「荒ぶる季節の乙女どもよ。(TVアニメ動画)」

総合得点
79.7
感想・評価
602
棚に入れた
2244
ランキング
482
★★★★☆ 3.8 (602)
物語
3.8
作画
3.7
声優
3.8
音楽
3.7
キャラ
3.8

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ネタバレ

Progress さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

荒ぶる季節の乙女どもよ。 レビュー

いや~読んじゃいました。原作を。あまりにその時点では面白かったので。
大体4話終わったあたりかな(この下のメモの更新を停止したあたり)
原作を読み始めると、先の展開がわかってしまい、登場人物の心理からくる行動予測が出来なくなるので、駄目ですね(笑)4話でメモの更新止まっちゃいました(笑)

菅原という女の子を、大人ぶってたという結論にはめ込んだのは、あーなるほどって感じでしたね。正直菅原という人物が好きではなかったけど、あえて作品を貶すのもどうかと思い、神秘的という言葉で菅原の過去等に期待を寄せていましたが、結局のところ人生経験が少ないながら、背伸びをしようとする子供的意識であったという、菅原的視点で物事を見ている人に強烈な批判性を持つ結末だったと感じました。

青春の葛藤という事で考えれば、一番ロマンチストだった須藤は、きれいな物だけを集めようとして、逆に怒りの感情が登場人物の中で一番大きかった人物でしたね。序盤の動きがロマンチストな須藤という印象を与えて、ロマンチストがリアルの事象に感情を強く表す。非常に起伏があって面白かったですね。

曽根崎に関しては、絶対的な清楚から様々な愛を許容する心に変わる意識の美しさ、清純なラブロマンスを展開したと思います。彼女の文学的教養に裏打ちされた自身の心の表現であったり、清楚に頑なだった心が
愛を知ることで、自身が嫌悪していたクラスのギャルへの見方も変わっていく、物事を知ることで社会に対する適応、他人を許容する心が広がっていく様は実に今の時代の中で心地よい物語だったと思います。


本郷にかんしては、小説家というフィクションを描く人間が体験する、虚構の恋愛と現実の恋愛の差を描く、というようなミスリード的解釈もできますが、もっと肉体的に、恋愛することで感じる五感的な体験を意識していたように感じます。もちろん本郷が感じる心理的な感情もありますが、感情によって発生する肉体の変化(生々しくて書けませんが)が描写されていたと思います。

そして主人公である、小野寺の恋愛について。性を知るということで、恋人、もしくは思い人が性的にどう思うか、自分がどう思われたいかなど、突っ込んだ物語でしたね。小野寺がヒロインなだけあって、物語の主題の中心にいました。

それで、そういった登場人物たちが描く、青春の結末について、これで完結させちゃったのはどうにも着地点がおかしかったように思えます。
いや、早かったではなく、遅かったのではないか?文化祭のキャンプファイヤーでカップル成立でシメ!でもよかったのではないか?
いやいや、この作品は、恋人達が幸せになることが主題ではなく、性に関しても本音が言える、人に本音が言えるところに着地点があったのです。

負け組と自称した本郷、菅原、須藤について考えます。
本郷の場合、本音を言うにはまずミロ先生との駆け引きという構図から抜け出す必要がありました。彼女には建前ができてしまい、それを破壊しつくす必要があった。
その建前とは、小説を書くために性を知りたいという意識。それがミロ先生との駆け引きの中で恋愛感情に変わっていく面白さ。自身の中に生まれる恋愛感情を隠しつつも、振り向かないミロ先生に対し感情を爆発させることで、建前から抜け出し、本音が出ましたね。

菅原の本音を引き出すためには、小野寺のカップル成立後でないと確かにできなかったことではあります。菅原が負けを自覚することで、初めて大人ぶっていたことで勝っているように感じていたことの無意味さを知ります。大人ぶっても彼氏はできないんだよ(笑)
まあそれは冗談として、負けることで自分を振り返り、そして自分の大人ぶっていたことで殺していた感情を本音として言えるようになったのが彼女の成長でしょうね。

須藤は、ロマンチックな文学の世界に包まれて守られていた状態から、現実のロマンとはかけ離れた男への嫌悪感によって、本音を引き出されていきましたね。
菅原と小野寺の関係を見て、ハラハラし、なにか美しい状態を守らなきゃ、というロマンチスト的考えや、美しいもの(菅原)を求めるその思考が、文化祭で男と別れて、現実への嫌悪感、言いたいことを言わなきゃいけないという意識を得なければいけなかったと思います。
「いってやった・・・いってやった」と男に別れ文句を言った時から、彼女の本音トレーニングは始まっていたでしょうね。



