「耳をすませば(アニメ映画)」

総合得点
87.8
感想・評価
1446
棚に入れた
9816
ランキング
139
★★★★☆ 4.0 (1446)
物語
4.1
作画
4.0
声優
3.7
音楽
4.1
キャラ
3.9

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ネタバレ

ラ ム ネ さんの感想・評価

★★★★★ 4.2
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

誰もが憧れを喫するような青春恋愛ストーリー。

 「好きなひとが、できました」。恋心引き出すようなそんなキャッチコピーを世間の第一印象として、1995年公開された史上8作品目となるジブリ映画作品であり、今は亡き近藤喜文が「最初で最後の監督長編作品」としたアニメーションでもある。本作立案者である宮崎駿は脚本や絵コンテの担当に回っており、氏が昔自らが読んだとある雑誌に、柊あおい手掛ける原作漫画が連載されていて、これに興味を持った事が本作立案のきっかけだという。
 そして本作は今現在国内映画館において9割以上の劇場にて再生可能となったデジタル音響システム、ドルビーデジタルを当時日本で最初に本格導入を果たした事も知られ、故に音作りの面には重点的に製作者達から厚く手が加えられていて、目に立ち注目すべき一つのポイントでもある。
 この事柄に際し、音部門で作中最も重要な役割を荷う歌曲が、米国のポピュラーソングであり本作オープニングテーマでもある「Take Me Home, Country Roads」。後輩に文化祭で歌う事を理由に頼み込まれ、この曲を日本語に訳す事になった中学3年生の月島雫。彼女が日本語訳詞の「カントリー・ロード」として歌詞を手掛けていくことが、物語が展開される一つの手懸りとなるのだ。劇中、「カントリー・ロード」は月島雫役の声優である本名陽子(当時16歳)が実際に歌っているが、作品公開3週間前程にリリースされ本作の名が売れていくにつれ急激な売上増加を伴い、オリコンチャート最高位22位まで順位を付けるなどしている。
 このように多大なる反響を呼んだ事から、当時多からずとも日本の人達は「Take Me Home, Country Roads」の存在を薄らとしか知らなかったのではないか。曾て同じく米国のポピュラーソングである「Grandfather`s Clock」が「大きな古時計」として日本で急激に浸透し、人口に膾炙した「日本の古き歌曲」として間違い広まったように(犯人はNHK)、本作でも原曲よりも日本語訳の「カントリー・ロード」が世間浸透を喫したとして、流石にそれに比較すれば小規模ながら若年層を中心として同等的事情をいえると言っても過言ではないだろう。確かに月島雫が恋仲相手のバイオリンを伴奏とし、劇中にカントリー・ロード歌った場面には見入ったことは記憶に残っている。それだけ影響力ありありと感銘が生じた曲であったのであろうか。
 
