「未来のミライ(アニメ映画)」

総合得点
65.5
感想・評価
228
棚に入れた
862
ランキング
3218
★★★★☆ 3.2 (228)
物語
2.9
作画
3.8
声優
2.9
音楽
3.3
キャラ
3.0

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 5.0 状態:観終わった

3歳でも5歳でもない、4歳のときだけに訪れる、兄と妹との、ちょっとフクザツな第一歩めの物語。

原作は未読。いつものように下準備なしで視聴しました。

冒頭の5分。最初の印象は、くんちゃんのカオスな日常系アニメ?でした。
だとすれば、クレヨンしんちゃんの映画シリーズと同じ土俵~??という視点でしたが・・・いや、全然違っていました。
そのへんは後で述べてみたいと思います。

では、本作のレビューから。の、その前に。

私が視聴したのは、平日の夕方の上映でしたので、お客さんの姿はチラホラでした。すぐ後ろの席に、20歳くらいの男性が5人連れのお友達でしょうか、がやがやとおしゃべりをしていました。もしかして未来ちゃん狙い?と人物観察も楽しみにしていたら、視聴後に「わからんわ~」とか「すごく面白かった~」とか話していましたよ。キャラではなく物語に焦点が当たってた。よかったよかった。

私は、細田監督のシリーズは映画館で鑑賞したことはありませんが、テレビ放送は楽しく視聴していましたから、上映前は、思った以上に閑散としている座席に「もしかしてそんなに人気がないのかしら?」と心配したほどです。
あにこれレビューも評価はいろいろでしたから、「これって面白くないパターン?」と、半分くらい後悔してもいいや~の思いで視聴した次第です。はい。


●未来と、ミライって?
{netabare}
"未来"は、くんちゃんのおうちの赤ちゃんの名前です。ってそれだけじゃないんです。
"未来"。おそらく、くんちゃんが初めて遭遇する 命名の書。
"漢字" は未知との遭遇です。
ああ、そうか。くんちゃん、ここからつまずくわけだよね。

それ以上に、くんちゃんが混乱しただろうことは、赤ちゃんが「赤ちゃん」ではなく「いもうと」と呼ばれていたこと。そして、赤ちゃんに名前が付けられる前から、おかあさんから「おにいちゃん」と呼ばれるようになったことでしょう。
赤ちゃんにも、くんちゃんにも、それだけじゃない「新しい呼び名」が付けられたのです。
それって、4歳にして、まるで15歳で、元服・改名したかのような扱いじゃないですか~。
くんちゃんにしてみれば、意味わかんないでしょう。びっくりです。

くんちゃんにしてみたら、"くんちゃん"という呼称は、おかあさん、おとうさん、ばあばたちと、関係性を担保する "一番大切な言葉" なのです。
いわば絆であり、キーワードであり、くんちゃんワールドの最高にして唯一の記号なのです。
4歳児にして、絶対に譲れないアイデンティティなのですね。笑。

くんちゃんにしてみたら、おもちゃの新幹線だって、一つの車体に一つの名前がついているのが正しい理解です。プラレールの "のぞみ" は、"新幹線のぞみ" であって、"新幹線" と "のぞみ" という別々の呼称で呼ぶものではありません。
のぞみは、くんちゃんにとっては、"ボク" のおもちゃ、ではなく、"くんちゃん" のおもちゃ。
くんちゃんはくんちゃんであって、"ボク" ではない。くんちゃんにとって、大事なのは、"固有名詞"。"ボク" は、"普通名詞" なのです。
たぶん、くんちゃんにしてみれば・・・「格が違う」のでしょうね。

ましてや "おにいちゃん" とは、いかがなものでしょう。

"おにいちゃん" という "普通名詞" は、おかあさんとおとうさんの間に、築き上げてきた "くんちゃん" という "固有名詞" に、泥を塗りつけるような呼び名だったのかも。くんちゃんのかけがえのない4年間を台無しにする言葉になっちゃったのかな。

くんちゃんだけのおかあさんとおとうさんの間に、割って入ってきた "赤ちゃん"。 かわいいはずの "赤ちゃん" が、さらにくんちゃんを追い詰めます。

"赤ちゃん" の呼び名の上に、"いもうと" という呼び名が重なり、さらに "ミライちゃん" も重ねて置かれてしまうなんて!
ましてや、"未来" なんて漢字は、くんちゃんにとっては途方もない強力な "固有名詞" です!!

