「ダーリン・イン・ザ・フランキス(TVアニメ動画)」

総合得点
84.8
感想・評価
1070
棚に入れた
4665
ランキング
264
★★★★☆ 3.7 (1070)
物語
3.5
作画
3.9
声優
3.8
音楽
3.7
キャラ
3.7

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ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5
物語 : 4.0 作画 : 3.0 声優 : 4.5 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

子供たちへ

【誤記修正】


頭に角をはやした裸で登場した少女が「ダーリン」と呼びかけながら、抱き付いてくる。

学校の寄宿舎を思わせる「隔離された」施設に管理される「子供」たちが、ロボットに乗り、得体のしれない敵と戦う。

世界の存亡と直結しているらしい「戦い」と、「子供」らしい日常が無造作に等置される。


アニメ視聴者の視聴記憶をダイレクトに刺激するこうした描写とともに、本作は幕を開ける。

どこかで見たような描写の連続による幕開けは、本作が典型的な「深夜アニメ」であることを誇示しているようにも見えながら、しかし、それだけではない違和感も同時に感じさせる周到な描写も含んでいた。


明らかに性行為を連想させるロボットの操縦システムは、深夜アニメ的なオトコノコの欲望を反映させているようにも見えながら、しかし、搭乗者の「子供」たちは、羞恥を感じていないどころか、それが何を模しているのか気づいていないようだ。
それどころか、キスすらも何であるのかわかっていない。

にもかかわらず、男女の性差は理解されているようだし、異性の「裸」に対する羞恥はある。

こうしたバランスの違和が絶妙に小出しされ、どうやらこの「世界」では、「性」にかかわる領域が欠落して「歪み」を抱えているのだと暗示される。

性的なサービス描写に見せかけながらSF的な設定を暗示しているのかと感じつつ視聴し始めた視聴者は、しかし、もう一つの違和も同時に感じるだろう。

主人公の付けた、管理ナンバーの語呂合わせによる「名前」で呼び合う「子供」たちだが、その流儀に従うならばヒロインは、ゼロツー〈02〉=〈02〉オ・ニ=鬼であると即座にわかる。

主人公とヒロインの出会いは、深夜アニメ的なオトコノコの願望充足的なものではなく、民話的な「人外」による「魅了」を現しているのではないか。

性の欠落した「世界」は、民話的な「別世界」としての「不思議な場所」の寓意であり、「妖魅にとりこまれる若者」の民話的な物語が本作の主題ではないのか。

こうした疑いを引きずり、〈SF-アニメ〉的な世界観と民話的世界観の間で綱引きされるように、本作の物語は展開していくことになる。



{netabare}互いに絡まりながら物語を牽引したアニメ/民話の各要素だが、最終的に民話=童話=おとぎ話の地点へと着地する。

〈SF-アニメ〉的世界観がいきなりおとぎ話へ転換したかのように見えがちだが、むしろ民話的な世界に着地するために〈SF-アニメ〉要素は用意されたように思えた。
というのも、用意されたアニメ的要素が、あまりにも他作品を連想させるものだったからだ。


絶対的な敵と戦闘するため、選抜された「子供」が「決戦兵器」への搭乗と戦闘を強制される。

「子供」と子供が守る「社会」には接点がなく、戦闘行為が「子供」の価値として自尊心を左右しているが、少数の「大人」経由でしか価値を知らされない。

「子供」からは「世界」はブラックボックスで、その接点である大人は「よくわからない」陰謀組織員のように見えている。

たった一人の学者の妄執に支えられた研究が、ロボットを含めた戦闘の様式自体を規定している。

「子供」の無力感と孤立感を煽るかのように、戦闘施設や都市は圧倒的に巨大で複雑な建造物として描写され、人影がない。

「世界」は、権限も権力基盤も不明な、容貌もわからない数人の人間が、独裁的に動かしている。

「世界」は、誰も同意していない、個々人の人格を消滅して一つに溶け合わせる「陰謀」に晒されている。
……などなど。

これらの本作の設定と描写は、明らかに『新世紀エヴァンゲリオン』を連想させる。

アニメを視聴するのに他作品を引き合いにするのは、あるいは正しくないのかもしれないが、これほどまでにあからさまな、引用と言ってもいいような設定は、むしろ『エヴァ』を想起して連想してもらうために用意された、といった方がいいように思える。
アニメ制作者であれば知らないはずがない先行作を、類似を隠そうとするのではなく、むしろ強調するような描写は、不自然に過ぎるだろう。
どうしても、『エヴァ』に引きずられた感想が生じることを避けられない。

「人類補完計画」に道具として巻き込まれた「チルドレン」たちは、どこにも足場のない混沌の中で存在を蝕まれ、作中で必死の叫びを上げ続けていたが、結局のところ悲鳴に対して「救い」を回答することなく、最後には作者が物語を投げ捨てた。

意地の悪いものであれば「盗作」と言い出しかねない類似は、補完計画の先に、「チルドレン」=「子供」たちへ「救い」を返答するために創り出されたと、どうしても感じられる。


