「かぐや姫の物語(アニメ映画)」

総合得点
65.0
感想・評価
289
棚に入れた
1186
ランキング
3450
★★★★☆ 3.8 (289)
物語
3.6
作画
4.2
声優
3.7
音楽
3.8
キャラ
3.6

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

1000年前も、今も、たぶんこれからも。

Wikipediaより。
日本最古の物語といわれる。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。現代では『かぐや姫』というタイトルで、絵本・アニメ・映画など様々な形において受容されている。
「人間の姿そのものという新たな世界」を創り出そうとしたところに、物語文学の誕生がある。(引用はここまで)

高畑監督の描いたかぐや姫の物語。映画館で観たのですがとてもすばらしいと思いました。テレビでも観ましたが、スクリーンで観た記憶と感動がありやかによみがえってきました。
それにしても、この作品の描写はこの上なく独創的です。柔らかくありて激しく、ふくよかながら、かつ鋭い。
他では見られない新しいタッチですね。本当に魅力的です。

そして、姫の言葉と、表情と、生きる姿をとおして、” 地球に生きる意味、肉体を持ってこの世に生きる尊さ ” が、深くたおやかに表現されていると思います。

この物語、一般的には「羽衣伝説」の流れをくむ作品です。摩訶不思議な天女が突然現れて、人間と交流して、いつのまにか天に帰っていくという物語です。
でも、「輪廻転生」という角度から鑑賞すると、また違った見方ができると思います。私は、その視点でレビューしてみたいと思います。

{netabare}
「かぐや姫の物語」は、おおもとに輪廻転生という骨格(モチーフ)があって、そこに竹取物語という古典を肉付け(シナリオ)し、罪と罰という服を着せ(テーマ)、姫の視点と心情と行動を中心において、視聴者に観せていく(アプローチ)という切り口でスクリーンに投影した・・そんなふうに私はとらえました。

また、物語では、「月と地球、天上人と地上人、自然と都会、上流階級と庶民、姫と翁・媼、女と男、生まれると還る」など、いくつもの場面で、二つのものを対比させています。
そうすることによって、これを観る人の解釈と理解を助け、鑑賞を深められるようにしていると思います。

というわけで、私は、「輪廻転生を縦軸に、対比を横軸に」という見立てをたてながら考察してみようと思います。
{/netabare}

輪廻転生は仏教用語ですから、なんとなく「人は、未来永劫、生まれかわり死にかわりするんだな。」といった程度の理解から始めました。
対比については、立場、意見、思想、世界観などの違いを浮き立たせて、観る人にいろんな角度からアプローチしやすくするための設定ととらえました。

まず、縦軸としての輪廻転生について考えてみたいと思います。

気になるのは、「わらべ歌」の存在です。

{netabare}
鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる
せんぐり いのちが よみがえる

・・・せんぐり:京都 但馬地方、奈良、徳島などにみられる方言。何度も、繰り返し、次々に、という意味です。

このわらべ歌に織り込まれた言霊を読み解き、頭の中でリフレインさせながら姫に寄り添っていけば、もしかしたら、この物語の主題でもある「姫の罪と罰」を理解するきっかけをつかめるのではないかと考えました。

まず、姫には、前世の記憶は残っていないはずです。
常識的には、前世の記憶は今世にはもちこせないからです。
でも、とても不思議なんですが、設定では、姫はわらべ歌を口ずさむんです。前世の記憶は持ち越せないはずなのに、です。
姫が、単に特殊な能力を持つシャーマン(霊能者)なのかもと解釈するのはよくある、あるある話ですが・・。
{/netabare}

実は、私はこの「わらべ歌」には、二つの意味がある強く感じるのです。(ここから先は全くの自説です)

