2016年度の不幸おすすめアニメランキング 2

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68.0 1 2016年度の不幸アニメランキング1位
あんハピ♪(TVアニメ動画)

2016年春アニメ
★★★★☆ 3.6 (516)
2381人が棚に入れました
不幸を背負った生徒ばかりが集められた高校のクラス・天之御船学園1年7組を舞台に展開されるアンハッピーなスクールコメディ。悲恋のヒバリ、不運のはなこ、不健康のぼたんら不憫な生徒たちが、幸福になるため特殊な高校生活に奮闘する姿を描く。

声優・キャラクター
花守ゆみり、白石晴香、安野希世乃、山村響、吉岡茉祐、原由実、森永千才

TAKARU1996 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

日常系アニメから観る幸福心理学~「共同体感覚」形成に至るまでの物語~

2016年6月24日 記載
今回のレビューは少し専門的な話についての主張が目立つかと思います。
予めご了承ください……





突然ですが、今まで私はアニメを観て元気づけられるという考えには些か懐疑的な人間でした。
それは私自身が作品に対しての感受性が強すぎるきらいがあるというのが主な原因です。
観ている最中は現実逃避の作用も存分に含んでいるせいか、確かに楽しい面持ちでいつも観る事が出来ます。
しかし、それによって元気をもらえるかと言えばそれはまた別の話
キャラクターの言動から何か大切な考えを手に入れたり、観ている最中に楽しさを頂戴したりする事はあれど、「元気」という物を貰った作品には今まであまり出会った事がなかったかもしれません。
寧ろ、あまりにも面白かったり作中の世界観が美しかったりすると、逆に現実の方が嫌になる事の方が多いんですよね。
そんな時は自らの割り切って観る事が出来ない不器用さを恨んだ物
こういった苦悩を一身に背負っていたせいか、アニメによって元気づけられたという他者からの感想は実の所、話半分で聞いてた節も今までありました。
そんな救いようのない私ですが、しかし今回、そんな救いようのない私の持つ考えを少しばかり解き解してくれたアニメが出てきたのでかなり驚いています。
この2016年春アニメにおいて1回目の精神革命
このアニメを観た後では、そう口にしていた友人の想いも分かってしまうというまさに優れ物
「元気」という精神安定剤を処方してくれたこの作品には本当に日々の生活を助けられたと、今になって感じるのは多分、気のせいではないでしょう。
という訳で、今回はそんな、ある意味で私を救ってくれたアニメ『あんハピ♪』についてレビューしていきたいと思います。
長々と駄文を書いていきますが、心優しい方はどうかお付き合いください。




【あらすじ】
負の業=不幸を背負った人間というのは一定数存在するのがこの世界
上手くいかない事ばかり、何をやってもドジばかりの恵まれない人生を送る人々というのは数限りなく存在する物
そんな人々の中でも、不幸に関しては右に出る者はいないと豪語できるような生徒達が名門校であるここ、天之御船学園1年7組に集められました。
中でも異彩を放っているのはこの5人
花小泉杏…この世の全てに運が無い、動物好きのポジティブガール
雲雀ヶ丘瑠璃…対物性愛のパラフィリア、オジギビトに恋する花の女子高生
久米川牡丹…虚弱体質ここに極まれり、ネガティブ1人救命病棟
萩生響…方向音痴で1番を狙え! 負けず嫌いで目立ちたがり屋の騒がし乙女
江古田蓮…女性なのに「女難」の相? 面倒臭がりお気楽寝坊助天然素材
彼女らは担任である小平先生の提案で、「幸福」(しあわせ)になる為の高校生活を送っていきます。
果たして5人はこの学園で幸福の路に至れるのでしょうか…?




【第1部】
ではここからレビューに入っていきたいと思いますが、今回は少し変則的なやり方で記述していきたいと思います。
というのも今回のは前回までのよりも遥かに分量が多くなりそうだと言う事を察した為で、従来の書き方では見ている人も混乱するだろうと思ったからです。
なので、このレビューは第1部にこのアニメの内容について感じた事、考えた事、想った事を記した感想、考察を書き、第2部に全体の総括も含めた私個人がこのアニメ自体に対して感じた事を書くという、2部構成にしてみました。
「よく分からない変な奴の戯言なんていらねえよ」という人は前半だけ。
「考察とか日常アニメなのに馬鹿じゃねえ?」という人は後半だけでも充分でございます。
読んで下さるだけで、私としてはお礼して一軒一軒参りたい位に大変ありがたい。
初めての試みではありますが、何卒よろしくお願いします。

さて、アニメが始まる前の私にとって『あんハピ♪』という作品自体はまんがタイムきららのCMで見かけてた程度の認識だったのですが、いざ観てみるととても面白い。
「不幸属性」なんて言葉も随分と浸透した世の中になりましたが、その要素を日常系に織り交ぜた作品というのはよくありそうで実の所、あまり見かけないように感じます(まあ、その方面には聡くないので私が知らないだけかもしれませんが……)
そして何より、この作品が凄い所は決して「不幸」をストーリーにとってつけた適当な要素にはしていない所です(詳細は後述)
原作者の琴慈先生は新進気鋭の女性漫画家さんで、高校生の時分に月刊Gファンタジーからデビューしたそうですが、この作品を書くにあたって心理学でも勉強したのでしょうか?
専門書を参考にしたのか、それともたまたまなのかは分かりませんが、観ていると随所にこれは……と感じる部分がいくつも出てきて、本当にこれが日常系アニメかと驚いたのが記憶に新しいです。
その驚いた部分も含めて、ここからは私の感銘を受けていった所、「不幸」をストーリーに上手く組み込んでいると思えた所を紹介していきましょう。


(1)花小泉杏は間違いなくアドラー心理学(個人心理学)の体現者
私が『あんハピ♪』の中で最も衝撃を受けたのは、主人公であり生粋の癒しキャラでもある花小泉杏、通称ハナコの言動、行動の全てです。
この娘の凄さというのは1話を観ただけだとふーん、そうか……位の感覚にしかならないのですが、今作の凄い所は2話、3話と話数を追っていく内にハナコは凄いと自然に思わせてくれる所
私はこのアニメを観ていく内、彼女の生きていく力という物を日に日に感じていった次第です。
(1)ではそんな愛すべき主人公の魅力について存分に語っていきましょう。

時に、人間というのは思うようにいかない事や失敗、不運が積もっていく日々を過ごす内、自然と2つのグループに分かれる物だと私は常々考えていました。
①嫌な事が積もり積もっていく内に、無気力状態、不安が続き、下手したら鬱状態になる人々=ネガティブグループ
②逆境にめげず、一念発起、心機一転、頑張ろうと前向きに捉えられる人々=ポジティブグループ
ハナコの凄い所はこの2つのグループに属さない類稀なタイプだと言う事
観ている人からすれば「ポジティブグループ」に属するのではないか?と疑問に思う所かもしれません。
上記のあらすじでもハナコの事をポジティブガールと評したので、その疑問に思う感覚は正しいでしょう。
ただ、正確に言うとこの表現は少しだけ間違っているんです。
他に表現しようがなかったので妥協して「ポジティブ」という言葉を使いましたが、私が思うに、この娘は「ポジティブ」という概念を大きく飛び越えています。
なぜなら、ハナコにはそんな大層な頑張ろうという意志なんて持ち合わせてすらいないからです。
ポジティブな人というのは不運に陥った時、それを乗り越えて頑張ろうとする前向きなタイプの人間だというのは上記で書きました。
しかし、こういったタイプの人であっても不運に遭った事自体を肯定するというのはなかなか出来る事ではなく、だからこそ不運な場面を踏み台にして次こそは……とそれを反動力にして前に進んでいくのです。
そこに「頑張り」という努力が見え隠れしているのはお察しの通り
しかし、ハナコは少し違います。
彼女にとって毎日の不運はただ日々を楽しく彩る為の調味料であって、乗り越えるための踏み台ではないんです。
たとえ嫌な事があったとしても、毎日を面白く生きる事はハナコにとって努力する事でも一念発起する事でもない、全く苦にならない試練に過ぎず、そこには日常を楽しくするための努力や訓練や修行なんて入る訳もない。
客観的に見たら不運な生活を送っていると思われる彼女でも楽しく生きるという事は、実になんでもない事なのです。

しかし、ここで1つ疑問がわきます。
何故ハナコはいつも楽しそうなのでしょうか?
彼女のように自分の不運が日々の当たり前になるという事は一般人からしてみれば大変なストレスです。
「なんで自分だけこんな目に……」
「他の人は上手くやれてるのに……」
そう考えてしまうのも人間として致し方ない事
自らの不運を嘆くか、不運の道を歩んでいない他人に対して羨望、嫉妬の視線を向けてしまうのが人間としては当然の事です。
そんな気配を微塵も感じさせないハナコの生き方はどのようにして形成されたのだろう?
そんな事を考えながら観ていった中で、私は1つの答えに辿りつきました。
ハナコは「不運」に遭った事自体を「幸福」だと感じているのではなく、「不運」を受け入れた先にある彼女の解釈が結果、彼女を「幸福」にさせているのだと。

ここで挙げられるのが章の見出しで紹介したアドラー心理学
ジークムント=フロイト、カール=グスタフ=ユングと並ぶ心理学三大巨頭の1人にして、時代の先駆者アルフレッド=アドラー
この心理学はそんな彼が20世紀初頭に提唱し、欧米各国に高く評価されました。
さて、アドラー心理学の特徴として挙げられるのが、人間は誰しも同じ世界に生きておらず、自分で「意味づけ」した世界に生きているという考えです。
同じ経験でも、それ次第で世界に対しての感じ方は変わり、それに対しての行動も変わってくるという理論
「認知論」と端的に表されるそれは、客観的事実よりもその事実に対してどのような意味を与えるかが重要であって、受け取る人によって意味は如何様にも変化するという事です。
ハナコはこの「認知論」を上手く日常生活の中で使って、不運な出来事に良い意味付けを与える事で日々を幸せに生きていると私は解釈しました。
だからこそ、犬を救う為に川へ落ちて結果、手を噛まれたとしても犬が助かった事に幸せを感じるんです。
たとえ頑張って取り組んだ宿題が出来なくてもみんなで一緒に遊べたからよかったと胸を張って豪語できるんです。
そして特に驚いたのが、6話でヒバリの家庭事情について彼女が考えていたのとはまた違った別の意味を教えてあげた事
ハナコがヒバリの考えを180度変えてしまうコペルニクス的転回を行った、いわゆる「認知論」の発展形を行ったシーン
未視聴組の方も見ているかもしれないので詳しくは書きませんが、さらっと交わされたあの会話に私は彼女の凄さが隠れていると感じました。
ここまでの考えを総括するなら花小泉杏は「不運」ではあっても「不幸」ではない。
だからこそ、このアニメの名前は『あんハピ♪』
UNHAPPYでもANNE HAPPYの語呂合わせが成り立つのでしょう。

そのような生き方をしているハナコの考えを基にこのアニメのPVを振り返ってみると……
最後で彼女が口にする「私はすっごくついてるよ!!」という言葉
とても力強い台詞なんですよね。
自らの辿ってきた道を全肯定しているハナコだからこそ言える発言
花小泉杏という1人の少女の性格を端的に象徴した、とても想いの入った口上とも言えるでしょう。
もし未視聴組の皆さんがこのレビューを見ているのなら予め忠告しておきます。
このハナコの発言をしっかりとよく覚えていてください。
私のつたない文では何とも彼女の凄さというのは分かりにくいかもしれませんが、明文化できなくとも観ていく内にきっと、分かってくるかと思います。
どんな想いで、この言葉を声に出していたのか……
どのような信念でもって、彼女が日々を生きているのか……
それを想像した結果、この花小泉杏という女の子は私にとって最も魅力的なキャラになりました。
分かっていてもなかなかできる事じゃないその生き方を私はこれからも尊敬していきたいと思います。


(2)雲雀ヶ丘瑠璃は「現実的」人物の代表
(1)で紹介したハナコと対極的な人物だと私が考えているのが、工事現場の看板、オジギビトに恋する雲雀ヶ丘瑠璃その人です。
ハナコといつも一緒にいる仲良しの女の子
よくキャラクター同士の会話中で対比されることが多いこの2人ですが、私にはそれすらももしかして作者的に意味があった事なのかもしれないと深読みしてしまいます。
(2)ではそんな苦労人の彼女である雲雀ヶ丘瑠璃、通称ヒバリについて書いていきましょう。

