「天気の子(アニメ映画)」

総合得点
84.0
感想・評価
703
棚に入れた
3028
ランキング
298
★★★★☆ 3.9 (703)
物語
3.7
作画
4.5
声優
3.7
音楽
4.0
キャラ
3.7

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

transformation

新海監督の夏アニメ、やらかしてくれました。

● はじめに。
{netabare}
"賛否が分かれる" とか "怒らせる" とかは、氏の "おいた" でしょうが、流石(さすが)にコアなオールドファンからはお叱りが出るかもです。
前作以上にエンタメに寄せ、はたまた企業キャラまで取り込むとは・・・。というか前作を混(も)じりすぎてるでしょ、これw
とは言え、瀧と三葉の垢抜けた大人の雰囲気には感ひとしおでしたね。
まぁ、"大人の嗜み" としてクスリと笑って済ませておきましょう。

前振りはこのあたりにして、あらためまして、世界に誇れる素晴らしい作品を世に出してくださいました。満点です。

それにつけても上映中に笑い声が漏れてきたのには正直なところ驚きました。かつての作風からは感じえなかった新しいインセンティブがそこかしこに張られていることに嫌でも気づかされました。
私はかねがね、骨がこすれるシナリオ、懸想に引きずられるストーリーに、なんども心火を焦がされてきたものですから、本作の印象ときたら、もはや別次元の作品のようです。その代わりに浮上するのは、社会の隙間や制度の谷間で、しぶとく倹(つま)しく暮らす人たちの姿です。

もしかしたら、新海氏は、ジュブナイル世代のセカイに寄り添う流儀を変えたのかもしれません。孤独感を炙りだすアプローチ法を、自己の同一性にむかう詰め方を、紡ぎあう愛のその先にある誰も見たことがない世界の見せ方を。
氏は時代のうねりにひとつの潮目を作ろうとさえ夢見ているのではないか。
まるで、地球の気魂に、極太の赤い糸をムスビつけ、本来なら起こりえない転機を五倫の上に発動させてみようとのインスピレーション。
こんなクリエイトなチャレンジ、誰が思いつくでしょう。

さて、本作に気づいたことを、私なりに "三つ" 述べてみたいと思います。有り体に言えば、"賛否の分かれるところ" の天王山?でしょうか。新海氏からの問いかけを "どういう立ち位置で受け止めるか" ということですね。
いつも以上の大長文ですので、お時間のある時にでもお読みいただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
{/netabare}

● 一つめ。安定のSF要素×ファンタジックな神懸り。そして+α。
{netabare}
レビューするにあたって真っ先に思い浮かべたのは "デイアフタートゥモロー(2004年)" です。気候温暖化の獏としたイメージを、凄まじいほどにクリティカルなリアルさで、私の胸に刻み付けた近未来SFの大傑作です。本作もその系譜の範疇作ですが、映像はかなりソフトトーン化されていましたね。

さて、大気には、ジェット気流、超巨大台風、ホワイト・スコール、スプライトなど変幻自在で縦横無尽にほとばしり出る強大なアースパワーが内包されていることは衆知のとおりですね。
また "積乱雲には湖一つ分の水量がある" とか "海とは別の生態系がある" とかの説を取り入れていることは良いアイディアだったと思います。

終幕に描かれていた東京周辺は、まるで太古の初発に戻ったような変容ぶりでした。
日本の国土を龍体になぞらえると東京は胃袋に当たり、その象意は "混交する価値観と多様な文化性" です。そこが水没するということは、旧態の文化性を一旦水に流し、心機一転、真っさらな価値観を腹に収めるの意になります。

その発露は、未来のベクトルを創造しようと試行錯誤するフレッシュな感性(陽菜と帆高の祈り)と、過去の柵を乗り越えていく高いヒューマニティー(人本主義)が源泉です。それは "オトナ" を希求する "憧れと勇気" です。須賀は「大人になってしまうと優先順位を変えられなくなる。(=過去にとらわれる)」と語りましたが、その "反語" でもありますね。

陽菜が水没した風景に祈っていたシーン。それは2人が選んだ世界のカタチ(らしい)。
彼女は晴天を願います。最初は母のために、次は市井の人々の、そして帆高の頷きに、そして・・・。
願いとは、つまるところ "自分の都合=自己愛" です。叶うか否かに関わらず、時にそれは見えない空気の流れを創り、知らず知らずのうちに日本人の未来を決めるのです。

帆高と陽菜の距離感のズレは新海氏の定番の演出です。でも、今回の+αは、"子どものセカイ" と "大人の世界" との距離感のズレを盛り込んでいます。ここが本作の新しい軸です。
出来上がった世界のイエ、ムラ、シマに潜む放置された歪み、予算も人も増えない児童福祉制度の脆弱性、女性の自立を妨げる賃金構造、気象に異常をきたすほどの経済活動の傲慢さと浅ましさ・・・。

本作は、今までの作品では見ることのできなかった、いえ、新海氏が "見せることのできなかったジュブナイル世代が抱えているセカイの問題の本質" を、世界で視聴される大人の皆さんに、そしてオトナに憧れる子どもさんに見せているのです。全く、君の名は。の大ヒットさまさまです。

これが+αの "一つめ" です。
「もともと世界が狂っている」と須賀が語ったのは、一人ひとりの小さな願いにさえもいつの間にか自己愛に偏りすぎていて、その総体、結果として「世界が狂っている」ことを須賀に語らせている氏がそこにいます。狂わせているのは善意に潜んでいる自己愛ですが、誰も批判しない、むしろしたくない、さらにされたくないとする時勢と空気があることすらも暗喩していると私は受け止めています。

