「竜とそばかすの姫(アニメ映画)」

総合得点
69.7
感想・評価
218
棚に入れた
614
ランキング
1688
★★★★☆ 3.6 (218)
物語
3.1
作画
4.1
声優
3.3
音楽
4.0
キャラ
3.3

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ネタバレ

薄雪草 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

哀しみのなかの声。心をささえる歌。

本作は、いつもの見えやすい "家族愛" というよりも、なかなか見えにくい {netabare}"人間愛への信頼"{/netabare} にググっと寄せて描かれています。

ただ、鑑賞するには、とてつもなく苦々しく、そして若々しい感性が必要。

そこに立てたなら、あとはもう、どんなふうでもいいです。

わたしは、嬉し恥ずかしの気分で楽しみました。
 

~    ~    ~


気をつけておきたいのは、過去作品への評価に拘りすぎて、バイアスをかけて鑑賞してしまう "勿体なさ" です。

そして、なおそう思えるのは、長いコロナ禍で、多くの体験を失ってしまった、特に子どもたちの心情にシンクロする大人でありたいと思います。

好転する兆しが見えにくい環境下で、大人の心身も十分に傷ついています。
でも、ささやかな願いさえも叶わなかった子どもたちの心だって大事にしてあげたい。

本作が、そのケアに寄与するのなら素晴らしいことだと感じました。


~    ~    ~


クライマックスシーンには、身のほどもなく震えました。

まるで衆生済度を発願する慈母の仏性に触れたかのようでした。

あたかもそれは、愛による救済を願うマリアの姿のようでもありました。


~    ~    ~


一つだけ申し上げるなら、このひと夏のオリンピアンは、日本のすべての国民だということです。

身のうちの、胸の奥の "愛の共鳴と、歓びのともしび" 。

それは、オリンポスの神々の誉れに適う "メダリストたる資質" なのです。


おまけ。
{netabare}
本作は、すずの心情を捉えることが重要です。

特に、次のふたつの言葉の動機や背景の掘り下げが、かなり大事です。

「あなたは、誰?」

「あなたに、逢いたい。」

どうぞ、すずに寄り添うベルのように、思いを深く巡らせてみてください。
{/netabare}


おまけ2。
{netabare}
クライマックスシーンで、アンベイル(*1)されたすずが、シンボライズされた三日月に、表情をふと変える場面があります。
*1、現実の姿をUの世界に描画すること。

すずの心的世界は、10年以上にわたって、ひとつの思いに憑りつかれ、縛られ、閉ざされています。
「お母さんは、なぜ赤の他人の女の子を選んだのか。どうして私は独りぼっちなのか。」
お父さん、幼馴染の忍くんやヒロちゃん。誰にも明かせない深い胸の疼きです。

あの日、仁淀川の清流は一変して、ささやかな未来を根こそぎ奪い取る。
涙を涸らせ、喉を掠らせ、足元の橋は心もとなくて、青春に謳う時を虚ろに流していく。
誰とも知らぬネット市民の声は、日夜に濁流を注ぎ込み、すずを無常感に溺れさせるのです。

すずにとって「独り」とはそういう意味なのです。
何度も自問し、何度も反駁しただろう先に、ひとつの気づきを得るのが、視線の先に輝いている三日月なのです。


「一人で生きてゆけると、あなたは言い放つけれど」と、ラブソング(すずはそう思っている?)に込める切ない想い。
彼女にとって、竜が「独り」でありつづけようとすることは、耐えがたい痛みを共有することです。

「ボクが耐えればいいことだから・・」と言う恵くんは、「助ける?、助ける!、助ける!?」とすずに怒号を浴びせます。
それは、かつて濁流が分かつ先に、ひとり残された女の子の「助けて!」の叫喚にもつながります。