{netabare}
ひとつ目の意味は、わらべ歌には、姫自身の地球での前世の記憶と、月での前世の記憶が、それぞれぎゅっと凝縮して込められていると思うのです。

かぐや姫は、月世界でこの歌を歌っていた女性の姿を見かけていましたが、思うに、その女性はかぐや姫自身の前世霊ではないかと思うのです。

「輪廻転生」がモチーフであれば、地球にも月にも、それぞれの世界に「前世」「前々世」「前々前世」があって不思議ではありません。

地球では、数百年のスパンで輪廻転生があるので、時間軸からみれば、同じ肉体、同じ人格は同時代には存在しえません。

ですが、月の世界は肉体の世界ではなく霊体の世界(霊界)ですから、肉体が滅ぶという時間の絶対的な制約をうけることはありません。
であれば、霊体という存在であるなら、「 前世の霊体、前々生の霊体、前々前世の霊体が、同時に同じ場所に存在することは可能 」です。
(困ったことに、この地上にも、そういう霊がときどき見受けられるという話がありますね。やはり、時間の縛りがないから、ずっーと残ってしまうのですね。)

ただし、かぐや姫の霊体のもつ人格と、前世霊の霊体のもつ人格(知識や概念など)は全く別のものです。
なぜなら、肉体をもって地上にうまれ、そこに霊体が宿るわけですが、前世霊が得た肉体が生きて存在していたのが、平安時代なのか、江戸時代なのか、現代なのかは、みんな違うわけですし、当然、見たもの、聞いたもの、経験したものや体得したものも違いがあります。ですから人格も当然違いがあります。

では、なぜ、その女性こそが、かぐや姫の前世 ( あるいは前々世 ) の人であったのか。
それは、その女性が、「かつて地球で肉体をもって生きていた記憶」があったからだし、また、自らの声帯を使って歌ったという「習得していた技術」があったからだし、「深い情念・愛念を忘れることなく持ち続けていた」からです。

肉体は滅んでも、培ってきたノウハウは霊的なエナジーとして、その女性に残っていた。

だからこそ、かぐや姫が、再び肉体を得たとき、前世霊のすべてのノウハウが、姫の脳と声帯と記憶の中にすでに宿っていた・・。
だから、無意識のうちに、同じ歌を歌うことができた・・。

そのように想像することが、私には納得のできるストーリーに思えます。

姫のまわりの子どもたち、そして媼、彼らもまた、同じわらべ歌を知っていました。
それは、幾百年前、姫の前世を生きた、肉体を持った「あの月の女性」が歌い残したもの。

その歌が、いつしか「わらべ歌」として、長きにわたり人々の間に歌い継がれ、やがて子どもたちも口ずさむようになった、と考えれば、私はいろいろなことが合点がいくのです。

そのわらべ歌は、本当は、かぐや姫の前世(あるいは前々世、前々前世)だっただろうその女性が、母だったときの我が子に、あるいは妻だったときの夫に、あるいは乙女だったときの恋人に、地球に生まれ、「命の煌めきを、愛おしさを、尊さを、そしてあなたに出会えた喜びを」やさしい調べにのせて、歌い残し、歌い伝えるもの(まるで恋文のよう・・)だったのではないか・・。

そして、子どもが、夫が、恋人が、耳に留めおいていた歌を、月に帰っていった母(妻・乙女)を慕って、恋しく思って、口ずさんでいたのではないでしょうか。

それは、長く長く、数百年にわたって歌い継がれてきた・・・。
(でも、伝承されたのは一番の歌詞のみでありました。二番はわらべ歌としては意味解釈の難しいものであったのかもしれません。)

このように考えれば、わらべ歌に秘められ、隠されていた背景やエピソードがいきいきと思い浮かびあがってくるように思えるのです。

そして、月世界の屋敷から、地球を見ては涙を流し、切なく悲しい表情をしていた女性の姿を、かぐや姫が見かけたという「縁」の不思議さも、「どうしてなの?」と気持ちが向いたという縁も、なによりも歌詞を覚えていたという縁も、すべてがつながるし、すべてが輪廻の中にあったからだと思えば、私は合点がいくのです。

彼女自身も不思議な表情をしていましたが、ふとした感覚で呼び覚まされたように口をついて出てくる。それこそが姫の魂に、深く深く刻み込まれた記憶のエッセンス。理屈ではない感性の世界・・。
私は、このふとした感覚こそが輪廻転生の証(あかし)のように感じるのです。

もしかしたら、この作品を観る人たちにも、月に前世霊の方がいらっしゃるのかもしれませんね。
{/netabare}

姫自身は、なぜわらべ歌を口ずさめたのかは分からなかったようでした。
かぐや姫がその歌に前世が投影されていることにはっきりと気づくことができたのは、月に帰ることが分かってからのことでした。