ハナコがあのような性格で人生を渡ってきたのだとしたら、1番不幸と言える境遇を歩んできたのはヒバリだと考えるのが妥当かもしれません。
ふと思い返して観てみると、このアニメは第1話時点でこの娘の歩んできた境遇というのを私達が自然と察せる作りになっています。
特異体質故の他の人とは違うという苦悩
自分が人間としてどこか欠陥を抱えているんじゃないかという不安
最初の頃はそれらが凝縮したような性格だったと、今にして思えば懐かしく感じてしまいます。
そう、彼女が歩んできた過去を踏まえてみると、この『あんハピ♪』という作品は決して「世界」その物が優しいという訳ではないのです。
個人的に思う、他の日常系アニメとこのアニメが根本的に違う箇所は、世界が圧倒的なまでに「現実的」な所
途中の話で起こったりする笑えないハプニングもそれを暗に示していると言えるでしょう。
物事は楽しい事ばかりじゃない。
外の世界には苦しい事や辛い事、怖い事も無数に存在している。
アニメ自体は敢えて意図的にぼかしている部分も多いので、私達が気に病んだり深く考えたりする事などはあまり多くありません。
しかしもし「圧倒的なまでの現実」という面において、私達の世界と『あんハピ♪』の世界がそんなに違わないと言えるのだとしたら……
もしかすると、そういった道のりを真っ正直に歩んできた雲雀ヶ丘瑠璃という少女は視聴者側にとっては最も近い存在と言えるのかもしれません。
しかし、前述しましたが、このアニメはそんな「圧倒的なまでの現実」を示すにふさわしいであろう、ヒバリの過去についてはあまり事細かに描いていない。
あくまでさらっと描写の中に入れるだけ。
どんな出来事が中学時代前の彼女に起こっていたのか?
どのような心無い言葉を浴びせられたのか?
どのようにして彼女は今までの日々を生きてきたのか?
それはあくまで、私達の想像でしか補えないのです。

では何故、そういった描写をあまり直接的に描かないのか?
「幸福」へ至るのが最終目的ならば、「不幸」とは一体どういう物か作中外で痛いほど学んできたヒバリの苦難をはっきり、詳細に見せる事によって、そんな彼女の「成長」という物を描く事も出来たはず。
これはもしかすると、漫画やアニメ制作側の大人の事情が絡んだ結果なのかもしれないので、私の答えが的外れな可能性も無きにしも非ず……と言うかその可能性の方が高いんですが(笑)
私は敢えて別の答えを作中で見出してみる事にしました。
それはヒバリの過去という物自体が既に終わった産物である事を琴慈先生は主張したいのではないかという事
端的に言えば、過去は過去、今は今という所です。
寧ろ、この作品は「今」の描写をしっかりと描く事によって、「過去」に対する彼女の考えを変えるのが狙いなのではないでしょうか?

ここでまた出てくるのがアドラー心理学
著者のアルフレッド=アドラーはひたすら、自身の著書の中で「意味づけ」によって未来は変える事が出来ると主張してきましたが、逆にそれによって過去すらも変える事は可能だと説いていました。
なぜなら、過去も所詮「意味づけ」によって成された記憶が形作った幻想であり、それを思いだす人の「今」が変わる事で昔に対する感情は変化していくとアドラーは考えたからです。
この考えを踏まえると、雲雀ヶ丘瑠璃という不幸な少女をずっと苦しめてきた嫌な過去に折り合いをつける、もしくは別の解釈を与える為に、現在の生活を豊かな物にする事
それによって、彼女が過去に対して抱く想いもまた違った物になるだろうという解釈に落ち着くのです。
これこそ彼女が「幸福」に生きる事が出来るようになる上で最も重要な事
そして、それを成し遂げる為の序章が形成されたのが中盤で行ったお泊り会なのだと私は思います。

その回でハナコとボタンが行った現時点のヒバリに対する肯定
それは単なる慰めによる元気だけでなく、彼女に新たな想いをもたらしたと言えるでしょう。
無理しなくても良いという感情、ここにいても良いという安心、そして現在こそが「幸福」だと言う確信
彼女はこの時、確かに自分の生活を「幸福」だと感じる事が出来たのです。
勿論、これで昔の情景に対する「意味づけ」が変わった訳ではありません。
その収束に至るまでには恐らく、かなりの長い過程が必要となるのは確実
しかし、この先もし、その結果に至る為のきっかけとなった最初の場面を挙げるとするならば、私はここだと思います。
ヒバリは学園に入り、2人の親友が出来て良かったという「幸福」を改めて実感したのかもしれません。
逆に言えば彼女達がいなければ、ヒバリは永久に過去の牢獄に捉われたまま現在を生きていた事でしょう。
これもそれまでのハナコが人知れず与えてきた影響その物がヒバリの中で実を結んだ結果なのか?
解釈次第ではそのように捉える事も出来るかも……?
ただ1つ断言できるのは、このヒバリという少女こそ、他者との関わりの中で最も著しい変化をもたらしてくれる存在と言える事でしょう。
彼女がこの作品の中で歩んでいく精神的成長がとても楽しみです。

主要キャラ5人の中で恐らく最も繊細で、だからこそ、最も苦しい思いをしてきたヒバリ
彼女が真の意味で「幸福」になったその時こそ、『あんハピ♪』という作品は終了の時を迎えるのかもしれません。


(3)鷺宮先生は公正世界信念信奉者
さて、今までアドラー心理学に言及して『あんハピ♪』のキャラを紐解いてみましたが、この作品にそれ以外の心理学的要素を見つけたのは物語も後半の9話に入ってからの事
その回では鷺宮先生という勉学クラスを受け持つ先生が出てきます。
彼女の考えこそ、ズバリ「公正世界仮説」という社会心理学の用語を踏襲した物です。
詳しくはWikipediaでも参照してほしい所ですが、簡単に書くと。
努力した者には報酬が与えられなければならない。
悪事を働いた者は罰せられなければならない。
上記が如く、報われなければいけないという考えに基づいた仮説の事です。
この世はそんな公正な結果が返ってくる「公正世界」であり、そうでなければならないと言うような考えを「公正世界信念」と言います。
よく日本でも「因果応報」「自業自得」「身から出た錆」などといった四字熟語・諺がありますが、これらは全てその信念を支持した物
昔からそのような教えを受けてきた影響か、日本人は特にこの考えを尊重する傾向があると言われています。
さて、そんな当たり前の事のような考えを上手く1つの単語で示したこの仮説ですが、この信仰と呼べるまでの思考は行き過ぎると少し危険な物を孕んでもいるのです。
それは断定的にしか物事を考えられなくなる所
例えば、勉強の成果が発揮されるテストに日頃から真面目に取り組んできた人があまり良い点を取れず報われなかったとします。
人間には緊張も含めたその日のモチベーション等の不確定的要素がいくらでもある為、テストの結果など、どのようにも結果が変わってくる物
少しでも柔軟な思考を持つ人なら、その可能性には易々と行き当たるでしょう。
しかし、公正世界信念に支配された人は「頑張りの努力が足りなかっただけ」「体調管理の努力を怠っただけ」と不確定的要素を簡単に一蹴して、その理由を1つだと断定する事しかしません。
様々な可能性が蠢き合う世界で物事を多極化して考える事が、自分では気付かなくとも、この信念を熱狂的に信仰している人には出来なくなるのです。
また、貧困や差別で何の罪もない人が苦しんでいる場合、この信念を正当化する理由として「その人達には実は苦しむだけの理由があるのだ」と考えます。
本当に何の理由もない人が独裁によって苦しんでいるのではないかという可能性を全面的に遮断するのです。
自分の信念を肯定する、その為だけに……
その他にも、犯罪を犯して捕まった人を「お前は罰せられなければならない」と徹底的に糾弾します。
勿論、犯罪を犯した場合、刑によって罰せられるのは必定であり、当然の事
しかし、そこに至った背景や動機を踏まえた上での柔軟な考えをする事が出来なくなるのがこの考えの欠点でもあるのです。
最近だとネット上で徹底的に糾弾してその人が犯した罪以上の罰を簡単に与えてしまう、行き過ぎた公正世界信念信奉者が数多くいるように思います。
頭の固い人と言うのは意外にこのような志向を持っている人が多い傾向にあるようです。
テストの場合だけならまだいいでしょう。
しかし、他の場合のように困難な問題に対して答えを1つにぶつけてしまうのは、視野を狭めてしまい、間違った物に辿りつく可能性も否めません。
「公正世界信念」によって様々な可能性を考慮し、理性的に、尚且つ柔軟に発想する事が出来なくなる事
これこそがこの考えにおいて最も危険な部分と言えるかもしれません。

話を戻しましょう。
このアニメに出てくる鷺宮先生は自分では自覚していなくとも、行き過ぎ一歩手前の公正世界信念信奉者と言えます。
なぜなら1年7組を
「不幸という注意力不足に甘んじて努力していない、何のとりえもないクラス」
と勝手に結論付け、彼らを他のクラスと比較して下に見ているからです。
確かに勉学クラスや体育クラスと比較してみると、幸福クラスが何故あるのか?という疑問に至るのはある意味、当然の事
このアニメを観ただけでは、視聴者の思いを代弁してくれているようなキャラと勘違いしてしまうのも致し方ないと言えましょう。
しかし、よくよく考えてみると、彼女がここまで幸福クラスを敵視する理由は実の所、アニメだけではあまりはっきりしないのです。
疑問が頭に留まり続けた私はとりあえず原作を買って読んでみる事にしました。
成程、読むととても納得です。
簡単に説明しますと、まず、アニメであまり語られていない設定として幸福クラスと他クラスの関係が挙げられます。
ぶっちゃけて言うと、この学園において幸福クラスは他クラスから酷く見下されているのです(地味に重要)
勉学もスポーツも何一つとりえのない、しかも不運なんていらない属性付きの負け組クラスというレッテルを貼られ続け、辛酸を嘗める思いでいた幸福クラス
しかし、ある時期から彼女達の大躍進が始まったのです。
「遊んでいるだけ」の(ように見える)幸福クラスの生徒が、大学の指定推薦選抜枠を「努力」しているはずの通常クラスから奪ったという事実
2年の秋以降になると、何故か幸福クラスから勉学・体育クラスを差し置いて学年トップクラスの生徒が何人も現れだしたという結果
このような実態を数多く見るのは客観的に考えると誰でしょうか……?
そう、それはまさしく教師
尚且つ勉学クラスの担任である鷺宮先生はこのような不合理の事態に多く直面してきたと言えるかもしれません。
要するに、この先生は幸福クラスの生徒の方が他クラスより優れているという事実を否定する為、現在の生徒に試練をぶつけて自らの考えを正当化しようとしているのです。
努力は叶わなければいけないと豪語する彼女だからこそ、結果は出てるが努力していない(ように見える)幸福クラスを否定しようと勝手に下に見て、あわよくばそれ自体を無くそうとしたという事でしょう。
これも努力は絶対に報われなければいけないという自身の「公正世界信念」が彼女をそうさせていたのかもしれません。

成果を認めたくないが為、また勉学・体育クラスの努力を無駄にさせたくないが為、幸福クラスに否定的だった彼女
好きな方には大変申し訳ないのですが、正直言って、教師としてはちょっと酷いと思ってしまいました。
しかし、この作品は『あんハピ♪』
それだけでは終わらない事は自明の理と言えるでしょう。
そんな頭の固い考えを持った先生が作中でどのように帰結していくのか?
それは是非、ご自身の目で確かめてみて下さい。


