことのない世界なのだから、だから、だから何度も読み返す。
"26歳の私" が認めた文字を、一字一句も見逃さないようにして視つめ、やがてしずかに体に浸透し、深く心に定着するまで、読み返すのです。

{/netabare}

★★ パラレルワールド
{netabare}

そして、もう一つ、特徴的なのは、パラレルワールドという物語設定です。

本作は作中で、パラレルワールドを分かりやすく解説しているシーンがあって、それに従って物語も進みます。ですから、安心してこの設定に入り込めると思います。そして、この設定が、作品に深い味わいと新しい魅力を与えていると思います。

ちょっと突っ込んでみると、この設定があるから、"16歳の私" は、10年後に知り得た "26歳の私" からのメッセージ(手紙)に対して、縛られることがないのです。だから、10年先に生きている別の世界の "26歳の私" に対しても、無責任でいられます。
それゆえに、もっと主体的に、もっと自分に真摯に向き合ってみようとする自意識が生まれるし、もっと積極的に行動しようとする判断と決意の気持ちを持つことが可能になります。

つまり、未来からの手紙が示している "世界の枠組み" (いうなれば枷)に捕らわれる必要はないということです。むしろ、"26歳の私" はその未来を変えてほしいと言うのです。
"26歳の私" は、"16歳の私" に命令しているのではなく、託しているのです。目的はただ一つ、「翔を死なせないでほしい」。それだけです。特に、高宮菜穂の手紙がそうなのです。

もっと言えば、すでに10年も進んでしまっている別の世界に対して、倫理的にも道徳的にも縛られる必要は全くないという、自由で自主的な選択権を、"16歳の私" は、"26歳の私" から付与されているということになります。

実は、このことは、のちのち須和弘人にとっては、重い選択になるのです。
でも、パラレルワールドという設定自体が、須和の未来をなぞる必要さえもない、ということを須和自身に示すのです。

しかし、留意すべきことは、"26歳の私" からの手紙には、翔の死を回避するための、断片的でさまざまな情報や示唆が示されてはいるのですが、その本当の原因はどこにも記されていないのです。それはつまり、「これが答えだ」ということが "ない" という意味です。

というのも、"26歳の5人" にも {netabare} 翔の自死の本当の理由(最終盤で明かされます)は {/netabare} わからないのです。
ですから当然、"16歳の5人" にも知らせることができないのです。
"16歳の5人" には、翔へのアプローチへの正解は与えられていないのです。

それゆえに、"16歳の5人" に届けられた手紙は、ヒントにはなりこそすれ、その舵取りのすべては、"16歳の5人" の手の内に見いだすしかありません。

この作品の魅力は、ここにあります。

視聴者は、このパラレルワールドを取り入れたシナリオのおかげで、過去と未来の一部を、「早めに知る」ことはできます。でも、だからといって "16歳の私" に先んじて物語を進めることはできません。

"16歳の私" は、別世界から届いた "便り" を、まさに "頼りのともしび" として、あたかも先の見通せない暗いトンネルを一歩一歩、歩いて行くことしかできません。そのトンネルもまた、ともすれば別のパラレルワールドに分岐していく可能性もあるので、視聴者は、彼らに随行するしかありません。

行くべき道のりは、本当は何が正しい選択なのか、あるいは、もしかしたら再び、間違ってしまうのではないか。そんな難しい選択を、"16歳の5人" とともに、同じ場所に立ち、同じように悩み、躊躇し、葛藤し、それでも受け入れて、立ち向かっていく姿に眼差しを向けて、進んでいくしかありません。
視聴者自身の想いを、"16歳の5人" の生き方に重ねて、委ねられた未来への道を一緒になって探すしかないのですね。

パラレルワールドでは、" 26歳の5人" にとっては、トンネルの入り口は一つ、出口も一つです。ですから、物語が改変されることはありません。
でも、" 16歳の5人" にとっては、入り口は一つなのですが、出口はいくつもあるのです。
高宮菜穂は、自らの判断と行動に向き合って、その解を捜すしかないのです。菜穂の仲間でもある須和、あずさ、貴子、萩田もまた、同じです。