{netabare}
・・かぐや姫は思わず念じてしまったのです。「ここにはいたくない」と。それが終わりの始まりでした。

鳥 虫 けもの 草 木 花。 まつとしきかば 今かへりこむ。

なんと美しい言葉なのでしょう。

愛しいあなたは、懐かしい故郷で、私を待ってくれているのでしょうか。もしそうであるならば、今すぐにでも、私はあなたのもとへ帰ることでしょうに・・・。

四季とともに、土にまみれ、水を浴び、風と光と大地のあいだで汗を流して生き抜く。
そんな、ささやかな、当たり前と思える世界であっても、それは月にはない世界。
だからこそ、今世かぎりの命に、まっすぐな気持ちを向けて、授かった命を活かしきる意味を見出すこと。
そして生きるさまを、豊かに馥郁(ふくいく)と楽しむこと。喜びを見いだすこと。それらに真摯に向き合い、作り上げていくこと。
限りある命なればこそ、全身全霊を掲げて。
心臓を働かすこと、呼吸すること、思考すること、喜怒哀楽を感じること、愛を感じること、愛を与えること、愛を分かち合うこと。
その働きこそが、全力をかけてあまりある価値だということなのでしょう。

それが、かぐや姫の(そして私たち自身の)ほんとうの天命なのだろうと思えるのです。
{/netabare}

ふたつ目の意味は、

{netabare}
わらべ歌は、神様・仏様が、姫に「生きる標(しるべ)」として授けてくださったものではないかしらと思いました。
神様・仏様の慈悲と慈愛が込められた貴重なプレゼントであり、その心根(こころね)には、姫の魂の成長を願う親心の発露のようにも感じます。

そう、人に願いがあるように、神仏にも願いがあるように思えるのです。(子どもに願いがあるように、親にも願いがあるのと同じですね。)

神様・仏様が、あえて、姫の前世の記憶を「わらべ歌」というかたちで姫に託したその想いと願い。

「転生することの本当の意義と意味」を、姫に気づいてほしい、悟ってほしい。そのために、もう一度、学んだり、体得したり、応用したりする能力を身につけてほしい。姫が前世で犯した失敗や、やり残したこと、そういったことにもう一度チャレンジしてほしい。乗り超えてほしい。魂を成長させてほしい。・・これが神様・仏様の願いのように感じるのです。

これを「天命」(天から授かった命に、授けられているテーマ)といえるのであれば、寿命はどうでしょうか。寿命はいつこと切れるかわかりません。ですから、運命として「授けられたテーマを自らの力で、寿命が尽きるまで運び続けること」がサブテーマになるでしょうし、さらに言えば、造命として「自らの力でテーマを発掘し形あるものに作り上げること」もサブテーマになると思うのです。

つまり、最も大事なことは、姫自身がつかみとらなければならないということです。
そうでなければ、神様・仏様が、姫の転生の願いを受け入れ、地球に戻した意味がありません。
(神様・仏様は、見守ることしかできません。可愛い子には旅をさせよ、ということですね。)

さて、魂の成長とは、すなわち、人としての「魂の生成化育、進歩向上発展のすべてのプロセス」を指すのではないかなって思うのです。
この世に生きているうちにしかできないことを、自分なりに目標を見つけて、志を立てて、行動して、自分自身と社会に益する足跡を残すこと。

それが、輪廻転生することの本質。本当の意味なんじゃないかなって感じています。
{/netabare}

随分と横道に逸れちゃったみたいです。ん~、失敗失敗。元に戻しますね。

わらべ歌には、このように二つの意味合いが込められていると思うのです。

{netabare}
ひとつは、姫自身の前世の宝であり証として。
もう一つは、神様・仏様の大きな慈愛として。

これは、再び、地球で人生を歩むことを願った、姫の魂の成長の物語。

さて、縦軸は、輪廻転生であり、魂の成長こそ人間の本義であると考察しました。
{/netabare}

つぎに横軸です。

{netabare}
横軸は「対比」の表現でしたが、結局、彼女が生きた世界のすべて(見たもの、聞いたもの、触れたもの、感じたもの)であると私は感じました。

例えば、一つ挙げてみれば、「天上人と地上人」。
天上人から地上人を見れば、地上の人々は、人欲と偽善、見栄と虚妄、貧困と不正、騒乱と紛争、男尊女卑・・等々。おぞましく穢れた世界に住む者たちに見えたかもしれません。地上は、さまざまな「差と段」のある世界、「サタン」のような世界・・。