(4)この物語の真の目的とは……?
よく日常系アニメとはどのような作品を指すのかと言う疑問に対して、必ずと言っていい程、返される答えがあります。
日常系アニメとは「日常」という一般的シチュエーションの中に価値を見出して評価する類の作品を指し、つまらなくも愛おしい日々を考え直す為のアニメである。
そういった定義が電脳世界ではもはや常識となっているでしょう。
私もその考えに対しては概ね納得なのですが、しかし、この定義を踏まえた上で、前から疑問に思っていた事があります。
それは「日常系アニメ」の定義については分かったけれども、こういった作品のそれぞれにテーマと言うのはないのかという疑問
いや、勿論、把握しています。
こういった作品を求める人は決してそのような「テーマ」だとか「伝えたい事」だとかは考えていないという事も、寧ろあると邪魔に感じる人が大勢いるという事も十分わかっています。
しかし、こういった作品に疎い私は前から気になって気になってしょうがありませんでした。
日常系アニメに対する基準は全て満たしている物ばかりの昨今
レベルは日に日に高くなってくる物で、こういったジャンルに詳しくない私でも観れる作品が最近はとても増えてきたように感じます。
ただ、既存の作品は上記の定義に乗っ取って作られた物は数多くあれど、それを満たしておけば満足だろ感のアニメも個人的には少しあるように感じてしまいました。
勿論、それが悪いと言う訳ではありません。
寧ろ、需要層からしたらそっちの方が安心、安定した気楽に観れる最高のバランスと言えるでしょう。
ただ、私はこういった流れの中、思うのです。
「日常系アニメ」の定義と作品に込められているテーマ
この2つの歯車が上手く絡み合い、良い塩梅で両立した作品が誕生した時こそ、新しいタイプ、新次元の「日常系アニメ」と呼べる物が誕生するのではないか……?
この私の我儘な要望に『あんハピ♪』はきちんと応えてくれました。
もしかすると、私がこの『あんハピ♪』というアニメを受け入れられたのは日常系アニメにあまりない「テーマ性」という物を結構、重視していたからなのかもしれません。
そこで、最後の(4)ではこのアニメの目的、テーマについて書いていこうと思います。
ここまで読んで下さって誠にありがとうございました。
後、もう少しだけお付き合いくださいますよう、お願いします。

『あんハピ♪』と言うアニメが真に伝えたい事は何か?
『あんハピ♪』のテーマは「幸福」についてです。
観た人の誰もが「幸福」について、「幸福」とは何なのかという事だと答えられるでしょう。
しかし、これを論証していくのにはとても頭を抱えました。
なぜなら、ただこれだけだとあまりにも論理づけて考えるには抽象的だからです。
テーマ自体は単純明快なのですが、それについての詳しい証明はとても困難な代物
「幸福とは何か?」という疑問は人類が古代から普遍に抱いてきた哲学であり、だからこそ、そこに至るまでの答えがいくつも存在する産物
簡単だからこそ難しい。
多くの答えがあるからこそ、いくつもの考えに直結する。
誰の考えを参考にしたか、それとも自己流の哲学か、考えるだけでも一苦労
それが「幸福」という抽象的な単語なのです。
しかし、最終話まで観終えて、琴慈先生の伝えたい事がようやく少し分かってきたような気がします。
ここに出てくるのはタイトルで述べているのでお判りの方もいるかもしれません。
彼の心理学には今までの証明でも大分助けられました。
そう、アドラー心理学の最終目標「共同体感覚」こそ、原作者の琴慈先生が考えている「幸福」なのだと私は提唱します。

「共同体感覚」についてアルフレッド=アドラーは自著の中でこのように書いています。
-----------------------------------------
われわれのまわりには他者がいる。
そしてわれわれは他者と結びついて生きている。
人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することはできない。
もしも一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば、滅びてしまうだろう。
自分自身の生を続けることもできないし、人類の生も続けることはできないだろう。
そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。
自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。

『人生の意味の心理学』第1章 人生の意味「人生の3つの課題」より
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他者を仲間として認める事で、人はその大切な人達に貢献する事ができ、その貢献感を持つ事によって、自分に価値があると自己肯定できるようになり、こうして新しい感覚が誕生する。
それこそが「共同体感覚」といった人間の新しい発想です。

彼は自らが提唱した新感覚において重要なのはこの3つだと述べています。
①「自己受容」……ありのままに自分を受け入れる事
「私」という存在は替えがきかない物であると理解し、自分に価値があると判断する、実は非常に難しい事
自分を受け入れる為には「自分は特別に良くなくても、悪くなくてもいい」と考える事が重要です。
「普通である事の勇気」こそ、自己受容には不可欠と言えるでしょう。

【『あんハピ♪』の場合】
これで真っ先に思い出したのが「自分が嫌になる」と口にしたりしたヒバリの事です。
彼女はどちらかというとネガティブグループ寄りの人間
失敗したり、嫌な事を思い出したりせずとも自分という存在に疑問を抱いてしまう自信の無い娘です。
詳しくは(2)でほとんど書きましたが、9話はそんな彼女が少し自分を認める事の出来たきっかけの回と言えるでしょう。

②「他者貢献」……自分が役立たずでなく、役に立てている、貢献していると感じる事
自らの行動が他者や共同体に影響を及ぼし、それが有益である事に限り、自分は自分を認められる
①につながるこの行為は実に様々な意味合いを含んでいると言えるでしょう。
極論を言うなら、「生きている事」自体が既に誰かに貢献しているという結果にもつながります。
例えば赤ちゃん、例えば恋人、好きな人、そして親友というのもまた然り

【『あんハピ♪』の場合】
この『あんハピ♪』というアニメに「助ける」「頼る」という単語が会話の節々からよく登場していた事に皆さん、気付いていたでしょうか?
「もっと頼ってください」「助かったよ」といった言葉を自然に吐く彼女達
いつもはヒバリがハナコやボタンをサポートし、ヒバリが失敗した時は日頃助けられている2人が彼女を支える。
話数が進んでいくにつれてヒビキとレンも織り交ざり、助け助けられの関係は5人の輪の中で着々と広がってきていたのが確認出来ました。
また、ハナコに関しては7話の時点で場の雰囲気を構成するのに必要不可欠だった(貢献している)事が把握出来ます。
この他者を助けあう事で成り立つ段階は作中で既に実証されていると言えるでしょう。

③「他者信頼」……他者を仲間と信頼出来る事
「信用」ではなく「信頼」です。
条件付きで信じるのではなく、無条件で人を信じる究極的利他行為

【『あんハピ♪』の場合】
もう、これについては『あんハピ♪』全12話を観ていくしかありません。
これに関しては徐々に徐々に分かっていくと思います。
何気ない学園生活で自然と築かれていく5人の関係に着目して下さい。

さて、この3つの考えこそ「共同体感覚」形成の第一歩となるのに重要な事
主要メンバーの5人含む幸福クラスの生徒達は学園に所属している過程で自然とこれらを学んでいきます。
そして、これこそが「幸福」に至る最善の路と成り得ると私は考えました。

実は元々、アドラー自身も多くの子供に上記のような考えを宿らせる教育改革こそが世界を平和的に変革する有効な手段だと考えていた節があります。
彼は児童相談所を設立し、教師には生徒の対応について助言し、子供と親のカウンセリングを行いと様々な教育活動に奔走する日々を送ってきたそうです。
彼自身は「共同体感覚」に包まれた世界は幸福になると生前、ずっと信じ続けていました。
しかし、結果は2度の世界大戦の勃発
彼の考えが世界中に浸透したのもごく最近の事(日本においてはついこの間まで全く存在を知られてすらいませんでした)
彼の理論で戦争が回避される事は生きている内には果たされる事なく終わってしまったのです。

しかし、そう考えると、アドラーの遺志は現在ではどのような形で継承されていくのでしょうか?
現実の世界を何とかしようと今でも動いている人がいるでしょう。
努力して変えようとして挫折し、諦めてしまった人もいるでしょう。
自分自身だけでも変革しようと取り組んだ人もいるかもしれません。
だとしたら、仮初の世界でだけでも形にして継承しようとした人がいても……
不思議ではないですよね?
琴慈先生はアドラーの無謀とも夢物語とも言える遺志を継いだ世界を作りたかったのか?
そうだとするともしかしたら、天之御船学園はアドラーの考えていた理想郷形成の重要拠点と言えるのかもしれません。
遊びに見える授業は見ず知らずの他人→仲間意識を持った友達→共同体感覚を共有した運命共同体に至る為の通過儀礼に過ぎない。
空想のような、楽園のような学園生活にこそ、真の「より良く生きる」知恵が隠されている。
最終話まで観て私が至った結論です。

とまあ、ここまで専門用語を用いて難しく語ってきましたが、単純に考えるなら、大切な事はたった1つだけ
皆から遅れても、遠くで自分を待ってくれる友達がいる幸福
これほど幸せな事が、一体どこにあると言えるのか?
この作品が伝えたいのは、恐らくこれが全てです。



【第2部】
最後に個人的にだらだらと全体の総括を書いて、このレビューを締めたいと思います。
今回本作の良さに気付いたのは、タイミングが良かった。
その一点に尽きる話でしょう。
恐らく、「毎日が楽しい」「日々が幸せ」と胸を張って言える人、また言わなくても内心でそう感じている人はこの作品を観て「面白い」と感じる事はあれど、私みたいに感銘を受ける事はないかもしれません。
逆に最近、精神的に参ってる人、鬱屈した思いをずっと抱えている人は思わぬ所で衝撃と言いますか、何か残る物を全12話の中から間違いなくもらえます。
そんな私自身も正直に言って、1話を最初に観た時はブラックコメディというか、シュールギャグ要素しか感じられませんでした。
結構ギャグセンスが自分に合っていたのか、個人的にはその時点でも十分面白い作品だったので、とりあえず視聴継続という形で録り貯めていたのです。
転機が訪れたのは5月に入ってからの事
現実世界で今まで考えないようにしていた事を考えなければいけなくなり、個人的不運が重なり、課題に追われるようになり、人間関係に疲れたりと多忙な日々を過ごす内に、意識が朦朧としてきてしまいました。
後で調べてみると、精神状態があまりよろしくないという結果が待ち構えており、また、他人と付き合うのがちょっときつくなってきた私は少しばかり家でひきこもりの生活を送ったのです。
限界を感じたその時の私は期間中、アニメを利用して憂さ晴らしならぬ現実逃避に勤しんでいました。
そんなダメ人間として毎日を過ごしている内に、更に気分が憂鬱になって……
精神的に脆弱な自分
気分転換として外でリフレッシュしようと思っても、そもそも外出する事すら億劫で、怖くて、嫌で、困難な状況でした。
そしてまたそんな自分が嫌になり、また気分が憂鬱になるという負のスパイラル、逃れられない始末
いや、あの時は本当に辛かったです。
私の駄文であまり苦しさが伝わらないのが幸いといった所です。

話を戻しましょう。
そんな時、たまたま観ていたのが忙しくてすっかりご無沙汰状態だった『あんハピ♪』の3話~7話でした。
ぼんやりと観て、時折笑って、またぼやっと観ている内にEDが流れていく。
そのような緩やかで安らぎに満ちた時間の流れに身を任せていると、とても心地よくて温かくて。
眺めていると、あっという間に過ぎていく日々に私は酔いしれていたんです。
賑やかで忙しないけどもどこか温かいOP
作中で時折こちらをハッとさせるようなキャラの言葉と行動
そして、切なくて、だけどとても優しい曲調のED
自然と涙が出てきました。
何回も何回もその4話分だけ視聴しました。
その度に涙が溢れて止まりませんでした。
何故急に涙が出てきたのか……?
細かい理由は、今一つ断定ができず、考えても未だに分からないままなのですが、こういうのは理屈じゃないのかもしれません。
感動アニメで大げさに笑いたくなったり、ギャグアニメで大っぴらに泣きたくなる時もあるんです!!
人間の性格は曖昧な代物であると改めて痛感させられた一時でした。

まあ、そんなこんなでこの『あんハピ♪』という作品には大分助けられました。
正直言って、あまりこういった萌え日常系アニメを観ない自分が1番驚いています。
まさか原作を買うまでに嵌るとは思わず、しかも漫画と比較するとアニメが殆どオリジナルでまたまた驚きました。
原作を生かしつつ、魅力を更に引き出した展開を生み出したスタッフの方々には敬意を表したい位です。
恐らく、このアニメが観れた理由の1つとして、スタッフの頑張りも確かにあるのだと思います。
私の苦手な百合要素という物がギャグやその他の演出で見事に上手く軽減されていたというのは地味に大きいです。
その点においても安心して観れた数少ないアニメなので、百合が嫌いだからちょっと……と言う方でも恐らく大丈夫な作品だと思います(あくまで個人的主観)