まあこのように、負け組三人衆を見ると、何かしら、感情を表に出すことを押さえていた、仮面をかぶっていたのを剥がし、本音で言い合えるようにするのが主題だったように思えます。やりたいことは負け組三人衆が敗北し、そして本音を言い合えるようになるまでであり、その本音をいえるようにいなったという事を証明する場として、学校立てこもり編を与えた、というようなことだと思います。




さて、正直に言うと負け組三人衆が負けることによって気持ちいい物語だったな、と思います。
一方で、勝ち組の二人、小野寺の青春系ラブコメディ、曽根崎の清純系恋愛物語も、正統派に面白かったですね。それは、小野寺は悩むことによって細かな恋愛の葛藤を表現し、曽根崎は、頑なな人間が変わることの気持ちよさがあったと思います。
5人の文芸部のそれぞれの物語がそれぞれに面白さがあり、物語に無駄がない、ハイレベルな恋愛作品でした。



{netabare}
作品を考えるためのメモです。
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(↑作品情報におけるレビュー表示でのネタバレ回避対策です)
ネタバレ注意&メモなのでかなり雑に書いてます。
1話
・「性に振り回されたくないよ」というのは、外界から入ってくる性の情報から連鎖反応のように少女の気持ちが搔き乱される様を描き、少女たちの青春にあるべき性をリアリティを持って描きたかった作品?

・大前提として主人公の恋愛が軸に置かれており、恋愛の中において性があることを避けては通れないことを分かっているが恥じらってしまう。その恥じらいの愛らしさを描いているという作品だろうか?
だとすると、前クールである「みだらな青ちゃんは勉強ができない」のように女性視点で描かれる恋愛とエロの関係性を扱った作品かもしれない。
女子高生の性への興味を扱ったというなら、上記作品よりも恋愛作品というより概念的な作品に感じる。

・読み取れる純白、純粋さと、性との化学反応はどうなるか?
・コミュニティが文学部ということだが、性に関しての文学における抽象的表現がどこまで活かされるのか?
・性に関連する言葉をコミカルに結びつける。
・興味深いのは登場人物が性に関してそれぞれの認識があることだ。それぞれの個性が際立っていて群像劇の色が強いように感じる。

・青春の中にいる乙女たちが死ぬまでにしたいことで「セックス」が上がることが、セックスを知らなくてもおかしくない年齢というという、視聴者の意識からはそれらしい議題であると思う。
しかし、セックスを提案した菅原の人生観は、地球が生まれてからの歴史を1年とすると、菅原一人が死ぬのは明日死ぬどころか、すでにお陀仏レベル。という、地球規模で考えたときに自分がちっぽけな存在であるという認識であるところとにギャップを感じるのが面白い所だ。
菅原は地球規模でいえばいつ死んでもおかしくない、だから知らないことを知りたいんだという、時間スケール的におかしいのか、地球規模での事象と個人一人の人生の事象を大小関係で比較するメンタルの展開には期待が持てそう。

・純文学の中の性にすら恥じらう部長さんから、男とチャットで疑似性行為をする部員まで様々。性に対して敏感であるというのは、性を遠ざける部長であるのかそれとも興奮せずに性を考えることのできる人間なのか。
・高校生から性行為について恥ずかしげもなく話す女子高生たちが悪い子達のように描かれるが、彼女たちにも恋心があり、恥ずかしさがあり、その裏返しがある。性についておおっぴろげに話す彼女達と、後半に進むにつれ進むかもしれない文学部の性の発展をどう整合性を取るのか?
・主人公の母親が処女ではないという視点からも、経験のある側を一概に非難しているという作品ではなく、だが大っぴらに女子高生が性について話すことを悪と、この作品はしているのだろうか?

