切ないアニメ映画ランキング 14

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ランキングはあにこれのすごいAIが自動で毎日更新!はたして2024年05月04日の時点で一番の切ないアニメ映画は何なのでしょうか?
早速見ていきましょう!

80.6 1 切ないアニメランキング1位
蛍火の杜へ(アニメ映画)

2011年9月17日
★★★★☆ 4.0 (1070)
5191人が棚に入れました
祖父の家へ遊びに来ていた6歳の少女・竹川蛍は、妖怪が住むという山神の森に迷い込み、人の姿をしたこの森に住む者・ギンと出会う。人に触れられると消えてしまうというギンに助けられ、森を出ることができた蛍は、それから毎年夏ごとにギンの元を訪れるようになる。

声優・キャラクター
内山昂輝、佐倉綾音
ネタバレ

★mana★ さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

10年分の想いを、今ここに・・(ギン視点で観てみました)

ねえ、蛍。
俺はずっとここに居るよ?
何年、何十年たとうとも。
たとえ、君の瞳に写らない
そんな存在だとしても。

俺が過ごした、途方もない時間。
そんな中で、蛍と過ごした時間は ほんの一瞬だった。
でもね、俺にとってはその一瞬が大切で愛おしくて、仕方がなかった。

蛍は俺に、優しくて、温かい感情をたくさんくれたね。
でも、それは、切なくて、苦しくもあったんだよ?
蛍は気付いてないかもしれないけれど・・
まるで夏の夜に光る、ホタルのヒカリのような、
そんな儚くて脆い、だけど、強くて、美しい。
そんな日々だったね。

蛍は俺に「忘れないで」と言ったよね?
忘れる訳がない。忘れたくない。
でもね、蛍は忘れてしまってもいいんだよ?・・


蛍に出会ったのは、蛍がまだ小さい時だった。

{netabare}

~蝉の詩、笑い声・・~
鳥達の囀り、木々の揺れる音・・
そんな森達の雑談と共に聞こえた、泣き声。
それが蛍だった。
蛍は、俺を見ても少しもこわがらなかったよね。
むしろ、楽しそうに俺に触れようとして来た。
まだ小さい蛍には「消える」という意味さえ理解出来なかったんだろう。
でも、俺には それが素直に嬉しかったよ。
1人の存在として認められているようで。

~夕やけの茜色、帰り道、遠回り~
「何かデートみたいデスネー」「色気のないデートデスネー」
そんな他愛ない会話を繰り返したね。
手をひいてあげる事は出来なかったけれど、
その先から伝わるこの想いは、一体何なんだろう?
何だか、胸の奥が温かくなるような・・

別れる時、蛍は俺の名前を聞いた。
俺の名前は・・無言・・疑問と不安。
そんな時、風が俺の背中を押した気がした。

~約束は「また明日」~
明日も来ると走って行った、蛍。

「ギンだ」

翌日 本当に蛍はやって来た。
そして、約束の場所で、待っていた俺が居た。

~夏はただ、咲き誇り~
冷たい小川に、暑い夏の日差しが差し、キラキラしてる。
全てが美しく、夏が輝いていた。
それは、蛍が側に居るからなんだよ?
蛍と見る全てが、今までとはまるで、違って見えた。

~その命輝かせ~
俺はただ、生かされて、ただそこに存在しているだけだった。
何も意味をもたない、あやふやなモノ。
だけどね、今まで感じた事のない、自分の存在。
俺は自分というものをこんなにも感じる事が出来るんだ。
夏が待ち遠しい、蛍に会える事が、素直に嬉しい。
そう思えた。
そんな夏が何度も何度も訪れた。

ある夏の事だった。
蛍は俺を驚かせようとして、見事に木から落ちて来た。
俺は、そんな蛍を受け止める事が出来なかった。
自分の存在が無くなってしまう事を恐れたのか・・?
そんな気持ちとは裏腹に、蛍は安堵の顔を見せた・・
そして、大粒の涙を流した。
何故泣いてるのかは、分かってた。
涙は止め処なく流れ続ける。
でも、俺は その涙を拭ってあげる事も出来ず、ただ、その泣き顔を見続けた。

出会わなければ、こんな想いをさせなかった?・・
出会わなければ、こんな想いはしなかった?・・

~終わらない、お話のその先に気付いて~
蛍は毎年、会う度に、成長していく。
それは、普通の人間の子なら当たり前の事なのは分かっていた、、つもりだった。
少しづつ、目線が近くなって来る。
それを複雑に感じつつ、俺の感情に違う何かが芽生えはじめた。
いつか感じた想いとは、全く別物。

蛍に・・会いたい。
蛍に・・触れたい。

この胸を締め付ける感覚は・・

~カラス達遠ざかり、どこかへと飛んでゆく~
離れてる時間がこんなにも長く、辛く感じるなんて・・
今まで考えた事も無かったよ。
蛍は今何をして、何を見て、何を考えてる?
いつからか、俺の中は蛍でいっぱになっていた。
いつか、こんな気持ちが届く日が来るのだろうか?

真っ白な雪の上に散る椿が一際紅く見えた。
俺の心の中のように。
真っ白な心の中に、真っ赤に燃える感情が一つ・・
蛍がくれた温もりで、いつもの冬より、身体も心も温かかった。

~夏はただ駆け抜ける、宝物、しまうように~
ある夏、蛍は言った。
春も、秋も、冬も、俺の事を考えていた、
そして、もっと一緒に居たいと。
俺は、自分という存在の全てを打ち明けた。
打ち明けなければならないと思った。
俺は、蛍を幸せにはしてあげられないから、永久に・・
こんな俺の為に犠牲になる事なんてない、もうここには来なくていいよ?
俺はずっとこうして、だだ存在しているだけで、何も変わらない。
“決して忘れられない、かけがえのないモノが一つ増えた事以外は”
だけど、蛍から返って来た言葉は優しく、心が苦しくなった。
そして思った。もう、こんな夏を続けていてはいけないと・・

~いつまでもなつかしい、あの頃は黄金色~
いつか蛍と行きたいと思った、 「妖怪達の夏祭り」。
誘うのは、ちょっと照れ臭かったけど
蛍は喜んで、行きたい!っと言ってくれた。
そして、少し不安な言葉を口にする。
不安な事はないよ、だって蛍は、俺が守るよ?
そう言うと蛍は、少し頬を紅くして
「そういう事を言われると、飛びつきたくなってしまう」と言った。
・・「飛びつけばいい、本望だ」
もし、それで俺が消えても何の後悔もない、今なら全て受け止める事が出来る。

~何気ない毎日の片隅を照らしてる~
手を伸ばせば、届く距離。
一番近くに居るのに、一番遠い存在。
俺は、蛍を抱きしめたかった。
そして、その手に、その髪に、頬に、
一瞬でいい・・その温もりに触れたい。
もう、気持ちが抑えきれなくなっていた。

~夏はまた、やってくる約束を守るように~
祭はいつもの夏と同じようにやって来た。
でも、今年は隣に蛍が居る。
毎年思い描いていた光景。
「デートみたいデスネー」「デートなんデスネー」
10年前、初めて会った日に交わした会話。
10年越しの、始めてのデート。
やはり、あの日のように手はひいてあげられない。
でも、振りなら許されるよね?

息を吹きかけると回る風車。
金魚すくいをする子供は、尻尾を隠しきれてなくて。
偽物の綿あめが空に浮かび上がり、その空に花火が咲き誇る。
蛍はそんな光景に、ずっと笑顔だったね。
その笑顔を見て俺も笑った。

このまま時間が止まってしまえばいい・・。
そんな、叶わぬ願いをそっと胸にしまい込んだ。

楽しい時間は一瞬だった。
蛍と過ごした10年分の夏がそうだったように。
そして、俺は帰り道に全ての想いを蛍に伝えた。
こんな事を言っても困らせてしまう事は分かっていた。
だって2人は決して交わる事はないのだから。
そして、お面越しにくちづけをした。
これが蛍に触れられる精一杯。
蛍に捧げる、精一杯の気持ち。

蛍は今どんな顔をしてる・・?

そんな時、小さな子供が飛び出して転びそうになった。
俺は咄嗟にその腕をつかんだ。

・・刹那、指先から光を放つように消え始めた。
「あの子は、人の子だったのか・・」

もう、何もこわくはなかった。
ただ、願いは一つ。

「来い、蛍!やっとお前に触れられる」


ねぇ?蛍、覚えてる?
初めて会った日の事を。
笑いあった夏の日々を。
俺は忘れた事なんてなかったよ。
春も、秋も、冬も、会えない日々
ずっと蛍の事を考えていた。
蛍としたい事でいっぱいだった。
蛍とみたい物でいっぱいだった。
蛍と感じたい事でいっぱいだった。

でも、もうさよならなんだね。

蛍、こんな俺に気付いてくれてありがとう。
こんな俺を受け入れてくれてありがとう。

蛍の温もりを感じながら、最後に伝えたい事があった。




「好きだよ」



~夏はただ咲き誇り、その命輝かせ・・~






※~〇〇~
ED・おおたか静流『夏を見ていた』

{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 58
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

切なく儚い夏の物語

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。


 初見でした。自業自得ですが、短編と知らずに見てしまったため、少々の後悔が残ってしまいました。短編と気付いたのは終盤になってからです。短編と知っていれば、見方も少し変わったと思うのですが、残念です。作風はゆっくりしているのですが、テンポは速く感じました。賛否はあるかもしれませんが、もう少しキレを悪くした方が余韻が残ったかも、とも思います。シナリオ自体はかなり良いものです。セリフ回しに感情の機微が表れてますので、逃さないようにしましょう。短編ですので時間がないときでも見やすいです。


ジャンル:
 ジャンルは、妖怪との恋愛ものです。
テーマ:{netabare}
 テーマとして、子供時代との決別を描いていると思われます。主人公の蛍は、中学生で凧揚げ、高校生で釣りと、およそ年齢に相応しくない遊びをしています。ギンの近くにいるためには、子供でなければならなかったのです。蛍が大人に近づき、ギンとの間で愛情が生まれると同時に、ギンとの生活も終わりを迎えます。蛍の子供時代は遅まきながらも終わりを迎え、大人として歩んでいくことになります。 {/netabare}


エンディングへのフラグ:{netabare}
 この作品は、エンディングに至るために、特殊なフラグ管理を行っています。
 エンディングへのフラグは、大きく分けて二つ立てられます。一つ目は、ギンが蛍を助けるために触れてしまう、というものです。これを補完する水辺のシーンが複数あります。二つ目は、時間が二人を分かつまで一緒にいようという蛍の願い、つまり、蛍が死ぬまで一緒にいるというものです。蛍は作中で、卒業後にギンのいる街で就職すると述べています。触れたいと願いながらもこの二つ目のフラグを期待していました。ですが、いずれのフラグもエンディングとは異なるものでした。
 エンディングは、つまづいた少年を助けるためにギンが少年に触れてしまうというものでした。突然の事故であり、それもかなり小さいものです。視聴者をかなり驚かせます。
 作品におけるどんでん返しとは、構造自体を変えてしまうことが普通です。Aだと思っていたものが、実はBだったという手法です。例は控えますが、多くの作品に使われています。
 しかし、この作品では、構造自体がフラグになっているのです。転んだ少年は、お面の少女を追っています。いずれも年のころは幼少期の蛍に重なります。これは、男女を逆転させてはいますが、お面を受け取る前の蛍とギンの関係性と同じです。転んだ少年は蛍を象徴するキャラクターであり、ギンは蛍に触れたに等しいのです。つまり、蛍とギンという構造自体がフラグとしてエンディングを導いているのです。
 ギンも蛍に触れたいと願います。死別というフラグの否定です。しかし、触れる選択肢はありませんでした。触れるという結末は、ギンのせい・蛍のせい・合意の3種類が考えられますが、いずれにしても蛍が大きく傷付くことをギンは理解していました。だから、蛍との離別を選んだのです。実際には上述の事故が発生し、蛍を模した第三者(蛍のせいではない)をきっかけとして触れ合うことで、蛍の傷は小さいもので済みました。

 ちなみに、蛍が心に傷を負っていたことは確実です。物語の冒頭、蛍はおじいちゃんの家へ「毎年行っていた」と言っています。「毎年行っている」という継続表現ではないことから、1年以上の間が空いていることは明らかです。履歴書をもって出かけていることから、時系列としては、「ギンと分かれた高1の夏」「行けなかった高2・3の夏」「就活のために行く卒業後の夏」となっているのではないでしょうか。
{/netabare}

手つなぎ、木の棒、布:{netabare}
 エンディングと並ぶ見どころの一つです。
 ギンと初めて会ったシーンでは、木の棒を二人で「握り」ます。木の棒越しに伝わるギンをよっぽど気に入ったのでしょう、蛍は山を下りる際に木の枝で草を撫でながら鼻歌まじりに歩き、ギンの存在を手に反芻します。そしておじいちゃんと手をつなぎます。
 二日目には、ギンは木の棒を携えて登場しますが、その木の棒は持っていきません。代わりに蛍からアイスを受け取っています。もう木の棒は必要なくなりました。
 蛍が中学生になると、学友と手をつなぐシーンがあります。しかし、蛍には思春期特有のドキドキ感がありません。ただ「引っ張ってもらっている」だけという描写になっています。
 夏祭りでは布で蛍とギンの手首を「つなぎ」ます。重要なのは、布を「握っている」のではなく、手首で「つながっている」ことです。赤い糸も「握っている」とは言わず「つながっている」といいます。二人の思いが通じ合っていることが表現されています。子供が間を駆け抜けてもほどけることはありませんでした。もう手を「つなぐ」必要はなくなりました。
 その後、ギンに「来い」と言われ、蛍は飛び込むようにギンに抱き付きます。抱き合うのではなく、抱き付くという描写も、初対面の時に繰り返しチャレンジした願望を成就させたものです。
 なお、紐ではなく布であったのは、蛍が送ったマフラーへのギンなりの返答だからでしょう。
{/netabare}

蝶とホタル、天井:{netabare}
 蝶はギンを、ホタルは蛍を象徴していたようですが、使われ方は少し雑に感じました。要所で、すなわち心情が動くシーンで出ていたようですが、その前後であったりと統一感に欠けていたように思われます。理由付けをすることは出来ますが、ややごり押し感があるためここで述べるのは控えます。エンディングでは、蛍の周りがホタルから蝶へと変わり、乗り越えた感は感じられます。
 一方で、3回出てくる天井は分かりやすい表現となっていました。蛍が山に行けなかっただけでなく、おじいちゃんの家にも行けなかったのは、天井の木目にギンを見てしまうからでしょう。就職が決まったら、ギンのいるあの部屋で生活するのかもしれません。
{/netabare}

 短編ですが、エッセンスは十分に盛り込まれていたと思います。唐突に来るエンディングも、切なさと儚さを上手く演出していました。対象年齢としては思春期以上が望ましいでしょう。特に女性に好まれる作品ではないでしょうか。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 8

半兵衛♪ さんの感想・評価

★★★★★ 4.1

【ネタバレ有】『最後に残る最高の“余韻”―。 一つの“掟”に縛られた、切なさ全開の恋物語―。』

 
   
 原作の“緑川ゆき”に加え、“大森貴弘(おおもりたかひろ)”監督をはじめとする「夏目友人帳」のスタッフが製作を手がけた劇場版アニメ作品―。

 上映時間40分余りの、いわゆる“中編作品”なのだが―、そこら辺にある凡百の中編作品とは桁違いの魅力が、この作品には詰まっている―。

 一目見ただけでそれと分かる、「夏目」らしさを感じる“優しい空気感や世界観”―。彼女たちにしか描けないその“澄んだ雰囲気”と“心温まるストーリー”は、「夏目友人帳」ファンなら(いやそうでなくても)必見の一作である―。



 (簡単なあらすじとしては―)、妖怪が住むという“山神(やまがみ)の森”に迷い込んだ人間の少女“蛍(ほたる)”が―、「人に触れられると消えてしまう」という、この森に住む妖怪の青年(正確には人間でも妖怪でもない)“ギン”に助けられ―、それから毎年夏の間だけ、ギンの住むこの森を訪れるようになる…という物語―。


 物語の最初に、最も重要な「人に触れられると消える」というテーマを見せる事で、この作品の“(悲しい)終着点”が垣間見え―、同時に、そこに至るまでの二人の会話ややり取りの中に、(そのテーマが)終始、“触れられないもどかしさ”となって付きまとう―。


 蛍が出逢ったのは6歳で、最後の場面では18歳―。

 40分余りの上映時間であるが故に、粗雑(そざつ)にも感じる作中の時間経過(の早さ)が―、逆に、二人の間には、互いが一緒に過ごせる“夏の一時(ひととき)”しか無い事を余計に感じさせ―、だからこそ、かけがえの無いその時間を楽しそうに過ごす二人の姿が、観ていて余計に切なくなる―。



 たとえどんなに心が通じ合っていても、二人の間には、決して看過出来ない“時の流れ”が存在する―。だからこそギンは、自分の気持ちに向き合い、全てを投げ打つ“覚悟”を持って、蛍を夏祭りに誘ったのだろう―。

 そうして迎える最後の場面―。

 ―― (蛍) 「デートみたいですね~」――

 ――(ギン)「デートなんですね~」――

 出逢った日の事を連想させる蛍のセリフ―。けれども、返ってきたのは以前と“真逆”のギンの言葉―。あの時は、子供をあやすかのような反応だったからこそ、全く同じ軽い調子で、全く逆の事を言うあのシーンには、ギンの、蛍への想いや…覚悟や…寂しさが…全て込められていて―、余計に涙腺を刺激する―。


 いつもと違うギンの態度が、ずっとお互いの事を考えて過ごして来た蛍には、口にしなくても伝わり―、(本当はずっと一緒にいたくても)、彼の覚悟を何も言わずに受け入れる―。

 ギンの気持ちを察し、蛍自身も覚悟したからこそ―、夏祭りの帰り道、偶然、人の子に触れて消えゆく事になったギンとの“突然の別れ”にも、その瞬間、ただ真っ直ぐに、“お互いの本当の気持ちを伝えることだけ”を考える事が出来たのだと思う―。

 ――(ギン)「来い、蛍―。やっとお前に触れられる―」――

 最後の瞬間になるはずなのに、二人は“最高の笑顔”をしていた―。それは、二人が本当にしたかった事はこれだったから…。その後の別れの不安など消え去るほどに、ずっとずっと二人はお互いに触れたかった…。あの一瞬の抱擁で、きっとギンは人間の…“蛍の温かさ”を感じることが出来ただろう―。



 (その後の妖怪たちの優しいセリフも良かったが…)、とにかく終始、涙が止まらず、何度見ても泣いてしまう…。「人に触れられると消えてしまう―」。たった一つのそのテーマで、ここまで心に響かせられる―。

 最後の最高の“切なさ”が来る瞬間を徐々に感じながら、その“一瞬の儚さ”を感じて観終わり―、そうして“圧倒的な余韻”だけが最後に残る―。


 時折、「時間が少し短過ぎる」とか「せめてEDの後にもう少し何かが欲しかった」などという感想を目にするが―、もしもこの作品が、2時間の長編映画だったなら、本作に感じた淡さや儚さは“色褪(あ)せる”だろうし、(最高レベルの)あの余韻を感じる事も無かっただろう―。

 お互いの気持ちやその後の出来事など、描く必要は全くない―。観終わった人達それぞれが、各々で感じる“余地”を残すことで―、この作品の“淡さ”や“儚さ”を、“余韻”として感じられるのである―。


 最近観た劇場版作品の中では、最も感動し泣けた、切なさ全開の“傑作”であった―。



 最後に―、山神さま…もう少し“緩い”掟でも良かったんじゃないですか…(涙)。


  (終)

 

投稿 : 2024/05/04
♥ : 7

87.0 2 切ないアニメランキング2位
秒速5センチメートル(アニメ映画)

2007年3月3日
★★★★☆ 3.9 (3988)
18429人が棚に入れました
東京の小学生・遠野貴樹と篠原明里はお互いに対する「他人には分らない特別な想い」を抱えていた。しかし小学校卒業と同時に明里は栃木へ転校してしまい、それきり会うことが無くなってしまう。貴樹が中学に入学して半年が経過した夏のある日、栃木の明里から手紙が届く。それをきっかけに、文通を重ねるようになる2人。しかしその年の冬に、今度は貴樹が鹿児島へ転校することが決まった。鹿児島と栃木では絶望的に遠い。「もう二度と会えなくなるかもしれない…」そう思った貴樹は、明里に会いに行く決意をする。

声優・キャラクター
水橋研二、近藤好美、尾上綾華、花村怜美
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

中身はある?ない?

 レビュー内容を全改訂しました。これに伴い前回レビューは削除しています。
 細かな話は後回しにして、まずはストーリーと象徴物から述べます。

秒速のストーリー:{netabare}
 秒速は、一言で言えば再出発の話だと思います。これは、第三話から分かります。
 今カノと別れ、仕事も辞め、さてどうしようか、となってしまった。そんなときに、自分を縛っていた「過去」に再び出会い、その「過去」を振り切ることで「さぁ頑張ろう!」になる、というお話。この前向きな姿勢が表れているのが、最後のタカキの笑顔なんだと思います。

 「秒速は恋愛映画である」という指摘自体は正しいものですが、「恋愛だけを射程としている」とまで限定してはいけないような気がします。秒速がアカリとの「恋愛の話」ならばもちろんバッドエンドですが、これだと最後の笑顔の説明が付きませんからね。
 秒速を「再出発の話」として整理することで、最後の笑顔も含めてストーリー全体が合理性を持つのだと思います。視聴者が感じる喪失感はともかくとして、描かれていた結論は前向きなものだと感じました。

 全体の構成としてはこんな感じ。
 第一話では、過去への執着の原因が描かれた。第二話では、過去に縛られているタカキの停滞が描かれた。第三話では、過去に執着していたために今失うものが描かれて、「さぁ頑張ろう!」になる。
 第二話が第三者からの視点で描かれていることを除けば、シンプルな三段型の構成だと思います。
{/netabare}

象徴物①電車:{netabare}
 電車が最初に登場するのは、第一話冒頭の踏切のシーンです。アカリが「来年も一緒に桜、見れるといいね」と言ったタイミングで、二人の間を電車が横切る。同じ状況が再現されているのが第三話の冒頭(とエンディング)です。タカキの「振り向けば」という展開から、また両者の間を電車が横切る。
 電車が輸送車に形を変えて現れるのが第二話です。輸送車は、タカキとカナエの前方を横切る。

 「タカキとアカリの『間』を横切る電車」と「タカキとカナエの『前方』を横切る輸送車」という違いがありますが、どちらも使われ方としては同じものです。
 道路というのは、作劇上は主人公の進行方向(未来)を意味しますから、そこを横切る電車や輸送車というのは、主人公の進行を邪魔するものという意味を持ちます。つまり、秒速における電車や輸送車というのは、「望む未来に対する阻害要因」として描かれているのです。各話のいずれもが残念な結末を迎えるのは、そのフラグとして阻害要因が象徴的に置かれていたからに他なりません。

 一応、「間」と「前方」という横切り方の違いにも触れておきます。
 第一話では、タカキとアカリの共感が描かれています。共感を得た者同士を引き裂くわけですから、「二人の間」を電車が横切ることになります。
 第二話では、タカキに告白したいカナエが描かれています。タカキとカナエは共感には至っておらず、共感に向けて関係を前進させたいカナエの願望があるのみです。ですから、その前進を遮るように「二人の前方」を輸送車が横切るのです。
 細かな違いはありますが、「望む未来に対する阻害要因」としては電車も輸送車も描かれ方は一緒です。
{/netabare}

象徴物②鳥(とロケット):{netabare}
 続いて、鳥について。まずは最初に鳥が登場するシーンの確認から。
 第一話でタカキの引っ越しが決まった後、タカキがアカリに会いに行く算段を付けているシーンがあります。タカキが路線図をなぞっているところに、アカリのセリフ「電車に乗って会いに行ける距離ではなくなってしまう…」が入ります。この後に鳥が初登場します。この鳥は、東京を出発し、夜空を経由して栃木まで到達します。
 この「路線図→電車はムリ→鳥」という流れから、電車と鳥が対比されていることが分かります。阻害要因である電車を越えて、空を飛んでいくものが鳥だということです。つまり、鳥は「飛んでいけたら」というタカキの願望(や逃避)を象徴するものとして描かれているのです。

 また、電車と鳥の関係から、「現実である地上」と「理想である空」の対比が成立します。ですが、秒速の構造はこれで終わりではありません。空の先には、宇宙が位置付けられています。
 第二話では、タカキの夢の世界が登場します。この夢の世界において、タカキとアカリが一緒に見ているのは、空ではなくその先にある宇宙です。この時点では、タカキとアカリは何年もの間連絡を取っていませんから、二人の乖離はほぼ決定的です。タカキの引っ越しによりさらに疎遠が拡大し、「理想である空」すらも一緒見られる状況ではなくなってしまったのです。だから、「理想である空」の先である「叶わぬ夢である宇宙」を見ている。

 では、「理想である空」を「叶わぬ夢である宇宙」に変えてしまった原因は何なのか? それが、タカキの引っ越しと引っ越し先にあったロケットです。タカキは、種子島に引っ越したことで電車の呪縛からは逃れました。ですが、そこは鳥では届かぬ距離だったのです。また、種子島には、新たな阻害要因である輸送車がありました。タカキに「叶わぬ夢である宇宙」を実感させたのは、この輸送車の中にあったロケットでした。これにより、タカキは孤独感を強めていきます。

※鳥についての補足
 この最初に登場する鳥はアカゲラだそうです。アカゲラについて、ウィキペディアにはこう書いてあります。
「日本では北海道に亜種エゾアカゲラが、本州、四国に亜種アカゲラが留鳥として周年生息する。四国での生息数はきわめて少ない。九州以南には分布しない。」
 東京や栃木には生息できるけど、九州の南方に位置する種子島には生息できない、と読めます。つまり、東京―栃木間の橋渡しは出来るけど、種子島―栃木間の橋渡しは出来ないのです。このことが「理想である空」でのつながりを断たせ、ロケットの登場と「叶わぬ夢である宇宙」を引き込んだ、ということなのでしょう。
 意味もなくアカゲラを選んだわけではない、と私は思います。
{/netabare}

 ここまでがいつも通りのレビューですが、個人的には前提やおまけくらいに考えています。ここから先は批判的な内容が続くのですが、批判に終始すると「ちゃんと見てないだろ!」という反論が起こりかねません。ですから、それを回避するために「この程度には見ていますよ」という線引きをしただけです。本題はここから。

ざっくりした話から:{netabare}
 秒速の感想を読むと、多数の「感動した派」と少数の「中身がない派」に大別されるように思います。私の中ではこの二つは背反するものではありませんから、個人的には「感動したけど中身がない派」を採っています。
 で、私が主張する中身の無さというのは、ストーリーの無さではありません。そもそも心情を描く作品では大したストーリーは必要ありませんし、秒速のストーリーは比較的まとまっていると私は思っています。中身がないのは、心象表現の方です。

 上述した象徴物には、根本的な違いがあります。
 電車というのは、ストーリー上の象徴物です。道路と関連させることで、この先の展開がどうなるのか、というストーリー展開を示唆する役割を負っています。
 一方で、鳥というのは、心象表現上の象徴物です。電車に阻害されたタカキがそれに対してどう思っているのか、という心情が乗っています。ロケットもこちらですね。

 結論から言うと、ストーリー上の象徴物である電車は機能していました。ですが、鳥とロケットは機能していません。正確に言うのなら、鳥を失敗したせいでロケットも機能しなかったのです。そのために、電車を使ったストーリーはまとまっているけど、心象表現が失敗している、になるのです。

 勘違いして欲しくないのですが、私は「心情がダメ」とは言っていません。「心象表現がダメ」です。
 心情というのは、「うれしい」のことです。心象表現とは、「うれしいことが分かるように表現すること」です。全く違う内容ですから、混同しないようにお願いします。作品の良し悪しを決定づけるのは、後者の方です。
 ここから進めていくのは、秒速の心情は分かるけど、その表現がお粗末だという話です。多方面から指摘するつもりではありますが、まずは象徴物を片付け、その後に独白と背景について述べます。

電車再び:{netabare}
 電車はこの作品ではかなり機能していると述べましたが、電車の使われ方に文句がないのか、というとあります。作品への評価ではなく、新海監督自体への評価を下げました。

 道路を使った演出というのは比較的定番のものではありますが、定番だからダメ!などというつもりはありません。
 そうではなくて、秒速の前の作品である「ほしのこえ」でも全く同じ使い方をしているからダメなのです。「ほしのこえ」においても、別れの前には電車を通過させています。「阻害要因を、同じ道路と電車を使って、二作品連続」というところに「またかよ」というガッカリ感を感じてしまいました。端的に言うと、新海監督の表現の幅の狭さを感じたということです。もう少しアレンジを加えるべきだったと思います。
{/netabare}

鳥再び:{netabare}
 鳥は登場回数が多すぎました。象徴物というのは要所で使えばいいのです。フラグで一回、締めで一回。これで十分に機能します。意味を徐々に限定したり別の視点を見せたりする場合にのみ、複数回使えばいいのです。
 電車演出は、第一話の「分かたれたタカキとアカリ」というフラグが、第二話の「同行するタカキとカナエ」に変化して、第三話でまた「分かたれたタカキとアカリ」で締める、という「フラグ→変化→締め」の流れがスムーズだったからこそ機能していたと言えるのです。
 一方で、鳥はあまり必要でないところでもバサバサと飛んでいました。初回の登場時には、「電車と鳥を対比させたいんだな」と素直に受け取れたのですが、その後の登場回数があまりにも多いために、最終的には鳥自体の持つ象徴性がほぼ霧散してしまいました。

 視聴者への説明の仕方も悪いです。第一話で登場した鳥がアカゲラである意味はあったと思います。その意味を継続させるためには、「東京―栃木間(第一話)は飛べる」ということと「種子島―栃木間(第二話)は飛べない」ということの違いをはっきり見せ続けなければなりません。
 視聴者は、第一話で登場した鳥を「アカゲラである」とはまず見抜けません。「九州以南では生息できない」なんて以ての外です。「第一話でアカゲラが飛び、第二話で別の鳥が飛んだ」とは解釈できず、「第一話でも第二話でも鳥が飛んだ」と解釈するのが精いっぱいだと思います。
 視聴者が見抜けないことを前提として、次善の策を打つべきでした。第二話では一切鳥を飛ばさないか、鳥を飛ばすのならきちんとカメラで抜いて、アカゲラとは違うことを分かるようにするか。ですが、実際には何らかの鳥が飛び、それがアカゲラかどうかを確認する術がありません。アカゲラの持つ象徴性を台無しにしています。視聴者への配慮に乏しく、挙句に象徴性を毀損しているのは、いかがなものかと思います。
{/netabare}

ロケット再び:{netabare}
 そして、鳥の扱いの悪さがロケットにも響いています。
①タカキとアカリが東京にいた頃は、「現実である地上」(=徒歩)でつながっている。
②アカリが栃木に引っ越してからは、「現実である地上」が電車に阻害されてしまい、鳥を介して「理想である空」でつながることになる。
③タカキが種子島に引っ越してからは、「理想である空」よりも更に離れてしまい、ロケットを介して「叶わぬ夢である宇宙」でしかつながれなくなってしまう。
 という流れですよね。①②が第一話で、③が第二話。この流れ、すなわち、「地上→空→宇宙」と「電車→鳥→ロケット」の構成(「対面→手紙→送れないメール」も関係しているのかもしれません)については文句はありませんし、私は良かったと思っています。
 でも、ですよ。ここまで整理をしてしまえば「なるほど!」と思うかもしれませんが、ここまで整理をするのが容易ではないのです。②の鳥の扱いが雑すぎるために、「①→②」で一旦切れてしまうのです。

 新海監督が想定していたのは、次のような構成だと思われます。
 「①→②→③」という流れを作った上で第二話を締める。第三話の冒頭で、第一話をリフレインさせる電車を入れて、もう一度①の「現実である地上」に戻す。でも、新たな①からは②→③と進行させずに、そのループを否定する。①と新たな①の進行先が異なることを見せることで、停滞が再出発へと変化をし、最後は笑顔で終わる。

 ですが、鳥が全編を通して登場してしまったために、同じく全話に登場する電車(と輸送車)とのリンクを強めてしまい、「タカキが①と②(現実と理想)の間で揺れ動いている」という印象を積み重ねてしまいました。そのために、③が浮いているように見える。

 ③までスムーズにつながないと、カナエの心情は補完できません。カナエは第二話のラストで「トウノ君は私を見ていないんだと気付いた」と言っています。これがカナエとタカキを分かつ決定要因ですね。なぜカナエがこう思ってしまったのかというと、タカキと一緒にロケットの発射を見た際に、タカキが「叶わぬ夢である宇宙」しか見ていないことに気付いてしまったから、ですよね。タカキが「現実である地上」を見ていないから、現実(地上)で一緒に歩くカナエは気持ちを伝える意味を見出せなくなってしまったのです。カナエの心情は多分に③に依存しています。

 ③を機能させるためには、鳥が電車とロケットをつなぐ単なるステップとして描かれなければなりません。あくまでもステップですから、鳥の主張が強くなりすぎてはダメなのです。にもかかわらず、バサバサと飛ばしてしまった。
 鳥は電車と違って、シチュエーションに縛られずに気軽に飛ばすことが出来ます。尺の都合か表現のつもりかは分かりませんが、だからと言って飛ばし過ぎて作品を毀損するのなら本末転倒だと思います。

 また、私は「①→②→③」の流れが機能していた、という意見を受け入れる気にはなりません。
 このレビューに先だって、ロケットに関してどのような解釈があるのかを調べてみましたが、そのどれもがタカキの独白を投影させた単独解釈でした。単独解釈自体がダメということはもちろんありませんが、単独解釈だけで終えてしまうと、「なぜ種子島なのか」「なぜ飛行機ではなくロケットなのか」「なぜあのタイミングで飛ばす必要があるのか」などの作品内における位置づけが欠落してしまいます。
 新海監督は、気まぐれで種子島に引っ越しをさせ、気まぐれでロケットを描き、気まぐれで第二話の終わりで飛ばしたわけではないはずです。もしそうだったのなら三流監督ですが、新海監督はそこまでアホな監督ではありません。
 種子島はロケットを宇宙へ飛ばすために必要な舞台であり、そこに電車がないことも理解していた。だから、電車とロケットに象徴性を持たせ、その両者の間を鳥でつないだのでしょう。ここから、「地上→空→宇宙」という構成でストーリーを作り上げたのだと思います。

 でも、この流れを視聴者には読み取ってもらえませんでした。鳥で失敗してしまったためにロケットへのつがなりを見せられず、ロケットが単独解釈ばかりになってしまったのだと思われます。
 監督がきちんと論理的に作って、それでも視聴者が読み取れないのなら、それは視聴者側の問題です。ですが、そもそも論理の構築に疑義があるのなら、それは監督側の問題だと思います。
{/netabare}

独白:{netabare}
 心情は、何かが起こった時に変化します。ぼーっと座っているときには心情の変化は起こらず、何らかのきっかけで心情が動く。このきっかけには、事故のような大きなものから会話のような小さなものまでを含みます。
 秒速というのは、このきっかけが極端に少ない作品です。事故もなければ、会話も少ない。そのため、心情の変化というものはほとんど描かれていません。だから悪い、というのではなくて、そういう特性を持っているということ。
 で、この変化の無さを埋めているのが、登場人物たちの独白です。

 私は、基本的には独白というものをほとんど評価していません。なぜなら、独白というのは心象表現ではなく心情そのものだからです。言葉の選び方がどうであれ、「電車が止まって悲しかった」と言わせてしまうと、「悲しいことが表現されている」のではなくて、「悲しい」なんです。
 登場人物が悲しんでいることを視聴者に分からせるためには、悲しいエピソードを用意したり、悲しんでいる姿を描いたりすればいいだけです。「友人が死んだ」「涙を流した」、これで悲しいことは十分に伝わります。ここに「友人が死んで悲しいのです」なんて独白を入れるのはバカバカしいとすら思います。
 第二話でのロケットを見送るタカキとカナエの心情は、ロケットさえ機能していれば独白がなくとも伝わります。タカキが「叶わぬ夢」を見て、カナエはそんなタカキを見てしまう。これで十分です。

 ですから、独白を多用する作品に対しては、「心情は表せてはいるが、心象表現はされていない」という判断をすることになります。一般の作品は、独白による心情の垂れ流しを避けるために、心象表現に力を入れているのです。でも、秒速は独白がなければ意味が伝わらない描写ばかりです。挙句に、秒速の独白は抑揚のない単調なセリフです。ここにも表現は見受けられません。
{/netabare}

背景:{netabare}
 背景による心象表現というのは、ほぼ主観に依拠します。夏は開放的、雨は憂鬱、夕暮れはノスタルジーなどが成立するのは、客観ではなく主観です。また、背景は説明するのが難しいために、セリフや象徴物ほど明確なメッセージを伝えることは出来ません。それにもかかわらず、背景表現は多くの作品で機能しています。なぜなのか?
 それは、背景表現が主観を越えて、監督側と視聴者側の共通観念として成立しているからだと思います。説明されなくても、雨を降らせれば視聴者は憂鬱だと分かってくれる。
 でも、新海監督は、この共通観念へのチャレンジを見せています。「ほしのこえ」でも「言の葉の庭」でも、晴れているときが憂鬱な現実で、雨が降っているときに希望ある理想を描いていました。私はこの姿勢を高く評価しています。

 ですが、秒速ではこのチャレンジ精神が見えにくい。雨に代わる候補としては桜がありますが、桜自体が「出会いと別れ」や「始まりと終わり」という両面性を持つために、共通観念を覆すのが難しい。また、鳥と同じく多頻度で登場するために、象徴物としての意味を限定するのも困難でした。鳥と同じ間違えを起こしています。

 もう一つ懸念を感じたことがあって、それは背景が綺麗だったこと。綺麗であり続けたこと。
 「あらしのよるに」という児童向け作品があります。この作品の背景は、野原での日常風景は淡い線で、生死のかかった雪山でのシーンは刺々しい線で描かれていました。これは心情ともリンクした「表現」であったと思います。
 CGの技術的なことは分かりませんが、秒速がゴースト(光源から出るキラキラした像)やフレア(画面をボヤっとさせる光)を多用するなど、光の描写に注力していたことは分かります。光と影の対比にも相当気を使っていたのも分かります。ですが、綺麗であり続けることは、美しさを描けた反面、単調さにもつながってしまったのではないかと感じました。
 単調であるということは、裏を返せば強調がないということです。単なるつなぎのシーンも山場もエンディングも、全てが同じように美しい。強調すべきシーンを引き立てるために、もう少しメリハリをつけた方が良かったと思います。
{/netabare}{/netabare}

おわりにかえて:{netabare}
 私は、「中身がない派」にも少々の懸念を感じていて、それは「中身がないことを積極的に説明してくれない」ということです。ですが、それは仕方のないことだとは承知しています。「ないこと」を証明するためには、「あるとはどういうことなのか」を列挙して、その全てに該当しないことを証明しなければなりません。いわゆる「悪魔の証明」と同じ構造ですから、ほぼ不可能な事柄です。「中身がない派」の苦労も分かるというものです。

 最後に、「なぜ感動してしまうのか」に対する見解を述べておきます。
 この作品は、「心情はあるけど、心象表現がない」「キャラクターはいるけど、個性がない」という骨子だけの状態だと思います。「枠線はあるけど、塗られてはいない」というぬり絵のようなものですね。
 作り手からの色指定が不十分なために、視聴者はどんどん自分の好きな色を塗っていってしまう。そして、自分の好きな色で仕上げてしまうから、「感動した!」となるのだと思います。そして、自分のぬり絵自慢になってしまう。
 「タカキはアカリを振り切っているのか」「振り切ったのならいつなのか」などに対する意見がまちまちなのは、「自分の作品」になっているからだと思います。宇宙の説明がヘタだったからこんなことになるのです。
 私は、感情的にも構造的にも作品を見ますから「感動したけど中身がない派」を採っていますけど、構造的に見れる人は「早く色を塗れよ」と感じたままに終わってしまう。だから「中身がない!」になるんだと思います。

 秒速がすべての表現を排除して、視聴者の主観に委ねた作品だったのなら、それはそれで評価の仕様もあるのですが、この作品は「やりたいこと」が透けて見えるし、それに「失敗したこと」まで伝わってしまう。新海監督は、まだまだ発展途上の監督だと思います。「言の葉の庭」では幾分改善したところもありますが、まだ及第点ではありません。ポスト宮崎駿を冠するのは、まだムリです。別に私は信者でもアンチでもないですから、頑張ってほしいとは思いますけどね。

 マンガや小説をオススメする声もありましたが、こればっかりは新海監督がかわいそうだと思いました。映画だけでは説明できてないって突きつけているようなものですからね。マンガや小説をオススメしている人ほどこの作品を称賛しているというのは、何とも皮肉なものだと感じました。{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 21

ラ ム ネ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6

壁画と空白。

 初見から三年ほど経って、本作への感情の微熱もだいぶ冷めてきたので、全文改正をしてみました。前よりはいろいろ見えてきた、というのもあります。前回のレビューは底の方に隠しています(隠すのやめました、恥ずかしいし)。人は変遷を続けるのに、作品は変わらずそこにあるので、改めてみると、なんか大人になったなという気がします。初めて見たときは感情の拒絶反応が出ましたから。それはおいおい別題で書くとして、散文はここまで。…結局、散文的になったか…。


*監督の狙い。…構想の考察。

 新海誠監督は、自分の作品に一貫するテーマが「喪失」だと言っていますが、その「なくなった」という喪失の光景の前後には、「何かがあった」「なくなったのでまたつくっていこう(生きよう)」が用意されています。一話が、「何かがあった」。二話が「でも、なくなった」。三話が「…なくなったのでまたつくっていこう」と単純に三分割してみました。本作は話しが終わる毎に、次の話に見る側が心を引かれるようになっています。そうして映像にあやかった心が導かれるのは三話です、つまり結論は喪失の後にある心の回復、「秒速五センチメートル」は「回復」の物語です。
 主人公の貴樹は、何を喪失し、何を回復するのか。まず「明里との恋愛」は回復されません、回復されない、それなのに貴樹には救いがある、その点から見て、大切なところが恋愛だけではないことが見て取れます。恋愛は、「秒速」においては象徴的出来事であり、しかし大切な核ではない、それ”だけ”ではないんです。三話で会社を辞めた理由を、「かつての思いが失われていることに気がついて」と貴樹は独白しますが、失っているのは「恋」よりそれ以前にある「純粋さ」です。ただ恋を喪失するのではなく、純粋を喪失してその中で恋まで失うのです。
 年少に見られるような純粋の喪失については、詩で言うと谷川俊太郎の「かなしみ」とか、洋文で言えばカポーティの「遠い声遠い部屋」が私は思い出されます。カポーティについてですが、彼の著作本が劇中に意味ありげにわざわざ描写されています。本作三話の「山崎まさよし+パラパラ」のなかで、高校時代?の明里が駅のプラットフォームで持っているのですが、文庫版の「草と竪琴」という本です。「草の竪琴」は「遠い声遠い部屋」から続く二作目であり、少年から青年への移行期にある主人公の不安を自伝的に活写したものです。監督は、これをオマージュしようとしたのではないか、と考えています。つまり、移行期に失われた純粋の欠乏感と、その回復を。
 一話の各所に、年少期によく見られるような純粋さを表すシーンがあります。たとえば導入にある「桜の花の落ちるスピードってさ」「ひと晩で三十億年分読んじゃった」「アノマロカリス!」などです。それが純粋さの記憶として三話のラストあたりで回帰します。
 かつての明里との恋は貴樹にとって、世俗を離れた、「あの頃の純粋さ」を象徴的に示す出来事でした。あくまで「明里という少女の記憶」=「純粋の象徴」なのです。
 三話で貴樹が、恋人と別れ(それをきっかけに?)、人生を自覚し、過去の「純粋」と対照し、その喪失に気づき、今ある退廃した生活を捨て、仕事を辞め、新生活をスタートさせる。自室での仕事の合間に、 桜を見に過去の思い出の道を散策し(記憶の逍遥)、そのときにこそ「純粋さの象徴」である「明里」とすれ違う(向こうも振り向きかけるわけだから当人とする)。でも彼女は「少女」ではなく「大人」になっていて、時間は経ってしまっている(桜並木道沿いの公園の木々が切られたように、…貴樹はここでも微笑む)。・・・一話で原体験、二話で過去への執着と停滞、三話で現実を容認して回復、貴樹の微笑みは現実容認の表現になります。
 微笑みの意味が、恋愛にあるとすれば、それは皮肉的で、人生はうまく行かないという慰めになるかもしれないが、監督の狙いはそうじゃありません。
それが私の見た流れです。彼女がそこに”いるかいないか”は、救済とは何の関係もないのです。そもそも、貴樹はもう自らの力で救済されてしまっていて(自立的救済)、彼女が現れることで救済になるなんてことはなく(依存的救済)、すでに良い思い出、懐旧の念、延長があろうとなかろうと、よいわけです。自分は自分、彼女は彼女、「純粋さの象徴の”今”」に出会えた、それだけで奇跡だ、そして彼女は彼女の人生を生きている、自分も生きねば、それでいいわけです。
 純粋さについては「花とアリス殺人事件」でも少しだけ書きました。
 以上が、構想と考えます。

    *   *

 構想を見てきました。それには感動します。しかし、この監督の構想(イメージ)に視聴者はしっかりと導かれているのか。難しいところです。それは監督が伝えきれてないのか、観客が読み切れてないのか、どっちなのか。
 跳んだら着地しなくてはなりません。同じように、物語に飛び込んだら、どこかまともなところに着地させられ、物語の幕も閉じられます。「いつもの現実」飛び込む→幻想体験→着地「ちがう現実」、というのが流れです。児童文学や宮崎アニメにはその構造が見やすいです。そういう風に、芸術は「作品の自己化」を行います。影響を与えるのです。
 「秒速」での監督の狙いは、「執着の開放、純粋さの回復→再出発(生きよう)」でした。狙いがその通り伝われば、「作品の自己化」によって、構想が観客に宿る、はずでした。
 しかし現実そうはなっていないのです。「内容がある/内容がない」「感動する/感動しない」と感想は二極化しています。私は、「鬱派(感動した)」少数→「称揚派(感動した)」多数→「けだるい派(内容ない)」少数→現在(感動するけど内容ない)と、本作への感想が変わっています。…そしてどの派にも、多くは監督の狙った通りの「作品の自己化」が内在することなく、多分に「自己の作品化」があるばかりです。
 押し広げて見ていきます。


*鬱派と称揚派とけだるい派を経て。

 ほぼ私の体験談です。初見で感情的な拒絶反応が出ました。三年か二年前のことです。思春期で何かを実行する勇気を挫いてしまった人が、哲学や文学的なところに根差す光景はよくよく見られますが、芸術や学問の幻想体験による「作品の自己化」によって、気力を回復し、勇気を回復しようとする逃避族の意識的試みです。ですから、芸術家には現実逃れをする病みっぽいところがあるわけです。要するに、はじめは鬱屈派でした。私はてっきり、これは「恋愛の回復」の物語で、すなわち結びつきハッピーエンドだと勘違いし、やってきた意味不明なバットエンド(なんか微笑んで去っちゃうし…) によって、宙にあった妄想を地上の現実まで突き落とされた、という流れだったと思います。「純粋の回復」という観点から見ると、微笑みが快いものに見えるのですが、この場合、貴樹の微笑みが人生への皮肉に見えてしまいました。全身が鬱的にだるくなり、細胞が重い砂のように心をひきずります。それこそ、自立や回復というお話なのに、より落されたという残念な話です。
 結論…何かにもたれようとする依存的な人格が、不条理な現実を逃れてアニメや文学といった虚構によって自らを満たそうとし(恒常性の補完)、貴樹のような純粋回帰(自分に立ち返る!)を経験していなかったので、願望の強さも手伝ってか、「秒速」を「純粋回復」ではなく「恋愛回復」である、そうでないと救われない!と思いたがえ、「踏切」にて地上に叩き落された。以上が、鬱派の精神分析です。
 それから、大人な人に参考になるような意見を求め、「明里は自分の人生を生き、それを察した貴樹が微笑む」という意見によって、「貴樹の微笑み」への理解が生まれ、鬱派から称揚派に転身することになります。美しい恋のアニメ、と感動して称賛するのです。私は経験測による共感ではなく、理解による共感をしました。理解した時点で、すでに作品は私に影響していた、内在化していたと言えます(作品の自己化)。監督の狙い通りの内在化、作品の自己化とはちょっと違いますが。監督の狙いは「自分に立ち返って前を向こう(再出発)」でした。
 やがて私に時間の経過によって「内在化された作品の(恋物語としての)印象」に慣れが進行します。飽き始めるのです。感情の微熱も冷めて来て、冷静になります。すると、感情を分離されたので、理性的に見られ始めました。そこで、「ん?」と気が付きます。全体がとても曖昧に見えはじめたのです。考えてみれば、なんでこうなのか、よくわからない部分が多い。ちゃんと作られてないんじゃないか?と感じ始めたのです。そうして見るのも嫌になってきました。こうして、けだるい派に属したわけです。けだるい派は感情を分離できる理性的な性格の人たちです。三通り体験しました。
 願いを裏切られた鬱派、恋愛喪失(誤)や純粋回帰(正)に感動した称揚派、冷めたけだるい派、それらを経てわかったのが「秒速は恋物語だ」と思っている自分の勘違いです。ただを非情な現実を突きつけるものではないのです。‥‥確認すると、純粋さを喪失して恋まで失ったが、いま純粋さを回復して、すると恋の相手が現れ、でも時間までは回復しなかった、それでもいい、歩いていこう‥‥そういう構想だと気づきました。ハッピーエンドを予想した「恋の回復」という内在化は、恋より下位にある「純粋さの回復」として新たに再内在化したのです。つまり、恋としてはハッピーエンドでないが、純粋さとしてはハッピーエンドだ、だから貴樹の微笑みは「前を向こう」だということです。