モラルジレンマ。

現実世界の常識、価値観、世論、多数意見、流行りのムーブメント・・・。

その同一性はヴァーチャル世界ではリアル以上に牙を剝く。

表向きは清らかな流れを見せながら、勝手一方に濁流・激流に狂奔し、一気に炎上させる非情と無情こそ、正義面の下に隠された正体。

それに乗じて衆目を集め、集客と利益、快楽と名声を追求するのは、個人の欲心やスポンサー企業の思惑にも通じるものでしょう。

ネット情報リテラシーは、情報を自己の都合や目的に適合するように使用・活用できる能力のことです。(Wikipediaより一部加工)

経済力、資金力のある側にとっては、意図的に演出できるもの、印象を操作できるもの、さも本当のように価値づけられるものです。

でも、その場その時だけの "ノリの軽さ" 、モラル破壊の "浅ましさ" 、普遍的な価値追及の "空々しさ" も、氾濫し席巻しています。

いい加減、そんなエゴに辟易としています。


それでもなお、現実の歪みは、厳然として立ちふさがっています。
懼れながら身を削り、震えながら心を焼いて、日々を暮らしている人たちは幾万人といます。

そんな彼ら彼女らに「竜とそばかすの姫」で細田さんが伝えたいメッセージは何でしょうか。

すずは、優しさと強さを体現するキャラクターです。
その名は、涼やかで、清らかで、遠くまで響く心のありようを表わしています。
その振る舞いは、情愛に満ちたお母さんの意志にたどり着き、自己の主体性を慄然と体現するありさまを示しています。


"U" は、底なしに拡大し続ける仮想空間の "海" 。

"三日月" は、ネットの海に漂い浮かぶ "救いの舟" 。

"シロナガスクジラ" は、名もなき人々の想いを強く押しあげる "潮のうねり" 。

・・・そんなくみ取りかたなどが、できようものでしょうか?
{/netabare}


追記です。
{netabare}
きっかけは、素塔さんに拙文を使っていただいたことと、過分なご期待を寄せられちゃった?みたいなところからです。
果たして、さすがに未完のままでは素塔さんに失礼ですし、私も落ち着きません。
やっぱり締めくくっておくべきかなって思いに至りました。

レヴューの冒頭に記した "人間愛への信頼"という言葉について振り返ってみると、二つの視点が抜け落ちていたと思います。

一つは "父性愛" です。
すずと恵くんのお父さんの描かれ方の違いなんですが、両極端なキャラづけですから、そこには何かのメッセージがあると思います。

彼らは、単なるモブではなく、大きな棘なんですね。



素塔さんが解き明かされたのは二つの二重性でした。
一つは表層的な舞台装置としてです。

"リアル" に呻吟するすずと恵くんの "現実" と、"バーチャル" に充実するベルと竜の "〈U〉" という二重性です。
ここでは仮想空間のベル(強さ)と、現実のすず(弱さ)とのインテグレーション(合一性)がテーマでした。

もう一つは、すずが深層に押し込めていた自己覚知の物語装置としてです。

亡くなった母と助け出された女の子のいのちの価値の整合性、あるいは母の意志への再帰性、そして遺志との統合性です。
言うならすずの "自己愛と母性愛" のインクルージョン(包摂と一体性)がテーマだったのです。

このダブルミーニングを解き明かされた素塔さんの筆致には舌を巻きました。
そのおかげで私の作品理解も段違いに深まったのです。

私なりに復習すると、すずは、お母さんの喪失に自問を繰り返す "閉ざされた苦しみ" に縛られていました。
反面、〈U〉では、お母さんに絆する歌が、何億人にも "開かれた歓び" としてベルのステージに描かれています。

それは間違いなくすずが望んでいたことです。
ところが、竜が介入することで、すずがベルとして自己実現する姿は、あくまでも仮のものと気づき、恵くんのいのちを守る選択こそが、彼女の内面に "母性を打ち立てる真実の道すじに向かうシナリオ" へと移行するのですね。