さて、大分長々と語ってきましたが、これにてレビューを終了したいと思います。
ただ、最後に1つだけここまで丁寧に読んでもらいました心優しき皆さんに細やかなご忠告を。
今回の私の考察は決して鵜呑みにしないようにお願いいたします。
何分、浅学非才な身の上、間違えて使っている箇所もあるかもしれないというのは勿論なのですが、まだ観ていない人達にとっては面白さの幅を狭めてしまう事になりかねないからです。
私のレビューで辺に斜に構えて観てしまい、アニメ本来の楽しさを損なわせてしまうのは書いたこちらとしても大変申し訳ない。
「考察」の部分を長々と書いてしまった時点で私の主張には説得力の欠片もありませんが(笑)

ただ、この『あんハピ♪』というアニメは本当に「優しい」んです。
「圧倒的なまでの現実」という優しくない世界の中に成り立っている本作でありますが、それは作中外での事
天之御船学園という「秘密の花園」で展開された世界は面白く、楽しく、そして少しばかり愛おしく感じます。
この自らの心に芽生えた感情をまとめて「優しい」という一つの言葉で表現する事が出来る。
そんな風な事をこのアニメを観ながら私は感じました。
また、今作は作中要素だけでなく、私達に対しても同じく「優しい」と言う事が出来ます。
なぜなら、このアニメは作品自体が視聴者に対してどんな風に観てもいいんだよ……と感じ方の範囲を広くしているからです。
「このキャラクター達、みんなおかしいな」と笑い転げても良し
「〇〇ちゃん、ホント可愛い」と人知れず萌えても良し
「なるほど、そういう事か」とキャラクター達の台詞に感銘を受けても良し
これらの反応は全て、このアニメによって私達が楽しませてもらってる事の証明であり、私達に頑張ろうと思わせるだけの活力も与えてくれます。
しかし、今回ので見方が固定化してしまったら本当にもったいない!!
そういう訳で、私の個人的戯言に捉われることなく、ごゆるりとアニメをお楽しみくださいますよう、お願い致します。
では上手くまとまった所でレビューもそろそろ終える事にしましょう。
ここまで長い駄文に付き合って下さり、誠にありがとうございました。
皆さんこれからもどうか、素晴らしき日々をお過ごしください。


楽しかった 時間だけ憶えておけばね
まだまだ面白くなるよ
毎日が 一緒なら まるでカレイドスコープ
回しちゃって 世界はキレイなんだってば そうでしょ?
思い出も未来もまぜて
私たちきっとなんとかなるよね…って思ったの!
『あんハピ♪』EDテーマ「明日でいいから」より抜粋


下記に書いたのは、まんがタイムきらら編集部さんがTwitterに載せていた呟きの数々
中々に良い事が書いてあるので、興味のある方はどうぞ。

1話
たとえば、列で割り込みをされたときの宝くじが当選
一見ツイてなく思える出来事が、実は幸福の種だったりする。
幸せを呼び寄せる秘訣はきっと、ポジティブなその笑顔

2話
どうなれたら幸せだと言えるでしょうか?
幸せのゴールはどこでしょうか?
たぶん、その答えは一生出ない。
けれどその時その瞬間に笑顔でいられたなら、それはきっと幸せの証

3話
新たな環境に新たな人々
新生活が始まって、右も左もわからない中で戸惑っている方もいらっしゃるかもしれません。
けれど、どんなコトも楽しんだ者勝ち
いつでもその気持ちを忘れずに。

4話
人のやさしさを目にすると、自分までやさしい気持ちになる。
あたたかく、幸せな気持ちに
もしかしたら知らないうちに、あなたも誰かを幸せにしているのかもしれません。

5話
実家を出ると、親と過ごせる時間はあと何日分だろうかと考えてしまう。
ひとつの楽しいことが終わると、こんなに幸せな気持ちには人生であと何回なれるだろうかと考えてしまう。
ひとつひとつの出来事を、どうか大切に。

6話
楽しいことやうれしい気持ちは、わかち合うと大きくなる。
大変なことやかなしい気持ちは、わかち合うと軽くなる。
級友でも同僚でもネット上の誰かだとしても、わかち合える仲間がいるのなら、それはとても幸せなこと

7話
身体が弱ると心も弱る。
心が弱ると何をやってもダメに思えてくる。
けれど、そんなときだからこそ気づけるものだってある。
友達のありがたみ、家族のやさしさ、そして何でもない日常のいとおしさ

8話
昨日の事はもう変えられなくて、今日という日は今日しかなくて、明日の事は誰にもわからない。
けれど良い事も悪い事も、何が起こるかわからないからこそ、毎日には頑張る価値がある。
あなたの頑張りは、無駄じゃない。

9話
誰にだって失敗はある。
大事なのはそれをどう乗り越えるか。
……なんてありがちな言葉よりも、落ち込む気持ちを笑顔で吹き飛ばしてくれる友達さえいれば、心はスッと軽くなる。
大丈夫、失敗したって、いいんだよ。

10話
小学生の頃、無限に思えた40日間
海にプールにアイスに虫取り、盆踊りに花火に肝試し
お酒なんか飲まなくても自然と気分は高揚して、やり尽せない沢山の楽しいことに無邪気にはしゃいだ日々
そう、それが夏休み!

11話
どれだけ楽しい時間にも、必ず終わりはやってくる。
逃れられないその時に悔いを残すことだけはないように、一分一秒を大切に、今はただ一緒に笑っていよう。
だって、楽しかった思い出は、ずっとずっと残り続けるから。

12話
何かの終わりに寂しさがこみ上げてきたなら、それはその何かがかけがえのないものだった証
だから寂しさに後ろを振り返らず、前だけを見つめていこう。
まぶたを閉じればすぐに浮かぶ、いつだって幸せそうなその笑顔と。

TVアニメ『あんハピ♪』ご視聴ありがとうございました!
OPの歌詞の「幸せはどこにあるのだろう?」という問いかけの答えはまだわかりませんが、それは案外どこにでもあるのかもしれません。
見つけよう、という気持ちさえあれば。
皆さんの毎日が、これからもどうか幸せなものでありますように。

13話(嘘予告)
積み重ねた思い出のひとつひとつが、今のあなたに宿ってる。
昨日までの自分があるから、今日の自分がある。
胸を張って、明日へ。
TVアニメ『あんハピ♪』第13……え!? もうないのかーーーー!!!!
コミックス1~6巻、Blu-ray&DVD1巻、どちらもよろしくお願いいたします!

まんがタイムきらら編集部Twitterより引用


【参考文献】
アドラー『人生の意味の心理学』2016年2月100分de名著,NHK出版,2016年.


PS.
実は他にも久米川牡丹の性格は劣等コンプレックスの名残かもしれない…や萩生響は優越コンプレックスを抱えている…など色々考えが膨らみましたが、証明出来なさそうなので断念してしまいました(江古田蓮だけ見つからず…)
またこれも余談ですが、当初はアドラー心理学でなく某哲学者の理論を取り上げようとしていたので、今回のレビューは随所にその痕跡が見られる文章となっております。
興味のある方は調査、考察してみても良いかも!!



2016年9月24日 再追記
本来ならこの欄で書くべき事ではない気がするのですが、自分の思い出し用として、此処に記載しておきたいと思います。
今日、私は人生初のアニメイベントなる物に足を運んできました。
この項目に書いてある時点で既にお分かりの通り、それは『あんハピ♪』のトーク&ライブイベント『Clover Fes.』です。
しかし、実を言うと、会場に赴く前は応募した事を私自身、後悔していました。
それは私の好き嫌いに依る、言わば個人的感性から生じた物
こちらとしてはそのせいで楽しめなくなる事が何より嫌だったのです。
しかし、その心配も全くの杞憂であった事が終わった今となっては、はっきりと断言できます。

不安な気持ちや悲しい想いを全て溶かしてくれたこのイベント、控えめに言って最高でした(何分、初めてなので比較の仕様がないのはご容赦を)
プリキュ○ネタのアドリブを全員が入れまくって、最終的にはプリ○ュア声優でヒビキ役の山村さんが悪乗りする変身魔法少女モノ朗読劇
相手チームの妨害工作をしたり、泣きの一回で土下寝をしたりと、互いに勝利に執着して争いつつも、決して悪い印象はなく、最後には笑って終わった球技大会ゲーム
私がこの『Clover Fes.』で1番よく分かったのは、こういったキャスト陣全員の「仲の良さ」その物でした。
こういった関係は話数を重ねていくにつれて、強くなっていったと語ったのはハナコ役の花守さん
その「想い」がそれを伝えた彼女自身の誕生祝いに繋がっていったと思うと、こちらとしてはとても温かい物を感じます。

そして、最後の挨拶
キャストのほぼ全員が涙を流しながら、オーディションを受けた時の話や『あんハピ♪』に対しての想いを語っていたのが至極、印象的でした。
花守さんが「ハナコはいつも泣いたり弱音を吐いたりしないから、あんハピの現場ではいつも明るくいようとしたんですけど……花守はやっぱり、花守でした……」と涙交じりに語っていた事
チモシー役の森永さんが息を詰まらせながら「私、チモシーと言う役が初めてこの声で加われたキャラクターでした。受かった時は凄く嬉しかったんです。受かる前はこの地声のせいで、色々アンハッピーな事にあったりしたんですけど……でも、それでこうしてあんハピに関わる事が出来て……私、この声で良かったです……本当にあんハピは最高の作品です!!」とボロボロ想いの丈をぶちまけた事
山村さんが「自分が1番年長者だから、しっかりしないとっていう想いがプレッシャーになっていて……でも、結局、年長者らしく振舞えなくて……でも、あんハピのみんなはそんな自分も優しく迎え入れてくれました。ヒビキは方向音痴だけど、方向音痴でも幸せの方向へ向かってます。だから幸せの方向に関しては方向音痴じゃないんです……」と言葉を詰まらせながら綴った事
他のメンバーも自分が泣きつつも、話していた人の為にタオルを持ってきて、細やかな心遣いを行っていた姿
全てが心の奥底に重く圧し掛かってきました。

振り返ってみると、この『あんハピ♪』と言う作品は、成るようにして成ったと改めて感じます。
キャストそれぞれの方達が作品の良さを十分に理解し、愛していた事
スタッフがその良質さを真正面から受け止めて、更に良い物にしようと邁進していた事
そして、それに伴って教えられる大切さを肌身に痛感し、「優しい」雰囲気に色付けされる制作側
『Clover Fes.』はそれらがはっきりとこちら側にも伝わってきた……
作品と同様、とても「優しい」イベントでした。
こういった相互関係を感じられて、私はこの『あんハピ♪』と言う作品をもっと好きになれたと心から思います。

関わってくれた全ての方達にお礼を言いたいです。
ありがとう『あんハピ♪』
そしてこれからもよろしく『あんハピ♪』


2017年4月7日 再々追記
放送開始から今日で1周年
あれから少しばかり時間が経過した現在でも、活動が続いていると言うのは、1ファンとしては大変嬉しいものです。
公式twitterは適度に更新、即ち情報を発信しており、エイプリルフールには劇場版の嘘情報を流して描き下ろしの絵を加えたりしていました。
また、公式が新生活にむけて送った激励には、私も少しばかり元気を貰った物
この現状は何度も申すように、1ファンとしては非常に嬉しく、めでたい物
これからも今のような稼動が続いて、『あんハピ♪』の「優しい」輪が段々と大きく、次第に広く、浸透していく事を願わずにはいられません。

新しい生活に戸惑っている方、不安や葛藤の日々を過ごしている方
この時期と言うのは、長い人生においては自分を知れる良い機会
自分を見つめ直せる良い機会
その節目として、本作は実に相応しい
初めての方には、安らぎと癒しがもたらす「幸福」を……
1度鑑賞済みなら、何度も至れる安心と回帰の「幸福」を……
一家に一作、お薦め出来るこのアニメ『あんハピ♪』
辛い日々の中、今日から、ゆっくり1話ずつ、視聴してみるのは如何でしょう?
私も今日からまた『あんハピ♪』観直していく事と致します(絶賛リピート中)

嬉しいな 意外なつながりよありがとう
まだまだ冒険があるさ
毎日を一緒にね ずっとね遊ぼうよ
とりあえず 世界はナゾなんだってば そうでしょ?
じゃあ解いてみたくなる そうでしょ?
とりあえず 早々 眠れ 眠れ

楽しかった 時間だけ憶えておけばね
まだまだ面白くなるよ
毎日が一緒なら まるでカレイドスコープ
回しちゃって 世界はキレイなんだってば そうでしょ?
思い出も未来もまぜて
私たちきっとなんとかなるよね…って思ったの!
『あんハピ♪』EDテーマ「明日でいいから」より抜粋



2019年1月22日 最後の追記
『あんハピ♪』最終巻読み終わりました。
中々封を開けられなかった漫画は、一度開放すると、一気に読む事風の如し
彼女は少し笑顔になれて。
彼女が初めて涙を見せた。
でも、全員が幸福な日々へ至れた最終回

ファンレターを送ろうと思います。
最初で最後かもしれないファンレター
思いの丈をそこで多くぶち撒けます。
ここではもう充分語り尽くしたので、最後にこれだけ書いておきましょう。

『あんハピ♪』と出会わせてくれてありがとう。
これから先に待つ新たな幸福を求めて。
私は精一杯、生きていこうと思います。

投稿 : 2024/10/26
♥ : 28

ブリキ男 さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

幸福の値段がつりあがるのはなぜ?