その意味では、本作の終幕に向かうほどに、翔や5人の気持ちに引き寄せられることになるでしょう。

ですが、先に申しましたように、重大なヒントがもう明らかにされています。

"26歳の5人" の遠い記憶の彼方には、授業の残り時間を埋めるようにして、先生が何気に話されたオマケのような話が 辛うじて残っていたのかもしれません。
そして、"16歳の5人" にも、なんとはなしに聞き流すような話のはずでした。
あまりにもささやかなエピソードなのですが、実は、本作のシナリオの中心線を貫く重要なシーンです。先生の教えは、強靭な元糸(もといと)となっていて、あらゆる糸が撚り集まり、紡がれ、やがては10年という歳月を一つに括る太い絆の通い路になっていくのです。

先生のその話は、"16歳の5人" にとっても重要なターニングポイントになります。その知識は、信じうる未来の扉を開けるカギにもなった。新しいパラレルワールドへの道が開け、出発点になったということでしょう。

実は、手紙は、ひとり一人別々に届けられていました。当初は、5人とも戸惑いと疑いに取り囲まれ、とりとめもなく流されていきます。
でも、その真意が徐々に明らかにされるにつれ、残された時間は刻一刻と過ぎていく。
そして、「翔の命を救ってほしい」ということばに向き合うそのあまりの重さと難しさに潰されかけるのです。

でも、"26歳の私" と 10年の開きのある"16歳の私" との懸け橋、そして、"16歳の5人" のあいだにある今のこの瞬間の懸け橋、その2重構造の架け橋の上で、「翔の命への責任と意志」を見出そうとする "16歳の5人" の想いの強さ・信頼・気高さは、潰されないのです。

この演出がとてもよく描かれています。観ている私が顔を赤らめてしまうようなシーンが毎回ごと、次々に現れてくるのですから、恥ずかしいような、羨ましいような、そんなたまらない気持ちになりました。

{/netabare}

{/netabare}



● 構成について。
{netabare}

本作は、先に記しました三つの行動原理( 後悔、結束、行動 )が物語の「下部構造」となっていて、全体をどっしりと底支えしています。

そして、この下部構造の上に立つ「上部構造」として、「自己選択、自己決定、自己責任」という大きな三つの柱がしっかりと立ち上がっていることにお気づきになると思います。

そして、最終的な目的、つまり、「翔を死なせないでほしい。」という別世界の "26歳の5人" からの手紙に対して、" 16歳の5人 " が、どう応え、どう行動していくのかという「集団的な協力、支えあいと励ましあい」が、重層的、複層的な試行錯誤のストーリーとして、ギリギリの終幕まで貫かれていることにも気づかされます。

本作のテーマ性を活かすために、土台、柱、空間を埋めるに相応しい、濃密なファクターとエピソードが、きちんと、美しく、また爽やかに描かれています。
しかも、パラレルワールドという設定が、時間の経過や世界線、心情の表現にゆたかな変化を与え、放送回ごとにさまざまに交錯したり、絡まったりしています。

中でも興味深いのは、" 26歳の5人" は、遠い別世界のシナリオライターとしての関わりでしかいられないことです。

文字でしか、励まし、労い、手伝えません。しかも、それは、"一方通行" なのです。

" 16歳の5人 " は、いったん舞台に立てば、" 16歳の5人 " が自らプロデュースし、ディレクティングし、アクター、アクトレスとして即興を演じていくのです。それは、" 26歳の5人" の手紙にあった、当初のシナリオをはるかに超える、全く新しいシナリオに書き換えられ、予想だにしない物語へと展開し、つながっていくのです。

この構成が、作品に独特の味わいを醸し出しています。

実は、最終回の結論ですら、それが本当の " 解 " なのかどうかは、だれにも分かりません。
終幕に至ってもなお、先の分からないストーリーが存在しています。これが本作の最大の魅力であり、狙いであるような気がいたします。

でも、中途半端なモヤモヤ感はありませんでした。なぜかって?