*余白と空白。

 本作には多くの「うやむや」があるように思えます。曖昧さ、空白とも呼べます。それが監督の意図的に作られたものである、つまり空白ではなく余白であるなら納得できるのですが、どうも余白でもないのです。緻密な表現がなされていると観客はスクリーンに放心します。宮崎アニメなどは、感情的にそうなります。入りこんでしまえるのです。しかし、構造やその表現に抜け目がある、作品を流れる感情の吹き溜まり的な、空白、曖昧さができると、そこに観客は、自らを投影します。表現があると放心し、表現がないと投影して、幻想の現実感を補うのです。物語の整合性、統一性を保持しようとする試みです。文学などでも、言及しないことによって、読者に主観的な想像をさせて、余韻を生む手法がありますが、それにたとえられます。余白と放心、空白と投影の営みは、そのすべてが「自己の作品化」に該当します。
 「秒速」のそれ(一見曖昧に思えてならないところ)は、監督の意識的な余白(技巧によるもの)なのか無意識的な空白(技巧によらないもの)なのか。やはり後者です。ただ、「空白」ではなく、語感としては「うやむや」に近いと思います。
 余白にも空白にも観客は投影する、描かれないものを察して補おうとします。しかし、余白は表現の技巧であり、生まれさせたもの、空白(うやむや)は、生まれてしまったデタラメです。詰まるところ、余白には感情移入し、空白には自己投影するのです。余白には物語の前提がありますが、空白は前提がありません、突発的なもので、ただの作り手の失敗です。前提が用意されていれば、余白があっても、観客は物語の上でその描かれない部分を察することができます。しかし、空白には前提が用意されていないので、観客は主観的に、時に都合的解釈によって、作品に個人的な上書き、色塗りをしてしまいます。
 たとえば、ラストの踏切シーンで、明里が去ってしまうことについて、明里ばかりに共感のまなざしを向ける人がいますが、それはつまり「明里は婚約したのだし自らの幸せを守ろうとして立ち去った、過去の恋より今の愛が大切なのだ」と考えることです。しかしそれは、たしかに真相に近いのかも知れませんが、倦怠期の夫婦が自己肯定するための解釈にも思えます(アイロニカルなユーモア!笑)。あと例えば、ダメな「慰め」になるパターンなどもありますか。
 エヴァは「自己啓発セミナー」と呼ばれますが(大塚英志)、語呂合わせゲームをしてみれば、秒速は「自己投影アルバム」です。
 監督の狙い?であるラストシーンの"希望的着地"に導くには、観客に"希望的観測"を与えるだけの体験をさせなければなりません。体験されるようなつくりになっているのか、それとも物語を読めない視聴者がにぶいのか、それを言論するのに作品構造の欠損を列挙しなくちゃならないわけだ。ああ。なるほど。んー。
 とにかくここで留めておきたいのは、作品構想が「作品の自己化(純粋回帰!)」を目指しているのに、視聴者の多くは「自己の作品化(例、恋愛喪失)」に導いてしまっている。オタクだろうがなかろうが、現実的な人格だろうがなかろうが関係なく、勘違いする人が多いわけです。それも簡潔な、とてもシンプルな結論なのに。その失敗の原因が「うやむや」にあるのではないかということです。


    *    *

>纏め。半分自分用メモで、機会あれば洗錬します。このレビュー、自分の勉強用として
も書いています。その垂れ流しです。
放心=「作品の自己化」→緻密な構想表現 投影=「自己の作品化」→漠然な構想表現。
・秒速は「作品の自己化」を目指した作品であるのに、その多くは「自己の作品化」になっている(のではないか?)。
・・鬱派→人間性未熟(作品構想にある感情の未経験者)→物語を「純粋の回復」(自立的要素)ではなく「恋愛の回復」と勘違い→(明里がそこにいてほしい!)依存的救済を求める(自己投影)→願望に裏切られて鬱にさいなまれる。
・・称揚派→比較的人間性あり(作品構想にある感情の経験者)→構想感情で鑑賞し、構想表現は無視、または自己投影して穴埋め。
・・けだるい派→理性の人(指揮者ムジクスと演奏者カントルの論理で言う前者)→構想表現を鑑賞、構想感情は踏まえても興味なし。或いは、監督の構想に飽きた。「描くほどのことか?」。
ったくなにを書いているんだか。


*構想と表現の上滑り。
 本作は構想が表現を上滑りしている空回りしたものです。作品に流れる感情と、それを支える比喩表現、構造、その組み合わせ、統一性、整合性、それらに長けていて有名なのが宮崎アニメです。「千と千尋の神隠し」が巧みだと思います、だから子どもにも(鋭い感性に)人気が高い。まず構想があり、それの表し方がある。物事は、言葉以前のところにあるから、言葉以前のところで言い表さないと鑑賞側に伝えきれない。感情も言葉以前にある。感情は抽象的、悲しいときに「悲しい」とは言わない。だから、比喩で表現する。文学は文字によって、修飾的な表現になる。映像の比喩は、より具体化が可能。比喩の現象化、物体化されたものが、抽象ではなく(二次元的)、構想の象徴表現(三次元)、である。

・各話の構造。…一時間の物語を三分するのは、構想的に悪かった(ぼやける)。
「一話」…純粋がある、明里に会える(秒速5センチ、身近)、桜の朝、田園。
「二話」…純粋がなくなっていく、明里会えない(時速5キロ、乖離)、黄昏、離島。
「三話前半」‥純粋喪失、会うことを忘れた(1000回メールをして1センチ、喪失)、夜、都市。
「三話後半」‥気づいて純粋回復、明里会えた(秒速5センチ、容認)、桜の朝。
電車(二人を隔てるもの、結びつけるもの)、種子島(電車でいけない、孤独感、隔離された)、ロケット、鳥(?)、弓道(届かない思いの表現) 、ロケット輸送車 (二人を遮るもの)、
二話の海岸に二人がいて朝日を見ている幻想(願望?)、その朝日を的に見立てて弓を放った(?)、ロケットは、もう思いが届かないという意味での宇宙? 三話の「山崎まさよし+パラパラ」は簡略化、要約?あんなのができるのはストーリー構成が甘いからでは?
 色々ありますけど、安易だと思えてしまいます。構想と表現、感情と構造は、一体物として機能します。しかし、目的がわかっているのに、手段がわからないような、構想が率直すぎて、表現が安易である、安易であるのに、目的の手段・構想の表現として機能しない。機能してないから、突発的に不可解的に象徴表現が表面に出てしまう。構想を描くはずの表現が、構想の邪魔をしている、邪魔というか、単にわかりづらい。それに、一時間の物語を三話分割して、「ある」「ない」「もどる」と続き、それほど魅せる劇もなく、やはり構想は率直で、これはしっかりと放心させてほしい作品であるのに、曖昧さが隠せない、不足感が見え見えてしまう。残念な点です。「描くほどのことか?」という、けだるい派もわかります。
 しかしハッピーエンドを掲げずに、前向きな姿勢を描き、それを観客に体験させようとするのは、とても気に入っている構想です。自分に立ち返れない人が多い世の中でこそ機能する、世代的(なのか?)作品ではありますが。


*監督の実在推察。

 監督は作品について「バンドエイドみたいなものでいい」と言われていましたが、要するに「慰めとしての作品」、虚構による現実の欠乏感の補償、観客の自慰に使われていい、ということでしょう?うーん。それを映画監督が言ってしまっていいのだろうか。いやーまあそういう使われ方もあり?酒や鎮痛剤と同じ?
 なぜ、なんども同じようなテーマ、パターンがなされるのだろう。人に見せるよりも自分が見たいものが優先されるのか。一貫されるテーマと言われる「喪失」にしか、深い原体験を見出せなかったのか。しかも喪失というのは、とても世代的で、文学的だ。歴史的で、哲学的なのではない。だから一時代の流行に過ぎない。いや、もしや、私の評価基準が高すぎるのかも知れない。
 最新作「君の名は」の予告を見て思いましたが、「またか」という感じで、表現が変わらないので、「飽き」「けだるさ」を感じてしまいました。見て見ないとわかりませんが、過去作品の前提を以てしても未だうきうきしているのは、性的退行世代の願望を抱えた人なのでは。ここまで批判する権限は私にあるのか?ごめんなさい。
 表現が狭い、狭く、深めていく。深めるので普遍性には構想が触れる。でも、やはり狭いことに変わりはないのです。それが、新海監督が「世代的」であるという理由です。このままでは、ただの流行に過ぎません。
 綺麗な壁画、それは監督の作品が二次元的であることの表れではないでしょうか。そういう意味で、小説の方が読みやすかった。いつか、三次元の奥ゆかしい広々とした作品を期待します。ああ、またこんな終わり方に…。そんなことをつぶやく私は確信犯か?失礼しました。失礼しましたと言いながらデリートしないのだから、確信犯確定だ。許してくれるな。眠いぞちくしょう。2016/05/07

2013/10/3「結局、誰とでも一生同じ場所で生きることは叶わないのだ。人は、こうやって喪失に慣れなくてはいけないのである。」二度目の投稿。→称揚派の時。サンキュー23。
2016/05/07「壁画と空白」改正。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 33
ネタバレ

Ballantine さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

究極の未練(全部書換

一回目見た時がかなり前でうろ覚えでしかなかったので修正。
それとあれ?こんなアニメだっけ?とまさかこんなに感覚が変わるとは思わなかった…
いや寧ろ前の評価で合っていたのかもしれないようなうーん。


まさにこのアニメにぴったりな言葉は究極の未練。
1話2話3話と年月が飛んでいる分あれこれ妄想の余地がある分ずるい。
色々な解釈が取れるのではなかろうか?


※見る人によっては恐らく嫌なアニメになりかねないと思われます。ネガティブ思考で恋多き人は見ない方がいいかも?
逆じポジティブで恋多き人にはお勧めかも?うーん人に勧めるには実に難しい。

っがわかった!気付いた!これを見て欲しい人はあれだ。
別れたばかりの恋人。別れたばかりの夫婦。別れてから、失っからこそ初めてわかる大切さ。ここですよここ!そういう事ですね。こういう人たちへ是非ともお勧めしたいです。
過去は取り戻せないんですよ!今しかない頑張れ!
幸せな未来を手に入れる為に今だけ我慢すればいいんだそうだがんばってくれーって事で後は皆様にお任せします。


感想
{netabare}今と昔どっちが良いのだろう?(駄文感想
なんかもやもやしてた思いがあるのは今の社会とこういう携帯もネットも無い時代。
果たしてどちらがイイ時代なのだろうか?
昔のこういう時代では手紙という手段か家電位でしか連絡が取り合えなかったであろう。
俺の世代はこのぎりぎりの境目位だったかな。大体物語位とそんな変わらなかったような気がする。
小さい頃は手紙程度だったがいつ頃だったか携帯やPHSが普及し始めていたっけ。
こうやって離れ離れになってしまった関係を維持するには今の時代のほうがいいのだろう。
しかしこれ裏を返せば浮気し放題でもあるんだよね。
相手側の情報が全然わからないしいつ何処にいるかもわからない。
連絡取ろうにも取りようがない。

が、現代の社会だとそうもいかないわけで。
いつだって連絡の取れるものがあるのだから。
何かやましいことが無ければいつだって連絡が取れるしってもまぁ仕事中じゃあれだけど。
何処だって出会える時代でもある。
離れていても心はつながっていることは昔よりは簡単だ。
電車が止まっても連絡が取れるし、心のすれ違いも昔よりは和らぐだろう。
しかしそこには罠があり、昔はなかなか会えなかったり連絡が取れない分長々と綴って考えて考えての日々の出来事や思いを深く書いて伝え合える。まぁ文章力の問題もあるが…
今は簡単にいつでもメールが出来ていつでも話せる事が出来てしまう分内容は薄っぺらくなっていく。
「おはよう」「おはよ」
「今何してんの?」「カラオケ」
「私のこと好き?」「好き」
「じゃ誰と行ってるの?」「友達ー」
「男?女?」「どっちでもいいだろー」
「私のこと嫌いなの?」「なんでそうなるんだよ」
まぁ大体この辺から喧嘩だよね。
俺は携帯を初めて持った頃はこんな感じだった。
いつしか電話ばっかしか使わなくなったが。
メールだとなんかしらの思いが、伝わらないだのちょっとした事ですれ違いが起きてくる。
電話だってそうだ。いつだって話せるけどそれは相手の顔を見て話せない分信用度は落ち不安になりすれ違いや勘違いが発生する。
人間関係も薄っぺらくなってくる。


今の時代ではさらに出会いのツールが山のようにある。最近の流行りはLINEだったりするわけだけど。
ネットで言えばスカイプだのメッセンジャーだの出会いのツールは沢山ある。
SNSやブログ。ソーシャルゲームやオンラインゲーム。
出会い系ツールなんて要らない位に出会いの場は無限に広がっているのだ。
その分こっちはこっちで浮気もしやすいし出会いも増えている。
浮気の点ではそうそう変わらないのかもしれないな。
いやまだ連絡取れるだけましか?うーんでも幾らでも偽装は可能だけどまぁバレやすい時代ではあるか。
しかしこれだけ出会いが増えてしまうと今度結婚した時が怖い。
結婚相手が沢山の人といつでも何処でも繋がることが出来てしまうわけで。
結婚には不向きな時代かもしれない。いや彼女にしたっていい男が欲しいと幾らでも探し放題なわけで。
もうこうなってくると人間関係すら薄っぺらくなってくる。無縁社会?近所づきあいも無い?もうさぁ今の彼氏や彼女と駄目なら他の子と付き合えばいーじゃーんってのが当たり前でしょ?知らんけどw少なくとも俺らの時はそっちのが多数派だった。良い男見つける為にキープ君いたって悪く無いでしょ?みたいな。
これ程希薄な人間関係があっていいのだろうか?
友人関係より恋人関係の方が下になってないか?
本当にそれでいいのだろうか?軽い付き合いでいいのか?
俺はリスクを考えたら明らかにおかしい社会だと思う。
男が下に見られている社会なんじゃなかろうか…
処女だと恥ずかしいって思っちゃう時代なんでしょ?
付き合うのは結婚したいが為じゃなく良い男見つける為なんでしょ?
別に間違ってるとは言わないが信用出来ないな。
好きな男とやるんでしょ?結婚したい男とするわけじゃないんでしょ?
結婚相手にはならないよね。
料理も出来なければ火事炊事も出来ないんじゃどうにもならない。
果たしてこれで男に結婚するメリットがあるのが甚だ疑問だ。
そうじゃない女性へは申し訳ありません。別に女性を叩いているわけではないのであしからず。


うーん。どっちの方がメリットあるのかなぁ…
なんだかわからないけど昔の方がいいような気がしてくる不思議。
ただの懐古厨なのかもしれない。
結論…は出ないw駄目だこりゃw書いてみて頭のなかが整理できるかと思ったけど酔っぱらいは駄目でしたとさ。
そのうちまた考えてみようかな。そんな不毛な思考を。ずっと昔から悩むこの考えをいつかスッキリさせたいな。


絶対に未練が残るタイプと自分のことを推察していたので未練が残らないように絶対に別れた女との思い出は、全て写真から何から整理するタイプで意図的に思い出す事もしないようにしてた。
いつしか自動的に思い出すこともなくなり誰に過去の女の事を聞かれても話さなくなっていた。
昔は自慢ばっかしていたが…
そのせいで忘れっぽくてもう思い出そうとしても逆に思い出せなくなり、あぁなんかあったような位でしか思い出せない事ばっかだったりしていたが、映画や青春物見てるとふぅっと思い出す時がある。もう見ている物語なんかそっちのけであぁこんな事あったっけとか…
ってかこんなおっさんになってから近頃やたら思い出すようになってきたのは歳のせいだろうか?
寧ろ昔の傷が癒えたからこそ思い出すようになったのかもしれない。

ただ、恋をした事のある人ならば誰しもが経験した事のある思い。
昔付き合っていた人との離れていく思いや付き合っている時の感覚。
会わない遭えない人間程遠くなっていき気持ちが薄くなってしまうんだよね。
自然と気持ちが離れていってしまう。
個人的に1年連絡しない人間は携帯整理してたな。仕事とかは関係ないが。

そして気持ちが離れたり会えなくなってしまうと新しい環境で新しい出会いが始まってしまう。
人間とは視野の狭い生き物である事を痛感させられてしまう。
実に狭い。
自分の周りだけが生きている世界で、自分がいるという事の認識は周りの人間がいる事で自分がいると実感出来る。
常に自分と一緒にいてくれる人だけが自分という認識をさせてくれる。
「とうのくん、これ以上私に優しくしないで」
っと言った瞬間ミサイルは打ち上がった。これはまさに恋心の爆発を暗喩しているのではなかろうか?
そしてケリがついた瞬間だったのではなかろうか?
ってかここで2話と3話の間に何が合ったかわからないのがまた色々想像させる所でもある。
実にズルい。

かなえは寝とる気は無かったから、好きだったからこそ身を引いたのではなかろうか?

まぁ最後は本当に未練の塊みたいなもんだよね。
このアニメは人の分だけ色々な解釈が出来る面白いアニメでもあると思う。
あんな恋をしたっけ。こんな恋をしたっけ。
そう、あの時あの場所でこうしていたらきっと人生変わっていたのでは無かろうか?
今頃何が起きていたのだろう?そんな思いを思い出を巡らせれば巡らせるほど辛いことはない。
これ程自分が惨めになるアニメも無い。
いやいい思い出もきっとあるだろうが俺は基本ネガティブだしもう何思い出しても嫌な思い出ばっかしか出ない。
なんだろう映画のアルマゲドンの最後のような走馬灯のような感覚で涙がこみ上げてくる。
共感出来るような事がある人ほど、恋多き人ほど想像力の高い人程きっとこみ上げてくるものはあると思う。
しかし俺みたいに思い出を封印している人もいるだろう。そんな人には泣けないかもしれないが。
そして最後の思わせっぷりな踏切でのすれ違い。
実に切ない物語。

ここからの妄想の余地を残してる所も実にズルい。
例えば不倫関係になってしまう√。
はたまた結婚が破談になり踏切でまた出会ってしまった二人からの新しい始まり√。
踏切でお互いがやっぱりと走り寄ってからまた連絡先を交換してしまう未来。

しかしこの中で唯一許せるのはこのまますれ違う事だろう。
人の女や男を寝とるような行為だけは本当にしてほしくない。
なので終わり方としては最高なのではなかろうか?

見てよかったかと言うとハッキリ言って見なくて良かった。好きか嫌いかで言えば大嫌いだ。
何故なら思い出したくない過去ばかり思い出してしまったからである。
良い思い出も嫌な思い出も今となってはどっちでもそんなに変わらないが、本当に青春の頃の思い出なんて思い出して良い事なんて無い。未練だけが募るだけだ。そんな未練が募ってしまって元カノの家にでも押しかける奴が現れたらならその子を不幸にするような自体だって発生してしまうかもしれない。
あまりその点では評価されて欲しくない作品です。
え?結婚?してません。結婚しててもこういうのだけは絶対に見たくないし彼氏彼女がいても絶対見たくない。過去の人間思い出して未練が募ってしまったらどうすんだよ。辛いだけだろ。っと言いつつ涙がジワジワ出ちゃいました。
やっぱ見なきゃよかった…


未練が募ってもその過去の思い出をバネに成長しろ?いやいや人間誰しもそんなに強い人間ではないのですよ…
恋愛すればする程すっかり凹んで恋愛なんてする気なくなっちゃいましたよ。


タイトルの秒速5センチメートルは何を表すか?
別れるまでのスピードですよ。いやいや冗談です。
個人的な解釈としては秒速5センチメートルでさくらの花びらが落ちるスピードだけれども、人と人との距離感なんじゃないかな?お互いが丁度いい距離感とも置き換えられるのではなかろうか?監督の意図はどうあれ勝手にこう解釈しました。


しかしこれだけ人の心を揺さぶって感動させてくれるアニメも無いので評価は高めです。ってかベクトルが違う意味で実に素晴らしい作品である事は間違いないが、二度と見ないようにするためにも感想を記しておきたいと思う。{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 39

89.6 3 切ないアニメランキング3位
時をかける少女(アニメ映画)

2006年7月15日
★★★★☆ 4.0 (4031)
21138人が棚に入れました
東京の下町にある高校に通う女子高生・紺野真琴は、ある日踏切事故にあったのをきっかけに、時間を過去に遡ってやり直せるタイムリープ(時間跳躍)能力に目覚めてしまう。最初は戸惑いつつも、遅刻を回避したり、テスト問題を事前に知って満点を取ったりと、奔放に自分の能力を使う真琴。そんなある日、仲の良い2人の男友達との関係に、微妙な変化が訪れていく。

声優・キャラクター
仲里依紗、石田卓也、板倉光隆、原沙知絵、谷村美月、垣内彩未、関戸優希
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

驚きの完成度でした

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 「バケモノの子」の公開記念として、2度目の視聴をしました。前回のレビューに追記して終わろうかと思っていたのですが、なんだかごちゃごちゃした感じになりそうだったので全改訂しました。内容自体は以前のレビューと大して変わらないものになっているはずです。純粋な追記箇所は「キャッチボール」と「カメラワーク」のところです。他のところは、話の流れに合うように少しいじった程度です。

 「噂通りの名作だ」というのが初見時の率直な感想です。もちろん今でもそう思っていますが、「おおかみこども」を見た後だと、若干粗さを感じました。作品の質としては、「おおかみこども」の方が上だと思います。
 「おおかみこども」のレビューで、「左右の選択が重要な要素となっている」というようなことを書いたのですが、この「時かけ」でも同じような「方向に対する意識付け」が結構出てきます。でも、「おおかみこども」ほど中心に据えている感じではなくて、おまけ的な印象が強いですかね。その辺を交えながら雑多に述べていきます。


キャッチボール:{netabare}
 キャッチボールのシーンは複数回出てきますが、このシーンが持つ意味の中心は「コミュニケーション」です。

 中盤、マコトがチアキの告白をなかったことにしたあとに、チアキとコウスケのキャッチボールのシーンがあります。ここで、「投げろよ!」というコウスケに対して、チアキは「考えながら投げらんねぇ!」と返していました。彼らにとってのキャッチボールというのは、「会話のキャッチボール」であり、また、「心のキャッチボール」でもある、ということの説明がされています。キャッチボールをすること自体が、コミュニケーションをすることである、ってことですね。チアキとの接触を避けているマコトは、ここでのキャッチボール自体に参加していませんでした。
 また、エンディングではコウスケの彼女候補もキャッチボールに加わることになりますが、キャッチボール自体に四苦八苦しています。まだコミュニケーションが上手く取れていない、ということですね。

 で、このキャッチボールに、「方向に対する意識付け」が付与されているシーンがあります。序盤のマコト・チアキ・コウスケの三人がキャッチボールをしているシーンです。
 三人は当初、時計回りでキャッチボールをしながら、夏休みの計画を話しています。そして、コウスケが「図書館で勉強する」と言いながらチアキにボールを投げた後、チアキがそれを否定しながら、反時計回りでボールを返します。夏休みの計画から、将来の話に会話が移ったタイミングでキャッチボールの向きが変わっています。
 その後、反時計回りでキャッチボールが続きますが、コウスケがマコトに「お前はどうするんだよ?」とボールを投げた後に、マコトが「ホテル王」と返しながら、時計回りにボールを投げます。実現可能な将来の話が実現不可能な将来の話に変わったタイミングで、キャッチボールの向きも再度変わっています。

 会話をしている者同士がボールを投げ合っている、ということでもあるのですが、会話の中身が変わるたびにキャッチボールの方向が変わる、ということでもあるのだと思います。
{/netabare}

ここから(標識):{netabare}
 このシーンは方向の意味が分かりやすいですよね。中盤のチアキの告白にまつわるシーンです。ここでは、マコトとチアキが絡む右奥の道路と左奥の道路、そして、コウスケだけが影響する左手前の道路があります。

 マコトとチアキの将来に影響を与えないコウスケは、常に左手前の道路にはけて行きます。そして、告白に対して葛藤のあるマコトとチアキが右奥と左奥の選択を幾度かチャレンジしています。

 で、このシーンは直接的にその後の展開に影響しています。
 常に一人で左手前にはけて行くコウスケに対しては、チアキは別れを告げませんでした。道路の演出と同じように、コウスケの将来というのは他にに影響を与えないし、他から影響を与えられることもない、ということなのでしょう。
 マコトとチアキは、右奥の選択から左奥の選択へと変わります。左奥選択後では、チアキの告白はキャンセルされるのですが、このシーンは用意されていません。マコトと魔女おばさんの会話でのみ、それが明らかになります。ですが、ここが描かれなかったことがフラグとなってエンディングを導いています。チアキを避けて左奥を選択していたマコトが、チアキを追いかける展開へと変わりました。

 キャラクターたちの進む方向とストーリー展開との連動が表現されていました。
{/netabare}

前方回転・後方回転:{netabare}
 タイムリープ中のマコト(デジタル時計と歯車のシーン)の身体の回転方向も、重要な演出になっていました。これが一番分かりやすいですかね。分かりやす過ぎて書くほどのことでもないかもしれませんが、ちょっとだけ。

 下らないことにタイムリープを使っているときは、マコトは背中側に後方回転しています。
 そして、最後のタイムリープ。ここでも背中側から始まりますが、マコトはくるっとターンして前方に向き、前方回転に変えています。ここで描かれている、後方回転であったものが前方回転に変わること、これがマコトの成長ですね。自分の思いに向き合えるようになり、前向き・主体的な決断をするようになったということです。
 私のお気に入りのシーンです。
{/netabare}

 前述した「粗さ」というのは、このあたりのことですね。時計回りと反時計回り、右奥と左奥と左手前、前方回転と後方回転、と様々な「方向に対する意識付け」がなされているのですが、やや統一感に欠けている感じがするんです。初見時にはあまり気にしませんでしたが、「おおかみこども」を見た後だとちょっと気になります。「おおかみこども」では、常に「右か左か」という選択しかありませんでしたから、このスマートさに比して粗く感じるところがある、ということです。

 ただ、ここを批判する気はないですけどね。こういうことをやれない監督も多いですし、「やれた上で」ということですから、贅沢な文句のような気がします。また、同じことを繰り返す統一感よりも、いろいろな演出を用いる幅の広さを評価する人もいるでしょうから、単に私の好みの問題かもしれないな、とも思います。

 ここから先は、更に雑多なことです。

最後のカメラワーク:{netabare}
 最後のタイムリープ後、マコトがチアキに会うために左に向かって走っているシーンです。カメラが一定のスピードでマコトを追いかけていて、追いつけなくなったマコトが画面右にフレームアウト、その後追いついて画面中央に、追い越して画面左にフレームアウトします。

 ここでの一定のスピードで進むカメラというのは、一定のスピードで進む時間を表現したものだと思います。カメラワークで「time waits for no one」を演出しているのでしょう。マコトの動きは、時間を超えるタイムリープの演出でもあるのでしょうが、その直後にあるシーンに係っているんだと思います。チアキの「未来で待ってる」に対する答えとしての「すぐ行く、走っていく」というセリフの実践ということですね。
 ここもお気に入りのシーンです。

 なお、この一定の感覚で進むカメラワークを時間として表現する演出は、クレヨンしんちゃんの「オトナ帝国の逆襲」でも使われています。こちらも時間をテーマにした作品ですね。
 時間もの映画の定番演出、と言った方がいいのかもしれません。
{/netabare}

マコトと魔女おばさん:{netabare}
 魔女おばさん。
 タイムリープに理解があること、過去のものを未来に残す仕事をしていること、男性二人の間に写る写真。これらは、魔女おばさんがマコトと同じ背景を持っていることの説明ですね。これらから、魔女おばさんも未来人と関わりのあった人物なのだと推測できます。過去、タイムリープを経験している方なのでしょう。

 で、マコト。
 マコトも将来魔女おばさんと同じ仕事に就くことが明らかになっています。マコトも魔女おばさんみたいになるってことですね。タイムリープに悩む少女をマコトが導いてあげるときが来るのかな?
{/netabare}

チアキ:{netabare}
 ほぼ確実に…死刑ですね。

 この作品て、最初から最後まで怪我するシーンが多いんですよ。そして、どんどん怪我の程度が悪化していく。
 マコトのタイムリープには自傷(痛み)が絡んでいますが、あからさまな怪我は負ってはいませんでした。ところが、タイムリープが出来なくなった後には、全身に擦り傷を負い、視線の先には自転車に乗った二人の死が描かれます。タイムリープの先にある死の暗示ですから、おそらくはチアキは…ですね。

 ラストシーンにおける「未来で待っている」というセリフとキスをしないところに、チアキの中にある期待と優しさの狭間を垣間見るようで何とも言えない気分になります。待っていることは出来ないけれど待っていたいという願望と、待っていられないのだからマコトには忘れて欲しいという思いやり。

 マコトが魔女おばさんと同じ境遇になる、というのは、マコトがチアキと会えないことの暗示でもありますからね。そもそも時代が違いすぎますし。マコトとチアキの思いが通じ合ったことを認めつつも、マコトの魔女化とチアキの死を推察してしまう視聴者側の「なんとかしてよ」という叶わぬ希望も混ざり合って、複雑な感情が生まれてしまいます。
 ハッピーエンドとは一体…?
{/netabare}

細田守監督:{netabare}
 個人的な見解ですが、アニメ映画の監督では、この人が一番てっぺんに近い監督だと思いますよ。宮崎駿監督は引退してしまいましたし、今敏監督は鬼籍に入ってしまいましたからね。

 このレビューで述べて来たように、細田監督はセリフに頼らずに演出で語ることができる方です。また、「演出に気付いてよ!」というスタンスではなく、気付けなくても楽しめるように作っています。
 例えば、前方回転・後方回転を気付かなくても何の問題もありませんよね。マコトの前向きな姿勢というのは、将来の夢を定めたことから十分に分かります。

 このレビューでは触れていませんが、ストーリー展開や人物描写も非常に上手いですよね。人間自体を肯定的に捉えるところにも好感が持てますし、それだけでなく人間の負の部分もきちんと描こうとしています。どこをとっても高レベルにまとまった正統派の映画監督だ、というのが私の細田監督に対する評価です。

 私は自分が視聴するまで情報をカットしてしまうので、「バケモノの子」がどんな内容なのかはCM以上のことは分かりませんが…。もし、「おおかみこども」レベルの作品であったなら、その地位は盤石なものになると思います。私の中で、という枕詞が付かないことを願うばかりですね。
{/netabare}

対象年齢等:
 対象年齢は中学生以上かな。現役の学生にも、過去学生だった人にもお勧めできる作品です。
 作中で表現されているように、未来から見れば過去は美しいんです。大人になって思い返すと、高校生活はやっぱり輝いていますよ。今学生生活を送っている人にはぜひともキラキラした毎日を過ごして欲しいものです。走り回れるのも学生のうちだけですしね。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 17

ラ ム ネ さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

その時への色のある思索。

 琴線ふれて、涙腺導き、手に汗握りしめ、心奥から数々多様な感慨回線らを心意の外側へと誘起させ、「時をかける少女」はそれらを巧みに手繰り寄せてみせる。本作を映画第一作と言い答える細田守監督は、真っ白な空間に感無量の物語と、多彩なドラマツルギーを炙り出し、加筆しアレンジを加え、圧縮し構成させ、記憶に深く根付くような多元の浸透作品を生み出して、魅せる。抜群これに長けている。

この始まりはマッドハウス取締役社長の丸山正雄が、監督細田が演出を一部務めていたとあるテレビアニメを観て、細田の演出に「可能性」を見出した事が結果「スタジオ地図」創設に至った原点だと言ってもいい。丸山正雄は細田守に、小松左京、星新一と肩を並べ「SF御三家」とも謳われた日本を代表するSF文章表現家、筒井康隆の代表作品でもある「時をかける少女」を原作としたアニメ映画製作を持ち掛けた事がきっかけだ。
 そして細田守は制作に繰り出した。スタッフには、後に角田光代原作の「八日目の蟬」で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞し、本作が初めてアニメ映画脚本に関わることとなる奥寺佐渡子や、キャラクターデザインに漫画版「新世紀エヴァンゲリオン」を筆する貞本義行を始めとする有名な表現家たちが加わり、映画の出来栄えは一層高まっていく。
その結果アニメ映画「時をかける少女」が、全国各地に知れ渡ったのは2006年夏。僅か14本程度のフィルム数の当初は静かな小規模上映から、好評の口コミ効果などにより映画館は連日立ち見が起こる程観客で溢れかえり、配給会社はすぐさま上映館を全国各地に飛び火させたのだ。観客を震撼させた本作は「古典的な予感」を収め大成功となった。

東京の下町のとある高校に通う女子生徒・紺野真琴は、友人の間宮千昭、津田功介と共に日常を過ごしていた。いつもと何も変わらないある日、不運から踏切事故に遭遇し一度は死は訪れたものだと悟ったが、気が付くと彼女は数分前の時系列上に逆戻りし舞い戻って、死の危機を脱していた。これをきっかけに時間を過去に遡りやり直せるタイムリープ能力(時間跳躍能力)を自分が可能であることを悟る。戸惑いつつも、遅刻を回避し、テストで満点を取ったり、カラオケに10時間以上居座ってみたり、夕食に鍋が食べたいが故に一昨日の食事まで戻ったりと、奔放に能力使いまくる真琴。しかし、時間を戻す度に周りの人間の当初の行動が変わり始め、友人2人との関係にも微妙な変化が訪れることになり、その誤差が真琴の運命を辿っていく…。

アニメ「時かけ」の時代設定は、作品の上映開始当時の2006年となっている。原作、及び第一回劇場版は(1980年以降四回劇場映画化され、1つの原作から4回劇場映画化されたことは他に例を見ない)、1986年の設定だ。アニメ化については原作から内容を大きく変更されている。アニメ化での舞台は原作の20年後となり、未来の位置付けになっていて、原作の主人公である芳山和子も36歳になり、劇中「魔女おばさん」と真琴に呼ばれるかたちで登場している。原作に沿ったストーリーは数える程で、本作はオリジナルであると言っても過言とはならないだろう。昭和の物語に取って代わり、平成学生の日常風景が転写され、次世代の人物が繰り広げる物語を描いた、いわば原作の続編という位置付けを成しているのだ。
 原作では深町一夫なるケン・ソゴルが開発段階の時間跳躍の薬を使い過去へ遡り、本作では間宮千昭が幾数回チャージ可能なドングリほどの大きさの時間跳躍装置で時を遡っている。原作での未来と本作との未来は同じ時空間上に存在せず、ケン・ソゴルは原作の限りだと時間跳躍薬の開発者(ここでは薬となり、その状態は茶色い液体が白い湯気を立てている)、間宮千昭は時間跳躍装置(液体から跳躍回数をチャージ出来るドングリ型になる)の使用者となっており、ここから間宮の未来はケン・ソゴルの未来よりも幾年幾十年先の時間跳躍が発展した未来と予想できる。ケンの時代は、社会の技術に人間の知能が間に合わず勉学を半世紀をも積まないと就職出来なく、睡眠療法により幼少期から知識を脳にすり入れて社会の向上を目指していた。少子化は進み、月及び火星への移住民も普通になりつつあったが、貧困民は移住する金がなく飢えた地球でさらに飢え続けている、そんな未来であった。そんな時代からまたさらに幾十年経ち、地球での人類の状況はさらに苦しくなっている時代が、おそらく間宮千昭の未来なのだろう。そんな頃に比べれば、2006年の地球がどれほどの美しさを秘めているか、考えようもない。無限の時の突端に始まった一つの大きな主張を見間違えた先の人類が、今の風景を振り返ればそれはきっと絶景だったのだ。
 原作の「時かけ」にある「SF」「恋愛」「青春」の内から、細田監督は「青春」を選び本作を想像した。描かれているところには、イジメもあり、受験戦争もあり、嫌な教師もいる。しかし、この時代に生きる高校生はかけがえのない美しさの中に生きている。70、80年前のその年代は工場で戦闘機の部品やら銃弾やらを作っていた人もいる。過去にも未来にも酷な状況は残る。細田監督が描いたものの中には、日々日常の煌々しい瞬きや、高い声が響く学生生活の素晴らしさを再発見することができる物語のカケラが忍んでいる。

深町一夫=ケン・ソゴルが、開発した時間跳躍の薬の実験で1986年に7世紀を遡りタイムリープしてやってきた彼は、その時代で芳山和子と恋をした。「きっと会いにくるよ。でも、その時はもう、深町一夫としてじゃなく、きみにとっては、新しい、まったく別の人間として・・」彼はそう言って、「いいえ、わたしにはわかるわ・・きっと。それが、あなただということが・・」彼女はそう言った。彼は未来にへ帰ってゆき、16歳の少女は歩み始め、20年が過ぎ、それでも彼女は待っている。
 間宮千昭は、遠い昔の混沌とする戦乱の時期に幸福をもって描かれた一つの”絵画”を見ようと、その絵がこの時にしか所在が分からないと知り、2006年に未来からタイムリープしてやってきた彼は、その時代で紺野真琴と恋をした。「未来で待ってる」と彼は言って「うん、すぐ行く。走っていく!」彼女はそう答えた。彼は未来に帰ってゆき、16歳の少女は走りだした。
 同じ境遇に立たされた主人公たちは、二人共に同じ方向へは行かなかった。浮世離れした雰囲気からの「魔女おばさん」なる芳山和子は、自分の若い頃と紺野真琴を照らし合わせ、タイムリープの事で悩む真琴に助言のような、また適当に調子を合わせていることを語り、最後には自分と真琴は違うと気づかせ、真琴はそれに背中を押され最後のタイムリープへ向かうこととなる。和子は国立美術館で絵画の修復をしながら未来に帰ったままのひとを待ち続けるが、劇中の和子が言うように真琴は友人2人とは別のひとと結婚をするだろう。二人は同じ運命を背負わない。
川が地面を流れているところを初めて見た。自転車に初めて乗った。空がこんなに広いところを初めて見た。なにより、こんなに人がたくさんいるところを初めて見た。間宮千昭はそう言った。数学が優秀で、漢字が読めなかった。俺この時代が好きだ。野球もあるし。彼女はその理由に自分が入っていることをわかっていた筈だ。その未来はもしかしたら、科学の発達が及ぼした地底都市で故に空は小さく、川の水はパイプ管を行き来して、自転車など必要しないほど活動圏は狭く移動は簡単で、世界規模で少子化が進んだ、「宇宙戦艦ヤマト」や「火の鳥(未来編)」のような人類末期の腐敗した地球なのかもしれない。そんな時代で彼はその”絵画”を知り、酷く荒れた飢饉貧困の時にどうしてこんな幸福な絵が描けたのだろうかという疑問を抱いて、時を遡ったのだ。そしてその時代の美しさ故に定住し、紺野真琴や津田功介と出会い、広すぎる青空に野球ボールを打ちはじめた。帰らなきゃいけなかったんだけど、いつの間にか夏になった。お前らと一緒にいるのがあんまり楽しくてさ。そう記憶に耽って千昭は言った。タイムリープにより誤差が生じたことで千昭は最終的に”絵”を見ることが叶わなかった。しかし彼はそれを見上げない感動を得ていた筈だ。 
 「未来で待ってる」「うん、すぐ行く。走っていく!」この言葉の解釈には色がある。千昭が見れなかった絵を未来に残すこと、であったり。彼のこの言葉は未来へ帰る直前の為に台詞をぼかした告白であって、彼女の言葉は対する応答、であったり。これは未来への思索であり観客に対する大いなる主張、であったり。彼は唯優しくあり、彼女の人生を一生明るく温かめるの思い出の言葉となった、であったり。そしてその言葉のシーンで千昭は真琴にキスをしない。ここに千昭が真琴に対する最後の優しさをみてしまう。「Time waits for no one」とは日本の慣用句で「光陰矢の如し」。直訳は「時は誰も待たない」。この言葉とまた、、”その大切な思い”を黙然と示唆しているかのように理科室の黒板に殴り書かれている。津田功介の「真琴!前見て走れ!」という言葉もまた。「かける」という様々な意味が煌々しい。
真琴はまず自分のために時をかけた。そして誰かのために時をかけた。やがて真琴は未来のために時をかける。最後にやっとタグライトの意味が提起される。「待ってられない未来がある」と。

第二段落、Wiki情報参考。
2013.7.17「原作より断然良い(‐_‐)bグッ!」レビュー投稿。
2014.2.18「その時への色のある思索。」レビュー更新。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 24
ネタバレ

かしろん さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

ここまで良いとは

【プロフェッショナル 仕事の流儀 を追加】
評判の良さは、勿論、知っていたんだが、
 サマーウォーズ
 おおかみこどもの雨と雪
を先に見てしまったせいもあり、
「ホントにそこまで面白いもんなの?」
と思ってた。
もっと、
ラブラブグダグダな三角関係に悩むぜ青春!跳べ!三ツ矢サイダー!
みたいな話だと思ってたのだ。

【ここまで良いとは思ってなかった】
{netabare}感想の結論言うと、
良い!素晴らしい!!
である。
一少女の、成長、恋への目覚め、を見事に描き切っている。
タイムリープものとして「ん?」と思う部分が無いでもないが、
んなこた、どーでもいいのだっ!

ルパンは別れ際におでこにキスをするけれど、千昭は真琴にキスはしない。
それでも、好きな相手に、自分という人間を残したい。
人に自分の本当の気持ちを伝えることが苦手な千昭。
そんな彼の精一杯が「待ってる」。
待ってる将来が何年後なのかは知らないが、もう、2度と、会えないことを分かっている。
真琴も、千昭に伝えられた未来像から、千昭とは、もう、2度と、会えないことを分かっている。
それでも、今までタイムリープで避け続けた、千昭の心を受け止めることが出来た。
心を盗んだのは、真琴なのか、千昭なのか。

飛行機の音と共に消えた千昭が、留学という名目で去っていく。
 そいえば、真琴がタイムリープしだした当初、進路について
 「留学でもしようかな」
 とか言ってたね
みたいな、伏線の張り方も実に綺麗。

「千昭の為に絵を残そう」
と将来を決めた真琴。
いずれ、魔女おばさんの後釜になるんだろう。
そして、いつか、魔女おばさんになった真琴のもとに姪っ子がやってきて
「こんな不思議なことがあったの」
と話す日が来るのだろう。
本編で、細やかなタイムリープ、ループを描きつつ、
物語として、大きなループを感じさせる。

入道雲。ぶつかる人混み、ぶつからない人混み。道路標識。
様々な演出手法で描かれる心情。
”ここから”の二分岐道路標識アップはやり過ぎだと思うけどね。


細田守監督の話から勝手に想像
有名なエピソードがある。
”スタジオジブリ ハウルの動く城 監督降板”。
スタッフかき集めてみたものの、製作が頓挫。
”ジブリ新作、細田守監督”として公開ラインナップ披露されながらポシャったのだ。
そりゃ、
「あの時、ああしておけば」「あの時、こうしておけば」
とか、沢山の後悔をしただろう。
それでも、前を向いた結果として、おジャ魔女どれみや劇場版ワンピースを世に送り出せた。
そういう思いや経験が、作品にギュッと積まって感じるんだよね。
過去を振り返り、やり直せばやり直すほどに状況が悪化してく
ってのは、タイムリープもののお約束なんだけど、そんなお約束すらも、東映アニメーションを退社してフリーとなった細田監督第一作目としての覚悟に感じる。

また、劇中のキーアイテムとなる画「白梅ニ椿菊図」。
作者も何も分からないけど、心に来る画。
監督が目指すものなんじゃないかな。
「監督が誰とか、見てる側にとってはどうでもいいことだ。
 名を残したいんじゃない。
 見てる人が、ただ純粋に、いいな、と思える作品を世に残したい。」


色んな事を経験した監督が、ただ前を向き、心に残る作品を作りたい。
将来、夢、希望、理想
が、大きく、高く、モクモクと膨らんでいく。
真っ青な夏の空に浮かぶ真っ白な入道雲のように、

最初から、最後まで、お見事でした。{/netabare}

【ループもののお約束】
{netabare}ループものは、
ループを繰り返す程状況が悪化していき、
段々と身動きが取れなくなっていく
ってのがお約束としてある。
本作は基本的に爽やか青春モノなので、流石にそこまでギスギスしたことはやってないが、ある部分でちゃんと則ってやっている。
それは、ループで被害を受ける人と内容。
被害を受ける人が、段々と真琴の身近な人になり、その内容も悪化していくのだ。

最初は、買い物おばさん。眼が前に付いているのは前に進むためだ、と本作のキモを話すひと。
 真琴の自転車とぶつかる。
次に、高瀬くん。
 真琴の失敗を全て被ることになり、いじめの対象となる。
次に、早川さん。
 高瀬が投げた消火器がぶつかり怪我をする。
そして、功介と後輩ちゃん。
 壊れた真琴の自転車に乗り、電車に轢かれる。

お約束やベタを綺麗にやる、ってのは難しい。
本作では、しっかりと、それをやれている。{/netabare}

【勝手に想像 ヤボだけど、演出や暗喩読み】
{netabare}合ってる間違ってるとかは知らない。
勝手に、そう思いました、読みました、受け取りました、って話。
内容が良いと、こういうのを読みたくなるよね。

河原ジャンプ前の部活ワッショイ
 真琴の心の戸惑いやざわめき。ただし、前向き。

河原で高笑い後のSEがヒグラシとカラス
 ループしまくりで調子に乗った真琴の状況が悪い方に向いていく。

分岐道路標識と「ここから」
 そのまま。シナリオとして大きな分岐点となる。

千昭告白時、3台の自転車が追い抜いていく
 今まで通りの3人では進んでいけない。

早川が千昭と話しているのを見かけた真琴を、騒ぎながら通り過ぎて行く大勢の生徒
 焦燥感。自分だけ置いてけぼり。

後輩ちゃんが功介のことを語る時の入道雲
 膨らんでいく功介に対する想像と恋心。

時間停止中の交差点で千昭と別れたら赤信号
 点滅信号のブザーは真琴の状況把握に要する時間。
 千昭と会えなくなることを完全に理解して赤信号。
 車の騒音は心のざわめき。

河原での千昭別れ時、2人乗りの自転車が追い抜いていく
 千昭と2人では進んでいけない。
 千昭告白時とのリンク。

河原での千昭別れ時の飛行機雲
 千昭が手の届かないところに行ってしまった。
 けれど、それは真っ直ぐに遠くまで伸びている。自分の将来への決意。

ラストに真琴が見上げる入道雲
 大きく、高く膨らんでいく、将来、夢、希望、理想。

白梅ニ椿菊図
 誰が書いたとか関係なく、見た人の心に残る作品を作りたい、
 という監督の希望。
 と、同時に、
 一人でもいいから、自分の作品を見た人の人生を狂わせてみたい、
 という監督の野望。
 シブリとか、宮崎とか、そんな看板どうでもいいんだよ!
 中身だろっ!
 と、までは言い過ぎか。
 時かけ以降のプロモーションが
 「○○、○○の細田守監督作品」
 とされてるのは、監督にとってはある種の皮肉?{/netabare}

【プロフェッショナル 仕事の流儀】
{netabare}”プロフェッショナル 仕事の流儀”
で細田監督が取り上げられた。
バケモノの子制作、密着300日。
「絵を描くアニメーションは自由に思われるかもしれないが、正解は1つしかない。
 そのたった1つの正解を求めて模索していく。」
12時間ぶっ通しで絵コンテを切る監督はそんなことを語っていた。
非常に興味深く、楽しい番組だった。

私は、細田監督のプライベートについて、1つ疑問に思っていることがあった。
それは、子供がいるのかどうか。
この番組中、自宅で子供に絵本を読み聞かせる細田監督が映っていた。
それを見て、
あぁ、なるほどね。
と、勝手に合点がいった。
細田監督の作品制作における姿勢が垣間見えた気がしたのだ。


時をかける少女
 様々な失敗をしても前を向いて進む姿勢と、フリーとなり制作作品にかける思いや決意

サマーウォーズ
 結婚と結婚において生まれた人との絆

おおかみこどもの雨と雪
 結婚生活で見えてきた子供を育てるという現実と母親の姿

バケモノの子(本編未見なので番組の内容解説より)
 子育ての中で見えてきた父親になるということと自分の父親への思い


こう見ると、監督自身の置かれた立場や状況が、素直に、作品に影響してる。

となると、次作が非常に難しそう。
作品制作への思いは、時かけで語っちゃった。
家族ネタは、サマウォで家族、雨雪で母子、バケモノで父子とやってきた。

俺、こんなに成功しちゃってるぜイエーイ!は作品にしにくい。番組中でも語ってた。
自分が描いてた理想と自分が置かれてしまった現状のギャップとその苦悩、みたいなものを描くと、内容が小難しくなり、万人向けエンターテイメントたり得なくなる。
それに、ジブリ宮崎の長編新作が無き今、小難しい内容は日テレ他が許さないだろう。
でも、ここらで一発、そんなん無視して、監督が抱えるドロドロをぶちまけちゃうような作品やって欲しいなぁ。

だけど、なんか、手堅く、原作アリで、感動的な恋愛モノをやりそうな予感、とか?{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 14

91.1 4 切ないアニメランキング4位
君の名は。(アニメ映画)

2016年8月26日
★★★★★ 4.1 (2500)
11412人が棚に入れました
新海誠監督による長編アニメーション。

千年ぶりとなる彗星の来訪を一ヶ月後に控えた日本。
山深い田舎町に暮らす女子高校生・三葉は憂鬱な毎日を過ごしていた。
町長である父の選挙運動に、家系の神社の古き風習。
小さく狭い街で、周囲の目が余計に気になる年頃だけに、都会へのあこがれを強くするばかり。

「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!!!」

そんなある日、自分が男の子になる夢を見る。
見覚えのない部屋、見知らぬ友人、目の前に広がるのは東京の町並み。
念願だった都会での生活を思いっきり満喫する三葉。

一方、東京で暮らす男子高校生、瀧も奇妙な夢を見た。
言ったこともない山奥の町で、自分が女子高校生になっているのだ。

繰り返される不思議な夢。そして、明らかに抜け落ちている、記憶と時間。
二人は気付く。

「私/俺たち、入れ替わってる!?」

いく度も入れ替わる身体とその生活に戸惑いながらも、現実を少しずつ受け止める瀧と三葉。
残されたお互いのメモを通して、時にケンカし、時に相手の人生を楽しみながら、状況を乗り切っていく。
しかし、気持ちが打ち解けてきた矢先、突然入れ替わりが途切れてしまう。
入れ替わりながら、同時に自分たちが特別に繋がっていたことに気付いた瀧は、三葉に会いに行こうと決心する。

「まだ会ったことのない君を、これから俺は探しに行く。」

辿り着いた先には、意外な真実が待ち受けていた…。

出会うことのない二人の出逢い。
運命の歯車が、いま動き出す

声優・キャラクター
神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみ、市原悦子、悠木碧、島﨑信長、石川界人、成田凌、谷花音
ネタバレ

Progress さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

夢の儚さを越えて二人は繋がる。

見終わった後、私は夢から覚めて、まどろんだ時ようなな気持ちになりました。

あのシーンの背景が良かったとか、あそこのスピード感が最高だったとか。
でも、その記憶は、強く「覚えていよう」と思い、まるでこれは面白い夢から覚めた時と同じじゃないかと。

でも、人の記憶は曖昧で、全ての良いシーンを覚えておこうと思っても、次第にディテールが失われていきます。
やがて夢の記憶は、「面白い夢をみた」に代わり、そして夢をみた事をも忘れていく。

時間に対して夢の中の記憶はあまりにも儚い。

この作品はそんな弱い繋がりで繋がった瀧君と三葉の物語です。



感想
{netabare}

【演出】
二人の入れ替わり生活が始まるときに曲が入り場面の切り替わりのスピード感は新海監督らしい演出。

二人の入れ替わり生活とは別に強く印象に残っているのは
時間が100倍速になった感じで都会の光や信号が光を放つシーン。
これは時間の経過を示しているのでしょうが
その綺麗さが強烈に印象付けられました。

また、夢の中の出来事という作品の設定のように
幻想的な美しさが視聴者を夢と現実の境界線に引き込んでくれます。

三葉の人生が瀧に見えたときのシーンもグッと来ました。何でだろう?
人の生き死にに涙もろいのかな。
あのシーンは母親との直接的な繋がり(へその緒)や親との別れ、家族の濃い「人と人の繋がり」を感じてしまったからでしょうかね。

【展開】
「瀧君、覚えてない…?」という三葉のシーンは本当に胸が痛くなりました。
3年後の瀧君にとってはずっと前から繋がっていた。三葉にとってはようやく繋がった。
だけど瀧君はこのときはまだ知らない、三葉は不審そうにこちらを警戒する瀧君に思いを伝えられない。
「二人が会えた」「繋がった」という嬉しさと同時に
勇気がでずに思いを伝えられない三葉の姿に自分を重ねてしまいました。



【キャラ考察】
瀧君がクレーターの上で君の名は!と涙ながらに叫んだ気持ちがわかってしまう。
大切な人に会いたいと、思いが募ると、苦しくて、吐き出したいなにかが心のなかにたまってきて、自然と涙が出てくるんですね。

三葉の境遇について
母親を幼い頃に亡くしていて、それをきっかけに父親が神職をやめて離ればなれとなっています。
離れて暮らしながらも、政治というなにかと目立つ仕事をしている父親のせいで
学校で本人の意思とは関係なく少し浮いてしまう三葉。
そんな狭い村社会に嫌気が差してどこかに逃げたい気持ちでいる時に起こる入れ替わり。
三葉にとって入れ替わりは逃避になり得た(まさに夢に逃げる)のですが
突然終わる入れ替わりは、夢の終わりであり、それは自分の逃げ場所がなくなったともいえます。
夢の続きが見たくて。そういう気持ち(逃避)、わかります。
東京にいるはずの瀧君に会いに行き、あの日々の続きがみたい。
でも、せっかく会いに行ったのに瀧君は三葉のことを知らなくて、繋がりの喪失を感じてしまった。
(ですか、ここで過去と未来を繋ぐ糸を渡したシーンの懸命さや、その糸が忘れかけた瀧君と三葉を繋げてくれた意味を持つアイテムであることの重要性が「繋がった!」と嬉しさを感じさせます)

その後の三葉の行為は、瀧君への思いをたちきりたくての髪を切る行為だったのでは。(切るということは思いや繋がりをたちきりたいための行為?)(夢の終わりが夏祭りの近くの日、つまり、一般的には夏の終わり近くです。夏の終わりの儚さと夢の終わりの儚さをかけているのではないでしょうか)

また、三葉が夏祭り前に暗い部屋で涙を流すシーンには、喪失感を感じ、失恋等のなにかを失う出来事を思わせました。


その後の彗星の衝突により、三葉は現実の問題と向き合い乗り越えることができました。
瀧君の残した「すきだ」が現実と向きあう最後の勇気をくれたのかもしれません。

そして、瀧くんにとっては、一生忘れられない体験であり
忘れられない繋がりだったのではないでしょうか。
それが記憶がなくなっても四年後も繋がりを求めていた理由かもしれません。
忘れたくないと思っても忘れてしまう、だけどどこかでおぼえているその繋がりのことを。
だから、これはなくなってほしくないという、繋がりの肯定なのではないかな。
【美術】
新海監督の作品は見たり見なかったりなのですが、背景の綺麗さは今作もすばらしかったです。
田舎のゆったりとした風景にはそこに溶け込めそうな気分にさせてくれました。まるで、その場所が自分の帰る場所のような。

都会の朝の風景はどこか孤独だけどエネルギーを感じます。
夕方の忙しそうな風景には少し寂しさがあって、早く帰りたいな、そんな気持ちにさせてくれます。

季節感も夏に始まり、春に終わるという、季節ごとの綺麗な風景を描いてましたね。

最後に桜さく路地の階段で二人が出会うシーンも、優しさと暖かさをリアルに感じてとてもよかったです。


【記憶が失われる設定について】
多くの人がここについて指摘してきました。
ですが、私はレビューの最初に書きました通り、夢だから、でストンと納得しています。
作中で夢をフォローしているシーンがあるのは覚えていますか?
三葉の祖母が三葉(瀧くん)に「三葉、お前、今夢を見ているな」と言う印象的なシーンです。
また、三葉も「夢の中で見たあの人の名前が思い出せない」と言い、友人を困惑させます。
それはそうでしょう。普通のひとはそんなことを非常時でも平常時でも口に出したりしません。
共通認識として「夢の中の内容は忘れやすい」ということがあるからです。
ですので、スマートフォンの中の日記が消えていくあの表現や、
二人が御神体のクレーターで出会うシーンが、
夢と現実の境界線が曖昧な時間や場所を表現していて
見た人間も、夢と現実の境界線にいるようなそういう作品だと思っています。

【朝、目が覚めるとなぜか泣いている】
印象的な導入のセリフです。
二人の繋がりを失ってしまったことを自分の中のどこかが泣いている。
そして、それにとりつかれているようになってしまっている。
私はそうやってどこかに繋がりを探すような感情を現す言葉は知りませんが
自分のどこかに、よく似た感情があると確信があります。
それが、私の心にズキズキとした胸騒ぎを起こしてくれます。

【総評】
色々書きましたが、瀧君と三葉のような10代の気持ちや考え方を上手く描いています。
君の名は。でとめていますが、これは相手への問ですよね。
相手の名前を知らないからこそ尋ねる(訪ねる)。
そして相手の事を知りたいからこそたずねる。
相手の事を知りたいという感情をエネルギーにして伝えてくる作品でした。

また、人と人の繋がりを感じる、もしくは、心の中のどこかにあるつながりを求める感情を肯定する物語だったとまとめさせていただきます。

【蛇足】
三年前の瀧君と三葉が東京でであったとき、二人の糸はどう繋がったのか、一瞬はまりかけました。
二人の糸は絡みあって大きなわっかを作った。そんな思いです。でも始まりはどこかよりも、今と未来の彼らが気になって(笑)

キービジュアルの瀧と三葉が東京の坂で振り返って見つめる絵って
ラストの5年後の二人を、であった頃の高校生の姿に置き換えているのかも?
これが「出会い」の絵なのか「再会」の絵なのかちょっと気になって面白い。

幻想的で儚さのある二人の奇跡の繋がりと、現実の繋がり。
ラストで二人の繋がりを現実の繋がりにすることで生まれる嬉しさ。
なぜだろうか?多分、二人が求めていたその繋がりは、人間が奇跡を信じたい気持ちの肯定だからでしょうか?