ところで、世界を変える秘密はもう一つあります。"二つめ"の+αです。
本作は、まるで2人の願いがそういう世界を創り出してしまったかのように描かれているのですが、実は、ほんの少し視点を変えるだけで「世界を変える本当の秘密=愛にできることの意味」を彼らは願っていたし語っていました。詳しくは後で述べます。

ですから私は、陽菜の祈りは、悔恨とか懺悔とかのネガティブな思いから発する祈りではないと確信しています。彼女は、時間がまだ人類に与えられていることに感謝し、今と此処に生き抜いていくことの誓いを天に立てていたのではないか、新海氏が彼女にそうさせたかったのだと受け取りました。

帆高の涙に「大丈夫?」と問う陽菜に「大丈夫だ!」と応える帆高。
再会のコトバに躊躇していた彼が、祈る彼女の姿に、"天気" の晴雨の是非よりも、すでに起きてしまったことよりも、「僕たちは大丈夫だ」と結び、そして選んだ "2人のこれからの世界の転機" を見事に表わしたコトバだったと思います。


エンドロールに描かれたシーンも印象的で大好きになりました。まるで古事記に記されている物語のようです。ふと二柱(ふたはしら)の古い御神名を思い出しました。胡散臭いと思われるかもしれないので畳んでおきます。妄想が好きな方だけどうぞ。
{netabare}
まず、その名を、深淵之水夜礼花神 (ふかふちの みずやれ はなのかみ)と申し上げます。
何だか難しそうな読み方ですね。でも、この言霊から発せられる波動を、ぜひエンドロールシーンに重ねて想像を膨らませてみてください。

暗い水底に2人の名前(言霊)が漂いだし、水面をつと見上げれば雨だれが水紋を描いています。やがてその恵みを消費するばかりの大都会のシルエットが浮かび上がり、視点はついにその初発たる天空の雲頂に到達するに至ります。カメラはさらに進みますが、そのアングルはわずかに大気圏にとどまり、宇宙へ飛び出すことはありません。
この演出は、人の命は地球からは離れては生きてはいけないという意図が含まれているように感じます。

"深渕" =目に見えない、耳にも聴こえない、意識に現れ出ないし、記憶にも呼び起こせないような場所=人知の及ばない神秘≒智慧。
"之" =野=地域のコミュニティーのこと。納=おさめ定着させること。宣=広く流布すること。指導的な役割のこと。
"深渕之" =尊い知恵、未知の法則≒天の気をキャッチし暮らしに活用するという意味にも取れそうです。
これを水紋に懸けることで、広げる・和合する・円満にしていくというイメージを醸し出しています。

"水" =経済・生産・流通をコントロールする知識と技術と知恵。密=隠されていること。満津=満たされ約まること。
"夜" =昏いさなかにあること=発展途上であること。
"礼" =霊=人に寄り添うこと。コミュニケーションの入り口であること。
"花" =華やかで美しいこと。若々しい気概であること。
"神" =火(縦)と水(横)の働き。心豊かに暮らす生き方のこと。
因みに、"水" は、"夜・礼・花・神" に掛かる詞(コトバ)でもあります。まぁ、だいたいですが、そういった意味合いを表現しています。

水紋が描く小さな "輪" は、たくさんの "吾" と "私" でもあり、諸国民のトモダチの "輪" と、自然界を厳然と支配する "環" でもあります。
傾聴と合理的配慮が "倫" を作り出し、そこかしこのコミュニティに賑やかな "話" が起こります。かつて聖徳太子が語ったとされる "和を以って貴しとなす" とは、コミュニティーを平に均(なら)しめること。即ち、さまざまなでこぼこや格差や差別をなくすことであり、かつ「大丈夫?」と気遣い合うことなのではないでしょうか。人生にどんなに長幼があり、社会にどんなに貴賤があっても、命は等しくたった一粒の雨によってようやく支えられているのです。
最後の10秒に流れる雨音のリズム。その意味が知りたいですね。

もう、ひと柱のご神名は、天鈿女命(あめの うずめの みこと)です。
六本木ヒルズタワーで、太陽の出現を祈る陽菜の姿に、その言霊がすんなりと馴染みます。"天に向かって祈りをささげる、か細い少女の尊い姿" ですね。
この神さまは、芸事に携わっていらっしゃる方にはとても身近な神様です。詳しくは、Wikipediaを参照してみてくださいね。

単純にして唯一絶対でもある地球のアルゴリズムに寄り添い、人生を棒に振ることのない生き方を見つけ出すには、まだ人智には遠く及ばない幽(かそけ)き哲理が、天の運気、深淵の水に隠されているのかもしれません。IPS細胞や青色発光ダイオードなどの基礎的科学の発展が望まれますね。しばし、そんな思いに浸りました。

RADWIMPSの歌詞がこのシーンにぴったりで素晴らしく、"愛にできることはまだあるよ。" は私の心臓を貫き、今もリフレインされています。
{/netabare}

さて、量子力学論では、原子よりも小さい電子や粒子は、"状態として存在" していても "物質" として目にすることはできないそうです。
(拙レビュー、"青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない" を参照してね。)