【アレからわかる作品】
印象的なのはOPでの「アレ」についての登場人物達の言葉
「アレ」という言葉を一般的な意味を考えると、対象を指す言葉であることだが、今回の「アレ」という言葉の使われ方は、アレの内容は共通に「セックス」「性」を指すことになるのだが、この場合セックスは行為として、性は性別ではなく、性行為全般を指す言葉なので、物体的なアレが存在しない。
そして、なぜ、「アレ」でセックスを指すのかという理由がある。
それは、一般的にはセックスという言葉を人の前で話すということに抵抗があることが理由になるだろう。言葉的には恥じらいという反射的感情によるものだ。しかし作中ではセックスという言葉をはっきりと発言しているので、なぜOPではセックスをアレというのか、それがアレの問題なのだろう。

アレについての効果から考えてみる、あえてアレというぼかしの言葉を使うことによって、恥じらいや純粋であることを示したいのか。
つまり純粋であるがゆえに、セックスについての興味は「秘め事」であるのではないか。「秘め事」を話すときに、具体的な言葉を別の言葉に変えるという事象は実際に存在する。純粋な乙女達の秘め事の会話を聞いてしまうような、そういう意味があるのがOPのアレのセリフだと、今は思っておこう。

直接OPのあのセリフからアレについての感情を考えてみる。
「どうしてみんなアレをしりたいの?」
部長は「アレにどんな魅力があるっていうの?」
「もしかして君もアレを知りたかったり?」
三つ編みは「アレを知らなきゃ君を知れなかったり?」
主人公は「そんなのっていやあああ!」
アレによって登場人物達の人物を映し出しており、そしてアレを通して他人を見る感情が詰まっている。(上から言えば、無関心からの興味、嫌悪からの興味、???からの興味、不安からの興味といったところか)
そして、主人公の本編とセリフから見えるように、アレを知ることと、アレを知らないと思い人のすべてを知ることができないジレンマのようなものも扱っていくのだろう。

OPの彼女達が非常に強く描かれているところからも、恋をしようとすると純潔とアレがぶつかり合ってしまうが、それに戦うという彼女達の姿を見せたいということなのだろう。(戦う方向としては、アレを受け入れる方向だが、その方向性を示したいということだろう)

そもそも、アレという言葉に、これだけ意味を詰めたのだからそれがこのワンシーンの素晴らしい所だと思う。

また気になった回があったら追加していこうかなと思います。

2話

いい加減名前を覚えようと思う。

小野寺和紗
菅原新菜
曾根崎り香
須藤百々子
本郷ひと葉
典元泉
さて、2話は1話で疑問を呈した、性が乱れているように描写されたクラスメイトや周囲の人物が悪い人物か?のアンサーのような形だった。まさかそこもちゃんと描写するのか?と若干反応の良さに戸惑ったが、感じ取れるように設計されていたのだろう。その点に関しては泉への女子高生の告白、そして曽根崎のクラスメイトの褐色ギャルのワンシーンなどが当てはまる。

今回は、上記のテーマにも関連するが、菅原については非常に面白い表現をされた。作中の人物が文学的表現によって菅原という人間を評価した点だ。
繊細で儚げ、そういった表現によって菅原を評価した人間がいたというこのワンシーンから、登場人物を文学的表現で表したいという欲望が湧き出てくる。
そして、今回最も注目すべきシーンは、菅原が厄介な男に付きまとわれているワンシーンだ。菅原は小野寺を利用し厄介な男に性病もちのイメージをつけ撃退したわけだが、このイメージ、印象というのは重要な要素だ。

つまり、なぜ性の乱れたクラスメイト達との要素と関連するかという話になると、それも文芸部の視点から見た、一方的な印象であるからだ。一方的な印象が、別の角度から見ることによって、立体的な見え方をする。つまり、表と裏が見えるわけではないが、その人の本当の形を把握できるようになることを描いているように見える。

話を菅原の話に戻そう。菅原は厄介男に性病持ちの友達ややりまくってる自分というのを演じて見せて嘘の印象を与えた。普段の菅原は、落ち着いていて、明るいという性格ではないため、まったく別の印象に見えた。つまり、印象というのは嘘すら植え付けられることすらあり、本当の彼女を探っていくというのが菅原に大きく与えられたテーマなのだろう。

1話でセックスを議題にだしたのは菅原だ。セックスというものを死ぬまでに体験したいともいった。しかし、彼女は作中にでてきた厄介男ではだめだという事を2話で提示したのだ。彼女の貞操観念、もしくは誰にされたいであるとか、そういったものが強く作用されていることが伺えるワンシーンであり、今後の彼女の展開は、高校生という人生までに成立した恋愛観やセックスの相手として認める対象というものが描かれていくのかもしれない。

今回の菅原は確かに、テーマ的なことを考えるのには良い対象であっったが、小野寺と泉の関係についても触れておきたい。というのも、小野寺の泉への「印象」は、小中学生時代のイメージでできており、彼が自慰行為をするというのは全く知らない印象だったのだ。ここで重要なのは小野寺の泉への印象の更新だ。この更新という事象を、掘り下げて演出していることがこの作品の面白さではないか。つまり、更新に時間がかかるという事は、知ってしまった彼の一面を、受け入れるための心の整理ということをしているのだと感じた。