思想、身分、貴賎、立場、まさにめくるめくダイバシティ、玉石混交の世界です。
1000年前も、現代も・・さほど違いは・・ないみたいですね。

地上人として生きることは、かぐや姫の魂が、より広く、より深く、より高く、より豊かに、より多面的に成長していくための”ガチ錬磨の場”。
多くの人たちとの良縁・奇縁が用意されていたのも、そのためでした。

地上世界に転生したかぐや姫が、様々なストーリーの主人公として、自分の魂の成長の意義や本質に、どう真摯に向き合うのか、そして生き切るのか。そのありさまを私たち観客に見せるために、そうした場面が設定されているのが、この物語の横軸になっているように思います。
{/netabare}

さて、高畑監督が謎かけのように設定した「かぐや姫の罪と罰」について、私なりの考察をしてみます。
ホントは、コメントするのも恥ずかしいのですが・・。(自説です)

{netabare}
かぐや姫は、死後は、肉体を脱ぎ、魂となって月の天上人となります。
天上世界なのですから、高貴で安寧、円満でとても穏やかなところのようです。

月から見仰ぐ地球は、あくまでも、眺めるもの、愛でるものであって、間違っても、憧れたり、行ってみたいと思うような場所や対象ではないのでしょう。
天上人にとっては、地球への転生を思うこと自体がありえないこと。
そもそも罪深いことであり、かえって罰当たりなことなのかもしれません。
 
もっとくだけていえば、天上世界はバカンスで、地上世界は修羅場、かな?
{/netabare}

閑話休題。
{netabare}
転生するとき、私たちは、親を選ぶことはできるのでしょうか?
「え?私、あの親の子どもで生まれるの?ホントにホント?ちょっと考えちゃうわ!え〜っ?やっぱり嫌~っ!!!」
「あなたの魂の錬磨のためには、来世はあの家の子どもとして生まれなさいね」と神様はおっしゃる。輪廻転生するたびに、魂の向上に一番適した環境下に生まれるというのが筋のようです。(いろんな時代、いろんな国、いろんな家がありますね。だから、魂が多面的に磨かれるのですね。)
でもまぁ、転生する際には、そうしたやりとりや記憶はリセットされますから、本人は知らないんですけどね。

私たちは、そうした神様との約束で、十分納得して(腹を決めて)転生を果たすわけですから、たとえ、国や時代や性別や、経済や健康、仕事や人間関係などで問題があったとしても、そんななかで自分に与えられた役割を見つけ、自分なりに努力して、ちょっとずつでも高めながら、与えられた天命を全うするために、自分自身を活かしきるだけなのです。

こんなふうに縦軸と横軸を見てみると、生きることが愛おしく思えてきちゃいますね。

変えられない運命はあるんだけれど、変えようのある運命もあるのであれば、努力のし甲斐もありそうです・・それに、輪廻転生しながら、数百年、数千年、数万年?をかけて、自分の人格を練り上げていけばいいのかと思うと、今世がつらくても少しばかり勇気も持って立ち向かえそうです。
人生、長い目で見よっと。
{/netabare}

さて、話を戻します。
竹から生まれたのは最高のファンタジーですね。とっても素敵。
で、もう一つの意味を考えてみました。

{netabare}
竹は「松竹梅」の竹です。樹木に例えて人の精神性や人生を表象していますが、竹の場合はスクスクとまっすぐに成長する子どもや青年の精神性を表しています。ところどころに節があるのは、誕生日だったり、入学式や入社式、結婚式でもあります。また、大人社会に向かって成長していくうえで、乗り越えるべき矛盾や葛藤の意味を表しています。

もう一つは、成長がとっても早いということ。つまり、幼少期、少年期、思春期など、自己形成にとって必要なプロセスがとんでもない速さで通り過ぎていくということです。
女性として月のものを迎えるまでの大切なプロセスを十分には手にすることのできなかった姫・・。
 