それは、" 16歳の高宮菜穂 " の行動が、そのまま同じ世界で、" 26歳になったときの高宮菜穂 " の姿を、いかにも鮮明に描くことができるからです。
だって、{netabare}「10年後、5人で翔を待ってるよ!」{/netabare} って、5人がバトンをつないで言っていましたからね。


生と死をめぐる不思議さは、本来、だれにも分からないものです。
仕方のなかったこと、どうにもならなかったこと。
人生はそういうことの連続であるし、事実、それが真理でもあります。

さて、本作の鑑賞後に、ちびっと気づきを感じました。
そのことを少しだけ書き記しておきたいと思います。
{/netabare}



● 本作のキーワードは
{netabare}

★ 後悔です
{netabare}

意味はそのままです。「あとになって悔む気持ち」ですね。

もう少し、要素分解をしてみます。

後悔の悔は、「忄(りっしんべん)」と、「毎(まい、ごと)」に分かれます。
毎は「髪飾りをつけて結髪する女性」の象形文字で、その部首は、「毋(なかれ・ははのかん)」。つまり「母」ですね。
ということは、悔とは、字の成り立ちの如く、母の心のこと。換言すれば、子を思う母ごころということ。母性の祈り、慈母の愛です。

少し寄り道をしますが、「子育て」には続きがあって、「親育ち」につながります。

「子育て、親育ち」。
親は、子をなせばそのまま親になるわけではなく、子どものおかげで親にさせていただくのですね。「親が育つ」という意味は、「わが子の育て方はこれで正しいのだろうか?間違ってはいないだろうか?あとで悔むのではないだろうか?もっとやっておけばよかったと思うのではないだろうか?」という不安の思いの連続のなかにあるのですね。

ですから、後悔とは、先々の子どもの未来の幸せを願いながら、今この瞬間の子育てのやり方が、あとになってから微かにわずかに沸き上がってくる母の心のなかにあるありさまを意味しています。

誰でも大人になると、うまくいかなかったことや、失敗してしまったことをいくらかでもそれなりに理解できるようになります。だから、その気持ちが自然と子育てに重なりますね。
「這えば立て立てば歩めの親心」という句を、耳になさっていらっしゃるかもしれません。

表面的には、挫(くじ)けたり躓(つまづ)いたりすることも良しとするのでしょうが、根源的には、母は、産んだ子どもを死なせてしまうことだけは受け入れられないのです。
本質的には、命の灯を消してしまうような子育てをすることはできないのです。なぜなら、それは自然の摂理に反しているからです。

「親育ち」とは、自分の子育てが、後々になって悔やみを残さないように、覚悟を決めることです。親は、たくさんの喜怒哀楽の中に、ゆたかな賢さとしなやかな智慧を備えていく勉強が必要なのでしょうね。
そうしてようやく安心・安寧の子育てにつながるのでしょうね。

「後になって悔まぬように」というのは、実のところは、「親本人の育ち」と「子を育てること」の両方に向けられるものです。
もっと言えば、「ヒトが人間になる。人間になるために、まず自らが育ち、そして子を育てる。」というのが正しい解釈のような気がいたします。

それほどまでに、母親というのは、子どもと一心同体の存在であるかのような気がするのです。

そのように捉えると、二つの気づきがあります。


◆ 一つめの気づき
{netabare}

本作のテーマって?

26歳になった高宮菜穂は、赤ちゃんを抱いていました。母と子の関係を見るとき、赤ちゃんがいた意味がありやかに浮かび上がってきます。
菜穂の腕の中に抱かれている赤ちゃんは、まだ何もできない存在です。それがそのまま、10年前の何もできなかった "16歳の高宮菜穂" の姿に重なります。
ですから、"26歳の高宮菜穂" がわが子を大事に抱いているのと同じように、"16歳の高宮菜穂 " を愛しく思うのですね。