また、今回はセックスという言葉を、文芸部の中でだけわかる言葉を考えるという、1話メモで「アレ」という言葉に着目した視点をフォローする描写を描いてくれた。それと含め、小野寺のえすいばつを生み出した過程における「あらぶり」を含めた内容は、後で追記しようと思う。

さて、荒ぶりと「えすいばつ」。まずえすいばつとは。SEXをエスイーとバツと読んでえすいばつ。本質的なところをついているとか、バツがいいという曽根崎の感覚は置いておき、菅原と本郷のえすいばつへの賛同は何なのかが気になる。
はたからみたら記号的な言葉?即興性?恥ずかしさ?
まあそれも何が良かったのかは置いておこう。
菅原は「激しかった」という泉へ詰問する小野寺への評価は、感情の意味ではなく、動作の大小を示しており、感情の高ぶりを表面的に出した行為への評価とみえた。つまり。感情を爆発させた小野寺を良いと言った彼女達は、その中で生まれた言葉に、何かしらのあこがれのようなものがあるのではないのだろうか。
激しいという言葉に荒ぶりという言葉がはまるかといえば、整理できない感情を無駄な動きを持って発散するという意味で、小野寺の泉への行為はまさにそんなようにも見える。

「今、胸の中嵐」というセリフからの泉への好意へ気づく小野寺の過程を、「どうしちゃったんだよ」というセリフで急転直下な展開と見るのも普通であるが、きれいに感情が帰結したとも見ることができる。
個人的には菅原がかなり強引に引き出させたという事で、キレイとはいいがたい。嵐という言葉で表現した菅原になぞらえるなら、菅原が守られる家の中にある小野寺の心を、嵐の中の外に出してしまったようなものだろう。
だから家で嵐から逃れて見ているこちらとしては、嵐の中にいる彼女達の激しさに戸惑うのだと思う。この激しさも「荒ぶり」なんじゃないかと思う。つまり、やはり整理できない感情というものがこのシーンの根幹にあり、その中でも泉への好意というのは、泉は幼馴染なだけとか、泉を他の女にとられたくないという気持ちとか、、抑えている気持ちと抑えられない気持ちが混ざり合い、混乱して泣くという行動に結びついたのだろうと思う。(この場合抑えられない気持ちで決壊したという解釈でもいいのだけど、そこは個人の好みだろう)

ところで、「かずさ(小野寺)は誰としたい?」というセリフを発しているのは菅原であり、菅原は誰とするという視点をもっている。ここでは菅原自身にも響いてくる話であり、「自分という存在を意識しなくていい」という自己嫌悪的なきらいを持つ菅原にとって、自分を見ることになるという行為であると思うのだが、それでも小野寺に泉への好意を気付かせたかったのはなぜだろうか?(つまり、菅原は自己犠牲を行ってまで小野寺に好意を気付かせた。)
それが菅原が鋭いから行ったなら菅原は小野寺の好意によるものであるし、
菅原が鈍いから行ったのであれば小野寺に悪意を持ち、自己批判に気づいていないのだろう。

キャラクターの内面を一瞬で表現したといえば、文芸部への思いを語る1年生達が意識的に見せているのに対し、廃部を言い渡された時の本郷の本気の「どうしてですか!」というガヤに近いセリフが、どうにも1年生達より重い気持ち、2年生達の面白い青春劇の要素を持っているような気がしてならない。

3話目では、話に沿うなら何故「乙女」であるのか、そして、映像から読み取れる感情、感情描写などについても書いておきたい(ただのメモ)

【3話】
本郷のエロチャットによって「誰とするか」という1話からあるテーマに、本郷を参加させた。まさかの直接ネットの人間とあってsexしてみたいと投稿してしまう本郷、そして当日になって生理的に嫌そうな感じだったら逃げると考えていた。本郷にとっても誰としたいという感情はあり、作品の中の重要なテーマの一つなのだろう。
そもそも、またOPの話だが、「もしかして君もアレをしりたかったり?」など、あのOPの登場人物達のセリフの一部は、「君」という相手が存在する。
相手を指す言葉が含まれているのが、この作品が、相手ありきの恋愛物であることを示しているのかもしれない。

