素塔 さんの感想・評価
4.6
成長ムーブ、仲間スイッチ
内外で人気沸騰中の本作について、すでに評価は出尽くした感がある。
そうした中で、今さら追記を思い立ったのには、或るきっかけがあった。
本作を語る時、必須ワードのように頻出する「成長」という言葉をめぐって、
そうした捉え方への違和感をストレートに表明した一本のレビューに出会い、
虚を衝かれたような、衝撃に近い印象を受けたのである。
前回の投稿の中で、「自分スイッチ」などというワードを仮設しつつ
ぼっちの「成長」のニュアンスを掬い取ろうと試みた当方としては、
この点をあらためて問い直してみる義務があるような気がしたのだ。
― 果たしてぼっちは、本当に「成長」しているのだろうか?
この問題は多分、最終話のラストに付された例の短いシーンをどう捉えるか、
観る人それぞれの判断に帰着するのではないかと思う。
そこにさりげなく定着された、ぼっちの日常の、本当にささやかな変化。
確かにこれを「成長」とまとめてしまっては、ちょっとズレてしまうような気もする。
そこを認めた上で、以下は自分の個人的な考えになる。
重要なのは多分、実際にぼっちが成長しているかどうかといった、
そういう主観的な判断ではなく、客観的に見て本作に
「成長」という言葉で言い表せるような内実があるかどうか、
いわば"成長ムーブ"とでも呼べるものが認められるかどうか、ではないかと思う。
(もちろん、主観こそが第一。が、ここは一応、作品評価の前提としての話。)
「成長」の定義などはこの際、どうでもよいのであって、
必要なのは、その言葉が意味あるものとなるための「条件」なのだと思う。
おそらくそれは二つ。まず、当人がそれを願っているかどうか。
そして、それを認めてくれる相手が身近にいるかどうか。
・・・この辺りを作中から指摘してみると、
第2話。バイトを始めたぼっちが何とか仕事をこなしながら
「わたし、成長してる!」と舞い上がるシーン。
それから、最終話の虹夏ちゃん。人形みたいにされるがままのぼっちを見て、
「最近、成長したと思ったけど、こーゆーとこ、まだまだだな…。」
何が言いたいのかというと、結局「成長」とは、当人と、
それを見守る眼差しと、その両者の「間」にあるものなのではないか、ということ。
もしも自分が「成長」を欲していて、それを認めてほしい相手から
その言葉が聞けたとしたら、やっぱり嬉しいだろうと思うから。
本作ではバンドメンバー以外にも、店長、廣井姐さん、ファン1号2号さん等々、
ぼっちに注がれる多種多彩な眼差しが、自然に作中に成長ムーブを形成しているようだ。
ぼっちの成長が仮に微妙だとしても、四人合わせた結束バンドの進化は
明らかにストーリーの骨格となっていて、ここを見ないわけにはいかない。
この進化を「成長」と呼ぶことは、決して間違いではないと思えるのだが…。
ライブを重ねながら、ぼっちの「自分スイッチ」はバージョンアップし、
仲間の危機に際して発動する「仲間スイッチ」に更新されてゆく。
そして、それをメンバー全員が共有することで生まれる「双方向性」。
それが最高にエモく描かれるのが、最終話の喜多ちゃんのアドリブだ。
こうしたメンバーたちの相互変化は、丁寧に描かれた「成長」の過程であって、
作品の展開の中に熱くみなぎるこの成長ムーブこそが、やはり本作の軸となり、
観る人の共感と感動を喚ぶのだろう。
「自分スイッチ」
{netabare}平成が「属性」の時代だったとすれば、
つづく令和は「カテゴリー分類」の時代なのかも知れない。
「けいおん!」のメンバーが、天然、クール系、癒し系、元気っ子など、
代表的な属性を取り揃えたカタログのようだったのに対し、
本作のキャラづけは基本、「陰キャ/陽キャ」というフラットな分類になる。
