「エルゴプラクシー(TVアニメ動画)」

総合得点
67.1
感想・評価
419
棚に入れた
2559
ランキング
2526
★★★★☆ 3.8 (419)
物語
3.7
作画
3.9
声優
3.7
音楽
3.8
キャラ
3.8

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ネタバレ

hiroshi5 さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 5.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

Ergo Proxy Complete Review: raison d'etre

☆簡単な説明

作品の中身が難しい今作品はエンターテイメントとしても楽しめます。
化け物達の争い、綺麗な作画。どちらもこのアニメを語る上で離せない重要要素です。
しかし、それだけではこの作品を十分堪能したとは言えないでしょう。この作品でもっとも重要なのはテーマを理解すること。そしてそのテーマを掘り下げることをしなければ高得点にはなりません。
全体的に暗く、アクションも少ない為一部の人には受け入れられない作品ではある点を考慮した上でも個人的には90点はあげたい。
硬派なアニメですが、少しでも興味がある方でしたら、視聴することをお勧めします。

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☆読む人の条件

今回は大胆なネタバレにしようかと思います。詳細な内容も含め、世界観から各キャラの価値観、物語のテーマ、そして重要と思われるシーン&セリフを抜き取って吟味していきます。

と、言う訳で、ここから先は以下の条件を満たしていないお方は先を読まない方が良いと思われます。
・今作品(全23話)を見る時間が無い人
・既にこの作品を視聴した人
・これから先、この作品を視聴する確率が非常に少ない人

☆世界観

実はwikiって貰えば一番早いのですが、今回はネタバレということでwikiには載っていない(というより載せられない)物語後半で明かされる内容も含めたいと思います。
もう一度忠告しますが、これ読んだら今作品のエンターテイメント性は一気にゼロになりますのでご注意を。
後、物語を既に視聴した方は下の*印までスクロールして下さい。そこから物語をパーツ毎に吟味します。

@ブーメランプロジェクト

まず、ブーメランプロジェクトの説明から。ブーメランプロジェクトはその名の通り帰還を意味します。
人間達は技術の発展により地球を生物が住めない環境にしてしまった(雲が空を覆い太陽は地面を照らさない。さらに大気中には毒ガスが満ちている)。その結果人類は宇宙船を作り、別の惑星に移住することを決定。その移り住んでいる間に地球の環境回復を図るためプラクシーと呼ばれる不死身の怪物達を地球に残す。プラクシー達はその不死身の特質を生かし(アムリタ細胞と呼ばれる実質不死の細胞で構築されているのがプラクシー)、人間が生命活動出来ない状況下で人間達の帰還をよりスムーズにする為の社会の枠組みを作ることに。その為に必要になるのが新たな「人間」とその生物が生きられる環境。プラクシーはドームを作ることによって限定された環境での社会形成を試みる。しかし、不幸なことにプラクシーが感情を持ちえる生命体だった為、複雑な感情が不完全な人間を作ってしまう。その不完全な人間、人間もどきは己で子孫を作ることができない(多分性的欲求も無い)。その為にプラクシーが新しく作りだしたプログラムがウームシス。この機械はプラクシーの底知れぬ生命力を根源とし、社会の枠組みを形成する為に必要な人間を生産する。
プラクシーは不死身のアムリタ細胞から構成されていると記述しましたが、アムリタ細胞は正確には不死身では無く、プラクシー同士、または太陽光にあたる事でその生命活動を停止します。つまり、人間が帰る頃(太陽が地球の地面を照らす頃)にはプラクシーはその役割を終え、勝手に消滅する、ということです。
プラクシ-→人間→社会→プラクシーの消滅→人間の帰還
これが、ブーメランプロジェクトの起源とその成り行きです。ここで追加情報。