ここでストーリーとは関係ないが、登場人物達が他者を文学的表現で評価する一コマが面白い。冒頭の曽根崎の1年生への評価だったり、ミロ先生の文芸部の朗読の評価、菅原による泉への人物評価など・・・



ここで1話からスルーして来た曽根崎の恋愛についても触れようと思う。
3話で曽根崎は女性雑誌を買う事を決断したわけだが、スタイルや化粧を気にするようになったわけで。それがなぜ気にすることになったかというと、クラスメイトの男の子に恋をしたのが理由であることは誰が見てもわかるだろう。ただ、小野寺のように「好意」を明確にする描写を挟んだわけではなく、今後あるかはわからない。ただ菅原は、強情に見えて、表面的な変化をしようとする興味や努力があるところに驚き?がある。

今回の小野寺に関しては、ラストシーンに泉の「小野寺に対してこれっぽっちも考えたことがない」というシーンでショックを受けたのかだけでいいかなと。
親のシーンとつなげると、「えすいばつ」をした経験者が、結果的に幸せだという事を小野寺は意識しており、泉が小野寺とそういう幸せに向かう方向性を考えたことがないといわれたことが、泉に好意を持っている小野寺としては悲しかったのだろう(まあこんなことは書かなくても覚えてはいると思うが・・・)

さて、タイトルにある乙女とは。このことを考えたのは「荒ぶる季節の野郎どもよ」だったらタイトルが凄まじく男臭いと思ってしまったからだ。原作者が女性という事もあり、女性視点の恋愛ものを描きやすかったという事で単純に乙女であったのかもしれないという予防線ははっておく。つまり、主眼は女性視点であり、野郎目線の「恋愛への疑問」はこれからも描写せず、女性目線でえがくということだろう。特に乙女という言葉は若い女性や穢れの知らない女性であることから、彼女たちの経験の不足を利用した恋愛作品になっていくのだろうと思う。

描写的なことを書こうと思ったのは、書店でこの作品のコミックを見つけたからだ。特に3巻の菅原の微熱っぽさが良い。
それに関連してアニメにおいても、やはり恋愛における温度差というのを、登場人物に感じるわけだ。各人物差というわけではなく、小野寺は基本的には高い温度の中で上下し、その中でも恥ずかしさだったりによって体温の上昇を感じる。映像で表情の表現として熱っぽく描かれていることが、「気になる」という事が興味的なのだと思う。ハーレム物だろうが、恋愛ものだろうが有るだろうが、恥ずかしいとか、嬉しいとかで、頬を赤らめる表現は数多くあったと思うが、この作品はその熱っぽさが無価値にスルーされるものではない気がするというのが印象深い。

4話
視聴後にネタバレしない程度に単行本を読んでみた。
1話冒頭の菅原の「老いにむかうごとに若さと性を求める過程には、興味を持てますけど・・・」というセリフから、菅原のテーマの中には性と年齢の関係を含んでいることを最初から行っていることを再発見できた。
登場人物の性格やテーマを最初からかなり決めて作っているから惹かれるのだろうと、この作品の魅力の一端を感じた気がする。

さて、4話メモ。タイトルが「本という存在」となっており、まず今回描かれた文芸部と本の関係について考えようと思う。
「考えない考えない!本読む!本読む!」と言った、小野寺の心境から考えるに、彼女にとっての本という存在は、家、戻ってこれる場所に位置する。
泉との関係でのコミュニケーションもしくは内面の整理という行為がアウトプットに当てはまるなら、その感情を言葉にして支えるのが本によるインプットになるのだろう。
「自分では理解することのできなかった感情に本は名前を与えてくれる。本に名付けられた感情をもう一度自分の中に取り入れたとき、また新しい感情が生まれる、それは自分自身をどこまでも掘り下げていく喜びなのよ」であると、小野寺は曽根崎の言葉を思い出すのだ。
今回の小野寺は自分の感情をずっと本を読んで言葉を探そうとする。ここから来るように、今回のテーマは自分の感情を言葉にすることなのだと思う。実際、単行本を2巻まで読んでわかったが、多少収録話が前後していることから、「本という存在」のテーマに合うように修正したように思う。
小野寺は逃避のための本であったが、曽根崎の言葉によって、内面の整理をする場になるのだ。内面の整理が、誰にも邪魔されない場所でするものであるなら、やはり、本という存在は、家のようなバリアーを張るものの気がする。
ついでにミロ先生と本の関係は、強い子になることを想像していた、ということからも、なんとなくミロ先生の性格が見える。弱い自分という意識に着目すると、強い子になるというのは逃避に使用していたか、もしかしたらミロ先生はダンベル何キロの町雄さんみたいに着やせするゴリマッチョなのかもしれない。冗談はさておき、菅原とミロ先生は違うわけで、内面の整理のためにミロ先生が本を読んでいたという線は薄く、本郷を前に「女子高生は汚い」と言う歪んだ性格からも、自分の美的センスによって物事を見下す子供じみた性格なのが伺える。しかし本郷の直接的なアタックに対し、過剰に反応して全敗しているところからも、彼が童貞っぽさのあるとがり方をしているのは否めない。