ところが、ひとたびクリエイターの目に捉えられ、その手にかかれば、街なかに水気の塊りが漂いだし、可愛らしい魚として描かれたり、モノモノしい龍神の姿に抽出されたりします。もしかしたら、800年前の祈祷師や巫女、シャーマンと呼ばれていた方々も、案外アニメーションクリエイターのゆたかな発想力と観測能力を持っていたのかもしれませんね。

ところで、本作に描かれている魚や龍神は、"水×生態系×認知可能なモノ" という設定条件の中で創られる、文化性を帯びた "概念としての存在" です。
この手法は、すでに衆知のものとなりつつある青ブタの観測理論の応用そのものです。その意味では、青ブタをご覧になられた方は、誰でも観測者になれる "意識性を有している" と言えるでしょうね。

神代の時代から "天気" というキーワードにはその絵コンテに多くの神々が登場しています。雷にはゼウスや雷神を、突風には風神やアイオロスを、雨には龍神やミズハノメが宛がわれています。
天象への不思議さや畏れ、儘ならさや願望をぶつける対象として生み出されたこれらの神々。言い換えれば、絶大不可侵のパワーが、2D、3D化されることで、祈りの対象として "より鮮明・先鋭に観測できる" ということですね。

観測理論を行動様式に移すなら "もっと近くに来て。もっと強く確信して。校庭の真ん中で叫ぶほどに呼びかけて。" ということになります。つまり、わずかな晴れ間にも強く懇願を求めるのは、青ブタ風に言えば、お尻を蹴り合ったり、足を踏みつけることと同じな訳ですね。
まあ、お天気は踏みつけられませんから、てるてる坊主を依り代(よりしろ)としてこさえるのでしょう。密教の流れを汲む "見立て" の応用ですね。
ところで、皆さんは、"その後のてるてる坊主" をどのように扱われましたか?

天が光射す道(天の通い路)を神社に降ろすのは、天上人が顕微鏡で地上を覗くようなものです。陽菜が鳥居をくぐった行為は、結界に入る=観測されることと言えます。そこに天と陽菜のウケヒ(誓約)が成立するのですね。
一方で、街の片隅で見初め合い、銃までぶっ放しては尻を蹴り合うどころではない盛大な量子もつれが帆高と陽菜の間にも起きていたわけです。

しかし、陽菜が自分のアイデンティティーを100%の晴れ女に見出せば見出すほどに、天とのウケヒが衝き固められていきます。
母と歩きたかったという "自分の願い" が、たとえ "生活のため、皆のための願い" へと移り変わっていったとしても、彼女には笑顔になれる幸せな時間だったのだろうと思います。
でも、帆高の呟きを受け入れることが、どんな結末を迎えることになるか。それを知らされていた陽菜は、彼とムスビついていたい気持ちを自覚しながらも、自らの決断でその縁を諦め、断ち切るのです。

私は、陽菜の心情の移ろいとその落としどころに、どうにもやり切れなさを感じました。彼女が天気の巫女としての役目を全うすることで多くのお客さんに応えきれなかった想いを清算し、人身御供されることで贖罪を求めたその思いの清心さと実直さは、それもまた自己選択、自己決定として頭のどこかでは理解できなくもないのですが、まるで自死を選ばせるような演出の重さには「それは違うよね」という思いが拭えないままだったのです。


また、子どもがいかに "コドモ" であったとしても、決して蔑ろに扱っていいわけではありません。母との死別は、姉弟にとっての母性のセカイを喪失させましたが、それは父性で出来上がっている世界に2人が放り出される意味になるのです。つまり、子どもの権利や人生が、父性の目線で扱われることになります。本作にはその現実の一端が色濃く描かれています。警察然り、児相然り。須賀然り。

2人がアパートに留まったのは、亡き母を悼みながらも父系社会へのレジスタンスだったのではないだろうか?私はそのように感じます。
何故なら、いったい誰が好き好んで、思い出の詰まった家を離れて、友だちともバラバラになって、もっと言えば、コンビニまでのキョリとか、水道水の味だって変わるかもしれないような児童養護施設に入ることを喜ぶと思いますか?
年齢も、成長も、発達も、生活習慣も全く相容れない集団生活の中に、どれほどの安寧と幸福を見つけられると思いますか?
新海氏はそこのところ、すごく学ばれたのだろうと私は思っています。

児童福祉や母子家庭の実相は、プライバシーの保護があるからとか、しつけの中のことだからとか、ひいては個人の選択の結果でしょ?とかの今風の言い回しで粉飾されていて、その内実を伺うことはなかなか難しい。
でも、ジュブナイル世代の健康、修学、交友など暮らし全般に、行政の仕組みが寄り添い切れず、かつ望ましい機能が賦与されていないことも少しずつですが衆目に晒されてきています。
ジュブナイル世代に関わらず、多くの子どもたちを大人社会が本気になって守らなければならない転機が、目の前に来ているのだろうと思います。


"陽菜" の言霊からは、陽=暖かな光、温もった手が、菜=幼い子どもがすくすくと成長するさまが感じ取れます。また、親と子が寄り添い、愛と幸せが家庭のうちそとにあまねく広がり、心身がのびのびと青々と発達するさまをイメージすることができます。

また、彼女の母の名前は「AMANO MEGUMI」と刹那に読み取れました。天の恵みとは母性の発露としての雨なのだというメッセージのように思えます。MEGUMIと陽菜の悲しい別れを、地球と人類の共生しあう未来というテーマに置き換え、両者の関係性を示すことが本作に秘められた通底なのかもしれません。