陰キャの主人公、ぼっちちゃんの奇行ばかりが目立つ作品に見えるが、
どうもそれは、その陰キャぶりを楽しくいじっている制作陣のせいではなかろうか。
今回の第9話はさながら「陰キャ/陽キャ」のオーラ競べの様相を呈していて、
何となくそこに、本作の演出コンセプトが見えたような気がしたのだ。
キタちゃんの陽キャオーラ、リミッター解除。
陰キャぼっちは心神喪失の果てに、江ノ島に来てついに爆発。
すなわち、誇張程度にとどまらず、しばしばシュールな域にまで暴走する演出は、
何なら限界までいじり倒して爆発させてやれ、くらいの気合を入れて
極限まで陰キャオーラを増幅させる意図に基づいたもののようである。
"いじる"というと、面白半分に笑いものにするみたいに聞こえるが、
ここでいじられている「陰キャ」のキャラは、性格類型としての「属性」とは異なり、
その人自身とは部分的にしか関わりをもっていない。
それはいわば周囲との共犯関係で成り立つ意識化された役回りのようなもので、
外部との界面部分だけを規定する、自己の外延に過ぎないものだ。
したがって、そこをいくらいじってみせても不快にはならないし、
そもそもぼっちの場合、「陰キャ」だという自意識が過度に肥大化した結果、
元々の人見知りとコミュ障をさらにこじらせてしまっているふしがある。
だからこそ作り手は、ぼっちをいじり回す。
情け容赦のない仕打ちに見えても、それは愛情に裏打ちされたものなのだ。
と言うのも、単なる"分類"に過ぎない「陰キャ」の背後にこそ
その人本来の自己が隠されているという前提がそこにはあるからだ。
ぼっちの「成長」とは多分、殻を破るとか新しい人間になるとか、
そういったラディカルなものではないのだろう。
ライブでも本当の実力を出せるようになるといった目前の課題のように、
ずっと出せずにいた自分を出せるようになる、そういうことなのだと思う。
新しい出会いの経験の中で確実に"気づき"を重ねていくぼっちには
柔軟な受容能力が認められるし、何よりも他者に対する自然な信頼をもっている。
そして、自分を支えてくれる仲間たちに応えようとする衝動がMAXになった時、
彼女自身にも思いがけない勢いでそのポテンシャルが顕在化する。
魂に火がつく瞬間。自分へのスイッチがONになる瞬間。
この爆発こそがぼっちのロック、「ぼっち・ざ・ろっく」だ。
その時の彼女のギターには有無を言わせぬ迫力と説得力が宿る。
鳥肌もののライブシーンと、まったりシュールな日常との、
ON/OFF の切り替えが本作固有のリズムとなっているようだ。
陰キャメインにも拘らず、むしろカラリと乾いた、風通しの良い印象があるのは
こうした独特のスタンスから来ているような気がする。つまりは遊び心だろう。
(「けいおん!」の場合、ユルそうに見えて、実際には密な人間関係が延々と続き、
二期の途中で息苦しくなって挫折した経緯がある。)
随所に見られるさりげない仕込みにも作り手のセンスが感じられる。
今話では、爆発したぼっちがひらひらと宙を舞うシーンの直後に
1トンの力でプレスしたというタコせんべいをつなげる、といった具合。
ごく平凡なきらら4コマを、よくぞここまで転生させたものだと感嘆を禁じ得ない。
てなわけで・・・
あははー、素塔さん、バンドアニメなのにクソまじめすぎーーー。(by 虹夏)
実は当方、ロックの知識は幼稚園児と変わらないレベルなのである。
(つい最近「風夏」を読んで「グルーヴ感」なる言葉の意味をはじめて知った。)
そんな私の人生初、そしておそらくは最後となるであろうロック体験が「結束バンド」。
逆に突き抜けちゃった感じがちょっとロックかも・・・。{/netabare}
2022.12.5 投稿 2023.1.4 追記