"26歳の5人" は、心の中にぽっかりと空いてしまった喪失感をどうしても埋められないようです。
埋めようとすればするほど、「何もできなかった、してやれなかった、気づくことすらできなかった。」 そんな言葉しか思い浮かばないし、浮かぶほどに喪失感が重くなってしまうのです。
翔を失ってしまった、死なせてしまったことに、どうしようもなく後悔をしているのです。

であれば、その同じ後悔を "16歳の5人" に繰り返してほしくないのも道理です。
というよりも、大前提として、 "26歳の5人" は、心情的に、どんな別世界であっても、翔を失いたくないのですね。

だから、起きてしまったことによる後悔は確かにあるし、消すこともできないのですが、それを仕方のなかったことで終わらせるのではなく、別世界で、再び同じことを起こさないための希望を、手紙にしたためたのです。
自分たちが直接、関与できることではないし、その結末にも責任は負えないけれど、今やれることをやり切るという行為によって、わずかながらでも、安心感を手にしたようにも思えます。
そんな思いを込めながら、もう一度、別世界の "16歳の5人" に夢を託したのですね。

手紙に、10年前に叶えられなかった自分たちの生き方を示すことで、"26歳の5人" の魂が、いくらか癒され、救われるような思いに徐々に至っていくのですね。
菜穂と須和が並んで見ていたのは、常念山脈に沈んでいく神々しいまでの夕陽でしたね。

"16歳の5人" に、希望をもって生きていってほしい。
"16歳のあなたたち" に、希望を託して、"26歳の私たち" も生きていきます。

ここが、本作の本当のテーマのように思います。

仲間の中で、友達の中で、自分の大切な人たちと一緒に、ともに生きていってほしい。

"26歳の5人" が、"16歳の5人" に託したように、親が子どもに残せるメッセージは、ただ、これだけなのではないでしょうか。

{/netabare}


◆◆ 二つめの気づき
{netabare}

翔のこと

"26歳の5人" は知らないのですが、"16歳の5人" が知っていることがあります。
それは、死を免れた翔の気持ち。もうひとつは、自死を選ぼうとした経緯です。

"16歳の5人" のパラレルワールドでは、翔が死なない結末が生まれています。それによって、翔自身の口から、自死を決意した理由が語られます。
その真相は、翔のお母さんの携帯に残されてあった{netabare}「未送信メール」 {/netabare} の存在でした。

遺されたその文面は、{netabare} お母さんの翔への謝罪 {/netabare} でした。
親が、子どもに心配をかけ、迷惑をかけ、子どもの自由を縛る。その業の深さは、子どものそれの比ではないのです。
その罪の自意識の深い闇と絶望こそが、お母さんの自死の直接的な原因です。

確かに、翔は、お母さんにひどい言葉をぶつけたのかも知れません。
お母さんは、精神を病んでいたし、新天地でやり直すために、翔と一緒に病院に行きたかったのでしょう。それは母の願いでもあったでしょう。

そんな母の思いに向き合わず、友だちにと過ごすことを選択したことで、自分を責めるようになった翔。翔の心もまた、母を失うという後悔の念に深く苛まれ、固く縛られていくのです。

翔のそのさまのただなかに、出会ったばかりの "16歳の5人" が向き合うことになるなんて・・・。
その重さはいったい如何ばかりのことだろうか。私は、真実、胸が潰されるような思いになりました。

翔の父親のDV(家庭内暴力)、幼いときからのひとり親家庭の苦労、母の病気、東京の学校で受けたいじめ、笑顔のない生活・・・。そういったことを顧みれば、翔がふさぎ込む理由はさまざまにあったと思われます。
でも、それらは全部、間接的な背景です。

翔は、"16歳の5人" に出会えたことで少しずつ変わっていったのは確かです。それは、"26歳の5人" が意図したことでもあるし、"16歳の5人" も同じ気持ちです。
翔は、母の自死による傷心から、確かに徐々に回復してきていた。彼の心の中に、少しずつ、"16歳の5人" ですごした松本での暮らしが満たされてきていたのです。
これは、翔の心のよみがえりとも言えます。