私たちが願い祈る意識や行動それ自体を量子力学的に解釈すれば、まさに粒子の揺れや揺らぎ、縺れや交錯、圧力や衝突を生み出している・・・それってもしかしたら念動力のトレーニング?!なんてことを言いだしたら腰が引けるかもしれません。

でも、夏には青空を、冬には降雪を、春には陽だまりを、秋には実りに色づく世界の明日を楽しもうと、何とはなしに思いたっては神前に立って手を合わせるお作法を、さも当たり前のように行なっているじゃありませんか。仕事場での何気ない挨拶にすら、いの一番にお天気話から入るじゃないですか。

朝な夕なに365日、宗谷から波照間まで、老若男女の誰ひとり漏れ落つることなく、生活のど真ん中に天気を据え置いて暮らしている。そして、よく観測し、美しいコトバに起こして、いつも明日の空を気にしているのが日本人の思考と行動の大元。
神代とも呼ばれる遥か大昔からの揺るぎないゴールデンルールです。

私は思うのです。
天気のありようを通して家族の笑顔を思ったり、人の幸せを願ったり、世界の平和を祈ったりすることは、夢、希望、未来、そして恋を、何をおいても手に入れんとする、あの手この手で押したり引いたりする行動そのものだと。

人が、感情を押し込めたり、迸(ほとばし)らせたり、素っ気なく振る舞ったり、美しく着飾ったりするのは、地球の気圧のさま、自然の四季の様態と全く同じであり、まさに天気と人心は、密接に連動していると言えましょう。母なる地球と "天気の子" とは双方向の関係。祈りを捧げ恵みをいただき、共に幸せの恒常を願うのものなのですね。

祈りという原始的にも思えるコミュニケーション様式は、低頭し身を屈め、手を合わせるという "自分から相手へ伝える最もシンプルなお作法" です。
それは、手を取り合ったりハグというスキンシップにつながり、やがてノンバーバル、バーバルなどのコトバを発達させます。ついに文字を創りだし、紙の発明によって共有され、電話、電子メールとなって、今では地球の裏側の人たちとも瞬時に交流ができるまでになっています。

Pray for kyoani.  
今ほど、このコトバがズドンと腑に落ちてくることはありません。

今のコミュニケーションの方法や手段は、100年前の人から見たら、天地がひっくり返るぐらいの技術と文化なはずですよね。でも、決して直線的に、あるいは一足飛びに、手にすることはかなわなかった事柄です。数えきれないほどの飢饉や戦争などの艱難辛苦、多大な犠牲と深い悲しみを経て、ようやくその "ありがたみ" を享受したいるのが私たちの世代なのです。

そうは言いながらも、何ゆえか人類進化の道すじが根本から危ぶまれている今日の情勢においては、本作の通底に秘められたメッセージをどれほどに受け止めて、明日からの行動につなげていくかという課題が残されていると思います。
本作には、気づきの端緒ともなる新海氏からの "深海からの問いかけ=見えにくいメッセージ" が秘め置かれていると思います。エンドロールの描写が、確かにそれを暗喩しています。


「君の名は。」では、過去作には見られなかった恋愛成就型ボーイミーツガールがファンタジックに描かれていましたが、今作は、地球人として生きることそれ自体にテーマを寄せてきているように思います。
ティアマト彗星が糸守町に落下したのは、2029年4月13日のアポフィスのそれの象意を示していますが、それでもまだ10年ほど先のお話です。本作では、異常気象をテーマに扱っているので、もう少し身近に体感できるし深く実感が持てると思います。

例えば、北極海の氷が融解しているニュース。
海洋学、特に深層海流の研究では、北極海の氷の減少・消失は、地球そのものの水冷機能の低下と不全につながると予想しています。現に、地球温暖化が叫ばれているにもかかわらず、その進行が予想通りになっていないのは、地球が自浄作用の一環として踏ん張っているおかげです。どういうことかというと、北極海の氷をガンガン融かしながら、体温の上昇をようやく抑えているのが実相なのです。

もう一度言います。
母なる地球は、自らのバランスを崩してまでも、子どもたる人間をはじめとする生物の命を可能な限り守ろうとしています。温暖化ガスによる気温(体温)の上昇を海中(体内)に取り込み、かわいいわが子にダメージが及ばないように、最小限になるように身を挺して抑えてくれているのです。ガイア理論ではそんなふうに解釈をするのですが、あなたはどう思われますか?

例えば、世界各地で地震が多発したり、火山が噴火したりしていることを、地球のくしゃみとか吹き出物として見立ててみたらどうでしょう? 阿蘇やイエローストーンがカルデラ爆発したら、同時にアイスランドのギャオスからマグマが噴き出して来たら、同時に富士山やエトナ火山が噴火したら・・・。

妄想ばかりが先に立つお話で申し訳ないのですが、ないともあるとも言えない可能性だけは残されますし、本当に何が起きるか分からない世の中です。一旦噴き出したその噴煙は、3年間降り続く雨の影響のその比どころの話ではないでしょう。人類はおろかほとんどすべての生き物を問答無用で死滅させてしまうかもしれません。リセットができるゲームではないのです。

こんなことは、普段の生活を送っていたら露とも感じることはありません。
そして幸いなことに今はまだ大きな天変地異は起きていません。
それに、国土の半分はまだ梅雨の季節にありますね。それは時に優しく、時に激しく表現されますが、一すじの雨足にもさまざまなメッセージを伝えようとする地球の微かな息遣いを織り込んだ心遣い。まるで天から人へのお中元。それが梅雨だったり台風だったりします。