そりゃあ、地団駄踏むしかないでしょう。くんちゃん踏め踏め~、陣地を取り戻せ~!!!


くんちゃんにしてみたら、身近な大人は、"おかあさん" 、"おとうさん"、"ばあば" という呼称で通じるのが、くんちゃんワールドのルール。
だから、おかあさんは、"固有名詞" は必要なくって、"普通名詞" でいいのですね。


ところが、思わぬところで、くんちゃんは途方に暮れることになります。
ズボンの色に拘ったばかりに、くんちゃんは愛想尽かれ、いきなり迷子になってしまったのですね。
くんちゃんが迷い込んだ駅舎の迷子案内人から、おかあさんとおとうさんの "名前=固有名詞" を問われたとき、彼は、答えられなかったのですね。
そのときのくんちゃんの焦りようったら、それはもうなかった。笑えて仕方ありませんでした。
さぞかし、おかあさんとおとうさんとの関係性において、くんちゃんは "自尊心" を削られたんじゃないでしょうか。

おかあさんとおとうさんの名前を 、知らなかったことのショック。
駅舎の迷子案内人に、親子関係をうまく説明できなかったことのショック。
"迷子" というのっぴきならないレッテルを貼りつけられたことのショック・・・。
こんなにショックを受けてしまって、憧れの新幹線が、トラウマにならなきゃいいけれど・・・。

くんちゃんにとって、もうひとつの青天の霹靂、我慢がならなかったことがあります。
それは、いきなり"おにいちゃん"という普通名詞を押し付けられて、格下げされてしまったこと・・・の上に・・・。
赤ちゃんに "ミライちゃん" という、くんちゃんにもたやすく理解できる名前(=固有名詞)がつけられてしまったことです。
くんちゃんのお家のなかに、固有名詞で呼ばれる存在が、もう一人現われた。
すでに、くんちゃんは "おにいちゃん" と普通名詞で呼ばれてしまう立場になってしまっていたから・・・。
くんちゃん、格下げのうえに格下げをくらってしまった、のか・・・?

どうやら、本作を視聴するにあたって、"固有名詞と、普通名詞の関係性への理解" がキーワードの一つのように感じます。
このキーワードが、本作に登場する人物と、くんちゃんとの関係性において、くんちゃん自身の変化と、未来ちゃんがなぜくんちゃんの前に現われたかを考察する "道しるべ" になる感じです。

この作品のテーマは、くんちゃんの "4歳児の発達" です。
4歳児にとって、妹がうまれるってことは、どんな変化がおきるのかな?
ここが楽しめるかどうかですね。

例えば、"新幹線のぞみ" が、"新幹線" という普通名詞と、"のぞみ" という固有名詞のふたつに要素分解できるように、おかあさん、おとうさん、ばあば、ひいじいじも、"名前=固有名詞=呼び名" が「別にあること」と、でも「同じ人でもあること」を、くんちゃんは、"間もなく" 知るのです。

そして、赤ちゃんには、妹(関係性)、未来(漢字)、ミライ(読み方)、中学生のお姉ちゃん(くんちゃんの知らないことをたくさん知ってる人)・・・といういくつもの名前があることも、"間もなく" 知るのです。

でも、くんちゃんにはまだちょっと難しいことです。だって4歳児ですから。
終幕で、くんちゃんがバナナを割って、ミライちゃんと一緒に食べて、一緒に笑うという関係性こそが、4歳児のくんちゃんの理解できる第一歩なのです。分け合いっこっていいですね~。

そして、おかあさんの子ども時代、おとうさんの子ども時代、ばあばのお母さん時代、そして、亡くなってしまった{netabare} ひいじいじの{/netabare}青年時代、そういう時代があるということ。つまり、何十年もの「過去」があることを見るのです。
(ああ、くんちゃんにはかなり難しい!)