実は、この流れで "すずの救済と成長の物語" を描くだけなら、それはそれで完結しても良かったかなぁって思うんです。
ですが、それだけだと決定的な瑕疵が残ってしまいます。
それが、一つめの視点、父性愛(あえてそう言いますが)へのアプローチなんです。

素塔さんがすずの母性愛への覚醒と定着を述べられていたように、お父さんへの立ち位置はどうだったかを説く必要が本作にはあると思います。
だって、すずと恵くんからお父さんの存在を外してしまうと、作品の精神的な部分で重大な穴が空いてしまうんです。

穴の一つは本作の動機(原因=燃料)、もう一つはお話に通底する方向(未来性=羅針盤)です。

二人のお父さんにアプローチすることは、混沌とする時代性に向き合い、その光にも陰にも触れることです。
なぜなら、細田監督の視点が、さまざまな親子像・家族像を、直接・間接に、あるいは比喩・暗喩で、問いかけたり訴えたりしていらっしゃるからです。



細田氏の問題提起は、ややもすると重苦しいものですが、本作にも氏のメッセージが開示されていると思います。

ひとり親家庭、特に父子家庭では、母性愛的な空気を醸すのはなかなか難しいところがあります。
ましてや、家族構成が男ばかりだと、母性愛どころか女性性すら見込めません。

恵くんのお父さんは、上辺では仲良し家族を装いながら、その裏では暴言や示威行為で子どもたちを支配・抑圧しています。
恵くんの日常は、お父さんの二面性によって歪められているし監置されているのですね。

これは間違いなく男性性が強く前面に押し出されている設定です。
お父さんの存在は、恵くんにはとてつもない高い壁になっていて、どうしたって閉ざされているという感じです。

反対に、すずのお父さんは、どこから見てもすずには取りつく島もなく、会話も上滑りにすれ違ってばっかりです。
父娘して、もどかしさを心に感じながら、隙間の埋め方にきっかけがつかめないでいるようにも窺えます。

でも、お父さんの男性性はとても控えめだし、すずの変化や成長を外の世界(ヒロちゃんや忍くん、コーラス隊の面々)に期待しているかのようです。



父親が振る舞う娘や息子への気遣いは、自ずと家風に色が出るものです。

すずのお父さんは、すずの気もちを受け止め信頼に寄り添いますが、すず自身はお父さんの愛情には完全拒否のスタンスです。

恵くんのお父さんは、息子たちへの不信不満を極めていて、無価値だとも罵り、恵くんは父性愛など望むべくもないモラルハザードに焦燥しきっています。

すずが高知を飛び出て恵くんのお父さんに対峙することは、〈U〉での気づきがいよいよ現実のものとして定着するプロセスです。

かつて母がそうしたように、荒れ狂う恐怖(暴力的な力)に身を投げ出してでも「助けて」と叫ぶいのちをギリギリのところで守りきったことで、すずはお母さんの "地平" に真実立つとともに、自らのトラウマを超克していくのですね。

同時に、自身の選択と行動に納得が得られたことで、すずの自己肯定感はふくらみ、男性性や父性愛へのアプローチに、ひと皮むけた気持ちになれたのではないでしょうか。

すずのこの心境の変化があって初めて、母に感じていたいのちへの姿勢と、父にわだかまっていた負の感情を、昇華・結合させる重要な伏線回収へとつながるように思います。

そうしてカツオのタタキを「一緒に食べる」というやり取りで、ようやく すずにもお父さんにも "ぽっかりと抜け落ちていたそれぞれの家庭像" に夏の風が吹き込むんだなぁと得心できるのです。



では、恵くんの立場ではどうでしょう。

すずが直に会いに来るということは、恐怖と憎悪の権化だった父に対して、すずの対応がどれほどに揺るがぬものかと目の当たりにしたわけで、その母性愛が理屈ぬきに体感できたはずでしょう。