新海氏が、天からのメッセージを作品の中に美しく描いていると受け止められるのでしたら、ぜひあなたも胸の真ん中に受け止めて、本作を読み解きながら楽しんでいただければと思います。
too you。お願いいたします。
{/netabare}

● 二つめ。"利他愛" の先にあるもの。
{netabare}
本作のもう一つのテーマがこれだと思います。最近のトレンドは "利他愛" を描くことが多くなっています。"青ブタ" しかり、"きみなみ" しかり。

ですが、ちょっと待ってください。
利他愛が行き過ぎると、いえ、闇雲に突っ走ってしまうと、ちびっと怖いことになりそうです。
大切な人を失うことは、取り返しがつかないことであり、そうならないように、そうなる前に何とかしておきたいという心情は理解できないこともありません。古くは "きけ、わだつみの声" に記されている、追い詰められ捻じ曲げられた若者の自尊心の発露に学ぶことができます。

当時の国体維持のために "武力と法律という同調圧力"と、"読まなければならない空気" とが、多くの若者や国民の思想信条を侵し、草を食べさせ、命を奪ってきたナショナリズムにも深くシンクロするのが "利他愛" のコトバの活用法なのです。
"利他愛" の対象に "国体" を据えると "無思考的な自己犠牲≒国家全体主義" を強いるのです。これもまた、歴史が証明しています。

数年前に国民的にヒットした "きみすい" にも若干、同じ匂いを感じます。
ファンの方、ごめんなさい。今だけ、ちびっと酷評しますのでたたみます。
{netabare}
文学的には優れて情緒性の高い作品として国民に広く受け入れられた反面、その喪失感の反動をどうコントロールするかまでは描かれておらず、位牌を前にして号泣させ、墓参りで終わらせるという、いわば古いしきたりに放り込んだ演出。

厳しく言えば、大人の文化に若者を屈服させています。だからこそ大多数の国民の意識が賛同を示し、受け入れたのかもしれないと考えるのは私の皮肉です。
しかし、とってつけたような通り魔の設定が、社会悪としての「歪みあるある」としていかにも安易に使われたこと、涙する18歳の "怒り" をきちんと描かなかったことが私には違和感ありまくりで、若者特有の社会悪に対する正義感の高揚や、犯罪に対する主体性の獲得といった側面へのリスペクトのあまりの欠如に唖然とするのです。

敢えて綺麗に申し上げれば、視聴後や読後に受け取った印象や、その喪失感からのリカバリーはそれぞれの感性でどうぞ、ということなのでしょうが、その感性というものがなかなかの曲者です。

感性とは情動であり、それは脳下垂体が司っています。脳下垂体は生存本能を支配し、大脳皮質の前頭葉に宿る高次脳機能である知性や理性の神経回路を容易に遮断し、思考や思索、善悪の是非の判断をたやすく放棄させます。その生理的反応の応用としてのあまたの政策が、国民の主体性と自意識を放棄させ、「お国のため」として我が身を世間さまの空気に阿(おもね)させてきたことは、過去のブラックな出来事として歴史書に明々白々に証明されています。

こういう設定ならどうかと問うてくる作者の主張は、"若者の青春のカタチも、少女のはかない命も、現実にあるあるな事件によって、無情にも蹂躙されるのだけれど、どうかな?という提案" な訳ですが、どんなにはかない命であったとしても、精一杯に生き切るという命へのリスペクトがこうも欠けていては、大人の「ああ、そういうのもどこかのあるあるだよね」とか「まさかこんな静かな場所で起こるなんて」という いかにも "一般大衆受け" を狙ったように思えて、残念でなりません。

アニメーションでは最後をファンタジックにまとめてあって、そこは美しく描かれていましたが、本質的には 命の扱い方が中途半端で、薄命の少女のせめての希望さえも薙ぎ払ってしまった作品として今では受け止めています。

そして、ここでちびっと立ち止まって思い出してみてください。
私が "利他愛" の上に位置づけるものがあるのは、青春ブタ野郎シリーズの大ヒットに学ぶところがあったからです。それは、咲太が、夢見る少女の思春期症候群という "見えにくい苦しみ" に右往左往することこそ、少女が健やかに夢を見る人生につながっているというストーリーが描かれていたわけで、それが今季の教訓として受け止めて良かったはずではないでしょうか。

彼の、妙に人を喰ったようなキャラ設定は、初めのうちは大人げなくて、おまけに変に若者っぽさもない高校生だと違和感をもって見ていましたが、よくよく見れば徹底した "人本主義者" であることが分かってきました。友達へのリスペクトの強さ、弱者への甲斐甲斐しい介入は、きっと大人の翔子さんから学んだのだろうと思います。

もちろん創作なので細かいところに突っ込むのは野暮天ですから致しませんが、"きみすい" とはまた違うアピール性をもった作品でしたし、作者のポリシーにおいて好感度の高いものだと感じている次第です。
注目するところは、購買する年齢層の差もあるでしょうが、より若い方に読まれている青ブタの売り上げの推移が気になるところです。(きみすい260万部、2019年4月。青ブタ150万部、2019年7月。)
{/netabare}

今更のことですが、新海氏は、メインキャラクターに重い枷こそ与えはしますが、決して殺すようなことはしないクリエイターです。
ファンは、主人公が呻吟する姿と嗚咽するその心情に自分自身を投影し、新海氏からのメッセージを真摯に共有することで、未来に生きることへの絆をより太く紡ぎ、作品への信頼を一層のこと深めるのです。