さて、興味深いのは文芸部それぞれの言葉のチョイスだ。本郷は実体験がないことから現実で起こることがわからないため、自身の小説で性行為のシチュエーションの再現に失敗している。そのため、言葉のバリエーションはあっても、使えていないという印象だ。ミロ先生との今回の事件を得て、恋愛のシチュエーションを経験した後の本郷の紡いだ言葉は、実に年齢相応の直感的な表現だと感じた。なぜ直感的なのか、それは、自身の身体に起きた反応を無意識に豊かな引出しの中から言葉にしているように私には見えた。ようは、かなり肉感的であるようにみえた。

そういわせるのは、やはり曽根崎の恋の感情に対する繊細な言葉選びがあるからだ。

簡単に言えば曽根崎は素直になれない性格と言うのがスッキリすると思う。
素直になれない曽根崎が、「かわいい」という直接的な言葉で変化を受けるのが、浄化を感じる気がする。
そもそも、レポート提出で感情を受け取るという、手紙にも近い状況は、本郷のように肉体的な接触がなく、やはりそこに心身的な純潔を曽根崎の印象に与えたいのだなと思う。

そして今回は、テーマを考えずに作品を見てみようと思う。髪型を変えた曽根崎が、クラスメイトに囃された時の反応は自然だろうか?と、考えたとき、誰がこんな男(甘木)のためにやるもんかという反応は、素直でない人なら自然なように感じた。
行動が自然かどうか、というのは、告白の場面ではあまり考えないほうがいいと感じた。やっぱりどこか告白の場というのは不自然なのだと思う。不自然を行うから恥じらうのだろう。
小野寺が須藤の恋愛を聞いたときの素敵なシチュエーションに憧れ身悶えしたりとか、二人が本を読もうという結論に行き着くその女子高生の会話感というのが、少女感があり、自然感はなくとも綺麗感がある。
まあこの見方は気になったシーンには行おうかなと思う。

蛇足だが、今回ミロ先生は「罪の卵」という小説を読んでいた。検索しても出てこなかったが、各登場人物がどんな本を読んで性格に反映されているかは気になる。

今週の回を見て、小野寺が泉に対する気持ちを、「泉の事が好きだよ」と河原で気づいた回とのつながりを考えると、登場人物に起きた体験を体験者が言葉で内面を表現、もしくは整理することを描写することが魅力なのかもしれない。それぞれの人物像を提示しながら、人物による表現や言葉選びの差異と、この人物ならこの言葉を言ったらどうこの人を解釈するか?という魅力を持った作品なのかもしれない。

5話
キモイんだよお!

杉本については映像的にみるとまたひどい。須藤と並ばずに歩かずに杉本が須藤と一人分の距離感で歩きながら勝手にしゃべっている。
彼女との距離を詰めたいと思っておらず、付き合って満足している。自分に酔っているという言葉が正しいか?

三枝に関しても、自分の人生の物語を語っているところが気持ち悪い。ただしたいとは思わないでいいのになぜ歪んだ自意識を語ってしまうのか。小女性云々は理解できなかった。(というかしたくない)

真面目に女子高生の漫画について書いてる自分も前回の菅原氏の「キモイんだよ」という言葉に正直ドキっとした。

今回の進行状況
小野寺:特に進展なし?家族ぐるみでボーリング
菅原:三枝との関係を泉に告白 
曽根崎(部長):4話の返答
本郷:ドキドキ思考実験
須藤:初めてデートした男がひどかった。

今回は菅原が弱さを出してしまったところがポイント。「まったくかずさとしたいとは思わない」という泉に意見した理由を描いた。もしかしたら三枝との話を追うと、2回目でかずさをwaterさせた理由もわかるかもしれない。

今回は、文芸部の人物それぞれに恋愛対象がおり、各登場人物の恋愛状況を比較できるような回だった。
{/netabare}

投稿 : 2019/09/29
閲覧 : 383
サンキュー:

47

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