 しかしご存知だろうか。「カントリー・ロード」本曲は原曲を忠実に訳した歌詞ではないのだ。これは主人公を基盤とした言わば月島雫の「独奏曲」とでも考えられてしまう。何故かという問題は、まず先にあらずしの方を紹介しなければならない。
 《東京都多摩市に居住する読書好きの中学3年生、月島雫は父が務める図書館へと頻繁に足を運ぶが、図書カードに自分が読んでいる本をいつも先に読んでいる天沢聖司という名を発見し、それが同校の同級生だという事に気がつくまで時間はかからず、徐々にその名への関心が高まる雫だった。ある日、図書館へ通う電車の中隣席に座ったのは猫だった。不思議に思い後を追うと行き着いた先は丘の上に静かに佇む小さなアンティークショップ、「地球屋」だった。その地球屋の店主、西 司郎と出会い、そしてその西老人の孫こそが天沢聖司だったという運命的な事実を知るのだが・・。》たったこれだけのあらすじから書く事がズッシリと山積みになってしまったが、先ずはその原曲と本曲の対称性についてだ。
 原曲作者のジョン・デンバー氏は自身の故郷で田舎である「ウエストバージニアへの帰郷する喜び」を歌ったているが、月島雫の故郷とは多摩丘陵を切り開いた固有文化など微塵も残さない人口仕立ての漠然とした開拓地区だ。田舎に憧れも抱かず、故郷という実感をも得ていない一女子中学生が、原曲に理解と関心を持って翻訳するなど到底不可能ではないだろうか。後輩に頼み込まれたとはいえど原曲をそのまま訳しては誰の共感も得られやしない。故になんとか自分の故郷を無理やり連想して一度作り、「故郷って何かやっぱり分からないから、正直に自分の気持ちで書いたの」と親友に相談して辿り着いたのが、劇中の「コンクリート・ロード」だったとも思える。
 しかしここから彼女は大きな成長を遂げる。後輩に頼み込まれた「Take Me Home, Country Roads」の翻訳は、彼女に「故郷」とは何かとして考え始める動機となり、それを見出していくのだ。「故郷」とは単なる親しんだ風景だけのことではない。自分の事を知られている、知っているという双方の人間関係がある事を前提に、その人間関係が成り立っていた場所として初めてそれを「故郷」と言える。人同士の関係無くして風景など存在せず、「故郷」など成り立たないのだ。月島雫は電車内で隣席に座った不思議な猫に出会い、その猫を追いかけた。まるで自分が普段から読んでいる本の物語のような展開に心は高揚し、追っては追って同じ街の未知の土地へと足を踏み入れ、「いいとこ見つけちゃった」と街を一望できる高台の丘に静かに佇む「地球屋」を発見し、西老人に出会い、天沢聖司に出会ったことから「運命的な人間関係」と「一望できる町並み」を得て、彼女自身での「故郷」という歯車が噛み合ったのではないか。この経験を得て原曲の歌は未完成形から完成形の「カントリー・ロード」へと洗練され、ジョン・デンバーが歌う「故郷への思いの歌」ではなく月島雫が歌う「故郷を思う歌」として、前文で書いた様に所謂彼女自身の「独奏曲」として変貌を遂げたのではないか。個人的には原曲の方が自分好みなのだが、対称性に視点を一度置くと、主人公が「故郷」という事柄を見出していく過程が、物語進行に応じて描かれているのではないかという結論に達したのである。
 後に考えると月島雫の「故郷」の風景というのは最終シーンのあれだろう。景色を一望出来る高台から聖司と共に眺めた朝霧映える都心の風景。あれこそが2人の「故郷」となったのではないか。彼が海の向こうで「バイオリン職人」を志ざす時も、故郷で彼を待ちながら彼女が「作家」を目指す時も、2人が「カントリー・ロード」を口ずさむ光景が目に浮かぶのだ。