君の名は。では、その一側面をいくらか和らげ、別の一側面をいくらか強めることによって、より広範に国民との接点を造り出し、より多くのファンとつながることに成功したのです。
結果的に、今作に秘め置いた氏のメッセージを、即ち "賛否の分かれるところ" を、世界中の人々に間配り、それをもって得る "効果" を、地球全体で共有することにきっと成功するでしょう。それはとても喜ばしいものです。

さて、ずいぶんと遠まわりしましたが "利他愛" の先にあるものについて述べてみます。

結論から言うと {netabare} "利己愛" {/netabare}です。
でも、西洋哲学で言うところの "自己愛=ナルシズム" ではありません。ましてや一世を風靡している "自己中" でもありません。"利己愛" とは、自らの命の尽きるまでを真摯に向き合い、自らを社会に活かすことによって生み出される "思想" であり、"コトバ" であり、"行動" であり、その "足跡" です。
ですから "自暴自棄=セルフネグレクト" でも "自死" でも "自殺" でも "自己犠牲" でも "過労死" でもありません。

もちろん、"これしかやり方を知らない、教えてもらっていないんだから、愛するがために自分の命を捧げてもいい" という理屈には絶対になりません。
ましてや、"私のセカイを愛する想いが昂じた結果として、世界の命を勝手一方に奪うのも愛のカタチなんだ" などの屁理屈はもってのほかです。
こんな簡単なことが分からなくなってきている世の中は、本当に狂ってしまっているのかも知れませんね。

行動における基本的原則は、"動機" にあることは明らかです。
動機とは "思い" です。言霊的には、"想い" と "重い"に分解されます。

"思い" は、心の上で風車が気ままにくるくると回るさまですから、言い換えれば、心は常に不安定な性質があり、ゆえにコロコロの音律を伴うコトバだと言えます。

"想い" は、軽く、温かく、明るく、涼やかです。字解すると、"二者の向かい合うさまを心の上に置く" になります。"相" は "木と目" に分解されますが、木とは種から老木までを指し、その成長と発達の変化のさまを、すぐ隣で見つめるという意味があります。木は左側ですから受けです。木は動けませんからね。目は右側ですから送り手です。目は上下左右360度から観察できますね。心が下にあるのは合理的配慮が常に下支えするという意味合いでしょう。

"重い" は、重く、冷たく、暗く、凍えていることにつながります。
字解すると、人が大地に立って袋を抱えているの意味になりますが、その中身が、サンタクロースのそれなら上々!ですけれど、パンドラの箱ならゲゲッ!ですよね。

"利己愛" とは、"己を利かす" という意味合いですから、"どんな愛を以って、「誰に、何を利かせるか」" ということで完結します。
常に、自分のそばには他者がいます。いないように見えてもいるはずです。言い換えれば、自分は、他者から常に観測されることで、実存し、存在していると言えます。ですから、他者に対して、自らの存在する意味を命がけで見つける必要性があります。さらに言えば、人を愛するためには、まず自分を深く愛していないとその愛し方が分からないのです。

帆高が、凪に感服していたのも、三葉に相談していたのも、彼の心中に愛が満たされていなかった証左です。
また "貧すれば鈍す" も同じ意味です。肉体の幸福がある程度満たされていなければ、心の平安を得ることなんてできっこありません。

"汝が隣人を汝自身の如く愛せよ。"とはキリストのコトバ。
"汝自身を知れ。" とはソクラテスのコトバ。
西洋的概念のそれは、あまりに教条的で、出来過ぎで、私にはちびっと荷が重く感じられます。
むしろ私は、七福神の宝船が心地良さげで楽しそうに見えます。東洋の多神教の皆々様が笑いあっている姿に、ゆらりゆうらりとする心の安寧を感じてしまいます。


帆高が陽菜に「自分のために祈って。」と語ったセリフが、"利己愛" のすべてを表わしています。そもそもからして、1人の人間が "利他愛" の果てに人柱となり、結果として地球規模の平和が成し遂げられたという事例は、歴史上のどの資料にもありません。ジャンヌダルクだって無理だったもの。
ましてや6000万人が犠牲となった先の大戦の教訓を踏まえてもなお、世界に紛争が絶えず、その平和が風前の灯火とは、あまりにも労しく、いわゆる勝ち組の主張の寒々しさについ白けてしまいます。

帆高は、陽菜のことを想って、拳銃を不用意に扱ったことで社会的責任を問われ、保護観察処分となって神津島で息をひそめるようにして贖罪の日々を送ります。その罪が解かれるのが「卒業」という節目の行事に表象され、帆高はどのようにも説明できないままで、陽菜のもとへと戻ります。
これは、世界に対抗する手段としても、また、不条理をアピールする方法としても、"銃器火力を安易に取り扱ってはならない" という演出として受け止めました。また、人格の形成には手厚い教育と適切な支援が長期間にわたって必要であることも示していると思います。

自らを愛し生きぬくことでしか他者への利他愛は "成就しない" のです。 "利己" と "利他"は、"愛"という名の "思いやりの心" でムスビつけられ、相関し補完しあっているのが真相であり深層なのです。