{/netabare}

ストーリー考察?(繋がりを軸にストーリーを考えてみました。)
{netabare}
三葉の祖母が、糸に例えて人と人の繋がりを話しました。繋がって、絡みあって、離れて、近づいて、また繋がっていく。その繋がることを結びという。

瀧と三葉の関係もまたそうでした。夢で繋がって、入れ替わりを繰り返して二人の糸は絡みあう。
入れ替わりは突然になくなる。突然糸が切れたように。
三葉のいる場所は時間を越えて遠く離れた場所だった。
真実を目にした時、三葉との思い出は一瞬で消えていき、崖から突き落とされたようなスピードで二人の距離は離れていく。(二人の距離が明確に離れていくことに儚さや悲しさを感じました)
でも、瀧は「そこにいかなくちゃいけない」という自分でもわからない使命感に押され御神体のある場所へ
三葉のいるかもしれない場所へ近づいて行く。(確信のない行動です。しかし、そこには記憶という曖昧な繋がりよりも、もっと深いところでの繋がりを感じます)

そしてまた入れ替わり、二人はお互いを自分の体で出会う。
今まで顔を合わせて話したかったことをいいあって、笑う。(ようやく、もがいてもがいた結果、出会えたという喜びを感じます)

互いの姿が見えなくなって、名前を忘れた瀧は叫ぶ。
「君の名前は!」忘れちゃいけない大切な人を思い出せない苦しさで一杯になる。(本気で相手の事を求めるシーン、記憶がなくなっても、もっと深いところからの欲求です)

名前は思い出せない。でも誰かが大切なことは覚えてて
誰かが思ってくれていることが「すきだ」という言葉からわかる。だから三葉はやりとおせた。

そして時が流れ、あの時間の記憶もなく、あるのはかすかな心残り。
どこかに大切な繋がりがあるような。

冬が終わり春が来る。
二人はまた近づく、自分の中の心残りの先にある繋がりを探して。
そして出会い、ずっと探し続けてきた繋がりだと信じて問いかける。「君の名前は」。
(最初のシーンと繋がる。どこかに特別な繋がりがあるという不思議な感覚。ラストはなんとなくわかるという感情の肯定が、とても心地いい)
{/netabare}


2018年1月3日 地上波放送を見て。
{netabare}
本当は追記する予定はありませんでした。
でも、見たら、自分の中に生まれた何かを書きたい衝動を抑えられなくて、
書こうと思いました。

今回の再視聴で感じたのは、
繋がりが消えることの悲しさでしょうか。
どこか身近に感じていた、繋がりの断絶。
私が繋がりの断絶を感じたのは、福島なんですが、
レビューを社会派にする気はないので詳細は伏せます。

それは、人間の営みの断絶であったり、人の関係の断絶。
繋がりが消えてしまうことへの悲しさ、つらさ。
そういったものが多分糸守町の消滅、三葉と瀧の入れ替わりの終わり、
そういった作品世界の出来事から、私はいつも感じていたこと、
繋がりの断絶を感じていました。

繋がりの断絶と同時に、繋がりを求める声も同時に感じました。

三葉が瀧に会いに東京に出た時も、瀧が三葉の名前を忘れて叫んだ時も、
繋がりを求めるその行動、その思いが、私には、
無くした繋がりを取り戻したい気持ちを感じて、
どうしようもなく、泣いてしまいました。
(すこし安っぽい表現ですが、実際少し泣いてます。
多分泣いた理由は、登場人物達と同じ理由で、
繋がりを求めたから、でしょうかね。
多分これが、共感何でしょうね。初めて実感出来たかも)

こんな瀧君のセリフがありました。
「今はもうない街の風景に、何故ここまで胸を締め付けられるのだろう」
心のどこかで糸守に繋がりを感じている瀧君。
私も、どこかで知らない街の知らない人の営みに、
繋がりは感じないまでも、営みの中にある繋がりを見て、
親近感を感じたりするのです。
それは人と人の繋がり、人と土地の繋がり、繋がりの中で生まれた営み、
そういったものを、私は求めているのだろうし、
大切にしたいし、失いたくないと思うのです。

だから、この作品を再視聴して、このレビューは、
完全に私の感想であるのですが、
私が求めていた繋がりを描いてくれているし、
私が恐れている繋がりの断絶も描いてくれている。

だから、私は、この作品が好きなんでしょうね。



{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 134
ネタバレ

oneandonly さんの感想・評価

★★★★★ 4.5

アニメを伝道する好機

世界観:8
ストーリー:8
リアリティ:8
キャラクター:7
情感:7
合計:38

1,000年に1度のすい星来訪が、1か月後に迫る日本。山々に囲まれた田舎町に住む女子高生の三葉は、町長である父の選挙運動や、家系の神社の風習などに鬱屈(うっくつ)していた。それゆえに都会への憧れを強く持っていたが、ある日彼女は自分が都会に暮らしている少年になった夢を見る。夢では東京での生活を楽しみながらも、その不思議な感覚に困惑する三葉。一方、東京在住の男子高校生・瀧も自分が田舎町に生活する少女になった夢を見る。やがて、その奇妙な夢を通じて彼らは引き合うようになっていくが……。
(シネマトゥデイより)

最近話題として何回か出てきたので、折角なので劇場に足を運ぶことに。そう決めてから、京アニの「聲の形」も上映中であることに気付いて、1日2本の豪華スケジュールを組みました。映画は、昔はよく観に行っていましたが、1日2本観たことは初めてのことです。

「君の名は。」は、午前中の回が満席だったので、「聲の形」→「君の名は。」の順で視聴しました。新海誠監督作品は「秒速~」と「言の葉の庭」を視聴済ですが、どちらも良作となる4点にぎりぎり届かない程度の評価をしてきたところ今回は評判が良く、京アニは「けいおん!!(二期)」で評価を上げたところでしたので、この2作は接戦になるかなと思っていましたが、本作は期待をさらに上回りました(劇場版の尺では過去最高点です)。

作画と楽曲はこれまでの作品の通り素晴らしい上で、映画の尺に合うだけの充実した設定とストーリーになっています。
入れ替わりネタはココロコネクトで経験済ですが、前半に和みの要素としてよいエピソードでした。やはり男は悪いと思っても揉みますね(笑)
入れ替わりが終わってからが本編という感じ。物語の展開がどうなっていくか、最後まで集中して視聴できました。

良作アニメは「時間」を効果的に利用しているものが多いです。タイムリープする必要があるわけではないですが、経年による物語の厚みは基本です。人間は、時間を遡ることができず、過去を振り返ったり後悔したり、そして遅かれ早かれ死ぬ、はかない存在であることの裏返しなのでしょうね。{netabare}この作品でも3年のズレが良い味を出していました。瀧が三葉に出会う前に、三葉が瀧に会いに行くシーンがありましたが、ああいう伏線は好きです(最初どのように描かれていたかは1周だけではよく思い出せないのですが)。

この作品ではさらに、入れ替わりが「夢」であって、その記憶がなくなっていく、という表現をしていたのも特徴的でした。夢を思い出したいのに思い出せない、あの感覚を、大事な人の記憶と結びつけたのはとても切なくて巧みでした。携帯の日記の消え方はちょっと変でしたけどね。{/netabare}

そうそう、リアリティ面では、細かいことを言えば上記のようなものがいくつかあったと思いますが、{netabare}名前の記憶が消えていくように{/netabare}終わる頃にはほとんど忘れてしまいました。それくらい浸れる作品ということかと思います。

興行成績でも今後どれくらいの数字を出せるかも期待大ですが、新海誠監督の代表作と言えるものになったことは間違いないでしょう。

{netabare}最後の二人が出会えるのかというところは「秒速」が繰り返されないかとヒヤヒヤしました。私は心の中で思い切り「よくやった!」と叫びました(笑)。ハッピーエンドが、良い余韻を呼んでいます。{/netabare}

そのほか、「言の葉の庭」の先生が登場していたり、彗星(星)を扱ったところなどにも、過去作品とのつながりも感じられ、新海誠監督の集大成になったのではないかと思います。もちろん、今後も今作を超える作品を目指していただきたいですね。

ヒロインの三葉の名前は、凪のあすから2クールED「三つ葉の結びめ」の影響もあったようです(前向きになれる、自分もとても好きな曲です)。
色々なところでつながっていると感じられることも自分のアニメ道の進歩ですね。

この作品でアニメに興味を持つ方も多いと思います。クールジャパンの代名詞のひとつがアニメだということは多くの方が知っているでしょうが、他にも「君の名は。」クラスの作品があることを、機会があれば伝えていきたいですし、あにこれの方々もそうしたら良いんじゃないかと思いました。(自分が初心者だという方には、私の棚でも見ていってください)

もう1回くらい劇場で観たいと思える作品です。劇場で観ておくことをおすすめしたいアニメ映画です。

(2016.9劇場で鑑賞)

追記(2016.9.20)
{netabare}余韻に浸り、あれこれ考えています。設定について補足したいと思います。まずは、入れ替わりが本人たちにとっては「夢」として感じるものであること(遠くにいる男女が出会う物語を考えつつ、古今和歌集の小野小町の和歌から着想を得たというのもイイですね)。朝起きて自分の人格に戻っていて、相手側の人格に入った記憶は消えているので、当初は訳が分からなくなり、周囲の言動などから、現実として入れ替わっていることを認めざるをえなくなるという流れでした。結果的には素晴らしく機能しているのですが、観客としては、別人格の2人がしっかり自分の意思を持って行動しているのを見ているので、忘れてしまうことに違和感を覚えます。ここを、注意深く見ていくには、1周では心もとないですかね(私も序盤は見落としがある気がします)。

それから、時間描写に特殊性のある作品でもあるかと思います。携帯電話の日記が消えてしまう部分はマイナスとして取り上げさせてもらいましたが、過去改変の可能性を示唆した表現でもあるのかなと思いました。つまり、我々が1本だと思っている時間軸は実は1本ではなく、交差することもあるけれども、その時は我々の記憶や記録物までもが改変されていて、我々に認識できないだけなのではないか、ということです。

また、通常、時間軸は1本であり、パラレルワールドを扱った作品は世界線が平行に並んでいるというもので、別の世界線に移動しても同じ時間というのが一般的ですが、この作品では別の世界線(と言ってよいのかも確信を持てませんが、多分そうかと)が3年ずれています。これは斬新ですよね。光速に近づくほど時間の流れは遅くなるという相対性理論もありますし、時間の経過は常に一定ではないとすれば、時間の流れが世界線ごとに異なっているというのもありじゃないかと思いました。{/netabare}

追記(2016.9.21)
{netabare}RADの主題歌を購入。その中の夢灯篭に「5次元にからかわれて」という歌詞があるのを見て、個人的にはパラレルワールドを描いた作品であると認識してみる。

(参考)私的次元の数え方
0次元…大きさのない点
1次元…太さのない線
2次元…厚みのない平面
3次元…静止した空間(これを0次元に戻して以降を想像する)
4次元…時間軸のある空間(1次元的な線としての時空=我々の認識する世界)
5次元…複数の時間軸のある空間(2次元的な平面としての時空=パラレルワールド)
{/netabare}

追記(2016.9.23)
{netabare}上記から、私は本作はタイムリープものではなく、時間の経過がズレたパラレルワールドの交錯した世界の物語と考えてみました。

①瀧のいる世界線と、三葉のいる世界線(瀧の世界線の3年前)がムスビの力によって重なってしまい、互いに心と体の入れ替わりが生じた。

②しかし、三葉のいる世界線において三葉が死に、入れ替わりは終わった。ムスビの力がなくなり、存在しないはずの三葉とのやりとりは過去改変により消失する。このため瀧の携帯電話の日記も消えた。

③三葉の「半分」である口噛み酒を飲むことでムスビの力が復活。三葉のまだ生きている世界線とつながり、再度入れ替わりが生じた。

④危機回避の努力の結果、三葉たちが助かり、その世界線と繋がった影響で瀧のいる世界線の過去が改変され、三葉が生きている世界になった。
という感じでしょうか。

小説版は1日で読み終わりまして、文章で読むと正直そんなに凄い作品とは思えなかったのですよね(本当に、映画の内容をそのまま文章にしたという感じのものですが、情感の起伏があまり湧かないのです)。
最高峰の作画と、疾走感や情感の溢れるRADの楽曲と、綺麗にはまった声優と、後半超展開となるストーリーと、感情をストレートに紡いだ心情描写と、夢のはかなさを活かした設定とが高度に融合した、アニメがベストの作品なのだと思います。

本日、9月22日までの28日間で興行収入100億円突破とのニュースがありました。祝!
もう一度見たくなってしまう、高揚感の余韻が強い作品です。
{/netabare}

追記(2016.10.10)
{netabare}最近週末まで多忙となり2回目をまだ観に行けていませんが、多数のレビューを見ていた中で一番良かったものをご紹介。
http://blog.kanjutsu.net/entry/2016/09/09/115947

作家性を捨ててエンタメに振れた、プロデュースの力によるもの、斜に構えた意見も多々見受けられますが、表面的な受けも狙いつつも底辺の深みに魅力がある作品だからこそ、何度も足を運ぶ方がいるのだと思います。
{/netabare}

<2019.1追記>
世界観の配点を1点減点しました(作画によるボーナス点を与えていましたが、他作品との平仄の観点から削除しました)。

(2017.2、2018.4、2019.1評価調整)

投稿 : 2024/05/04
♥ : 102

けみかけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.9

空前の大ヒットも頷ける完成度を差し置いて劇場で笑い転げるヲタクとはオイラのこと~ぼくらタイムフライヤー_時を駆け上がるクライマー~IMAX観ました

新海誠監督が手掛けた5本目の長篇作品


東京の大都会に住む男子高校生、立花瀧
山深い田舎町に住む女子高校生、宮水三葉
1200年振りに地球を訪れるという巨大彗星の到来を一ヵ月後に控えたある日、瀧が目覚めるとそこには見知らぬ自分と知らない天井、見知らぬ家族と知らない町があった
同じように三葉もまた、想像すら出来ていなかった大都会で朝を迎える
ただ一つ確かなことは、自分の身体が見知らぬ異性のものだということだけ
瀧と三葉は全く原因がわからぬまま不定期にお互いの身体と心が入れ替わってしまうことに気付いた
お互いの生活に干渉しないよう、日記で連絡を取り合うことにした二人
田舎育ちの三葉は憧れの都会に想いを馳せ、自由気ままに過ごす
一方の瀧も他人のそれも異性の身体だということを忘れ好き勝手してしまう
周りからはまるで人が変わったようだ(笑)と思われ少しずつ人間関係に変化も起きる
瀧が好意を抱く先輩との仲を、三葉が瀧に変わって取り持ったことで瀧には良い事尽くめの大団円かに思えたが、次の日の三葉はある決心をしていた
そして彗星到来の10月4日、瀧は記憶から消えていた重大な事実に気付く・・・


『言の葉の庭』が全国東宝系で大きく展開し成功を収めたことから、遂に全国約300館での上映となった新海誠監督にとって最大の大作となった今作
キャラデザはZ会のCMでタッグを組んだ田中将賀
作画監督は元ジブリの安藤雅司
音楽は挿入歌から劇伴に至るまでオイラが中高生の頃に(ごく一部ではあるがw)一世を風靡したバンド、RADWIMPSが担当


声優陣には瀧役に声優経験豊富な若手演技派、神木柳之介
三葉役には『舞妓はレディ』の上白石萌音
その脇を固めるのは長澤まさみ、市原悦子といった豪華俳優
さらに悠木碧、島崎信長、石川界人といった豪華声優
そして『I LOVE スヌーピー』でいい芝居をしてくれた谷花音、とキャスティングにもかなり力が入っているのがわかりますね
身体が入れ替わった時の芝居は聴きどころですb


単純に少しアニメに詳しい人なら、将賀さんのキャラデを見て『あの花。』の絵だ!観に行こう!という気持ちになってくれるでしょうし、本編が始まるとすぐ「夢灯篭」という楽曲に合わせてOPアニメみたいなのも流れる
オイラは初見観た時このOPが「めちゃくちゃダセェ!」と思ってしまったのですがwやはり深夜アニメなどに慣れ親しんだ世代にとっては心を掴む取っ掛かりになっているのでしょう
ああ、ちなみに今は「夢灯篭」もOPも好きですよ?w


そして序盤はそれこそ深夜のラノベアニメのラブコメタッチで物語が進む
キャラの表情もコロコロ変わり、身振り手振りの作画も非常に丁寧
中身が入れ替わった男女の微妙な違いを作画で表現する、言葉にすれば簡単ですがこれを見事にやってのけた作画陣には最大級の賛辞を贈りたい
ジブリが崩壊し、『攻殻機動隊ARISE』と『アニメ(ーター)見本市』が完結した等、作画スタッフの足並みが綺麗に揃ったのが大きかったでしょう
尚且つ、新海作品お得意の美しい光と色と街並みが、このアリエナイ話にリアリティと説得力を醸し出す
制作中は当然完成していなかったバスタ新宿がちゃんと描かれてるのも凄い


後半はミスリードで張ったミステリアスな伏線をスペクタクルと共に回収しつつ、所謂新海節が炸裂する内容なのですが、まあとにかくメジャーかマイナーかで言えばメジャー路線な作品に作ったことです
今日までの大ヒットがソレを裏付けてますね、明らかにこれまで新海のシの字も知らんかった人たちが劇場を訪れているのです
実際オイラが鑑賞オフ会を開いたら半分の参加者は新海作品初体験でした
こうなると昔からのファンは遂に資本主義の犬となったか新海よーとかワケのワカランことを言い出す輩が湧いてくるもんです
まあ、言いたい事はわからんでもない


ただオイラはこう考える
【新海ファンこそ、この映画は10倍楽しく見れる】


そう、今作が初見でもなんも問題無い
でも今作、新海誠がこれまで積み上げてきたものがほぼ全て詰め込まれたいわば集大成なのです


『彼女と彼女の猫』から続くゆっくりとしたモノローグでの幕開け
『ほしのこえ』では恋人達が時間差で引き裂かれていく様を描いていました
『雲の向こう約束の場所』では田舎町と都会に分かれて物語が交錯していましたね
これを同時並行させたのが『クロスロード』
「何も無い」という田舎風景を印象付ける画作りは相変わらず上手い、これは『桜花抄』
2時間に1本しかない電車はまさに『星を追う子ども』
朝食と通学風景から始まるのもそう
真っ二つに裂ける彗星は『コスモナウト』のH2Aロケットの発射ですね、意味合いは逆だけど
挿入歌に合わせて映像を積み上げていくのは『秒速5センチメートル』や『クロスロード』で魅せた技
コミカルなタッチで進む前半は『猫の集会』のお茶目な演出を思い出しました
東京、特に都会の象徴として新宿を描きたがるのは『言の葉の庭』が顕著
同じく、途中での雨描写は秀逸でした
主役二人の生活感の違いを描写する様子は『大成建設』や『だれかのまなざし』の経験が大いに生きてるでしょう
いやしかし瀧くんが面接を受けてるのが大成建設だったのには笑いましたね
宮水神社のご神体がある湿原を見下ろす描写は、さしずめ地下世界アガルタのフィニス・テラですね
瀧くんのお父さんが井上和彦だったのでもしやおまえは森崎なのか?
そもそもファンタジーかSFかと思えば途中からロードムービーになってしまう辺りはまさに『星を追う子ども』のソレ
『ほしのこえ』で膝を抱えるミカコ然り、『雲の向こう、約束の場所』で足の指にてんとう虫がとまるサユリ然り、靴の型取りに足を差し出すユキノ然り、美女の足に拘る新海作品、今作では東京で歩きつかれた三葉に注目したい
思えば新海映画とはずっと男女のすれ違いを描いてきましたが、今作は「顔も名前も身体も私生活すらも知り尽くした二人がまるで会えない」という究極的なすれ違いをしてるのが面白い


ほんとそう、新海映画を知れば知るほどこの作品にのめり込んでいけるのは間違いないでしょう

“花澤香菜が演じる古文の先生”が恐らく別の世界線なんでしょうが「ユキちゃん」という名前だった時、周りが静まり返っている劇場でオイラは一人笑ってましたさーせんw
良い映画か否かという以前に、ある種のネタ映画として最初から最後まで笑いながら(時に笑い泣きしながら)観れましたねb


まあ強いて言うならラストシークエンスはちょっと引っ張りすぎたようにも思いますが、「なんでもないや」という楽曲の持つエピックなキックのリフレインとウィスパーボイスのボーカルに思わず感極まってしまう
なにより『秒速』を知っているとあのすれ違い方は辛いものを思い出させる(笑)
そう、この厨二病全開な内容に対して厨二病をこじらせてしまったバンドの日本代表とも言うべきRADWIMPSの音楽が見事に調和してるのが今作の評価を押し上げてるポイントでもあります
まさにクサイ内容にはクサイ音楽
『ここさけ』でも言いましたが単体では正直目も当てられないような詩の主題歌が、割とすんなり入ってきてしまうまさに映像マジックですねこりゃ


今作を受け入れられない人、良い意味で厨二病を卒業出来たんだと思います
誇らしく思ってください
オイラ?は、駄目ですね
この映画を面白いと思ってしまったのでアラサーになっても心はまだティーンエイジャーのようです(笑)

























~TOHOシネマズ新宿のIMAXデジタル版観ました~
IMAXというのは実にビル三階分ほどの高さと20メートル以上の横幅を持つスクリーンに二台の映写機で投影する現代における最大級規格の映像フィルムです
人間の視覚を上回る大きさのため観る、というより観回す感じになります
さらに劇場によっては12.1chの音響システムもそなえており音の迫力も通常の規格とは異なります


そもそも普通の規格で作られた作品をIMAXにするってことは拡大して引き伸ばす、ってことですからオイラは最初この『君の名は。IMAX版』は反対の立場でした
それにアニメって視覚的情報量が実写より多いので単純に疲れそう、だとも思いましたし


しかし実際鑑賞してみると新海作品特有の美麗背景が大きく引き伸ばされてるにも関わらず全く精細さを欠いてないんですよ
むしろ画面の中に描かれる糸守町や新宿の風景に吸い込まれていくようでした
だから鑑賞、というよりはむしろ体感、に近い感じでした


音響の方ですが意図的に音圧を上げてるようでしたがどちらかと言うと山びことかそういった反響音がクリアに聴こえるようになったという印象です
挿入歌がやたらデカイ音で、それもどっか独立した別chから出てるっぽくてやたら大きく感じたのですが、肝心の挿入歌より手前にいるはずのセリフが少々聴き取り辛くなった気がしましたので、これはちょっと好み分かれそうです


初見の方にはあんまりオススメしません
先にも言ったとおり、情報量に加え目で追う作業が加わるのでストーリーに集中し辛くなります
ただリピーターには一見の価値があることでしょう
アニメにIMAX不要、と言いたいところですが新海作品のIMAX化に関しては歓迎できますねb

投稿 : 2024/05/04
♥ : 42

88.8 5 切ないアニメランキング5位
聲の形(アニメ映画)

2016年9月17日
★★★★★ 4.1 (1497)
7402人が棚に入れました
聲の形」は、聴覚の障害を持つ少女・西宮硝子と、彼女へのいじめに加担していた過去を持つ少年・石田将也の物語で、2人の衝突や再会を通して、孤独や絶望、愛などが描かれている。

声優・キャラクター
入野自由、早見沙織、悠木碧、小野賢章、金子有希、石川由依、潘めぐみ、豊永利行、松岡茉優
ネタバレ

明日は明日の風 さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

聲とは、思いを伝えること、発するだけではないことを教えてくれる作品

硝子と将也が動き、聲を発する。それだけでもう満足でした。全7巻を120分でどうまとめるのか、それが最大のポイントだったと思います。入るべきエピソードはほぼ入っていました。
{netabare}硝子との再びの出会い、子供の頃の虐め、将也の自殺話、結弦と将也の掛け合い、硝子の告白、長束との友情、直花との再会、遊園地、結弦とおばあちゃん、将也のキツイ言葉、硝子ママの誕生日、花火大会、硝子の自殺話未遂、将也の叫び、病院の出来事、将也と硝子の橋での会話、将也の開けた心。{/netabare}これだけ詰め込んでも入りきらなかった話もたくさんありました。{netabare}多分無理だろうと思っていた6巻の話は全カット。映画作りがカット。映画製作がなかったためにいろいろな人のエピソードがなくなり、友人たちの立ち位置が薄くなっていました。特に真柴は居なくても良いくらいで、かえってかわいそうでした。この人物の異様さが見ものの一つだっただけに残念。{/netabare}

やっぱり120分で原作の全てを表すのは難しかったですね。それと、ずいぶんマイルドにしていた感じです。小学生のエピソードはイメージビデオみたいになってましたし、硝子ママはキツいだけではなく裏に隠された強さが見えなかったのは残念でした。それでもよくまとめていたと思います。山田監督、吉田玲子さんはじめ、原作者も加わってかなり会議重ねたというし、そこで出た結論がここに表されたのだろうと思いますが、できればハルヒくらいの時間使ってもよかったのではと想います。

作画は安心の京アニです。風景、女の子の画きかたは本当に綺麗でした。あと感心したのは小学校の教室、広さから雰囲気から本当にリアルでした。さすがにこれは原作には出せない、アニメの良いところだと改めて思いました。

上映期間中、もう一度見に行きたいと想います。一回だけでは足りません。劇場でもう一度です。この作品の真価を見極めたいです。


【以下、原作見たときのレビュー】
京アニが劇場アニメを制作するというので気になって仕方がなく、大人の一気買い一気読みしました。

「これ、映像化するの?…本当に大丈夫か?」

これが率直な感想でした。これが少年誌で連載されていたのも驚きですが、さらにアニメ化ですからね。

{netabare}「聲」とわざわざ使っているので、言葉が上手く出せない人の話かと想像したらその通りでした。
聾唖の少女を小学生の頃に虐めた挙句、逆に自分が虐めの対象となってしまい、心を閉ざしたままに高校生になってしまった少年の物語です。
主人公の少年が自殺を考え、最後にこの少女に会いに行くところから展開していきます。この二人を軸に、関わる人びとが心を動かし、葛藤し、それぞれの生き方、解決に向かって進んでいきます。
障害者の問題、恋愛、悩み、葛藤、生き方など、いろいろつまった青春群像劇といったところでしょうか。
かなり重いです。特に小学校の頃の虐めは実写化したら「女王の教室」を越えるほど話題になること必至です。なので、アニメでどう取り扱うか、気になります。避けては通れない話なだけに余計にです。{/netabare}

原作は賛否両論、いろんな意見が寄せられたのですが、どう感じるかは読んだ人の感性に由るようになっています。

映画は京アニ制作ですから綺麗な映像になると思いました。予告編みたら、まさに京アニワールド。背景は綺麗だし、女の子は可愛い。ただ、硝子、直花はいいとして、みきは人物的にそこまで可愛くしなくとも…。
吉田×山田のコンビなので、心の動きや心情は細かく描かれることでしょう。いい作品になると思います。しかし心配な点もあります。この作品の主人公はあくまでも「石田将也」という少年です。吉田×山田コンビは思春期の少年の心を表現できるでしょうか。また、ストーリーをどこまで入れることができるでしょうか。予告編では重要なシーンは入っていたようなので安心ですが、たぶん時間的に6巻部分は削られちゃうのだろうな…。
相当に難しい作品です。京アニの力が試されます。

【主な登場人物紹介】
原作者曰く「みんな嫌い」なのだそうです。たしかに、この作品のファンはこのキャラがいい、嫌い、という人が少ない。それだけ等身大に近い、誰もがその嫌な部分を持っているという感じで描かれているのでしかたありません。
主観バリバリに入った紹介です。正確なものを求めるときはどうか原作を読んで感じてください。

石田将也(CV.入野自由)…ほぼネタばれです。ご注意を。
{netabare}主人公。高3。小学校時代はガキ大将。そのころの心情は「退屈は大嫌い」。少しずつずれはじめた友人たちを気にしながらも馬鹿をやっている毎日。そこへ現れた耳の不自由な転校生。彼は見つける。「この子は宇宙人だ」。悪戯しても怒らない耳の不自由な子。周りから浮いた耳の不自由な子への悪戯はエスカレートして激しい虐めに発展。しかし、虐めの結果、補聴器が次々壊され総額170万円もの被害となる。その責任を担任から将也一人が背負わされてしまう。翌日から虐めの標的は将也に。中学校では小学校の悪事がひろまり仲間はずれに。そのまま心を閉ざしてしまい、高校へ。高校では家族以外の顔が×と認識されてしまうほどの状態に。人生を見失い、自殺を考えるようになる。
補聴器の代金170万円を貯め、弁償してくれた母親の枕元に置き、自殺へ向かう。ただ、将也にはやり残したことが。それは小学校のときに虐めた耳の不自由な子「西宮硝子」に誤ることだった。そのために手話を覚え、彼は向かう、硝子の元に。

将也は悔いだけで生きています。自分が悪い、その感情はずっと残るため、硝子の気持ちに気づきませんし、応えてくれません。ただひたすら硝子への悔恨が彼を突き動かしていきます。自分が幸せになってはいけないと。葛藤とジレンマ、そして自分がなぜ生きているのかの悩み。そして、最後にようやく気づきます。このくだりは本当に感動します。{/netabare}

西宮硝子(CV.早見沙織)
{netabare}もう一人の主人公。高3。母親のお腹にいるときにウィルス感染してしまい、生まれながらにして耳が不自由に。母親の教育方針で普通学校に通うも、行く先々で虐めに遭う。将也の学校でも同じで、虐められる。やがて転校することに。その直前、気持ちが通じあわない将也と取っ組み合いのけんかを起こす。ただ、このけんかは生まれて初めて硝子が感情を露にした出来事でもあった。その後、障害者の学校へ進み、それなりに幸せに暮らしていたという。そんな時に現れた将也。彼女の人生もまた、大きく変わっていくことになる。

硝子は周りがごたごたしてしまうのは自分のせいだと思い込みます。そのため、何があっても気持ちを出しませんし、愛想笑いでごまかしてしまいます。この性格が最後に大きな事件を起こすことになるのですが…。自己犠牲ではないのです、それは硝子の心の弱さと葛藤が生んだ悲劇…
将也と再び会うことで硝子は変わっていきます。どんどん表情が豊かになり、そして、恋心まで芽生えてしまいます。このあたりは本当に女の子として可愛く見れます。{/netabare}

西宮結絃(CV.悠木碧)
{netabare}硝子の妹。中3。小学生のときに虐められる硝子をかばうため、髪をばっさり切って男勝りの性格になった。見た目は可愛い男のこのため、将也にも女の子とはしばらく気づかれなかった。この子なりにいろいろ悩み、不登校になっている。将也が小学校のときに硝子を虐めていたことを覚えており、将也と硝子を会わせない等していたが、将也と触れるうちに将也の心根を知り、将也の味方となる。将也と硝子を繋ぐキーパーソンでもある。

大人な感じをかもしつつも、実は子供の中の子供です。でも、将也と会い彼の心と性格を知り、硝子が変わっていくのを見つつ、周りの環境を感じながら成長していきます。おばあさんとの別れは涙ものですが、映画に描かれるかどうか…{/netabare}

植野直花(CV.金子有希)
{netabare}将也の小中学校のころの同級生。将也の近所に住んでいる。高3。小学校の時に将也が好きになり、高校になってもその気持ちは変わっていなかった。見た目美人だが、かなりキツく、思ったことは口に出ししまう残念な性格であある。小学校の時に将也がいじめられてから思いを残したまま近づくことができなかった。いじめの原因は硝子のせいだと思っており、高校で再び会っても嫌いな感情は変わっていなかった。

直花を嫌いだという人は多いかもしれません。特に気の弱い人は、生理的に無理と感じるでしょうね。それくらい「キツイ娘」です。本来は姉御肌でさっぱりしていて明るい性格です。硝子の面倒も見ていたのですが、周りに理解されず、硝子の性格から、最後は投げ出す形になってしまうます。いじめによって変わってしまった将也を元にもどそうとしますが、かえって距離ができてしまします。この子を中心に見てみると、また別の思いをすることもできるのですが、全体的に嫌われてしまうの仕方のないキャラです。{/netabare}

長束友宏(CV.小野賢章)
{netabare}将也のクラスメイト。高3.小太りでチリチリ頭の少年。自転車盗難の危機を将也に救ってもらったことから将也にとって高校で初めての友達となる。けっこう熱い性格で、将也がピンチの時は出しゃばって救うこともあるくらい。その一方で、罵られたりすると極端に弱気になる面を持つ。映画撮影に興味を持ち、将也と周りの人々を巻き込んで文化祭の出品作品を作ることになる。

将也のクラスメイトで初めて×が取れた人物です。将也が友達とは何かを改めて考えるようになったキーマンで、硝子との繋がりを積極的に応援してくれます。見た目がちんちくりんなのですが、まっすぐな性格なので好感が持てる人多いかもしれません。ただ、気が利きすぎているのも…。{/netabare}

川井みき(CV.藩めぐみ)
{netabare}将也のクラスメイト。高3。将也とは小中高と同じ学校に通う。小中高と学級委員を務めており、自分に自信がある性格で、周りにも信頼されていると思っている。将也のいじめも自業自得と思っていて、硝子のことは見ているだけだったのに、障碍者との学校生活は貴重な経験とすら思っている。将也を通してクラスメイトの真柴との距離を縮めたいと考えている。

この物語の中で、最も嫌われやすいキャラかもしれません。なにせ、自分は全く悪くないし、信頼されているとさえ感じていますので。小学校の時のいじめはすべて将也が悪いと思っているくだりは腹が立つ人続出したようです。最後にクラスメイトから実はウザがられていたことを知る場面がありますが、それでもへこたれません。恐るべきポジティブシンキングです。{/netabare}

真柴智(CV.豊永利行)
{netabare}将也のクラスメイト。高3。みきの紹介で、以前から興味のあった将也と友達になる。結構なイケメン。小学校のころにイジメにあっており、それ以来、イジメは極端に許せない性格となった。小学生のイジメに対し叱ったり、将也の小学校の担任に水をかけるなど熱いのだが、どことなく冷めた性格を持ち合わせている。

正直、登場キャラの中でも最も恐ろしい人物かもしれません。そのことがよくわかるシーンがいくつかあり、将也の告白に対しぶん殴って「他人様」と言い放ったり、教師になりたい理由が「イジメた連中の子供がどう成長していくのか見てみたい」だったり。その時の表情はとても冷めた冷酷な顔に描かれています。{/netabare}

佐原みよこ(CV.石川由衣)
{netabare}将也と同じ小学校のころの同級生。高3。小学校のとき、硝子と仲良くなるために手話をしようという先生の提案に手を上げた結果、直花から「いい子ぶって」と罵られ、それが元で不登校に。そのため、硝子と将也がいじめにあっていたことは知らない。将也に硝子が誰か会いたい人はいるかと聞かれ、佐原に会いたいということになり、再会。硝子とはすぐに仲良くなり、物語の一人に加わる。

佐原は気の弱い性格だったのですが、中学生のときにモデル並みのスタイルに成長し、少しずつ強くなっていきました。硝子と友達になり、周りと触れ合い、苦手だった直花とも対等に話せるようになっていきます。もしかすると、物語の中で一番成長した人物かもしれません。{/netabare}

上記の主要人物のほかにも、将也と硝子の母親も物語に大きく影響を与えます。{netabare}将也の母親はとにかく優しい。すべてを包み込むような母親です。でも、将也が自殺することを悟って叱咤したシーンは、やっぱり母親は強いと思わせてくれます。
硝子の母親はキツいです。人を叱ったり、ひっぱたいたりするのに躊躇しません。硝子を「普通の人」として生活させるために虎の子を落とすようなことも平気で行います。なので嫌いだという人も多いのですが、実は硝子を生んだ後に旦那も含め、旦那家族から罵られ、見捨てられるという悲劇を経験しています。そのために硝子に強さを求めたということがわかるようになります。{/netabare}これ以外にも小学校の担任だとか、ほんと、見ていてイラつかせる人物も多いのですが、なぜか「実は…」というシーンを差し込んでくるあたりもこの作品のいいところです。

【グッと来きたシーン】
その1
{netabare}「自殺するの」
将也が自殺を決行しようと母親の枕元に170万円を置いて出て行くのですが、硝子と会い、思いとどまります。家に帰ってきて母親が170万で喜んでいるように見せた瞬間に放った一言です。子供が自殺を図るだなんて、親不孝そのものです。母親にとっては悔しく、つらい出来事だったことでしょう。庄屋を叱責し、思いとどまらせる約束をします。すでに将也は硝子と会って自殺を思いとどまっていたのですが、このシーンは泣けました。{/netabare}

その2
{netabare}「う、き」
予告でも使われているシーンです。硝子は将也と触れ合っていくうちに将也を好きになっていきます。思いを募らせた硝子はとうとう告白をします。髪型を変え、普段は手話で会話している将也に声で伝えようと懸命に言葉を発します。別れ際、大きな声で発した言葉が「いちだくーん、う、き!」なのです。そう、「好き」を伝えたのです。しかし、思いは届かず、将也は「月?」と勘違いをしてしまうのです。硝子が将也を好きなことには気づきませんし、その対象にすらなっていないと思っていることが分かります。
とても切ないけど、硝子が変わっていっていることがよく分かる重要なシーンです。{/netabare}

その3
{netabare}「生きるのを手伝ってほしい」
これも予告で使われていた言葉です。クライマックスの重要なシーンです。
硝子が自殺するため自宅マンションから飛び降りようとした瞬間、将也が間一髪救い出します。その代わり、将也が落ちてしまい、2週間も意識不明に陥ります。毎週火曜日に同じ場所会うようにしていた二人。火曜日、硝子は思いを募らせその場所に向かいます。そのとき、将也が目覚め、将也もまた無意識にその場所へ向かいます。二人は会い、会話します。そして、思い悩んでいた硝子に放った言葉がこれです。涙なしには見ることができないシーンになると思います。{/netabare}

とにかく公開が待ち遠しいです。作品を見終えた後、どんなレビュー書き込むことになるか、楽しみにしています。

【28.5.18初稿】
【28.7.8修正・追加】
【28.7.18修正・加筆】
【28.8.9加筆】

投稿 : 2024/05/04
♥ : 63
ネタバレ

雀犬 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6

心を開いて

2016年上映、少年マガジンで連載されていた漫画「聲の形」の劇場アニメ化作品です。
制作はお馴染み京都アニメーション。

聴覚障碍の少女、西宮硝子と小学校時代に彼女をいじめていた少年、石田将也が5年ぶりに再会し、
ぎこちなくも交流していく中で自分の罪や弱さと向き合って行く姿を描く青春ドラマ。
全7巻の内容を2時間の映画に収めているためいくつかのエピソードは削られており、
特に人間関係修復の鍵となる後半の「映画作り」の話を全面カットしているため、
アニメでは存在意義がよく分からないキャラクターもいますが
テーマはしっかりと押さえてあり、非常に濃密で、心に深く響く作品になっています。
声優さんの演技も素晴らしかったですね。

以下は視聴済みの方向け、ネタバレ全開の感想です。

●伝えること
{netabare}
西宮硝子は「言わざる者」です。

先天性聴覚障害の硝子はクラスに溶け込み友達を作ろうと努力するが失敗し、
煙たがられる存在となり、やがていじめを受けるようになります。
その結果、転校し特別支援学校に通うようになるのですがここでの学校生活も
実はそれ程楽しくなかったのではないかと思われます。
同じ難聴の子の友達は原作でも映画でも一切出てきません。

彼女は鯉に餌をやる。川にパンくずを落とすと、鯉が集まってくる。
この行為は人と繋がりたいという思い、そして寂しさを投影しています。
特別な学校に通うことで彼女は守られているともいえるし、
別の見方をすれば隔離されているともいえます。
おそらく彼女の本当の願いは難聴を治し、健聴者と一緒に普通の学園生活を送ることなのでしょう。

そんな彼女も元に、かつていじめの中心人物だった将也が訪れ、
かつて硝子が使い、そして自身で捨てた筆談ノートを手渡す。
ノートにはこう書いてある。
「わたしは皆さんとこのノートを通じて仲良くなりたいと思っています」と。
突然の将也の訪問という出来事は、全てを諦めてかけていた彼女の心に火を灯すことになる。
かくして将也の再起と硝子の再挑戦が始まるのですが、
被害者が簡単に加害者を許してしまい、
それどころか恋に落ちるというのはいかにもご都合主義であり
障碍者を感動の道具にしているという批判も時折見かけます。
しかし彼女は聴覚障碍者である以前に、17歳の年頃の女の子です。
友達とお喋りしたり、 帰りに寄り道したり、オシャレをしたり、そして恋をしたり…
そんな女子高生としての当たり前の生活に彼女は憧れていたのだと思います。
手話を覚えて自分に会いに来る同い年の男の子に恋愛感情を抱いてしまうのは、
果たして間違った行為なのでしょうか。
僕は、批判している人の方が障碍者を色眼鏡で見てしまっているように感じます。

さて、彼女は将也を通じて小学校時代の面々と再会するのですが再び大きな挫折を味わいます。
さらに医師からと難聴が治る見込みがないことを告げられ(右の補聴器を外す理由です)、
優しかった祖母が亡くなる・・・と不幸な出来事が重なり、絶望した西宮は自殺未遂を起こします。

「聲の形」は硝子に厳しい現実を突きつける。
鯉はエサをあげれば集まってくれるますが、人間はそんなに単純ではありません。
高校生ともなれば、義務感だけで彼女に付き合ってはくれない。
硝子は引っ込み思案で、すぐ愛想笑いに逃げるところがあります。それが彼女の短所です。
誰とでも仲良くなりたいのであれば、その短所を克服しなければいけない。
障碍者だという「言い訳」を許さず、一人の人間として成長させるのが本作の大きな特徴だと思います。

西宮硝子に、本当の気持ちを伝える勇気を。
{/netabare}

●見ること
{netabare}
石田将也は「見ざる者」です。

そのことは、クラスメイトや小学校の同級生の顔に「バッテン」が貼られるという形で示されます。
硝子に代わって小中学校といじめのターゲットにされた彼は、
対人恐怖から人とまともに顔を合わせる事ができない。
贖罪のためバイトでお金を貯め、過去を清算した上で自ら命を立とうとする状況でこの話はスタートします。
母親の必死の説得もあり自殺は思い留まったものの、目標を失い、空っぽになってしまった将也。
すがるような気持ちで硝子の元を何度も訪れるが、
加害者がのこのこと会いに来ていいのだろうかと自問自答を繰り返します。

一方、硝子はすんなりと彼を受け入れ、
初めは将也を敵視していた妹の弓弦(ゆずる)も信頼を寄せるようになる。

しかし、当然のとこながら自殺する寸前まで追い込まれた人間がそうそう簡単に立ち直れるはずもなく、
いまだ罪悪感を拭えず、後悔と自己嫌悪に足を縛られている将也と
可憐な見かけによらず感情の揺れが大きく一度走り出したら止まらない性格の硝子は
皮肉な事に親しくなる程にすれ違ってしまう。

それは「好き」という硝子の告白を「月」と聞き間違えて僕たちを苦笑いさせる場面で
分かりやすく表現されているのだけれども、
この時猫カフェでもらったポーチのお礼に渡すプレゼントにも同様の意味があります。
将也は西宮からのプレゼントを何に使うものなのかよく分からないまま受け取ります。
この謎アイテムは最後にプランターの飾り、フラワーピックと呼ばれる物だったことが分かるのですが
男の子にプレゼントするなら説明が必要だし、将也もよく分からないなら尋ねるべきだった。
つまりこのフラワーピックは二人の心の距離を測るモノサシであり
ディスコミュニケーションの象徴なのです。
その後も二人の関係は一向に進展せず、旧友とよりを戻す機会が訪れますが自ら潰してしまいます。

将也の欠点はネガティブな思考でしょう。物事を悪い方へ悪い方へ考えてしまう。
そんな将也を好きになる視聴者は少ないかと思いますが、彼には長所があると思います。
それは素直さと直向きさ。バイトで170万もの弁償代を貯めるなんて、なかなかできることではありません。
彼の直向きさは、最初から備わっていたものではなく自分自身の罪と向き合った結果手にしたものです。
将也に必要なのは今の自分自身を信じることなのだと思います。
彼をどうしても許せないという人もいるのだけど、
話をいじめに限定しなければ誰しもが加害者の立場になる可能性はありますし、
ある程度客観的に彼を見ることでこの作品から得られるのがあるのではないかな。

石田将也に、真実の世界を見る自信を。
{/netabare}

●聞くこと
{netabare}
植野直花は「聞かざる者」です。

間違いなく本作のキーパーソンでしょう。
彼女は人間関係を一変させる触媒として働き、物語を大きく推進させる力を持ちます。
聲の形は彼女の存在によって作品が数段面白くなっているし、また深みのあるものになっていると思います。

植野は思っていることを遠慮なくズケズケ言ってしまう、
アニメではあまり見かけないけど現実にはよくいるタイプの人間ですね。
もちろん彼女は口が悪いだけではない。偽りのない言葉は鋭利でとても強い力を持っている。