@プラクシープロジェクト

次にプラクシープロジェクトの説明をしましょう。プラクシーがどう人間達に作られたのかは語られていませんでしたが、人間達が残していった感情を持つ怪人であるのは確かです。このプラクシーは己が作った人間もどきに落胆してしまう。理由は人間もどきを作ったは良いものの、人間達は絶対的力を持つプラクシーを敵と判断した。要は自分達の創造主を否定したのです。プラクシーはそれらの傲慢で不完全な人間を時が来た時に無に帰すことを考えた。その人間虐殺の手段として作られたのが新型ウイルス、コギトです。コギトは人間もどきが作った「オートレイヴ」というロボット達に感染して、感情を持たせるというものです。ロボットが感情を持てば、人間もどきが死ぬことになるのか、と疑問に思われるかもしれませんが、それはストーリーの方で詳しく説明します(存在理由に疑問を持つ)。
そしてもう一つの人間虐殺(この表現はちょっと違うかも)の方法がウームシスの停止です。人間もどきを生産しているウームシスが停止すれば、人間は社会を維持することが出来なくなります。
要は、リセットする為のプロジェクト、それがプラクシーープロジェクトです。
人間もどきに生産→プラクシーを迫害→コギトの感染&ウームシスの停止→人間もどきを全滅

ここまでが設定です。では次に物語の進行を説明しましょう。

☆物語

プラクシーが構成したドームの一つであるロムドが今作品の舞台です。

@キャラクター

主要キャラクターは三人。
リル・メイヤー、ビンセント・ロウ、ピノです。
付け足すと警備局局長のラウル・クルード、厚生局主任のデダルス・ユメノ、リルを随行するオートレイブ、イギー、そしてロムド全体と統括しているドノブ・メイヤーが主要キャラクターです。

ここからはwikiの説明を引用します。

完全な管理体制下にある都市ロムド。人々は「オートレイヴ」と呼ばれるロボットとともに模範的、従順なる「良き市民」として生活していた。しかし近年、犯罪とは無縁と思われていたロムドでオートレイヴに自我の発症をもたらすコギトウィルスの感染が増加し、問題となっていた。ロムドの市民情報局に勤める若きキャリア、リル・メイヤーは、ウィルスに感染し制御不能に陥ったオートレイヴの暴走事件、そして多発する謎の市民斬殺事件の捜査にあたっていた。
ある日、リルは感染オートレイヴの追跡調査で出会した新たなる市民斬殺現場にて、謎の怪物の姿を目撃してしまう。そしてその夜、自宅に残された謎のメッセージ「awakening」に驚愕する彼女の眼前に、その怪物が姿を現した。
怪物は警備局の隠蔽工作により、ストーカーによる一次的な心神喪失状態での虚言症反応で作られたリルの妄想であると片付けられ、リルの目撃証言を信じる者は誰一人として居なかった。警備局の暴走、情報局の沈黙、そして闇へと葬られる謎の怪物「プラクシー」の存在。完璧と思われていたロムドの秩序が少しずつ揺らぎ始めていた。
殺人事件の捜査からも外されたリルはひそかにプラクシーについて調べ始めるが、見え隠れする上層部の思惑に翻弄されてしまう。唯一の手がかりと思われた謎の移民の男も、国家反逆罪に問われ、ロムドから逃亡していた。
真実を求め、リルは欺瞞に満ちたロムドを捨て「死の世界」と言われる外の世界に移民ビンセント・ロウを追う決意をする。