そして、{netabare}くんちゃんの {/netabare} 高校生の姿、ミライと名乗る中学生のお姉ちゃんが「いる」ということ。つまり、10数年後の「未来」が待ち受けていることを垣間見るのです。
(ああ、くんちゃんに理解できるわけない!!)

こうした構成が、巧妙に仕組まれていることが途中で分かりかけてきました。

そうか、これは、4歳児のくんちゃんにとって、とてつもない大事件なんだ。
そう思った瞬間、もう可笑しくてたまらなくなりました。クツクツ笑いっぱなしでした。

私が最初の5分で得た印象は、作品のベクトルがわからなくて、確かに "カオス" な作品だったんです。
そして、ぼんやり観ていたら、クレヨンしんちゃん(5~6歳児)との比較で、ますます "つまんない作品じゃん。二番煎じなの!" というレベルで留まってしまっていたと思います。

でも、本作は、「4歳児の発達の一瞬を切り取り、深堀りした作品」でした。
今までにない「おにいちゃんといもうとの "未来" を予感させる、全く新しいオリジナル作品」。
そう感じました。
{/netabare}


●くんちゃんのお家、お庭
{netabare}
くんちゃんのおうちって、とってもユニークです。
最初、空から俯瞰すると、広めのお庭が見えました。でも、途中でお家を建て増ししたんですね。
中庭があって、木が一本植えられていました。
下手の建屋は、大きな掃き出し窓が連なっていて出入り口にもなっていました。中庭を見上げる開放感溢れるデザインです。
上手の建屋には、ドアがあって、中庭をななめ下に見下ろすこれまた大きな窓。掃き出し窓かな?きっと風のとおりが抜群に良いでしょうね。
そしてこじんまりとした中庭を中心においたダイナミックな上下左右と斜めの動線。
広すぎてくんちゃん一人では持て余してしまいそうな感じです。
そんなふうにお家が三つのパーツに分かれていても、くんちゃんの世界は独り占めです。
散らかし放題、やりたい放題、そしてぐずり放題も・・・。

犬のゆっこがいます。{netabare} くんちゃんが生まれる前までは、王様だったのに、{/netabare}今や、あれやこれやの恨み節。おうちに来たのはくんちゃんのほうが後なのにって、そりゃそうだワン。
尻尾まで取られちゃあ形無しです。くんちゃんの優位性は決定!
ここで面白いのは、くんちゃんの「やっぱり」って独り言。なぜって?くんちゃんはもう4歳。聡い子ですよ。


私は、このお庭がとっても気に入りました。
雪が降っていましたね。草も生えていました。
きっと折々の四季が家族の情緒を深めるのでしょう。

温度が、風が、陽の光が頬を撫でるのでしょう。
雨や雷、雪や青空がアクセントを創るのでしょう。
暗くなればお星さまや天の川のほうにお顔が向くでしょう。

お庭は大きな窓で仕切られているのだろうけれど、引き戸を大きく開け放てば、おうちはおそとにつながっていくでしょう。
まるで、くんちゃんの世界と未来ちゃんの世界とが大きく繋がるかのようにです。
{/netabare}


●くんちゃんの公園、自転車
{netabare}
広々とした公園も、青々とした草地も、自転車に乗った子どもたちも、おとうさんにお願いして補助輪を外して果敢にチャレンジした時間も、みんなくんちゃんの世界ではあるけれど、やっぱりくんちゃんの "心の杖" はおとうさん。
でも、おとうさんはミライちゃんも気にかかり、それがやっぱりくんちゃんには悲しくて悔しくて遣りきれない。
でもね。くんちゃんは "青年" と出会ってしまったのです。
ものすごいエンジン音も、吹き飛ばされるような風圧も、馬上からの高い視線と遠くに見える建物も、疾走する自動二輪が風を切りさく速さも、みんな知ってしまったのです。
くんちゃんは、"青年" と同じ時代を過ごしたし、語ったのです。
ミライちゃんと一緒に、"青年" の生きざまを見おろしていたのです。