幸せって何だろう?と5人の少女達が様々な経験を通して、それを見つけ出していく心温まる物語。
毎回お題の様なものがあって、かなりおかしな学園生活をアトラクション感覚で楽しめる一風変わった作品でもあります。


はなこはどんな時でも幸せを見つけられる子

ヒバリはささやかな幸せを心に秘めた子

ぼたんは幸せの甘美さにやけどする子

ヒビキは幸せを確かめなければ不安になり、確かめたくても引いてしまう臆病な子

レンは幸せを振りまく子、でも自分の幸せについてはちょっと無関心


ブリキ男は至って安上がりな男なので、朝紅茶が飲める事、図書館に行けば"タダ"で本を読める事、あにこれにいられる事、こういった事に無上の喜びを感じますが、私の感覚がずれているだけで、多くの人にとってそれは何でもない事なのかも知れません。でもブリキ男は芸能人だの、アイドルだの、クルマだの、ハウツー本だの、しゃれた衣類だの、流行を追って移り変わる薄っぺらなものには全く興味が無いのです。

私見ながら、幸せの値段を吊り上げるのは他者との比較に他ならないのだと思います。生まれた時から資本主義社会の枠組みに組み込まれ、序列と競争に飼い馴らされている我々は、その辺に石ころみたいにいくつも転がっている"幸福"に背を向けて、お上や社会がそうと決めた、中身すっからかんの"幸福"を有り難がって追い求め、手に入れても手に入れても満足出来ず、さながら※1赤い靴に呪われたカーレンちゃんみたいに踊らされ続けているのかも知れません。

とは言ってもささやかな幸せだってお金が無ければ得られないないでしょう?という意見も当然あると思います。確かに答えは"YES"です。でも幸せになる為にはお金は多ければ多い方が良いのか?と問われれば答えは断固として"NO"です。

倹約と節制を信条とするブリキ男は好きなだけ本を読み、アニメを観て、美味しいものを少し食べ、紅茶と酒を嗜みながらも、極僅かな生活費で悠々と暮らしています。食べ物や物を無駄にせず、電気、ガス、水道を節約すれば、そんなにお金は掛からないのです。(毎日自炊してるけど)

お金は知恵さえあれば何とでも手に入れられます。その知恵は図書館で無尽蔵に手に入れられます。でもそうやって手に入れた幸せも、どちらかと言うと割とちっぽけなものです。

※3これも私見ですが、幸せというのは作中の主要キャラ5人が毎日享受しているようなもの、愛する事、思考する事、話す事、歌う事、歩く事、見る事、聴く事、休む事、寝る事、身の回りを見ればいくらでもある、そんな事だと思います。全話視聴を終えて、そんな当たり前の幸せを探し当て、それらをしっかりと享受出来た、はなこ、ヒバリ、ぼたん、ヒビキ、レンを心から祝福してやりたい気持ちになりました。

最後には5人とも仲良くなれてヨカッタ、ヨカッタ‥。

OPテーマの「PUNCH☆MIND☆HAPPINESS」はムービーに※4クォータービューのアニメなんかも入っていて、コミカルで面白さ満点でした。Happy Cloverの歌もとても可愛らしくて耳に心地良かったです。

2期製作されれば、次は是非よりのほほんとした気持ちで観てみたい楽しいアニメだと思いました。


※1:アンデルセンの童話。後見人であるおばあさんを裏切る形で赤い靴を履いて教会に行ったカーレンちゃんは、その後も赤い靴に魅了され、履くのをやめられなくなり、やがて呪いを受けて踊り続ける‥。短い物語なので未読の方は是非御一読を。

※2:極論を言えば幸福の定義は常に私見であると言えます。

※3:斜め見下ろし視点の擬似3D映像。昔のTVゲームの表現に散見された。

投稿 : 2024/10/26
♥ : 20

第七天魔王 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

今も根強い人気

アニメ放送から4年以上経つけど、ここまで同じ作品を好きでいられたのはあんハピ♪が初めて。
今でも作品の魅力は廃れず、きらファン参戦でこの作品を知る人が増えていく。
挫折しそうだ自分にとってあんハピ♪は自分を大きく変えてくれた。この先何年経っても一生好きでいられそうだ。

2021/6/20追記
最後に、少しでも多くの人に見て欲しい作品です!
こんなご時世だからこそ見ると癒される作品ですよ♪

投稿 : 2024/10/26
♥ : 10

69.2 2 2016年度の不幸アニメランキング2位
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ Ⅱ(TVアニメ動画)

2016年秋アニメ
★★★★☆ 3.6 (478)
1833人が棚に入れました
大仕事を成し遂げ火星に帰還した鉄華団は、テイワズの庇護の下、ハーフメタル利権に由来する豊富な資金を元に、地球に支部を置くほどの大企業となる。一方、彼らの活躍によって少年兵の有用性が示されたことで、戦場に駆り出される子供やヒューマンデブリの数は激増し、世界の治安は悪化の一途を辿る。エドモントンでの戦いから2年後のある日、アドモス商会の社長となったクーデリアからハーフメタル採掘場の視察の護衛を依頼された鉄華団は、サンドバル・ロイター率いる宇宙海賊夜明けの地平線団の襲撃を受ける。テイワズ本部からガンダム・バルバトスルプスを受領した三日月の活躍で撃退に成功するも、地平線団は主力艦隊を投入して鉄華団を殲滅しようとする。鉄華団と協力関係を結んでいたマクギリスは、部下の石動・カミーチェ率いる援軍を派遣するも、そこにマクギリスを警戒しているアリアンロッド司令のラスタル・エリオンが派遣したイオク・クジャン率いる第二艦隊が介入し戦況は混迷を極めるが、三日月がサンドバルの身柄を抑えたことで戦いは終結。彼らと手を結んでいた活動家団体テラ・リベリオニスも三日月たちによって粛清される。その頃、アーブラウでは防衛軍の発足式典が行われるが、その最中に蒔苗を狙った爆弾テロが発生する。やがて、この事件はSAUの関与が疑われ始め、両者の間では戦争の機運が高まる。

声優・キャラクター
河西健吾、細谷佳正、梅原裕一郎、内匠靖明、村田太志、天﨑滉平、田村睦心、斉藤壮馬、寺崎裕香、金元寿子、櫻井孝宏、大川透
ネタバレ

ピピン林檎 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

“任侠ガンダム”は、《ガンダム・シリーズ》の革命児となるのか?【考察編】

本作の総評/各話評価/個人評点については、第1期のレビューの方にまとめました。
ここでは、①先ず本作のモチーフ等を考察し、②その後に本作の《ガンダム・シリーズ》全体の中での特異性と意義について私見を述べます。

◆“騎士道”ではなく“任侠もの”のノリなので評価に迷うが、構成/作画の見事さには脱帽

本作のような「英雄群像劇」とか「英雄一代記」と称されるバトル系の物語にも色々とバリエーションがあって、その大きな分類の一つは、(1)騎士道もの、と、(2)任侠もの、となると思います。

例えば、本サイトでも非常に高評価であり、私自身も「お気に入り」に登録している『コードギアス 叛逆のルルーシュ』は、この分類でいくと (1)騎士道ものでしょうし、また同じく本サイト等で一部の人たちにカリスマ的な人気のある往年の大作『銀河英雄伝説』(※最近リメイク企画が進行中)も、(1)騎士道ものに分類できるでしょう。

※ここで私が「騎士道もの」といっているのは、
 <1> 主人公たちは、{netabare}それぞれ自身の目的や計画に従って敵と対峙し撃滅を謀(はか)るが、その際に(主に自分自身が何よりも栄誉を重んじる貴族であることから)実は意外と相手の名誉をも重んじる接し方を取ってしまいがちである。{/netabare}
 <2> そもそも、彼らの戦う理由は、{netabare}「自分の愛する人を守るため」「愛する人に危害を加えた者への復讐」あるいは「救いようのない苦難に苛(さいな)まれる人々を見て止むに止まれず」・・・というふうに、専ら他人本位で発生した“高貴な”ものである(つまり根本的な部分で自分本位ではない)。{/netabare}
・・・という特徴を持っている作品となります。

※一方、これに対して本作に描かれる「鉄華団」のメンバーたちの思考・行動パターンは、
 <1> 騎士道精神を貫こうとする者を{netabare}むしろ嘲弄し、彼らを専ら実利的に一方的に撃滅することに躊躇(ためら)いがない(※つまり相手の名誉を重んじるという「騎士の美徳」「武士の情け」がない)。{/netabare}
 <2> 戦う理由が、{netabare}他人ではなく専ら自分自身と自分の「家族」を守り、現状よりも自らにとってより善い環境を獲得する、という“より原初的な”欲求に発している(※つまり根本的な部分で自分と自分の延長である「家族」本位であり、かつその「家族」は血縁者にとどまらず「疑似家族」を含む←逆に言うと彼らが互いに守り守られる関係になるためには「義兄弟の契り」とか「疑似親子の水杯(みずさかづき)」といった任侠的な(=ヤクザっぽい)儀式を必要とする)。{/netabare}
・・・ということで、本作の見始めの頃は、まるで「任侠映画」をみているような気分で、

①確かに一話一話は、脚本も演出も音楽も非常によく工夫されていて見どころが多くて面白いのだけれど、
②このまま漫然と見続けるには結構な抵抗感のある、決して好きにはなれない作風

・・・と思っていました。

そのため、2016年春頃に第1期を見終えた当時の本作への個人的評価は、首を捻りながらも取り敢えず、☆ 3.9 と、私としてはチョイ低めの暫定評点とし、その半年後に始まった第2期も視聴を敬遠していました。

ところがその後、放送完結後の本作の評判が意外に良いことがチラホラと耳に入ってきて、特に色々なサイトや雑誌の2017年放送アニメのベスト作品・ベストキャラクター(男/女)に本作や本作のキャラが選定されているのを幾つも見かけて、「やはりこれは、一度は確り見終えるべき作品かも」と思い直して、もう一度第1期から通しで視聴することにしました。

そうやって視聴していくと、今度は一回目の視聴時には見落としていた作中の色々な仕掛けが見えてくるとともに、特に第2期に入ってからは“ただの任侠もの”ではない本作独自のモチーフに気付き始め、放送終了後の長井監督自身の種明かし(※後記)もあって、完走後直ちに再々視聴を決定、結局2017年放送の作品としては、『冴えない彼女の育て方♭』、『サクラダリセット』に続いて3作目の3周コンプ作品となってしまいました(※第1期に限れば4周)。


◆作品モチーフ等考察(※グダグダ長文注意←適当にスキップ願います)

  【1】 鉄と血で絆を固めた孤児たち(オルフェンズ)の物語
{netabare}
まずは本作タイトルから喚起されるイメージについてですが、世界史マニアの人なら「鉄血」と聞いて直ちに思い浮かべるのは、19世紀後半のプロイセン王国(のちドイツ帝国)で活躍した“鉄血”宰相オットー・フォン・ビスマルクでしょう。

「現下の大問題(※ドイツ統一問題)の解決は、演説や多数決によってではなく・・・鉄と血によってなされる。」
(1862年プロイセン議会での演説)