と言うのが初めの5話ぐらいです。

☆物語の真実

物語の真相を簡単に説明すると、ビンセント・ロウがエルゴ・プラクシ-、ロムドを作ったプラクシーだった訳です。
エルゴプラクシーはロムドを作った時、他のプラクシー同様、人間もどきの愚かさを実感した。そして、己の創造主としての力量不足にも。そこで、エルゴプラクシーはロムドでの記憶を消し、離れた。すると、ウームシスをを起動させることが出来なくなったドノブ・メイヤー(ロムドのトップでありながらエルゴ・プラクシーの友人的存在)は他のドームから別のプラクシーをロムドに連れて来ることでウームシスの再起動を計り、それを成功させる。その代わり破壊の対象となったドーム、モスクドームは崩壊し、そこの住民は移民としてロムドに迎え入れられた。こうして格差社会を形成しながら、順調に発展を続けていたロムドドームに「始まりの鼓動」、プラクシープロジェクトが開始される。そして、偶然にもプラクシープロジェクトが開始された時には地球環境は人間の住める状態に回復しつつあった。ここでブーメランプロジェクトの最終項目であるプラクシーの自己壊滅が始まる。
プラクシーと人間もどきが「死」という決定事項に向かう時、複数の人間もどきが異常を察知し、運命に抗おうとする。そんな状況下でモスコからの移民として化けていたエルゴ・プラクシー(ビンセント・ロウ)は真実を知ろうとするリル・メイヤーと共に旅をし、記憶を取り戻す。

物語の最後は、最終話を見て貰うのが一番早いんですが(ちなみに、この最終話は傑作以外の何物でもない。語られる事実の全てが今までの全22話を繋げ、視聴者に判りやすく理解させてくれる。)簡単に説明します。
もう一人のエルゴ・プラクシーが登場し、ビンセントと会話をしながら戦います。その会話内容がブーメランプロジェクトとプロクシープロジェクトであり、さらに彼らプラクシーの観点から見た存在理由みたいなものを語ります。
ここで重要なセリフは「真実は一つ」と最後に本物エルゴが言う
「ビンセント。お前はまさに影。影は不死身の我を倒し鼓動の呪縛を解き放った。それはお前(エルゴ・プラクシー)を苦しめ、そして愛した不完全なる者達の解放でもあった・・・。未来を見通す女(リル)か。確かに彼女は、おまえ、ビンセント・ロウの現実だ。太陽が戻る・・・。俺達の世界は終わる。だが、生きろ、ビンセント。お前が生きる事が創造主への罰となる!」です。
ここから判るように、彼らは最終的に創造主(宇宙に逃げた人間達)が決めた規定事項に抗うことを決意した、ということです。
一言で言うと、変更不可能な現実や未来に対して抗うことを決める。

これが物語りの超大まかな進行です。ふ~・・・。物語を説明する、ということをレビューしたのは始めてだったので苦労しました・・・。というか、無駄に長いな、物語の説明。すいません(;^ω^)

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☆真相の真相
ここは別のサイトや、自分の推測から導きだした答えです。正しいかは保証できませんが、結構真相に近づいていると思います。

@プラクシー1は完璧な人間の製造に成功していたかも?

完全な人間、つまり自己増産能力を持った人間ということです。ワームシスを頼らない人間がプラクシーによって生産されていたのなら、物語を根底から覆すことになりかねないんですが、これが時間が?が無かったらしく一体(もしくは二体)しか作れなかったそうです。
で、結局完璧な人間は誰かと言うと、ドノブメイヤーではないかっということになりました。

で、この完璧な人間の生産に成功したことが何を意味するか、なんですが、これは本編でエルゴプラクシー1が「勝者」という風に定義されているセリフがありまして、この勝者とは、人類生産に成功した唯一のプラクシーという意味ではないかという風に関連付けた訳です。

@リルメイヤーは失敗作?

リルメイヤーのそもそもの存在意義はエルゴプラクシーを誘惑、そしてロムドへ帰還指せる為に作られた人間もどきだそうです。
その役割を果たす為にリルに特別な要素を含ませる必要があった。
それがエルゴプラクシーを引き付けるモナドプラクシーのエムリタ細胞。
つまり、彼女はモナドプラクシーのエムリタ細胞から作られたクローン的存在という訳です。そんな彼女がプラクシーでない理由として考えられるのは、彼女を構成するのはプラクシーのエムリタ細胞だけでない、という可能性です、
ここで、代案として提示されたのが、リルはドノムメイヤーの細胞を含ませているのではないのか、という考えでした。
これは、何とも言えませんが、可能性としてはありだと思います。