大人が構築してきた "因習やしきたり、柵や忖度" には "利他愛" の要素はあるけれど、それは小さなコミュニティーが対象です。イエ、ムラ、シマ、クニ、ブラック企●。
残念ながらそこには "利己愛" は見つけられません。いえ、むしろ自己愛、自己中、自分勝手、世間知らずと言い換えられ、若者(特に乳幼児)を、女性を、障がい者を抑圧し排除し続けてきた歴史と、収奪と搾取を繰り返す文化、すなわち男の論理しか見えてきません。

天気とは、"転機"。そして "転帰"(初発に戻る=ルネサンス)、"天機" (時代の変わり目)と転意していきます。
(子については、拙レビュー「若おかみは小学生」を参照してね。)

それが 新海氏が作品に込めた "メッセージ" ではないだろうか。
今、ホモサピエンス経済の仕組みを変えなければ、東京は、世界は、本当に水没してしまいます。
それもまた 地球からの "メッセージ" なのかもしれません。

しかし、それでもなお新海氏は、帆高に「大丈夫だ」と言わせるのです。
その言霊に、未来につなぐヒントが、秘密が、隠されていたように思えるのです。
{/netabare}

● 三つめ。セカイからも世界からも疎外される若者の姿。
{netabare}
ちびっと穏やかでない見出しに違和感をお持ちいただけたのでしたら、嬉しい。
多くのレビューに、帆高と陽菜の行動原理や社会的背景、支援者の存在が、見えてこない。説明が不足している、そんなご意見が散見されています。
それについて私見を述べたいと思います。

主人公の帆高。神津島(こうづしま)の生まれのようです。正式には東京都神津島村っていうんですが、ずいぶん前に行ったことがあります。沖縄とは違う空気感と透明感があって、観光地としては太鼓判が押せる素晴らしいところです。
でも、生地境涯となるとどうでしょう。隣の東京都新島村式根島(しきねじま)まではたかだか10㎞ほどですが、そこにあるのは "絶海" です。また、冬の晴天時は遠くに伊豆半島を見通せますが、さすがに東京都新宿区までは見えません。

劇伴に流れる「憧れなのか、恋なのか」って言えるくらいの、いえ、言っていいのかどうかさえも分からないくらいの絶対的な遠距離感です。
万一、この時空を埋めようとする思いが芽生え、スイッチが入ったら、まさに身を切るような切迫感、世界から切り離されたような閉塞感に苛まれることだと思います。

16歳の彼が東京に出てきた事実だけが、視聴する人に分かりうる情報です。その理由も背景も、映像上では詳(つまび)らかにはなっていません。でも、彼の表情やコトバ、考え方や行動の癖などから "推察・推量すること" はできるはずです。つまり視聴する方々の帆高に寄り添う想像力がとても重要になります。
とはいえ、国民のほぼほぼ100%の方は、神津島で生まれ暮らすということはないのですから、帆高のプライベートな生い立ちや境遇を追体験するイメージを創ることはとても難しいと思います。
"設定上のこと" ですから詮無いことではあるのですが、でも物語上この設定は、"三つの意味" で外すことはできない重要なファクターだと感じます。

★ "一つめ" は、男女のすれ違う "もどかしさ"。
{netabare}
99%なさそうで ありそうな1%のその出会いを、視聴する人の意識に強く投影し、物語の物理的・心情的なキョリ感を最大限に引き伸ばして見せきることが、新海氏の作品の特長であり、真骨頂です。
氏の過去作は、演出上、多少の濃淡はあっても、必ず盛り込まれているエッセンスであることは間違いのないことですね。

もし機会がありましたら、伊豆半島の南端、石廊崎灯台の突端から太平洋を遠望してみていただけますか?ほんとうに運が良ければ島が小さく望めます。そしてそのあまりの遠さに絶句するはずです。打ち寄せる波音と抜けるような空を見上げながら、しみじみ新海氏のアイディアを評価してみてください。

おまけにと言っては何ですが、いつの間にかそこには複雑な三角関係が絡み始めます。帆高と陽菜、三人目があなたですよ。
{/netabare}

★ "二つめ" は、一つめの補強の位置づけです。
{netabare}
想像してみてください。生れた瞬間から人間関係が固まった人生を。10年以上もクラス替えがない集団生活を。そういう体験のない方にはにわかには理解し難く、困惑するでしょう。ましてや、そんな小さな世界で、友だちとの繋がりを失い、親との関係がこじれてしまうと、つまり、孤島のさなかで更に孤立してしまったら、どんな境遇・心境になるでしょうか。

そういった背景をいくらかでも理解することによって、帆高がデッキの上でホワイト・スコールの洗礼を喜ぶ心情を共感できようなものです。そもそもホワイト・スコールに遭遇すること自体が奇跡のようなものです。それをわざわざ大道具として演出に使うくらいに、新海氏は、帆高の心中に澱となっているわだかまりを洗い流したかった、禊ぎたかった、そういう気持ちを表わしていたと私には思えるのです。


視聴者からは見えにくい帆高の行動原理は、そうした物理的、心理的に圧縮された狭間に、自分の夢想をむりやり差し込み、光の指すその先の遠すぎる未来に憧れる自分への期待感が、もろもろ綯(な)い交ぜになっての心情の発露だとは言えないでしょうか。
世界としての孤絶、人としての孤立、内面性の孤独。それらの不穏な状況を、神津島の名にもちびっとかぶせて窺わせているのも演出としては隠れたグッドポイントだと思います。