ここでいう「鉄」は大砲・銃弾・刀剣(つまり武器)、「血」はそれによって流される兵士の血(つまり戦死者・負傷者)をそれぞれ指し、当時プロイセン議会の軍備増強反対に直面していた首相ビスマルクは「このような空疎な議論ではなく、戦争によって初めてドイツの統一が果たされる」と喝破して、彼らの反対を押し切り、このあと現実に対デンマーク戦争/対オーストリア戦争/対フランス戦争の3つの戦争を勝ち抜いて、遂にドイツ統一(1871年)を成し遂げます。
それ以来、もともとマッチョな巨漢だったビスマルクには“鉄血宰相”の綽名(あだな)が定着するとともに、これらの戦争で優秀な参謀司令部の作戦指揮の下、頭頂部の尖った“鉄カブト”を被(かぶ)って憤然と突撃し敵軍を蹴散すドイツ軍には“世界最強の陸軍”というイメージが定着して現在に至っています。
(※アニメの世界でもマッチョな軍団といえばドイツ軍イメージが定番ですね。)

そして、本作のタイトル「鉄血~」も、おそらくは、このビスマルクとドイツ軍の故事からヒントを得て付けられたものと思いますが、作品内容自体はそこから更に捻(ひね)ってあって

<1> “鉄血”宰相ビスマルクのイメージ → 敵ラスボス的な存在のエリオン公ラスタル(※第2期で権謀術数を弄してマクギリス派革命軍&鉄華団の前に立ちはだかり、最終的には彼らの叛乱をも利用して既存体制の変革を成し遂げる冷徹・非情・狡猾な統合治安維持組織ギャラルホルン首魁)
<2> 実際に“鉄と血”を蕩尽(※とうじん、「湯水の如く費消する」という意味)して奮戦する精鋭 → 鉄華団(※本作の主役たちであり、本作に描かれた変革の時代のdriving force(駆動力、推進者)となった者たち)

・・・という風に、敵味方の両極に分離して描き出されているように私には見えました。
つまり、同じ「鉄血」モチーフでも、

<1> エリオン公ラスタルの方は作中世界で最大・最強の武力を誇るギャラルホルンを統括するセブンスターズ(7大軍閥)の盟主であり、史実にあるビスマルク首相もプロイセン王国の教養あるユンカー(地方領主)出身の実力派宰相だったのに対して、
<2> 「鉄華団」の孤児たちは、

「俺達はあんたとは違う。立派な理想も志もねえ。土台のねえ俺らは進み続けることでしか自分たちの居場所を守ることが出来ねえんだ。」(第25話でオルガ(鉄華団のリーダー)がクーデリア(※火星アーブラウ領クリュセ独立自治区首相令嬢であり、辺境とはいえやはり教養ある貴族階級と思われる)に漏らした言葉)

この発言に象徴されるように、鉄華団の団員達は殆(ほとん)ど奴隷労働者とでも呼ぶべき境遇から文字通り鉄と血に塗(まみ)れて這い上がってきた“一代目の人たち”“成りあがり者たち”であり、そんな彼らからすれば、自己陶酔的な貴族サマが望む「一対一の決闘申込」(第3話のクランク二尉)とか「相手の戦闘準備が整うまで攻撃を待って正々堂々と戦う」(第23話のカルタ・イシュー)といった騎士道的な振る舞いは、屁にもならない愚行でしかありませんでした。{/netabare}

  【2】 新撰組モチーフのドラマチック展開
{netabare}
こうした“一代目の人たち”“成り上がり者たち”を主役にした群像劇は、実は日本とか西洋には珍しくて(※なぜなら、その歴史を通して血統正しい王族・貴族や騎士・武士が活躍する物語が多かったから)、易姓革命によって次から次へと君主や支配者層が打ち倒され入れ替わってきた中国由来の物語に多いスタイル(※例えば、『史記』に描かれる項羽と劉邦の抗争や『三国志』『水滸伝』)であり、辛うじて日本でいえば、アンダーグラウンドなヤクザの物語を除外すれば、歴史に浮上したのは、せいぜい幕末の“新撰組”の物語くらいかな?と思って視聴を続けていたら・・・

第2期の放送終了後に、公式番組(鉄血ラジオ第81回)で、長井龍雪監督ご自身が本作について、

・新撰組はイメージモチーフ。企画書にも書いてある
・三日月とオルガは近藤と沖田と土方の好戦的な部分をミックスさせて2で割ったもの

・・・と、そのままズバリ語ったそうで、そういえば、本作の第1期の1番目OPが『Raise your flag』(※直訳すると「君たちの旗を揚げよ」)となっていて、第2期の1番目OP『少年の果』になると今度は「錦の御旗を掲げよう」という歌詞が唐突に現れ、鉄華団のメンバー達の行動・思考パターンから喚起されるイメージと併せて、「あれ?これもしかして幕末モチーフなの?」と薄々感づいてはいたのですが、ああ、やっぱり・・・というか、成る程というか、監督の発言を知って妙に腑が落ちました。

※因みに第1期1番目OP『Raise your flag』に合わせて作中で掲げられる鉄華団の旗は「鉄の華」。→華の形は明らかにフリージア(※第2期2番目OP『Freesia』参照)で、花言葉は“純潔/無邪気/あどけなさ/憧れ/感受性”だそうです。←これって新撰組の“誠”の旗にも通じる設定ですね。

そして、この“新撰組&幕末モチーフ”の方も、上記の“鉄血”モチーフと同様、そのまま作品に適用するのではなくて、捻(ひね)ってあって

<1> こっちの新撰組(※鉄華団=虐待され酷使されていた孤児たちが鉄と血の絆で団結した精鋭武装集団)は、元ネタの史実とは違って、佐幕派(※徳川幕府並みに300年続く守旧派・ギャラルホルン幕府)ではなく、討幕派(※“錦の御旗”を掲げるマクギリス一派)に加担して、佐幕派の返り討ちに遭い壊滅してしまう。
<2> ただし佐幕派(※ギャラルホルン幕府)は、この騒動を機に内部改革を断交して民主化を達成し、また新撰組(※鉄華団)の故郷・火星も民主化の成った新生ギャラルホルンとの交渉によって念願の独立を達成し、鉄華団の元団員や協力者達は新たな立場でそれぞれの未来を切り開いている。

・・・という風に、この手の作品(※《メカ・ロボット系バトルもの》)にありがちな意味不明のグダグダな結末ではなく、確りした好感の持てる結末(※将来に希望を繋ぎつつもほろ苦さの残る結末=ビター・エンド)になっている点が個人的にかなりの好印象となりました。

そして、この「変革の時代の“Driving Force”(※「駆動力」「推進力」という意味で、歴史用語としてしばしば使われる)となって華々しく散る鉄華団」「彼らの後には“ギャラルホルンの民主化”と“火星独立”という確かな果実が残される」という結末はまた、アニメの先行作品としては直ちに『太陽の牙ダグラム』(1981-83年)を想起させるものでした。{/netabare}

  【3】 “革命の乙女”と“ダークヒーローのなり損ね”のもたらす対照的な結果
{netabare}
鉄華団自体は、親の顔を碌に知らずマトモな教育の機会も与えられなかった孤児たちという境遇から、通常は国家や地域社会や累代の血族たちから自然に授けられる「歴史的背景」とか「(政治的・思想的な意味での)教養」を持たず、それ故にセブンスターズやクーデリアのような“高い理想”や“志”を持たない、専ら自己とその“家族”の利益のため“だけ”に死力を尽くす精鋭武装集団ですが、
(1) そんな彼らの“覚悟の良さ”に魅せられて自らの覚悟をも決めてしまう者、また、
(2) そうした彼らの持つ“火事場の馬鹿力”を自己の計画の達成のために最大限に利用しようと画策する者が現れます。

(1) 前者が火星独立運動家クーデリア・藍那・バーンスタインであり、(2) 後者がセブンスターズ(7大軍閥)の一翼の跡取り(のち当主)マクギリス・ファリドなのですが、結局、鉄華団としては、

(1) クーデリアを事業の依頼主として行動を起こしていた頃は、波乱万丈とはいえ武装集団として前進に継ぐ前進を果たして、大きく羽ばたくことが出来たのですが(※第1期の展開)、
(2) マクギリスに「自分の計画に協力すれば火星の王にしてやる(※火星の治安維持権限を与える)」と煽てられ、そのクーデター計画に加担してしまってからは、一方的に損害を出す分の悪い勝負にズルズルと引き擦り込まれ、シノ/オルガ/昭弘/三日月といった主力メンバーたちが次々と悲劇的な最期を迎えてしまうことになる(※第2期の展開)。

同じことですが、これを別の言い方をすると・・・
(1) 火星の自治政府の首相令嬢という恵まれた生まれでありながら(※むしろそれゆえに一種の“ノブレス・オブリージュ”として)、虐げられた火星の人たちの独立を全身全霊で希求する“革命の乙女”(※他称)として覚醒を遂げたクーデリアとの協力関係は、ビターエンドとはいえ、最終的には本部から脱出した元鉄華団員たちにとって、正(プラス)の結果を生み出す一方、
(2) 腐敗した治安維持組織ギャラルホルンの指導者の一人ファリド公イズナリオの男色の相手として貧民窟から拾われ、同家の養子に入り、その中で既存の貴族社会を打倒するという暗い情念を密かに抱き続けてきた“アグニカ・カイエルの再来”(※自称)マクギリス・ファリドとの共闘は、鉄華団の主力メンバーの相次ぐ戦死・団自体の壊滅という最大の負(マイナス)をもたらすものとなってしまう。

・・・この組む相手によって全く対照的となる結末のつけ方は、客観的に見て決して“正義の集団”とはいえない(※どちらかというと団員たちの“任侠的価値観に基づいた美意識を満たすための集団”である)鉄華団の一部始終を描いた物語のケジメとして妥当なものだったように思います。

※なお、マクギリス・ファリドについては、『コードギアス』のルルーシュ、『銀河英雄伝説』のラインハルトのような“ダークヒーロー”のなり損ね的な扱いになっていて、その点の考察も実は面白い作品なのですが、ここでは割愛します。{/netabare}

  【4】 “鉄華団”と“太陽の牙”の比較
{netabare}
本作のエピローグとして、鉄華団の壊滅から数年後、彼らの墓標は世間からは全く忘れ去られ、ただかっての協力者の生き残りクーデリアとアトラの二人の女性によって大切に守られている、というシーンがありますが、これを見ていて、私は、本作とよく似たシナリオを持つ往年の大作『太陽の牙ダグラム』(1981-83年)のラストシーンで、それまで地球に虐げられてきた植民惑星デロイアの自治独立運動を武力面で支えてきたゲリラ組織「太陽の牙」の象徴だった二足歩行ロボ(ダグラム)が砂漠で自沈した際に、その鹵獲命令を受けて追跡してきた反対組織側の指揮官や兵士たちが総敬礼するシーンを想起しました。

→ 鉄華団はクーデリアの火星独立活動に多大な戦死者を出しつつ協力し、マクギリス一派の叛乱事件では「火星の王」となることを目指したが、それはあくまで、そうすることが彼らにとっての仁義であったり、実益をもたらすものとの期待(もしくは打算)があったため(※つまり結局のところは自分本位の集団であり、火星の人たちにとって別に“正義の味方”でも何でもなかった→それゆえに火星の人々からは忘れ去られてしまった)。

→ これに対して「太陽の牙」は、その存在意義自体が「植民惑星デロイアの自治独立獲得」にあり、そのために命をなげうって戦う集団だった(※つまり自分本位の集団では決してなく、惑星デロイアの人たちにとってまさに“正義の味方”だった→それゆえに反対組織からの総敬礼を呼び起こした){/netabare}