本編では、そのプラクシーと完全な人間の融合体とも言えるリルが見事ドノブの意思を裏切ってしまい、新しいクローン、リアルが作られることになる訳ですね。

@人類に帰還は太陽の出現を意味するんですが、リルとビンセントは大丈夫なのか?
人類が帰還した、つまり太陽が出るわけなんですが、プラクシーであるビンセント・ローとエルミタ細胞を含んだリルは生存することができるのか?っという疑問が浮かんだんですが、これは何とも判らないということでしたw
プラクシー1がビンセントである、エルゴプラクシーという変わり身を作った時に、プラクシープロジェクトの一巻である太陽光のルールから逃れられる細工をした、ってのが一番の有力説って感じでした。
リルの場合は明らかにエルミタ細胞以外の細胞も体を構築しる要素として含まれている為、大丈夫なんじゃないだろうかって話です。

しかし、ここまで来るとアニメ本編では一切説明されていないので、さすがに難しいです・・・汗

@ロムドの「良き市民足る者、物を捨てましょう」とはどういった意味?

よき市民足る者、物を捨てましょう、なるフレーズがアニメの序盤で提示されていたんですが、そもそもこの社会は物資やエネルギーをどこから得ているのか、についてです。
ビンセントがロムドドームを離れたときに見た光景の中に、いらなくなった大量の機械類が排出されている描写が描かれていました。
つまり、リサイクルはされていないということです。

じゃ、社会的に市民が物を捨てることの利益は何なのか。

これは多分合理的理由があるのではなく、皮肉でしょう。

まず、前提としてロムドを含めるドームとは人間もどきの為に作られているのでは無く、地球に帰還する人類の為に作られているということです。

つまり、プラクシーと人間もどきが作るべき社会体制は彼らの環境に適したものでは無く、人類が帰って来たときに難なく受け入れられる社会構造。

要は資本主義ということでしょう。

物を捨てろと資源が枯渇している環境で言っていたのは人類が住み着く社会体制を資本主義に合わせなければいけないからでしょう。逆に言えば、人類はブーメランプロジェクトを計画した時点で資本主義という構想を改めていなかったということになります。

つまるところ、人類は帰還しても環境破壊をまた再度繰り返すことになる、これが冒頭で言っていた皮肉です。

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ここから先は内容を掘り下げていきたいと思います。
「自身の存在意義をどう客観的に見出すか」「自己の存在をどう肯定するか」について語ります。
この作品のもっとも素晴らしいところは空想の中で無意味な抵抗を繰り返すキャラクター達や自己の存在理由も見出す為に苦しむシーンの描写とセリフです。

☆キャラクターから考える「自己の存在理由」

まず、存在理由を模索し続けるキャラクター達をリストアップ
ビンセント・ロウ
・エルゴというもう一人の自分をどう受け入れるか
イギー
・コギトに感染し、感情を持ってしまった彼は今までリルの自分勝手な行動の言いなりになっていたことに不満を覚えると同時に己のレゾンデートル(存在理由)を模索する
デダルス・ユメノ
・イギーと同じく己のレゾンデートルを無くしてから、自分がなぜ存在しているのかという問いに苦しむ
エルゴ・プラクシー
・プラクシーという不自然な存在、社会と人間もどきから拒絶されながらも、死ねない苦しみに悩まされる。
他にも色々いましたが、どのキャラも大きく分けてこの四種類の悩みに通じたので、この四人だけを吟味します。