「人類補完計画」の「おぞましい」印象は、胎内回帰した母子未分化状態の「安らぎ」という見せかけと裏腹に、ジュリア・クリステヴァが喝破した、テリブルマザーが子を貪りつくす「おぞましい」ものとしての〈母-子〉相関を表現しているからだ。

フロイト的なキリスト教原理=〈父-子〉相関を体現する「厳格な父」であるかのようなゲンドウが、実は唯一の女性と対等に向き合うことなく母子融合的に縋り付く、自分の子供とすら会話不能なコミュニケーション障害のオタクにすぎなかったように、『エヴァ』世界はクリステヴァ的〈母-子〉相関に呪われている。

高圧的に「融合」を押し付ける本作の精神生命体は、押し付ける「厳格な父」と子を食らう「テリブルマザー」の合体として、『エヴァ』世界を再現するものだと言えるだろう。

「おぞましい」母から逃れ出る「救い」として製作者が「子供」たちに送ったものは、性行為=セックスだ。

〈母-子〉関係から逃れ出るなら、「子」が「大人」になること=「親」になり得る能力=セックスは、当たり前と言えば当たり前かもしれない。

『エヴァンゲリオン』においては、セックスは幾重にも禁止されるものとしてしか「チルドレン」の前には存在していなかった。
ついに「補完計画」からの「救い」が存在しなかったのも、子供を不能化するような製作者からの執拗な禁止に根拠がある。

が、本作の「子供」は、セックスができる。
いや、彼らのみが可能な特権的な行為として、セックスは設定されている。

単に子供を作るというだけではない。
他ならぬ「このひと」と行う、互いの人格が不可欠なものとして行われる自他融合的な行為として、暴力的に人格を混沌へと一体化させる精神生命体の精神の融解に対抗する特権的な行為として、セックスは描かれている。

単に「生殖行為」としてだけでなくセックスを把握していることを、同性愛を抜け目なく描写することで、製作者は示している。

クライマックスが、疑似的なセックスである最終兵器の起動と戦闘であることは、必然だろう。

「世界」を救った主人公の少年は「神話になっ」たと言えるかもしれない。


そうして「世界」は復興を目指す。

過剰な安楽を求めて逆説的に人間性を破壊した「旧世界」を繰り返さぬよう、地に足の着いた建設を、「子供」たちは目指す。

だが「大地を耕す」農耕が、すでにして人間の生存を容易にするための環境の技術化だ。
やがてさまざまな技術の発展を呼び起こすことは原理的に避けられないし、ラストシーンでもそれは描かれている。

技術が、生存を容易にする=生存を安楽にするものである以上、いずれ「旧世界」のような倒錯に直面することは、原理的な必然として阻止することはできない。

原理を捨て去ることができないならば、倒錯を回避するには、その時その時に、繰り返し「倒錯」を回避する「気持ち」を、皆で持ち続けるしかないのだろう。

最後に、物語が「民話」世界観として着地するのは、そのためだ。

「神話になっ」た少年とヒロインは、「子供」たちの、さらにその子供にまで語り継がれるだろうと描写されている。
語り継がれる「神話」は、やがて世界を救った比翼の鳥の「民話」として残るに違いない。

「泣いた赤鬼」に涙したこどもは、見かけの異なる人間を嘲笑う「気持ち」を持ちにくくなるだろう。
「かわいそうなゾウ」に号泣した人は、戦争への決断の前に、一つ心理的なハードルが増えるだろう。
「裸の王様」を読んだこどもは、知ったかぶりをしようとする者を見抜く心構えを、いつか決定的な瞬間に思い出すかもしれない。

そして、「比翼の鳥」のお話は、安易な「安楽」の倒錯に至る決断を、寸前で止める「気持ち」を作中世界へと広めるのだろう。

おとぎ話として物語が幕を閉じるのは、唐突な世界観の変化ではない。


だが、こうした物語があまり明瞭に視聴者に伝わらないのは、製作者が救いの物語を差し出す「子供」たちが、視聴者とは重ねあわされていないためのようだ。

現代のアニメ視聴者は、「笑える」「泣ける」というタグを手掛かりに、アニメで「笑い」「泣く」ことを目的に視聴する。
「笑う」ために「笑える」アニメを捜し、「泣く」ために「泣ける」アニメを視聴する視聴者は、中盤に登場した、機械的に快楽中枢を刺激する娯楽に耽溺する「都市」の「市民」と余りに似すぎている。

涙を出すサプリメントを服用するように、「泣く」ために「泣ける」アニメを求める視聴者と、快を求めて直接に快楽中枢を刺激する「市民」は質的な違いがない。
快楽中枢の刺激によって得られる快に口元を歪める「市民」の見苦しい自堕落な笑いの描写は、「笑える」アニメを観て「笑う」快を得ている視聴者の笑い顔の似姿なのだろう。

であれば、製作者がおとぎ話を届けようとした「子供」たちは、視聴者ではなく、視聴者の次の世代、「次の」視聴者ということになるだろうか。

「笑える」「感動する」というタグを手掛かりに与えられる「安楽」を要求するのではなく、おとぎ話を丸ごと引き受けて、何かを感じ取る視聴者ということに。{/netabare}

投稿 : 2018/07/16
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サンキュー:

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