{netabare}未送信メールの文面{/netabare}には、お母さんの言葉が認められていました。

忍んでも、なお忍んでも、文字までにはできたのでしょう。
でも、お母さんは押せなかったのです。送信のボタンを。

翔が、お母さんの代わりに、ボタンを押してしまった。開いてしまった。お母さんの気持ちをよみがえらせてしまった。
翔すら知らなかったお母さんの自死の真相は、母と子の内面的な絆の破綻にあったのですね。
お母さんが亡くなったのは自死だったけれど、その本当の理由が分かったことで、翔は、お母さんにそれを選ばせてしまったことに激しく打ちのめされ、自分を見失ってしまう。

"16歳の5人" には、それを知る術はなかったし、知るよしもなかった。翔自身にしても、自死を思い立った夜でしか気づけないことだったからです。

ましてや、 "26歳の5人" には、決して知ることのできなかったできごとなのです。
"26歳の5人" は、翔を死なせてしまったのは自分たちの行動にあると思っていました。だから、「私たちには、翔を救えなかったという後悔がある。」と手紙に書き記していたのです。

でも、本当の根本的な原因は、翔とお母さんとの内面にあったのです。

"16歳の5人" は、その一部始終を知ることになります。

翔の言葉によって、翔の {netabare} 自死の動機が {/netabare} 明らかにされたことで、"16歳の5人" は、"26歳の5人" の後悔が、"26歳の5人" の誠実な生き方から生まれてきたことを知るのです。

敢えて言えば、"26歳の5人" の行動が、翔の {netabare} 自死の直接的な {/netabare} 原因になっているわけではなかった。
その意味では、後悔の及ぶところではなかったのです。

こう考えてみてはいかがでしょうか?

翔が事故死のままなら、そのあとの後悔はどうだったでしょうか。

翔が自死なら、そのあとの後悔はどうだったでしょうか。

翔の自死が、もっと早く明らかにされていれば、そのあとの後悔はどうだったでしょうか。

翔の自死の理由が、友情ではなく、母への謝罪のためであったと知らされていたら、そのあとの後悔はどうだったでしょうか・・・。

パラレルワールドでは、いろいろな別世界が存在します。
あまたの別世界は、" if " の連続で成り立ち、繋がっています。

結局のところ、本作の "ある世界の26歳の5人" から届いた手紙は、"別世界の16歳の5人" を確かに導きました。
その世界に限っては、本当にギリギリのところでしたが、翔の命が失われることはなかった。
それだけが、たしかな真実です。本作は、その世界を描いています。

視聴なさる方が、本作に共感なさるのは、その " if" の関与が、たぶん、"16歳の5人" が、"26歳の5人" の手紙を土台にして、"16歳の5人" がおのおのの足で踏み出し、それぞれに全く新しい物語を作り上げ、望ましい結末を得ることができたこと。そこに価値を見出したからなのかもしれません。

私にわかることは、"16歳の5人" にとってうまくいったこともそうでなかったことも、翔にとっては、すべてを肯定できる財産になっていた。だから、翔は死を恐れた。それだけのことです。

でも、それだけのことがいかに難しいことか。
それをやり遂げた "16歳の5人" は、微塵の後悔も感じることのない生き方を手に入れることができたように思えるのです。
そのことが、私には誇らしく、またありがたいことと感じるのです。

不思議なことなのですが、いつの間にか私は、この "16歳の5人" が生きている世界に、もう一度訪れてみたい気持ちになっていました。

{/netabare}

{/netabare}

{/netabare}


● オレンジについて(考察)
{netabare}

ディズニーのアニメを観ると、たくさんの妖精が登場しますね。
彼らをよくよく観察すると、それぞれに個性があって、それぞれに働きがあるのに気づきませんか?
花にも、宝石にも妖精は宿っているし、もっと言えば、自然界のあらゆる存在、そして事象にすら妖精は宿っています。そんな考え方をアニミズムと呼び、宿っている存在をアニマと呼んでいます。(拙レビュー。モンスター娘のいる日常参照。)
アニメーション作品は、妖精、ロボット、エイリアン、なんでもござれで楽しいですね。