まず、ビンセント・ロウから。
彼の存在理由に対する苦悩は尋常ではありませんでした。
1、己がプラクシーであるが為に自分が関わる人間が次々に殺されていき、最終的に辿り着くのはいつも孤独だから。
2、エルゴが本当の存在であり、ビンセントは記憶を忘れる為に作られた仮の人格だから。
一番は他のアニメでも結構使われる状況です。有名なのがワンピースのニコ・ロビン。存在が「悪」だと言われていた彼女は社会からその存在を否定されていました。
この問題の解決方は色々使われているだけあって簡単です。ワンピースの場合ではルフィー達がロビンの存在を肯定することで、彼女の存在を客観的に認めました。今作品では同じく方法でビンセントの存在をピノとリルが認めることで肯定していました。
難しいのは二番です。シチュとして多重人格の物語をベースにしたら良いんでしょうが、殆どの多重人格の物語は本当の人格が中心であり、他の人格はそこまでアップされないことが多い。ミステリー小説などで(ルームメイト、プラチナデータ、etc.)良く使われますが、今作品にもっとも近い状況に合っているには「ジキル&ハイド」だと思われます。二重人格になる経緯や理由は違いますが、同じタイプの悩みを持っているかな、と。まぁ「ジキル&ハイド」との比較はさて置き(←おい)、具体的にこの悩みを吟味していきましょう。
例えば、あなたが5年前に大怪我して、記憶喪失したとします。それから、5年間家族と一緒に暮らして、社会に出たとする。それから自立すると、親から唐突に実の親では無いと告げられ、旧友を名乗る人物達からは昔のあなたの方が良かったと現在のあなたを全否定されたとする。その状況がビンセントの状況です。いや、実際はもっと苦しいでしょうね。
ビンセントのまとめ:己の存在理由が本物の自分を隠す為だけのものであるという事実を避けることは出来ない。つまりビンセントとしての存在を肯定するには他者の認識が必ず必要になるということ。

次、イギーとデダルス。
イギーとデダルスの苦しみはリンクしています。彼らのレゾンデートルであるリル自身が彼らを必要としなくなったから。ロムドでは人間もどきとオウトレイブはレゾンデートルを与えられることで生産される。イギーはリルを守る為に、デダルスはリルの健康管理&友達として生産された。リルが彼らの存在を必要としなくなった時、彼らは何のために存在するのか?というのが悩みです。
イギーが出した答えは主人であるリルをコントロールすることで自分の存在を肯定するという方法でした。これは主従関係の観点から見ると意味不明ですけど、理解出来なくもない考え方です。主人の僕であるイギーは主人を操作することで自分の居場所を確保しようとした。しかし、ここで面白いのは(ちなみに、かなり面白い)イギーがコギトに感染することで得た感情の心境です。イギーは感情を持つことで、まず主従関係という根本に疑問を抱いてしまった。そして、自分とリルの違いは体を構成する要素が肉体か機械かの違いしか見つけれず、さらに頭脳や力の面に関しては明らかに自分の方が上であることを理由に主従関係を壊そうとする。しかし、社会の中ではリルの僕であるからこそ己のリゾンデ-トルを保持できることも理解すると同時に、リルに対する今までの記憶がイギーに親近感を覚えさせる。これらの入り混じった感情がイギーが死ぬ 話を神回にしたんでしょう。彼が最終的に首だけになった時に放っていた二重の声。まさにリルに対する憎しみ(主従関係)と愛情(存在理由)を現していました。
デダルスが出した答えはイギーのそれとは全く違い、新しい存在理由を作り出すことでした。デダルスはアルミタ細胞で新しいリル・メイヤーを作りだし、現実逃避という方法で己を正当化しました。最終的にはその新しいリル・メイヤーにさえにも裏切られる訳ですが。
イギーとデダルスのまとめ:リルが存在理由の全てだった彼らは彼女を失うことにより社会での居場所を無くした。しかし、彼らは自らの行動によって己の居場所を獲得した訳である。己の存在理由は変化可能であり、他者から肯定されなくとも己で確立することができる。または、己が能動的に他者から肯定されるように強制することが出来る。