物語から外れた影の話題を少しずつ書いていこうか。
 前文に書いた様に、本作品の舞台は東京都多摩市なのだが、何か思い当たらないだろうか。「耳をすませば」前作のジブリ映画作品「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台でもあるのだ。月島雫が高台から眼下に広がる東京都を眺める場面があるのだが、「ん?この景色どこかで」と私は何かしらの記憶の壁に突撃したのだ。極めつけは都心の中心に建った新宿の高層ビルだった。そう、「平成狸合戦ぽんぽこ」でも全く同じ光景が一望されるシーンがあるのだ。ぽんぽこ観賞は随分昔だったはずだが、我ながら凄い記憶力だ。「平成狸合戦ぽんぽこ」は愉快なタヌキ達が自分達の住処である山を切り崩し、多摩ニュータウン建設を執り行う人間に対し戦いを挑む物語なのだが、時代背景から「ぽんぽこ」では高度経済成長期。「耳をすませば」では高度情報化革命前夜なので、2作品を無理やり繋ぐと「耳をすませば」の街並みのどこかで、曾てタヌキ達の葛藤の戦いが繰り広げられていた、のかも知れない。
 劇中、月島雫の母親である月島朝子のとある言葉が、雫に対する思い入れが表現されている場面がある。終盤、物語を書き終えた雫は朝子にに「とりあえず受験生に戻るよ」と宣言するのだが、対して朝子は「とりあえずか」と呟き頷いて納得する場面があります。一点単純に思えるこの場面は案外意味深に私は捉えた。朝子は過去に当時の典型的な学問マスキュリズムによって、好む仕事に付けなかった人であり、ファミニズムが普及を成してきて、子供が大きくなった頃合に43にして社会人学生として大学院に通っている身だ。朝子が親に昔「とりあえず、世間並に大学卒業後は結婚します」と言い放ち後に大学院に通うことになったことから、朝子は娘が曾ての自分のように道を歩んでいることに苦笑したのではないでしょうか。「とりあえず世間並に受験生に戻る」と言ったならば、「とりあえず」では済まない事態に進んでいくんだろうという事を静かに理解したのだろうと思いうのだ。朝子を飽くなき向上心の追求は、将来の雫にどのような目標を見いだせるのだろうか。
{netabare} ある話で、天沢聖司は非道な男だという説がある。〈聖司は当初から雫に恋心を抱いており、まず雫が読みそうな本の借り出し記名に自分の名前を繰り返し書き込み、雫に自分の存在を気づかせる。次に、恋愛心理学でいう「肯定⇒否定されるより、否定⇒肯定される方が意外性が増し、好意を持たれやすい」という法則を用いて、初対面時雫に態と悪い印象を植え付け、後に優しく接した事で好意を引いた。故に、二学期の昼休みの廊下で聖司が雫とすれ違った時無視した。〉などの「天沢聖司の本性は薄汚い悪だった説」が出されている。が、例え筋が通っていたとしても製作者の意図から反する説を巻降らすのは止めて頂きたい。作者はそういう駄目男設定で物語を作り出したわけは無いはずだ。聖司も雫と同じく図書館に良く通う読書好きで、雫の読書量に驚き対抗しようと本を読みまくった男であり、地球屋前で再開した時に雫が「この猫について来たらここに辿り着いたの。何だか物語の中みたいで・・・」などと口にした際、彼女が凄く創造的な言葉を発したことで聖司は彼女に惚れたのではないか(映画を観る限り)。そして廊下ですれ違い時に無視した理由とは、聖司の後ろにいた大人とは彼の父親であり(客用のスリッパと雫の挨拶の仕方から断定)、聖司のイタリア行の事情で厳しい対立がなされていたためだ。夢が掛かる教師との面会に道中雫と仲良く話す事は不謹慎な言動だ。・・などと、対抗意見としてこの様なことを思っている。{/netabare}
 本作は「となりのトトロ」と同様、社会背景を高度情報化革命前夜の風景とし、懐かしめいた理り達が登場する。それは遊覧飛行する飛行船だったり、図書カードを用いたバーコード化されていない図書館だったり、ワープロが導入され手書き用の原稿用紙が少なくなっていったり、コミュニケーションに距離が生じ始めた時代だったり、不要なものは持ち歩かない主義の終わり頃だったり。この物語の主人公はその世代にその事柄達の最後を見届けていると感じる。図書カードに書かれた彼の名前を見つけるという事も、彼に追いつく為に「耳をすませば」という物語を原稿用紙にひたすら書き続けた事も、手ぶらで外に飛び出す事も、彼とコミュニケーションをとる時は必ず実際に会って話した事も、この時期ならではであり、この後5年もすれば殆どが薄れた習慣でもある。それらが影を潜めて描かれているところは注目すべき箇所の一つだ。
 この様な影となった事細かな設定や話題は、作品を再度見直した時に不意に脳内に訪れるものである。作品を見直し文章に纏める事で、概要を再度認識し確信づけた事で、私の中で単純なジブリの青春恋愛物語という「耳をすませば」のイメージは、中々意味有りげな青春物語へと変化を遂げたのだ。