”竹” は、姫の生誕と成長に伴う暗喩です。

さて、スクリーンで表現されるかぐや姫の印象は、朴訥(ぼくとつ)、無邪気、天真爛漫、生粋、無知、葛藤、孤独、悲哀・・。

両親の不在、翁と媼の愛(溺愛?)、兄ちゃんへの信頼。

都での不自由ない生活、魅力的な美貌、高貴な方々からの求愛。戸惑い、焦燥し、我を見失う姫。

この姫、純朴無垢なるがゆえに、都の暮らしの中で、数々の軋轢を生んでしまいます。もちろん、姫はそれを望んではいません。

これを「あるあるの女性のストーリー」と傍観者になれない私たち。
なぜなら、私たち自身、今この瞬間にも、姫と同じ人生を歩んでいるからです。
1000年の時を超えて、かぐや姫と私たちの立ち位置は同じ。
{/netabare}

姫は、結果的に、人を巻き込み、巻き込まれていきます。

{netabare}
そのプロセスにおいて、姫は、「知って犯せる罪(姫が意識できる罪であり、悪いなぁ、いけないなぁと思いながらついついやってしまう罪。)」を重ねていきます。
また、「知らずに犯せる罪(無意識に、自覚のない罪であり、また、良かれと思ってやってしまう罪。)」も作ってしまいます。

やがてそれは、垢のように、澱(よど)のように少しずつ溜まっていってしまいます。「チリも積もれば山となる」ように。

姫は、いつしか、貴人・武人の心を読み、図り、試します。結果的に、彼らを弄ぶことになりました。いつしか、忌み嫌うようにもなってしまいます。ついには、彼らを追いやらい、遠ざけてしまいます。

でも、姫は、高慢ちきで鼻持ちならない性格ではないのですよね。
むしろ、素直で実直、優しくて、一生懸命な人でした。
その良心ゆえに(と同時に、浅はかで深慮に欠けている印象も。)、苦悩し、呻吟し、自己嫌悪にも喘ぎました。

姫のこの喘ぎ、苦しみ、葛藤もまた、罪の贖いというわけなのでしょうか。

本当に、アンバランス極まりない、ハラハラするほどに危うい姫が、これでもか、これでもかと表現されます。

古典に「霜を履(ふ)みて堅氷(けんぴょう)に至る」という一文があります。 小さな災いであっても「霜」のように積み重なると、やがて硬い氷のようになり、それが大きな劫となってわが身に返ってくるという意味です。

気がつかない、目に見えないような小さな過ち、その繰り返しが、積み重なっていくとついには看過できないほどの罪となる。それはやがて、大きな災禍や苦や厄難となって自分自身に降りかかり、見舞われることになるという解釈もできなくはありません。

「堅氷」というのは、自分の意識や力技では破れないほどに育ってしまう自我慢心の固まり、というのが、その意味です。我見、我欲、我執が過ぎれば、そのような性格で固まってしまうということですね。

姫が苦しむ原因は、姫自身の未熟な心のあり様から発現したパフォーマンスの結果なのです。すべては因果応報、自業自得。
そうして姫の人となりは、知らず識らずのうちに(心ならずも)、奢り、驕り、傲りへと変容していくのです。

それらは自我慢心から生み出されるものですから、なかなか姫は気づけない。いや、もしかしたら気づきたくない。できれば忘れたい。

そういう意識的、無意識的に複層化された姫の行動が生み出した因果律は、目には見えないけれども、巡り巡って、やがて、積み重なります。これが「罪」だと思います。
(業《ごう》とも言います)

しかし、姫の蒔いた種(罪)は、姫自身で刈り取らねばなりません。贖(あがな)わねばなりません。これが「罰」だと私は思います。

その代償は、姫の意図せぬ展開で、変えられぬシナリオで、無慈悲なストーリーとなって、選択を余儀無くされます。
誰にも抗(あらが)うことはできません。翁と媼の愛も、やんごとなき方の命令も、なみいる武人の矢も意味を為さないのです。