私は、この "体感" が何を指すのかはとても大事だと思うんです。

たとえば恵くんのお母さんが、お父さんのDVに耐えかねて、単身家を出たと仮定するなら、恵くんは捨てられたと打ちひしがれるのが普通だろうし、それは〈U〉においては決定的なマイナスのパワーに置き換えられるはずです。

また、死別と仮定すれば、母性愛の喪失感は尋常ではないでしょうし、それをベルの優しさに求めれば、母の面影を忘れてしまう後ろめたさに苛まれてもおかしくはないでしょう。
これもまた母性愛と女性性との相剋。
思春期はなんてフクザツな心理で生きているのでしょう。

もしも、すずが会いに来てくれなければ、恵くんの境遇と竜のパフォーマンスはその後も変わらず、粗暴横暴なお父さんの劣化コピーのような生き方をたどり、愛も勇気も得られない二重三重の苦難と不幸に陥ってしまったでしょう。

誰だって、誰からも気遣われず、誰からも助けが得られないのでは、思考が偏ったりパフォーマンスが歪んだりしてしまうものです。
だから、父性や男性性への負の感情が高まるほど、また長引くほど、暴虐な竜がアップデートされるだろうことは容易に想像ができます。

そのルート設定は、彼の人格をいずれ破壊し人生を狂わせる重大事になろうかと思うと、やっぱりすずの判断と行動には重要な意味が持たせてあって、物語のメインストリートでなくてはならないものだと思うのです。

その意味では、最終パートは単なる付け足しなどにはなり得ず、本作の二重性のさらに中心にどっかりと座るものであり、同時にすずと恵くんの未来への始点になるのだろうと思います。

その理由を以下のように考えます。



〈U〉の最大の欠点は、中学3年生のメンタリティーに、自律する機会も、自立する方向性も見つけることも与えることもできないことです。
(もしかしたら一部の大人にも当てはまりそうです・・・。)

ベルとの語らいもダンスも〈U〉での関係性に限られてのこと。
現実のものではありません。

だから、すずが目の前に現れることがすごく重要で、その結果、恵くんに大きなバリューを生み出したのは間違いないことでしょう。

となれば、本作のテーマポイントは、当事者(恵くんとお父さん)と当事者性(すずとすずに託したお父さんの言葉)が、同じ場所で、同じ時間を共にしたことに尽きると思います。

仮想空間なんかじゃなくて、体温が伝わる本物の距離感で。
当事者性ではなく、ほんとうの当事者として。

もちろんそれだけで全部が解決するなんてことはそれこそ "夢物語" です。
でも、少なくとも恵くんの内面に、お父さんとの距離感に修正のきっかけが与えられたこと、方向性の兆しが微かに見え始めたことが、監督が本作に込めたメッセージなんだと思います。

加えて、ベルへの憧れや母性愛への渇望も、すずが示した勇気と優しさに触れたことで、新たな女性像を見つけられたようでした。
知くんを交えての包容も、兄としてのスタンスを固める覚悟に結びついたものと思います。

子どもは親を選べません。
最終パートに描かれた父性との断絶と対決、そして受容と融和は、すずと恵くんには欠かすことのできない "救済と再生のための関門" なんだろうと思います。

そのシナリオは、ほんのわずかのシーンや表情にしか描かれていませんでしたが、たぶんそれは、細田氏が喪失された母性愛のほうを重視し、多くの時間を割きたかったからでしょう。

何と言っても父親はまだ生きているわけですから、父性愛の復権のチャンスは先送りにしたのかも・・・とも受け取れそうですね。

これが、私の考える "父性愛" の帰結。
"母性愛と父性愛のデュエット" という視点です。



さてもう一つの視点です・・・が、ちょっとまだまとめきれていませんので、もうしばらく時間を頂戴したいと思います。
{/netabare}


もう一つの視点。
{netabare}
インターネットの陰と光がテーマです。

まさかオンラインで世界中からのぞかれ、慰み者にされてしまった恵くん。
竜の正体はあなたでしょ?と暴かれ、ベルは私と嘯(うそぶ)かれ、父を説得したいと毒を言われる。
どこの誰とも分からない女子高生が、綺麗ごとを、知ったふうに。