え?妖精が本当に存在しているって言ったら荒唐無稽ですか? 
うふふ、電波的な私を信じるかどうかはお任せします。


さて、オレンジに宿る妖精は、名前は伏せますが(ごめんね)、働きはご紹介しますね。

★1 象意とはたらき
{netabare}

オレンジの妖精は、沈む夕陽の象意を持ち、癒しと再生のための準備をするという意味と働きを担っています。
本作でも、常念山脈に落日するさまが、幾度となく表現されていましたね。(君の名は。の拙レビューにもちびっと触れてあります。)

オレンジの妖精が、なぜ癒やしの働きがあるかと言いますと、落日するさまは、ぼんぼりの灯火(ともしび)のようにも見えるからです。これを「見立て」と言います。

真っ赤に燃え立つ夕陽が、少しずつ照度を落とし、朱から橙へと変わっていきます。西の空は夕焼け、東の空は夕映えを天空のキャンバスに描き、黄色、桃色、赤紫からやがて青みが薄れ、薄花色(うすはないろ)、縹色(はなだいろ)、青藍(せいらん)へと翳りを滲ませていくさまが観察できると思います。そうして宵の口から宵闇への移行ですね。
そのぼんぼりの灯火のさまが、オレンジ(みかん、柑橘類)なのです。

太陽は、日中はギラギラと輝いていて、人間もそれに合わせて営みを組み立ててきました。狩猟、採取、農耕、畜農、商業、工業、サービス業もみなそうです。
日中(ひなが)しっかり働いた体と心を休めるのが夕方、それを知らせるのが夕陽です。
ですから、オレンジの妖精は、夕陽のなかに現われて、帰宅を促し、身体を寛がせ、心の癒しを醸すのですね。
脳科学的には、自律神経が、交感神経から副交感神経に切り替わるということですね。
そうすると、人の身体も精神も、穏やかにソフトランディングして、明日に向けてたっぷりの休息を取って、再生のために眠るのですね。

{/netabare}

★2 癒やしと再生のはたらきをもう少し。
{netabare}

夕陽、ぼんぼり、灯火などの "色の波長"は、網膜に優しいですね。逆に朝日は不思議と白っぽく感じます。光の色を観察し、人為的に科学技術に活用するほどに波長は千変万化します。
短くなると、揺らぎも小さく細かく、そして鋭くなります。x線、レーザーなどは身体すら透過します。
また、波長が長くなると、遠赤外線は体を温めたり、血行を良くしたりします。
こうした技術は、今では当たり前のこととして身近なものですが、わずか150年前にはほとんどなかったものです。人類に与えられていたのは、遠い太陽と火の放つ赤い光だけだったのですね。
夕日が沈むとあたりは闇に包まれます。わずかな明かりは、焚き火、松明(たいまつ)、行灯(あんどん)、ガス灯、そして白熱灯が頼りでした。みな "赤っぽい光の波長" ですね。
そんな中で、人間はつつましく暮らしてきたのですから、"赤っぽい光" に、安らぎや癒やしを感じていたのかもしれませんね。
ちょっと、お部屋の明かりを、白熱灯に交換してみませんか?

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★3 再生の意味の一つめ
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その果肉に含まれる滋養と栄養の成分がそのままの意味です。

ビタミンC(抗酸化・抗ストレス作用)、葉酸(水溶性のビタミンB群、疲労回復)、クエン酸(コレステロール値低下)、ポリフェノールの一種であるヘスペリジン(脂肪値低下)、芳香成分(精油成分)のリモネン(免疫力アップ)、ショ糖・果糖・ブドウ糖などの糖質(エネルギー)、水溶性繊維質(腸の掃除)など、数多くの成分と食用効果があります。あと美容にもいろんな話題を提供していますね。

私は、地元の蒲郡(がまごおり)みかんが大好物なのですが、全国のみなさんにもちょっと良い情報を。

"βクリプトキサンチン" という名の成分があります。βカロチンの約5倍の " 制癌効果 " があり、日本の温州みかんの含有量は、輸入オレンジのおよそ100倍なんです。1日2個でOK。冬にたくさん食べれば夏まで体内に存在するそうですよ。