くんちゃんは、おかあさんと一緒にアルバムを見て、その "青年" が、{netabare} ひいじいじ {/netabare} だと分かったとき、自転車にどうして乗れたのかに気づきます。くんちゃんは過去に触れ、新しい世界を一つ手に入れたのですね。やったね、4歳児、ブラボー!
{/netabare}


●迷子のくんちゃん
{netabare}
くんちゃんにとっては、プラレールの新幹線は、楽しくて夢のある乗り物です。

プラレールは、スクラップ&ビルドとトレインビューを兼ね備えています。

前と後ろ、先と後、未来と過去。
右と左、橋とトンネル、登りと下り、分岐と結合、進行と停車、連結と切り離し、車内と風景、運転士と乗客、たくさんの車両の造形・・・。
時系列、空間認識、一人語り、場面の多様性など、いろんな "物語" を作り出せるおもちゃなんですよね。
プラレールは、くんちゃんに電車旅のエピソードをインスピレートしていたし、くんちゃんも新しい車窓とストーリーを知らず知らずのうちに創りだす想像力を培っていたのでしょう。

くんちゃんが、ローカル線の車内に踏み込んだのも、広いコンコースも歩けたのも、黒い新幹線の車内からも逃れることができたのも、プラレールのおかげかな?・・・・でも、改札は抱っこされていたのでしょうね、きっと。

これ、心憎いほどの演出だと思うんです。4歳児の発達の実相を上手に表現しているなあと感心しました。

ところが、くんちゃんがたどり着いた新幹線が出入りしている駅舎でのこと。
迷子の案内人さんから、「家族、妹、自分」という関係性の証明を問われたときに、くんちゃんの脳裏に、今までに感じたことのない「別離、放逐、独りぼっち」という "こわさ" が、リアルに浮かび上がってきたのだと思います。
それは、プラレールの一人遊びの中では、一度も感じ得なかったものです。
プラレールシリーズにはない、黒い新幹線は、くんちゃんに、悪夢と恐怖を与えます。

くんちゃんは、おかあさんとおとうさんの名前=固有名詞を知りません。
知っているのは、「赤ちゃん」=「いもうと」=「ミライちゃん」です。

「ミライちゃん」。それは、つまり、くんちゃんが、おかあさんとおとうさんを独り占めしてきた時間と空間のあいだに、ミライちゃんの存在を「是認し、受容」し、ミライちゃんとの関係性を「宣言」しなくてはならないことにつながります。

言い換えれば、くんちゃんは、「ミライちゃん」と "固有名詞" で呼ばなきゃいけないし、「{netabare}ボクは、ミライちゃんのおにいちゃん{/netabare}」と "普通名詞" を使わなければなりません。
それを認めてしまったら、くんちゃんは、未来永劫? {netabare}ボクは、ミライちゃんのおにいちゃん{/netabare} という立ち位置に立たなければなりません。

この二つのハードル、つまり、ミライちゃんを認めることと、{netabare}ボクは、ミライちゃんのおにいちゃん{/netabare} という新しい世界観を受け止め、乗り越えて、それで初めて、くんちゃんは、「恐怖の黒い新幹線」に乗らずに済むのです。

でも、一方で、「くんちゃんは、いつまでもくんちゃんと呼ばれていたい。」という思いがあります。

くんちゃんの頭のなかに渦巻く!可愛らしくも大きな矛盾が、くんちゃんのアイデンティティを揺さぶるのです。

迷子のくんちゃん。
ここからのエピソードが、本作の核心部です。

★ミライちゃんが連れていかれる!
{netabare}

このシーン、ミライちゃんが黒い新幹線に吸い込まれていくのですが、くんちゃん、あれほど嫌いだったミライちゃんのことを {netabare} 「ボクはミライちゃんのおにいちゃん!」{/netabare} って叫んでいました。そして、身を投げ出してまで庇(かば)っていました。
このとき、くんちゃん、ついに新しいステージにあがりましたね。