※次に、《ガンダム・シリーズ》全体に対する《異色作》としての本作のインパクトを少しばかり考察していきます。


◆西暦2000年以降に制作された主な《ガンダム・シリーズ》一覧(制作順)
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{netabare}(1) 『機動戦士ガンダムSEED』 (福田己津央/全50話+1話/2002–03年) ※個人評価 ☆ 3.7 ※HDリマスターは全48話
(2) 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』 (福田己津央/全50話+1話/2004–05年) ※個人評価 ★ 4.1 ※HDリマスターは全50話
(3) 『機動戦士ガンダム00(1st./2nd.シーズン)』 (水島精二/全50話/2007–8、2008-9年) ※個人評価 ★ 4.1
(4) 『機動戦士ガンダムUC』 (古橋一浩/全7部/2010–14年) ※個人評価 ★ 4.4 ※のち、再構成版TVシリーズ『機動戦士ガンダムUC RE:0096』(全22話/2016年、※個人評価 ★ 4.3)を放送
(5) 『機動戦士ガンダムAGE』 (山口晋/全49話/2011-12年) ※個人評価 ★ 4.2
(6) 『ガンダムビルドファイターズ(1期)/ファイターズトライ(2期)』 (長崎健司/25+25話/2013-14、2015-16年) ※個人評価 ☆ 3.6
(7) 『ガンダム Gのレコンギスタ』 (富野由悠季/全26話/2014-15年) ※個人評価 ☆ 3.6
(8) 『機動戦士ガンダム サンダーボルト』 (松尾衡/8話+未完/2015-16年) ※個人評価 × 3.3 ※追加シーン付き劇場版2本(『DECEMBER SKY』『BANDIT FLOWER』)を公開
(9) 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ(第1-2期)』 (長井龍雪/全50話/2015-16、2016-17年) ※個人評価 ★★ 4.5
(10) 『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』 (安彦良和・今西隆志/全6作/2015-18) ※個人評価 ☆ 3.6
(11) 『ガンダムビルドダイバーズ』 (綿田慎也/現在放送中/2018年) ※個人評価 ☆ 3.5{/netabare}
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<1> このうち西暦2000年代に制作された最初の3本(SEED/SEED DESTINY/00)は、内容はともかく新規ファンの獲得という点では成功作(※特に SEED は大成功作)といえると思います(※DESTINY は悪評も含めて一応は話題作)。
<2> また、UC/THE ORIGINの2本は、それぞれヒットはしましたが、おそらく既存のU.C.(宇宙世紀)シリーズのファンの支持を受けただけで、新規のファンを獲得したとは言い難い。
<3> そして、AGE/Gレコは、新規ファンの獲得という意味では失敗作、とくにGレコの方ははっきりとした爆死作といえると思います(※なお、AGEは個人的には好感度の高い作品となりました)。
<4> その他、ガンダムビルド~は、新規ファンの獲得に成功したかはよく分かりませんが、その親世代のガンダム・ファンには受けた作品と推測します。

・・・ということで、
<5> 西暦2010年代に入ってから制作された《ガンダム・シリーズ》の中で、胸を張って“新規ファンを獲得できた”といえるのは、本作『鉄血のオルフェンズ』だけではないでしょうか?
(※私見では、本作にはそうなるだけの魅力-近年のガンダム他作品にはない特別な魅力-があった、と思っています)


◆考察まとめ :《ガンダム・シリーズ》の今後に対する本作の影響は?

本レビューの一番最初に、

「英雄群像劇」とか「英雄一代記」と呼ばれるバトル系の物語にも色々とバリエーションがあって、その大きな分類の一つは、(1)騎士道もの と (2)任侠もの

・・・と書いていますが、実はこの分類にはもうひとつ、騎士道ものでも任侠ものでもない、便宜的に、

(3) プロ市民もの(*1)、

とでも称すべきサブジャンルがある、と思っていて、その代表作が、『機動戦士ガンダム』(初代ガンダム)と考えているのですが・・・

<1> その初代ガンダムの原作者であり監督である富野由悠季氏が久々に監督を務めた『ガンダム Gのレコンギスタ』が見るも無残な爆死を遂げる一方で、
<2> その半年後に放送が始まった、メカ・デザイン的にはともかく登場キャラの設定的には初代ガンダムのイメージが皆無の(※つまり、これまで《ガンダム・シリーズ》の諸作品の中で繰り返し描かれてきたアムロ的な一面を引きずっているキャラクターが皆無の)この『鉄血~』が、主に新規ファン獲得成功によって収益面でかなりの好成績を収め、それまで本作について否定的な評価を繰り返してきた既存ファン層も次第に沈黙を余儀なくされていったことの意義は意外と大きいのではないでしょうか?

・・・つまり、《ガンダム・シリーズ》をスポンサードする玩具会社、そしてアニメーション企画会社・制作会社が、最早アムロをどこかしら引きずるキャラを主人公とする作品は売れなくて、その正反対のキャラ付けをした主人公の作品の方がずっと売れる、という学習効果をきちんと受け容れるとしたら、今後制作される新作にも、そういう制作方針が踏襲される可能性が高まるはずです。

(*1) 『ガンダム』の主人公アムロ・レイが、騎士道的でもなく任侠的でも全くない、どういう訳かとにかく教条的・原理主義的な戦闘忌避・反戦主義者で、それでいて散々勿体をつけて嫌々ながら戦闘に入ると、俄然君子豹変して無類の強さを発揮してしまう意味不明な(※もしかして逆ギレ?)タイプであることから、そういうアムロのような思考・行動パターンのモデルとなったのかも?な「プロ市民」の方々に敬意を表して、便宜的に「プロ市民もの」とここでは命名しています(※もっと適切な命名があればご意見を下さい)。

なお、ここで「プロ市民」という言葉の意味が分からない人は検索してみて下さい。
簡単にいうと「プロテスト(抗議、異議申し立て)する市民」という意味で、ガンダムに搭乗して出撃することを嫌がり駄々をこねたり拗ねて周囲に当たり散らすアムロにピッタリな用語ですが、他にも「プロフェッショナルな市民」「プロブレムをまき散らす市民」「プロパガンダを繰り返す市民」等の複合的な意味があるそうです。

また、蛇足ながら富野由悠季監督は1941年11月生まれで、1960年の安保闘争(60年安保)当時は丁度東京で大学生をしていた世代であり、かつこの世代はのちの70年安保世代(全共闘世代)と並んで「プロ市民」としての自覚に富む人が多いとされていて、『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイだけでなく富野監督の次作『伝説巨神イデオン』の主人公ユウキ・コスモのキャラ付けにも、そういう彼の所属した世代の価値観が反映されているのかも知れません。


・・・以上まとめると、最初に書いたとおり本作を見始めた当初は、「何だ、この“任侠ガンダム”は?」と訝(いぶか)しむ気持ちが強かったのですが、途中から、「結果的に“プロ市民”ガンダムを駆逐してくれるのなら、本作みたいなのも有りかな?」という気持ちに次第に変化してしまい、それが私の本作への個人的評価が大きくプラスへと変わる決め手となったように思います。

※因みに、私が本当に見たいのは“騎士道”ガンダムなのですが、そういう作品は今のところ未だ制作されていません(一応、『機動戦士ガンダムUC』が一番それに近いと思いますが)。

投稿 : 2024/10/26
♥ : 22

◇fumi◆ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

戦場じゃあまともな奴から死んで行くんだよ!この滅びの美学を見よ!

2016年~2017年放送のテレビアニメ 全25話
 
監督 長井龍雪 構成 岡田摩里 音楽 横山克 制作 サンライズ

基本ストーリーは長井龍雪が決め、設定に鴨志田一、キャラ原案に「皇国の守護者」の伊藤悠が当たった。
脚本は岡田摩里と鴨志田一が交互に、さらに一部をベテランの吉野弘幸、黒田洋介など。

最も不満だった点はメインの舞台であるテラフォーミングされた火星の描写がほとんど無いこと。
遠くに見えるはげ山は現在の火星の想像図でありテラフォーミングされて数百年後とは思えない。
過去作から監督と脚本はSFと無縁の人のようですが、
本格SFロボットアニメである以上、最も気を使ってほしい部分であり、
機動戦艦ナデシコやARIAなどの過去作より劣る結果になりました。

第二期のストーリーは歴史ファンなら一目瞭然、「源家物語」です。
歴史ファン以外の人に説明すると、
平家と源氏、なぜ家と氏なのか考えてみてください。
源平合戦の前半、保元平治の乱で源家は滅びたのです。
源氏とは諸国に散らばった源家の関係者を指し、平家とは平の一家を指します。
富士川の戦いは平清盛の派遣した軍と平氏の分家北条氏の戦いです。
「源家物語」とは書かれなかった源義朝と源家の滅びの物語のことです。

本作における長距離決戦用兵器ダインスレイブは当時の新兵器弓を指し、
平治物語で機動力に奢った源氏武者が平氏の弓一斉攻撃の前に総崩れになるシーンがネタ元と思われます。

源家と鉄華団の主人物を照らすと、
オルガ・イツカ→源義朝(京の戦いに敗れ本拠地関東に逃走中に暗殺される)
三日月・オーガス→悪源太義平(義朝の死後も平家に戦いを挑み戦死する)
ノルバ・シノ→鎮西八郎為朝(新兵器強弓で平清盛を狙い失敗する)

クーデリア・バーンスタイン→後白河法皇
マクギリス・ファリド→崇徳上皇
ラスタル・エリオン→平清盛

源家物語とは平家物語の10数年前の歴史であり、日本人で詳しい人は多くない。

滅びの美学をすでに知っている人にとっては間違いなく傑作物語であるが、
吉川英治の「新平家物語」でも読まないことには分かりづらいネタでもある。

このストーリーの意味が理解できない場合、本作の後半はストレスが溜まるばかりかもしれない。
幸い自分は何度も読んだ物語のため、第二期後半は非常にすんなりと観ることが出来たため、
相当な名作として評価できました。
もっとロボや使用武器などを研究して説明したいところですが、
長大になるため興味がある人は説明本を読んで何度も視聴すれば人生の糧ともなる、
素晴らしいアニメ作品であると私は判断できました。

元ネタとして滝沢馬琴の「椿説弓張月」12年のNHK大河ドラマ「平清盛」
古書「保元物語」「平治物語」「源平盛衰記」
吉川英治作「新平家物語」NHK大河ドラマ「新平家物語」は消去
任侠系については、やや後の時代の大河ドラマ「草燃える」が元ネタ

投稿 : 2024/10/26
♥ : 35
ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

不在の政治性

*内容に変更はありません



一期のラストで主人公と子供たちに出された「宿題」は果たされ、二期の終幕では本が読めるようになった主人公。
しかし、その「先」を自らが考え出すには、作中の時間は足りなかったようだ。


{netabare}作中で何度も、教育が無いために稼いだ金銭の使い途すらも考えることが出来ないと描かれる鉄華団団員だが、彼らをまとめる唯一の理念は「家族」として表現される。
ヤクザの「一家」に近似してゆくのも、必然かもしれない。

主人公がアトラとの間に子供を作ろうとするのも、ヤンキーにありがちな早婚ではなく、「本を読める」ようになった主人公の精一杯に見出したものが、「家族」であったからだ。
クーデリアに「赤ちゃんを作ろう」と呼びかけるアトラは、別に性的関係を結ぼうと誘っているのではなく、言葉通りに「子供を作ろう」=「家族になろう」という素直な呼びかけをしているに過ぎない。

キャラクターの一人一人を、丁寧に細かく描写しているために、彼らの「家族」は、とても自然に強固なものに見える。
が、「家族」の枠を超えて人がつながるためには、何らかの理念が必要になる。
例えば、イデオロギーはその一つだ。

「家族」の実体性を演出するため、本作では「イデオロギー」は空虚な否定性として描かれざるを得ないようだ。

二期の冒頭でクーデリアに接近する「活動家」が、三流のイデオローグとして描かれるのがその現れだろう。
いや、イデオローグを名乗る、単なる「政治ゴロ」として描いてしまう視点が、本作のストーリーラインを規定している。
終幕のマクギリスの挙兵の場面において、彼の主張が対抗勢力から「たんなる詭弁だ」と一蹴されてしまうのも、同じ流れからくる必然だろう。
視聴者からはほとんど意味不明に見えるマクギリスの主張と戦略は、説得的なイデオロギーを描写することが、設定の必然によってあらかじめ不可能と定められていることによる。

ラスタルとの開戦の後、火星へ退却するマクギリスに対して「鉄華団の戦闘は、降りかかる攻撃を退けてきただけだ」と語るオルガだが、そもそも「鉄華団」を結成し、これを経営しなければならない境遇自体が、社会からの「攻撃」であるという視点は持てない。
自分の過酷な少年時代を、社会からの「攻撃」であったと自覚したマクギリスと対照的だが、ここでも「教育」の有無が視点の差を生んでいるようだ。
しかし、「攻撃」に対抗する反抗を、イデオロギーとして表現することまでは、上記の理由で出来ない。
イデオロギーが不在である結果、オルガは、ついに「家族」の生存を超えるその先を指し示すことが出来ないまま、最後を迎える。

社会的な不正義を表現する「理論」の不在が、マクギリスの決起に際して、火星側からは鉄華団ただ一つが参加するという作劇になって展開される流れを生む。
何らかの「理念」の共有が存在していないことが、「鉄華団」が応援勢力を招集できずに単体で戦闘参加する展開を必然化する。
「家族」を超える理念を持てない鉄華団は、「家族」外の助力を応集する影響力を持てない。