この映画で一番の見所はどこかと聞かれると、僕は西宮と二人で観覧車に乗って話すシーケンスだと答えます。
印象的でかつ、作者の鬼才ぶりが一番感じられる場面だと思うのです。
「あんたのせいで私たちの関係が壊れた」と硝子を逆恨みする植野ですが、
実は彼女は硝子を障碍者というフィルターをかけず一人の女性として見ている唯一の人物なのです。
だからこそ、硝子の「人間的欠点」を指摘できる。
別に植野は彼女のために良かれと思って言っているわけではなく、
むしろ悪意を込めてマウントポジションで一方的に言い放っているだけにすぎません。
二人の間で会話は成立していないし、この一言で硝子は深く傷ついたでしょう。
しかし、硝子が植野と再会しなければ自分自身の短所と向き合うこともなく、
内気で友達を作れないままだったというのもまた事実。

一方、植野は将也と島田との仲を修復させようと取り計らいますが、こちらは善意の行為にも拘らず失敗します。
植野の行動は将也の嫌な記憶を呼び起こし不快にさせると同時に、
西宮と友達になろうとした自分の行動とダブり、彼にブーメランとなって跳ね返ってくる。
「西宮も同じように自分を鬱陶しく感じているのではないか」と将也はますます自己嫌悪に陥ります。
容赦のない言葉がプラスに働くこともあれば、良かれと思った事がマイナスに働くこともある。
これが人間関係の面白さであり、難しさなのだと思います。

さて、植野は原作とアニメ版で設定も性格も微妙に異なるキャラであり、これでもアニメ版で丸くなっています。
原作はアニメよりも恋愛要素が強く、植野は「負けヒロイン」という位置づけでしたが
アニメ版の植野は将也への恋愛感情を抱いている描写はなく、
将也と硝子にとって「乗り越えなくてはいけない壁」として描かれています。
それは才色兼備でリーダーシップもある植野が、スクールカーストの最上位にいるからなんですね。
逆に永束が良き友人として将也のために動いても事態を変える力がないのはスクールカーストの底辺にいるからで、
つくづくこの作品は残酷だなと思います…
実際、硝子が一人ずつ会って会話するときも最後は植野だし、将也から見える「バッテン」が最後に外れるのも植野。
つまり平たく言うとこの映画で植野は"ラスボス"なのです。

そのラスボス攻略の決め手となるのは意外にも傘。
硝子が植野に傘を差し出すシーンは将也が弓弦に対して傘を差し出すシーンと完全な対になっています。
なぜこの行為が人の心を動かすのか。
誰であれ良心はあるし、人を邪険に扱う時は少なからず心が痛むもの。
だから人は嫌いな人と相対するとき、「相手も自分を嫌っているはずだ」と思って心のバランスを取ろうとします。
二人が傘を差し出す行為には「私は、あなたを嫌っていないよ」というメッセージが含まれています。
だから意固地になっている相手の気持ちは大きく揺らぐのです。これもひとつの「声の形」なんでしょうね。

そこから学園祭で植野が硝子に手話で「バ、カ」と言うシーンがあるのですが、これはアニメオリジナルです。
実は植野の手話は間違っていて濁点がなく「ハ、カ」になっています。
それに対して硝子が「バ、カ」とやり返す。ここでようやく二人の間に会話が成り立つ。

僕は植野が硝子に言い放ったことは正論だと思っています。
私たちは学校や親から教育を受け、障碍者には親切にしようという気持ちは備わっていますが、
わざわざ自分から積極的に友達になろうとは思わないのがむしろ一般的な感覚ではないか。
植野の主張は私たち健常者が決して口に出さない本音であり、サイレントマジョリティーなのだと思う。
でも実際のところ、聞こえないというハンディはあまりにも大きく完全に対等な関係を求めるのは無茶です。
健常者から歩み寄る思いやりがどうしても必要になる。それもまた現実。

何でも思っていることを口にしてしまう性格の植野。
それは長所でも短所でもあるけれど、人間関係がギクシャクする場面に出会うことも多いと思う。
この原作改変には「少しだけ優しくなれれば、あなたは上手くいく」という
アニメスタッフの思いが込められているように感じます。

植野直花に、他人の声を聞く優しさを。
{/netabare}

●開くこと
{netabare}
原作者の大今さんが度々語っている通り、本作のテーマは"ディスコミニケーション"です。
いじめや障碍はテーマを表現するための要素であってそれ自体がメインではなく、
人と人とが互いに気持ちを伝えることの難しさを描いた物語です。

なぜ、本作のキャラクター達のコミニケーションは上手くいかないのか?
きっと彼らは会話するとき、相手の前に閉ざされた扉があるような心境だったんじゃないだろうか。
相手の顔は見えないし、扉は鍵がかかっていて開かないし、不安ばかりが募る。
でも最後に気付くのです。
『鍵はかけられていたのではなく、自分自身でかけていた』のだと。
それは勇気だったり、自信だったり、優しさだったり。開けるための鍵は人それぞれ。
そのことに気付き、扉を開けてもう一度辺りを見渡した時、やっと世界は本当の姿を見せる。
そして世界はあなたが思うほど酷いものではなく、
自分から心を開けば、意外なほど優しく受け入れてくれるもの。
この話が伝えたいのはきっとそういうことなんじゃないかな。
漫画版の最終回は扉を開くコマで終わるのですが、
それこそがコミュニケーションの本質を示しているように感じます。

人は集団で生活し互恵的な関係を求める社会的ないきものであり、
誰かとつながりたいという思いは人間なら誰しも生まれつき持っている本能的な希求。
「聲の形」は、そんな当たり前で忘れかけていることを教えてくれる作品だと思います。
{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 49
ネタバレ

ぽ~か~ふぇいす さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

大ヒット御礼舞台挨拶にも行ってきました

☆☆☆完成披露上映会鑑賞後レビュー☆☆☆

最近あまり漫画を買わなくなりました
週刊の漫画雑誌や漫画の単行本は
読みたくなった時に漫画喫茶で読んだほうが安く上がるし
ただでさえ物があふれている自室に
これ以上余計な物を置くスペースがないので
本当に価値があると思ったもの以外買わなくなりました

しかし、雑誌に掲載された新人の読み切り作品というやつは
単行本に収録されるとは限らないので
雑誌を買い逃せば下手するともう一生読めなくなっちゃう
だから最近はコレダ!と思った読み切りがある号だけは買って
そのまま手元に永久保存してあります
頻度にして年に2~3回くらいですね

この作品の読み切りが週マガに載ったときは衝撃的でした
これはとんでもない作品が出てきたぞ!と
漫画喫茶を出た私はまったく迷うことなく
その足で週マガを買いに行きました
素晴らしい読みきり作品だと思ったと同時に
この作品は連載することは不可能だし
単行本収録もされないだろうという判断です

その作品が週刊連載されると聞いたときは
続きが読めるという喜びを困惑が上回りました
あのクオリティを週刊連載で維持するのは無理だろうし
読み切りの時点で完璧な作品だったので
そこから評価が下がることはあっても上がることはなく
週刊連載ははっきり言って蛇足だろうなぁと

実際予想した通り週刊連載には読み切りにあったほどの密度はありませんでした
特に中盤の映画製作の話のあたりは
作品のおおもとのテーマから大分ずれてきているのを感じましたし
当時作品の人気にも陰りがあったようです
そこから一気に急展開してフィナーレを迎えたわけですが
やっぱり読み切りと週刊連載とでは求められるものが違うことを痛感させられました

しかし、連載は失敗だったか?と聞かれれば間違いなくNOです
完璧だった読み切り版に比べところどころ粗が目立つようになっただけで
連載版で新たに命を吹き込まれたキャラクター達はとても魅力的だったし
連載版も十分に佳作だったと思います
ただ手放しに絶賛できる程ではなかったというだけの話

原作が完結したことでこの作品の展開もこれで終わりだろうと思っていたところに
今度はアニメ化の報が舞い込んできました

連載が決まったとき以上の困惑でした
もうこの作品は十分に頑張ったと思うし
これ以上引きずってもあとはただ
読み切りを初めて手に取ったときの感動が色褪せていく一方なのだろうと
あまりアニメ化を肯定的に受け入れる気分にはなれませんでした
しかし、やはり一度好きになった作品なので
最後の最後まで見届けたいという一心で完成披露上映会へ行ってきました

結論から言えば完璧でした

連載版はやっぱり全体の尺が長すぎたんですかね?
そこから余分なものを削ぎ落としていったら
読み切り版と同等かそれ以上の質と
129分という十分に見ごたえのあるボリュームを
見事に両立させた作品に仕上がりました

ちなみに映画自主製作のあたりはばっさり無くなっています
やっぱりあれ要らなかったよなぁ・・・

尺を切り詰めていくと起こりがちなのが
キャラクター達の描写不足です
主人公&ヒロインの描写に関しては
まぁしっかり描けていて当然だと思いますが
サブのキャラクターたちも短い時間の中で
長所と短所とがはっきりと描かれていて
とてもリアルで魅力的なキャラクターになっていました

生きたキャラクターづくりをするには
欠点の描写が必要不可欠なものですが
それをやりすぎなくらい踏み込んでやっているのが
この作品の特徴でもあります
人間の醜い部分をかなり強調して見せられているのに
キャラクターがより一層魅力的に見えてくるのは
人間だれしも多かれ少なかれ持っているマイナスの部分が
大変リアルにきわめて丁寧に描かれているからでしょうか
まるで自分の心の奥底にしまい込んである仄暗い情念を
無理やり引きずり出して陳列されているような感覚
そこに描かれているものが自分と無縁ではないとを
いやがおうにも自覚させられてしまうから
その根底の部分に共感できるのだとおもいます

劇場版で最も株を上げたのは長束君
原作でもギャグっぽい描写は多くありましたが
ちょっとしたアクセント程度にしか感じなかったのが
映画ではまぁ美味しいところをガンガン持っていきます
彼がメインのシーンでは会場中が笑いに包まれていました
重いテーマの作品の中で彼の果たす役割は非常に大きいですねw

もう一人は結絃
ヒロイン役のはやみんが役の性質上
セリフらしいセリフがあまりないこともあって
一番セリフが多かった女性声優は
結絃役の悠木碧だったんじゃないでしょうか
喜怒哀楽の差が激しい役どころでしたが
その演技は見事の一言に尽きます

作画は安定の京アニクオリティ
細かい表情の描写や小物の描写など
細部にわたって行き届いておりました

音楽のみ満点をつけていませんが劇伴はとてもよかったと思いますし
aikoの主題歌も作品によくマッチしていたと思います
でも、お金を出してサントラやシングルを買いたいか?
と聞かれるとそこまでではないんですよね
年間で十数万はアニソン・サントラを購入してますので
割とCDに関しては財布のひもが緩いほうなんじゃないかと思いますが
それでも特にこの作品の曲を購入したいという気は起りませんでしたので
この評価になりました

全体的に原作を知っている人には自信を持ってお勧めできるクオリティです
そして、原作を知らない人には原作からでもアニメからでもいいので
ぜひ触れてもらいたい作品だと思います

なお、私は上映会から帰ってきてすぐ
西屋太志 自選総作監修正集付き前売券をぽちってしまったので
封切り後にまた見に行くことになりそうです
作品を見てから前売り券を買うのはこれが初めてですw
また観てきたら何かしら追記するかもしれません

☆☆☆大ヒット御礼舞台挨拶鑑賞後レビュー☆☆☆

封切り直後あにこれオフでみんなと見に行って
さらに昨日大ヒット御礼舞台挨拶に行ってきました

2回目の視聴の際は
1回目では見落としがちな細部の描写などに注目
3回目の視聴の際は
オフ会で見た後話題に上がっていた点と
舞台挨拶で話題に上がった点に特に注目してみていました

普段はネタバレありでより密度の濃い
終演後舞台挨拶を中心に見に行ってますが
今回残念ながら終演後は落選
第二希望の開演前舞台挨拶が当たったものの
発券してみたら最後列でした・・・
さらにこの回だけは別に見に行かなくても
オンライン中継されているとか
もうほんと踏んだり蹴ったりだなぁ
と思ったのですが
舞台挨拶で聞いた内容をその場ですぐ確認できたのはよかったです

舞台挨拶を聞いたり繰り返し見たことで
いくつか印象が変わった点などがあるので
ネタバレ込みで置いておきます

手話に関して{netabare}

父がお役所勤めで一時期障碍者にかかわる部署にいて
たまにNHKに有識者として呼ばれたりしてました
おかげで小さい頃から障碍者が身近にいる生活をしており
手話教室の生徒兼ボランティアみたいなこともやってました
もう止めて久しいこともあり簡単な挨拶と50音程度しかわかりませんが
一般の人よりは多少手話に触れたことがあるかんじです

今回山田監督の話では
手話のシーンに関しては
将也と佐原は勉強はしたものの使う機会がなかったので
初心者らしく50音を多めに交えて使わせる
結弦は日常的に使っているので
技でも繰り出すようにかっこよく
硝子はコミュニケーションの中心手段なので
細かい心の動きまで伝えられるように
といったように
使い手の習熟度に合わせて手話の監修を入れてもらったそうです

ということで今回は手話の部分をしっかり観察してみました

硝子が将也にだれかメールをしたい相手がいないか?
と聞かれたときに
一度目は「さ」「原」の動きを示し
一瞬佐原が誰だか頭の中でつながらなかった将也を見て
手話が伝わらなかったと判断したのか
「さ」「は」「ら」と50音でもう一度伝えています
手話で心の動きまで伝わるように
というのはこういう部分のことかもしれませんね

そしてもう一つ印象的だったのは
花火大会の別れ際
以前は自分から別れ際に「またね」
を使っていた硝子が
将也の「またね」
に対して「さようなら」と返しています
つまりはもうその時点で決意を固めていたのでしょう・・・
{/netabare}
川井さんに関して{netabare}

川井役の潘めぐみが
最初に役をもらって原作を読んだときに
どういう風に演じたらいいのかわからなかったとのこと
監督に相談した時に返ってきた
「川井さんは聖母のような女の子なんです」
と言われて自分の印象と真逆で驚いたそうな

聖母の真逆ってことはつまり
彼女が極めて打算的で狡猾に
演技しながら生きているように見えたんでしょうね
私にもそう見えました
硝子いじめにはリスクを避けて直接手は下さず
かついじめる側からも反発の無いよう同調する
事件発覚後は自分は関係ないと主張し
非難されたら泣いてごまかす

少なくとも将也と植野の目には
彼女が裏表のあるブリっ子に映っているので
物語が基本将也の目線で展開されることもあり
物語の読み手にはとても腹黒いように見えてしまうんです

実際はそうではなくて
彼女の態度は演技ではなく
いわば天然なんですね
原作者も彼女に関して
「川井さんは作品内で一切噓をついていない」
と発言しており
つまり彼女は表面を取り繕っているのではなく
本気で自分はいじめ事件の加害者ではないと考えているんです

しかし、彼女が本当に純真無垢なのであれば
打算で行っているよりもよっぽどたちが悪いようにも思います

正当化というのは正常な心の防衛反応です
自分が悪いのではないかという罪悪感がベースにあって
その罪悪感押し殺すために自分は悪くない自分は完璧であると思い込み
重症になってくると自分の中の事実を自分の都合のいいように歪めて
それを自分で信じ込んでしまいます

そんな彼女が泣いて謝罪をするシーンが映画の最後にあります
それは将也への千羽鶴が足りなかったことを詫びて泣いて謝るシーン
これは将也や硝子のしている謝罪とは根本的に性質が違います
彼女は今でも自分のこれまでの言動の全てが正しいと思っていて
自分が過ちを犯したことを謝罪しているのではなく
千羽鶴を集めきれなかった自分の能力不足を詫びているんですね

いじめ事件に関しても
自分はいじめを止めようとしたが
自分の力不足で阻止することができなかった
というのが彼女の中にあるストーリーなのでしょう
そしてそのストーリーを壊されそうになると
泣くことでコミニュケーションの中断を図るのです

そうやって自分の嫌な部分を自分から見えなくしてしまい
自分を「聖母」にしてしまっている彼女は
立派にいじめ事件の加害者であり被害者なのだと思います
{/netabare}
音楽に関して{netabare}

繰り返し鑑賞して思ったのは
劇伴については結構よかったなぁということ
中盤までの劇伴はそこまで印象に残らなかったんですが
後半の喧嘩や飛び降りのシーンの音楽は
非常に印象的な使われ方をしており強く心に残りました
しかしまぁ、サントラを買って聞きたいかと言われるとやっぱりNO
お金を払って聞く価値がないというのではなく
日常的にあんなものを聞いて過ごしていたら
心を病んでしまいそうなのでやっぱり要らないかなという感じです

aikoの曲に関しては聞けば聞くほど違和感が
けみかけさんとも少し話しましたが
恋愛がメインテーマの映画でもないのに
テーマソングが「恋をしたのは」なのはどういうことだろう?と

私の出した結論は
映画としてあの楽曲を使う必要性は全くないけれど
この作品を商業的にプロモーションするために
障碍と恋愛という二つの要素を前面に出す必要があった
ということです

そりゃいじめと自殺未遂の映画ですって言われたら
一般層は裸足で逃げ出しますからね
原作組だけで内々に盛り上がるのではなく
一般層にも受け入れてもらうための作戦として
あの曲とあのPVを使うのは間違っていないかもしれません

しかし、そうやって釣られてきた層が
この映画を見て果たしてどう思うのか?
少なくともカップルで見に来るような恋愛映画ではないです
そういう人たちは君の名は。を見に行った方がいいでしょう
驚かせるのが目的で嘘予告的なものを流すのはアリだと思いますが
この作品はそういうのともちょっと違いますよね・・・

原作のファンでもあるというaikoの起用は悪くなかったと思いますが
もう少し映画の内容にあった曲にしてほしかったところですね
{/netabare}

オフ会も舞台挨拶も前売り使えずで
まだ一枚余っているため最後にもう1回見て
いろいろ思うところをレビューしておこうとおもいます

投稿 : 2024/05/04
♥ : 49

88.9 6 切ないアニメランキング6位
さよならの朝に約束の花をかざろう(アニメ映画)

2018年2月24日
★★★★★ 4.2 (652)
3481人が棚に入れました
一人ぼっちが 一人ぼっちと出会った

出会いと別れが紡ぐ永遠の一瞬

少女はその時 愛にふれた

『あの花』『ここさけ』の岡田麿里、初監督作品。

声優・キャラクター
石見舞菜香、入野自由、茅野愛衣、梶裕貴、沢城みゆき、細谷佳正、佐藤利奈、日笠陽子、久野美咲、杉田智和、平田広明
ネタバレ

oneandonly さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

時の流れが織りなす母子の愛と別れの物語

世界観:9
ストーリー:8
リアリティ:9
キャラクター:8
情感:10
合計:44

【あらすじ】
人里離れた土地に住み、ヒビオルと呼ばれる布に日々の出来事を織り込みながら静かに暮らすイオルフの民。10代半ばで外見の成長が止まり数百年の寿命を持つ彼らは、“別れの一族”と呼ばれ、生ける伝説とされていた。
両親のいないイオルフの少女マキアは、仲間に囲まれた穏やかな日々を過ごしながらも、どこかで“ひとりぼっち”を感じていた。そんな彼らの日々は、一瞬で崩れ去る。イオルフの長寿の血を求め、レナトと呼ばれる古の獣に跨りメザーテ軍が攻め込んできたのだ。
虚ろな心で暗い森をさまようマキア。そこで呼び寄せられるように出会ったのは、親を亡くしたばかりの“ひとりぼっち”の赤ん坊だった。少年へと成長していくエリアル。時が経っても少女のままのマキア。同じ季節に、異なる時の流れ。変化する時代の中で、色合いを変えていく二人の絆――。
ひとりぼっちがひとりぼっちと出会い紡ぎ出される、かけがえのない時間の物語。
(公式サイトより抜粋)

【視聴経緯】
特に好きなシリーズとかではなかったものの、あにこれでの評価が良かったので劇場まで足を運んできました。もう少し後ならリズと青い鳥が観れたのにと思ったタイミングでしたが(あまり自由が利かないので)、結果的には本作を劇場で観ることができて本当に良かったです。

【未視聴者に向けて】
個人的にもこの評価点は劇場版の尺での最高値ですし、滅多に超えない4.7のハードルを越えているので、私の評価点に概ね共感を持たれている方は、おそらくは楽しめると思います。なので、特に先入観を入れることも必要なく見ることをおすすめしたいと思います。

【ネタバレなしでいくつか見どころや注意点を教えてほしい方に向けて】
(ネタバレはありませんが、何も情報はいらないという方のために閉じておきます)。
{netabare}作画の水準が非常に高いのがまずは見どころです。ヒビオルの塔の内装、様々なシーンの空と雲や、雪景色、煙の出ている町の風景、などが特に印象に残っています。

映画の2時間の間に、たまに飛び飛びで時が流れます。テロップなどはないので、言葉等で気づく必要があります。国家間の戦争等も描かれますが、中心は主人公マキアと縁あって育てることとなったエリアルとの母と子の愛情、人間関係の変遷がむしろ中心として描かれているのが一番の見どころです。

女性のほうが感動できるかもしれないと思うのと、男女共通で、それなりに人生経験のある大人のほうが感動できると思います。

劇場版となると、観客を笑わすコメディが入ることがありますが、本作は皆無。ひたすらシリアスなので、シリアスが苦手な方は楽しめないかもしれません。

注意点としては、若干、専門用語があります。ヒビオルが代表例でしょうか、織物のことと思って見ていると、違った表現をされたりします。織物にメッセージのようなものを記録できるようで、それが広めの言葉として使われることがあるように思いました。イオルフは主人公の種族(エルフ的な)、レナトは竜のことです。

また、最初は、マキア以外のイオルフのキャラの見分けがつきにくくて混乱するかもしれません。紛らわしいのはレイリア、長老、クリムの3人でしょうか。長老は序盤以降は出てきませんので、女性はレイリア、男性がクリムと思えば多分大丈夫かと。{/netabare}

【ネタバレを含む感想】(視聴した方のみどうぞ)
{netabare}
本作の表面上のテーマはプラスティック・メモリーズに近いように思いました。プラメモはギフティア(人間そっくりのロボット)の寿命のほうが短く、ギフティアとの間で思い出を作る意味があるのか、というテーマでしたが、本作は主人公のほうが何百年の寿命を持つイオルフであり、別れの一族と呼ばれ、人を愛せば本当の独りになるという教えに背いて、人間を愛することに意味があるのか、という話と捉えれば、その類似性がわかると思います。

プラメモは設定が甘すぎで、作品としては泣けるラブコメ萌えアニメ(私はお気に入りですが)といった感じでしたが、本作は壮大なファンタジー世界で重厚さがありました。時代としては中世~近代をモデルとしつつ、大きな破綻は見当たらず、無理なく世界に入っていけました。

ちょうど、今シーズン(2018冬)ではヴァイオレット・エヴァーガーデンが放映されていますが、京アニの大作と比較しても、作画面でも劣っていないどころか、個々の画では上回っていますし、戦争の表現とキャラクターの乗せ方はこちらのほうが自然で成功しています。

外見の成長が止まる(老いない)という点も、声優の声や演技を変えなくて良い、主人公の外見の美しさを維持できるという面で非常に優れた設定と言えるでしょう。

ストーリーは、2時間映画で描き切るにはそもそも大きな物語なので、若干駆け足になったところや、最終盤の東京マグニチュードを想起させる回想シーンは少し強調しすぎだったように思いました。時の流れを使った表現は、P.A.WORKSの得意技で、もちろん良いシーンではあったのですが。

それから、リアリティ面にも響いたのが、レイリアの飛び降りシーン。ようやく我が子と対面して、直前では子供を抱きたいと言ってクリムを拒絶していたこともあったのに、なぜスルーなんだと。竜に助けられたのも見ていた時には全く偶然と思いましたしね。後から考えると、レイリアは「あなたたちのことはヒビオルに織らない」と生きることを前提の発言をしているので、レイリアにはマキアが竜で助けにきてくれたのが見えていたと解釈するのでしょうね。それでも、竜に乗れる保証はない状況で飛び降りれるレイリアは凄すぎです。

母子の愛情は、母からの無償の愛にも感動しましたが、子の側のその受け取り方、成長に応じた関係性の変化なども心情描写とともに細やかに描かれていました。お互いの思いの行き違いで、エリアルは、マキアのことを母親とは思っていないなどと言って、家から出ていってしまいます。そして、仕事に就き、結婚もして父親になるというところで二人は再会。

マキアが何て呼ばれてもいいと言った後の、エリアルが「母さん!」と叫ぶシーンは、本作屈指の名場面だったと思います。母親でいることを貫いてきたマキアにとって、本来は嬉しい言葉ですが、相手は父親になった大の大人。子離れをしなければならないと思ったのか、複雑な表情をして別れを選びます。

情感面の話、実は中盤まではそこまで盛り上がりがありませんでした(ほっこりの状態が長かったのですが、その時点でも近くの男が泣いている様子で、今の泣きポイントだったの? と思っていました←後から考えると2回目とかだったのかも)。しかし、終盤は怒涛の追い上げで、結果的には久しぶりに涙腺崩壊しました。

エリアルの死期に立ち会ったマキアは、いまだ妖精のような美しさで神々しかったです。生活感もしっかり感じさせる地に足をついた物語でしたが、最後に神話になったような、充足感に満ちた作品に映りました。

タイトルの約束の花はタンポポで、タンポポの花言葉には「真心の愛」などあるのですが、綿毛は「別離」。別れは、現在の場所から巣立っていく人に贈る前向きな言葉にもなります。マキアの最後のシーンの言葉にも表れていましたが、別れを力強く肯定することがこの作品のメッセージと受け取りました。

岡田麿里氏の初監督作品というのも話題でしたね。同氏が脚本を手掛けた作品では、あの花、ここさけ、(全話でなければ、)とらドラ!、さくら荘、絶園のテンペスト、凪あす、花咲くいろは、など見てきていますが、個人評価を調べてみると、3.8~4.5と凡作はゼロ、並作すらほとんど出さない優良クリエイターさんです。スタッフに恵まれたことももちろんあるでしょうが、いきなりこのレベルの作品を送り出してくるとは…。今後のご活躍を期待しています。{/netabare}

【ネタバレを含む感想2】(2回目鑑賞後)
{netabare}同じ映画を2度も劇場で見たのは初めてです。自身で高評価をつけながら、調整すべきか考えていたのと、1度ではわからない場所があったので。

情報を何も入れずに見た初回と比べると、かなり理解できました。疑問点や新たな発見について、箇条書きにしてみます。

<なぜレイリアはダイブしたのか>
{netabare}初見時の一番の疑問点でした。直前まで、子供に執着を感じさせる発言をしていたので。
まず、ダイブ直前にマキアが「レイリア、跳んで!」と叫んでいて、建物と思える白壁に大きな影が動く描写がありました。レイリアがそれを確認できていたかはまだよくわかりませんでしたが、それに気づいていて、死のうと思って跳んだわけではないのでしょう。

一瞬のうちにメドメルと別れを選んだ理由は容易に消化できるものではないですが、成長の早さを見て、既に子供の成長過程において、自分の存在が意味を持っていない(ヒビオルに織られていない)ことを悟ったということでしょうか。事実、メドメルは母が飛び去っても泣きもしなかった、そういう関係性になってしまっていたわけで、自分だけが一方的に子供に依存する関係になりたくないと思ったのではないでしょうか。

「私のことは忘れて! 私も忘れるから」と気丈な発言をしながら、レナトの上では忘れられるわけないというマキアの言葉に涙する形で締められていましたから。{/netabare}

<イオルフの一族はどうなったのか、レイリア以外の捕らえられた女性は?>
{netabare}レイリアとマキア以外の女性がどうなったのかは描かれていません。

メザーテ軍が襲撃時に「抵抗するならいっそ切り捨てて構わない」と言っているので、抵抗して殺された者も多数いたのではないかと思います。連れ去られた他のイオルフたちは、あえて描かなかったのだと思います。

エンドロール後に一枚絵で、滅んでいないことを示していました。{/netabare}

<クリムについて>
{netabare}本作で一番救われないキャラクターがクリムでしょう。しかし、時の流れがあらゆる関係性を変えていく本作において、その変化に抗った存在として仕方のない結末でした。初見時にはマキアに恨み節を吐いたり、レイリアと心中しようとしたりする、仲間とは思えないキャラでしたが、2回目では、彼があらゆる手で恋人を奪還しようとしていて(別の作品であれば、イオルフの正義のヒーローとして描かれたでしょう)、美しい悲劇に同情します。{/netabare}

<シーンが飛び飛びでわかりにくい>
{netabare}2回見るとほとんど違和感がなくなりました。初見時はマキアを連れ去ったのが誰なのかわかりませんでしたが、クリムでしたね。でも、そこからマキアの髪を切るまで何をしていたのかはいまだによくわかっていませんが。

初回で全て理解するのは難しいのは減点要素ですが、劇場の尺まで徹底的に無駄を削ったのも、芸術性を重視する私にとっては良かったです。必要なシーンは描けていたと思うので。{/netabare}

<バロウが長老の子どもである説について>
{netabare}「外の世界で出会いに触れたなら、誰も愛してはいけない、愛すれば、本当のひとりになってしまう」とマキアに話していた長老。イオルフの掟だと思っていましたが、レイリアかクリムの言葉では、よく長老が言っていたことという表現だったと思います。

そして、イオルフの集落にいなかったイオルフであるバロウ。彼はマキアのことを知っていて、その後、メザーテでマキアのことを助けてくれ、ラシーヌと呼ぼうとした後に長老と言い直したり、最後にも登場します。

そこで、バロウは長老の子どもという説があります。直接的に描かれている場所はありませんが、裏設定としてその可能性は十分にあると思います。長老の愛した人は悲劇に遭い、子供もイオルフの集落に受け入れられなかったことを想像すると、より深い物語性を感じられます。{/netabare}

<マキアとエリアルの恋愛感情について>
{netabare}これも、人によって全く捉え方が違うようです。私は両者とも恋愛感情に至らなかったと思っています。酔っぱらったエリアルがキスをせがむシーンはありましたが、子どもの頃にしていたのはおでこのキスなので。お互いにお互いの関係性がよくわからなくなってきていたことの表れのひとつと捉えています。{/netabare}

他にも、ラングやイゾル視点でも心情描写がされていたり、2回見ても満足できる作品でした。{/netabare}

(参考評価推移:5.0→5.1)
(2018.3劇場にて鑑賞)

<2018.7.28追記>
遅ればせながら、上海国際映画祭におけるアニメーション最優秀作品賞(金爵奨)の受賞、おめでとうございます!

本作は円盤購入を考えていますが、10月26日発売とのこと。結構引っ張りますね…。
映画のパンフレットがすぐに売り切れになってしまい、後日、P.A.WORKSのネットショップで追加販売されたようですが、私が気づいた時(数日で)には完売とどっぷり嵌ったファンが多数いるようで。かく言う私もその一人でして、円盤購入(縮刷版劇場パンフレット)でゲットしようかなと思っています。

<2019.1.9追記>
2018作品ランキングの1位にした作品で、レンタル開始後に視聴された方の評価を見るに過大評価だったかなと思ったりもしましたが(私は作品の芸術性を評価しているので、物語が完成された作品(短いほうが有利)が点数は高くなりやすい)、やっぱり本作は大好きでして。115分でこれだけのものが創作されたこと、マリーをはじめ制作陣に感服です。

テーマはわかりやすいし、ストーリーも言葉にすれば単純で、ラストがどうなるかもすぐに予測できるものです。しかし、登場人物の人間関係の変化や、マキアとレイリアの対比等を巧みに使った設定があり、演出も全体的に素晴らしいです。

心情描写の好きな方や、シリアスな作品が好きな方におすすめ。私は感動をウリに宣伝するつもりがありません。{netabare}最終盤の回想シーン{/netabare}により涙を強要してくる作品と言われる節がありますが、そんなところは付随的な部分で。

例えば、{netabare}幼児のエリアルに当たってしまい(育児における悩みあるあるです。もぞもぞ虫遊びの使い方も良かった)、出て行ったエリアルを探して見つかった時の安堵(大雨で水嵩が増した水路を映すシーンでマキアの恐怖を共感){/netabare}といった場面だけでも込み上げるものがあります。

初見の方の多くは{netabare}レイリアのダイブが理解不能となっていそうですが、自分が思い続けてきた子の中に、自分が存在しないことがわかる場面なんて容易に想像できないし、仮にあれが身投げであったとしても、説明できなくはないかなと。{/netabare}

ファンタジーが舞台ながら、人間にとって普遍的なもの(「愛」が当てはまると思いますが、尊く重たいもの)を扱っていて考えさせられつつ、視聴後に心が洗われるような作品。いや、あまり視聴のハードルを高めたくないので、むしろ感動できるよ!と軽く薦めるべきなのか(笑)

本作は視聴者が少ないのが残念でもったいないので。

<2019.1.28追記>
今回は、購入していた円盤を最近視聴したことに加え、以下のレビューを読んで思うところがあったので追記します。既に視聴している方は参考に読まれてはいかがかと思います。

「ナナメ読みには最適の日々」
⇒http://ishimori-t.hatenablog.com/entry/2018/03/16/085105

{netabare}私が理解したところを大まかに言うと、本作は「物語についての物語」であり、物語の語り手であるイオルフが語られる側の人間と関りを持つ構造になっている、というレビューなのですが、結構説明できていて、こんな見方があるのかと唸ってしまいました。

本作は物語を創る職業である脚本家の岡田麿里氏が、全てを出してほしいと言われて監督を志願し、創り上げた作品です。物語の語り手を暗に登場させている可能性はあり得ますし、作者は世界の生みの親ですから、それが親子の関係により描かれるのは自然です。ついでに、クリエイター側に共感できる私が惹かれた理由の説明にもなっています。

まず、ヒビオルについて。本作は色々と独創的なモチーフがあって、流し見しようものならすぐについていけなくなる危険があるのですが(このわかりにくさが評価を下げる一因となっている)、その最たるものがヒビオルです。これを削らず、ネーミングも一般的にせず、物語で何度も登場させ、エンドロールでヒビオルを織るシーンを流した作者の意図は考えられるべきでしょう。

ヒビオルは単なる美しい布というだけではなく、言葉を織り込むことができます。縦糸は流れゆく月日(時間)、横糸は人の生業(出来事)ということで、日々を紡いでいくという設定です。初見時の感想において、私はヒビオルをイオルフそれぞれの「日記」(自分史)のようなものと受け取りましたが、これを脚本家(P)それぞれの「物語」と訳してみます。

高値で売れるので、イオルフの民はこの機織りを生業としているように描かれていますが、ヒビオルと同様の織物がイオルフ以外に作れない説明はないですし、教えればエリアルのように人間にも織ることが可能です。

この点、脚本家は物語の語り手であり、物語ることを生業としている。物語の世界とは一線を画し、当然、物語世界の住人よりも長く生きることができると当てはめて解釈することができ、前述のレビューのとおり、禁忌との関係で捉えることも可能です。マキアの神出鬼没さも、語り手側ゆえかもしれません。

マキアはエリアルと出会い、彼を私のヒビオルと言います。初見時の解釈(=日記)ではここを理解できず、大事な物という意味もあるのだろうとうやむやにしましたが、マキアにとっての物語と読むとスムーズです。その後、マキアが織物であるヒビオルを織るシーンは削られておりほとんどなく、エリアルが成長するまでの時間を共に過ごし、終盤手前の再会時に、自分を織りあげたのはエリアルだと言います。

ここを訳すと、マキアのヒビオル=エリアルを主人公とした物語=マキア自身、となり、物語の作者は、自らが生み出した物語によって、作者自身が作り上げられているという関係性を表わしていることになります。岡田氏がそのような意図を込めていたかはわかりませんが、岡田氏にとって自身が創った物語は自身の人生の一片であり、そこに関係した存在(物語世界を含む)への感謝を作品に乗せていることは推察されます。

ヒビオルのエンドロールは、この作品が物語の物語であることの暗喩であるとも、この物語が続いていくことを単に表現したとも、視聴者も各自の物語を紡いでくださいというメッセージとも、自由に捉えられるように思いました。

様々な視点で解釈ができる作品ですね。個人的には、結局のところ脚本家にとどまらず、視聴者自身が自分の人生における物語をヒビオルに当てはめて視聴することを許容している作品だと思います。

ついでにレナトという名の竜について。これも、単に竜などの名称を使わなかったことに意味があるはず。

レナトは、「生まれ変わる、再生する」を意味するラテン語「レナトゥス」に起源を持ち、古代ローマ初期よりキリスト教徒が用いてきた名前から連想され、古代から神聖とされた存在の象徴として命名されたとも考えられます。
{/netabare}

<2019.3.8追記>
今週月曜に有楽町のマルイで開催されているさよ朝展を見てきました。一部、撮影可能だったので美しい背景美術等、カメラにおさめてきました。
劇場では完売していたグッズなどの販売もあって、クリアファイルを購入させていただきました。

さて、ネット上のレビューで私が最も共感したもののリンクを掲載して、取りあえず本レビューは終了としたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。(リンク切れだったので修正しました(2019.9.16))

「『さよならの朝に約束の花をかざろう』を観て、「"物語"とは何か」について考えた」{netabare}
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886369977/episodes/1177354054886374977
{/netabare}

<2020.3.20追記>[New!]
公開から2年以上経ちましたが、いまだに予告編PVを見たり、Yahooのリアルタイム検索で「さよ朝」を検索しています。遅れて視聴した方の反応は概ね良好で、ドリパス(リクエスト投票数が多くなった映画を劇場で上映するもの→https://www.dreampass.jp/m361183)では今年2月に上映を達成したところ、既にまた7位まで上がってきています。
劇場で鑑賞したい方はお見逃しなく(本作は劇場をおすすめします)。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 78
ネタバレ

nyaro さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

追記。そうか、インターステラーか

24年4月追記

 どうも既視感が強いなあ、何か忘れてるなあ、と思っていました。SF映画のリストを見ていて思い出しました。ラスト場面が「インターステラー」ですね。そういえばインターステラーの最後の場面が本作そのものでした。
 別にだから悪いと言っているわけではなく、含意も若干ズレていますし、多分この作品はSF小説・SF映画からいろいろ題材を持って来て、独自のストーリーを作ってファンタジー風味にしたんだろうなあ、と思いました。こういう作り方ならオマージュもいいんじゃないですかね?


23年9月レビュー

3回目視聴。既視感の正体はアシモフのロボットシリーズとジブリかな?

 スタートですけど、レナトの「ナウシカ」の王蟲との類似性と、トルメキアが谷に攻め込むシーンなどを連想しました。類似性は別にいいんですけど、ジブリからの影響は強く感じました。

 長命のイオルフとレナトです。「以前は長命種は沢山いた」というセリフがありました。つまり「もののけ姫」ですね。同作では「古代の神々から神聖が失われてゆく」プロセスでした。つまり本作においても、イオルフもレナトも人間に関わらなくても結果的に滅びて行くという暗示でしょう。その理由が純血性にあるんだと思います。

 イオルフの10代半ばで見た目が変わらないという設定です。ここばビジュアル的な美少女を描きたいからなのかどうかです。長命であることの意味性は分かりますが「見た目がティーンの少女である」ことの意味性です。もちろんラストシーンのカタルシスの計算もあるのでしょう。
 ここに「モラトリアム」「成長しない現代人」のアナロジーがあるかどうかが深みにつながると思います。子供を産み育てることで大人になる、という物語なのでその点ではいいと思います。
 
 例えば「星界の紋章」シリーズのジントとラフィーヌの関係を初め、それこそ無数にこういう話はあります。アシモフの「ロボット」もののイライジャとグレディアの関係なども同様です。
 そうそう、ヒビオルですけど、このロボットシリーズでダニールにイライジャが語ったのが、まさに人類の歴史を「織物」になぞらえていました。ダニールがこれによりロボット三原則を克服するという重要部分で、その影響はかなり深く感じました。
 そういえば、アシモフの「ロボットシリーズ」は、科学的には圧倒的なスペーサー世界が長命ゆえに人と触れ合わなくなり、いずれ滅びて行くというシリーズですので、本作のそのままです。

 で、この部分が作品を貫くテーマ、冒頭から最後のシーンの「さよなら」です。映画「メッセージ」でもあった、運命論と幸福論です。死別が分かっていても出会い、愛することができるか?ですね。

 この部分、イオルフ設定で「出産の数が減ってきた」という設定があればもっと考えさせる内容だったのに、という気がします。そうなるとエリアルを拾ったときの「母性本能」がもっと生きると思います。
 つまり、社会から赤ん坊がいなくなる、社会で子供を育てようとしなくなるから、個人主義になって行く。適応できない人間が「孤独になる」というマキアの設定に寄り添ってきます。
 また、滅びの原因が純血主義で安寧な生活に慣れてしまったという意味で、日本のアナロジーにもなります。資本主義的な個人主義です。
 もし、人間に攻められなくてもイオルフはいずれ滅ぶというニュアンスが明確に出ていればこのテーマ性が浮き彫りになって分かりやすくなった気がします。もちろん、これは推測ではなくてこの前提は物語の世界観から裏設定として存在すると思います。

 レナトの赤目になってはもちろん王蟲ですが、燃えて死んで行くというのは、憤死ですね。火病と言い換えてもいいかもしれません。自由に生きられなければ滅びて行く。この火病というのはお隣韓国に特有だそうで。もしかしたら、レナト=韓国でイオルフ=日本と考えると辻褄は合います。韓国の方が少子化に苦しんでいますし。

 子どもが母親に恋をし性的な対象になるというのは、発達心理学上極めて自然なことです。そこで父親の不在が大きな意味を持ちます。父にかなわない=母を諦める=女性を外で探す、というのがエディプスコンプレックスの克服です。
 この周辺のシーン。初めての飲酒も含めて軍という共同体がエリアルの成長に果たした役割が描けていました。ここで彼は男になり恋をすることになりました。だから、母の元から去ると言う部分につながります。

 レイリアは無理やり子供を作らせられますが実子です。マキアは子供を拾います。ディサは愛の結果子供を産みます。この3人の母の対比が作品上の骨格ですね。
 なお、レイリアは子供を守るために昔の男を拒絶しますが、ここは母になったことの気持ちの変化もあると思います。母とは共に生きられなくても子供を愛する気持ちに違いはない…けど、男よりも先に成長したレイリアにとっては男はもうどうでもいいのでしょう。そこでは男の未練のみっともなさも描いていました。「秒速5センチメートル」問題です。

 ということで、設定と含意は非常に緻密に繊細に作り込まれていたと思います。が、とにかくテーマが使い古されていて目新しさがないのと、イオルフの見た目がティーン=全員美少女が鼻にいてしまいました。
 上でもいいましたが、イオルフの悲劇性が子供を作らなくなった自業自得の必然だという部分が明確にあって、イオルフ=日本の含意が読み取れれば、子供を産むことの成長がある、逆に言えば、少子化で子供を産まないから成長がないイオルフの子供っぽさという風になったかなあと思います。

 もちろん、制作サイドはそこは意識しているかもしれません。しかしストーリーへの反映が弱く、どこかで見た感じで、下手をすると感動ポルノに見えてしまいます。まあ、尺の問題で母と息子の相互の成長が描き切るために他のテーマは切ったのでしょうけど。

 3回見たのでもうこれで打ち止めにします。可能性は感じる映画ですが、上記のように類似性が多々あってテーマ的には凡庸なこと、感動ポルノ・美少女ものに見えなくはないことがかなりマイナスになっています。

 評価点はやっぱり4はあっていいですね。3回みてもつまらないということはなかったですし、作画技術はやはり素晴らしいと思いました。






 2回目視聴後追記です。運命論と幸福論を母子と言うテーマでかなり上手く描いていると思います。

 子供の成長を見守る母という視点で、エディプスコンプレックスから思春期に達して親離れするところの描写は良かったと思います。悪い仲間からの誘いで飲酒して大人になる。独り立ちして家庭を持つ。嫁姑問題等々です。

 つまり、いろいろ視点はありますが、やっぱり長命の母と短命な息子の避けられない死別=「別れの一族」が主題なんでしょう。タイトルがそもそもそうですし。

 で、ちょっとネタバレにありますが映画「メッセージ」を思い出しました。{netabare}宇宙人の言語を習得した女性が未来を見通せるようになり、子供を産んでもたしか小学生くらいで死んでしまうのがわかっている、という話がありました。
「メッセージ」に限らず似たような話は沢山ありますが「親子で子が先に死ぬ別離」「死と言う運命」を受け入れることが不幸なのか?という課題を正面から扱っている点において共通点を感じます。{/netabare}

 別れの運命はわかってるけど、そこに存在した愛情が本物であれば「別れの一族」であっても、他者と係わることが不幸ではない、ということです。そうなればイオルフという種族の長命種が登場する意味性は出てくる気がします。

 研究として「100日後に死ぬワニ」も見たりしましたが、このテーマはしかし難しいです。難しさの原因はテーマの内容は単純だけど、答えが見いだせないことです。
「運命論」ですねえ。運命を従容と受け入れてその範囲で精いっぱい生きるというのは、当たり前の結論です。「幸福論」もです。短い触れ合いであっても精一杯心を通わせた後の別れは、不幸ではなく幸福だと。

「CLANNAD AFTER」の後半そのものとも言えます。これは間違えると簡単に感動ポルノになる構造です。そこにどれくらい深みを出せるか、です。

 レイリアの存在があるので、構造として「母である」「母になる」という対比がありました。しかも「望まずに」「望んで」も対照的です。結果的に両者とも子への愛情はあるわけですが、その理由の違いが母とは?という事を描こうとしていたと思います。

 それと織物「ヒビオル」です。「日々、織る」から来ていると思いますので、日常=生活=生きるという事。つまり、一生の一日一日とも取れます。その中の時間と出会いが縦糸、横糸という感じで人生のアナロジーなんでしょう。そこにメッセージとして「母さん」と織り込むところが「子を産めば母になるわけではなく、一日一日の積み重ねで母になるのだ」ということでしょう。
(そうそう、イオルフは「不老」「フ、オイル」のアナグラムでしょうね。語感をエルフに寄せたのでしょう)

 こうやって考察していると、なるほどよく考えられたテーマ、メッセージ、物語だなあ、と感心しました。

 ただ、です。やっぱり、ただなあ、と言いたくなります。それは感動、涙が前面に出すぎた作品の作りです。本作は「超平和バスターズ」名義ではないですが、その類似作品を作ろうという意図が気になって冷静に見られません。

 評価としては、上記の様にストーリーは緻密だと思います。思いますが、どうもどこかで見たような話の焼き直し感がぬぐえませんし「お涙頂戴」の意図が露骨すぎます。3.5とします。
 キャラも類型的なところがちょっと気になりますが、配置には無駄がなくよく考えてあるので4とします。
 作画は素晴らしいです。4.5。

 声優・音楽は調整で、3.5を入れます。映画全体悪くないけど、やっぱり意図が気に入らないという意味です。



以下 1回目のレビューです。

感動要素を自己模倣し続けたアニメ業界が生み出した化け物??

 物語の内容は題名と冒頭の数分で分かります。誰と?という部分に意外性はありましたけど。第一印象は「私は何を見せられているのだろう?」という呆然とした無力感でした。

 幾つかの要素です。母になる母になれないという対比、寿命の差による別れ、そして異端のものたちの滅びです。これらが組み合わさってなかなか壮大な壮大な物語を作ったかなと思います。

 ただ、異端であることの意味合いというか何を象徴していたのかが結局読み取れていません。つまり、中心になるイオルフが何かを象徴していたか、物語の根底では何を描きたかったのが読み取れません。

 物語論で感動を作るための仕掛けで終わっている気もします。上にあげた3つはどれも「悲しみ」を作るための「要素」になっている印象があります。演出とキャラデザ、音楽などすべてが泣かしにかかってきています。

 2018年とは思えない「AIR」とか「世界の中心で愛を叫ぶ」的なゼロ年代初頭の手法です。もちろん「あの花」などの要素も入っています。ケータイ小説的な悲惨な要素の押し付けも感じます。

 つまりアニメ界において「受ける感動要素(共感という言い方もできる)」の自己模倣を繰り返し「純化」のプロセスを経て生まれた、奇形というか化け物の様な気もします。
 言い換えると、再帰的に感動要素が独り歩きした結果データベース的に生まれたシミュラクール、つまりオリジナルのない模倣に感じました。

 ですので物語に要素は沢山ありその水準は非常に高いのですが、奥行きがありません。目に見えるストーリーは優れていても、作品の裏にある文脈が見えません。

 批判というより、どう捉えたらいいのか分かりません。第2次世界大戦から始まった現代日本史で生じた現象の社会的なとらえ方から離れて、何に感動するかという要素論、物語論だけで突き詰めた結果のストーリー、作画、演出、音楽の一つの形な気がします。

 例えば最近の新海誠氏の作品は旧来の映画評論で言えば、日本が歩んできた時代性とか私小説的なものバックグラウンドが見えず、日本の評論家の持つ手法は無力になりました。つまり、メジャーな評論家は東日本大震災というパラダイムシフトに対応できていない感じがします。

 それと同じような別の文脈が本作にはあるのかもしれません。ちょっとこの作品のアニメ史的な意味については、少し考えたいところです。実はヴァイオレットエヴァーガーデンの劇場版がなぜ評価が高いのか?が未だに理解できていません。私が古い考えなのか本当に本作やヴァイオ劇場版は浅い話なのか。少し考えてみたいところです。

 作画は素晴らしかったです。キャラデザはいいんですけどそれこそデータベース的最大公約数に見えました。
 一応、以上のような感じで私の感覚だと、意味が不明なので評価せずの意味で作画以外をオール3にしておきます。

 なお、東浩之氏の動物化するポストモダンの真似のような考察にしたのは、氏も震災でアニメの見方が分からなくなったと言っていたと思いますのでその意味も込めてです。


 

投稿 : 2024/05/04
♥ : 17
ネタバレ

ぺー さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

時を越えて君を愛してみた

岡田麿里初監督作品 / 劇場版オリジナルアニメ


ふと映画を観たくなったもので。
『あのはな』地上波再放送中。2019年夏期『荒ぶる季節の乙女どもよ。』でシリーズ構成担当中。新作映画『空の青さを知る人よ』も控えてる。氏の作品の露出が多くなってる最中で手を出してみました。

映画は引き算の作業。TVシリーズと比べ尺の関係で観客に解釈を委ねるものが少なくありません。こちらは想像と妄想の翼をいくらでも広げることができますし、鑑賞にあたってはフラットな視点で楽しむことが肝要かと思います。
とりわけ、「泣ける」「感動した」との評は処し方が難しい。「泣ける」「感動した」は感想を持ちよって共有するのに適していて、鑑賞前の指標とするのはあまり得策ではないと個人的には思ってます。想像と妄想の翼が上手く広がらなくなる恐れがあることが理由です。
なんのことはありません。要はこれまでよく失敗をしてきましたよ!ってことです。ハードル上がりまくってませんか?これw


そして『さよ朝』は劇場版の良いところである “ 説明がうるさくない ”ことを満喫できた作品です。
これからの方は、“めっちゃ綺麗な映像”“物語を邪魔しない劇伴”“キャラに合う声優の選択”。この3点において高いレベルの作品である、を理由に鑑賞の優先順位を上げて良いと思います。


中身はファンタジー。イオルフという長命種族の少女マキア(CV石見舞菜香)とその息子で人間のエリアル(CV入野自由)を中心とした物語です。
親子の愛。愛あるが故の葛藤に心を揺さぶられますが、おそらく監督が描きたかったかもしれない


 “ 時間は有限であるからこその尊さ ”


に説得力を持たせるには齢400年余のファンタジー設定は不可欠でした。ゴリゴリのCG使った実写でも不可能ではありませんが、アニメだからこそ成立し得る傑作といって差し支えないかと思います。

丁寧に親子の感情の揺れを綺麗な映像に落とし込みながら、私達が無為に過ごしているかもしれない“時間”について思いを馳せるところまで踏み込んだ内容となっています。

大切に想う者同士を隔てるもの。それは互いの残された時間の差。


 あなたは先逝く者にどんなことを伝えたいのだろうか?
 あなたは先逝く身としてどんなことを伝えたいのだろうか?
 あなたは残される者として何を自分に留めておくのだろうか?
 あなたは残される者へのどんな想いを胸に抱き旅立つのだろうか?