姫は、わが身から出た錆とも言える「罪」を、自分への「罰」として受け止め、贖罪せねばなりません。
{/netabare}

姫は、いったいどんな願立てをしたのでしょうか。

{netabare}
天上世界の神様・仏様、諸善霊らとの暮らしを横に置いてまで、地球に思いを致し、恋い焦がれた願いとは何だったのでしょうか。

遠い遠い記憶に刻まれた地球での暮らし。懐かしくある古里と人々。花鳥草木、獣たち。太陽の輝きと水の煌めき。そしてあのわらべ歌も・・。
もう一度、地球に行きたい。理由はわからないけれど、あの懐かしいもう一つの故郷に還りたい。その切なる思いをもって、姫は月の神様に希い出たのでしょうか。

私たちは知っています。この世に生を得た以上、どんな人間でも苦楽はあることを。 
自分の思いどおりにいかなくて、悔しくて地団駄を踏んだり、涙暮れて一人眠れぬ夜を過ごしたり・・。
喜びも悲しみも全部ひっくるめて、抱きしめて、歩んでいく大事な人生であることを。
愛しい方と出会って、どきどきしながら愛の言葉を紡ぎ、大好きな人を幸せにしたいと願うこと、ともに歩んでいくこと・・。とても素敵なことですね。

でも姫は、・・その道を歩めなかった。

ついに、姫は、自ら立てた願いを放棄してしまいました。
神様・仏様の願いにも背いてしまった姫。

その「罪」こそが、月への帰還という「罰」になってしまったのではないでしょうか。
(月の神様からしてみれば、実家へ帰っていらっしゃい、といった感じかもしれませんが。)

神様・仏様が、様々な人たちとの出会いとふれあいの縁を結んでくださったのに。そのご縁を活かしきれなかった姫。
出立のとき、彼女は再び、地球の記憶をなくしてしまいます。

前述しましたが、この世のルールに反し、人や社会に害悪をなす罪を「国津罪」(くにつつみ)といいます。
持って生まれた自分の能力を磨かず、活かさず、怠りの生き方を選んで歩むならば、その罪は、「天津罪」(あまつつみ)といいます。

姫は、そのどちらも犯してしまいました。

「命」は「意」「納」「血・智」と解義できます。
「命」は、自分の前世、前々世、前々前世・・から伝わるものと、母や父、祖母や祖父といった先祖の血脈から伝わるものが納められています。それは、血に溶け込み、DNAに記憶されています。
それを、今世、使うのは、私たちの「意」。

神道の考え方の一つであり、私たち日本人の無意識に選ぶ行動規範でもあります。
{/netabare}

私は、1000年以上前のどこかの誰かさんが、このテーマを取り上げ、物語にした感性や創作力に、本当に驚かされます。そして感謝しています。

1000年後の今でも、とぎれることなく語り継がれ、受け入れられ、共感されていることを考えると、この作品に込められたテーマ、「人はどう生きるべきか」という普遍的な価値観が、如何に揺るぎないものであるのかということに、あらためて気づかされます。

高畑監督が、アニメーション作品にして、もう一度、この世に表現してくださったこと、スクリーンで観られたことに、深く感謝しています。

おまけです。

{netabare}
最後にかぐや姫が、振り返って地球を見ていましたね。このシーンがまた、意味深で、涙ぐんで言葉になりませんでした・・。

かぐや姫もまた、地球を見仰ぎ、愛しく思いながら、ふたたび歌を歌うのでしょうか。

鳥 虫 けもの 草 木 花。 まつとしきかば 今かへりこむ。

それは、姫が、もう一度、地球に戻るという決意だったのか・・。

月に帰ること自体が「罰」であるのなら、かぐや姫はそれを贖わなければならないでしょう。そして、やがてそれが許されるときがきたら、神様が、きっと再び生まれ変わる日を作ってくださるし、私も再び、地球に生まれ変わることを申し出ようという”暗喩”だったのかもしれません・・。

もう一度、もう一度、姫が、生きる本当の意味を体得できるように・・。私たちに期待を持たせてくれたのでしょうか?

高畑監督に伺ってみたいものです。
{/netabare}

長文を最後までお読みいただきありがとうございました。 

この作品が、みんなに愛されますように。 

投稿 : 2017/12/06
閲覧 : 341
サンキュー:

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