最後にエルゴ・プロクシー。
エルゴは存在に関する悩みは序盤から設定としてあるのですが(人間もどきから迫害されること)、その件に関してはビンセントの「他者から肯定される」で解消される問題なのでパスします。本題は最後で出てくるもう一人のエルゴ・プラクシーとの関係です。この件は「真実は一つ」という後ほど語る内容でも説明しますが、どちらも本物になれる状況での存在に関する悩みです。実際はビンセントであるエルゴは本物のエルゴの分身だった訳ですが、本物曰く分身であるエルゴ(ビンセント)も本物になれるとの事でした。分身エルゴはその後本物エルゴと戦う訳ですが、これこそが存在を肯定する為の方法です。抗うことで自分の存在を主観的にも、客観的にも肯定する/させる。答えと率直に言うと実在主義的思考ですね。
エルゴまとめ:社会、人物、物事など自分に立ちはだかる壁に対して抗うこと、その行為そのものが自分が存在しているということを証明している。
他のキャラクター達もこの四つの方法のどれかに該当します。クリスティバはイギー、リルとラウルはエルゴ、移民たちはビンセントという風に。

☆論理から考える「存在の肯定手段」

次はこの作品で度々出てくるキータームとの関連性を吟味しましょう。

@思う、故に君あり

「思う、故に我あり」
これは作品中で度々出てくるセリフです。これは合理主義的な考え方ですね。己が己の存在理由について考える、それすなわち己の存在を肯定することになる。
そしてこの考え方は第11話で否定されます。この第11話はまさに神回で、この回は最終話より優れているビンセントの妄想の話です(正直、今まで見たどんなアニメよりも面白い一話でした)。また、本編からしても重要な回でした。ビンセントはこの回で己がエルゴ・プラクシーだと認識し、ビンセント・ロウを追っていたリルが遂にビンセントを見つけるからです。この回の説明は私が説明するよりもセリフをそのまま使った方が良いと思われますので、書き下ろします。
まず、状況はビンセント・ロウが旅の途中で霧の中で迷ってしまい、ピノと船を捜している時に突如平野の中に建っている本屋を見つける。本屋に入ったビンセントは本屋の主人と思われるおじさんに出会い、そこでお茶を飲むことに。お茶が一番美味しいとされる3分を待っている間、謎のおじさんが約16分以上、永遠と話続けます。その一部を・・・。
まず、初めに謎のおっさんが時間を止めて話始めます。
「①どうやら、彼はまだ気付いていないようだ。ここが特別な舞台であることに。ここは、言うなれば、彼の頭の中。
②このように沢山の本が存在するには、まず読む人間が社会というものを作り出していなければならない。ただ、人間が社会を作り出す為には言語での対話が必要 となる。まさに鶏と卵のような話。どちらも相手が必要である、ということは本が純粋に人間的な方法で確立されたと言い切ることは不可能だ。それこそ神のような存在があたえたのではないか、と考えたくもなる。ありえないがね。ルソーの言語起源説か・・・
③さて、難しい話はこれくらいにして、引き続き数奇な運命の糸に操られた、この男の過去と未来を見て行くことにしようかね。ヒッヒッヒッヒッヒ。」
意識を取り戻したビンセント・ロウは手元にある本「ビンセント・ロウ」の中身に何も書かれていないことに驚き、近くの本棚の本を見る。彼の目に映ったのは本棚にある全ての本のタイトルが「ビンセント・ロウ」であり、中身が白紙だったことです。そしてビンセントは「これは夢だ・・・」と呟くと
「んな訳ないだろ。ビンセント・ロウ。こっちだ、こっち。」とおっさんの声。
ここから、過去の描写+仮面といったシュールな作画が入るんですが(これは見てもらった方が早い。)、ここからのセリフが一番重要。