けっして軽くない題材を扱いながらわりと俯瞰的に捉えた抑えめ演出だったことが意外であり印象に残りました。あの岡田さんがってやつです。


ファンタジー大作。とりわけ実写だとアクロバティックにドラマティックになりがちなわけで、もし『さよ朝』が仰々しい演出全開だったら持ち味がだいぶ削がれてしまったことでしょう。
そんな繊細なバランスの上に成り立った115分。お薦めです。





※以下ネタバレ所感

“ 時間 ”に絞って本編の良かったところ


■機を織る民

{netabare}中島みゆき『糸』。ap bank bandがフェスでカバーしてブレイクしたあまりにも有名なこの曲。映画冒頭で脳裏をよぎった人は私だけではありますまい。
「縦の糸はあなた 横の糸は私」と二人の繋がりを唄い、ハッピーエンドを示唆して閉じる名曲です。
これだけでも深みはあり一本映画ができそうですが、…といってたらホントに2020年に『糸』から着想を得て一本封切られるみたいですw

本作ではさらに

{netabare}「縦糸は流れ行く月日 横糸は人のなりわい」{/netabare}

時間軸の要素を入れて織り成し加減が複雑になります。というより「あなたと私」を見せてさらに「時間と私たち」を見せる仕様。筋が通ります。
長老ラシーヌ(CV沢城みゆき)がメザーテ軍人イゾル(CV杉田智和)に対し「布を織り日々を織る単調な繰り返し」と言ったイオルフの生活はいわば

“縦糸は日々を織る 横糸は布を織る”

とも置き換えられるでしょう。布=人のなりわいです。“ヒビオル(布)”がマキアにとってどれほどの意味を持っていたのか察して余りありますね。
ヒビオルがいろんなとこで暗喩的に使われてました。いいっす。まじいいっす。{/netabare}

そしてよく115分に纏められたなというくらいの壮大さ。



■体感時間の差異

物語のテーマが“流れゆく月日と人のなりわい”だとしたら、その時間と人を描くための主たる要素となったのが“体感時間の差異”でしょう。

{netabare}レイリア(CV茅野愛衣)とクリム(CV梶裕貴)の行き違いなんかがそう。

レイリアの意に反して交わらざるを得なかった人間だ、とのクリムの見立ても間違っていません。同一種族でまた平和なあの頃にと思う彼を責められはしないのです。
レイリアが経験してクリフが経験できなかったこと。それは自分より寿命の短い人間つまり娘メドメル(CV久野美咲)を愛するという体験です。

映画冒頭から劇中の時間はおおむね20年経過してた頃合いでしょうか。イオルフと人間との間には時間の捉え方にずれがあります。
イオルフ、ここではクリムにとっては瞬間であったろう20年間。目の前で最愛の人をさらわれたのはついこの間という感覚のまま、そしておそらくレイリアの心境の変化を理解できぬまま斃れたクリムがただただもの悲しいのでした。
人間のライフサイクルさえ知っていればレイリアへの声のかけ方も違うものになってたでしょう。{/netabare}


{netabare}イオルフのレイリアは人間の子を宿しました。
イオルフのマキアは人間の子を育てました。
人間のディタ(CV日笠陽子)は人間の子を産み育てました。

3つの異なるタイプの母親が登場します。ずっぷり関わったマキア。娘を拠り所に孤独を慰めたレイリア。私たちとおんなじディタ。

異なる体感時間を持ってようが、いくら孤独を恐れようが、母から子への眼差しはとことん暖かいことに普遍性を感じます。
イオルフに感情の起伏がないように見えたのは寿命の長さが関係しているはずですね。時間は限りあるからこそってやつです。{/netabare}



■別れが来るから 情が移るから

{netabare}愛する人を必ず先に見送らなければならない(単身者向け)

我が子を必ず先に見送らなければならない(家族持ち向け)

彼女もいない俺はどうすりゃいいんだー(・。・; ・・・という話ではありません。
出会いがあれば別れがあるわけであります。
そのつらい別れを自分が経験することが確定しているとわかりきってるのに踏み込みますか?踏み込めますか?を突きつけられる作品でもあります。

作品で出された答えは明快です。

 A 踏み込むでしょう!

時間は有限であるからこそ人は一生懸命生きるのだよ、ってね。{/netabare}

{netabare}そのメッセージは明快かつ前向きです。
ハーフのバロウ(CV平田広明)さんの締めが良い!

「(長老は)笑うだろうよ。おまえが苦しいだけじゃない別れを教えてくれたことが嬉しくってな。」{/netabare}





繰り返し観たいと思える作品でした。

 感動したか? 
 泣けたか?

いにしえのドラゴン“レナト”よろしく赤目病に罹ったかのように目を真っ赤にはらしてたかと。
こういった時間という縦軸で魅せる作品に自分はめっぽう弱いのです。






■オマケ
・ヒビオルは高級品に納得

{netabare}エリアルと出会った時に彼を包んだヒビオルを時は流れて看取る時にかけてあげてましたがものすごく耐久性良いですね。{/netabare}


・配役ミス?

杉田さんが出てくると真面目なところもそうでなく見えてしまい残念な気持ちに。沢城さんと掛け合うとさらにその思いを強くしますね~



視聴時期:2019年9月

--------
2020.03.18
≪配点を修正≫ +0.1



2019.09.15 初稿
2020.03.18 配点修正
2021.08.14 修正

投稿 : 2024/05/04
♥ : 74

89.3 7 切ないアニメランキング7位
ノーゲーム・ノーライフ ゼロ(アニメ映画)

2017年7月15日
★★★★★ 4.1 (852)
5115人が棚に入れました
それは一切の争いが禁じられ、全てがゲームで決まる
《盤上の世界(ディス・ボード)》が
創造されるはるか以前の出来事。
世界を統べる唯一神の座をめぐり、終わりの見えない大戦が続いていた時代。
天を裂き、地を割り、星さえも破壊し尽くさんとする凄惨な戦争は、
戦う力を持たない人間たちに理不尽な死を撒き散らしていた。
強大な力を持つ様々な種族に追いやられ、
存亡の危機に瀕する人間を率いる若きリーダーの名はリク。
一人でも多くの人間が明日を迎えるために心を砕き、
擦り減らす日々が続くある日、リクは打ち捨てられた森霊種(エルフ)の都で
機械仕掛けの少女・シュヴィと出会う。
機械には持ち得ぬ心に興味を持ってしまったことでエラーを起こしてしまい、
仲間たちから廃棄されてしまったシュヴィは、エラーを修正するため、
リクに《人間の心》を教えてほしいと頼むのだが……。
これは六千年以上もの昔に紡がれた
《最も新しい神話》へと至る《最も古き神話》。
記録にも記憶にも残らない、誰にも語られることのない物語が今、幕を開ける——。

声優・キャラクター
松岡禎丞、茅野愛衣、日笠陽子、田村ゆかり、井口裕香、能登麻美子、沢城みゆき、釘宮理恵
ネタバレ

ピピン林檎 さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

私の「感動したら負け」クリード(信条)を易々とクリアされてしまった!

この劇場版を見るまでは、異世界ファンタジー/異世界召喚ものジャンルで一番出来の良い作品は、『ソードアート・オンライン』シリーズで、対抗馬は『Re:ゼロから始める異世界生活』、そして『ノーゲーム・ノーライフ』は3番手かな、と何となく思っていたのですが訂正します。

①キャラクター&世界観設定の練り込み具合
②シナリオ自体の面白さ&作品から受ける感動ないし感銘の度合い

・・・を総合して考えると、同ジャンルでは、劇場版までを含めた『ノーゲーム・ノーライフ』が№1と考えます。

なお、上記3シリーズはいずれも原作未完(※アニメももちろん未完)であり、今後の展開次第で私の個人的評価もまた変わってくると思いますが、現時点で制作・放送(ないし配信・上映)されたアニメ作品を視聴した限りでは、個人的には本シリーズの今後に一番のポテンシャルを感じました。
というのも・・・

◆《トンデモ異世界ファンタジー》の顔をした《想定外の感動作》

本作は榎宮祐氏のラノベが原作ですが、アニメ制作スタッフは本年(2018年)の話題作『宇宙よりも遠い場所』(略称『よりもい』)とほぼ同じ方々です(監督・シリーズ構成・アニメーション制作会社が同じ)。
以前レビューした通り、その『よりもい』は“感動する”作品と事前に何度も聞いており、それなりに期待して視聴を始めたのですが、途中から「あれ?これハズレだな・・・」と気づき始めて、結局そのまま視聴し終えてしまいました。

因みに、英語表現だと“楽しむ”は have fun もしくは enjoy と能動態ですが、“感動する”は be moved と受動態となるのが通例で、私の場合も、アニメ作品は確かに大いに「楽しみたい」(※能動態)のだけれども、「はい、ここ泣くところですよ」みたいな制作側の誘導に簡単に引っかかって「感動させられ」(※受動態)たくないな・・・という拘(こだわ)りが以前からずっとあります。

⇒個人的に、これを「感動したら負け」クリード(信条)と呼んでいます笑。

私がアニメを見るときに一番大切にしている信条で、この「感動の壁」を超えるシーンに思いがけず出くわしてしまうと、その作品の個人評価が ★★ 4.5 を超えてきて、私の「お気に入り」作品の座に昇る可能性が出てきます。
(※実際には、この後さらに、その感動が「一時的なもの」に過ぎないのか、それとも「今後も継続的に感動できるもの」なのか、という厳格審査を実行するので、結局 ★ 4.2~4.4 程度の個人評価に留まる作品が大半ですが)

・・・で、本作なのですが、TVシリーズの時の視聴経験から、「はっちゃけた面白さには十分期待できると思うけど、感動できるタイプの作品ではないだろう・・・」と、さほど期待せずに見始めたところ、全体の2/3くらいを見終えたところで、思いもかけない《こころの震え》を覚えてしまい、「え?こんな作品に感動しちゃっていいの?」とビックリして、見終えて直ぐに、それが果たして正当な感動なのか、更に数回繰り返し視聴して自分に問いただしてみました。

結論からいうと、やっぱり本作は、

<1> よくあるような、音楽や演出などの技巧を凝らして視聴者の一時的な感動を喚起するタイプの作品(=一過性の感動しかない作品)ではなくて、
<2> 一見フザケた装いにも拘わらず、視聴者の感動が一時的なものでは決してない(=繰り返し見てもやはり確りと感動出来るくらいに)緻密に計算された設定&シナリオを備えた作品である、

・・・と思いました。

※なお、この「感動」には、前作であるTVシリーズ『ノーゲーム・ノーライフ』(※但し時系列的には劇場版の6.000年前の話)の事前視聴が、絶対必要とはいわないまでも、やはりある方がずっと良いと思うので、以下、併せて同TVシリーズの各話も再評価します。

《まとめ》
とにかく本作については、前作となるTVシリーズの、とくに第2-3話で、主人公たちの悪フザケに閉口して視聴を打ち切ってしまう方が多く発生している感じですが、そのTVシリーズが急に面白くなるのが第6話(ジブリール回)で、そのあとは最終話まで休みなしに駆け抜ける痛快さをもった《面白作》、そしてこの劇場版までくれば、視聴前は思ってもみなかった心の震えに出遭える《感動作》と思うので、これから初めて本シリーズを見始められる方は、何とか我慢してこの劇場版迄たどり着いて欲しいです。


◆制作情報
{netabare}
原作ラノベ      榎宮祐(『MA文庫J』2012年4月-刊行中)
監督         いしづかあつこ
シリーズ構成     花田十輝
脚本         花田十輝、あおしまたかし、下山健人、榎宮祐
キャラクターデザイン 榎宮祐(原案)、大舘康二(TVシリーズ)、田﨑聡(劇場版)
音楽         SUPER SWEEP(TVシリーズ)、藤澤慶昌(劇場版)
アニメーション制作  MADHOUSE{/netabare}


◆作品別評価

(1) 『ノーゲーム・ノーライフ』(TVシリーズ)  ★ 4.4   (2014年) ※計12話
(2) 『ノーゲーム・ノーライフ ゼロ』(劇場版) ★★ 4.7  (2017年) ※約1時間45分(4~5話相当)
----------------------------------------------------------------------------
  総合                    ★★ 4.5         ※計16~17話相当


◆各話タイトル&評価

★が多いほど個人的に高評価した回(最高で星3つ)
☆は並みの出来と感じた回
×は脚本に余り納得できなかった疑問回

============= ノーゲーム・ノーライフ (2014年4-6月) ==============
{netabare}
第1話 素人《ビギナー》 ★ 対テト戦(チェス)
第2話 挑戦者《チャレンジャー》 ☆
第3話 熟練者《エキスパート》 ☆ 対クラミー戦1(チェス)
第4話 国王《グランドマスター》 ☆ 続き
第5話 駒並べ《ウィークスクエア》 ☆
第6話 一手《インタレスティング》 ★★ 対ジブリール戦(具象化しりとり)
第7話 死に手《サクリファイス》 ★ 希望の鍵
第8話 起死回生《フェイクエンド》 ★★ 種の駒、※特殊ED
第9話 解離法《スカイ・ウォーク》 ★ 対クラミー戦2(オセロ)
第10話 指向法《ブルー・ローズ》 ★★ 対いづな戦(テレビゲーム)
第11話 誘導法《キリング・ジャイアント》 ★★ 続き ※OP「おねがい☆すにゃいぱー」
第12話 収束法《ルール・ナンバー・10》 ★★ 続き、対巫女戦(コイン・トス){/netabare}
--------------------------------------------------------------
★★★(神回)0、★★(優秀回)5、★(良回)3、☆(並回)4、×(疑問回)0 ※個人評価 ★ 4.4

OP 「This game」
ED 「オラシオン」


============= ノーゲーム・ノーライフ ゼロ (2017年7月) ===========

全1話 ★★ 4.7 {netabare}TVシリーズより6,000年前に星杯(スーニアスター)を巡る古き神々&15種族の戦争を終結させた人類(イマニティ)の少年(リク)と機械種族(エクスマキナ)の少女型個体(シュビ)の物語{/netabare} ※1時間45分

主題歌 「THERE IS A REASON」

投稿 : 2024/05/04
♥ : 29
ネタバレ

ぺー さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

苦手だった人への劇場版

原作未読


略称がそこそこ知れ渡ってる数少ないやつのひとつ。“ノゲノラ”の劇場版106分でございます。
TV版の当方評点は3.6点。説明するとやや“つまらない”寄りの“普通”な出来と評価しました。あにこれでの高評価と比して低めです。元ネタ好きかどうかは指標の一つとなるためご参考まで。

棚ぼたでTV版と少し空いての劇場版を再放送しててそのまま流されてみました。「TV本編より劇場版のがいーよ」とのご推薦も念頭に。やや視聴にあたっては前のめりではなく、往々にしてこういう場合いざ試しても上方修正することは稀なんですよね。

結果、、、TV版から上方修正します。
理由は後述するとしてまずは概要から。一言でTV版の“前日譚”です。『○○(作品名)ゼロ』と銘打たれると鼻の利く方はタイトルだけで察することが出来ましょう。前の話か後の話かだけでもイメージ湧いてれば迷子にはなりづらい。ただ『 』(くうはく)兄妹らのではない別の昔話というのは少しばかりやっかいです。

次に中身。これも端的に“創世記”ということになるかと。前日譚としての創世記ということになりましょうや。あのゲームでなんでも決まる独特な世界の成り立ちのお話。
{netabare}盛大なる勘違い。主役二人リクとシュヴィの声がそれぞれ松岡さん茅野さんで、キャラ見た目の違いはアバターだからかなくらいかと、しばし『 』(くうはく)兄妹がまた違った世界で奮闘してるのかしらん?と思ってました。どうやら違うと気づいたものの終盤のネタばらしまでもやっとしてた私です。{/netabare}

TV版との繋がりはあるけれど独立したエピソードとして起承転結しっかりしてる106分です。そのため視聴順がTV版と前後してもそれほど弊害はないと思われます。
そしてこの起承転結しっかりした独立エピソードというのが上方修正の理由となります。なお

 ヒキコニートが謎の万能感で無双するのが苦手

いかんともしがたいTV版での苦手要素が一切ありませんでした。ヒキコ兄妹出てこないので当然ですね。当方の偏屈なバイアス抜きで作品に向き合えたのが大きいです。雑味が無くなれば物語に没入できますし映像など演出面では実績あるわけで問題ありません。
ヒキコ云々は作品評価というより自分の趣味志向みたいなもんで、こんなん堂々と言うのもアレでしたが、数少ない!?TV版イマイチ勢でも大丈夫じゃね?な良作だったと思います。



※ネタバレ所感

■感想
 マイナス要素が無いからといって面白いとは限りません。もちろん加点要素ありましたよ。
{netabare}“心を知りたい”シュヴィは欠陥AIみたいなもんという理解でいいんですかね? 
その後2018年冬クールで“愛してるを知りたいのです”なのと仲良く覇権を分け合った化け物アニメを制作したスタッフらの作品というのもなかなかパンチが効いてます。
さておき、本作での欠陥AIが心を知っていく作業って全く空(カラ)の容器に学習内容を入れてくことではなく、概念がない/演算できない状態から適正化していくことを意味してたわけですが、これ似てるようで全く違うんですよね。前者だとカウンターパートは教師役となります。後者だとパートナーと化します。パートナーであるから互いにすれ違いも生じるわけで、当然感動を生むとしたら後者となります。そして前者で同じことやろうとして失敗する作品は枚挙にいとまがありません。本作はきちんとお作法をわきまえており失敗とは無縁でした。{/netabare}

{netabare}それでもって長寿命のほうが先に果てる展開が個人的にはツボでした。驚きと言い換えても良い。
長寿命側が見送るからこそ両者の埋めがたい溝に心千々に乱れる!みたいな様式美を踏襲しなかったのです。しかもコンピューター的彼女が不合理な選択をしたというのが味わい深い。ご存知プログラムは演算できなければエラーとなります。彼女の最期って本来エラーとなるところに解を見つけて無理やりにでも動かしきった感がありました。Y or N の高速演算しながらの“らしい”描写から揺らぎが生じ処理しきれなくてABEND起こすか?と思ったところを突破するの胸アツです。そこで「リク。私“心”を知ることができたよ」的なセリフは一切なし。
セリフではなくバトルの中身で雄弁に語らせる。{/netabare}

無機物と人間との関係性ではお作法を守りながら、オチで変化をつける見事なお手前でした。
バイアスで迷子になりかけたことを除けば文句はありません。
松岡さんの苦悩する演技はもはや名人芸の域ですね。作品をしっかり底上げしてました。
あ、映像について抜けてました。えーと、、、良かったです。


■ビール好きヲタクに捧ぐ

{netabare}命名タイムでリクから「長いから短くしろ」とダメ出しされた素案“シュヴァルツァー”。短くまとめて“シュヴィ”に落ち着いたのでした。
まとめる前の“シュヴァルツ”と冠した海外銘柄ありますよね。なんなら国内地ビールでもたまに見かけます。えぇ黒ビールのことです。広い世の中ギネスだけではありません。でもむしろ馴染み深いのはヴァイスビア(白ビール)だったりするのかしら?
いずれにせよ黒ときたら「あー白ね」と11歳不登校児を想像するのに時間はかかりませんでした。配信専用勢ではなく地上波でもアニメ観てるならブシロードCM『ヴァイスシュバルツ』を一時期ヘビロテしてたの覚えてるヲタさんも多いことでしょう。よって馴染み深い。対する男も空(ソラ)に対してリク(陸)ってことねと早合点するのにこれまた時間はかかりませんでした。{/netabare}

空と白の話だと思ってたんだよなぁ(しつこい)。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 24

Ka-ZZ(★) さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

願ったのは、共に生きること…。

テレビでアニメ本編が放送されたのが2014年の春アニメ…
当時、この作品を視聴した際、続編の制作を激しく渇望したのを覚えています。

ただその時、著者である榎宮祐さんが手術後の予防治療中とのことだったので、無理はできないなぁ…と思っていましたが、しっかり復活されていたんですね。
小説版、漫画版ともに既刊の数が着実に伸びているのが実感できるのは嬉しいことです。

だから、頭の思考回路は続編のことばかりでしたが、まさかこんな形でこの作品と再会できるのは思いませんでした。
劇場版の上映は2017年の7月で、アニメ本編の放送から約3年が経過しています。
それでも、この物語は全てがゲームで決まる現在よりはるか昔の出来事が描かれているんです。

その頃のこの世界は、世界の唯一神を決める争いの真っただ中で、絶対に殺生が行われない今とはまるで真逆の世界…
それだけじゃありません。
その争いを行っているのはエルフやドワーフ、或いはフリューゲルといった圧倒的破壊力を持った種族たちなんです。
そんな中、人類は立ち向かう力どころか自分の身すら守る力もなく、次々に仲間が命を落としていました。
どんなに身をすり減らしても人類の圧倒的劣位の立場は揺るぐことが無く生きる事に疲弊していた、と言っても過言では無かったと思います。

だから人類の残された選択肢は一つだけ…
小さな穴ぐらで身を寄せ合いながら、悩んで迷って苦しんでの堂々巡り…
だって人類が選択するということは、仲間の命の犠牲に直結していたから…

そんな人類を統率していたのは、リクという若き青年でした。
きっと一番心がすり減っていたのはリクだったでしょう。
みんなの安全を…人類の明日を守るために彼は周りに対して非情であり続けなければいけませんでしたから…
でも、そんな心の底から非情になり切れるほど、リクは人間が出来ていませんでした。
当たり前です…もしそんな人がいたら、きっとその人は人間の皮を被った何か…なんでしょうから。

そんな中、リクはエルフの領内で「機凱種(エクスマキナ)」の少女・シュヴィと出会います。
彼女は人の心を知りたいという好奇心から機械で居続ける事ができなくなり、仲間から廃棄された少女だったんです。
リクたちは人類以外のあらゆる種から蔑まれ、奪われ続けてきました。
だからこの少女も当然敵…の筈だったんですが、あまりにも機械っぽくない言動と、リクの思惑とが交錯し、物語は意外な方向に転がっていくことになるのです。

最初は接点なんてどこにも無かった…
だから言葉も頭の理解もすれ違いばかり…平行線の一途とはきっとこういう事を言うのでしょう。

でもこの作品の本気はここからです。
最初の兆候は平行線の一途に変化が訪れたこと…
片方は機械で片方はにっくき敵であることに変わりありません。
それでも変化が訪れた…
相手の気持ちを汲み取り素直に思いを伝える機械と、どんな時でも寄りかかれる場所の存在に人が気付き、その結果互いの中で互いの存在が昇華したから…
どちらか一方だけの変化じゃ絶対に平行線は交わりません。
ここに行き着くまでに時間は必要でした。
でもお互いが接点に辿り着いたこと…これこそが二人にとってとても重要なことだったんです。

そしてここからは…もう涙無しでは見られません。
二人の選択したゴールは遥か彼方…
そのゴールに向かって共に歩んでいくことを誓った二人…
だから決めた通り二人で手を取り合いながら一歩ずつ進めば良いのに…

だけど相手を思う気持ちが先行して…良かれと思ったのに…こんな思いってきっとみんな経験していると思います。
だって、例えば最愛の人が風邪で熱を出したら心配するし、何か出来ることを率先しようとするじゃないですか…
二人の出発点もこんな感じで始まったんですけどね…

シュヴィのなりふり構わない様相と心の叫びが胸に突き刺さります。
リクと交わした約束を心の中で何度もなぞりながら忠実に守ろうと懸命なシュヴィの雄姿に私の涙腺は全く抵抗できませんでした。
ホント…シュヴィ…凄かったですよ。
ここまで思えたのも全てはかやのんのおかげ…流石としか言いようのない完璧な熱演だったと思います。
そして凄いのは、その後のリクも…でしたけどね。
気になる方は是非本編でご確認頂ければと思います。

キーワードは、エメラルド色に輝く石…
記録にも記憶にも残らない、誰にも語られることのない物語の正体が隠されているかもしれませんよ。
どこまでも儚くて…でもとても優しい物語に昇華してくれた大切なアイテムだったと思います。

テーマソングは、鈴木このみさんの「THERE IS A REASON」
この作品の余韻に浸るにはこれ以上ないマッチングだったと思います。

110分弱の物語でした。
いやぁ…月並みですが視聴して良かったと本気で思える作品でした。
いしづか監督並びに制作スタッフの皆さま…メチャメチャ堪能させて頂きました。
本編も勿論大好きでしたが、この劇場版を見てこのシリーズを「お気に入りの棚」の一作に加えさせて頂きたいと思います。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 24

85.8 8 切ないアニメランキング8位
言の葉の庭(アニメ映画)

2013年5月31日
★★★★★ 4.1 (1994)
9502人が棚に入れました
靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は学校をさぼり、日本庭園で靴のスケッチを描いている。そこで出会った、謎めいた年上の女性・ユキノ。やがて二人は約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、心を通わせていくが、梅雨は明けようとしていた­…。

声優・キャラクター
入野自由、花澤香菜

ラ ム ネ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

ふたりの号泣は"魔法"なのだ。

 この世界には文字という考えができる前、話し言葉という概念があった。文字を持たなかった時代の日本語は「大和言葉」とも呼ばれ、万葉の時代に日本人は、大陸から渡った漢字を自分達の言葉である大和言葉の発音に当てはめていった。例えば「春」は「波流」と綴り「菫」は「須美礼」としていた。「雨」は「阿米」で、「心」は「許己呂」としていた。現在の「春」「菫」「雨」「心」と文字が固定される以前は、活き活きとした絵画性とも言える情景がその表記に宿っていたのだ。  そして万葉期に「恋愛」という概念は存在しなかった。先の時代に西洋から輸入された言葉である為であり、曾ての日本人は「恋愛」と呼べるほどの相手を愛する自由はなく、相手を想う悲しさを強調したものであった。そこにあるものは「恋」ともつかず、唯「孤悲」であり、孤独な悲しさ、孤独に誰かを”希求”するしかない感情が、遠い祖先の時代に存在したのだ。
 時に、丁寧に大切な言葉を遣うそのとき、私は一本の樹木になった気分になる。枝葉がのびて空の領域を狭め、葉の靄が立ち込め、太陽は遠く葉っぱの縁を煌めかせ、風に唆されて、言葉が舞い降り、心のどこかに落ちる。それがやがて堆積してゆき、時にあふれ、時にこぼれ、時になだれ、時にしゃくられ、時にまかれて、時につたったり、時にうおうさおうしたりして、時に積もったまま下の方から記憶に枯れる。言葉が旅をする。思えば、言葉は「言の葉」と書く。その庭では、匿名のひととひととが交互に木ノ葉を交換している。互いに何かを打ち明けて、後にその何かは互いの”希求”していたものとなる。その何かが、透明な手を差し出して片方の歩く手伝いをしてくれる。そんな「言の葉」のゆき交う「庭」。
 それが新海誠監督のアニメーション映画「言の葉の庭」の惹句、「”愛”よりも昔、”孤悲”の物語」という言葉から思ったことだった。

 六月。「子どもの頃、空はもっと、ずっと近かった。だから空の匂いを連れてきてくれる雨は好きで、雨の朝はよく、地下鉄には乗り換えずに改札を出る」雨音が跳ねる朝。そんな日には午前中だけ高校の授業を休み、秋月孝雄は雨雲の下に身を置いて、都内の自然公園に靴のスケッチを書きに行く。雨の日の公園は人影はなく、一人になるには丁度よかった。その日、いつもそこでスケッチを書く日本庭園のある東屋へ行くと、そこで一人の女性・ユキノと出逢う。彼女の手には文庫本が、傍らにはビールとチョコレートが置いてある。ジャンルが掴めない。孝雄はそう思う。「(朝からビールって)・・」 しかし孝雄はそのどことなく神秘的なユキノの顔に見覚えがあった。「あの、どこかで逢いました?」問うと彼女は一度、いいえと言葉を返して、その後”何か”に気づいて、逢ってるかもと言い、そのままの別れ際に、一篇の短歌を孝雄につぶやいて去っていった。 やがて、ふたりは約束もないまま雨の日の朝の東屋で逢瀬を重ねるようになり、次第に心を通わせていく。居場所を見失ってしまったというユキノに、彼女がもっと歩きたくなるような靴を作ろうと願う孝雄。 六月の梅雨空のように物憂げに、揺れうごく互いの想いをよそに梅雨は明けようとしている。

 「天気が悪い」と私たちは雨雲に言葉を投掛ける。しかし秋月孝雄は、或いは雪野由香里はそう想わない。夜、眠る前、朝、瞼を開く瞬間、気がつけば雨を祈っている。外気を隔てたガラス戸の向こうで雨音が聞こえると、「雨だ」と言葉と微笑を零して布団を剥いだ。ふたりは降下する雨雲の下に身を任せるのだ。
 芸術作品である。上映開始とともに、私は客席から身を乗り出してしまった。「デジタル時代の映像文学」とはよく謳ったものだ。どこかで私にアニメの一種の真価というものを定義させたのだ。
 繊細のタッチの細密画がスクリーンから客席へと溢れんばかりに、瞬間的な映像で流れ続けている感覚。鮮烈なビジュアル表現と、独自の感性と選ばれた言葉たちによってあたかも小説を読んでいるような物語に、むきだした心が雨に打たれた。高音のピアニズムが背景にとけこんでゆく。何にしてもスクリーンで絵画が動いているのだから。そしてその絵画の額縁の中には、寂しさや切なさも歓喜の瞬間までもが抽出されている。湿度まで感じるかのような雨は背景と化さずに、地雨、霧雨、夕立、土砂降り、通り雨、と曾てから言い表しも表情も変わってきたそれらが、エピソードとして物語り、例えばふたりを東屋に閉じ込める。煙のように立ちこめる新緑の色彩までもが、人物の陰影を映している。梅雨の色彩が景情や心情を匂い立たせる。その峻烈な光の描写は観る者を取り込んで迷わせる魅力があった。その光を映画館でもう一度、叶うかも分からない小明な夢を言わせる。
 身近にあるものほど、時折、その美しさに人は感嘆する。売店で購入したパンフレットはもはや美しい画集だった。思えば劇中、どの場面を一時停止をしても、それは全て技巧を凝らした絵となっていた。「自然は豊かにして複雑なもので、だからこそ魅力的で美しい」と新海誠は語る。人は誰でも自然観を魅力的に捉える瞳を持っているが、彼の目は一段飛ばして感受の力に満ちている。 ”詩で唄うバラの美しさは、本物のバラの美しさに劣る”そんな言葉がある。風景画家はその風景を美しいと思うから絵を描くのだ。そして描かれた絵は、実際の風景の美しさに劣る。詩ではバラの香りは感じれなく、重さを計ることも、唇の先に置く事もできず、文字の上のバラは私に何かを説くだけである。絵も、実際にその時の風や音や光を身に刻むことはできず、限りなく似せて私に空想をもたらすだけである。「言の葉の庭」は新海監督の目に映る世界を、最新の映像技術の技巧的な表現によって捉えることができる。しかも視聴者からすれば、アニメが美しいのか現実が美しいのか曖昧になって一瞬分らなくなる。
 だからか、作中の品物が異様に欲しくなったりする。鉛筆、マグカップ、トンカチ、アイロン、スプーン、蛇口、ドアノブと鍵、そんな数え切れない些細な品物が欲しくてたまらなくなる。しかし、ホームセンターにそんな美しい蛇口なんて売ってない。「もっと輝くはずだ・・」そう言って自宅の蛇口を磨いてみたりしたが、どうやら蛇口には限度があるらしい。パンフレットで同じことを言っていた加藤新太が語るように、それは理想郷の蛇口なのだ。額縁の中にしか発見できない蛇口なのだ。加えて「言の葉の庭」というタイトルの本を書店で見かけたならば、棚から抜き出して読み始めていただろう。蛇口にもタイトルにもそれだけ惹かれる魅力がある。

 絵画性に富んだ映像に対して、言葉も丁寧に彩られている。梅雨に買った一冊の小説から、翼の骨格のように空想され、翼の羽毛のように連想されたかの物語は、あたかも抒情詩を唄っているかのようで、限りなく美しみを憶える。言葉が物語を展開するなど当たり前だが、その当たり前に深い表現をうみだしている。過去の同監督作「秒速5センチメートル」も同じく抒情的な美しいモノローグであり、タカキがアカリを、アカリがタカキを、強く理解していたからこそ、心の場所を知り、ふたりは事情から距離を置いて別れ、やがて喪失へ向かう――相手の心を知り、それからの――物語だが、「言の葉の庭」の場合、出逢ってから続く、それからの――相手の心を知るまでの時間の――物語なのだ。孝雄には「まるで世界の秘密そのものみたいに見える」どことなく神秘的な雪野がいる。どれだけ近くにいてもその人の世界は、相手に踏み込まないことには――互いに向き合いその関わった時間の中でしか、知ることができない。そんなふたりが、雨の庭という限定された場所で言葉を交えて、孝雄は「世界の秘密」を知らなくてはならなく(雪野は自分のことを話さずに、傘の下で自分の世界を孝雄に隠している)、雪野は一途に靴職人を目指す孝雄を知り、負のサイクルから外れて、歩きだす選択をしなくてはいけない。
 梅雨の雨の朝。晴れの日を囲むふたりの何かが雨によって遮られ、雨の庭にふたりの逢瀬は重なり、同時に言葉も折り重なる。やがてふたりは、「夜、眠る前、朝、瞼を開ける瞬間。気づけば雨を願っている」

~未試聴の方は以下の文がネタバレとなるのでご注意ください~

 雪野由香里が秋月孝雄と出逢った時に呟く短歌。万葉集。飛鳥時代の歌集の二篇。
「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
稲妻が空気を引き裂き、遠い雷鳴に、地面を揺らし、黒く重い雲が垂れ篭め、雨も降りなさい。あなたがうちに泊めるように。 最後の一句まで自然表現で畳み掛けられて、最後に種を明かし、恋歌だという事がわかり、そこまでの情念の迫力に圧倒される。雷神は鳴神と呼称し、元訳では「少し響みて…」は「光とよみて…雨さ降れや…君は留らむ」であった。「とよみて」は「響く」という意味であり、ここで「光が響く」とし、遠い雷鳴と稲妻が想起される。教師と生徒というふたりの立場に雪野が気づき、自分が古典の教師だと感づかせる為の、遊び心が籠る咄嗟の短歌の謎掛けに雪野の知性が垣間見える。恋心の想いを詠い合う相聞歌の短歌なのだが、時間が経つにつれ意味が浸透していくことになる。
 雪野が呟く遠景で、短歌と同じように光が大気を切り裂いて、遠い雷鳴が谺する。孝雄には神秘的に見える。
やがて梅雨の空模様は表情を見せなくなり、雨の庭のふたりの逢瀬はなくなった。”孤悲”が現れる。孝雄は梅雨が明けてから、バイトに忙しくして心を通わせていた場所に行けない。孤独にモノローグに抒情的に相手を希求する想いが、交えない。そんなある時、孝雄は雪野からの謎掛けの短歌の意味を教科書で発見する。恋心を謡い合う相聞歌。雪野が呟いた短歌から生まれる物語には続きがある。それはふたりの続きを示唆する。
「雷神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」
稲妻が空気を引き裂き、遠い雷鳴に、地面を揺らし、雨が降らなくても、貴女が引き留めるなら、私はここに留まろう。 女性の短歌に対するこの男性の返し歌は、中途まで同じく続け、例え雨が降らなく私が去って行けても、あなたが言えば私は傍にいよう、と綺麗に言葉を返している。 雨でなくとも彼女はそこにいる。モノローグがダイアローグへと移り変わる――。

 秋月孝雄は一五歳にして人間性が大人びて見えるのは何故か。彼は幼い頃に家庭から父親が離れ、兄と共に母子家庭で育った。母親は仕事やら恋人やらで家を留守にすることが多く、いい加減な人なので、彼は家事をこなし年上の女性から可愛がられる性格となった。そして彼は靴職人を目指している。靴を家族団欒の思い出がインサートされていたことから、彼にとって「靴」とは「家族の幸せ」の象徴であるが故、靴職人を目標にする節があった。人は夢を持つと、見えなかった自分の道順が明瞭となってまた一段成長が早くなる。靴職人のバイトを(料理ができるから中華料理店なのか)始めて、大人と会話を交える事で、口調が大人びる。  様々な人生を知ることで、人間性が鋭くなっていく。 こんな所だろうか。ありえる話だ。加えて言うと、人の年齢で大人か子どもかなど判断はできない。社会人でも学生気分で身勝手に混乱を招く人もいるし、小3で既に中学生の勉強を始め哲学的な本に関心を得ている人もいるのですから。「一五歳でこんな奴いない」そう言う人はいるでしょう。恐らく殆どの人が男性と推測(笑)人は経験で成長します。秋月孝雄は経験を早く積んだからこその精神年齢の高さ(恋愛経験除く)だと思います。例えば、overな話で、戦時下の苦労を伴う環境に育った子どもの成長は精神的に早く成長するという。それは脳を発達させないといけない状況下に存在する為で、生物における潜在的な対応意識の本能と言える。戦時中でなくとも、人の成長は状況や経験によって案外簡単に変わるのです。
 脱線して、なぜ恐らく殆どの人を男性と推測したか。例えて、一本道を映しただけの写真集があるとする。霧の獣道、熱帯雨林の途切れた道、砂漠の轍、地平線まで一直線の舗装路。男性は評価する。「このアングルが良い」「この光の差し込む感じが良い」女性は人生と繋ぐ。「この道、私の人生みたいだわ」「こんな道に憧れる」 も一つ例えて、悲しい意味深な終幕の西洋映画がある。男性は関心する。「なるほど、そんなオチか」「納得。良作だ」女性は涙を伝える。男性は物事を思い、考えて、受け取る。女性は物事を思い、そのまま、受け取る。男性は考えて”しまう”節がある。「靴職人を志す一五歳?現実味がない」「ありえない」女性は受け入れる節がある。「・・・」。男性はとある幸福を前に、一度で肯定しちゃったりする節がある。女性はとある幸福を前に、幾度もその幸福を確かめようとする節がある。味のないガムのような日々を、呑み込んで終わりか、吐き出して始めからか。 まあ例外も多数。女みたいな男もいるし、男みたいな女もいる。しかしそれでも、根本的なところでそんな何かが違うのだ。
「バカ野郎、あんな一五歳みたことないぜ。それに雪野が孝雄の高校の教師だったって展開も」「いいじゃないそれぐらい」そんな会話が聞こえてくる・・(笑)  はい脱線終了ぉー。殆ど推敲せずに思った事そのまま書いてるんですみませんね。あっちなみにどうでもいいかもしれないけど俺、男なんではいぃ(笑)
 (アニメーションの見方が変わる作品の一つだ。現代アニメを知らない人は感覚が変わるだろう。「アニメはジブリ」「アニメはヲタク」「アニメは子ども」「いまさら大人がみるもんじゃない」アニメ好きの私達からすれば、それは偏見だぁ!!・・そんな人へどうでしょう(笑) 偏見が固っ苦しい人は、まあ川にでも流しておいてですね^^;)

 秋月孝雄は雨の日、午前1限目の授業を休み学校へ遅刻する。「おまえ何時だと思ってんだよ」遅れて席に着いた途端、馬鹿にした口調でクラスの同級生が孝雄の肩を叩く。「呼び出された理由は分かってるな」職員質で伊藤が生徒の規律を守る目的で告げる。その同級生は孝雄を理解不能と断定する。”何を思って学校を休むのか” ”学校への通学は普通だろ” “高校生活をなめすぎなんだよ”或いはそうとう嫌悪な奴なら”学校を休む奴は社会のクズだ”と、でも思っている(笑)。靴職人は高校でなれません。「晴れの日は酷く子ども地味た場所にいる気がして、ただ焦る」孝雄が、社会人で自立した雪野へ少しでも早く近づこうと、「自分がただの一五のガキであるということ」を認識しつつ、そこから抜け出したい焦る気持ちが分かる。彼は自分が向きたい方角に向いているだけなのだ。高校に求めるものが少ないのである。


 断片的に叙述すれば、この物語は、「秒速5センチメートル」の出逢いから始まり、惹かれ合い、孤独に悲しみ、喜び、歪み、なだれる言葉に号泣して、未完結する。
・・――思わぬ再会を経て、返し歌の短歌を告げて、心で歓喜し、「今が一番幸せかもしれない」とふたりのモノローグが交わって、ふたりは物語の主人公になる。しかし、雪野は、「俺、ユキノさんのことが好きみたいです」と言った十二歳年下の孝雄を、大人として突き放さなくてはならない。同じ言葉を潜めていたであろう彼女。単純に彼の人生を願って。「あの東屋で、ひとりで歩く練習をしていたの。靴がなくても」突き放す言葉には十分だった。「あれから私、嘘ばっかり」ここでまた彼女は嘘をつく。孝雄に自分のことを黙ってはいたけれど、嘘を吐くのは初めてなのか。雪野は来週、四国へ仕事場を移す。孝雄が一生去っていく。自分の言葉に歪む。 結局、嘘は突き通せなかった。
  “この世に魔法があるなら、それはきっと、誰かを理解し、何かを共有しようとする努力の中にある”「ビフォア・サンライズ」という会話劇を思わせる恋愛映画にそんな言葉がある。ラストシーンのふたりの涙は”魔法”なのだ。ふたりの孤独な抒情詩はその人生の大切な断片として物語を彩る。
 そして未完結する。人生の断片の彩りを描写して、続きはハッピーエンドもバットエンドも描かれない。人の空想の思うままに漂わせる。四国に行った雪野と孝雄は文通を交え、途絶えるかもしれない。物理的な距離は心の距離を遠ざけ、電話を途切れさせ手紙がポストに入らなくなるというのは、人間関係に付き物だ。雪野は「梅雨が終わってほしくなかった」「幸せかもしれない」「救われていた」と言っているが、今後、孝雄にはっきり「好き」と言うかはわからない。「もっと遠くまで歩けるようになったら、会いに行こう」と孝雄は言うが、それも分らない。恋人とはならないかも知れない。逆もあるかもしれない。ハッピー&バットなんて存在しない結末を辿ることもある。魔法も薄れやがてカボチャになるように、喪失するならそれでいいのだ。人生に彩りを与える思い出として心に残しておいてもかまわないだろう。ふたりはそれぞれの人生を生きる。そして何かの偶然で出会ったなら、話し始めればいい。どちらかが幸せを持っているなら、「秒速5センチメートル」になるだけだ。言葉は、時に積もったまま下の方から記憶に枯れるが、ふたりが約束のない雨の庭で交わした言葉は記憶に根付いて生涯を共にするはずだ。美しい記憶は人生を温める。それも結果的には美しいのだ。

 4.11に発売される「小説・言の葉の庭」。想像に任せていた話しが楽しみなところもあり、文章化せず不明瞭のままでもよかったのにと思うところもあります。それでも孝雄と同年の私は、経験薄からか、物語の行方に一縷の望みがあってしまうのです。そしてまた同年であるからこそ、主観的ながら、手が届くかもわからない彼の想いに惹かれ、共感を経て、評価が高ぶったことは否めないのです。


第一段落、公式ホームページ参考、加筆。
あらすじ、空白後 公式のあらすじ文、引用。
2013.8.4「デジタル時代の映像文学って本当共感」レビュー投稿。
2014.3.4「ふたりの号泣は”魔法”なのだ。」レビュー更新。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 35
ネタバレ

Yulily さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

【新海監督の新作予告を観たら、行きたくなってしまいました…聖地訪問の日記追加】

雨が降る日には、空を眺めながら....
ふと、思い出すことがあるの....
二人は逢えているのかな?
なんてね...
それくらい強くわたしの心に残る作品だったということなのでしょうか...

雨の日の庭園での二人の男女のしのび逢い。輝かしい青春のひととき...

まだ何も知らない
仕事も歳も抱えた悩みも
名前さえも....
それなのに、どうしようもなく惹かれてしまう・・

そんな経験、私にもあるかもしれません

都会の喧騒から少しだけ離れ、穏やかに流れる時間を肌で感じられる自然にあふれた場所

こんな青々とした緑の中で深呼吸したらどんなに気持良いことでしょう!!試してみたくはなりませんか?
ここは、二人の秘密の場所 ...

雨降る午前。約束を交わさずともこの場所で逢い、心を通わせていく。

限りある時を惜しむかのよう
いけないと分かっていてもそれに心惹かれてしまう

二人の間にそんな少し危険な大人の恋、そんな香りを感じて

言葉のどんな力であっても、とても語りきれない部分で結びつく
人と人は、どうしてそれほどまでに惹かれ合うのでしょう...

いつのまにか想っていて
理由というのはいつも事後の話、人間だからこそ湧き出るこの気持ちは言葉では表現できません。

記憶に焼き付いた「雨」
1つ1つの描写が繊細に描かれています。
雨に濡れた新緑がしっとりした景観を生み出し、雨雫も相まってこの緑が美しい。
雨音はもちろん
葉に落ちる雨の音がとても心地良い
その全てが画面の中で調和して様々な趣きを醸し出しています。
「言の葉の庭」
恋愛や人生を感じさせ感動が胸に押し寄せる50分でした。

※ネタバレは一切ありませんが聖地訪問のため閉じます。
【2015年6月14日(日) 新宿御苑】
{netabare}
こだわりを感じる映像美に誘われ舞台を訪れました。
この日は雨ではなく曇り時々晴れ

新宿門を潜り木々に囲まれた園内の道を歩く
木漏れ日を浴びながらの散策。
そこはまさに映像で見た言の葉の庭が広がる...

二人がいた場所から水のある庭を望む。
まぶしいくらいの緑。床にも緑色が映っているくらいに。
アニメーションで見た景色が現実と重なった瞬間の高揚感がわたしを包む...感動です♡

そして世界観を演出するあのピアノが聴こえてきそうな...
揺れる二人の心模様を表現する素敵な音がね♪

園内で特に目を引いたのは華やかな紫陽花(あじさい)早朝に少しだけ降った雨に濡れた花がとてもきれい。

もし雨が降っていたのなら緑がめぐみの雨を喜んでいるかのようにもっとキラキラと輝いて見えたのかなぁ?

沢山歩いた後の食事は新宿門を出てすぐにある『礼華(らいか)』。(予約していました)
テラス席は笹のグリーンカーテン
心地よい風を感じながら美味しい食事に楽しい会話をして・・・私、こういう過ごし方が大好きです♡

今度は雨が降った時かな。。季節によって様々な顔を見せてくれる新宿御苑。また訪れたいです。{/netabare}

【2016年3月2日(水) 新宿御苑】
{netabare}
あたたかく、やわらかな春の包み込むような陽射しがとても心地よい午後…
うららかな春の陽気に誘われて

仕事の空き時間を利用してなのですが
言の葉の庭の聖地 新宿御苑にお散歩へ来ちゃいました♪

新宿門を潜り、入園券をかざし「ピッ」という音とともにゲートが開き、 言の葉の庭へと足を踏み入れました。
こんな気持ちよい天気だと、考えることは皆さん同じ…でしょ?
園内は沢山のヒトが訪れていました。

春の訪れを告げるように 白、やさしいピンク、濃いピンクなど さまざまな色のウメが咲き、はっとするようなキレイな春色に胸が弾みます。

そして嬉しいサプライズも・・
寒桜という種類のサクラが1~2分咲き程度ですが咲いていたのです。
やっぱりサクラって特別なんです♡

作品の中にも出てくる橋を渡っていると、キラキラ輝く水面を気持ちよさそうにスーッと泳ぐ鴨、鯉も口をパクパク(かわいい~♪)
こんな、心ほぐれる水辺の風景に出会います。

ほどなくして二人がいた秘密のあのベンチの場所に到着。
ベンチから後ろを振り返ると大木があり「染井吉野」の札が付いていました。
もう少しすると、この場所は満開の桜で彩られるのでしょうか…
季節を変えて訪れるたび違った魅力に気づける言の葉の庭は素敵な場所です。

散歩の最中に思わず寄り道したくなる
「サクラクレープ季節限定」の看板
サクラの誘惑には、、勝てませんでした*^^*♪
皆に、桜クーヘンとサクラこんぺいとうも買って…
春のスイーツをおすそわけです♡

季節の花を眺めながらお散歩すると 心があたたかく満たされます。写真におさめたくなる春もいっぱい**
散歩したからこそ感じられた この幸せ…
つい、みなさんに春色との出会いを報告したくなってしまいました

最後に…
ここまで読んでくれたヒト…いつもでっかいありがとうです…♡

・・END
{/netabare}

【2016年4月7日(木) 新宿御苑】
{netabare}
雨の日が舞台となった「新宿御苑」

都心とは思えない広大な庭園、豊かな緑と花を眺めながら清々しい空気を目一杯浴びることが出来る場所

そしてあの二人の笑いや、涙、そんな想いを心で感じることが出来てしまうような…
私は言の葉の庭と呼んでいます。

前回訪問から約1ヶ月がたちました。
映像美に誘われ舞台を訪れるのは3度目となります。
そして雨の日に足を踏み入れるのは今回が初めて…
「どんな景色に出会えるのかな?」と少しだけ心が高鳴ります。

お気に入りの傘とともに散策はスタート♪

お花見もラストシーズンのせい?…なのでしょうか
雨がシトシトと降る中でも傘を差しながら多くの人が訪れていました。

入り口でいただいた園内マップがカラフルで思わず友達が見ているのを覗きこんでしまいました・・・

「マップがね…春色なんです♪」

前回のものとは異なる春バージョン。春を彩るお花の紹介の写真がホントにとっても鮮やかで心が踊ります。
それに夢中になっておしゃべり、ふと気が付くと
目の前にはピンク色に包まれた庭園が広がっていたのです。
枝一杯に咲き誇る花に目を奪われてしまいました…

あの橋からの眺めはまるで絵画を見ているみたいで
春の色彩が水辺を華やかに彩っていました。

そしてようやくたどり着いた秘密のベンチのあの場所
そこには嬉しいビックリが・・

木々の緑の中で、たった一本だけの可憐なピンクの染井吉野
まるで目印のように「ここだよ~♪」と言わんばかりです♡

この場所を覆い しなるように咲いている様…それはまるで桜のカーテン**

桜のカーテン越しに見た言の葉の庭
吹きぬける風に、桜が香ります
花びらが乱れ散り、水面がいっぱいになって揺れていました…
幻想的で神々しく
ため息がこぼれてしまうような美しさ

雨の日の言の葉の庭
木々の隙間からこぼれ落ちてくるしずくさえもなんだか嬉しく思えてしまって…
雨に濡れた緑の美しさ、しずくを沢山に含んだ植物はいつもより彩り鮮やかにそしてきらきらと輝いて心を癒すのです。

「来年は晴れた日に来たいよね…?」

桜の下の芝生で、お弁当を広げたら楽しそうーー♪
売店のお弁当を見ながらそんな会話をしました。

美しく咲き誇る桜のトンネルを歩きながら帰り道へと向かいます

出口の向かいの入り口では警備員さんの手荷物検査

ふと下に目をやると、透明なコンテナに没収されたアルコールの瓶や缶が(あの銘柄かな?)!!…
もしかして言の葉の庭のファンなのかな?
ここは、アルコール類の持ち込みは禁止なのでご注意下さい♪

春の雨を心地よく感じられた、美しい言の葉の庭の中での休日でした♪
覗いてくれた方…ありがとうでした♡
{/netabare}

【新宿御苑がピカチュウの森に…聖地訪問の日記追加】
{netabare}
本日より東京は梅雨明けしましたね!
本格的な夏の到来です。

約4ヶ月ぶりに訪れた新宿御苑の言の葉の庭

私が訪れた時はまだ梅雨明けしていませんでした。

お昼前から少し雨がポツリポツリと降りだしていて

『空の匂いを連れてきてくれる雨は好きだ』
そんな劇中のタカオの言葉をピアノの音と共に思い出していました

新宿門を潜り抜け 言の葉の庭へと足を踏み入れました!