社会的孤立は現実の世界においても大問題になっていて、人間の疎外は、政治的にも放置しておくことができなくなっている喫緊の課題なのです。え?課題なのは知っている?そう、仕方ないですよね。大人になると優先順位を変えられえなくなりますからね。
でも、仕方ないという諦めの気持ちにある "違和感を切り捨てないでほしい" そう願います。

帆高は「あの光の中に行ってみたかった。」と呟いています。これって君の名は。にもありました。「日照時間は短いは」「堪らんわ」などのコトバの "裏返し" というわけです。
このフレーズは、地方や田舎の少年少女には共感度 "大" でしょう。
故郷を出ようとする動機が、逃避なのか夢なのか、それとも両方ともなのかはそれぞれでしょうが、早いか遅いかの違いはあっても、突き動かされる思いは、自分探しへの深刻な衝動です。たぶん、神をも刻む鋭さ、重さなのではないかと思います。

彼は、早駆けする日脚を自転車で追いかけていましたが、風まかせに動きまわる光跡は、気象が生み出す移り気なマジックのようなもの。それは天上人が地上に落とす "気ままなスプライト(ため息)" のように見えなくもないです。
でも、そんなスポットライトの中に踏み入ろうとするなら、どんなに懸命に追いかけても、許されなければ決して入ることはかないません。
海上へと移ってしまった「光のステージ」は、帆高の眼には、遠い東京へと誘(いざな)う魔法の絨毯のように映っていたのかもしれませんね。

実は、本作に、ぴったりのコトバがあります。

"光彩陸離"。

"こうさいりくり" と読みます。
関心のある方は検索してみてくださいネ。

出来上がってしまった世界が、2人にとって、どんなに意地悪で、冷たくて暴力的で、生きている意味さえも分からなくさせてしまっているとしても、2人の瞳の輝き、お喋りの歓びが重ねられていくたびに、心の中には新しい晴れ間が生み出されていきます。

でも、市井の人々は、なお勝手一方に自己愛を示し、図らずも新宿のど真ん中で、陽菜の秘密が世間に露わになります。帆高の身を想う陽菜の願いは雷撃となり、世界の圧迫から3人を切り離しますが、帆高の何気ない小さな頷きが陽菜の恋ごころを撃ち砕きます。

"自分ではなく、天気を望んだ帆高との疎外"。

やり切れない想いでむつみあう帆高との抱擁もはかなくほどけていくのです。

私には、それらの全てのプロセスが、"光彩陸離" というコトバに集約されるような気がするのです。
空に祈る純心も、天に召される魂の耀きも、やはり "光彩陸離" というコトバに収斂(しゅうれん)されそうです。
いつの頃に生まれたコトバなのか、どなたがどんな景色を見てインスピレーションを得たのかは分かりませんが、そのコトバが意味するところの風景を、新海氏が絵コンテに描き起こし、素晴らしい映像美に表現してくださいました。涙が出るほど震えました!
{/netabare}

★ "三つめ" は、本作の構成から "絶対的な疎外感" のモチーフをセレクトすると、これがなかなかに上出来なのです。
{netabare}
東京都神津島から東京都港区竹芝までは、さるびあ号なら学割で6000円余りです。帆高でもいくらか無理すれば島を出られそうです。高速船もありますがいくらかお値段が張ります。
九州・四国・北海道は鉄路で本州と接続していますし、他の航路は陸路と接続しています。ならば那覇~羽田間ですが、3万円超は家出少年にはムリです。

三葉の動機は "瀧くんに逢いたいがため" の約14000円×2。でも帆高は "単なる家出" ですから、三葉の恋への一途さには比べようもありません。
それに新海氏のご指名は東京か新宿辺りです。結果的に伊豆諸島がベストチョイスになります。そして神秘性を高めるなら "神津島" の一択です。
1日1便のボーイミーツガール?200㎞超に挑む帆高の志や如何に!?(ちなみに瀧や三葉は500㎞超だけどね)

ところで、その疎外感を埋めるために "利他愛" の使い方を間違えないようにしていただきたいと思います。
"他" とは、自分の外にある全てですが、意外と落とし穴なのは、それを "都会" とか "国" とか "民族" とかの低いレベルで捉えてしまいがちです。だって何となく日本人として居心地が良いんだもん。"井の中の蛙、大海を見ず" で済むんだもん。

ある志士が言うとるきに。「儂は日本人ぜよ!」って。
明治の夜明けの直前、彼の "利己愛" は「日本人」という新しいコトバに "利他愛" を括(くく)ったのです。

それなら私たちも令和の夜明けに天喜し「私なんて地球人だよ!天気の子なんだよ!」って、もっと新次元の "利己愛" を声に出して行動しませんか。

新海氏を始めとして、日本各地の素晴らしいスタジオが、サブカルの新しいトレンドと、アニメの無限の感動を、世界中にまくばっているじゃありませんか。

世界のファンだって、人生の転機になった宝物だと言っているじゃないですか。


「大丈夫」
私もそう呼びかけたい。
そう呼びかけることが、私の本作への精一杯のリスペクトなのです。

本作は、天の岩戸伝説の新解釈=しんかいしゃく=新海氏約?
岩戸を押し開けたのは、天手力男命(あめの たじからおの みこと)ですけれど、それこそが、"利他愛" の権化="見える化" としての働きを示しています。
あえて言霊の解釈は致しませんが、すでに作品のなかに語られています。

「僕らの愛が、世界にできることは、まだあるよ。」

ぜひ、そのメッセージに込められた意味を、何度でも感じ取ってみてください。
{/netabare}
{/netabare}

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2020/09/09
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