作中の「世界」においては自然で必然的な展開なのだが、この必然を生むのはイデオロギーの排除という設定だ。

この現状は、火星の「全住民」に関係する不公正の現れであると「理論化」するイデオロギーの不在。
「俺は儲かっているから関係ない」と言う者も例外ではないのだ、という「理論」の不在。

象徴的に言うならば、この「世界」には「ジオン・ダイクン」が不在である、と言えるだろう。
逆説的に、イデオローグ=ジオン・ダイクンの不在によって、この「世界」の政治性は定義されている。


作中からイデオロギーが排除されるのは、アニメ作品に政治的なものが入り込むことに拒絶的な視聴者の気分を配慮してのことかもしれない。

だが、アニメに政治を持ち込むな、というのも一つの「イデオロギー」だ。
アニメは政治と切り離されている、というのは、即物的な事実ではなく、そのような「見方」をするという態度表明に過ぎない。

ウヨクが「反日アニメだ」、サヨクが「大政翼賛アニメだ」と主張するときに、それぞれのイデオロギーからの視点を明確にしなくては説得力が皆無であるように、「政治的に中立なアニメ」とみるためには、中立性を証明する必要があるだろう。
自明の事実だからそんな必要はない、と言うだけでは、説明抜きに「反日アニメ」「大政翼賛アニメ」と言い放つ人がまともに相手をされない事態をなぞるだけにしかなるまい。

本作におけるイデオロギーの積極的な排除は、視聴者の欲望に応えて、中立性を自己証明する意図があるように見える。

しかし、イデオロギーの不在は、反対に立つギャラルホルンの、特にラスタルの立場をも不安定にする。

終盤の決戦におけるラスタルの立場や役割が、今一つすっきりと視聴者に了解されないのは、イデオロギーの不在が反対者のイデオロギーをも曖昧にするからだろう。

思い出したように「合法/非合法」や「マスコミ工作」が持ち出されるが、いかにも唐突だ。
作中の設定に入り込んでみれば、支配システムが劣化して「法治」が形骸化している、平たく言えば、「影響力」があれば法律に違反しても罰を受けなくても良いという、「支配者」が法律を捻じ曲げて世の中が動いているという状況だが、これも視聴者の政治観に寄り添った表現なのだと言えるかもしれない。
「政治」は「えらい人」が「上の方で」動かしている「難しい」ごちゃごちゃで、「自分なんか」には「カンケー無い」出来事であるという政治観を反映しているのだと。

だとすれば、自分の予想や期待に反する展開に出会うたびに「クズ」「カス」とレッテルを貼ることが権利であると疑わない視聴者が、終幕の不透明ですっきりとしない展開を間接的に制作者に要求したのだ、と言えなくもない。


だが、イデオロギーが不在であっても、それがそのまま政治性が無いということにはならない。

確かに、イデオロギーによる「正義」の争奪を、製作者は退けているように見える。

それぞれの立場に、それぞれの「正義」があり、互いに尊重し合うべきだというのが現在主流の考え方だろう。
それぞれの「正義」に応じて、「現実」はそれぞれに異なって見える。
他者の見え方を否定することはできない。

だが、通常の普通人は、他者と共に一つの現実に生きていると「信憑」しているはずだ。
歩行者天国に車が突っ込んできたとき、逃げ惑う人々を見ながら「彼らにとっての『車』は私にとっての現実とは限らない」と傍観する人はいないだろう。
誰でも一斉に車から逃げ惑う。
車から逃げなければならない同じ「現実」に、他者も自分も所属していると疑いの余地なく感じている。

いわば物理的に唯一であると信憑されている「世界」を、多様な価値観による異なった「世界」という解釈で取り仕切るのは、もう無理がきているのではないか。

「無理」は、「現実」的な衝突に至るほかないだろう。
本作の戦闘シーンにおいては、戦うキャラクターたちは、互いに交感することは無い。
敵手は、ただの邪魔者、排除すべき対象として現れ、殺すことに互いにためらいはない。

敵であっても殺してはならない、戦いは肯定されてはならない、といったアニメ的な理念は、つまるところ「現状の社会を乱すものが悪」というタブーへ行き着く。
いっけん非情な殺し合いを描く本作は、このような「タブー」の欺瞞を冷静に対象化する製作者の視線を物語っているようだ。

体制の不変を絶対とする「タブー」は、社会に圧殺されようとする者に反撃を禁じる。
普通に物語を構想すれば、反撃をするには、「タブー」を覆すに足る「正義」が要請されるだろう。

しかし正義を裏付ける「イデオロギー」が排除されていれば、残るのは、いかに体制から虐待されているかという事実性しかない。
マクギリスの空想的な決起の呼びかけの背後にも、社会に虐待を押し付けられた幼少期という具体性がある。
ともすれば「奴隷の鎖自慢」のように、一番不幸なものが一番正しいという「不幸自慢」に陥りかねない作劇だが、ラスタルや、イオクですらも背負うものがあることを丁寧に見せることで、製作者は巧妙に切り抜けているようだ。
こうした点で、キャラをかき分ける製作者の手腕は非常に巧妙だ。

こうして、互いが互いの邪魔者として、互いに排除しなければならない敵である非情な戦いは、製作者の怜悧な視線の下に実現した。

同時に、「正しい」を主張し合うのではなく、「許せないもの」を撃滅するという形での政治性が浮上する。


一期のレビューで、作品世界に「影響力」の綱引きという形で「政治」性が登場したと記した。

影響力は「正しさ」を主張するイデオロギーによってだけ生まれるものではないのではないか。

視聴者が「政治」が作品内に入り込むのを嫌うのは、イデオロギーの主張する「正義」が不完全で、自分の「正義」と完全に一致することが無いからだろう。
不完全な「正義」を、唯一絶対の「正義」だと主張するイデオロギーへの不信。
こんな「正義」で人が殺されるのを正当化されるのは、いかにもグロテスクに見える、と。

だが、政治性は「正しさ」を競う形でだけ現れるとは限らない。
何が「許せない」かという形での闘争もあり得る。

現実の政治においても、選挙の投票率が低いのは、「正しさ」が完全であるかという面からのみ「政治性」が捉えられているせいだろう。
商店で商品を選ぶように、「私を100パーセント満足させる商品=正しい候補に、対価=投票を与える」のが選挙であると考えていれば、どの候補にも投票できないのは当然だ。
が、絶対に「許せない」ものは何かという視点もまた、政治的だろう。
「許せないもの」を殴りつける棍棒のような道具として有効な候補者を選ぶ、という視点もあり得る。

「家族」的な絆で内向きに結束する鉄華団が、それでもクーデリアやマカナエと協同できたのは、「許せない」ものが共有されていたからだ。
理由は異なるかもしれないが、「現に、私が」許せないものが同じである共有性が、彼らを結び付ける。
こうして作中の闘いは、互いに「許せない」ものを叩き潰すものとして、描き出されることになる。
戦いの帰結が、互いの「許せない」ものをどれだけ消滅させるかの「影響力」の増減を生み出すだろう。


一期の終幕において、「許せない」ものへの攻撃として起ちあがった鉄華団の「蜂起」は、二期においてはマクギリスによって担われたようだ。

社会に敵対するものとして起こされた彼の決起は、主観的には「蜂起」なのだろう。
「蜂起」の同志は、彼と共に起った部下たちではない。
死の間際に、社会に反逆して戦いに挑む者たちの登場を予期したように、あとに続く無数の「蜂起」者へ向けて、先陣を切ったアジテーターとして自己了解していたのではないか。

殆んど一貫した理屈の見えないマクギリスの演説だが、そもそも「理論」は問題ではない。
「反対するなら代案を示せ」は、現状維持勢力が、反対=「許せない」と言わせないために持ち出すイデオロギー言語に過ぎない。
何よりもまず「許せない」と宣言すること。代案は反対の必要条件ではない。それが蜂起だ。


ラストで、再び影響力のプレーヤーとしてクーデリアが浮上する。
プレーヤーとしての登場自体が影響力の駆け引きの結果と描写されているが、駆け引きの結果でヒューマンデブリや火星自治の状況が改善されたのであれば、鉄華団やマクギリス艦隊の戦闘と死は、無意味だったのだろうか。

もちろん、彼らの闘いが支配階層を「改心」させて「正義」に目覚めさせたわけではない。
それが不満ですっきりしない視聴者もいるかもしれない。
結局、頂上に立つギャラルホルンの支配性はそのままではないか、と。


フランスでは1789年の大革命以来、19世紀を通じて共和制、帝政、王政と目まぐるしく政体が変わり続けた。
しかし、共和制から王政に変るときでも、選挙権や労働権、福祉などは、少しづつでも拡大してきた。
大革命という暴力と、続く大小の市民の蜂起という実力行使が、時々の支配者に、市民に「配慮」させざるを得ないよう強制し続けたのだ。

本作の「世界」で、ヒューマンデブリが存在し続けたのは、彼らを搾取することで利益を得るものが、存続を望み続けていたからと言える。
ヒューマンデブリが消滅すれば、それによって不利益を被るものが必ずいる。
破産して自死するものも出るかもしれない。

だが、「影響力」の駆け引きの地図が、支配者に、ヒューマンデブリに配慮しなければ「ならない」と強制するよう変化した。
これまでの既得権益者を死なせても、ヒューマンデブリを無くすようにと。

鉄華団の闘いこそが、支配者に「配慮」をさせる「影響力の地勢変化」を生み出したことは疑いないだろう。

支配者を打倒したかという意味では、鉄華団は「敗北」して「犬死」したと見える。
が、「許せない」ものを殴りつける闘いは、影響力の綱引きのバランスを変化させた。
一見、敗北したように見える闘いは、決して「敗北」ではない。
帝政によって覆されたかに見えたフランス革命が、市民権の拡大という意味で「敗北」ではなかったように。

このように政治アレルギーが嫌う「正義を掲げるイデオロギー」に導かれたものとは全く違う、「許せない」ものに抵抗する政治性が、本作には刻まれている。

本作ラストの火星と鉄華団生き残りの境遇は、「正義」の実現したユートピアとはとても見えない、不十分で微温的なものにしか見えないかもしれない。
実際にユートピアなどでは無いし、アドモス商会とテイワズの関係すら、将来は破綻してもおかしくはない。
いずれ、別の場所で別の誰かに「社会」の負が押し付けられてゆくのは、避けられないように見える。

だがその時には、新たな、別の「鉄華団」が生まれるのだろう。
マクギリスが望んだように、蜂起はいつでも繰り返され得る。
「許せない」ものへの反抗がある限り。


「正義」を掲げるイデオロギー不在の物語は、「許せない」ものへの抵抗という、より一層強固な政治性として現れたようだ。

政治的なものから遠ざかるという宣言は、消極的には現状の政治への賛成という形となって、現状の固定の威力として統合されてしまう。
中立であるという自己認識は、意図せずに、現状という「特定の」政治的立場への賛成となって政治性を帯びざるを得ない。

果たして計算の結果かは分らないが、いっけん政治性を拒絶している本作は、安直な「中立」の罠に囚われることなく、現代的な政治性をあらわにしている。


二人の「母親」とアカツキの前に広がる、希望に満ちている未来とも、凡庸で灰色の未来とも決めかねるラスト。
「泣ける」とも「笑える」ともレッテルを貼られることを拒絶する両義性が、象徴的に思える。{/netabare}

正義に反する「から」許せないのだ、と考えて行動するとき、まず「正義」が先行して在る。
もしも「正義」を支える基準が変化したり、行為が敗北した時、「正義」の名においてなされた一切の行為も否定されざるを得ないだろう。

が、「許せない」がまず先行し、「なぜ」許せないかの根拠づけとして「正義」が生じるとしたならば、「正義」が否定されたとしても「許せない」の存在は決して消去し去ることはできない。
蜂起の純粋性とは、「許せない」の先験性にある。

本作において、「許せない」を裏付ける「正しさ」の描写は確かに十分ではない。

「正義」が先行して戦いを正当化する、という従来型の作劇になれていれば、意味が不明なところも多いだろう。

しかし、「許せない」が先行する蜂起を描き出したところに、本作の独創を見たい。

投稿 : 2024/10/26
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