「④何者でも無い。あった、としても人は把握できない。例え出来たとしても隣人には伝えられない。(中略)俺は他者から見ると世界の一部だが、世界を眺める視点としては、俺はいない。俺が見るものが世界であり、見る俺とはあくまで世界を構築する視点。世界に属することはできない。それは原理的に言える真実だ。(中略)俺は世界に属さない。それこそが世界の限界であり、自我と世界の境界線だ。”我思う、故に我あり”ではなく、”我思う、故に君あり”だ。」
ここからはビンセントを記憶を取り戻す為にクレイジーな展開となるんですが、これがまた傑作としか言いようがない。過去のセリフを繋ぎ合わせながら、ビンセントとしての存在の不安定さを示すことで、己がエルゴであることを理解させます。
まぁそのことは(本当は語りたいけど・・・)今は放置しましょう。それより番号を順番に考えていきます。
①はまぁ、どうでも良いです。この第11話自体がビンセント・ロウの空想の話であることを示しています。
②は興味深いですね。これは簡単に言うと「結果だけを見ると因果関係の順番など意味を成し得ない」ということです。鶏は卵を産みますが、卵がなければ鶏は産まれない。では、どちらが起源か?という途方も無い話です。この方式を無理やり本、という人間が作りだした産物に応用したのが②のセリフです。大量の本は社会が必要、だが社会は本を含む言語が必要。だから、単に人間が本を作り出したとは言い切れない、とおっさんは言ってる訳です。これは面白い考え方で(恥ずかしながらルソーの言語起源説そのものを知らなかったのですが、こんな考え方始めてで感動しました。)己の存在を問う面でも同じことが言えると思えます。
デダルス・ユメノ&イギーがリルを存在理由にしていたことを例にしましょう。彼らはリルが存在するから、生きていける。リルを守る為に生産されたのが彼らなのだから。しかし、逆に言えばリルは彼らの守られる必要があった。どちらも相手が必要なこの状況でさっきの鶏と卵の話を使うと、デダルス&イギーはリルを守る為に存在するとも言えると同時に、デダルス&イギーが存在するからリルも存在するとも言える。
そして、本編でこの関係を先に打ち壊したリルは、イギーを死へと、デダルスを混乱へと導く訳です。
③もどうでも良い。
④はこれまた、面白い話ですね~~。もう聞いているだけでワクワクして来るw
始めの己の視点が世界に属さないところはあれ以上嚙み砕いて説明出来ないのでそのまま放置。重要なのはそこから導かれる”我思う、故に君あり”です。要は合理主義的思考を真っ向から否定しているのが、このセリフ。理論上、主観から自分を認識できない現実に置いて、自分が思考することで自分の存在を肯定することは不可能。可能なのは、他者の存在を肯定することだけ。これは己の行動から自分を正当化しようとしているキャラクター達に対する行動の無意味さへの警告とも受け取れます。ここでもう一つ出てくる思考が自己内で成立する正当化方法、自己満足です。デダルスは自分で新しいリル・メイヤーを作ることで自分の居場所を作り上げた。それは他者の目から見て現実逃避であり、自己満足と認識される。本人が満足しているなら、それで良いんじゃないのか?と思うかもしれません。しかし、アニメ本編では新しいリル・メイヤーに裏切られ、不幸のまま死を迎えます。ここから導き出される答えは、他者から存在理由を与えられ、その存在理由に従うことが社会の中で生きていく方法、だと思います。

@真実は一つ (二つの見方から)

「真実は一つ」という定義にも触れて置きます。
これはドノブ・メイヤーの石像たちと本物エルゴがリルに対して発言した言葉でした。客観的だろうが主観的だろうが真実は一つだと言う考え方です。