 「耳をすませば」のTV放送時、どうやら「耳をすませば症候群」という確かなものが全国各地で少なからず人々に発症するらしい。
 事態の現れは「耳をすませば」の公開直前から予兆を見せていた。本作を巡っては、公開翌年の一九九六年程からネット掲示板では話題のネタとなっていた。当時掲示板では「最高!!」「せいじくんカッコイイ!」などと賞賛の声がズラリと並んだ。その中には「うつになった」などという症状の予兆の様な声もあったが、「は!?なんでうつになるの?」「ただのアニメだろ」という声が一般的だった。
 しかし二十一世紀に入り時間が嵩むに連れデフレ不況により情勢が悪化。それに伴い未婚率が上昇し、三〇代に入ってまでも結婚を果たせない人々が多くなった。その頃合いから「耳をすませば」がTVで放映される度に、「またこの季節になったか・・」と言ったネガティブ発言が急激に増加し、後にはタイトルをもじり「耳をとじれば」「首をつるせば」などというフレーズが出てくる始末。ネット掲示板に立てられたスレッドの題名は「『耳をすませば』自殺会場」。書き込みは首吊り絵文字がビッシリで、「ここが樹海か」「死のうか」「あの世でまってるぜ」と、人生に絶望視する声が溢れたという。
 そして2013年公開のジブリ作品「風立ちぬ」に伴い、TVにて有名ジブリ作品を三夜連続放送を行うジブリ映画祭なるものがあったことはご存知だろうか。その第一夜目に放送をされたのがこの「耳をすませば」なのだが、放映直後ネット掲示板には「死にたい」「俺の青春を返せ」「俺の人生つまんね・・」「俺たちは老いた」「何やってんだろ俺・・」などの多々のネガティブ発言がネット上に山のように積り、「いやぁぁぁぁぁ」「助けろぉぉぉぉ」「キェェェェェェ」などの叫び声までもが相次ぐ事態となったのだ。このようにネット上で甲高い悲鳴を上げているのは、多くが映画公開後の九〇年代後半に中高生だった30代前後から30代半ばの付近の男性とみられる。夢と恋愛に真っ直ぐな作中の登場人物を見て、現実逃避を喫したようだ。この年代の男性の未婚率が既に日本人口の半分近くまでに上り詰めてきた今、この症状による患者は今後も重症化していく確率が高いとの事らしい。
 この様な事柄が生じた理由は案外単純であり、「耳をすませば」のストーリー性に、誰もが憧れるような眩しい青春物語が描かれているからに違いないだろう。その映画では、月島雫と天沢聖司は結婚まで約束してしまうのだが、現実社会でこのような青春を経験できる人など雀の涙ほどであり、数えるまでもない。それにも関わらず、今現在国内の一部では「耳をすませば症候群」という社会現象に成り得ている。

 明快に言う。馬鹿馬鹿しい。


『Take Me Home, Country Roads』日本語訳

天国のような ウェストバージニア
ブルーリッジ山 シェナンドー川
木々よりもながく 山々は若く
そよ風のように 人々は暮らしている

カントリーロード 僕を連れていってよ
僕が育ったあの場所へ
ウェストバージニアの 母なる山々へ
僕を連れていってよ カントリーロード

思い出すのは あの娘のことばかり
あの青い水を湛えた故郷から いま遠く離れて
目に滲んだ涙は 大空を暗く塗り込めて
月明かりを 霞ませる

カントリーロード 僕を連れていってよ
僕が育ったあの場所へ
ウェストバージニアの 母なる山々へ
僕を連れていってよ カントリーロード

その朝 僕には聞こえたんだ あの娘が僕を呼ぶ声が
ラジオから聴こえる音は 僕の心を あの場所まで運んでくれる
逸る気持ちで 車を飛ばしながら 僕は思った
ああ 何故僕は 今まで帰ろうとしなかったのだろう

カントリーロード 僕を連れていってよ
僕が育ったあの場所へ
ウェストバージニアの 母なる山々へ
僕を連れていってよ カントリーロード

『カントリー・ロード』

カントリーロード
この道 ずっとゆけば
あの街に 続いてる
気がする カントリーロード

一人ぼっち 恐れずに
生きようと 夢見てた
寂しさ 押し込めて
強い自分を 守っていこう

歩き疲れ 佇むと
浮かんでくる 故郷の街
丘を巻く 坂の道
そんな僕を 叱っている

どんな挫けそうな時だって
決して 涙は見せないで
心なしか 歩調が速くなって行く
思い出 消すため

カントリーロード
この道 故郷へ続いても
僕は行かないさ 行けない
カントリーロード カントリーロード
明日はいつもの僕さ
帰りたい 帰れない
さよなら カントリーロード

投稿 : 2013/10/27
閲覧 : 381
サンキュー:

24

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