って、それにしても平日なのに この異常な人の多さは..?
実は御苑に訪れていた皆さんの多くのお目当てはポケモンGO。
どうやらここが「ピカチュウの森」 になっている様なのです。
(私はゲーム分からないヒトです)

たまに、ヒトの携帯画面をチラ~見

園内を散策しながら「ピカチュウゲットだぜ~♡?」をしていました♪

雨でも楽しい観光をしたい欲張りさんにはこのスポットオススメですね!

言の葉の庭の聖地を巡れて、おまけにピカチュウまで手に入れることが出来ちゃうのですから…♪

春色から(前回来場)夏バージョンへと変わった園内マップを手にして

緑豊かな園内を気持ちの赴くままに散策

春に訪れたときよりも木々が生い茂り

並木の緑のトンネルが気持ちいいー

「あれ?」
どうやら傘をささなくても ここにいるときは雨粒は落ちてこないみたい♪

都会の真ん中なのに あたりに人工的な音は全くなくて

セミが鳴く声と木々のさざめきに包まれて心地よいのです。

そうですね、
別の世界に迷いこんだ…みたい

そこへ、人懐こいスズメさんが、、
「チュン チュン…」近いーー

どうやらスズメさんの夫婦みたい?
見ているとホントに仲が良さそうで
微笑ましいのです♡
(隠し撮りして…ごめんね)

そして池の前には劇中で何度か映しだされた緑のモミジを発見!

これまでは紅葉したモミジにしか目がいかなかったのですが

雨の雫をいっぱいに含んだ青々としたモミジをこの庭園で見つけた時はそれは嬉しくて
・・心が踊りました


そして到着。
二人の秘密の場所は
相変わらず人気スポットで

常に誰かが あのベンチを狙っているようなので
着席することは諦めました。

ベンチの場所から水面に雨が描き出す輪
ぶつかり合う波紋
「あっ、こんな映像あったなぁ…」なんて思い出していました。

爽やかな風を感じながら散策
その途中にまた気になったのは
「内藤とうがらしクレープ」の看板
売店にて270円(中身はアイス)

春に訪れた時は「桜クレープ」でした

ここでしか味わえない限定にはつい惹かれてしまいます。
最近あにこれのポロムちゃんと変わったアイスのお話で盛り上がっていたので
とうがらし だなんて私、気になります(笑)

迷わず購入!
座れる場所を探して歩いていると
庭園の中央にある3本の巨木に惹かれます。
「ユリノキ」と札がありました。
この庭園でひときわ目を引く存在感。
生命力溢れるその姿は神秘的でパワーをもらえちゃいます。
この木の下のベンチに座って

友人と半分ずつ。
私「んっ、ちょいピリリ…甘~♪」
友人「癖になるかも?」

雨でひんやりとした庭園
涼やかな景色がそこかしこに広がります。

食べたり、休んだり、散歩したりそんな心ほぐれる散策

ゆっくりとした時間の流れで癒してくれます。

いつもと違った時間を過ごせて
何度来ても
また来たくなる場所でした。

~大切な思い出を刻む写真も沢山撮れましたよ~

楽しい1日♪

今回も、覗いてくれた方…
いつもありがとうです…♡
{/netabare}

新【2019年6月22日(土)新宿御苑】
{netabare}
新海監督の新作『天気の子』予告観ました!
美しく繊細な色彩で描かれた空、雲、雨
彩り鮮やかにそしてきらきらと輝く新海ワールド

それを見たら思わず行きたくなってしまったんです…

私が向かったのは、この作品の舞台にもなった新宿御苑。
作中の季節と同じ初夏です。
朝から降り注いだ雨は特有の霞がかったような
空気を作っていました。

雨に濡れた新緑はさらに緑が映えて幻想的
色に深みがました瑞々しい緑の葉
雫をいっぱいに含んだ緑はやっぱり美しい。

ふと目の前の巨木に触れてみた、
森と木の息づかいを肌に感じながら
木と自分の呼吸を合わせる。

心が穏やかになるように感じるの


今日の東京は突然強いザーっと雨が降りましたね。
あちこちに大きな水たまりができてしまうし、
横殴りの雨に行く手を阻まれながらあの場所に
向かうのが本当に大変でした。

そう、そこは二人の秘密の場所、東屋。

言の葉の庭の一番メインの場所なので、
いつも沢山の人で賑わっているのですが、
今日は誰もいないのです。

この特別な空間を独り占めするのは初めてなんです。

主人公たちと同じベンチに座ってみると
特別な気持ちになって心がワクワクしてしまいました♪


その後、園内のあちこちを散策していたら、
水色、紫色、桃色など色とりどりの
かわいらしい紫陽花に出会いました。

咲き始めなのかな…やさしい水色の初々しい花びら。
雨粒の雫がついていてとっても綺麗なんです。

途中にカフェスペースがある
中央休憩所に立ち寄りました。

併設している売店に自然の竹で作ったしおりが並んでいて、
その中に東屋が挿絵になっているしおりを発見しちゃいました
これがなんと『言の葉』のしおりと
名付けられていてとっても嬉しくなりました!

『どうしよう、ちょと欲しいなあ…』なんて


ここのテラスは緑に囲まれた癒しの空間

やさしいママさんの挽きたてのコーヒーが
とても美味しくてホッとあたたまりました♪

季節ならではの花々を楽しめたし、
時々足を運んでしまう理由がいっぱい!
また訪れようと思います。

見て触れて楽しんだ1日の日記ですが
読んでくれた方…ありがとう♡

最後になりますが新海監督の描く新作『天気の子』
息をのむほどに美しい映像に期待が膨らむばかりです。
{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 183
ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6

あちらを立てれば、こちらが立たず

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 初見でした。45分ほどのショートフィルムです。
 新海監督作品は、秒速・星を追う子ども・ほしのこえに続く4作目になります。
 相変わらず背景はきれいなのですが、私の採点基準では、背景は物語評価に影響を与えないので、とりあえず、横に置いておきます。
 結論から言うと、良いところと悪いところが混濁してました。採点してみたら視聴後の印象以上に減点箇所が多い。短編ゆえに、悪いところも目立ってしまいました。

<総論編>

エンディングその後:{netabare}
 エンディングは、やや期待を込めて描かれていましたが、二つの観点からこの恋は実らないのではないのかなぁと思っています。

 一つ目は、未熟さ。
 まずはタカオの未熟さ。高校生という以前に、とても未熟な人物として描かれていたように思います。未熟だからダメということはもちろんないのですが、タカオではこの恋を実らせることが出来ないように思えました。やや感覚的ですかね。人物像は後述にて補完します。
 ユキノの未熟さっていうのも原因に挙がるんですが、こちらも後述。
 未熟な二人だから失恋確定、と言い切るのも少し乱暴ですかね。個人的には結構大きなウエイトを占めているんですけど。まぁ私の感想ということで。

 二つ目は、「行人」。ユキノが読んでいた本ですね。上はおまけでこっちが本命です。ユキノが本をプレゼントするシーンもありますし、、わけもなくこの本を写したと考える方が異常ですので、ちょっとだけその意図を読み取ってみます。で、行人からどのシーンを選ぶかというと、やっぱり雨の描写があるところだと思います。実際に読んでいたシーンは分かりませんけどね。
 「行人」では、主人公のお兄さんが自分のお嫁さんと弟(主人公)の不倫を疑っているわけです。弟は反発しますが、お兄さんはこの二人を、お嫁さんの本音を探るための日帰り旅行に行かせます。その旅行中に突然「嵐」が起こってしまい、仕方なく二人は一泊して帰ることにしました。その後の話は皆さんにお任せします。
 旅行の日に注目すると、「雨」が降って「雨宿り」、そしてそこで起こる「一夜のドラマ」があるわけです。弟と義理のお姉さんの間で恋愛感情はなかったはずですが、義理のお姉さんが心情を吐露するその夜の描写は、悩ましげだったように記憶しています。
 「言の葉の庭」に投影してみると、弟と義理のお姉さんの関係は、タカオとユキノの年齢差や生徒と教師という関係に転換できるように思えるのです。一夜ではなく、ワンシーズンでしたけどね。大雨の日だけをピックアップするなら、「雨宿り」としてユキノの家に行きますし、結構重なります。「行人」と同じように心情を吐露するのだけれど、やっぱり恋愛には至らないのかな、と思いました。

 アイテムを使ったエンディングの示唆というのは、良かったと思います。もう1冊本が出てくるのですが、こちらは確認できずでした。何かあるのかもしれませんが、確認できないレベルなので重要度は下がると思います。{/netabare}

タカオ:{netabare}
 母親が家に居着いていないせいか、母親に執着しているんですよね。靴職人の夢も母親が発端ですし、少年期から引きずっているというのはなかなか際どい感じがあります。母親に関するセリフからは親離れしてそうですが、行動は執着している、と言動に不一致が見られるわけです。そしてそれが無自覚だというのもなかなか…。

 この執着が恋愛に形を変えて母親からユキノに移るわけですが、タカオはユキノに神秘性を見ていたと思うのですよ。謎めいた女性、ミステリアスなどと言ってもいいです。それに輪をかけているのが万葉の歌ですね。分からないものを知りたくなる感覚は、お兄さんとの会話からも窺えます

 バイトや靴作りを通して夢に打ち込む姿も描かれていますが、これは母親とユキノに執着した上での現実逃避に見えました。成績が悪かったり、ケンカしたり。短歌のことをお兄さんには聞けるけど、学校の先生には聞けなかったり。夢に打ち込みたいなら学校を辞めれば済むだけなのに、無駄と言いながら通い続ける。

 マザコンとまで言い切るつもりもないですけど、十分な社会性や行動力はないですね。高校生っぽいと言えばそうなんですが、年上の社会人女性を捕まえられるほどのバイタリティは感じられません。未熟な人だと思います。お兄さんに靴をあげていたら印象も少しは変わったんですけどね。{/netabare}

ユキノ:{netabare}
 未熟な夢追い人タカオに対して、こちらは現実的な未熟な人といった感じです。なんだか良い人に描かれているようにも見えるのですが、描写を拾っていくと必ずしもそうとも思えませんよね。

 ユキノが元彼に電話をしていたタイミングは夜でした。元彼でも同僚なら、緊急でない業務連絡は普通昼間に入れると思うんですよ。それなのにユキノは夜に電話している。別の女性の存在を知らなかったとしても、わざわざ夜に業務連絡をしている時点で、精神的な甘えがあったと思います。つまり、他人への依存度が高い人というイメージ。高校生のタカオにも依存が見えます。

 ユキノに起こった学校でのトラブルっていうのは、虚言によるものなので、確かに非はないんですけどね。教員間の恋愛発覚が騒がれていたなら、つまり、自分が直接的な当事者だったら、非がなくとも被害者面はしていられなかったと思います。彼女の逃避はいくつか描かれていますが、社会性としては薄氷を踏むものだと感じました。精神的なショックを受けるなというのも酷な話なので、そうは言いませんが、一般的な社会人と比べるに、彼女は十分に未熟だと思います。そもそも彼女に十分な社会性が備わっていたら、自分の学校の生徒に思わせぶりな態度を取ることなく、恋愛には発展しなかったわけですし。というわけで、ユキノはタカオよりは社会に生きているけど、まだまだ未熟な人だなと思いました。未熟だからこそかわいく見えるのかもしれませんけどね。

 ちょっと話は変わりますが、食事はユキノの心理状態を表すアイテムとして上手く機能していたと思います。タカオが家を出る前のシーンでは、コーヒーを飲んで伏し目になっていました。。他の映画なら「一息ついて」と形容したくなるところですが、味覚障害を踏まえると「味がしなくて」ということなのでしょうね。{/netabare}


<各論編>
 良かったところも悪かったところも適当に書いていきます。

タカオとユキノの出会い:{netabare}
 出会いのシーンは良かったです。二人とも動きが止まるんですが、動き出しのタイミングがほぼ一致していました。この二人の親和性が、これからドラマが始まるな、という期待感を増してくれました。ほんとはピッタリ一致してると良かったんですけどね。でも、わざとずらしたのかもしれないとも思っています。バッドエンドの布石としてですね。{/netabare}

ユキノの元彼の部屋にいた人:{netabare}
 最有力は、元彼の部屋にいた人が結婚相手で、ユキノが不倫していたというパターン。こちらは結構妥当性があります。飲酒禁止の看板が出てきますが、ユキノはビールを飲んでいます。これはルールの枠の外にいる人物という表現で、不倫と一致するんですね。
 次点で、結婚相手ではなく新恋人のパターン。現実的には自然ですし、行人を踏まえても不倫はなかったと考えることが出来ます。ただ、こちらだと飲酒禁止の看板が何の意味があったか分からなくなりますよね。味覚障害はそもそもビールとチョコレートの組み合わせが必須というわけではないですし、禁止されているところでビールを飲んでいる理由にはなりません。つまり、飲酒禁止とビールという二つのアイテムが浮いてしまうんです。

 いずれにしろ、前者か後者かで描写力への評価が180度変わります。前者なら良いで後者は悪い。
 看板が出てくるのは、オープニングと、ケンカの後のオープニングをなぞったシーンです。つまり、物語の節目となる重要なシーンで2回です。この看板がユキノの人物描写に影響しないとなると、ただあったからそのまま描いただけとなってしまい、描写力としては疑問が残ります。元彼はともかく、その相手というのは、テーマにも世界観にも大した影響を与えませんから、含みを持たせる意味なんて皆無です。味覚障害に関連するビールの方がよほど重要ですよね。元彼に結婚指輪の有無を描いておけば解決する程度の問題なのに、それを描かなかった。
 解釈に幅を持たせたというよりは、描き忘れたような印象を持ってしまいました。結論は分かりませんが、不満だけが残りました。{/netabare}

違和感のある描写:{netabare}
 気持ち悪い描写がいくつかありますよね。
 一つ目は、靴を脱いで素足をさらすところ。夏の?雨の日に?靴を脱いで?他人に触らせる???まったく意味が分かりませんね。触らせる方も触る方も気持ち悪いです。この作品における性的な表現ですからなおさら気を使って欲しかったです。

 二つ目は、ユキノの家のシーン。制服が濡れてしまったタカオは私服を着てますよね。誰の?他人の?まさか元彼の???意味不明です。着る方も着せる方もどうかしてます。
 それとも、ユキノの服のサイズがたまたま合った?ズボンも?あの雨でシャツだけ濡れてズボンは濡れていなかった?好きな人の服を着れて幸せ…?もう何が何やら。

 三つ目は、気持ち悪いのじゃなくて謎の描写。料理ができないユキノが、難易度の高い男性用シャツのアイロンがけをしていました。家事に対する一貫性のない描写がリサーチ不足を感じました。アイロンかけたけど下手でしたって描写も欲しかったかな。乾いてないはこれの表現じゃないしね。
 ストーリーに直接影響はしないかもしれませんが、観察力には欠けていましたね。{/netabare}

<総評>

 独白から始まって、主体が移っていったタイミングで、「まさか秒速と同じ構成?」と不安になりましたが、結果論から言えばその心配は不要でした。きちんと構成はアレンジしてきています。ただ、細部の描写力に不満が残るのは相変わらずでした。テーマも歩き始める人を描くのに靴職人ですからね。正直安易すぎて驚きを隠せません。

 全体的には分かるんだけど、細部に不満という意味では、ほしのこえと同じです。でも、ほしのこえとは大きく違うところがあります。ほしのこえは、ごっそりそぎ落とされたメッセージがあって、それが物語に厚みを加えていました。言の葉では、結構説明しているためにその辺の厚みはなくなったように思います。つまり、全体観が弱まっている。万葉の歌とか行人とか、一部のアイテムは機能していますが、機能していないアイテムや謎の描写も結構多い。雨の技術力は上昇していたと思いましたが、表現力としては減退していたように思えました。

 独白にも困りました。独白で解説するのではなく、映像で表現してほしいですね。このレビューでは人物像に触れていますが、セリフではなく、描写から拾っても十分解釈できるレベルにあると思います。新海監督の人物描写は以前より良くなっていました。でも、そこに過去の作品と同じ独白が入るから蛇足っぽく見えるんですね。人物描写の精度が上がってきているのならば、独白は捨ててもいいのではないでしょうか。心情を描く作品で、独白による心情垂れ流しというのはあまり評価できません。

 ただ、独白を機能させる方向性というのも確かにあるんです。タカオの独白、つまりタカオが見るユキノ像と現実のユキノのギャップを見せている可能性ですね。かわいいユキノに反して、ユキノの部屋は汚かったですしね。ただ、この作品はユキノの説明は厚いんです。汚い部屋もユキノの人物像そのものではなく、精神疾患につながります。消したメッセージを探すための対比の片割れが見えてこない。そのせいで独白の機能が中途半端になって、ちぐはぐ感が出ていました。

 山場はちょっと笑ってしまいました。私の好きな描き方ではないですが、好みに合わないというだけで表現として否定するものではないですね。減点はしていません。

 星を追う子どものレビューで、他の監督作品をオマージュするほどの力量はないというようなことを書いたと思います。この作品では、人物描写は向上してましたが、一つの作品の完成度としてみるとまだまだだったかなと思います。そもそも短編にもかかわらず、突っ込みどころのあるシーンが多すぎました。

対象年齢等:
 思春期以上ですかね。心情部分で気に入る人は多いかもしれません。感情で作品が見れる人は楽しめると思います。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 24

87.7 9 切ないアニメランキング9位
青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない(アニメ映画)

2019年6月15日
★★★★★ 4.1 (548)
2879人が棚に入れました
空と海が輝く街“藤沢"に暮らす梓川咲太は高校二年生。先輩で恋人の桜島麻衣と過ごす心躍る日常は、初恋の相手、牧ノ原翔子の出現により一変する。何故か翔子は「中学生」と「大人」がふたり存在しているのだ。やむなく翔子と一緒に住むことになった咲太は「大人翔子」に翻弄され、麻衣との関係がぎくしゃくしてしまう。そんな中、「中学生翔子」が重い病気を患っていることが判明し、咲太の傷跡が疼き始める――。

声優・キャラクター
石川界人、瀬戸麻沙美、水瀬いのり、東山奈央、種﨑敦美、内田真礼、久保ユリカ
ネタバレ

ぽ~か~ふぇいす さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

初日舞台挨拶にも行ってきました

~・~・~・~・~公開記念舞台挨拶に行ってきました~・~・~・~・~

第一希望の上映後舞台挨拶は落ちて
上映前舞台挨拶に行ってきました

上映前ということはつまり
これから見る人に向けたメッセージですから
原則ネタバレ無しということです

本当はネタバレありで面白い裏話をたくさん聞ける
上映後舞台挨拶の方が好きなのですが
まだ観ていない大多数の方にも
ネタバレなしでトークの内容をお伝えできる点は
いいかもしれませんね

原作は現在読んでいる途中で
まだ劇場版相当部分に辿り着いていませんが
映画の内容は原作の6巻と7巻にあたるようです
TVシリーズは
1巻バニーガール先輩
2巻プチデビル後輩
3巻ロジカルウィッチ
4巻シスコンアイドル
5巻おるすばん妹
までを中心に
最終話で6のエピソードを少し添える形で
青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない
という題名で放送していましたが

今回の劇場版は
6巻ゆめみる少女
7巻ハツコイ少女
の二つを
青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない
というタイトルでアニメ化しています

1~5巻がそれぞれ
麻衣、朋絵、理央、のどか、かえでの話なので
舞台挨拶に行くまではゆめみる少女という題名から
翔子がメインの話だと思っていました
しかし舞台挨拶でこれから見る人たちに向けて監督から出た言葉は
「TVシリーズはそれぞれの女の子達の話でしたが
劇場版は咲太の話です」
というもの
そして実際翔子が重要な役割を担って入るものの
咲太が自身に起きている思春期症候群を解決するため奔走する話であり
TVシリーズで少しずつ蒔いてきた伏線を
がっつり回収する構成になっています

したがってTV版見てないよ!という方は
これを観る前にTV版を見てくるか
原作小説を5巻まで読む必要があります

逆にTV版を観たのであれば
ぜひ劇場版もセットで見るべきだと思います
TV版とは独立したエピソードというよりは
TV版の完結編とでも言うべき作品なので
(原作はそこで完結せずにそのまま続いていますが)
これを見ることでTV版の評価も変わるんじゃないかと思います

一般公開前ということもあり
内容に関してのより突っ込んだ話は控えることにして
一般公開後に原作読了状態で
再び劇場に足を運ぶ予定なので
そのあとでまたレビューしようと思います

おまけ:舞台挨拶雑感(ネタバレ無し)

{netabare}監督:増井壮一

4日前まで今日が何曜日かもわからないような
忙しい生活を続けていた
ふらふらと入ったコンビニで
ちょうど青ブタコラボをやっていて
コラボ商品をぼんやり眺めながら思ったのは
「へぇ・・・青ブタ映画やるんだなぁ」

あんたがボロボロ二なりながら作ってるやつだよ!

梓川咲太役:石川界人

作品の見どころを聞かれて

「人間の限界を越えようと頑張ったけど
実際には全然できてなかった
あれは山寺宏一さんにしかできないやつだと思う」

簡単に説明するとテンションの違う二人の掛け合いを
一人芝居でこなさなきゃいけないシーンがあるんですね
実際には無理だったということなので
おそらく2度に分けて録ったのだと思います

彼は山ちゃんにしか無理と言っていましたが
君嘘フィナーレにおける朗読劇では花江夏樹が
公生と黒猫の一人芝居を見事に生で演じきっていましたよ?(・x・;

桜島麻衣役:瀬戸麻沙美

水瀬「アフレコがだいたい・・・2月くらいだったと思うんですけど」
瀬戸「あれ?3月じゃなかった」
石川「いや4月だったような気も・・・」
瀬戸「それはないよ!4月じゃ昨日じゃん!」

いや・・・昨日ではないと思うよ?
というかそこはそんなに掘り下げ必要かなw?

牧之原翔子役:水瀬いのり

事前情報の無いサプライズ登壇でした
水瀬「この後でみんながツィッターとかにあげて
私のファンが悔しがるやつですよ(にやにや)」
石川「でも、絶対欠かせない役だし、水瀬さんのイベントスケジュール確認して、サプライズ目当てでここにきてるファンもいるかもしれませんよ?」
水瀬「・・・」
司会「今日水瀬さんが来るのを予想してここに来た人っていますか?」
ぱらぱらと手が上がったのを見て、心の底から嫌そうに
水瀬「怖っ!!」

ファンにそういう態度とってるとまた換金所のババァって言われちゃうよw

思春期症候群の話になって
それぞれどんな思春期を送っていたかという質問になりました

監督:増井壮一

「高校の時は勉強とか全然してなかった
数学の二階建ての公式が覚えられなくて
こんなもの覚えて俺の将来に何の役に立つのか?
と先生に訊いたけど
『とにかく覚えろ!』しか言わないから
それ以来勉強するのをやめた」

まぁ勉強なんかしなくてもほかの手段で食べていけるなら
それはそれでいいと思いますねw

梓川咲太役:石川界人

石川「高校生くらいの頃は・・・周りに誰もいませんでしたね」
司会「それはぼっちというやつでは?」
石川「人の傷をえぐらないでください(悲)」
石川「まぁ・・・人間が嫌いでしたからね・・・」

桜島麻衣役:瀬戸麻沙美

瀬戸「高校に入って知り合いが全然いない環境になったのをきっかけに
いわゆる高校デビューってやつで
クールな一匹狼キャラになろうと思った
そういうのがカッコいいと思ってた
でも入ってすぐにクラスの子に話しかけられて
すぐ仲良くなって部活とかにも入って
全然そういう感じにならなかったw」
石川「( ゚д゚)<・・・」

一匹狼がカッコいいとか言い出した時は
石川君のフォローしてあげるのかな?
とか思ったんですが最終的には
石川君のぼっちぶりが際立つ方向にw

牧之原翔子役:水瀬いのり

水瀬「高校生くらいの頃は
大人のどこがえらいのか?
ちょっと30㎝くらい大きいだけで
なんでそんなに偉そうなのか?
オーデションに行っても
お前ら私を評価するとか何様のつもりだよ!?
って思ってました」
瀬戸「評価してもらうために自分からオーディションにきて
評価されたくないって矛盾してますねw」
水瀬「ほんとその通りですよね
まぁそれでたくさん炎上したりもしました・・・」
瀬戸「自分からほじくり返さないでいいからw」

どうやら炎上の件を多少は気にしている模様w
{/netabare}

~・~・~・~・~公開記念舞台挨拶にも行ってきました~・~・~・~・~

原作をしっかり読んだうえで初日舞台挨拶に行き
その翌日に3回目をあにこれメンバーといってきました

これでもかというくらいぎゅうぎゅうに詰め込んだ作品なので
原作からはいろいろ削られてる部分があったり
地の分の説明が無くなってわかりにくくなっているところがあったり
原作で補完してから見た方がより引き込まれる作品でした

実際初見のときより原作読んでから見た2回目の方が
一人一人の細かい心情まではっきりとわかって倍くらい泣けた
というか上映時間の半分くらい泣いてた気がします(つдT)

おまけ:舞台挨拶雑感(ネタバレ込み)

{netabare}司会(天津向)

どうも!司会のムカイオサムでーす

へー・・・天津の向って下の名前おさむだったんだね
とか思ってたら

梓川咲太役:石川界人

石川「どうも梓川咲太役の向井理です」
向「それさっきダダ滑りだったから!
  傷口に塩塗り込まないで!
  大体やったらバカウケだよって煽ったの君らでしょ!」
石川「いやー・・・面白かったですよね?」

観客に同意を求めるもまばらな拍手

向「義理の拍手すら最低限じゃん!」
瀬戸「そろそろ挨拶してもいいかしら?」
向・石川「…」

初日の映画のヒットの話になって

石川「僕いつもエゴサしてるんですけど・・・」
周りがみんなかわいそうな目で見るのを受けて
石川「エゴサ位したっていいだろぉぉぉ」
周り「・・・」
石川「エゴサして全部のツイート読むようにしてるんですけど
  #青ブタがトレンド入りして
  読んでも読んでも読み切れなくなってる
  嬉しい悲鳴」
水瀬「皆さんこれ終わった後タグ付けてつぶやけば
  もれなく石川さんに読んでもらえますよ!」

たぶん客層的にいのすけに読んでほしいオタクの方が多いと思うんだw

桜島麻衣役:瀬戸麻沙美

「初日舞台挨拶ももう4回目
朝から初日舞台挨拶してきましたが
ようやく初日なんだなぁって実感がわいてきました!」

いやもう夕方だよ!
これ最後の舞台挨拶だよ!
初日の上映終わっちゃうよ!

牧之原翔子役:水瀬いのり

「最初にタイトルを聞いたときに受けたイメージとは全然違ってすごく素敵な話だった
みんなが自分を犠牲にしてでも誰かを救いたいっていう
すごく優しい世界だった」

青ブタは本当にタイトルで損してる作品だと思う・・・

古賀 朋絵役:東山奈央

「キグルミの咲太はどういうつもりで飛び込んだのかすごく気になってます
結果的にはとってもいい結末を迎えたわけだけど
ああいう風になるって事前にはわからなかったわけじゃないですか
私の考えでは咲太はあの時代の咲太を助けて死んで
自分の心臓を翔子ちゃんにあげて
麻衣さん含めた全員を助けるつもりだったんじゃないか?
って思ってます」

なるほど・・・確かにあの結末は結果論で
最悪はねられた方の咲太に収束して
何一つ解決しない可能性もあったわけだなぁ

さすがインテリ声優目の付け所が違う!

双葉理央役:種﨑敦美

(見どころを聞かれて)
「全部が見どころ
見どころが思いつかないんじゃなくて
見どころしかないんです
私もう3回見てるんですけど
見るたびにどんどん序盤の何でもないようなシーンが好きになっていって
後半のいろんなシーンも含めて
全部が見どころだと思ってます」
・・・というようなことを
たどたどしく断片的に
あの独特の話し方でしゃべっていました
しかしそれだけ引っ張っても最後には
「踏切で最後に理央が小声で感情を吐き出すところ」
と無理やり見どころを吐かされていましたw{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 30

けみかけ さんの感想・評価

★★★★★ 4.9

この映画無くして『青ブタ』は語れない_眠れない_トロイメライ_今作に携わった全ての人達に「ありがとう」「がんばったね」「大好き」を伝えたくて(おまけ追記)

まだ記憶にも新しい2018年秋期に全13話のテレビシリーズが放送された『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』(以下、『青ブタ』)
テレビシリーズの中では紐解かれなかった主人公、梓川咲太の胸の傷の謎と咲太の初恋の相手、牧之原翔子の秘密を軸に描かれるシリーズの完結篇となる89分の劇場作品
「思春期症候群」と呼ばれる不可思議現象を発端に描かれるSF青春ドラマです
基本的にテレビシリーズ全話で張られていた全伏線の全回収でありつつ、尺の都合であらすじ等も全てカットした上で矢継ぎ早に展開が進んでいくのでテレビシリーズを最初から最後まで把握していないとさっぱり着いていけないと思います


3年前、小学4年生の牧之原翔子ちゃんは将来のスケジュールという学校の課題を書けずに思い悩んでいた…
実は翔子ちゃんは心臓移植を受けないと治らない病に侵されており、中学の卒業を待たずしてこの世を去る運命にあるのだという
3年後の12月8日、花楓の人格と記憶が元に戻る騒動が落ち着いた梓川家に来訪者が現れる
それは梓川咲太の初恋の人であり、咲太に心の支えが必要なここぞという時に現れる大人の姿をした牧之原翔子さんだった
無理矢理に梓川家に居候する翔子さんと、それを良しとしない現・彼女の桜島麻衣さんの間で火花が散る
そんな修羅場も落ち着かないまま、咲太は病院で中学生の姿の牧之原翔子ちゃんと出くわす
翔子ちゃんから幼い頃から入退院を繰り返している事や心臓移植に関する話を打ち明けてもらった咲太は、翔子ちゃんと翔子さんが同時に存在するのは翔子ちゃんの未来への不安が起こした「思春期症候群」の一種だとして解決策を模索する
やがて翔子さんは移植手術を成功させた未来からやってきた事、そしてその心臓は咲太の心臓である事が明かされていく
翔子ちゃんを救う為、咲太は自分の命を捧げるべきなのか困惑する…


テレビシリーズのレビュでも書きましたが、このシリーズは【ゼロ年代ヲタク文学の総決算】です
○○の“パクリ”と見下すことは簡単なのですが、その一言では片付けられない高尚な、ヲタク文学への愛とリスペクト、そしてSFへの昇華が込められてる作品だと思うのです
その上で今作では2010年前後に隆盛を極めた作品の要素も補完する方向にシフトしています
具体的にオイラが思い浮かべたのは『Angel Beats!』『CLANNAD』『STEINS;GATE』『アスラクライン』辺りです


また、主題に“生命の選択”や“人は何の為に生きていくのか”という普遍的な内容を孕んでいる為、今後新たに世に出てくるであろう無数の作品達と今作を比較してみるのも面白いと感じました
つい昨日も『響けユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』(「がんばったね」のくだりについて)や『ミュウツーの逆襲』や『トイストーリー4』や『ニノ国』(生命の選択や自己犠牲を美化するか否か)に絡めて『青ブタ』の方が上手く纏められてるのでは?とか、そんな話ばっかをぽ~か~さん達と話してましたw
アニメだと自己犠牲って美談として描かれがちですが、冷静に考えて17歳の少年が自分の命を捧げる、なんて事が良い話なわけがない
クライマックスまで観ていただければお解りの通り、今作は自己犠牲を否定する作品なんです


もちろん本編の全体の出来栄えがとにかく素晴らしい
ざっくり言って“お涙頂戴モノ”ですのでハッキリと苦手な人の方が多い内容だとは思います
でも面白くなかったらオイラだって計11回も劇場に足を運びませんからねw
人生で一番多くリピートした映画になりましたよ
テレビシリーズから順当に考えると今作は“翔子のお当番回”と考えたくなりますが、これまでもヒロイン達を救う為に必死になってきた咲太が、遂には翔子の為に自らの命を捧げなければいけない、とまでに追い詰められます
そしてこの絶体絶命の咲太の助けとなるのがテレビシリーズで咲太に助けられたヒロイン1人1人だというのがアツい
この辺のくだりは涙を誘う展開と熱量を感じる展開が交互に繰り返されて非常に滾るものがあります
そして広い意味で今作をもってしてシリーズ全体の“咲太の物語”に一区切りが着くことに気付くと思います
咲太を演じた石川界人さんは今作を持ってして完結とするのが一番幕引きに相応しいのでは?と、今後続篇があるとは思っていないようです


それにしてもこれほどの内容を89分に纏め上げた横谷さんの脚本力、それをテレビシリーズ終了から僅か5ヶ月弱で実現した増井監督率いるスタッフの手腕、そしてキャストによる渾身の演技、どれも大変素晴らしいです
先日、スタッフトークショーに参加してきましたが89分という尺は予算の都合上の絶対条件だったそうです、本当にお疲れ様でした
逆に濃密に内容が詰まったテンポ感こそ『青ブタ』だと思うのでこの選択は結果的に正解だと思いますb
最近、アニメ映画にタレントキャストは必要なのか?という話題を度々目にしますが、逆に考えればプロ声優の底力を感じる映画こそがこの『青ブタ』なんだとも思いますね
それにテレビシリーズからこんなにも早期に映画化の企画が為されたにも関わらず、キチンとした作品を完成させたことは本当に賞賛されるべきことだと感じます
完成が遅れて延期に次ぐ延期とか、そもそも企画された枠の中に納まらずお蔵入りとか、完成したものが極端に低クオリティ…とかいう作品も蔓延っているのが現代のアニメ業界の現実ですからね


唯一失敗と言える事を強いて挙げるのであれば、テレビシリーズ放送前から映画化が決まってたので作品人気の度合いが計り知れず、ファーストランの上映館が経ったの31館しか稼げなかった事でしょうか
おかげで連日満員、入場特典はおろかパンフすら瞬殺
あんなバズり方をするアニメ映画は至極久々です


ところで『青ブタ』の場合、テレビシリーズから一貫していた内容を短い尺に詰め込むことや、音を減らしてセリフを聴かせる、といった演出類が“映画だから”と奇をてらわずに実行されてるのが褒め称えたい
特にエンドロールでいつも通りのエンディングテーマ『不可思議のカルテ』で締め括るというのが感無量


オイラの一番お気に入りのシーケンスは12月31日の晩、ICUの前で寝てしまう咲太がこれまでの全ての出来事が走馬灯のように振り返えられていくフラッシュバックで時間が巻き戻る様を表現したカットですね
あの場面に合わせて作った、というfox capture planのBGMのピアノリバースがバッチリとハマっているのが気持ち良いです


正直いまは何の映画やアニメを観ても『青ブタ』との対比になってしまうwという我ながらメンドクサイ状態に陥っていますw
それほど今作を心の底から好きになれているのです
とにかくいま言いたいことを要約すると、今作に携わった全ての人達に
「ありがとう」
「がんばったね」
「大好き」
を伝えたい
これに尽きると思います


はなまる頂けましたかな?w


【おまけで追記】
双葉の髪型がポニーテールとナチュラルロングが日によって変わっていることに気付いた方もいると思います
何か法則があるのかと思い、テレビシリーズ含め"双葉の髪型のみ"を注視して鑑賞した結果を報告します
ずばり日付の末尾が奇数か偶数かで交代してることに気付きました!
…なんだそれだけかって?
基本的に日付の末尾が奇数だとナチュラルロング、偶数だとポニーテールになってました
これはテレビシリーズ8話で2人の双葉が融合した後の9月1日以降、両方の双葉がお互いを尊重し合っている、というメタファーなのでは?と受け取ってます
もちろん髪型以外の性格描写には変化は見受けられません
ちなみに映画劇中で咲太が「大人の梅ソーダ」を呑んだ際に一度リセットされ、奇数日がポニーテール、偶数日がナチュラルロングになってます
その後の大晦日から年明けに掛けて再リセットが起こり、ラストシークエンスの1月6日、つまり偶数日にはポニーテールに戻っています
何が言いたいのかって?
どっちも可愛いので両方交互に出て来てお得感凄い!制作スタッフGJ!って話がしたいだけですよw


【備忘録】
新宿バルト9で5回、川崎チネチッタLIVE ZOUNDで1回、川崎チネチッタ5番スクリーンで1回、ユナイテッドシネマアクアシティお台場で2回、EJアニメシアター新宿で2回、下北沢トリウッドで1回、立川シネマシティ シネマツーcスタ極上音響上映で1回
合計13回劇場で観て名実共に最も映画館でリピートしてる映画です
スタッフトークショーの増井監督、キャラデの田村さん、木田Pのサイン色紙持ってます

投稿 : 2024/05/04
♥ : 31
ネタバレ

シン☆ジ さんの感想・評価

★★★★★ 4.4

うん。。感動できれば何だってアリだと思う

 
原作は累計発行部数100名万部を超える人気小説”青春ブタ野郎”シリーズ。

TVシリーズを視聴して1年くらい経つかな。
あんまり内容を覚えていなかった・・

あれ、こんなヤサ男っぽい主人公だっけ・・

■設定
~{netabare}
思春期症候群というナゾ症状で、あり得そうにない出来事があり得るようになっている世界。TV版本編で量子力学とか相対性理恵論とかを持ち出して、あり得る感は出していたけど、煙に巻かれた感はある。でも今日びそこを突っ込んでもしゃーないのでw
{/netabare}~

■エピソード
やはりキーとなるのは翔子。
咲太との関係、咲太の胸の傷・・
そうだったんだ・・

よもやよもや・・

~{netabare}
咲太の心臓が翔子に移植されていたとは・・

ドナーカードを持っていたからって知り合いに優先して臓器を提供するとは限らないのでは・・奇跡的にという言葉は使っていたけれど・・などと突っ込むのはやめときますw

咲太の身代わりに、自分が身を投げ出す麻衣。
これ、やられて生き残った方は、たまったもんじゃない。
一生、それを引きずるでしょや。

でも・・咲太はそれを彼女にしようとしていた。
やられてみて気付くんじゃ?
自分がどれだけ彼女に酷いことをしようとしていたか。

でも・・彼女が望んだ事なら、喜ぶべきなんだろう・・か。
どっちが幸せなのか・・

自分が犠牲になって、後悔を一生背負わせるか、
自分が助かって、それを自分が背負うか・・

自分は・・前者を選びたい。
後悔を背負って生きていくのは辛過ぎるから。
究極のエゴかも知れませんけどね・・

過去をやり直した結果・・・
翔子も、咲太も、麻衣も死なず、
翔子と咲太は思春期症候群を発症しなかった。

でも咲太は翔子と浜辺で出会う夢を見て、峰ケ原高校に入ったんでしょう。
麻衣は、思春期症候群を発症して、バニーガールの格好をして・・

ラストの走馬灯のように流れたシーンは、思い出したのではなく、同じことを経験したということでしょうね。

咲太も翔子も同じ夢を見ているわけだから、お互いの名前を知っていてもおかしくないってことか。
{/netabare}~

ラストは賛否ありそうですが、自分は”どっちかといえば”、否かな・・
なぜならば、その後の出逢いと展開を『夢見させて』欲しかったから。

さて・・
ここでタイトルの考察をば。
~{netabare}
『夢を見ない』という言葉は何を現しているか・・・
夢を見るということは、別の世界線でその経験をしているということ。
つまり、夢を見ないということは・・別の世界線ではなく、この世界線でその経験をしているということ?
となれば・・

「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」
 ⇒ 咲太がバニーガール先輩と出会う世界の話

「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」
 ⇒ 咲太がゆめみない翔子と出会う世界の話?

あれ、なんか違うかなw
原作読めばわかるのかな ^^;
{/netabare}~


 原作:KADOKAWAの小説
 発行:2014年
 制作:CloverWorks
  そっか、冴えカノと同じだった。
 TV版放送 :2018年10月
 劇場版公開 :2019年6月
 視聴:2020年11月 DVDレンタル

■キャラ/キャスト
主要キャラの命名はサービスエリアから。
~{netabare}
梓川咲太:石川界人
 主人公。普通だと二枚目サブキャラっぽい外見。
 え、なに携帯ないの?と思ったけど
 本編を観なおしたら・・
 妹のためにスマホを海に捨てたんでした。
 石川さんは安定の演技。
 お陰でバリ感情移入できました。

桜島麻衣:瀬戸麻沙美
 ヒロイン。主人公の彼女。
 こんな彼女とこんな交際、うらやま・・
 全く、作太の青春ブタ野郎めww
 青い春をむさぼり過ぎw
 瀬戸さんといえば、ちはやふる。
 さすがのメインヒロインでした。

牧之原翔子:水瀬いのり
 中学生と大人が存在するサブヒロイン。
 水瀬さん・・
 人気だけじゃない実力。
 一人二役も全然違和感ないし良かったです。

双葉理央:種﨑敦美
 冷静沈着な科学部の理系女子。
 主人公を「青春ブタ野郎」と命名した人物。
 種崎さん・・・
 異世界魔王(クルム)、
 モンスター娘のお医者さん(スカディ)、
 魔法使いの嫁(チセ)、
 宝石の国(ネプチュナイト)、
 そして・・
 ユーフォ(鎧塚みぞれ)、
 特にユーフォ外伝は惚れそうでした ^^;

古賀朋絵:東山奈央
 主人公と同じファミレスでバイトする後輩。
 焦ったり興奮したりすると博多弁が出る。
 キャラ的にはかぐや様のチカに近いかな。
 登場人物の中ではイチ推しキャラです。
 東山さん・・特に笑う声が刺さります ^^

豊浜のどか:内田真礼
 ヒロイン麻衣の異母妹でアイドル。
 まれいたそ・・
 出演作紹介はありすぎて断念w
 でも特に、はめふらは印象的でした。

梓川花楓:久保ユリカ
 主人公の妹。
 本編を観直して思い出した・・
 本作では「かえで」ではなく「花楓」のほう。
 なのでキャラ評価はマイナスw
 久保さん・・
 ラブライブ(小泉花陽)、
 モン娘(ティオニシア)、
 あまんちゅ!(ちゃ顧問)、
 ダンまち(ロキ)、
 少女終末旅行(ユーリ)!、
 今後ともお世話になりそう ^^

{/netabare}~

自分の中では、まごうことなき、名作。

本作を観た後、TV版を観直し、また本作を観直しましたw
 

投稿 : 2024/05/04
♥ : 30

72.5 10 切ないアニメランキング10位
planetarian ~星の人~(アニメ映画)

2016年9月3日
★★★★☆ 3.9 (373)
1897人が棚に入れました
始まりは、どこかの国が放った遺伝子細菌兵器であった。やがて、その報復として核弾頭が使われ終わりのない世界大戦がはじまった。地上では星すら見えなくなり、雨が降り続く世界へと変わっていった。滅びゆく世界の中、空から降り続ける雨は、気が付けば雪へと変わり人々の暮らしは地下へと移っていった。
かつて貴重物資を回収することを生業とし“屑屋”と名乗っていた男は、若いころあることがきっかけで、多くの人々に星の素晴らしさを伝えるようになり、訪れる集落で星の世界を語り継いでいった。いつしか人々は彼のことを“星の人”と呼び、敬うようになった。そんな彼は、ただ一つの“心残り”を持ちながら、世界を旅していたが、志半ばにして行き倒れてしまう。
一方、地下集落に住むレビ、ヨブ、ルツは外の世界に興味津々。大人たちに隠れて、地下の集落から抜け出て外の世界を探索していた。降り積もる雪の世界の中で興奮冷めやらぬ中、三人は埋もれていた一人の老人を発見する。
彼は、三人に助けられて、無事一命をとりとめた。そして、村の長エズラと話をしていく中で、彼が星の人と分かり歓迎されることになる。
「あなたを歓迎します、星の人」

無邪気に話しかけてくる、レビ、ヨブ、ルツ。三人と話していくうちに、若いころ自身が訪れた【封印都市】のことを思いだしていった。そこは、世界大戦初期の遺伝子細菌兵器の影響で、人々から放棄された街。彼は、まだ見ぬお宝を求めて、探索していた最中、追跡していく戦闘機械(メンシェン・イェーガー)から逃れて、デパートのプラネタリウムに迷い込んだのだった。
そんな彼の前に、一人のロボットの少女が現れた―。

「プラネタリウムはいかがでしょう。どんな時も決して消えることのない、美しい無窮のきらめき……。満天の星々がみなさまをお待ちしています」

星すら見えなくなった滅びゆく世界で、彼は何を見たのか。

一人の男が生涯を賭して旅する中で、出会ったものとは ― 。

声優・キャラクター
すずきけいこ、小野大輔、櫛田泰道、滝知史、佐藤利奈、篠塚勝、福沙奈恵、日笠陽子、津田美波、石上静香、桑原由気、竹口安芸子、大木民夫
ネタバレ

oneandonly さんの感想・評価

★★★★☆ 3.1

人生は思い通りにいかず儚いものであるということだろうか

世界観:5
ストーリー:4
リアリティ:4
キャラクター:5
情感:6
合計:24

<あらすじ>
始まりは、どこかの国が放った遺伝子細菌兵器であった。やがて、その報復として核弾頭が使われ終わりのない世界大戦がはじまった。地上では星すら見えなくなり、雨が降り続く世界へと変わっていった。滅びゆく世界の中、空から降り続ける雨は、気が付けば雪へと変わり人々の暮らしは地下へと移っていった。
かつて貴重物資を回収することを生業とし“屑屋”と名乗っていた男は、若いころあることがきっかけで、多くの人々に星の素晴らしさを伝えるようになり、訪れる集落で星の世界を語り継いでいった。いつしか人々は彼のことを“星の人”と呼び、敬うようになった。そんな彼は、ただ一つの“心残り”を持ちながら、世界を旅していたが、志半ばにして行き倒れてしまう。
一方、地下集落に住むレビ、ヨブ、ルツは外の世界に興味津々。大人たちに隠れて、地下の集落から抜け出て外の世界を探索していた。降り積もる雪の世界の中で興奮冷めやらぬ中、三人は埋もれていた一人の老人を発見する。
彼は、三人に助けられて、無事一命をとりとめた。そして、村の長エズラと話をしていく中で、彼が星の人と分かり歓迎されることになる。
(公式サイトより)


Webアニメ(ちいさなほしのゆめ)の続編ということで引き続き視聴しました。
そちらを先に見たため、総集編的な作画の使い回しが多い(ほとんど2度目の視聴をしたようなもの)のは気になります。飛ばしたかったのですが、違いがあるかもしれないと思い、全て視聴しました。プラネタリウム解説の部分はやはりいいですね!