真実は一つ/事実は複数
例えば母親が子供に話しかけている情景を五人の人が見たとします。そしてその5人が感じた事が全員違うとする。ある人は母親が子供に説教していると感じて、ある人は母親が優しく話かけていると感じた。その5人の感じた事はどれも違えど、何かを感じたのは事実です。
私が読んだ「憲法九条を世界遺産に」という本の中で芸能人の太田光さんは中沢新一さんとの対談で(昔に読んだので詳細な内容は覚えていませんが・・・)アメリカの映画監督に「あの映画の意味はこうですよね?」と質問して、監督が「いや、最後のシーンはこういう意味合いで撮った」と回答すると「それは違う。私がこう感じたのだから、その映画の意味はこうだ。」と発言したと書いてありました。その部分だけ読んだらただの自分の意見を通したがる身勝手な意見に見えますが、事実とはそういうものなのではないでしょうか。各個人に事実が存在するのです。
アニメでもそうです。同じアニメ見てもまったく違う感想を述べたりしますよね。しかし、その感想が間違っている訳では無い。その人がそう感じた、それは明らかな事実です。
しかし、真実は一つ。これは漢字から判ることですが、「まこと」の「じじつ」が真実です。初めの5人の例を出すと、違う五個の感想の内、どれか一つが当たり/全てはずれなのです。それが真実。では、その「正解」は誰が決めるのか?
それが今作品で問われていた質問です。
本編第22話で石像のセリフは「リル、これはロムドにとっての真実であってもお前が辿り着くべき真実ではない。それは誰かに知らされるものではなく、己の内から出もの。その存在が何者であっても真実を導き出すのは己である」
言葉に表すと、事実は複数存在する。その中で真実とは常に一つである。しかし、その真実を決める決定権は各個人にある。

真実は多数/事実は一つ

例えば、1Lのボトルに500mlの牛乳が入っているとする。それは紛れも無い事実。
しかし、ある女性と男性はこう言います。
「半分しか牛乳がない」
「半分も牛乳がある」
これらは、各個人に対する真実です。これで「事実」と「真実」を逆にしてしまうと、ある人には牛乳が沢山ある、という事実ができて、ある人には牛乳が少ししか無いという事実ができてしまう。500mlという不変的な事が事実であるのに。

☆まとめ

今まで長々と書いてきましたが(本当に長い)、今から語って来た複数要素を関連付けて、この作品のテーマを導き出したいと思います。
前述したように、自己の存在を肯定する方法は複数あります。それらの方法は個人の背景や状況で変わってくる。また、特別な理論を介することで、自分の存在を肯定することもしていました。では、その様々な「己の存在理由」とやらを模索することで今作品は何を伝えたかったのか。
まずは世界観をもう一度再認識する必要があります。色々な背景は捨てた上で、新しい見方をしましょう。
社会とは人間(ロボットも含む)達が与えられた役割を忠実にこなすことで、初めて機能する。各個人は与えられた役をただ演じれば良い。社会の視点から見れば個人の意志など不必要。しかし、感情を持った人間達(コギトに感染したロボットも含む)は己の存在理由を疑わずにはいられない、なぜなら彼らは社会からの視点では無く、個人からの視点で世界を見ているから。個人が主観的観点から世界を見ると、社会的役割よりも、個人の幸せや利益を優先させてしまう。しかし、皮肉なことに個人が幸せや利益を手にすればする程、己が社会に依存していることを実感させられる。幸せや利益を提供しているのは社会だからだ。つまり、社会の中で生きている人間は社会の足枷から逃げることが出来ない、つまり社会から自立することは出来ないのです。
そんな前提の中、主人公達は社会から拒絶される。社会のサークルから逸れた者達がどうやって己の存在理由を模索し、答えを出すか。それが今作品が描いた混沌の世界です。
最終的な結末としては、主人公達が依存して来た社会が崩壊することで、自由の身になる(逆に言えば存在理由を失う)。そして新たな存在理由として出てきたのが、地球に舞い戻ってきた人類。ビンセント達は彼らに抗うことを存在理由とした。
つまり、この作品が伝えたかったのは、自己の存在を肯定する方法や理論は様々あるが、「存在理由(レゾンデートル)を模索すること」こそが、生きる上でもっとも重要な生命活動だと。

投稿 : 2012/06/25
閲覧 : 987
サンキュー:

7

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