あまりの無神経ぶりに我を失う恵くん。
すずを否定するか、反撃するか。
無視を決め込むか、無為なく切断するか。
いいえ、ネットリテラシーに照らせばすでに手遅れ。
特定されるのも時間の問題です。

彼が拒絶を選ぶなら、〈U〉に居場所はなくなるでしょう。
いや、ネットどころか実生活にも実害が及ぶかもしれません。

父の罵倒に耐えるだけなら。
自分を弱者とさげすむだけなら。

そんな恵くんは、都会に漂う浮き草、寄る辺を持たない根なし草です。



思いもかけないベルの反撃で、正義のバッジを剥奪されたジャスティン。
一人天下なのはあなたでしょ?と喝破され、アンベイルに一歩も引かず、素顔を見せることを良しとする。
〈U〉で最も支持される歌姫が、汚れ役を、知らないふうに。

いきなりの超展開に不覚をとられるジャスティン。
ベルを肯定するか、光を消すか。
役まわりを取り戻すか、主導権を奪われるか。
いいえ、ネットリテラシーに照らせばすでに手遅れ。
泡沫と消えるのも時間の問題です。

用心棒と気張っても、〈U〉には無用のカラ威張り。
無類のヒーローどころか、不埒なチンピラに成り下がるでしょう。

〈U〉では As(アズ)を変えられないのですから。
歌姫の気魄に、なす術もなく気圧されたのですから。

そんなジャスティンは、ネットに漂う幽霊船、沈みゆく難破船です。




〈U〉のうたい文句は、「〈U〉なら別の生き方ができる、〈U〉なら何度でもやり直せる」です。
でも、本当にそうだったでしょうか?

すずの〈U〉への動機は、愛する母の死と、歌えないことのトラウマです。
ベルとなった彼女は、「歌を歌いたい」という願いを叶えます。
でも、彼女がベルとして「恵くんたちを助けたい。自分も強くありたい。」には応えようがありません。

その終点は〈U〉の中には見つけられず、守りたい人のいのちの救済を〈U〉の外に向けるのは、すずには自然な始点なのでしょう。
母の一歩を、すずも踏み出すのです。

何億もの人々が〈U〉に集うのは、そこに至るプロセスが "たやすいことではない" と知っているからです。
仮にそこに至っても、無体な誹謗中傷が避けられないと知っているからです。

〈U〉は、生き方の変化の入り口に過ぎず、きっかけを提供するだけなのです。
出口から先の生き方には、仮想空間の声など無用の長物なのです。



インターネットの出発点は、パワーバランスを徹頭徹尾磨き上げることから始まっています。
軍事力や経済力の支配拡張性が、ヒエラルキーパワーの源です。

そのアイデンティティーに則れば、竜とジャスティンがいがみ合うのも道理です。
かくれんぼにおいかけっこ、ルールはあっても運用は "力まかせ" なのです。

バーチャル空間での俺ツエーのアクションは、エゴイストの提灯持ち、神輿に群がる案山子のようなもの。
錦旗を掲げる気取り屋どころか、太鼓持ちよろしくの風情です。

だけど、そんな彼らの気持ちも、私は理解できます。
わずかでも内心を慰められるなら、迷わず〈U〉に飛び込んでしまうかも。
だから、竜とジャスティンの思い違いには同情してしまいます。

ただ、スポンサーの変わり身の早さには、ごもっともというか辟易とするというか。
功利主義の牙口はうま味しか評価しません。
アンベイル という唯一無二も、所詮は金儲けの小道具にすぎなかった。
ジャスティンなど、虎の威を貸し与えた "集客目的で踊らせていた広告塔" という扱いなのでしょう。