というわけで、オレンジの再生の意味、お解りいただけましたでしょうか。あ、そうそう。みかんは袋も筋もみんな食べれます。というより食べないと本当にもったいないくらいですよw。特にお腹周りを気にしていらっしゃる方はねw。

こうした情報もまた、今では当たり前のことですが、栄養学、薬学が発達する以前は、一部の秘儀として受け継がれていたものでした。

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★4 再生の意味の二つめ
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オレンジの果皮には、汚れを落とす作用があります。これはおばあちゃんの知恵といったレベルですね。床、食器、肘とか踵とかのガサガサを落とすために使う人もいるそうですよ。(お肌に合う人限定ね。)
でも、現代人で実践している人は少ないでしょうね。

この汚れを落とすという働きから、メンタル面の穢れを祓い落とすという働きに繋がります。年越しの大祓(おおはらい)、夏越(なごし)の大祓は、半年ごとの身の穢れを祓いを清め、命を再生させるための儀式です。
オレンジの妖精さんも同じ働きをするんですね。

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★5 再生の意味の三つめ
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オレンジは、和名では、みかん。古名では、橘(たちばな)と言います。

そして、鏡餅に乗せるときは、橙(だいだい)と呼びますね。だいだいは「代々」に懸けられていて、先祖代々の意味です。ですから、お正月の正、つまり、「一に止まる」というお祝いの時に、身を清め、心を正して、家の中に神さま(ご先祖様、氏神様)をお迎えするという意味になりますね。
オレンジ(代々)は、ご先祖様、祖霊を象徴しているのですね。

ちなみに、お正月は、一に止まる月=元神に一心に気を向けて、敬う心を搗き固める=志を立てるの意味であって、神仏と祖霊にたいする感謝と義と礼を表し、子孫として、たゆまぬ努力を果たしていくという決意を表すのですね。書初めも同じ意味合いなんですね。

大晦日のつもごり、年越しの大祓、元旦、年始挨拶の奏上、鏡餅、初夢、初書初め、凧揚げ(多幸上げ)などの一連の儀式には、こうした再生への願いの意味が込められていますね。

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★6 妖精さんと仲良しになる秘訣だヨン。
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オレンジ(柑橘類)の果実の中には、じょうのう(瓤嚢)と呼ばれる "半月よう" の小袋が、7~10個並んでいますね。じょうのうの中には、さじょう(砂瓤)とよばれる "涙よう" の果汁が入った小さいつぶつぶがたくさんありますね。

では、脳内でイメージしてみてくださいね。ゆっくりで結構です。

まず、オレンジの橙色を、ぼんぼりの灯火(ともしび)の色に重ねます。
ほんのりと燈るあたたかさを感じられれば、OKです。

つぎに、ぼんぼりの灯火を、" 人間の魂 " に見立てます。
え?無理?
青白い人魂のイメージじゃなくて、淡いミカン色のオーブって感じかな。
そう、そんな感じ。

次に、目には見えないはずの魂を、見えるものの実相として、脳のなかに宿っていると見立てるんです。無理やり見立てようとすると、なんだかやる気がなくなりますから、「あ~そういうものか~」と軽めに思ってくださいネ。

オレンジのじょうのう(小袋)のように、脳にもいくつかの部位や器官がありますね。前頭葉、側頭葉、脳下垂体、間脳、小脳などですね。
そして、オレンジのさじょうのように、脳細胞も、細かく小さく機能が分化していますね。視覚野、聴覚野、言語野、運動野などですね。
オレンジには、白い筋が縦横無尽に張り巡らされていますが、それは、脳血管や脳神経に見立てることができますね。