"ボク"、 "おにいちゃん" は、普通名詞です。
同じく普通名詞の "いもうと" に対して一般的に用いられます。
くんちゃんが、固有名詞に拘っていたのは、"くんちゃん" と呼ばれたい "自我の強さ=世界の中心にいるという自負心" です。
その強さを、折って、曲げて、やわらげて、普通名詞を扱う術を手に入れたのです。
そうして、晴れて "おにいちゃん" の立ち位置を (と同時に、自尊心も) 獲得したシーンでした。

これって、コムズカシク言えば、人間としての "発達" なんですね。
{netabare}
具体的に言えば、ミライちゃんを、家族の一員として受け入れるという "意識の芽生え" ということですね。

その背景には、くんちゃんなりの「家族のコミニティ」への評価(=気づき)があったことは確かでしょう。
言い換えると、くんちゃんという "個" だけの価値観から、"おうちのなかにいるひと=集団" のもつ価値観へのシフト、新しい社会性の獲得なんですね。
保育園でなら、年少~年中さんのクラスで、保母さんが毎日取り組んでいる内容です。


それから、実は、くんちゃんが踏みまくっていた地団駄。
あれは、ミライちゃんが生まれたことによって生じた「軋轢」の証です。
そして、ミライちゃんの存在を "受け止めよう" とした「ならぬ堪忍するが堪忍」の姿。
ミライちゃんとの "距離感をとり図ろう" として、悶えまくっていた「葛藤」の表われでもありました。

それをみんなひっくるめて、さばいて、かわして、乗りこえなきゃいけない、という 4歳児の艱難辛苦よ。(私なら、逃げ出しちゃうか、病気になっちゃうかも。)
{/netabare}

おにいちゃんとして、カッコ良く生きるのってさぁ・・・ああ、男はつらいよ~、だね。
{/netabare}


★★もう一つは、"黒い新幹線" への「恐怖」でしょうね。
{netabare}

そんな葛藤・・・いや地団駄を踏んでいるときに、もうひとつ危急を要する事態が起きてしまう・・・。
なんとミライちゃんが、ホームに現われて、黒い新幹線に吸い込まれていく・・・。

それはマズい。そうなると、くんちゃんは最後のカードを失ってしまいます。(電車のカードじゃないぞ、くんちゃん。)
くんちゃんの手元に、ミライちゃんが「有る」ことが、くんちゃんが黒い新幹線に乗らないで済む「たったひとつの条件」です。
ミライちゃんの存在が、おかあさんとおとうさんとをつなげる "たった一本のレール" なのですね。

矛盾と葛藤に、地団太を踏んでいたくんちゃんの目の前に立ちはだかった、恐ろしい黒い新幹線。
今まで大好きだった新幹線じゃない、真っ黒な新幹線に、全身全霊で向かいあい、違うカタチで乗り越えることで、ようやく新しい別のカタチの新幹線に乗り込むことができる・・・。

このシーンでは、恐怖というキーワードを使って、くんちゃんに、「おにいちゃんで有る」ことを選択し、ミライちゃんを守るという本能的な行動をとらせたのでしょうね。

くんちゃんにしてみれば、初めての決断だったかもしれません。ついに、強い心を持った "おにいちゃん" の誕生だ~。すごい宝物を手に入れられた、かっこいいくんちゃんなのでした。
{/netabare}

★★★天に昇るくんちゃんとミライちゃん。
{netabare}
ところが・・・赤ちゃんのミライちゃんが突然消えてしまい、独りになったくんちゃんに向かって、暗闇から "手" が伸びてきて、くんちゃんの "手" を掴むのです。
その手には、赤い痣(あざ)が付いていました。4歳児のくんちゃんには、とても分かりやすい "記号" だったはず。でも、このシーン、"深い意味" があると感じました。

そして、天に昇る・・・・"兄と妹" という関係性が、ミライちゃんの歓喜を生みだし、彼女の高揚感が、とんでもなくたくましいエネルギーを生みだしたように感じました。
それに、2人とも、つないでいたのは、"右手"だったでしょ?