謳い文句にはご用心。
何度でもやり直せるのが〈U〉のアピール。
やり直せるってことは、何をしても許されるってこと?
それなら警察は要らないですよね。



少し横道に・・・。
コーシャスシフト、リスキーシフトという言葉があります。
コーシャスシフトは「青信号、右見て左見て、もう一度右見て渡れ。」です。
リスキーシフトは「赤信号、みんなで渡れば、怖くない。」です。

同じ横断歩道でも、どちらを選ぶのかは人それぞれ。
でも、ネットにおいてはリスキーシフトに寄りがちです。

匿名性と個人情報の保護の抱き合わせが、道義的、社会的責任への意識と関心を希薄にしています。
その結果、俺ルールが横行したり、他者への配慮が欠落していくのですね。

〈U〉では、自分でも気づかない欲望が抑制の壁を突き破り、あらゆるマナーやモラルから解放されるからなおさら厄介です。
その一つがリスキーシフトたるジャスティンや竜の振る舞いなんですね。



そんなネットリテラシーへの提言は、ベルが竜に送るラブソングに込められています。

 一人にして欲しいと あなたは突き放すけれど
 一人で生きていけると あなたは言い放つけれど
  (作詞:細田守・中村佳穂・岩崎太整、作曲:岩崎太整。敬称略。)

もともとは、すずから竜だったのですが・・・。
じっくり耳を傾けると、お母さんからすずへ、お父さんからすずへとも取れそうです。
"一人のあなた" は、本当は誰のことを指しているのかしら。

"一人ぼっちのあなた" は、やがてベルからすずへ、すずからすずへの問いかけになります。
心の表層から奥深い真層への語りかけです。
いつしかそれは〈U〉に接続する全ての人たちの心と魂へと伝わっていくのです。

その歌声は、混沌と漫然をみせる〈U〉に輝くともし火のようです。
その響きに涙するのは、ありのままの姿から伝わる尊さによるのでしょうか。

すずがアンベイルを受け入れたのは、恵くんへの当事者性を、本当の当事者として近づきたいがため。
そのためだけに、〈U〉に描画される覚悟を決めたからです。

この "当事者性" から "当事者" への立ち位置の移動は、命への尊厳、人格へのリスペクトなど、誰でもが共有できる、いえ、本来なら、すべおくべき価値観としての潜在的可能性を示唆しています。

この世で一番大切なもの。
ありきたりの言葉ですが、それは愛だと思います。



インターネット、特にバーチャル世界において、最も顕著に表れるのは何でしょうか?

それは間違いなく "非・当事者性" と言えます。
本作に一貫して通底しているもう一つの正体がこれです。
でも、一概に否定されるものでもないと思います。
なので、 "陰と光の両面を持ち合わせている" とも言えるでしょう。

ジャスティンや竜はもちろん、すずやヒロちゃんでさえも、スタートは "非・当事者性" です。
誰だって〈U〉では "もう一つの人生 = リアルから離れた自分 = 非・当事者性" に生きてみたいでしょう。
私だってそう思っています。

〈U〉の謳う "もう一つの人生" は、それが叶いやすい環境と条件を与えてくれます。
だから "非・当事者性" には一定の価値があると思います。

本作のポイントは、この本人由来の当事者性と、As 特性の非・当事者性とを、 "二律背反" するものとして、するどく対立させていることです。

どういうことかと言うと、すずをベルとして、またその逆として、バーチャルとリアルの二つの世界で、二つの価値観をすり合わせるのです。

自分だいじのかわいさと、他者の幸せとの関わりを拒絶したいセパレートする価値観。
強すぎる竜の境遇への興味と、心奥にうずく強い母性をカップリングしたい価値観。

当事者性としての温かい温度差と、非・当事者性としての冷たい温度差がぶつかるのです。
その気づきにすず(ベル)を誘う構造に、視聴者を同時に引き入れるのですね。

本作の評価が割れる理由はそこにあります。
細田氏がすず(ベル)に示させた行動が、おのずと視聴者にも迫ってくるのです。

「すずとベルの "当事者意識" をどう受け止めますか?」
「竜と恵くんへの "非・当事者性" はどれほどお持ちですか?」

だから、嫌悪と否定、疑念や拒絶で受け止めている方もいらっしゃるようです。
当然のことです。


〈U〉の VR のストレングスは、生身の全感性を所有するボディシェアリング技術にあります。
As は、もう一人の自分、もう一人のあなた。
そう謳っているのですから。