多くのプラネタリウムでは既に録音放送となっていて、前回はそれをAIロボットにさせる意義があるのかについて若干疑問に思っていたのですが、可愛らしい容姿で、動いて、イレギュラーな対応もしてくれて、入り口でマスコット的対応もしてくれるのはなかなか効果的だと思うようになりました。

さて、以下、辛口コメントになります(好きな方には申し訳ございません)。
老人は{netabare}やはり前作の主人公(屑屋)でしたね。しかし、容姿はもちろん、声や口調がかなり変わってしまっていて、同一人物として見るのに抵抗ありました(どこかのシーンで一人称が「わたし」ではなく「俺」となっていた所は良かった)。途中のエピソードも入れてもらいたかったです。

主人公が老人になっている時代において、プラネタリウムの技術を持つ人は主人公だけのようでしたが、「星の人」とまで言わせるほどに、それを生業にすることはできるのでしょうか(しかも、プラネタリウムを投影するための暗幕すら持っていない?)。また、本当の星空を知らない人が多くなっていく中、その投影に「綺麗」という以外の付加価値を感じられる人がどれだけいるでしょうか。星の見える世界を生きている我々でさえ、星空を見たい欲求は(たとえ、見られなくなったとしても)、そこまで大きいと感じないのが実際のところかと。

このあたりの世界設定は、前作に増して、あまり考えられているように思えませんでした。また、主人公の後継者を見つけたいという思いは理解できるものの、子供たちが星の人になりたいと言うことに共感できず、主人公たちが目指したい方向に気持ちが寄り添えませんでした(むしろ、大人たちの反応が当然である)。

最後の妄想?による再会シーン、感動的ではあるのですが、この物語の締め括り方としては至極残念。物語主義者から見れば夢オチみたいなものです。ゆめみから抜いたメモリーカードを、外見が違っても(ゆめみと同タイプの躯体があったとすればいいだけの話。元々ベタなのだから、ここはベタでいかなきゃ)、自動人形に差し込んで、現実世界で再会するシーンが見たかったし、そのために見ていたといっても過言ではなかったので。

自動人形を見つけてから、メモリーカードを挿し、ゆめみが起動し、その言動を子供たちも見て、星の人を継承する、という流れまでやるのは尺もかかりますが、Webアニメの再放送に使った時間を圧縮すればできなくはなかったはずです。

耳のスロットを確かめようとするシーンまで描いているので、もしかしたら、上記展開を望む人に向けて、人生(物語)は意外性をもって終わるということを表現したかったのかもしれませんが…。

あと、女神様が老人の枕元で祈りを捧げていたのは、なぜなのでしょうか。その動作理由が不明です。子供たちは星の人を継ぐと宣言しますが、投影機の使い方や星座にまつわる神話等の説明に関する知識のない彼らに何が継承できるのでしょうか。{/netabare}

とりあえず、全部見たい人にWebアニメ版は視聴不要。本作だけ見ればよいですが、上記の不満点が大きかったので、おすすめはしないです。

(参考評価:3.1)
(視聴2020.6)

投稿 : 2024/05/04
♥ : 12
ネタバレ

ブリキ男 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

星の人の物語は続いていく‥

かつて屑屋を名乗り、やがて星の人と呼ばれる様になった老人の、長い旅の果てに辿り着いた終着点、ある集落での出来事、※1ヨブ、レビ、ルツ、3人の子供との交流を老人の回想を交えて描きます。

物語には新しく加えられたカットも多数有りますが、回想シーンが多くを占めていますので、完全な新作を期待するなら、すでに「Planetarian~ちいさなほしのゆめ~」を視聴済みの人にとっては物足りなく感じるかも知れません。

私はというと、前もって予告編に目を通していたので、総集編+という内容になるのかな? という気構えが出来ており、抵抗無く視聴する事が出来ました。「ちいさなほしのゆめ」の内容がほぼ全て収録されていますので、この作品に初めて触れる方はこちらから入っても良いかも知れません。

上映時間2時間程の内、約1/3だけが追加カットになります。なので続編や新作としてでなく、新編集版、ディレクターズカットとしての視聴をお勧めします。

物語の舞台は「ちいさなほしのゆめ」の終幕から40~50年後の世界。冒頭の子供達3人組が登場するシーン、教会の地下シェルターを中心に作られた集落で生きる朗らかな人々の描写からして、物語の雰囲気は過去パート-ちいさなほしのゆめ-にある荒涼とした無人都市にたった二人という、寂しげなものとは大きく異なります。

そんななので現在パートの方は、見方によってはジブリ作品とか世界名作劇場の一場面を見ているかの様な、穏やかな空気に満たされている印象を受けました。登場人物も増えていますので「ちいさなほしのゆめ」ではほんの少ししか触れられていなかった世界の現状や、そんな世界の中で希望の見出せない、変遷していく人々の心についても、僅かながらですが情報の開示がありました。「ちいさなほしのゆめ」の世界観を補完する側面も持ち合わせている作品なのではないかと思います。

人にせよ、ロボットにせよ、いつかは死に、壊れていくもの、消えていく命が後に残る者に何かを託すという事、子供を残したり、物を作ったりするという事だけじゃなく、言葉によって、関わりによって知識を残すという事、それも命を残すという事。

この作品では、そうやって脈々と受け継がれる命のリレーの中に、人もモノもない交ぜになって紡がれていくという、そんな当たり前の世の理を、殺伐と絶望ではなく、静けさと希望をもって優しく描いている様に感じました。その語りかけは深く心に染み入るものでした。

願わくば遠い未来のお話、いずれ自分が命を失う時、誰かに何かを渡して、笑って死んでいければなと、そんな感慨に耽ってしまうブリキ男なのでした。


※1:旧約聖書に含まれる書の題に見られる名。作中にはエズラ、エレミヤの名も確認出来ます。いずれも預言者や祭司などの名を指します。こういった名付けは、彼等の住んでいるシェルターの上に教会があるという事に起因しているものと思われます。

※2:作中には人間以外の動物が登場しません。絶滅してしまったのでしょうか? でも動物が天国に行けなかったらと思うと寂しい気がします‥。本作ではロボットのゆめみさんを通して、人間にのみに与えられるというキリスト教の天国の概念に対して、問いを投げ掛けている様にも感じました。

{netabare}
終幕近くの星の人の台詞「例の門、二つじゃないだろうな?」
この一言から、屑屋さんがゆめみさんの事を生涯愛し続けていた事がはっきりと伝わってきました。‥泣くしかないですね。

物語終了後のスタッフロール、宇宙(そら)を飛ぶソーラーセイルはどこへ向かうのでしょう、速度を速めたり遅めたり、明るくなったり暗くなったり、延々と続く命の輝きを象徴しているかの様にも思えました。
{/netabare}

久しぶりに映画鑑賞した感想
{netabare}
今回劇場に足を運ぶに際して、予め(初めて)ムービーチケットというものを購入しておきました。普通の前売り券として使えますが、加えてネット上から視聴席の予約が出来るというスグレモノ。でも劇場によっては上記のネット予約が出来ないとの事、私の住んでる近所の映画館ではそれが無理だったので、ただの前売り券と化しました。でもムービーチケットは普通の前売り券と違ってカード型、ゆめみさんカードもらえたので少し得した気分でした。

上映中に奏でられる音楽は全て素晴らしいものでしたが、シオマネキの杭打ち機のアスファルトを突き破る音、レールガンの轟音は強烈でした。屑屋さんの感じたであろう耳鳴りも観客の私にそのままの形で伝わって来ました。家でのほほんとアニメを見る事が好きな私にとっては、良いのか悪いのか、若干の緊張感を覚えました。映画館での視聴を予定している人は覚悟すべし(笑)
{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 32

イムラ さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0

星とAIと浜松と

<2018/11/18 初投稿>
原作はゲームらしいですね。

keyのアニメは根本的に自分と合わないようなのですが、本作は完走できました。
珍しい作品です。

keyが苦手な自分がなぜ見始め、なぜ完走できたか

・星やプラネタリウムが好きだから見始めました
・よく知ってる場所が出てきたので見続けられました
・シナリオが落ち着いてて良い感じだったので完走できました

核や細菌兵器かな、などが使用された戦争により荒廃した地球が舞台。

おかげさまで、常に空は分厚い雲で覆われ、
寒冷化が進み、
シェルターの外はマスクなしでは生きられない、
ナウシカの世界より住みにくそうな世界になってます。

当然、星空なんか見えない。
つまりそこに生きる人々は
「星空なんて見たことないから知らない」

そんな世界のお話です。


というわけで気になったポイントを二つほど

まずは「よく知ってる場所」のことからです。
予備知識無しにボーッと見てたら「封印都市」のシーン。

あれ?これ、アクトシティだよね。
これは松菱デパート?
市街戦もこれはどう見ても「浜松市」の駅そばだ!
テンション上がりましたよー。
だって私、浜松出身ですから。

浜松って特筆するようなもんが鰻と餃子くらいしかない地味な街なんで、まさか映像作品に使われるとわっ!

でもよくよく考えたら、枯れて寂れた「封印都市」にぴったりのロケーションかもしれません。
だって全く盛らずに現実のまんまでも十分に枯れて寂れてるし 笑。
人口は60万くらいいるはずなのに豪勢に再開発されたはずの浜松駅周辺の寂れっぷりはなかなかのもんですよ。

評点は浜松補正で少し高めです 笑


もう一つはAI

「自我を持つ一歩前のAI搭載ロボ」という今の時代にマッチしたテーマを扱ってます。

昨今のAIブームの前から様々な映像作品で「自我を獲得したAI」が描かれてます。
ですが、「その一歩手前のAI」を取り上げ上手く物語にした作品は意外と少ない。
そんなところが気に入ってしまいました。

ほしのゆめみというゆるキャラみたいな名前の自立型の案内ロボが出てきます。

お客さんの質問や要望に都度応える学習機能付きの人型チャットボット。
チャットボットとしては今実用化されてるものよりちょっと高性能な感じ。
なので明確な自我はありません。
ロボとしては人間そっくりの外観と挙動で、現在より格段に高いレベルにあります。
これが本作のヒロイン。

封印都市で半ば朽ち果てたプラネタリウムに配置されたままほったらかしにされてました。
何十年も放置されてたせいか壊れかけ。

主人公はこの壊れかけのRadioなゆめみさんと出逢います。

今、AI業界は機械学習の面で大幅な飛躍を遂げました。
データを与えると自分で考える機能のこと。
でも人間のような自我を獲得するにはまだまだ道のりは遠いようです。
そこで自我を持つAIの前に「意味を理解するAI」の開発が必要とか言われてるそうですが、これが猛烈に大変らしい。
10年や20年のスケールじゃ無理なんじゃないのという声もあるそうです。
(つか、「意味を理解できたら自我の獲得と殆ど同義なのでは?」と私なんかは思ってしまうのですが。)

ゆめみさんはまだ「物の意味を理解する」能力までは獲得していないようです。
ですがその一歩手前ぐらいまで行っている感じ。
主人公が求めるものを必死に理解しようとしてるようにも見えます。

そんなゆみめさんと触れ合ううちに主人公はゆめみさんに「自我」のようなものを感じてしまったようです。
チューリングテストのように。

そんな二人のやりとりが物語になっていくわけですが・・・



不満もあります。

正直言えばキャラデザイン苦手ですし。
シナリオも後半はちょっと冗長。
最後の方はしっくりとはきませんでした。

でも、
チャレンジングなテーマで、
上手くまとまっていて、
ちょっと心に残る。

そんな良作だと思います。

<2018/11/18 追記>
主人公の声を大木民夫さんが演じられてたのを思い出しました。
昨年他界された名優です。
それこそ数えきれない数の役を演じらた名バイプレイヤーでしたが、個人的には「灰羽連盟」の「話師(わし)」役が心に残ってます。
本作、大木さんの主役でしかも遺作というだけでも作品の価値が上がってると思います。
なので評価値を引き上げました。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 50

85.7 11 切ないアニメランキング11位
リズと青い鳥(アニメ映画)

2018年4月21日
★★★★★ 4.1 (551)
2290人が棚に入れました
北宇治高等学校吹奏楽部でオーボエを担当している鎧塚みぞれと、フルートを担当している傘木希美。

高校三年生、二人の最後のコンクール。
その自由曲に選ばれた「リズと青い鳥」にはオーボエとフルートが掛け合うソロがあった。

「なんだかこの曲、わたしたちみたい」

屈託もなくそう言ってソロを嬉しそうに吹く希美と、希美と過ごす日々に幸せを感じつつも終わりが近づくことを恐れるみぞれ。

親友のはずの二人。
しかしオーボエとフルートのソロは上手くかみ合わず、距離を感じさせるものだった。

声優・キャラクター
種﨑敦美、東山奈央、藤村鼓乃美、山岡ゆり、杉浦しおり、黒沢ともよ、朝井彩加、豊田萌絵、安済知佳、桑島法子、中村悠一、櫻井孝宏
ネタバレ

キャポックちゃん さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

優しく繊細に描かれた人生のアイロニー

(末尾に【追記】を加えました)

【総合評価:☆☆☆☆☆】
 高校の吹奏楽部で、それぞれオーボエとフルートを担当するみぞれと希美。ふたりは(一見)とても仲が良い。しかし、コンクールで演奏する自由曲「リズと青い鳥」での掛け合いが、どうもしっくりしない。その原因はどこにあるのか…?
 アニメ『リズと青い鳥』は、青春期の戸惑いや心の揺らぎを、優しく繊細に描き出す。声高な主張はない。わずかな仕草や言い淀んだ沈黙を通じて少しずつ明かされる真実は、切なくやるせなく、人生は見かけ通りではないというアイロニーを感じさせる。

【みぞれと希美】
 みぞれはひどく内向的で他者とのかかわりを避け、めったに感情を表さない。一方の希美は外向的でいつも取り巻きに囲まれ、感情豊かに会話する。表面だけ見ると、人付き合いが苦手で立場の弱いみぞれが、希美に庇護されているようでもある。しかし、制作した京都アニメーションのアニメーターたちは、そんな単純な関係でないことを画面にきちんと描き込んでいる。
 作品冒頭、みぞれと希美が校門から部室へと向かうシーン。石段の上で青い羽根を見つけた希美は、太陽にかざして「わっ何これ。めっちゃ青い。きれい!」と声を上げ、「あげるよ」とみぞれに差し出す。みぞれは、ぼおっとした表情のまま「ありがと」と微かに語尾を上げて受け取り、「なんで疑問形?」と突っ込まれる。二人の関係性が凝縮され、見ているだけで切なくなる名シーンである。
 そのまま先に立ってずんずんと進み、軽くターンしてから一段飛ばしで階段を上る希美は、常にどう見られているかを意識し自分を演出する。一方、希美の行為をなぞりながら数メートル後ろを付いて行くみぞれの姿は、外界との距離感を確認しつつ慎重に立ち位置を見定めているようだ。希美にとってのみぞれは、自分の演技を見つめる観客の一人。みぞれにとっての希美は、外界とのつながり方を示す唯一の指標で、それ故に強い思慕の対象でもある。相手への思いに、「親友未満」と「親友以上」という格差がある。
 もっとも、みぞれが頼りないのは外面だけ。{netabare}そのことを示すのが、中盤でみぞれが独りオーボエを練習する場面から始まる(私好みの)シークエンス。オーボエ担当の後輩が「ダブルリードの会(吹奏楽部に4人しかいないダブルリード楽器担当者の茶話会)」に誘っても、「わたしが行っても楽しくないから」とすげない返事。確かに、みぞれが希美のように「朝ご飯に何を食べるか」といったテーマで会話を弾ませる姿は、想像もつかない。ところが、同じ後輩がリードを自作するみぞれに「あたしにもできますかね~」と擦り寄ると、すぐに「今度教える」と答えて、後輩を感激のあまり泣かせる(後輩が何か言うのだが、涙声で聞き取れない…)。
 みぞれは、社会のさまざまな側面に対して適切に対応する柔軟性を欠き、そのせいでいかにも頼りない。しかし、自分には何ができるかをはっきり自覚しており、役割を果たせるとわかれば能動的に行動する。
 これに対して、希美は多くの後輩に慕われ楽しげに振る舞うものの、明確な上下関係が生み出す雰囲気を好んでいるだけで、その言動はあまり主体性を感じさせない。みぞれとの付き合いも、そうした上下関係の一つと捉えているようだ。みぞれをプールに連れて行こうとしたとき、「ほかの子も誘っていい?」と予想外の返答をされ、心底驚いた表情を隠せなかった(映像では、人が前を横切った瞬間に取り繕う)。他の同期生とは対等な会話を避けており、みぞれとの件で部長に責められたときには、まともに返答できない。{/netabare}精神の内奥においては、みぞれの方が希美よりも遙かに勁(つよ)い。
 {netabare}希美の弱さが表に現れるのは、木管楽器の指導者がみぞれだけに音大のパンフレットを渡したと知ってから。音大進学を表明したものの強い決意があったわけではなく、周囲にふと「あたしさぁ、本当に音大行きたいのかな」と問わず語りに口にする。主役のつもりで演じていたのに、スポットライトが傍らを通り過ぎただけと気が付いた---そんな役者を思わせる情けなさそうな表情で。何度見ても、私はこのシーンで泣いてしまう。泣かせるシーンではないのに。{/netabare}

【人生のアイロニー】
 物語が進むにつれて、みぞれと希美の間のひずみはしだいに大きくなる。一見、とても仲が良さそうなのに、相手に対する思いのベクトルは微妙にすれ違う。社交的な希美が孤立したみぞれを庇護しているようで、精神の強靱さも気遣ってくれる友人の数も、希美よりみぞれの方がずっと上である。こうした外見と内実の乖離が前提となって、クライマックスの演奏シーンが強烈なエモーションを生み出す。
 この作品は、人生のアイロニーを強く感じさせる。アイロニーとは、表面的な意味と隠された内実が相反することを表す用語で、主に物語芸術に関して、登場人物の認識と現実の状況が食い違う場合に使われる。例えば、ギリシャ悲劇『オイディプス王』では、己を正義だと信じるオイディプスが前王殺害の真相を追究するうちに、真犯人が誰で自分は誰と結婚したのかという恐るべき事実を突きつけられる。まさに悲劇的アイロニーの極北である。『リズと青い鳥』も、これに似たアイロニカルな状況を描いた作品である。ただし、ギリシャ悲劇のように深刻なカタストロフはない。現実の人生でごくふつうに起こり得る、ささやかなアイロニーである。そんな事態を前にして、人は寂しそうに笑うしかない。

 ところで、この物語の後、みぞれと希美はどうなるのだろうか?{netabare}アニメのラストはハッピーエンドと呼んで良いものだが、二人の性格と置かれた状況を考えると、幸せな状態がいつまでも続くとは思えない。みぞれが「ハッピー・アイスクリーム!」と声を上げたときも、希美はそれがゲームだと気づかない。親友同士のように振る舞いながら、互いに相手のことをよく理解していない状況は、大して変わっていないのである。想像するに、それぞれ別の大学に進学して疎遠になり、その後の人生ラインが交わることは、もはやないだろう。もっとも、それは必ずしも悲しむべきことではない。人生の一時期に、生涯の宝となる貴重な体験をしたという事実は揺るがないのだから。{/netabare}

【アニメにおける人間描写】
 『リズと青い鳥』は、みぞれと希美の内面を深くえぐった心理劇である。アニメは、小説や演劇に比べて心理描写に向かないメディアだと見なす人もいるが、そんなことはない。むしろ、言語による抽象的な観念に束縛される小説や、生身の俳優が持ち込む身体性を排除できない演劇に比べて、純粋に心理だけを描き出せるメディアである。
 アニメの強みは、個人が創作する小説などと異なり、人間が持つさまざまな側面を、各分野の専門的なクリエーターが磨き上げられる点にある。私は、プルーストやヴァージニア・ウルフの心理描写が好きだが、それでもこんなアニメを見せつけられると、言語表現の限界にいやでも気づかされる。クライマックスの演奏後にみぞれと希美が行う対話を使って説明しよう。
 台詞は、言語に対して鋭い感性を持つ脚本家が彫琢する。{netabare}希美は、妙に冷めた見方でこれまでの経緯を振り返り、「違う」「希美」と言葉を挟むみぞれを無視して話を続けるが、途中でみぞれが強い語調で「聞いて!」と遮り、思いの丈を語り始める。「希美の笑い声が好き、希美の話し方が好き、希美の足音が好き、希美の髪が好き、希美の…希美の全部」。希美がそれに応えるように「みぞれのオーボエが好き」。{/netabare}
 声優は、台本だけではわからないニュアンスを言葉に付け加える。過去を振り返る際の、冷静さを装いながら端々に心のざわめきが現れる希美の口調。一方のみぞれは、口数が少なく自分の内面を説明しないが、かすれそうでかすれない口吻は、意外と粘り強い性格を感じさせる。
 劇伴となる音楽も、心理描写に欠かせない。対話シーンでは、当初、バックで音楽が鳴っていることにほとんど気づけないほどかすかな音の連なりが続くが、少しずつ明瞭になり、ほんのわずかな期間、明るく心躍るメロディを奏でたかと思うと、次の瞬間にはスッと消える。まるで、いつも揺らいでいる少女の心のように。
 何よりも素晴らしいのが、表情や仕草に魂を込めた作画。それまで意図的にこしらえた微笑ばかり見せていた希美なのに、ここでは視線が定まらない。一方のみぞれは、まっすぐに希美を見つめる。{netabare}「大好きのハグ」をするときの、二人の手の位置、体の傾げ方、そして、感極まったようなみぞれとどこか曖昧な表情を浮かべる希美の対比。そのすべてが、二人の心の内を照らし出す。{/netabare}
 『リズと青い鳥』は、静謐なアニメだ。長広舌よりも途切れた言葉、目的を持った行動よりもちょっとした仕草の表現が素晴らしい。例えば、希美にもらった青い羽根を、みぞれが両手で包み込んで口元に寄せるシーンのような。シャープペンの持ち方、髪のいじり方、地面を蹴るときの足の動き---そんな些細な描写にも、アニメーターの思いが籠もる。
 アニメとは、間違いなく、日常の奥深さを描けるメディアである。

【監督・山田尚子】
 当然のことながら、アニメの人間描写が優れたものになるには、スタッフの意思が統一されていなければならない。そのために重要なのは、中心的なリーダーの存在である。アニメの場合、通常は監督がリーダーとなり、スタッフと綿密な打ち合わせをすることで、作品世界を明確に設定し、人物像に一貫性を与える。こうしたリーダーの役割は、制作現場の状況を伝える断片的な報告に示される(例えば、イアン・コンドリー著「細田守、絵コンテ、アニメの魂」では細田守、『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』DVDの特典映像では神山健治、第6回文化庁メディア芸術祭における『クレヨンしんちゃん アッパレ!戦国大合戦』上映前のトークショーでは原恵一が、それぞれスタッフとどんな議論をして作品世界を作り上げたかが紹介された)。
 『リズと青い鳥』がどのような状況で制作されたかはわからないが、監督・山田尚子のインタビュー(『リズと青い鳥』公式サイト liz-bluebird.com に掲載)を読んだ限りでは、テレビアニメの制作を通じてスタッフが原作に馴染んでおり、作品の方向性が自然と一致したようだ。インタビューから引用すると、「「少女たちの溜め息」のようなそっとした、ほんのささやかなものを逃すことなく描きたい」とのこと。
 山田尚子は、監督に抜擢されたテレビアニメ『けいおん!』(2009)で人気作家の座を獲得した。この作品はギャグ中心の4コマ漫画をアニメ化したものだが、アニメでは、話数が進むにつれて、ギャグが薄まる一方で物語の流れが滑らかさを増しており、監督の技量がストーリー重視の方向に成長したことを伺わせる。『けいおん!』の第2期と劇場版、テレビアニメ『たまこまーけっと』とその劇場版も評判を呼んだ。ただし、私の見る限り、話を淀みなくまとめるのはうまいものの、心理描写はそれほど深くない。クリエーターと言うよりは職人に近いという印象だった。
 (私の個人的な)評価が変わるのは、劇場用アニメ『映画 聲の形』(2016)から。聴覚障害者を主人公に人間のつながりを描いたものだが、イメージショットを多用し、流れよりも観客に何かを考えさせることを重んじる。アニメ作家として一皮剥けた感があった。
 続く作品が『リズと青い鳥』で、これまでのところ山田の最高傑作である(一般的な評価とは少し違うが)。『けいおん!』以来、多くの作品で協力関係にあった名脚本家・吉田玲子と、トップクラスの職能集団である京アニ・アニメーター陣の力が大きいとはいえ、山田が着実に成長を続けていることを示す。今後の動向に注目したい。

【『響け! ユーフォニアム』との関係】
 ここで、本作とテレビアニメ『響け! ユーフォニアム』の関係についてコメントしておこう。一言で言えば、まったく別の作品である。
 京アニは、武田綾乃のライトノベル『響け! ユーフォニアム』シリーズを継続的にアニメ化しており、2015年と16年にテレビアニメ第1、2期が放送(いずれも放送翌年に総集編が劇場版として公開)された。これらは高校吹奏楽部の人間模様を描く群像劇で、まじめに作られたウェルメイドな作品である(ただし、私好みではなく退屈した)。さらに、2017年のトークイベントで、石原立也監督による「2年生になった久美子(シリーズの実質的主役)たちの物語」(2019年公開)と、山田尚子監督によるの「みぞれと希美の物語」(2018年公開の本作)という完全新作映画2本の制作が発表された。この2本は、いずれも、トークイベントのすぐ後に刊行されたシリーズ第4長編『北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章』を原作とする。
 京アニは、決して大きな会社ではない。同じ原作の(したがってファンがかぶる)劇場用アニメを並行して2本制作するというのは、かなり無謀な企画である。なぜそんな決定をしたのか、私のような部外者は憶測に頼るしかない。おそらく、2016年に、興行収入250億円という超特大ヒットアニメ『君の名は。』が出たほか、興収50億以上のアニメが3本、京アニ制作の娯楽性の乏しいアニメ『映画 聲の形』も興収23億(興収額は日本映画製作者連盟発表のデータによる)に上ったことから、経営陣が劇場用アニメ制作に前のめりになったのだろう。
 原作小説『波乱の第二楽章』は前後編2分冊で、1本の映画にするには少し長すぎるため、2本に分割したと考えられる。ただし、前後編に分けるのではない。1本は、テレビアニメで登場人物の成長を描いてきた石原立也が担当し、久美子らが2年に進級してからコンクールに出場するまでを経時的に描いた。不思議なのは、もう1本が、かなり地味なみぞれと希美のエピソードを取り上げた作品になったことである。
 山田尚子は、『聲の形』に先立つ『映画けいおん!』でも、それまでの京アニ記録だった『涼宮ハルヒの消失』の2倍以上となる興収19億円を達成しており、京アニ最大のヒットメーカーである。経営陣が彼女に大いなる期待を寄せ、その希望を最大限に受け入れたことは想像に難くない。こうして、山田が原作にとらわれず、自分の思うままに作ったのが『リズと青い鳥』なのである。
 近所の図書館にあった原作の一部を読んでみたところ、控えめに言って、本アニメとはかなり趣が異なる(…って言うか、「全然ちゃうやん」というレベル)。原作の北宇治高校は男女共学なのに、アニメでは男子生徒の姿が見えず、完全に“女の園”になっている。目を凝らすと、全体練習の際にちらほら男子が映っているのだが、後方でぼかされた姿に。廊下や下駄箱周りにもモブのように現れるものの、巧みに別の箇所へと視線誘導される。おそらく、本アニメだけを見た人の大部分が、女子校の話と思ったはずだ。敢えて「男子はいない」と錯覚させるような演出がなされている。
 原作には、部員たちの(擬似)恋愛の描写が過剰気味に現れるが、これもほとんどが省略された。それほど、みぞれと希美の関係に集中したかったのだろう。まるで、アンリ・ヴェルヌイユやエリック・ロメールら名匠の手になるフランス映画のように、二人の心理をじっくり描き出す。
 石原立也が監督した『響け! ユーフォニアム』は、原作にかなり忠実なようだが、『リズと青い鳥』は、登場人物が共通するだけで、作品全体の方向性が全く異なる別作品だと思った方が良い。それぞれのキャラも、かなり大きく変更された。部長の優子は、頭の大きなリボンがいかにも不釣り合いな、真面目で他人思いのリーダーとして描かれる。
 ただし、山田には原作から離れているという意識がなかったらしい。公式サイトに掲載された山田のインタビューでは、「原作の持つ、透明な、作り物ではない空気感を映像にしてみたいと思いました」「原作から受けたこの二人の物語の印象をそのままフィルムに落とし込んでみたいというのがまずありました」とある。原作に没入するうちに、行間を深読みしイメージが勝手に膨らんでいったのだろう。脚本の吉田玲子とも見解の相違はなかったようで、「あまり窮屈に打ち合わせるような感じではなかった」と語っている。
 本人に「原作とは違うものを」という気負いがなく、思うがままに作ったため、壊れやすい少女の内面を丹念に描いた、アニメ史上に残る傑作が誕生したと言える。もっとも、山田の感性は『ユーフォ』ファンと少しずれがあったようで、興行的には惨敗に終わった。

【おまけ---オーボエという楽器】
 本アニメでフィーチャーされるオーボエは、2枚のリードを向かい合わせに固定し、その間に息を吹き込むことで音を出す楽器。高音成分が多く震えるような切ない音色が特徴で、それに心惹かれる人も多い。ただし、本格的な演奏をしたければ毎回リードを自作せねばならず、やたらに手間がかかるのに、フルートのような華麗さに欠ける。希美がフルート、みぞれがオーボエを担当するのは、それぞれのキャラに見事にマッチする。
 オーボエの名曲と言えば、モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスの作品が有名だが、私は、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハのオーボエ・ソナタ ト短調が好きだ。派手さはないが心に沁みる曲で、みぞれのテーマとして使えそう。

【も一つおまけ】
 作中でアニメ内アニメとして描かれるのが、コンクール曲のベースにもなった童話「リズと青い鳥」。大写しになった本の表紙に「ヴェロスラフ・ヒチル著」と明記されていたので、実在する童話かとおもって検索したが見つからない。ネットの情報によると、映画監督のヴェラ・ヒティロヴァをもじって、武本康弘(京アニ所属の監督で放火事件で亡くなった)が考案した名前らしい。ヒティロヴァには『ひなぎく』というぶっとんだ快作があり、私は30年ほど前、これ見たさに唯一の上映館がある吉祥寺まで遠征した。武本監督とは、そんな趣味も一致していたのか---ちょっと涙。

【追記】
 上のレビューを執筆した時点では、原作となる『北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編/後編』のうち、近所の図書館にあった前編しか読んでいなかったが、その後、別の図書館から後編を借りて読むことができた(文庫本くらい買えって言わないで!金欠なんだから)。
 アニメが小説と趣を異にすることは前編と同じだったが、それが心理描写の深化にとどまらず、原作における客観的記述ともかなり食い違っていることに、少々驚いた。出来事の時系列や希美を諫める人物を変更したほか、みぞれと久美子の会話や、みぞれがオーボエソロで名演を示した後の指導者の対応など、ストーリーの上でかなり重要な部分をバッサリ切り捨てている。その一方で、原作では触れられない童話「リズと青い鳥」の細かな内容を、本編とは異なる技法を用いた映像によってたっぷりと見せる。ここまでくると、山田尚子がかなり確信犯的に原作を変更したのではないかと思えてくる。おそらく、原作(前後編)のプロローグ部分に記された希美とみぞれの関係に心打たれ、その部分をどこまでも拡大してアニメ化したのだろう。
 そう考えると、本作が『響け! ユーフォニアム』シリーズの一編として制作発表されながら、公開時にそのことを示す副題がなかった理由も見えてくる。京アニの経営陣は、完成間近になって、原作や(原作に忠実な)テレビアニメとかなり異なると知って驚いたのではないか。「響け! ユーフォニアム」と冠すると、これまでの路線を大きく逸脱したことに対して、ファンの批判が高まりかねない。そこで、独立した作品としても楽しめるという言い訳をしながら、スピンオフ作品として扱わない方針を固めたと推測される。結果的には、それが大爆死と言える興業成績につながったようだが。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 7
ネタバレ

フィリップ さんの感想・評価

★★★★★ 5.0

山田尚子監督が目指していたものをやり切った、実写的表現の到達点

アニメーション制作:京都アニメーション、
監督:山田尚子、脚本:吉田玲子、
作画監督・キャラクターデザイン:西屋太志、
音楽:牛尾憲輔、美術監督:篠原睦雄、
色彩設計:石田奈央美、原作:武田綾乃。

揺れるポニーテール、廊下を歩く足、瞬く瞳。
静かな劇伴が流れるなかのふたりの情景。
絵柄は滲んだブルーを基調とし、透明感のある色彩。
響く足音、キャップを開ける音、楽器を組み立てる音。
様々な生活音を拾い上げていく。
細部まで徹底的なこだわりを感じさせる。
思わず息を詰めて観てしまうような静謐感が作品全体に流れている。

私は冒頭のシーンを観たときに、この感覚はどこかで味わったような気がすると、
鑑賞中にずっと考えていたのだが、
それは岩井俊二監督の『花とアリス』だった。
岩井俊二監督のなかでいちばん好きな作品だが、
それを初めて観たときのような鮮烈な印象を受けた。
眩いばかりの透明感を重視した絵作りだ。

『リズと青い鳥』は『響け!ユーフォニアム』シリーズの続編に位置づけられる。
田中あすかや小笠原晴香たち3年生が引退した後の
春から夏にかけての一部分を切り取った物語。
しかし、シリーズ名がタイトルに入っておらず、
単体で観られることも意識して制作されている。
私は原作を全巻既読で、TVアニメも映画も過去作品は
全て鑑賞済みなので断言はできないが、
初見の人でも十分に楽しめるのではないかと感じた。
人間関係は観ていれば、ほとんど理解できると思うし、
基本的には鎧塚みぞれと傘木希美の関係性についてのストーリーのため、
それほど分かりにくくはないと思う。
ただ、もしかするとみぞれと希美の依存といえる関係性が理解できず、
物語に入り込めない人がいるかもしれないが、
そんな友人同士の繋がりもあると考えてもらうしかない。
これは、いびつな形ですれ違い続ける愛と嫉妬の物語だ。

アニメ的な手法よりも実写的なカメラワークを
意識しているシーンが多く見られる。
足の動きや手の動き、会話の「間」などで、心情を表現している。
また、感情を表すような目元のアップシーンが多い。
アニメではなく、実写ではよく使われる手法だが、
この作品では重視されている。
そして、被写界深度を意識した絵作り、
つまりカメラの焦点とボケを意識している点はシリーズと同様だ。
物語にはそれほど大きな起伏がないため、
好き嫌いが分かれるタイプの作風だが、
映画としての完成度はかなり高い。

{netabare} 特に素晴らしいと感じたのは冒頭のシーン。
何かの始まりを予感させる童話の世界から現代の世界へ。
まだ人があまりいない早い時間の学校に鎧塚みぞれが到着して、
階段に座り、誰かを待っている。自分の足を見る。不安げな瞳。
誰かがやってくる。
視線を向けるが、期待した人ではない。
そして、待ち人がやってくる。いかにも楽しそうで快活な表情、
軽快なテンポの歩様、揺れるポニーテール。
それに合わせて流れる明るいメロディ。
フルートのパートリーダーである傘木希美だ。
鎧塚みぞれは、それとは逆に表情が乏しく、口数も少ない。
彼女なりに喜びを表現して希美と一緒に音楽室へと向かう。
途中で綺麗な青い羽根を拾った希美は、それをみぞれへと渡す。
戸惑いながらも希美からもらったものを嬉しく感じるみぞれ。
この青い羽が、閉じられた世界の始まりを予感させる。

校舎に入り、靴箱から上履きを取り出すときのふたりの対比。
廊下に彼女たちの足音が響くが、その音のテンポは全く合わない。
完全な不協和音。ふたりの関係性が垣間見える。
みぞれは少し距離を置いて、希美の後に付いていく。
階段の途中の死角から希美が顔を覗かせてみぞれを見る。
希美は少し驚いたように、目を何度か少しだけ動かす。
教室に着いて鍵を開け、椅子と譜面台の並んだ誰もいない室内に
2人だけが入っていく。
吹奏楽コンクールの自由曲は、「リズと青い鳥」。
この曲を希美は好きだという。
そして、ふたりで曲を合わせてみるところで、
タイトルが映し出される。

この一連のシーンだけで気持ちを持っていかれるだけのインパクトがある。
とても丁寧で実写的で挑戦的な作風だと感じ、
私は思わず映画館でニヤついてしまった。

物語はみぞれと希美のすれ違いを中心にしながら、
それに劇中曲である「リズと青い鳥」の物語がリンクしていく。
童話のほうの声優にちょっと違和感がある。
ジブリ作品を見ているような感覚だ。
みぞれがリズ、希美が青い鳥の関係性として観客は見ているが、
最後にふたりの立場が逆になる。
みぞれの才能が周りをなぎ倒すようにして解放され、
美しいメロディを奏でる。
同じように音楽に真摯に取り組んでいたみぞれと希美の差が
明らかになる瞬間だ。

二羽の鳥がつかず離れずに飛んでいくシーンが映る。
左右対称となるデカルコマニーの表現。
そして、ふたりの色は青と赤。
心があまり動かずしんとした雰囲気のみぞれが青、
情熱的で人の中心になれる希美が赤だろうか。
このふたつの色が分離せずに混ざり合っていく。

みぞれが水槽に入ったふぐを見つめるシーンが度々出てくる。
おそらくみぞれは、水槽のなかのふぐを羨ましいと思っている。
仲間だけでいられる閉じられた世界。
そこが幸せで、ほかは必要ないと考えている。

この作品は意図してラストシーン以外での
学校外のシーンを排除している。
鳥籠=学校という閉じられた空間を強調しているのだ。
閉じられた学校という世界のなかにあって、
さらに閉じられた水槽内にいるふぐ。
それをみぞれが気に入っているというのは、
みぞれの心情を示している表現だろう。

たくさんある印象的な場面でいちばん好きなのは、
向かいの校舎にいる希美がみぞれに気づいて手を振り、
みぞれも小さく手を振って応えるシーン。
そのとき、希美のフルートが太陽に反射して、
みぞれのセーラー服に光を映す。
それを見てふたりがお互いに笑う。
言葉はないが、優しく穏やかな音楽が流れるなかで、
(サントラに入っている「reflexion, allegretto, you」
という曲で、1分20秒と短いがとても美しい)
何気ない日常の幸せをいとおしく感じさせる。

ラストシーン。歩く足のアップ。
一方は左へ、一方は右へと進んでいく。
希美は一般の大学受験の準備ために図書室で勉強を、
みぞれはいつものように音楽室へと向かう。
帰りに待ち合わせたふたりが歩く。
足音が響く。
ふたりの足音のリズムは、時おり合っているように聞こえる。
お互いに別の道を歩くことを決め、そこでようやく何かが重なり始めたのだ。
ふたりの関係がこれからどうなるかは分からない。
しかし、最後に「dis」の文字を消したところに、
いつまでも関係がつながっていて欲しいという作り手の願いがこめられている。{/netabare}
(2018年4月初投稿・2020年5月5日修正)

大好きのハグから続くラストシーンについて
(2018年5月11日追記・2019年3月15日修正)

{netabare}みぞれは希美の笑い方やリーダーシップなど、
希美自身のことを好きだと告白するが、
それに対して希美は「みぞれのオーボエが好き」だと言い放つ。
このやり取りは一見、ふたりの想いのすれ違いだけを
表現しているように感じるが、実はそれだけではない。

友人として以上に希美のことが大好きなみぞれにとって、
とても厳しく感じる言葉だが、これは希美自身にとってもキツイ言葉。
みぞれの才能を見せつけられて、ショックを受けているときだから尚更だ。
それなのに、敢えて言ったのはなぜか。
この言葉には、自分は音大には行けないが、
みぞれには、音大に行ってオーボエを続けて欲しいという
願いがこめられているのだ。
「みぞれのオーボエが好き」という希美の言葉がみぞれに対して
どれだけ大きな影響を及ぼすのかを希美自身は自覚している。
単に希美が自分の想いを吐露しただけではない。
「みぞれのオーボエが好き」は童話における、
一方的とも思えるリズから青い鳥への
「広い空へと飛び立って欲しい」と言った想いと同じ意味を持っている。

それは、帰り道に希美が「コンクールでみぞれのオーボエを支える」と
言ったことからも分かるし、それに対して、
みぞれが「私もオーボエを続ける」と宣言をしていることからも明らかだ。
しかし、このやりとりはどう考えても違和感がある。
つまり、希美はコンクールの話をしているのに、
みぞれは、コンクール後のことについて語っているからだ。
会話がすれ違っているように聞こえる。
ところが、そうではない。
つまり、ここでは希美が音大に行かず、
フルートを続けなかったとしても、
みぞれは音大に行く決意をしていることを示している。
これは希美の「みぞれのオーボエが好き」に対して
みぞれの出した答えなのだ。

実は原作では、音大を受験するかどうかの話を
みぞれが希美に問い詰めるシーンがあるのだが、
映画では、完全にカットしている。
その代わりに、左右に分かれていく足の方向と
図書館での本の借り出し、楽譜への書き込み、
最後の会話によって表現している。
「みぞれのオーボエが好き」という言葉が
みぞれの背中を押したという、別の意味を持たせているのだ。
そのあとの「ハッピーアイスクリーム」で
ふたりの感覚が足音のリズムとともに、ようやく一致したことを描いている。
また、みぞれが校門を出るときに希美の前を歩いたり、横に並んだりする。
切なさはあるが、やはりこれはハッピーエンドといえるのではないだろうか。

音楽については、フルートが反射する「reflexion, allegretto, you」と
ラストシーンで流れる静かだが心地良いリズム感の「wind,glass,girl」、
そして、字幕の時の「girls.dance,staircase」、
「リズと青い鳥」、Homecomingの「Songbirds」が印象的だ。{/netabare}

コメンタリーを視聴して(2019年2月14日追記)

{netabare}昨年発売された脚本付きBDを購入して、
本編とインタビューは手に入れてすぐに観たのだが、
脚本やコメンタリーは後回しになってしまっていた。
脚本を読んでみると、「リアルな速度の目パチ」など、
とても細かい指示がなされていて驚いた。
目を閉じ切らないまばたきも指示されている。
また、作画については「ガラスの底を覗いたような世界観」という
指南書が配られていたという。
映像では山田尚子監督の意図を確実に実現している。

そしてこの作品には3つの世界観が表現されている。
学校、絵本、そしてみぞれ(希美)の心象風景だ。
絵本は古き良きアニメを再現させるよう
線がとぎれる処理を行っている。
心象風景は、よりイメージ感の強い絵作りを意識したという。
希美が走る水彩画のようなタッチ。
左右対称の滲んだ色の青い鳥など。
これら3つの世界観が上手く活かされていて、
物語に彩りを与えている。

それに加えて、BDで解説を聞かないと気付けないのが、
生物学室のみぞれと希美のシーン。
最初から何段階かに分けて色合いを変化させている。
夕方の時間の経過とともに初めは緑っぽかった室内から
オレンジ系に少しずつ色を変えるのと、
カットごとに順光、逆光でも変化させている。
確かに言われてみて確認すると、
生物学室での色合いはとても繊細だ。

髪を触る仕種については山田尚子監督自らの発案。
曰く、みぞれがそうやりたいと言っていたから。
キャラが監督に下りてきていたそうだ。
また、「ダブル・ルー・リード」も監督のアイデア。
これは映画館で観ていたときから、
洋楽好きな監督が考えたことだろうと予想していたので、
インタビューを観たときは、あまりにもそのままで可笑しかった。
印象に残ったのが、スタッフのいわば暴露話で、
内面を描くよりも映像(ビジュアル)で見せたいと
昔に語っていたことがあったそうだ。
監督は昔の話だと恥ずかしがっていたが、
まさにこの作品はその方向性を貫いたといえるだろう。{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 122
ネタバレ

藍緒りん さんの感想・評価

★★★★★ 4.7

ふたりということにまつわる衝撃的な傑作。

今までで観た映画のなかで一番か二番か、くらい凄かったです。
少なくとも五本の指には入ります。凄まじかったです。
ほんとうに、見終えてからどんどんもどかしさが膨らんでいくというか、
映画の意味が分かっていくというか、本当に切ないんですよ。

あまり劇場には見に行かないのですが、
山田監督の「たまこラブストーリー」が良かったことと、
本編ユーフォニアムが良かったことから、見に行くことにしました。
予想していたとおりですが、ユーフォニアム感はまったくなかったです。

精神的な意味での甘酸っぱい「青春もの」を求めている方にはぜひお勧めしたいものでした。
というよりも、ほろ苦い、のほうが近かったかな。
ジブリで喩えるならば、
同監督の「映画けいおん」や「たまこラブストーリー」を、宮崎駿っぽい作品だと喩えるならば、
本作は高畑勲っぽい作品だなと思いました。
人間の心の機微やずれなどのテーマを丁寧に描いている作品で、
エンターテインメント映画の性質は弱いと感じました。

以下猛烈にネタバレですので本編をご覧になった方だけ。

{netabare}

 劇場を出てから電車の中で、なんて悲しい終わり方だ、って思いました。
 希美にとって、みぞれは謎だったんですね、何を考えているのか分からない。
 劇中で、希美はふっとみぞれに距離を置いてしまうのに、
 自分が距離を置かれているという感じ方になってしまう。
 相手のことが分からないとき、自分のこともわからなくなってしまう、
 そういう混乱みたいなものがすごく生々しかったです。

 みぞれにとって希美は唯一無二の親友だったわけです。
 でも、希美からしてみればそこまで思われる根拠がない。
 なんとなく気になって、吹奏楽部に誘ってみて、友だちになった。
 するとみるみる上手くなって、置き去りにされちゃった、という感じ。
 分からない存在ではあっても、大親友という感情ではないんですよね。
 後輩に仲良いですよね、って聞かれたときも、
 「たぶん、そうだと思う」としかいえない。
 このときも自分がみぞれのことをちゃんと友達として思っているかさえも、
 曖昧になってしまっている、謎へ向かう時の混乱を感じます。

 関係的にはふたりとも相手のことがわからないんです。
 みぞれからしてみれば、なんで希美ほどの人が自分と仲良くなってくれるのかわからない。
 希美からしてみれば、なんでみぞれは自分のことをそんなに大切に思っているのか、
 それでいて、どうしてあまり感情を出してくれないのか、謎になってしまっている。
 みぞれからしてみれば、向こう側から来てくれた希美に、自分を出すのはすごく怖いんですよ。
 それでも希美はみぞれの謎のなかに、嫉妬が絡まってすごくややこしい感情を抱いている。
 嫌いなところなんてないのに、でもなんとなく遠ざけたい気持ちになる、
 それが「みぞれは私のことを遠ざけてるんじゃないか」っていう違和感になる。
 ほんとうは、自分が遠ざけてるんですけどね。その理由がわからないから相手が遠ざけてるから、っていう理由に逸れてしまう。

 それでも、関係のなかでの自分の立ち位置はちゃんと分かってるんです。
 みぞれは「私は希美にとって友達のうちの一人でしかない」
 希美は「私はみぞれが思っているような人間じゃない」
 それは的確なんですね。それぞれ相手に別の意味で過剰な感情をいだきすぎている。
 それが結局ずれたまま終わるということが、すごく切ないな、と思ったんです。

 でも映画を観てから一晩寝て、やっぱりこの映画はハッピーエンドなんじゃないか、って思い直したんですよ。
 結局この二人はまだ関係の途上にすぎなくて、作中ではけして平行線を辿っていたわけじゃなくて、
 ずれたままとはいえやっぱり距離は縮まっている。
 希美はみぞれに「大好き」っていう明らかな感情をぶつけてもらった。
 みぞれは希美に自分の感情を曲がりなりにも受け入れてもらえたわけです。

 どうして二人があんなにずれてしまっていたのか、自分に精一杯だったんですよね。
 ふたりとも進路提出表を白紙のままで出していましたが、
 関係に詰まっているのより先に、人生に行き詰まっているような状況の中にいた。
 優子や夏紀はそういう点で根本的に安定感があるんですよ。
 だから関係も「ずれ」の中でも、割合すんなり過ごしていくことが出来て、
 優子は人の感情にすごく敏感で、ちゃんと気にかけることができるし、
 夏紀なんか適当なこといって希美を慰めてみたり、
 そういう二人のようにはすんなりいけない素質が、関係以前に希美とみぞれにはあって、
 それがずれていることをひどく残酷なものにしていたような。
 その意味合いで、アニメ版ではなんで優子が部長?って思っていたんですが、
 映画版ではもう完全に部長の器でしたね。

 自分に精一杯だと、関係の中での問題も、全部自分の問題になってしまう。
 希美はみぞれが何を考えているのか、ってことを考える余裕がなくて、
 みぞれは希美が何を考えているのか、って考える余裕がない。

 それでもみぞれは新山先生との「リズと青い鳥」についての対話の中で、
 逆の立場だったらどう思うって聞かれてふっと視線が変わるわけです。
 物語と現実の関係もずれていて、そのまま適用できるようなものではない。
 どちらもリズでも青い鳥でもなくて、ただ相手のことを見る余裕の違いがあると思うんです。
 リズはずっと自己完結ですよね。相手のことを見る余裕はない。
 相手のことを思ってはいるけど、でも自分で勝手に決めて勝手にさよならしちゃう。
 青い鳥にはすごく余裕があるんです。別れるのは嫌なのに、リズがそう決めたなら、って
 ちゃんと受け入れて飛び立って行くんですね。
 みぞれはリズの立場だったら絶対離さないぞってところで演奏に身を入れられなかったけれど、
 青い鳥の立場から、希美が言うんだったら別れだって肯定できるよ、っていうすごい大きな愛を羽ばたかせてあのオーボエの演奏を披露するわけです。
 それでも希美の立場からはいままでは手を抜いたんだ、っていうだけのことになる。
 それでガツンとやられてひとりはぐれてしまうわけです。もう希美とは無理だというような追い詰められかたをする。
 物語の構図を使うならば希美は別れを告げられたのに受け入れられなかった青い鳥なんですよ。
 みぞれは自分こそ青い鳥だという自覚で吹いていたけれど、
 希美の立場からみれば別れを突きつけられてしまったんです。
 そこで何も解けないまま理科室へはぐれてしまう。

 理科室で再会しても希美からしてみれば、みぞれから試練を突きつけられているだけなんですよ。
 わたしは本気を出せばこれだけ吹けるんだよ、と。そこでついて行けないことの罪悪感と恨みとが心の中を巡るわけです。
 それでもみぞれからしてみればあれは「愛の告白」なんですよね。そこが決定的にずれている。
 ずれているけれど、希美が自分で精一杯だってことを受け入れるだけの余裕がみぞれには生まれていたんです。
 大好きのハグ、なんて希美からすれば唐突で、すごくびっくりしていましたよね。
 あれはいままで受動的だったみぞれが希美に対して始めて能動的になるシーンであるとも言えます。
 希美はみぞれが積極的になったことの中にあのオーボエソロの凄まじさも含めて考えることができて、少しみぞれのことが分かったはずだと思うんです。
 それでも根本的には愛の告白は唐突に感じられたでしょうね。
 今まで自分をどう思っているのか分からなかったみぞれから、感情を明らかにしてもらって、それは紛れもなく嬉しかったと思います。
 それでも希美の頭の中にはやっぱり「みぞれのオーボエ」が残り続けていた。
 「みぞれのオーボエが好き」って漏らしたのは、作中では「希美のフルートが好き」って言ってもらうための呼び水として漏らしたわけですが、
 どちらにしろあのシーンでの希美の返答はそれしか考えられない。みぞれのオーボエの演奏が凄いという事実を受け入れることだけが、希美にとっては愛の告白でありえたんですから。
 その意味でみぞれは希美の愛の告白に応えなかったわけですよね。そこで散々ずれていたお互いの関係が一致したところで決まった、つまり両方があのシーンで「失恋した」ってことだと思うんです。

 ラストシーンではみぞれが「ハッピーアイスクリーム」なんて言って、今まででは考えられなかった積極性を見せるわけですよね。
 それでも希美は「アイスクリーム食べたいの?」なんて誤解をしている。
 普通「ハッピーアイスクリーム」なんて言われたら「え?なにそれ?」ってなりますよね。
 まだ理科室での唐突な告白も希美にとって謎の中にあるし、希美にとってみぞれは未だ「不思議」な存在のままなんです。
 それでもみぞれは笑ってみせる。はじめて観たときは、その笑いが二人の誤解を象徴しているものだとおもって残酷だとおもったんですが、
 それはみぞれが希美の誤解を受け入れている、分かっていることの笑いだと思うようになりました。
 それならやっぱり二人はこれから仲良くなれるんじゃないかという希望の描写だと思うんですよね。
 というのが大まかなこのストーリーの自分の解釈で、大まかには捉えられてるつもりです。
 それでもインタビューで述べられているような「互いに素」であるような決定的なずれというよりも、
 自分に必死であることが生んだずれで、もしそういう必死さがなくなったところであれば、
 ふたりはもう少し一致できるような気がします。
 
 リズと青い鳥のことを希美は結末はハッピーエンドだと思うと言って、
 そのことをみぞれはすごく気にするんですが、
 希美は子供の頃読んだ童話のひとつとして、そこまで切実に考えていないんですよね。
 他にもたとえば希美は「一緒に音大行こう」なんて言ってないのに、
 優子に「音大行こうって言っといて辞めるって何!?」と責められる。
 そして希美もそれを否定しない、そういう過去が曖昧なものになっていく感じとか、
 そういうずれの描き方が、格段にすごいと思いました。
 上にも書きましたが、自分で相手を避けておいて、
 相手が自分を避けてるんじゃないかって思う感覚とか、
 人のせいにするってわけじゃないけど、自分の感情も曖昧になってくるんですよね。
 そういうことの描き方の濃度が異常なほど高いと思いました。

 さりげない描写でかつ印象深いシーンが多いのがアニメシリーズもそうでしたが、特徴だと思います。
 フルートが照り返す光に気がついて笑ったりするシーン、
 ああいうシーン描かれるとそれがあまりにさりげなすぎて泣けますよ。
 あのシーンだけでももう大傑作ですよ。
 あらすじじゃもはや語れないんですよね。細部が充ちているという感じがすごいです。