"いもうとのミライ" と名乗る中学生のお姉ちゃんの "手" につながれて、2人で飛び越えていく過去の時系。
先々に現われるのは、くんちゃんの知らない過去の物語。
未来から来た中学生になっているミライちゃんが一つ一つ解説してくれるのです。どうやらミライちゃんはすでに知っているみたいですね。

その時、くんちゃんとミライちゃんは、手をつないでいませんでしたが、言葉でつながっていたし、心で通じ合えていたように見えました。

ふわふわと漂うかのようにして、同じ時間を共有しているシーンです。
私は、くんちゃんが、中学生のお姉ちゃんを "ミライちゃん" として受け入れ、"いもうと" としても受け止めようとしている心象を表しているかのような不思議な感覚を持ちました。

くんちゃんは、くんちゃんなりにミライちゃんを受け止めたから、"迷(い)子" ではなくなったみたい。ミライちゃんに対して、"おにいちゃん" でいようとする、ほんのすこしの "覚悟" が持てたようですよ。
{/netabare}
{/netabare}


●おとうさん、おかあさん
{netabare}
赤いエステートワゴン車のラゲッジで、おとうさんとおかあさんがお話をしていました。
「僕たち、変わったよね。」「え~そうかなあ」

結婚し、子どもが生まれ、また家族が増え、家庭も変わっていく。
時に劇的に。ときに気づかないほどにささやかに。
それは、やっぱり、くんちゃんの小さなまなざしに、おとうさんとおかあさんが、寄り添っているからなのかしら?

くんちゃんには、"未来" という漢字は読めません。でも、"ミライちゃん"という言霊は、すう~っと体に馴染んでいくでしょう。
そうして、くんちゃんも "くんちゃん" という殻からひとつ脱皮して、"おにいちゃん" という呼ばれ方をひとつ手に入れたようでした。

くんちゃんが "おにいちゃん" になる、その一瞬先の未来の成長を、とても丁寧に描いた作品。
ミライちゃんも、おにいちゃん思いのいい子でした。・・・ん?

でも、本当はね、ミライちゃんにしてみると、くんちゃんとミライちゃんが出会った瞬間から、人間関係が、ほぼほぼ決まってしまうわけです。
だから、わざわざ、未来からやってきた?のでしょうねえ。

これって、ドラミちゃんみたいに思えるんですけど。「もう!お兄ちゃん!」ってね。やれやれ、妹だって大変だなあ・・・。

(それに、最近の兄妹アニメのアンチテーゼかもしれないわね。ああ、怖い話だわ。)

いずれにしても、ミライちゃんも、お疲れさまでした。
おかあさんも、くんちゃんも、お片づけは大の苦手だろうけれど、プラレールはともかく、雛飾りだけでも、くんちゃんにきちんと仕舞ってもらって、早めに家から出られるといいね。がんばってね。

おかあさん、おとうさん。
クレヨンしんちゃん(5歳児説)とひまわりちゃんとは少し違う、くんちゃん(4歳児)とミライちゃんの摩訶不思議な世界観。
いくらか感じ取っていただけましたでしょうか。
たぶん・・・、子どもさんの方が、この作品にシンクロしやすいのかもしれませんよ。
「お兄ちゃんてば!もうっ!!」

そんな感じで、多くの人に観ていただきたい作品だと思いました。
{/netabare}

長文をお読みいただき、ありがとうございました。
本作が、皆に愛されますように。

投稿 : 2018/08/04
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サンキュー:

22

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