As で体感し、体験し、体得したものは、生身の自分に、細胞レベルでケミストリーを引き起こします。
それを成長の糧にしたとき、元の自分も、その世界が変わる芽も出てくるのかもしれません。

リアル世界の実相は、加速度を上げながら人間の幸福感を希薄化させています。
吸う空気にさえ、なにかの悪意が含まれているかのようです。

そんな時代に、見えにくい人間愛への回帰と献身にどう踏みこむか。
血を流す痛みを伴いながら、産みの苦しみを乗り越える力を育んでくれる場所が、仮想世界〈U〉の本当の姿と価値なのではないでしょうか。



細田氏が本作に込めようとしたメッセージは、バーチャル世界で拡張する楽しみはもちろんですが、リアルな現実に立ち向かう土台づくりも忘れちゃだめだよと強調したかったのではないかと思います。

〈U〉では、性別、年齢、人種、国籍、言語などに縛られず、個人のメンタリティー、アクションのままに、全ての願望を投影することができます。

そう思うと、現実において、叶えたい夢との結びつけを、どんな気構え、どんな手数で整えるかの落としどころが大事なのかもしれません。

〈U〉に警察がないのは、そこに国家が設定されていないからです。
誰もが自由というのは、統治・統制がないぶん、個々の自治の能力が試されます。

実は、アンベイルされたすずが、もう一度ベルに返り咲けたのが不思議でした。
推測ですが、〈U〉の趣意は、ジャスティンの手法(アンベイル = unveil )ではなく、すずがベルであってほしいと民意に示されたことで、恩赦(ベイル = bail )されたのではないかと感じます。

「あなたにあいたい。」
すずの呼びかけに共鳴する無名の人たちの小さな一念。
巨大広告塔のクジラも、ベルの覚悟こそ〈U〉の主役に相応しいと姿を現わす。
すず(ベル)の選択が、〈U〉がめざす自治のシンボルに値すると受け止められたシーンです。

〈U〉が提供する魅力は、無限とも言える自由の享受にあります。
であればこそ、そこには自治と自主が要望されますし、その根幹には自立と自律が求められ、評価されるのでしょう。



かつて細田氏は、作品サマーウォーズで、仮想空間で "切った貼ったの勝負ごと" を、現実世界では "ちょっぴり甘ったるい恋の入り口" を描いています。
本作では、そのような知略や力技でもなく、何となく甘々ななろう系でもない、「人生はいつだって(それはどこにいたって)真摯な愛で向き合えばリスタートがきれる」を描いています。

そんな可能性がこれからのインターネット世界に芽ぶきを見せてもいいのではないか。
その可能性が周り回ってリアル世界に良い影響を創るのなら、なおさらいいのではないか。

人の心の土台には、人が実存することの称賛が謳われて当たり前のものでありたい。
それは、モニターを飾る金メダリストたる歓喜だったり、モニターには映らない気概へのリスペクトの相見互いだったりであってほしい。

あなたは日陰の存在なんかじゃない。
孤立無援に生きていくなんて、あっていいわけない。

そんなメッセージを高らかに謳ったものではないかなと思っています。
というわけで、個人的には、ジュブナイル作品の最高傑作の一つと選出させていただいています。



結びとなりますが、あらためて素塔さんには深く感謝しております。
私ひとりでは、このようなレヴューは到底書けませんでした。

本当にありがとうございました。
{/netabare}

投稿 : 2023/08/14
閲覧 : 548
サンキュー:

26

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