そんなふうに、見立てるんですね。
オレンジの "つくりや形" を、脳の "はたらき" に重ね合わせるのですね。

脳は、人間の感情・思考・記憶などを司り、" 一度に多くの働きをこなしています" 。
ということは、オレンジの妖精もまた、同じような働きがあるのです。

では、本作に戻ります。

本作のシナリオの中にも、今まで述べましたように、さまざまなプロット構成、ファクターなどがいくつも組み込まれています。

恋する気持ちを描く、切なくてたっぷりの情感。
複雑な思考を巡らすパラレルワールドのストーリー。
"26歳の5人" のもつ、過去に対するそれぞれの記憶と後悔。
"16歳の5人" のいだく、未来に対するそれぞれの志向と行動。

そんな要素を、いくつも取り入れ、いくつも組み合わせ、いくつもの可能性に挑戦し、いくつもの新しい生き方を生み出し、いくつもの道を選びながら、みんなで一緒に歩んでいく。

そんな、"いくつもの" と、"一緒に" いう "言霊の響きと意味とはらたき" が、オレンジの妖精さんの得意とする働きなのです。

"16歳の5人" の「行動、結束、後悔」に対する、"多感で多彩、多種、多様な働き" のありさまを、オレンジの "形、つくり、色彩、性質、謂れ" と、脳の "複雑な働き" に重ねて、見立ててあるのですね。

この "同時並行にマルチプルに処理するはたらき"。 これが、オレンジの妖精の得意分野なんです。そう、まるで脳の機能のように。魂の働きのようにです。

"26歳の5人" が見つめるのは、夕陽ではありますが、その象意である "癒やし、再生、そして郷愁" を心象として感じるのです。

ですから、本作を観るにつけ、過ぎ去ったできごとに思いを馳せ、大なり小なりの後悔を思い出し、もつれた感情を滲む涙で癒やし、そこからもう一度、再生と未来へのステップを踏もうとする前向きな心が、少しずつ自然と沸き上がってくるのです。

その象意とはたらきを、いつでもどこでも携帯できるのが、オレンジです。結構、便利でしょ?

オレンジに向かって、「あなたのように、私にもたくさんの働きが同時にできるように、あなたの妖精パワーを私の脳細胞にいっぱいおすそわけしてね!」って語りかけてみてください。
大丈夫、だれも見ていませんから。恥ずかしがらないで!
そのあと、「美味しい、美味しいわ」って言いながら食べてね!
なんて言ったって、栄養抜群、お値打ち価格な国民食ですもん。

どうぞ、心から癒やされ、脳も、お身体もバッチリ再生なさってくださいネ。w
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● 最後に、個人的な感想です。

{netabare}

本作は、今に生きること、今という瞬間の自分を、自分なりに、精一杯活かしていくことを、やさしく教えてくれているような気がいたします。

今があるのは過去のおかげだし、今があるから未来を感じられる。
だれかが、見守っていてくれるし、いつでも見つめていてくれる。
誰かがって、それは、10年後のあなたかもしれません。
高宮菜穂のように「頑張れ!」と励ましているあなた自身です。

本作を鑑賞した後には、「良かった~」と深く感じ入るのではないでしょうか?
それは、翔が生きていてよかった、ということにも増して、視聴される方ご自身のこととして、そう思われるのではないでしょうか。

この作品に出合って、最後まで鑑賞できて「良かった」。
生きてきた私、生きている私、生きていく私。
その私が、今ここにいることが「良かった」。
未来が少しだけ身近に感じられ、心が軽くなるようにも思えて「良かった」。

そんなちょっと嬉しいような、こそばゆい感覚でしょうか?

心の中に、幸せの種をまかれたような、そんな不思議さを感じる作品でした。


"天上天下唯我独尊" を、「己惚れ」と解する時代ですが、お釈迦様の説かれた本意は違います。
「私という人格や権利がだれよりも一番尊い。=私だけ。」ではなくて、「私が生きているという事実そのものが、ただひたすらに尊い。=皆だれでもが。」です。
本作を鑑賞すると、そのことを実感できます。

OTの、高橋優さんの「光の破片」
EDの、コブクロの「未来」("身を知る雨" が素晴らしいです。)
ともに、いい歌でした。
ぜひ、聴きながら読んでみてね。♡
{/netabare}


長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作が、皆に愛されますように。

投稿 : 2018/09/15
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サンキュー:

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