 もうひとつだけ、黄前久美子ちゃんと高坂麗奈ちゃん、ほとんど出てこなかったですが、
 二人でセッションしているあのシーンはほんとやばかったですね。最高だったです。
 ほんとうにあの二人はかわいい。自分たちの世界を作り上げている。
 普通に考えて先輩がうまくいかないパートを堂々と部室の裏で吹くなんてあてつけ、
 あまりに性格悪いですよ。
 みぞれと希美もやっぱりちょっとむっとしてますし。
 でも許されるようなところがある。
 あの二人はつんけんしているところもあるけど、基本的に人間が好きなんですよ。
 その愛情が感じられるからこそ、多少きついことを言っても受け入れられる、
 つまり周囲から信頼されている、その感じがたまらなく可愛いし、羨ましいですよ。
 キャラクターとして最高です。ほんと。

 終わります。

{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 23

91.1 12 切ないアニメランキング12位
劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン(アニメ映画)

2020年9月18日
★★★★★ 4.4 (561)
2616人が棚に入れました
――あいしてるってなんですか?かつて自分に愛を教え、与えようとしてくれた、大切な人。会いたくても会えない。永遠に。手を離してしまった、大切な大切なあの人。代筆業に従事する彼女の名は、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」。人々に深い、深い傷を負わせた戦争が終結して数年が経った。世界が少しずつ平穏を取り戻し、新しい技術の開発によって生活は変わり、人々が前を向いて進んでいこうとしているとき。ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、大切な人への想いを抱えながら、その人がいない、この世界で生きていこうとしていた。そんなある日、一通の手紙が見つかる……。

声優・キャラクター
石川由依、浪川大輔
ネタバレ

ぺー さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

年賀状でも書こっかなぁ

sincerely 
①副詞 心から 本当に
②アニメOPに使用されたTRUEの楽曲
③{netabare}劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン 冒頭の一語{/netabare}

TV本編を想起させる仕掛けが冒頭からてんこ盛りでより楽しむためには本編必須。ただし厳密ではなく可能であればレベル。一見さんいらっしゃい指数でなら『外伝』>『劇場版』になります。


「届かなくていい手紙なんてないのです」

 そして

「私は…愛を知りたいのです」


作品を紐解くキーワードにして二つの軸。
前者は人の想いは届いて初めてかたちになるという大切な概念。ドールや携わった人たちとの物語。
後者は兵器として育てられた少女が人間性を獲得していく過程。少佐とヴァイオレットの私的な物語。

ギルベルト少佐の残した「心から…あいしてる」の言葉。復員後のC.H郵便社にてカトレアが発したシンプルな一言に反応して自動手記人形の仕事をすると申し出たことが全ての始まりです。道具として利用価値がないなら自分を捨ててくれとまで言った少女が申し出たのです。
それだけ強い執着を持っていた言葉「あいしてる」。かくして愛を知るために始めた仕事を通じてもう一つの軸である人の想いを届ける素晴らしさを学んでいく過程がTV本編でした。

「届かなくていい手紙なんてない」裏を返せば「人の想いは必ず届けなければならない」です。

ターニングポイント{netabare}(己のやってきた重大さに気づいた第9話){/netabare}以降どう物語は進行していくかが肝でした。それでターニングポイントの次回話で選択したのは{netabare}(思いっきり手紙を届ける話。かつ神回と言われる10話と){/netabare}少佐との話は遠ざかる方向へ。

「届かなくていい手紙なんてないのです」

「私は…愛を知りたいのです」

前者はひととおり形をつけ後者はおあずけ。あくまで彼女の周囲の人たち“が”想いを伝えることが出来たのでした。TV本編を通して自分の想いをまがりなりにも形作れるように成長してきたヴァイオレットがどうにかして“自分の想いを届けられるのか”。残された宿題でした。

なお「届かなくていい手紙なんてないのです」を磨き上げたものが外伝です。さあ残るは↓


「私は…愛を知りたいのです」


前置きが長くなりました。この残された宿題への回答がなされ物語が完結するのがこの劇場版です。

TV本編でスッキリしなかったかもしれないそこのあなた! 諸悪の根源が消えていくことでしょう。
TV本編を称賛して止まないそこのあなた!是非もなし、、、まずは試されよです。

自分はスッキリしなかった側でした。結果は申し上げた通り。圧巻の140分です。




鑑賞前の方これ以降はやめときましょう↓

※ネタバレ 備忘録的なもの(長い)


■切っても切れぬTV本編 ネタバレ度:軽

{netabare}冒頭画面に浮かぶ“sincerely"の文字。間髪入れずに見覚えのあるあのお屋敷と意外なあの子。涙腺を蛇口に例えるならこの時点で開栓して戻れなくなった方もいらっしゃるのでは?
そんな一つの文字だったりあのエピソードを彷彿させる冒頭もTV本編へと意識を持ってく仕掛け。アン孫が手放した手紙が風で飛ばされて野山や街を駆け抜ける演出は第1話ヴァイオレットが手放した手紙が飛ばされていくのと同じです。

あの時と違うのは携わるメンバーです。エンドロールでは原画と美術監督に物故者を確認。サポーティングスタッフは言わずもがな。原画すら焼けてほぼほぼゼロスタートだったこの映画の冒頭を飾ったのが2018年TV本編を意識した演出だったことについて制作会社のプライドと矜持を感じます。{/netabare}


■あん時の主題歌の位置付け ネタバレ度:軽

{netabare}『sincerely』+○○○○○
○○○○○+『みちしるべ』

○に入るのは“あいしてる”。「心からあいしてる」少佐の言葉がなければ少女は生きる支えを失ってたでしょう。全てはここから始まりヴァイオレットの手紙の一文「あいしてるはみちしるべになりました」に繋がります。映画観てTVのOPとEDあらためて聴いたら鳥肌もんでした。{/netabare}


■3つの疑問 ネタバレ度:重

もやっとしかけて咀嚼して納得したものもいくつかありますよ。

1.{netabare}少佐はなんで拒否るの?会ってやれよ!{/netabare}

{netabare}そりゃ私たちはヴァイオレットの気持ちを知ってるから少佐がヘタレてるようにしか見えないアレ。
恐らく半々。何かっていうと、ギルベルトは生き別れた後のヴァイオレットの歩みを知らない。上官と兵器の間柄の他を知らず「自由になりなさい」「普通の少女としてその名に合う女性になってほしい」と言った手前、自分が障害となるわけにはいかないという考え方には理があるように思えます。
それと、ここは彼にとってやっと見つけた安住の地。自己都合と侮るなかれ、全てを失って自分には何もないとすら思ってる男の弱さよ。仕事も順調そうな前途洋々の娘を自分の我が儘で留めるきっかけを作ってはいけないと思ってもこれまた不思議ではないかと。{/netabare}

2.{netabare}なんで拒否られて帰ろうとするんだろう?{/netabare}

{netabare}だってそのためだけに生きてきたぐらいの娘さんですよ。そんな簡単に諦められるものかしら?
これ根深いかもしれません。「あいしてる」の意味をまだ自分が理解できてないと思ってそう。少佐の拒否は自分がうまく想いを伝えられてないからと自分の所為にしてたのなら哀しいこと。まるで虐待を受けた幼子のようなメンタリティ。ただこれは帰還兵のPTSDのようなものというか、感情を知らないところからスタートした彼女の出自を考えれば納得できる心の動きだったように思えます。{/netabare}

3.{netabare}なんで少佐は翻意して駆けだしたんだろう?{/netabare}

{netabare}兄と手紙。家は兄が継ぐから「自分の人生を生きろ」と。まんま少佐がヴァイオレットに言ったことと同じでしたね。ここで少女があの頃と違う彼女であることを察したのかもしれない。家の縛りから開放されたのもあるでしょう。こうみると自ら人生を切り開く選択肢を奪われてた者同士という意味でどこか通じ合う二人だったのかもしれませんね。
そしてホッジンスやヴァイオレットの直接交渉にも勝る手紙の威力。この作品だからこそです。{/netabare}


■ピリオドとして代筆業 ネタバレ度:重

{netabare}昔々あるところに…の昔語り。こんな時代がありましたよね、のピリオドの捉え方が秀逸。電話の登場によって我々が辿った史実をなぞるかのような展開に、あたかもヴァイオレットの時代が現実にあったような気にさせられます。

A:手紙
B:電話

ユリスがリュカに想いを伝えるには手紙では間に合わなかったでしょう。アイリスの言葉を借りてBがAに取って代わる時代の転換点を明示してました。
具体的には代筆業の衰退です。そのことで失われるもの。想いを汲み取って言葉に変換する担い手がいなくなること。誰しもが言語化の術に長けているわけではありませんので需要がゼロになることはありません。それでも即時性のメリットが勝り、より便利な方に流れるのは仕方のないこと。
そうやってオワコン化していく自動手記人形の横で手紙というツールだけが残ります。とある場所で手紙の文化が残ったのは即時性以上に一呼吸置いて言葉を紡ぐ必要のある手紙の本質みたいなのを島民が共有してたからでしょうね。
こういう栄枯盛衰や無常感を「もののあはれ」と言うのでしょう。我々の情感に直接訴えてきます。{/netabare}


■「私は…愛を知りたいのです」 ネタバレ度:重

{netabare}そもそも“あいしてる”の意味を知るための代筆業。それを知ってさらに自分が届けたい相手に届いた以上仕事を続ける必要はないですよね。

 言葉はいつでも 語るでもなくて
 そこにあるばかり つのるばかり

自暴自棄な兄に向けた妹の手紙代筆から始まり、王女の恋文、歌姫の曲の作詞、残される娘への手紙ほかあらゆる人のあらゆる場面の、言葉にならない言葉を拾い上げてきた逸材。カトレアさん風に言えば“行間を読み取ってきた”手練手管に秀でたヴァイオレットちゃんです。
そんな子がギルベルトを前にして何も言えなくなるクライマックスが一番グッときました。あー…だからこの物語は手紙だったんだという説得力があったのです。{/netabare}

{netabare}そしてあえて過去を振り返ってみる。人間兵器として人の感情を知らずに育った少女の人間性を取り戻す物語として。またはTV本編ですっきりしなかった帰還兵の心の再生について。

結論は出たと思います。罪の意識を自覚したあの第9話から繋がるであろう悔恨と贖罪意識の落としどころ。そしてぶっ壊れていた己自身の精神の構築。戦後にヴァイオレットが重ねてきた年月は意味をなすものだったのだろうか?

彼女は人間性を獲得してきました。これはTV本編でもさんざんぱら描かれてきたこと。
そして劇場版で彼女は人を残すこととなりました。個別で直接救われた者も多いが、ヴァイオレットのまいた種が人々の想いを繋げ多くの人たちの心を豊かにしていっただろうことは想像に難くありません。繋がりに繋がってあのアンの孫娘が登場したことが象徴的だったかと。
たしかに彼女は数多くの兵士を殺めてきました。その悔恨と贖罪は心に留めながら、それ以上に人を救ったであろう事実が垣間見えただけで充分なのかなと思いました。

そして時代は流れドールも絶えて久しい頃合い。
『外伝』にてほどけない三つ編みに例えられた三者(①送り手②受け手③繋ぎ手であるドール&配達人)の繋ぎ手を見守るかのように、これからも切手となって想いを届け続けることになるのでしょう。{/netabare}






■だがしかしですよ ネタバレ度:軽

そもそもでこればっかりはどうしようもないのだけど…
{netabare}ギルベルトって兄の泥を被らざるを得ない家庭事情で鬱屈していて、本来はやりたかった仕事(たぶん教師!?)を諦めて軍に進んだ、で合ってます?
それで軍属ながら引き取った少女に読み書きそろばんを教えていたわけですよ。擬似的であれ教師と生徒の構図です。生活指導/道徳の授業も当然のようにしてました。
その結果、教え子に愛情を覚え死に際に「愛してる」と涙流してしまうやつですよ。別に愛に歳の差なんてと思いますから推定14~15歳に惚れてもかまわないんですが、熱血指導の情熱が愛情に転換してしまったヤバめな事案という思いが此度の“教師になりたかったかもしれない設定”で強くなりました。

けれども全力で見て見ぬふりをすることにしよう。

{netabare}ギルベルトってヴァイオレットちゃんが惚れるほどのタマか? …うーん、、悩むなぁ…{/netabare}

多分に嫉妬含みの引っ掛かりを理由に『外伝』のほうに自分は軍配が上がりそうです。例によって二つの軸の片っ方のお話つまり“少佐色が薄い”物語ですから。{/netabare}



視聴時期:2020年9月 

-------

2020.09.30 初稿
2021.08.09 修正

投稿 : 2024/05/04
♥ : 69
ネタバレ

シン☆ジ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8

最後の手紙(2回目感想を追記)

下手な言葉を使うとネタバレしそうなので、ポスターのキャッチコピーを一部引用しました^^;

 TV版本編の初放送は2018年で初視聴も同時期でした。。

===劇場版:初見での感想===
 2020年9月19日(土)、劇場版本編を観覧。
 (★舞台挨拶ライブビューイング付き)

全国の劇場で舞台挨拶が見られるとのことで、
予定を繰り上げて、あわてて劇場に行きました。

でも、TV版本編を少しでも復習してから、行くべきでした。。
2年の月日は自分にはちょっと長かった。。
ヴァイオレットへの愛情は忘れようがない。
そんな変な自信を持っていましたが、いかんせん物語の詳細をとどめておけるほどの記憶力は、現在の自分には持ち合わせていない事を突き付けられました。。トホホ

いよいよ物語の主人公、ヴァイオレット本人のストーリーが幕を開けます・・

■{netabare}
 ヴァイオレットには幸せになってもらわないと・・
 ひょっとして、社長とくっつくのかなぁ・・

なんて思ってたら、

 まさかと思うけど、少佐の兄?

と思ってしまうような展開でした。。

でもその上を行く、まさか・・・
少佐が生きていたとは、ね。
TV版完走時は死んだと思ってたから、
外伝も感動したんだけど。。

途中辺りから、

 え。ひょっとして生きてる?

てな展開。
ぶっちゃけ、ダマされた、という思いもw

いや・・・でも・・
これで、よかった。

思えばTV版を観ている時、実は少佐は生きていたというストーリーを妄想していたんでした。ちょっと忘れてました。
ヴァイオレットが幸せになる道は、それしかないですよね。

でもでも・・
少佐の生存がわかるシーンの感動が薄いせいか、
その分、ラストに至るまで延ばす延ばすw

 なんだよ、少佐・・
 ナニ自虐的になってんだ、そういうキャラ?
 てめ、ヴァイオレットを泣かすんじゃねーw
 身元を引き受けた責任と、
 何より「愛してる」と言った責任、
 男ならキッチリとりやがれw

てな展開は、個人的にはストレス展開でした。
いやわかりますよ。
その後の感動のための前フリだろうってことは。

でも、それならそれなりの想いの爆発に共感したかった。。
少佐が走り出した時って、なんか自分的には動機づけが弱かったんですよね。。
ドア越しにしゃべった時以上の動機が感じられなかったというか。。
だから、ラストの感動シーンも、ちょっとモヤモヤして感情移入しきれなかった。

さすがに、ラストシーンは感動的でした。
ただ、あんな遠い岸からのあんな掠れたような声が聞こえるのか、とか
ヴァイオレットは義手重いはずなのに泳げるの、とか
細かいところが気になって、これまた感動ボルテージ上昇の阻害要因となってしまいました。。トホホ

躊躇なく海に飛び込んだヴァイオレット、男っぽい。
惚れ直しそうw

そんな彼女も、ようやく・・本当にようやく、たどり着いた少佐の胸では・・ただただ・・泣き崩れるしかなく・・


さて・・
ここで触れずにはおけませんね。
ツイッターにも出ています。
舞台挨拶での石立監督の言葉。

 ~{netabare}
  ヴァイオレットが書いた手紙には、
  セリフに出なかった一文がある。
  これが、少佐をヴァイオレットの元に
  駈け出させた。。

  というもの。

  なんでしょうね。。
  気になる。。
  「あいしてる」かな。
  でもそれはドア越しに言ってたような。

  てかこれ、セリフにしてくれれば
  もっともっと感動できただろうに。。
 {/netabare}~

にしても、ポスター、いい絵ですね♪
ネタバレしそうですがw

でも・・

ああ・・完結してしまった><
(ホントはこれをタイトルに書きたかった)

もっと引き延ばして何作か出してくれてから、こういう結末になるんだと思ってました・・
原作はどうなんでしょう・・

未来からヴァイオレットを過去の人物として振り返る作りは、個人的にはあまり好きとは言えず、どうせなら子孫も見せて欲しかったけど・・

エンドロール後の1ショットは、救われました。
これで、よしとしましょう。

過去だからお幸せに、と言えないのはもどかしい。

ならば・・

良かったね、ヴァイオレット。

{/netabare}■

そう、エンドロールは最後まで、観ないとですね♪

ちなみに劇場で配布された、入場者プレゼントは
~{netabare}「ヴァイオレット・エヴァーガーデン if」{/netabare}~でした。

あ、3種類の短編小説ランダム配布って公式に書いてた。。
急いては事を仕損じる。
ゆっくり読もう。。


===劇場版:二回目の感想===

京アニはご存知のとおり寄付金を受け取ってくれません。
感謝の心、支援の心を込めて、再度劇場へ行きました。
TV版を観直した後、今度は目線を変えて。

その目線とは、ヴァイオレットであり、ギルベルト。
初見ではどうしてもホッジンズ社長というか保護者目線になってしまいましたが、この物語は、二人の物語であり、その目線で観るのは必定かと。

~{netabare}
まずは、1期を再視聴したことで1期を思い出させるシーンがとても胸に響きました。手紙が空を舞うシーンとか主要エピソードとか。
特にアンのエピソードは一番涙を堪えるのが大変だったかも。

感激は初見ほどではありませんでしたが、ギルベルトの気持ちが何となく理解できました。
愛するが故、自分はヴァイオレットにふさわしくない、と。
これは初見でもわかってはいましたが、わかって1期を観なおすと、彼はヴァイオレットを預かり戦場に送ったことをとても後悔していて、結果ヴァイオレットの両腕を失わせ、たとえ自分が生き永らえたとしても、自分の愛を貫くことは資格がないと考えても仕方がないかもしれない、と思えました。
彼がヴァイオレットに会えないと言ったのも、会ってしまえばその信念も揺らぎかねないからで、つまりそれだけヴァイオレットを愛しているからに他なりません。

ヴァイオレット目線で観ると・・・
心からの願いが叶えられないと知り、本当に切なくつらい日々を過ごして。
それが会えるかも知れないとわかり、本当にうれしくて。
でもやはり会えないことになり、とても悲しくて。
それでも生きていてくれたことが、やはりうれしくて。
最後に追いかけてきてくれたことが、最高にうれしくて。
この目線で観るのはとても切ない・・・

むしろ、ラブコメ風に・・・
「このまま会えないまま、どっちか結婚して、その後に会うことになってたらどうするのよ!ギルベルトおおおー!!」
と罵ってあげても良かったのにww

でも、やはりこれは二人の愛のストーリー。
これで、良かった・・

最後に、手紙の一文の考察を。
~{netabare}
映画の冒頭では、sincerelyの文字が出ます。
意味は「心から」かと。

また本シリーズは物語の最後にタイトルが出ます。
本劇場版では「あいしてる」。
つまり・・・
『心から 愛しています』
これが、ヴァイオレットからの、愛する人への最後の手紙の、最後の一文だったのではないでしょうか。

振り返ってみると、ヴァイオレットはドア越しでは「愛してる」は言っていません。彼はその事実を知らず、ただ父親のように慕っているものと勘違いしていたのかも知れません。
だから、この一言が、彼をヴァイオレットの元へ駆け出させたのだと、私は思っています。
{/netabare}~

いつか、ネタ明かしがされる事を期待します。


蛇足ではありますが・・
病院で亡くなる男の子のシーン・・
音がデカ過ぎて感情移入の邪魔になる思いでした。
もっと静かな曲か、むしろセリフのみでも良かったかと。
{/netabare}~

はぁ・・切なくて息が詰まりそう。
この劇場版と、1期・Extra・外伝で無限ループに陥りそうです・・

 制作:京都アニメーション
 監督:石立太一
 脚本:吉田玲子

 2020/09/19 閉館直前のMOVIX利府にて初視聴。
 2020/10/05 同じ映画館にて二回目視聴。


■余談
劇場内で完全新作ARIAの予告編が流れてました・・脚本が同じく吉田さんかな?と思ったら・・

 総監督・脚本:佐藤順一
 監督:名取孝浩
 アニメーション制作:J.C.STAFF

ほへ・・
ストレスフリーの世界でホッとしたい・・
違う作品の話ですみません^^;

投稿 : 2024/05/04
♥ : 57
ネタバレ

oneandonly さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

みちしるべのその先が描かれた完結編

世界観:8
ストーリー:8
リアリティ:5
キャラクター:7
情感:7
合計:35

<あらすじ>
代筆業に従事する彼女の名は、〈ヴァイオレット・エヴァーガーデン〉。
幼い頃から兵士として戦い、心を育む機会が与えられなかった彼女は、
大切な上官〈ギルベルト・ブーゲンビリア〉が残した言葉が理解できなかった。
──心から、愛してる。
人々に深い傷を負わせた戦争が終結して数年。
新しい技術の開発によって生活は変わり、人々は前を向いて進んでいこうとしていた。
しかし、ヴァイオレットはどこかでギルベルトが生きていることを信じ、ただ彼を想う日々を過ごす。
──親愛なるギルベルト少佐。また今日も少佐のことを思い出してしまいました。
ヴァイオレットの強い願いは、静かに夜の闇に溶けていく。
(公式サイトより抜粋)


TV版は最後までヴァイオレットの戦闘能力に馴染めなかった作品でしたが、5話や10話等、お気に入りの回もありました。本劇場版については予告PVを見て、10話に関するストーリーもあることがわかったため、やはり劇場で見なければと思い、隙間時間を作って何とか見ることができました。
休日ながら朝の早い時間帯にもかかわらず結構人が入っていて、時間帯のせいかもしれませんが、私よりも年配の方が多い印象でした。

さて、世界観ですが、現実世界とは別の世界ですが、電話がまだ普及する前の、現実世界でいう19世紀末~20世紀初頭くらいが舞台となっています(技術的な点ではヴァイオレットの義手はその精巧すぎるが)。
今回は、TV版10話の少女アンの孫デイジーを中心に物語が始まります(PVでアンと思った人物はその孫で、アンの葬式が終わった時点)。予想外であり、その視点で、ヴァイオレットたちの働いていた郵便社が歴史を残すものとして博物館となっていたり、世界観をより俯瞰して見せる手法で、とても良かったと思います。
作画や背景も流石は京アニと思わせられました。音楽は、挿入歌の「みちしるべ」、TV放映時は微妙な使われ方もありましたが、今回は一番のタイミングでハマっていたと思います。改めて良い曲と思えました。

ストーリーは{netabare}ヴァイオレット軸で、消息不明であったギルベルト少佐と再会すること(ギルベルトの母親の墓参り、病気の子供(ユリス)の手紙を代筆、その子の危篤等を挟みつつ、郵便社を辞めたあと消息不明のヴァイオレットの結末)が中心となっています。ギルベルトが再会を望まなかった理由も私は納得できましたし(なぜ武器として使ったのかはわからないが)、デイジー視点の物語も構成のメリハリに繋がっていました。そして最後に本作のキーワードである「あいしてる。」で締める。完結作として美しい仕上がりでした。{/netabare}

さて、世界観とストーリーは高評価となるところ、大きく足を引っ張ったのがリアリティで、一言で言えば「過剰演出」です。TV版の7話だったかで、水面を歩いたりしているので、今更指摘するまでもなく、この作品の色と整理されているのかもしれませんが、私はやはり気になってしまいました。
細かい点もありますがそれは省略して、下記3点だけ指摘しておきます。

{netabare}・構図重視の会話
市長と会った時の会話、大雨の中でのジルベール先生宅(前と中)での会話、ブドウ?畑でのディートフリート(兄)とギルベルトの会話、船と陸での会話(?)などで、その距離でこの声量では会話が成立しないだろうと思われて、気になってしまいました。
アニメは絵に声をあてるので、画になる美しい構図が優先されることが往々にしてあるのでしょうし、今まで気にならなかった他の作品でも同様な事例が多々あるのでしょうが、本作では若干気になりました。

・ユリス君危篤時の対応
人が亡くなる時、部外者の同席は憚られるのが普通ではないでしょうか(別の世界なのでそのあたりの慣習も感覚も違うのかもしれませんが)。ユリス君は話せる状態だったので危篤ではないのではないか、とも思われたのがひとつ。また、苦痛を感じている状況の中で、郵便社が突然押しかけていって「親友への手紙書きます」というのは流石におかしいのでは。ヴァイオレット自身が行ったのなら、ユリス君との関係や、まだ人の心が理解しきれていない部分があるのかな?で済みますが、ユリス君に面識のないメンバーでですよ。相当苦しい状態のユリス君に、手紙代筆するから喋ってと言うのは、家族が怒りますって。リュカ君が、ユリス君にとってそこまで大事な友人であるか、というのも説明不足で、違和感ありまくりでした。
自分が死んだ日に渡してほしい、と本人から依頼があったのでその約束を律儀に守ろうとしての行動は理解できなくはないですが、待ってましたとばかりの対応になるので、TPO的にも不安な対応です。さらに、手紙を渡して失礼するならまだしも、居座って一緒に内容を聞いて親の泣く姿を見るってどういう神経なんだろうと思ってしまいました。。
本作一番の感動シーンだったように思いますが、素直に感動できずモヤモヤしてしまいました。

・ギルベルトとの邂逅
ギルベルトとヴァイオレットの邂逅は美しかったですが、これは過剰演出の極みでしたね。まず、船を出航させすぎていて、陸から相当の距離となったところからスタートさせたので、ギルベルトの必死の走りや声が届くのか?というところでの違和感があり、ヴァイオレットが船をダッシュして、そのまま海に飛び込むまではよいかもしれないけど、泳ぐシーンを入れずに浅瀬みたいな場所で再会することになるのですが、背景からのバランスではまだ相当陸から離れた場所なんですよね。
始まりの距離感からして、会うところまでは少なくとも15分以上はかかると思いますし、お互いぼろぼろに疲弊してハーハーゼーゼーですよ(笑)
それを完全に排除した制作者側はある意味割り切ってるよな、と感心した次第です。{/netabare}

キャラクターは{netabare}本編から特段変化はありませんでした。2人がカップルとなって終わりましたが、王子とお姫様(人形)というキャラ造形で、過去に2人はずっと一緒に行動していたのなら、もう少し打ち解けた人間関係も描いてくれればよかったかも。
そういえば、TV版のレビューで書きましたが、やはりギルベルトは生きていました。生きていないと、この物語は終わらせられないのです。{/netabare}

情感については、{netabare}そんなわけで感動しそうな要所の構図に違和感等あったため、期待されたほどには涙が出ませんでした。また、人の亡くなるシーンで泣かせるのも一歩引いて見るタイプなので、押し付けられ感もあり、高評価できませんが、言語外の表現も丁寧でこれ以上は下げられません。{/netabare}

色々書かせていただきましたが、時代を流して見せることによって、変わるものと変わらないものを表現できていたのが特に魅力的でした。
手紙は普段伝えられない心を伝えるものとして有効であるのに、現代ではメールが普及しすぎて若干味気なくなってしまっているように思います。紙ならではの味はあるし、大事に保管すればずっと残るものですね。また、普段なかなか言えない感謝等は伝えられる時に伝えておこうと思わされます。
TV版をそれなりに楽しめた方、心を清めたい方に、おすすめできます。

(参考評価:4.0→修正4.2)
(劇場観賞2020.11)

<2022.5追記>
最近、レンタルで再視聴しまして、改めて良い作品だと思いました。
ブーゲンビリアも含めて、あからさまに悪意を持つキャラクターがおらず、心が重たくなることもありませんし、過剰演出はTV版からブレていない本作の表現と思い、少々ツッコミすぎたかなと反省。
時代が変わり、手段が変わっても、今、伝えるべきこと(気持ち)を伝えることの大事さという普遍的なメッセージ性は強力です。
以上を踏まえて、評価を上方修正しました。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 37

75.6 13 切ないアニメランキング13位
君の膵臓をたべたい(アニメ映画)

2018年9月1日
★★★★☆ 3.8 (302)
1447人が棚に入れました
それは「僕」のクラスメイトである山内桜良 (やまうち さくら) が綴っていた、秘密の日記帳であり、彼女の余命が膵臓の病気により、もう長くはないことが記されていた。

「僕」はその本の中身を興味本位で覗いたことにより、身内以外で唯一桜良の病気を知る人物となる。

「山内桜良の死ぬ前にやりたいこと」に付き合うことにより、「僕」、桜良という正反対の性格の2人が、互いに自分の欠けている部分を持っているそれぞれに憧れを持ち、次第に心を通わせていきながら成長していく。そして「僕」は「人を認める人間に、人を愛する人間になること」を決意。桜良は恋人や友人を必要としない僕が初めて関わり合いを持ちたい人に選んでくれたことにより「初めて私自身として必要されている、初めて私が、たった一人の私であると思えた」と感じていく。

声優・キャラクター
高杉真宙、Lynn、藤井ゆきよ、内田雄馬、福島潤、田中敦子、三木眞一郎、和久井映見
ネタバレ

ぺー さんの感想・評価

★★★★☆ 3.4

青春感動をアウトレットで

原作未読 実写版未視聴


これ小説けっこう有名ですよね。
それに実写もアニメも劇場版が作られるなど肝いりじゃないですか。その割にはイマイチでした。

身体の悪い部位があったらそこと同じ場所食っときゃ直るというお祖母ちゃんの知恵袋ネタはご存知の方多いのではないでしょうか。曰く「肝臓の調子悪いからレバー食っとこ」。
それを地でいく話となるのかどうか、余命短い相方との切ないラブストーリーを想像していた事前の私です。ベタ大好きなのでばっちこーい!と受け入れ態勢完璧でしたがこれまで視聴の優先順位は上がってきませんでした。地上波でやるってのを見つけたのがきっかけとなります。


 ベタだけどベタになりきれてない


長年培われてきた感動のお作法は世の中に存在します。そこをずらしての意外性を演出するにあたり事前の種まきがなされてないので感情を揺さぶるには至りません。そこ説明してくれりゃ感情移入できるのに!ってやつです。
悪目立ちしたのがキャラクターの行動/言動の根っこにある動機。これが良くわからない。取り急ぎダメ出しするよりも先に良きメッセージについて触れます。


■良きメッセージ

・{netabare}近づいたのは対極にいるからだと桜良(CV:Lynn)は言った。桜良逝去後に春樹(CV:高杉真宙)がとった行動は意趣返し。自分とは真逆の桜良に近づくための真逆の行動をする勇気。こうして故人の遺志は受け継がれていく。{/netabare}

・{netabare}心が通じ合えた、必要とされたことを実感してから旅立てたこと。死因よりも死んだ時期がこの物語には重要だったのだと思う。{/netabare}

生きる意味や執着。繋がりで得られるもの。ベタだったり変化球だったりそんなに外してるとは思いませんでした。ただしいかんせん説明不足です。雰囲気で乗りきれればOK!そんな作風でした。



■悪しきエトセトラ

くどいようですが種まきがありません。らしきものは見つかっても「それ理由になるかなぁ?」と首をひねるものが散見されます。ヒロインが主人公に惹かれる理由。主人公の突き放したヒロインへの態度の理由。恭子(CV:藤井ゆきよ)が頑なに春樹を拒む理由などけっこうコアなとこがダメ。
特に桜良と春樹。この主軸が惹かれあう妥当性を見い出せなかったのは致命的かも。「なんで二人一緒にいるの?」。しっくりくるこないで作品評価の別れるポイントになると思います。

{netabare}※春樹がモテ要素皆無なキャラに見えたので、なおさら桜良が彼に近づく理由に強いものが欲しかったのもあります。逆もしかりで、非モテコミュ障がかわいい子に言い寄られて舞い上がりましたとしか見えないのが極めて残念でした。{/netabare}

それと声優にも一言もの申したい。根本的に内罰的な主人公は抑揚のない中で感情を表わす難しい演技を求められます。この難役を演じるには声のお芝居経験に乏しい俳優では荷が重かったでしょう。俳優と声優の組み合わせでしたらむしろ男女を逆にしたほうが実力差が隠れてよかったと思われます。




画は綺麗で劇伴/主題歌は普通。
難病ヒロインと内向男子の別離の話ってそれこそ野球で打線を組めるくらい巷に溢れてるベタな題材で、こちらもいつもどうりに踊りたかったのですがそれができなくて残念です。
なお、著名原作がそれなりに骨子まとまってそうなので大崩れしてるようには感じません。推奨はしない佳作。そんなところです。



※余談

■お里が知れる

膵臓である意味/必要性はそれほどなかったと思います。音感とイメージの薄さで白羽の矢があたった臓器。それ以上でも以下でもない。
どういうことかというと、まずは“(仮題)君の○○をたべたい”というフレーズを思い浮かべてみてください。この○○に入るのが肝臓や心臓だと生々しいというかスプラッター要素マシマシですよね。大腸に至ってはウ○コをイメージしてしまうかも。なんの機能かわからなければわからない方がいい。
それで膵臓(スイゾウ)。脾臓(ヒゾウ)なんかも候補に挙がりますがそれだと音のリズムが悪くなっちゃう。というわけで膵臓。
これでも充分センセーショナルです。カニバリズムかなんかだと勘違いするしそれを狙っているのです。出自を見れば無理はありません。

{netabare}小説投稿サイト「小説家になろう」に投稿{/netabare}

タイトルで目を引かないと埋もれますからね。「タイトルはアレだけど感動作だよん」話題になってた時耳にしたのはこんな声でした。
そして私あまり好きじゃないんですよねこの商法。作品の中身と乖離するから。WEBニュースの見出し勝負みたいになっちゃいます。今しがた漱石が『こころ』なんてタイトルにしてなろうに投稿したら埋没しちゃうのでしょう。弊害はしっかり出てました。

{netabare}膵臓の病気持ちでアルコール摂取はねーだろ{/netabare}

チュートリアル福田が発症した病気は「急性膵炎」。原因は酒です。入院したらしたで膵液が分泌されるとまずいので食事を経口摂取せず点滴のみ。後がないからってのも理解できなくもないですけど、実際に病名は明かされてなかったけど激痛必至だったんと違いますかね。

少なくともアニメ映画だけでみれば、タイトルのインパクト重視で中身を練られてないように見えました。本末転倒とはこのことです。




■声優Lynnのお仕事

これこそ余談です。私の深夜アニメの入口は『風夏』。ヒロインはLynnさんが演じられてました。今日びの声優さんは綺麗だな~と時の流れを感じた次第です。
そんで風夏のネタバレ込みでふわっと思ったのが以下、

{netabare}自分死んだ時の通夜に彼氏が来てくれないの一緒じゃん、と。{/netabare}

{netabare}アニメ『風夏』はアニオリで別の世界線。原作漫画との対比でした。では♪{/netabare}



視聴時期:2020年5月 地上波

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2020.05.09 初稿
2020.12.10 修正

投稿 : 2024/05/04
♥ : 51

ようす さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

「偶然じゃない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。」

小説が原作で、2018年に公開されたアニメ映画。

アニメの前は実写映画もやっていましたね。

私はどれも見ていなかったので、
アニメが初見です。

NHKで放送されただけあって、
考えさせられる内容でした。

100分ほどの作品です。


● ストーリー
「僕」が偶然病院で拾った本。

そこには膵臓の病気で自分はもうすぐ死ぬのだと書かれていた。

その本の持ち主は、
クラスメイトの山内桜良(やまうち さくら)。

桜良は病気の事をクラスメイトの誰にも話していなかったが、
本を読んでも動じない「僕」に興味を持つ。

「僕」はクラスの誰とも関わりを持たない男の子であり、
桜良は明るく活発な女の子。

真逆な二人だが、
「僕」は、桜良が死ぬ前にやりたいことに付き合うことになる。



桜良の死は、
最初から約束されてしまったもの。

人と関わることをあきらめていた彼が、
余命1年という残された時間と向き合い、
前向きに普通に生きようとする彼女と共に過ごすうちに変わっていく。

そんな二人の物語が、
きれいに綴られていました。

公開時それほど話題にならなかったので、
いまいちなのかな?と思っていましたが、

きれいにまとまっていて、
良い作品だと思いました^^

絵もきれいだったし♪

人の病気や死という描写は感情を揺さぶられて当然ですが、
そこに頼り切っているという印象もありませんでした。

残された時間をどう生きるのか、よりも、
人と人との関わりについて教えてくれる雰囲気の方が強かったと思います。

タイプが真逆だからこそ、
初めて見える自分がくっきりする。

「僕」は、クラスで誰とも関わりを持たない、目立たない存在で、
イケメンだから成り立つ物語だろうと思わなくもないですが(笑)、

彼女の明るいキャラだけでも十分魅力的でした♪


≪ 恋愛でも友情でもない、男女の物語 ≫

年頃の男女が放課後も休みの日も一緒に行動する。
となれば、クラスメイト達のように彼氏彼女のような関係を想像しますが、

この二人はお互いに惹かれはしているものの、
そういうものとはまた別の、不思議な関係。

「僕」にとっては、家族以外で初めて関わりを持った存在。
桜良にとっては病気のことを知りながらも普通に接してくれる存在。

彼女の思わせぶりな態度はちょっとやりすぎで、
「僕」がイライラするのもわかる。都合の良い男のようだもの。

だけど桜良の、普段は表に出さなかった気持ちを考えると、
桜良が求めていたもののひとつに“ぬくもり”があったから、

彼氏としての「僕」を求めていたわけではなく、
安心感を与えてくれる「僕」を求めていたのだろうなと、
思ったりもします。

年頃の男女の関係としては疑問が残らなくもないですが、
こういう友情とかを超えた、特別な関係も悪くないなと思います^^


● キャラクター
主人公の二人も良かったのですが、
私が強く印象に残ったのは、それぞれの母親です。

桜良の母親は、
娘の病気を当然知っていて、もうすぐ死ぬことをわかっていて。

娘の前で涙を見せまいと振る舞う姿が、
強いなあと(´;ω;`)

自分の娘が余命1年とわかっていて、
これまで通りに接することができるわけないですよね。

それでも桜良の母親は覚悟をし、
娘に心配させまいとする姿に胸を打たれました。


「僕」の母親は、彼の些細な変化もちゃんとわかっていて、見守る。

「友だちがいる」という嘘も見抜きながらも、
彼の変化に問いただすこともせず、
良い変化には探りを入れて。笑

見守り、さらっと声をかけるのが、
いい母親だなあと思いましたよ。


● 音楽
【 OP「ファンファーレ」/ sumika 】
【 挿入歌「秘密」/ sumika 】
【 主題歌「春夏秋冬」/ sumika 】

全曲をsumikaが担当しています。
もともとsumikaが大好きな私得な映画なのです(*´Д`)

曲は作品を観る前からずっと聴いていました。
「ファンファーレ」が大好きでした。

正直「春夏秋冬」はそれほどハマっていなかったのですが、
この作品を見て印象がガラッと変わりましたね。

エンドロールで流れる「春夏秋冬」。
なにこのハマり曲…!余韻半端ない…ずっと聴いていたい…。

ボーカルの片岡さんがこの作品と向き合い続けて、
ようやく完成したという曲。

この作品を見て、
この作品で聴かないとその魅力はわからないわけですよ。

ちなみにsumikaのメンバーの皆さんは、
作中でちらっと声優登場しています♪

どの役なのか調べずに見ていたら全然わからないぐらい、
溶け込んでいました^^


● まとめ
友人は「伝わるものがなかった」と評価していましたが、
私は良い作品だと感じました。

どの作品でもそうですが、
メッセージがない作品を良い作品だと思うはずがない。

この作品は鍵となるメッセージはあっても、
明確でインパクトの強いものがあるわけではないので、
自分でメッセージや意味を考えるタイプの作品なのでしょう。

二人の過ごした時間から何を得るかは、
受け止める人次第なのかもしれませんね。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 17
ネタバレ

シン☆ジ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5

賞賛したい。。けど受け入れがたい部分も。。

タイトルから敬遠していた作品。

結果として感動に至る物語は大歓迎なのですが、救いようのない結末が想像できるせいで泣かせるためだけに作られた作品のような気がしまして。。

ジャンルとしてはキライじゃないんですよ。
でも、いかにも泣かせてやるぜ~!的な雰囲気が見えてしまう作品は身構えてしまうのです。

セカチュウで心折られたせいか、「あの花」は好きだけど「君嘘」はちょっと・・みたいなw
(じゃあなんで観たの?についてはおいおいw)

さてそんな自分ですが、この物語はどんな感じなんでしょう・・・


【作画】どうかなー
 なんか人物と背景が合わないような。

【キャラ】ありがちかな。
 ありえないくらい元気な薄命の美少女。
 クールでぶっきらぼうな男子学生。
 キャラの顔は声優さんに寄せてるような気もします。

【ストーリー】意外性もあるけどおおむねありがちかな。
 人は誰しも明日死ぬかも知れないのに日々漫然と生きてるよねーみたいな、たしかに考えさせられる部分はあるけど。

【cv】個人的には歓迎。
 Lynnさんは、スクストの、りのまの、
 ウマ娘の、マルゼンなどなど
 声色を変えるのがうまいので気付かない事も多いですが
 Twitterフォローしてるので知り、観る気になりました。
 この頃の演技はフレッシュですねw
 cvに女優さんを使わなかったのは良かった。
 ちなみにオーディオブックでは堀江さんだったらしいです。
 「ゴールデンタイム」を思い出します・・

 なんと藤井ゆきよさんもいますね。
 最近ウマ娘では、たずなも。
 自分のBEST10に入っているお二人でした。
 今回、ちょっと好きになれないキャラでした。
 まあ好演ではありましたが。
 
【ツッコミ&感想】
 ~{netabare}
 不良を成敗・・ありがち過ぎ。なにかのフラグ?
 恭子ウザ過ぎ・・親友なら想いを汲むのが第一じゃね。
 予約の手違いで同じ部屋・・鉄板過ぎw
 自宅でKISS直前・・鉄板だけどマジふざけてやったのかは明らかにして欲しかったw

 で、観ながら妄想してしまいます。。

 もし自分自身が青年時代に短命とわかったら・・
 恋愛は外せないけど好きな人に告白はできないでしょうね。
 たとえ想いが成就しても相手を悲しませることがわかっているから。
 なので好きだけど友達として・・という思考回路はわからなくもない。
 まあこのヒロインの場合は恋ではなかったとは言ってますが。

 でも逆に、もしこんな短命美少女が自分に好意を寄せてくれたら・・
 自分の将来の悲しみより、彼女の瞬間の幸福に尽力するでしょう。
 その後の悲しみは大きいでしょうけど、漫然と過ごす人生よりはよほど有意義な人生と言えるかな。

 なーんて思いながら、観ていたら。。

 え、なにこの展開。
 刺されて死亡とか。。ないわ~。
 懲らしめた不良の復讐?
 刺される前に何かされてない?とかはゲス妄想過ぎ?そこまでダークな展開ではないか。原作者は悔いのないように生きようとかいう事を強調したかったんでしょうか。まあ「小説家になろう」投稿作品だったらしいので意外性を求めたんでしょうし、これがあったから話題にもなったんでしょうけど、好みで言えばナシ、ですw

 しかしそれにしてもですよ・・
 死後のヒロインは爽やかに描くしかないとは思うけど、彼女が刺された瞬間から死が訪れるまでの束の間、彼女の無念さはいかばかりでしょう・・
 短命であることが分かっていたがゆえに、やりたいことの多くはできたかも知れないけれど、これから、今度こそは・・という矢先ですから。
 その無念さをしつこく演出しなかったのは感動ポルノとの評価を避ける意図があったかも知れませんが、彼女の一瞬の表情や、犯人の扱いなどはちょっとは垣間見させて欲しかった。モヤモヤが残り過ぎて残念。
 {/netabare}~

 原作:小説
 制作:スタジオヴォルン・・?初耳。
  うしおととら、からくりサーカス、バック・アロウ、とかですか。
  新しい会社ですね。
 公開:2018年9月
 視聴:2021年7月 金曜ロードショー(録画)

人生の尊さを知る意味で若い人に観て欲しいけど、自分が若い時に観ていたら、ちょっと心的ダメージが大きかったかも・・
モヤモヤをスッキリできる手段を用意してから観るのがいいかも ^^;

 ~{netabare}さあ、気を取り直してウマ娘育成でもするかw{/netabare}~
 

投稿 : 2024/05/04
♥ : 20

72.4 14 切ないアニメランキング14位
ドラえもん のび太と鉄人兵団(アニメ映画)

1986年3月15日
★★★★☆ 3.8 (145)
875人が棚に入れました
夏休み--。のび太の家の庭に巨大な機械のパーツが降って来た。家の中では狭すぎると、のび太はドラえもんの助けを借りて“逆世界入りこみオイル"で鏡の中の世界へと運びこんだ。その後からも次々と降って来るパーツを全部集めて組み立てると、何と巨大ロボットができあがった。のび太たちは、ザンダクロスと名付けたそのロボットで鏡の中を遊び回る。そんなある日、町に不思議な少女が現われた。リルルという名のその少女が、ロボットの持ち主だと知ったのび太は、鏡の中の世界の入口ごとリルルに返した。数日後、ロボットのことが気になったドラえもんとのび太は鏡の中に入ってみた。そこは現実の街並みが鏡に写った世界とは似ても似つかない、機械された基地だった。

いっき さんの感想・評価

★★★★★ 4.2

鏡の中の世界に憧れたあの時代

リメイクは無しの意見で旧作の感想を書きます。

宇宙の中のとある惑星メカトピア、その世界ではロボットが支配反映していて強者が弱者が従うという、シンプルな弱肉強食のシステム。

その強者ロボットたちが、地球を支配してくるという話。

そのロボットのヒロイン''リルル''

リルルと鉄人兵団と戦うドラえもんのび太たちの戦いと価値観や変化を描いた作品。

この頃のドラえもん映画作品は藤子・F・不二夫さんが総指揮者として関わっていますので、兎に角'藤子ワールド'が前面に出ている雰囲気が魅力です。

SF要素、こどもアニメには似つかわしくないリアル描写、恐怖と不安を存分に味あわせる展開、でもそこがドラえもんだし恐怖や不安を乗り越えて感動を感じる過程はこの旧作ドラえもんならではで、これぞ名作という内容は不動なものだとおもいます。

子供ながら恐怖したし、不思議な話で、なんといってもSF要素、鏡の世界で全てがあべこべで誰もいない世界なんてワクワクしたしそんな世界があったらなとか自ずと感じられる新鮮感がある魅力要素がふんだんにある。無人スーパーで無料買い物とか最高だと思いました。現実ではやってはいけませんwそんな判断は子供ながら思っていました。あの世界だからこそです。そういう壮大な欲望描写があるけど現実と区別できる判断を与えたのも旧作ドラえもんでした。

どのシーンも面白かったし、考えさせられた。なんでリルルが消えるのか、それは過去を変えたら存在が無くなってしまう。しかしその次元のリルルはいなくなるけど、別のリルルが生きているという可能性がある。それはEDでの描写で物語っています。

そのハッピーエンドで記憶に残る描写ばっかりなので今でも名作なのはこれからも揺るがないです。ポケットの中にもやEDのわたしが不思議など歌も記憶に残る名曲です。

こういう子供の一度はやって見たいことを分かっていて、それを更に不思議なSF描写の感動ストーリーを完璧に描いた作品でした。

そして三ツ矢雄二さんの声も忘れられませんw

投稿 : 2024/05/04
♥ : 12

takato さんの感想・評価

★★★★★ 4.3

旧ドラ最高傑作。ドラえもんとジブリで育った日々。

 私はとにかくビデオを見る子供だった。幼少から小学生までとにかくビデオ、ビデオの日々だった。ドラえもんは藤子不二雄先生が亡くなるまで、ジブリは「もののけ姫」までの作品こそ私のバイブルといいたい。


 新ドラえもんになってからはちゃんと見てないのにあれこれ言うのはフェアではないので旧ドラについて今後レビューを書いていこうと思います。


 旧ドラ、即ち「のび太の恐竜」から「創世記」までの多くの作品の中で実質しずかちゃんが主役といっていいくらいな作品がある。中でも本作「鉄人兵団」は、ほどしずかちゃんとリルルの物語として数少ない百合な作品であり、タイムパラドックスの利用や鏡面世界など適度にSFを利用しつつも、最期はロマンで終わる辺りドラえもんというプログラムピクチャーの中でも秀逸である。


 旧ドラにおいてはゲストキャラが非常に秀逸な例が多いが、中でもリリルは美しさといい、その命運といい、シリーズの中でもずば抜けている(しずかちゃん以外で全裸が出る貴重なキャラでもある)。


 クライマックスの件はいまでも無条件に涙が止まらなくなる…。タイムパラドックス的におかしいとか、冷静に考えるとツッコミどころがなくもないが、そんなのを超えた力があるこそ傑作である。


 ヤンサンドラえもん回でリルル=綾波説が出てきて目から鱗が落ちました!。

 それ以外にも鉄人兵団との悲壮な決戦や、決戦前の豪遊の件も実に印象深い!。特に後者は私の中では「ゾンビ」の有名なショッピングモールでの豪遊シーン以上に上がるシーンである。


 オールドスタイルな作品だけに作画や色彩は派手じゃなくても、内容が最高で誠実だから子供向け作品としては最高。

投稿 : 2024/05/04
♥ : 9
ネタバレ

ノリノリメガネ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.4

エンジェルリルル

シリーズ7作目。
{netabare}
夏休み、ひょんなことから北極で巨大ロボットを拾ったのび太。実はそれは宇宙から人間を侵略しにきたロボット兵団の主力兵器だった。兵団先遣隊の司令塔であるリルルという少女型ロボと出会い、絆を深めながら地球をロボットの侵略から守るというストーリー展開。


結論で言うと結構おもしろかった。ユーモアとシリアスのバランスが良かった。

序盤は、空からにょきにょきと巨大ロボットの部品が降ってくる画はなかなかシュールでおかしかったし、人工知能をバシバシと叩くママもおもしろい。
後半はリルルとしずかの絆を描き、敵であるはずのリルルが親玉に侵略を止めるよう直談判をしたり、ラスト自らとともにロボット兵団を消滅させる展開はとても熱いものがあった。ある意味今作はリルルが主人公と言っても過言ではない。こういうゲストキャラの描き方がしっかりとしている作品というのは総じて大コケすることはない。

もうひとつ特筆すべきはスネオのおもちゃとして登場するミクロスの存在。臆病で愛らしい、とても魅力的なキャラクターとして描かれていて、暗い雰囲気になりそうな今作を和ませる役割を担っていたと思う。

リルルの治療シーンはエロの大サービス。前作もしずかちゃんの全裸があったけど、これまた今の時代にやったら結構問題になりそうな画だった。

ロボットに乗せるだけで効果が得られるという、ほんやくこんにゃくの新しい使い方を見た。

しかし、あの神様だか、博士だかはいったい何者だったのか。
{/netabare}

投稿 : 2024/05/04
♥ : 4
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